マンガ研究者・小田切博によるアメリカン・ヒーロー・コミックスを解説した連載がスタート! コミックスの邦訳だけでなく、映画、ゲーム、アニメなどさまざまなかたちで日本でも親しまれている「アメコミ」ですが、はたして私たちはその仕組みや歴史をどこまで理解しているのでしょうか?
本連載では作品やキャラクターだけでなく、時代背景や出版の仕組みまで、知っているつもりのアメコミをきちんと読むための基礎を丁寧にひもといていきます。
第1回目はバットマンで繰り返し描かれる「ウェイン家の悲劇」というオリジンから、「ヒーロー」という存在の歴史的な変遷を解き明かしていきます。
繰り返されるウェイン家の悲劇
ネオンサインが輝く夜の繁華街、父と母に連れられ映画館から出てくる少年、興奮気味に映画の感想を語る彼をいとおしげに見守る両親。
駆け出した少年を引き寄せる路地から延ばされた腕、乱暴につかまれ身をよじる彼の目の前で、両親は興奮した強盗の凶弾に倒れてしまう……これはアメリカのスーパーヒーロー・コミックでもっとも有名なキャラクターのひとりであるバットマンのオリジン・ストーリー(誕生秘話)の導入部です。*1
この悲劇を生き残ってしまった少年、ブルース・ウェインが、その体験から長じて蝙蝠の仮面を被って街の犯罪者と戦うようになる、要はそれがバットマンの物語なのですが、アメリカン・コミックスのヒーロー、特にバットマンやスーパーマンのようなメジャーなキャラクターの物語はその誕生から現在まで、多くの脚本家や作画を担当するコミック・アーティストによって80年以上にわたって途切れることなく語られ続けてきました。
そのため、彼らのオリジンは折に触れ何度も繰り返し語られ直すことになります。
作画や物語の細部は語られる度に異なりますが、ゴッサムシティの有力者であるウェイン家のひとびとに降りかかるこの悲劇の大筋が変わることは(基本的には)ありません。
まず両親を襲ったある意味で神話的な悲劇があり、それが動機面でのバットマンのヒーロー性を担保するものになるわけです。
しかし、バットマンの物語はけっして終わらない(終わることができない)ことによって、出発点となるこの悲劇の時間線は再話されるごとに少しずつ後にずらされていくことになります。
スーパーマンやバットマンがその終わらない冒険を続けていくためには、彼らの年齢はある程度若いままで維持されなければなりません。
結果としてDCコミックスやマーベル・コミックスのようなアメリカのスーパーヒーロー・コミックスの世界では、その世界(ユニバース)そのものの時間軸が定期的に巻き戻されることになり、バットマンの両親が殺された日付は常に「いま」から20年ほど前に位置づけられ続けることになっているのです。
ただ、時代はずらされ続けているにもかかわらず、このエピソードには変わらない要素がひとつあります。
それはウェイン家の人々が観にいった映画です。
彼らは時代がどれだけ変わっても常に『怪傑ゾロ』を観にいき、判で押したように必ずその帰路に悲劇に見舞われてしまうのです。
なぜ『怪傑ゾロ』なのか
先にも述べたようにウェイン家を襲う悲劇の細部は語られる度に異なります。
たとえば両親が撃たれた原因もフランク・ミラーとデヴィット・マッツケーリによる『バットマン:イヤー・ワン(Batman: Year One)』*2ではおびえた強盗が誤って引き金を引いてしまったためであり、ジェフ・ジョーンズとゲイリー・フランクによる『バットマン:アース・ワン(Batman: Earth One)』*3では街の有力者であるウェイン夫妻の暗殺事件として描かれます。
事件が起こった日も、両親の結婚記念日であることもあれば、ブルース少年の誕生日であることもあり、時には「いつもの週末」でしかないこともあります。日付の持つ意味はこのエピソードにとってあまり重要ではないわけです。
また、作品によっては事件のあり方そのものが大胆に変えられてしまっている場合すらある*4のですが、にもかかわらず彼らが観にいく映画(劇中で明示されていないこともありますが)はほぼ『怪傑ゾロ』と決まっています。
『怪傑ゾロ(Mask of Zorro)』は1919年にパルプ雑誌『オール・ストーリー・ウィークリー(All-Story Weekly)』でジョンストン・マッカレーが発表した小説「怪傑ゾロ(The Curse of Capistrano)」*5を原作として1920年にダグラス・フェアバンクス主演でつくられた映画ですが、1939年にはじめてバットマンを生み出したアーティストであるボブ・ケインは複数のインタビューで、この映画の主人公ゾロのルックス(ソンブレロ帽をかぶり黒い覆面に黒マント)をデザインの参考にしたと語っています。
デザイン上の相関だけではなく『怪傑ゾロ』の物語は、顔を隠して圧政者と戦う弱者の守護者であること、その意外な正体などコミックブックのスーパーヒーローと共通する要素がいくつもあります。
19世紀末に誕生した安価なパルプ紙に大量印刷されたいわゆる「パルプマガジン」は労働者向けの安価な娯楽として鉄道網の整備とともに合衆国全土に販売網を広げ、大変な人気を博しました。
そうして20世紀初頭アメリカで花開いたSFやミステリ、ホラー等のパルプ雑誌文化はゾロの他にもターザンやフラッシュ・ゴードン、コナン等のその後アメリカ大衆文化を席捲していく数多くの「ヒーロー」を創り出したのです。
このヒーローたちはまた、その後メディアの多様化につれて、映画やテレビ、そしてコミックスにその活躍の場を広げていきます。
いってみればスーパーマンをはじめとするコミックブックのスーパーヒーローたちはその正統後継者だということができるのです。
のちにアラン・ムーアはこの潮流をダイムノベルやイエローブックスなどの20世紀初頭に登場したパルプヒーローに先行する、19世紀ヨーロッパの大衆小説のヒーローたちまで遡り、スーパーヒーローを系譜学的に考察したうえで描かれた作品『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』*6を発表しますが、バットマンの物語の冒頭に置かれた映画『怪傑ゾロ』の存在はそのような大衆文化の中のヒーローたちとコミックブックのスーパーヒーローたちのつながりを示す記号であり、じつはきわめて重要な要素だといえます。
ただ、もちろん例外は存在し、ティム・バートン監督による1989年公開の映画『バットマン』ではウェイン家のひとびとが観に行く映画は『フットライト・フレンジー』という舞台喜劇を映画化した作品ですし*7、クリストファー・ノーラン監督による2005年の『バットマン・ビギンズ』ではウェイン家の人々が観に行くのは映画ではなくタイトル不詳のオペラ作品になっていました。これはおそらく個々の作品が核として描きたいものがそれぞれ異なっているからでしょう。
バートン監督の『バットマン』はブルースの両親を殺害した犯人がオリジナルのコミックスとは異なり、その後ジョーカーになる人物だという設定に変えられていました。バートン監督によるバットマン二部作*8はヒーローとしてのバットマン以上に敵役であるジョーカーやペンギン、キャットウーマンを描く物語としての比重が高く、この変更もウェイン家が鑑賞した映画をバットマンではなくジョーカーと結びつける意図を持ったものだと思われます。
クリストファー・ノーラン監督のダークナイト三部作*9においては、アラン・ムーアのような「ヒーロー」の系譜学にはあまり関心が払われておらず、主人公としてのブルース・ウェインの個人的な悲劇、彼が抱く「恐怖」によりコミットした作劇になっていることがこの変更にはあらわれているように個人的には思えます。
物語とキャラクター
アラン・ムーアが参照しているような文学研究における文芸用語としての「ヒーロー」、英雄は劇作上の人物類型のひとつです。
演劇論においてはこの種の人物類型を「ストック・キャラクター」といい、このストックキャラクターとしての「ヒーロー」は、民話、神話、ギリシア悲劇やシェークスピア劇の主人公に見られるような高貴な出自と高い道徳を併せもち、その強さと勇気をストレートに讃えられるような人物を指します。
文化としての物語、文芸はほとんどの文化圏において口承文芸や祭事としての演劇からはじまったものですが(この点に関してはジェーン・E・ハリソンが『古代芸術と祭式』*10で論じています)、古典演劇における物語の登場人物、キャラクターはこのような類型(ステロタイプ)としての存在なのです。
たとえば現在では哲学者として有名なフリードリッヒ・ニーチェは古典ギリシア文献の研究者としてそのキャリアをはじめており、処女作『悲劇の誕生』*11では古代ギリシア演劇の舞台上で役者が複数の役柄を演じ分けるさまを描写しています。日本においても能では同じ演者が演じていたとしても仮面(おもて)が変われば別な登場人物になるように、世界的に原型的な演劇が仮面劇であることからも、この演劇における仮面のようなかたちで記号化された人物類型が古典的な物語様式における「キャラクター」の原点だといえるわけです。
近年の演劇史や文学史等の研究においては、近代的な物語表現の契機を登場人物の「内面」の存在に求めるようになっています。近代演劇の演技法を確立したコンスタンチン・スタニスラフスキーは役者に自分たちが演じる登場人物の「内面」を想定して演技することを求めました*12し、小説家のE・M・フォースターは近代的な小説の成立の契機のひとつを類型的で内面的な成長をしない「平面的人物(フラットキャラクター)」に対して劇中の事件に呼応して内面的に変化、成長していく「立体的人物(ラウンドキャラクター)」の登場に見出していました*13。
このような物語における作劇、登場人物の描かれ方の変化(内面の獲得)は、演劇や文学のようないわゆる芸術(ハイカルチャー)に限定されたものではなく、大衆文学、映画、コミックスを含めた近代の大衆向けエンターテインメントにおいても踏襲されてきたものです。
パルプ雑誌のヒーローたちや初期のコミックブックのスーパーヒーローたちは典型的な「平面的人物(フラットキャラクター)」として描かれていました。スーパーマンにしろバットマンにしろ登場当初の物語の中では内面的な苦悩を抱えた立体的な人物ではなく、記号的なタフガイであり、謎の人物(ミステリーメン)としてしか描かれていません。
大衆文化全体の物語の複雑化や登場人物の内面描写の深化に伴って、彼らの物語は複雑さを増し、彼ら自身も徐々にその人物としての陰影を深めていったのです。
ヒーローと主人公
こうした主人公の外側にある「コスチュームプレイ」としてのバットマン、類型としてのヒーロー像自体もじつは時代を経るにしたがってかなり変化し続けてきました。
40年代にはスーパーマンとは違った怪奇色のあるヒーロー、50年代には相棒のロビンとともにカラフルなヴィランたちとコミカルに戦ってみせる親しみやすいヒーロー、60年代から70年代にかけては社会的なテーマやハードボイルド的なキャラクターを取り込み、80年代以降はそれまでの物語や「ヒーロー」像をメタ的に参照したポストモダンなヒーロー物語が志向されていくことになります*14。
しかし、その誕生譚が再話され続けていくことは、プロパティーとしてのバットマン・フランチャイズの延命やヒーロー像の刷新以上に「コスチュームの内側」、主人公としてのブルース・ウェインの性格や内面を時代に合わせアップデートしていく意味を結果として持つものでした。
ブルース・ウェインは、誕生直後の平板で記号的な大金持ちのプレイボーイから、バットマンのオリジン・ストーリーが語りなおされるたびに、その人物としての複雑さや奥行きを増し、じつは人物像自体も変化していっています。
70年代以降のバットマン物語の中で、ブルースはその自警主義によって社会と衝突し、自身の不殺のポリシーと治安維持活動の矛盾に悩まされ、ときに相棒であり被保護者であるロビン*15たちやスーパーマンをはじめとする他のヒーローたちとの対立、葛藤に懊悩する、より人間臭い人物として描かれるようになっていきました。
特に2000年代に入ってからのグラント・モリソン*16、スコット・スナイダー*17のふたりの名脚本家による新しい方向づけがなされて以降は、家族からもヒーローコミュニティーからも距離を置き、強迫観念的かつ孤独にバットマンであり続けようとしていた90年代までのブルース・ウェイン/バットマン像から、家庭の不幸や社会的な抑圧から孤立してしまった人々による「孤児たちの絆」ともいえる連帯の中心となる存在に変わってきています。
グラント・モリソンによるストーリーの中で登場した5代目ロビン、ダミアン・ウェイン*18は前任者たちとは違い、血縁上もブルースの実子であり、暗殺教団で育てられた非常識なクソガキである彼との親子関係や、トム・キング*19脚本期に本格的に描かれることになるセリーナ・カイル/キャットウーマンとの恋愛関係(なんと婚約までします)など、これまで多くの仲間を持ちつつも青年期的な孤立を好んできたブルース・ウェインが、現在のストーリーにおいては家族的な紐帯の中で自らの立場と責任を引き受ける方向へと変化していっているのです。
社会の変化とメディア展開
こうしたバットマンやブルース・ウェインの変化は、当然「多様性尊重」といった社会的な動きや多くの問題を抱える現代アメリカの家族の問題を反映したものでしょう。
バットマンやスーパーマン、スパイダーマンやXメンといったスーパーヒーローたちは単に有力なコミックブックジャンルのキャラクターであるというだけではなく、アメリカの大衆文化の中で、アメリカ社会の変化を映すように語られてきた物語内存在だといえます。
その物語や彼らのあり方は、日本人の私たちが考える以上にその時々のアメリカ社会とそこで起きた歴史的な事件やその社会に暮らす人々の変化を即物的に反映してきました。
第二次世界大戦の時代には戦場でナチスドイツや日本軍と戦うスーパーヒーローたちが描かれましたし、60年代のカウンターカルチャーの全盛期には反戦運動やドラッグといった新しい若者文化とスーパーヒーローたちの軋轢が、アフリカ系アメリカ人や女性の権利拡張運動が盛り上がりを見せればそのような動向を取り込んだキャラクターがすかさず生みだされていきます。
パーソナルコンピュータや携帯デバイスによるインターネットへの常時接続が常態化し、ネットワークを介して動画、電子書籍といったコンテンツの即時的な全世界同時配信が可能になった現在、日本国内の批評等では多様性(ダイバーシティ)や格差、セクシャリティの問題などを盛り込んだマーベルやDCのスーパーヒーローをモチーフにした映画やドラマに対してはその作劇のテーマ的な先進性を評価、もしくは批判する声がありますが、身も蓋もないことをいえば、以前から映画やドラマに限らず、コミックスにしろ、小説にしろ、アメリカでも日本でも、大衆文化はその作品がつくられた時代や社会をネタにしてきたのです。
スパイ小説や映画がヒットしたのは第二次世界大戦後の東西冷戦という国際政治的な状況があったからですし、一見現実とは切り離された世界を描いているように見えるSFやファンタジーなども実際にはその作品がつくられた時代、社会のありようが刻み込まれています。
スーザン・ソンタグ*20やロバート・ウォーショウ*21といったニューヨーク派の知識人たちは、まだアカデミックな文化研究においてはくだらない、あるいは改善すべき俗悪な大衆娯楽と考えられていたB級映画やテレビ番組、パルプ小説、コミックスといった大衆向けエンターテインメントが持つこのような性格について60年代から論じていました。
現在ではこのようなエンターテインメント批評のあり方は特に珍しいものではありませんが、そのようなエッセイや研究でのコミックスやスーパーヒーローの語られ方自体、ある種の地域性や時代性に強く規定されたものです。
2012年に公開された『アヴェンジャーズ』のヒット以降、日本でもアメリカのコミックスやスーパーヒーローたちについてさまざまな紹介やコンテンツ展開がなされるようになりましたが、作品やキャラクターについてのトリビアルな情報に比べ、これまで日本ではスーパーヒーローコンテンツがアメリカ文化や映画、マンガの問題として論じられる機会はあまりなかったように思われます。
ここではアメリカにおけるコミックスとスーパーヒーローたちの、オリジンやストーリーを、さまざまな角度から考えていきます。
注
1 じつはこのバットマンというキャラクターの基本設定がつくられたのは意外と遅く、コミックブックの紙面に初登場した1939年5月号である“Detective Comics”#27(Bill Finger脚本, Bob Kane作画, Detective Comics)発売の半年後、1939年11月号である“Detective Comics”#33(Bill Finger脚本, Bob Kane作画, Detective Comics)でようやく語られる。
2 原著の出版は1987年。最新の邦訳は2009年にヴィレッジブックスから発売された石川裕人訳『バットマン:イヤーワン/イヤーツー』。
3 原著の発売は2012年。邦訳は小学館集英社プロダクションから2013年に高木亮訳で出版されている。
4 2011年におこなわれたクロスオーバー、「フラッシュポイント」ではブルース少年が死んでしまい、ウェイン夫妻が生き残って父親のトーマス・ウェインがバットマンになった並行世界が描かれる。Brian Azzarello脚本, Eduardo Risso作画, “Flashpoint: Batman – Knight of Vengeance”, 2011, DC Comics, 訳書は『フラッシュポイント:バットマン』, 石川裕人, 御代しおり訳, 2012, ヴィレッジブックス
5 初出はJohnston McCulley, “The Curse of Capistrano”, “All-Story Weekly”, 1919, Frank Munsey, 訳書はジョンストン・マッカレー, 『怪傑ゾロ(新版)』, 井上一夫訳, 2005, 東京創元社等
6 Alan Moore脚本, Kevin O’Neill作画, “The League of Extraordinary Gentlemen”, 1999, America’s Best Comics/Image Comics, 訳書は『リーグ・オブ・エクストラオーディナリー・ジェントルメン』, 秋友克也, 猪川奈都訳, 2004, ジャイブ
7 じつはこの設定は続編としてつくられた“Batman Forever”(1995, Joel Schumacher監督)では『怪傑ゾロ』に戻されている。
8 Tim Burton監督による“Batman”(1989), “Batman Returns”(1992)の二作。
9 Christopher Nolan監督による“Batman Begins”(2005), “Dark Knight”(2008), “Dark Knight Rises”(2012)の三部作。
10 Jane E. Harrison, “Ancient Art and Ritual”, 1913, Oxford University Press, 訳書はジェーン・E. ハリソン, 『古代芸術と祭式』, 佐々木理訳, 1997, 筑摩書房
11 Friedrich Wilhelm Nietzsche, “Die Geburt der Tragödie”, 1872, 訳書はフリードリッヒ・ニーチェ, 『ニーチェ全集2 悲劇の誕生』, 塩屋竹男訳, 1993, 筑摩書房等
12 コンスタンチン・スタニスラフスキー『俳優の仕事』第一部~第三部, 岩田貴, 堀江新二, 浦雅春, 安達紀子訳, 2008, 2009, 未来社
13 E. M. Forster, “Aspects of the Novel”, 1927, Edward Arnold, 訳書は中野康司訳,『小説の諸相』, 中野康司訳, 2024, 中央公論新社等
14 このポストモダンな「バットマン」像を代表する作品が1986年刊行のFrank Miller, Klaus Janson, “Batman: The Dark Knight Returns”, DC Comicsになる。最新の邦訳は続編である“Batman: Dark Knight Strikes Again”との合本で小学館集英社プロダクションから刊行された『バットマン:ダークナイト』(2009, 石川裕人, 秋友克也訳)。
15 バットマンの相棒(サイドキック)である「ロビン」の中身は複数いて、現在の物語上での時間軸だけでもその経験者は5人いる。
16 Grant Morrison, 90年代から幅広い作品で活躍しているスコットランド人ライター。“Batman”誌を中心に“Batman & Robin”, “Batman Incorporated”など複数誌に渡って2006年から2013年までバットマン系タイトルのメインライターをつとめた。翻訳は2012年刊行の『バットマン:ブラックグローブ』(高木亮訳)をはじめそのすべてが小学館集英社プロダクションから刊行されている。
17 Scott Snyder, 2010年代に入ってホラー系タイトル“American Vampire”(DC Comics / Vertigo)の脚本で注目された新進気鋭のライター。間にDCユニバース全体を設定改変したクロスオーバーイベント“Flashpoint”を挟んだため、世界観一新前のストーリーを引き継ぐ形で“Batman Incorporated”誌のみで継続したモリソン脚本期と一部ダブっているが、“Detective Comics”, “Batman”, 週刊で一年間刊行された“Batman Eternal”など2011年から2016年までバットマン系タイトルのメインライターをつとめた。翻訳は2014年の『バットマン:ブラックミラー』(高木亮訳)をはじめそのすべてが小学館集英社プロダクションから刊行されている。
18 初登場は2006年刊行の“Batman”#657
19 Tom King, CIAのテロ対策チーム出身という異色の経歴を持つ新鋭ライター。スコット・スナイダーのあとを受けるかたちで2016年から2020年まで“Batman”誌を中心にバットマン系タイトルのメインライターをつとめた。翻訳は2017年刊行の『バットマン:アイアム・ゴッサム』(中沢俊介訳)をはじめすべて小学館集英社プロダクションから刊行されている。
20 Susan Sontag, “Against Interpretation”, 1966, Farrar, Straus and Giroux, 訳書は高橋康也, 由良君美, 河村錠一郎, 出淵博, 海老根宏, 喜志哲雄訳,『反解釈』, 1996, 筑摩書房
21 Robert Warshow, “Immediate Experience. Movies, Comics, Theatre and Other Aspects of Popular Culture”, 1962, Doubleday