映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第2回では、郊外の風景のなかにその固有性・歴史性を浮かび上がらせる小林のりおと、震災後に造成された住宅地のシミュラークルな風景を捉えるかんのさゆりという、2人の写真家の実践を紐解きます。
かんのさゆり──住宅を模倣する住宅の風景
かんのさゆり「New Standard Landscape」──自分自身の生活環境を省みる
小林のりおは《Japanese Blue》シリーズ(1991–)について、「今時分、おそらく福島辺りに行けば沢山のJapanese Blueに巡り合えるのだろうが、敢えて僕は行かない。動機をはぐらかしたまま、何処でも撮れることに賭けている[1]」と記している。これはもちろん、2011年3月11日に起きた東日本大震災および東京電力福島第一原発事故を踏まえてのことだろう。小林はブルーシートを、特定の場所や固有の文脈に結びつけることに抵抗する。あくまで、どこにでもある「均質な風景」の一部として示しながら、なおかつそこにエフェメラルな場所の固有性や歴史性を見出していくという両義的な取り組みにこだわってきたのだ。
他方、小林の「均質な風景」への眼差しを部分的に継承しながらも、彼があえて避けてきた震災後の東北を撮ることを選んだのが、写真家のかんのさゆりである。
かんのは東北芸術工科大学情報デザイン学科映像コースで小林のりおのゼミに所属し、在学時から写真作品の制作を開始。当時の小林がデジタルカメラでの撮影やウェブサイトでの作品発表にいち早く取り組んでいたことに触発され、かんのもまた家庭向けのコンパクトデジタルカメラを主とした撮影を行うようになる[2]。卒業後は東京に暮らし、都市空間の奇妙さをスナップ的に記録した作品群を発表していたが、しばらくして故郷の宮城県仙台市に移住したことや、東日本大震災による社会の変化に直面した経験を経て、自分自身の生活環境を省みる必要性を感じるようになる。大災害によって脆弱さを露呈させた都市生活の記録にこだわるよりも、そのインフラを支えてきた地方の状況に目を向けるべきではないか。そう考えたかんのは、日々の労働と暮らしの合間を縫い、デジタル一眼レフカメラCanon EOS kiss X7i およびその後継機EOS Kiss X8iを手に取って、震災後に造成された空き地や住宅地を撮り始める。そこで集積した写真群は、個展「New-Standard Mixture」(仙台写真月間2019、於・仙台アーティストランプレイスSARP)や、菊池聡太朗との同時開催の個展「風景の練習 Practicing Landscape」(塩竈市杉村惇美術館、2021)などで展示され、注目を集めた。2024年10月17日に始まった展覧会「現在地のまなざし──日本の新進作家 vol.21」(企画は小林麻衣子、東京都写真美術館、会期は2025年1月19日まで)および同展の図録、きりとりめでるが編集・発行する『パンのパン04(下)檻と光』(パンのパン、2024年)の表紙・巻頭写真でも、近年の作品を見ることができる。
私はSNSでかんのの存在を知り、2022年の個展「New Standard Landscape」(GALVANIZE gallery、石巻のキワマリ荘1階)で初めて彼女の作品展示を見た。偶然予定が空き、このタイミングしかないと思い立って鳥取から神戸経由で東京へ。常磐線で水戸芸術館に赴き、前回紹介した展覧会「クリテリオム98 西澤諭志」を鑑賞した後、そのまま宮城へと向かう。2022年3月16日に起きた福島県沖地震の影響でダイヤが乱れており、限られた時間内で2つの展覧会を回るのにも困難が伴った。だがこの経験は、かんのの作品を理解するために必要なプロセスだったと言えるかもしれない。複製技術と情報通信技術によって原理的にはどこでも閲覧可能なデジタル写真を、あえて東北のギャラリーで、紙にプリントされた写真として鑑賞することは、彼女が撮る風景写真のありようと正確に同期しているからだ。
郊外と震災の2つの文脈
石巻のキワマリ荘に到着し、1階のギャラリーに入ると、額装された写真が天井から吊るされて浮かんでいる。続けて、壁面に沿わせて設置された写真や、立て掛けて床に置かれた写真も目に入って来る。導入となるステイトメントが記されたパネルには、ブルーシートの表面を撮影した写真が全面にプリントされている。そのしつらえは、ステイトメントの内容と併せて、これから彼女が呈示するのが一時的で仮設的な風景、もしくは「途上」の風景であることを予告している。
個々の写真に目をやると、そこには、まだ建てられて間もないように見える小綺麗な住宅が記録されている。家屋を構成する壁面や屋根は、石材や木材などを模した一定のパターンを反復するテクスチャで覆われており、家々の隙間から覗く空も狭く、均質な淡青色をしている。奥行きのイリュージョンよりも、写真という平面を構成する「面」の連なりを強く意識させられる画面設計。同様に、この個展のもう一つの重要なモチーフである青いビニールシートで覆われた造成地や、コンクリートで塗り固められた地面、敷石で覆われた小径、それらに四方を囲まれた庭や花壇も、画面を構成する色面の一つになっている。与えられた枠組みの中で懸命に背を伸ばし、何とか自らの存在を主張しようとする植木や鳥居は、まるでドールハウスのミニチュアのようだ。現実にある場所を記録しているはずなのに、どこか作り物じみていて、すべてがのっぺりした質感を備えている。
このように、均された造成地や真新しい一戸建て住宅、仮設的なブルーシートなどが織りなす「均質な風景」は、小林のりおの『LANDSCAPES』を否応なく想起させるだろう。あるいは小林に限らず、藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、1983)やホンマタカシ『東京郊外 TOKYO SUBURBIA』(光琳社出版、1998)など、郊外論的な風景写真の系譜に連なる作家や作品を連想する者も居るかもしれない。そもそも「New Standard Landscape」というシリーズ名が、ホンマタカシの『ニュートーキョースタンダード』(ロッキング・オン、2001)の参照でもあるという事実からも窺えるように、写真史に自覚的な作家であるかんの自身、こうした先達の作品を意識しながらシャッターを切ってきたことは間違いない。一見何の変哲もない住宅地が捉えられた写真の表面には、無数の作家や論者が繰り広げてきた議論の分厚い蓄積が、何層にも塗り重ねられている。
その一方で、かんのの写真から即座に震災後の東北の文脈を読み取ることは難しい。「New Standard Landscape」の会場内に、各写真の撮影地を記したキャプションやハンドアウトは置かれていなかった。過去の展覧会資料やインタビューを確認すれば、かんのが暮らす宮城県仙台市や隣の石巻市、福島県双葉郡富岡町などの風景が撮られているのだろうと推測はできるが[3]、画面に写るものから正確な撮影地を特定するのは困難だし、一目で「東北」や「震災」を連想させる分かりやすい対象が記録されているわけでもない。実際、かんのは東日本大震災をテーマとする作家として括られることには抵抗感を示しており、常に慎重かつ禁欲的な態度を保ち続けてきた。具体的な位置情報や固有の文脈が読み取れる対象を意図的に避け、沿岸部と内陸部はおろか、宮城と東京、あるいはそれ以外の地域とも見分けがつかないような風景を記録してきた。小林が特殊な文脈を持つ場所を避け、入れ替え可能で均質な風景を撮るのに対して、かんのは震災後の東北という特殊な文脈を持つ場所の中に、別の場所でもあり得るような「均質な風景」を見出すのである。
とは言え、どれだけ外見が似ていたとしても、小林が記録した風景と、かんのが記録した風景の背後にある文脈は当然大きく異なっている。かんのが見つめるのは、森林や田畑を更地にして新たに開かれた住宅地ではなく、地震や津波によって失われた街並みを復興すべく再建された住宅地だ。その中には、今後の津波対策として盛り土をし、街全体を嵩上げすることで、地形も風景もまったく別物になってしまった土地も含まれているという。
ここで重要なのは、「New Standard Landscape」における住宅地の風景から感じられるのが、復興に伴う喜びや未来の生活への希望よりもむしろ、言い知れぬ喪失感と疎外感だということだ。災害後の瓦礫の山や更地の風景に喪失感を覚えるのはある程度自然な感情と言えようが、住宅の再建が進み、住民も戻りつつあるにもかかわらず、よそよそしい感覚が消えないのは、よくよく考えれば奇妙なことではないか。小林の『LANDSCAPES』では、「すでにない」過去と「いまだない」未来が目の前の風景に投影されることで、現在の郊外の姿が見透しづらいものになっていたが、「New Standard Landscape」ではその配置が組み替えられ、「すでにない」過去と「よそよそしい」現在だけがあり、「いまだない」未来はあらかじめ失われてしまっているという感覚が残る。
そしてこの点で、かんのを、震災後の東北を見つめるアーティストの系譜に位置づけることもできるだろう。例えば地震や津波によって傷ついた仙台の風景と、それを見つめ、立ち尽くす少女の表情や後ろ姿を描く門眞妙の絵画。あるいは、嵩上げによってできた新しい街の上で、いかにして記憶の継承が可能かを問う小森はるかのドキュメンタリー『息の跡』(2015)や、小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』(2021)。これらの作品はいずれも、住み慣れた街並や見慣れた故郷が変貌し、別人のような姿をして現れたことへの驚きや戸惑い、喪失感と疎外感を共有している。
小森はるか+瀬尾夏美『二重のまち/交代地のうたを編む』予告編
シミュラークルな住宅地の風景
「New Standard Landscape」が喚起する喪失感と疎外感が何に起因するのかを、より具体的に分析してみよう。比較対象として小林の『LANDSCAPES』をあらためて紐解くと、終盤の頁では、ベランダを覆うように何枚も重ねて干された布団や、色とりどりの洗濯物の存在に目がいく。これらは、同じく終盤に姿を現す子どもたちの姿と併せて、その住宅地に「人」が──さらに言えば「家族」が──暮らしていることを強烈に感じさせる。本来、布団や洗濯物は人目につかないよう隠すべきものであるはずだが、誰に見られようと構わないと言わんばかりに堂々と干されている。そこにあるのは、郊外における家族生活の豊かさ、さらに言えば日本社会の豊かさを誇る心象だ。社会学者の若林幹夫は、ニュータウンの団地や住宅は周辺の人びとに「見える」=「見せる」ことを想定して設計されていると指摘する[4]。言われてみれば確かに、ニュータウンでしばしば見かける電飾やオーナメント、よく手入れされた美しい庭の草花は、家の内側よりもむしろ外側に向けて設置されている。ニュータウンは居住という機能だけでなく、商品や広告としての機能も併せ持つのであり、そこに暮らす住民もまた、自らの豊かな家族生活を住宅というスクリーンに投影し、見るべきものとして周囲に呈示するのだ。
そしてこれこそが、かんのが撮る住宅地の風景に欠けているものである。プライバシー保護意識の高まりゆえか、少子化による影響か、いずれにせよ具体的な家族生活を想像し得るものは住宅の外観から極力排除されており、全体的に新品感・未使用感がある。「見える」=「見せる」ではなく、「見える」=「目立たせない」を重視した無機質さと、装飾性の乏しさ。窯業系サイディング(セメントを主原料として成形した外壁材)で石材や木材などを装ったシミュラークルな外壁も、外部に「見せる」ための装飾というよりは、そこに住む者が「これは家である」と納得するための内向きな記号のように思える。
人間が生活するための最低限の機能を確保した上で、合理性や経済性の観点から削れるものを削り、置き換えられるものを置き換えた、シミュラークルな住宅の風景。こうした印象は、かんのがカメラを構える位置と構図の選択によって一層強固になる。小林が住宅を撮る際には、周囲の環境も含めて構図を作るのに対して、かんのは住宅にぐいと歩み寄り、それ以外のものを画面外に追いやる。デザインの色彩構成・平面構成のように、外壁材ののっぺりしたテクスチャが画面を分けあって、一つの構図を作っている。かんのが自作の参照項の一つとして挙げるトーマス・デマンドは、現実に存在する建築物や風景をペーパークラフトで再現しているが、かんのの写真は、あたかも現実の建築物や風景でペーパークラフトを再現しているかのようだ。どれだけ精巧に模倣しても誤魔化すことのできない素材の厚みや重み、質感や温かみといった細部(ディティール)の欠如が──デマンドの作品を見る時と同様に──鑑賞者に違和感や居心地の悪さをもたらす。復興が進んでいるはずの風景に喪失感と疎外感がつきまとうのは、以前のままの街並みは決して戻ってこないという端的な事実のみならず、人がこれまで「家」と認識していたのとは似て非なる何かが建ち並び、住宅地のシミュラークルな風景を構成しているためではないだろうか。
新たに建てられる住宅から「見える」=「見せる」役割が後退し、居住という機能に特化した合理的・経済的な設計が為されるのは、ある意味では「家」本来の役割へと立ち戻っただけだと看做すこともできるかもしれない。長期的なスケールで捉えれば、「見せる」ことに拘泥していた郊外化の時代の住宅こそが、むしろ特殊・例外的な「家」のありようだったのではないか、と。
だがもちろん、単純な先祖返りとして片付けられない変化もある。一つは、郊外化の時代に大きく拡大した、私生活や家族生活を「見せる」文化そのものが後退したわけではないということ。その主戦場は現実空間からウェブ空間に移行し、SNS上ではプライベートな情報の商品化・広告化がより一層加速している。住宅の外観から内部の生活を想像することはできなくても、その密室はネットワークを通じて世界中に接続されており、従来的な内部と外部の関係を曖昧にしているのだ。
もう一つは、新たに建てられる住宅がどれだけ居住という機能に特化しているように見えても、そこにはまだ──「目立たせない」という消極的なかたちで──「見せる」意識が残っていること。合理性や経済性を極限まで突き詰めるなら、そもそも石材などを模倣した外壁材を用いる必要はないし、既存の住宅のかたちを根本から見直し、まったく異なるものに作り替えても構わないはずだ。それでも慣れ親しんだ「家」のシミュラークルを求めるのは、合理性と経済性を突き詰めた果てには、生命維持と再生産のみを目的としたハコだけが残り、「人間」としての幸福感や充実感、社会や文化の多様性が失われることへの恐れがあるからだろう。郊外化や災害など様々な原因により物質的な継承の道を断たれた人びとは、失われたモノの代わりにその形態を模倣することで──伝統的な「家」のトポス[5]を召喚することで──かろうじて過去や歴史との紐帯を保とうとするのである。
こうして形成された住宅地の風景を、かんのは「New Standard Landscape」と呼ぶ。一見したところ、郊外化以降の日本の「Standard」な風景は現在まで大して変化していないようでありながら、実はその中身はいつの間にか──精巧に模倣されてはいるが──まったく別の何かに入れ替わっていることを、現実の住宅をあたかもデマンドのペーパークラフト写真のように撮ることで示しているのである。
さらに言えば、かんのはその時代の「Standard」なカメラを用いて撮るという意味においても、「New Standard Landscape」を追求している[6]。小林がフィルムの大判カメラで撮影した『LANDSCAPES』と、かんのが撮影に用いたCanon EOS kissシリーズ(小型・軽量を売りにしたデジタル一眼レフカメラのエントリーモデル)とでは──少なくとも、出版された写真集とキマワリ荘での展示作品を比較した限りでは──画面の精細さにそれほど顕著な差はないように見える。デジタルカメラの技術的発展が、安価なカメラであっても大判カメラと遜色ない画面作りを可能にしたということ。この事実は、かんのが撮影対象とする住宅が、合理性・経済性を突き詰めて素材や工法を変えながらも、住むための最低限の機能は維持したシミュラークルな住宅を実現させていることと相似形を為している。「New Standard Landscape」は、小林のりおの『LANDSCAPES』に記録された日本の「豊かさ」を反映した風景が、約40年の時を経て、もはや誰の目にも明らかになった日本の「貧しさ」を技術発展や創意工夫によって覆い隠そうとする風景へと変化したことを浮き彫りにした。このように、小林とかんのという二人の作家が撮る風景写真の比較からも、郊外の歴史なき歴史を読み取ることができるのだ。
註
[1]小林のりお「Japanese Blue」ARTBOW.COM、1991–2023年、https://www.artbow.com/blue.html
[2]かんのさゆり・西澤諭志「「現代/日本/風景/写真/放談」前半(かんのさゆり展)2019.10.19」西澤諭志YouTubeチャンネル、2019年11月9日、https://www.youtube.com/watch?v=vjujrcG1UpY
[3]かんのさゆり・西澤諭志「「現代/日本/風景/写真/放談」前半(かんのさゆり展)2019.10.19」(前掲)、東北芸術工科大学開学30周年記念展「ここに新しい風景を、」展覧会ハンドアウト(2022年、https://www.tuad.ac.jp/30anniv-exhibition/common/pdf/TUAD30th_handout.pdf)などを参照。
[4]若林幹夫「視線と意匠──郊外ニュータウン試論」『都市への/からの視線』青弓社、2003年
[5]「トポス」概念については、エルキ・フータモ『メディア考古学──過去・現在・未来の対話のために』(太田純貴訳、NTT出版、2015年)を参照。トポスとは「装いを絶えず変えてはさまざまな目的のために何度も繰り返し呼び出されるお決まり(ステレオティピカル)の文句」(p. 31)を意味する。フータモは、時代や場所を超えて繰り返し現れるトポスが担う意味や機能を分析することによって、それぞれの文化の連続性や差異を明らかにできると述べている。
[6]かんのは作家活動の初期から、安価なデジタルカメラ「Nikon coolpix」シリーズを用いたスナップ的な撮影手法を意図的に選択していた。当時の機材のスペックを反映して画質は低く、アレやブレのある荒々しい画面が特徴的であったという。かんのさゆり・西澤諭志「「現代/日本/風景/写真/放談」前半(かんのさゆり展)2019.10.19」前掲
*次回は12月20日(金)に公開予定です。
かんのさゆりさんの参加する展覧会が、東京都写真美術館で開催中です。ぜひ足をお運びください。
「現在地のまなざし 日本の新進作家 vol.21」
出品作家:大田黒衣美、かんのさゆり、千賀健史、金川晋吾、原田裕規
会期:2025年1月19日(日)まで
料金:一般 700円/学生 560円/中高生・65歳以上 350円
https://topmuseum.jp/contents/exhibition/index-4822.html