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2025.05.30

第7回 工藤春香と原一男の視差=風景論

風景のスクリーン・プラクティス / 佐々木友輔

映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第7回で中心的に取り上げるのは、優生思想や障害者運動の歴史を踏まえた制作を行うアーティスト・工藤春香の実践。事件の加害者が見た風景を映しだす作品とは対照的に、被害者の見た風景や奪われた未来を想像することにはどのような困難が、そして可能性が伴うのでしょうか。原一男『さようならCP』も手がかりのひとつとして、「共視」における「視差」をキーワードに考えます。

 

加害者の風景論──佐々木友輔『夢ばかり、眠りはない』(2010)

かつてヴァルター・ベンヤミンは、写真家のウジェーヌ・アジェが「犯行現場を撮影するように街路を撮影した[1]」と言われるのは実に的を射ていると語った。アジェが記録した1900年前後のパリの街並みには、ほとんど人影が写っていない。警察が撮る現場写真にも人影はなく、犯行の間接証拠を得るために当事者不在の風景が記録される。都市風景という個別具体的・断片的な対象を証拠物件として、そこから社会構造のドラスティックな変容や「集団的意識」の見る夢を読み取ろうとしたベンヤミンのアレゴリー的思考は、後に隆盛する無数の都市論や風景論の基礎となった。

ウジェーヌ・アジェ《カーディナル通り》(1922)
出典=Wikimedia Commons

また都市風景を犯行現場と結びつける発想は、日本においては連続ピストル射殺魔・永山則夫を巡って展開された1970年前後の風景論争へと受け継がれ、凶悪犯罪から郊外化した社会の病理を読み解こうとするという、ある種の伝統が形成されていく。例えば神奈川金属バット両親殺害事件の犯行現場である文化住宅を撮影した藤原新也の『東京漂流』(1983)、神戸連続児童殺傷事件(酒鬼薔薇事件)を論じた宮台真司の『まぼろしの郊外──成熟社会を生きる若者たちの行方』(1997)、佐賀の西鉄バスジャック事件を取り上げた三浦展『ファスト風土化する日本──郊外化とその病理』(2004)などが代表的な議論として挙げられるだろう。

私自身、2008年に起きた秋葉原無差別殺傷事件を題材として、風景論映画『夢ばかり、眠りはない』(2010)を制作している。この事件は従来からの風景論・郊外論にとって重要な転機となった。というのも、特定の犯罪事件から社会全体を診断しようとするアレゴリー的思考そのものに対して明確な疑義が呈され、それが一定以上の影響力を持ったのだ。例えば批評家の後藤和智は、若者の凶悪犯罪について語る宮台真司や三浦展、東浩紀らの議論を、根拠のない憶測や偏ったデータに基づいた「俗流若者論」であると痛烈に批判する[2]。評論家・ラジオパーソナリティの荻上チキもまた、メディアが提示する加害者心理や犯行動機といった「物語」にナイーブに反応するのではなく、事件の衝撃やメディアイベントを「たくましくスルー」して淡々と社会のアップデートを図るべきだと提言した[3]。東浩紀はこれらの議論を受けて、特定の事件に対して過剰に意味を読み込む行為は単なる印象批評に過ぎないという認識が広がった結果、知識人の役割そのものが危機に瀕し、社会的包摂の回路が弱体化していると語っている[4]。秋葉原の通り魔事件後、ロスジェネ世代(バブル崩壊後の就職難に悩まされた世代)を中心として、加害者である加藤智大の境遇に共感する声がネット上で多く上がった。そうした人びとの絶望や怒りに対しては、やはり社会全体で考えていくべきだと東は反論したのだ。
私は『夢ばかり、眠りはない』でこれらの言説を引用し、その朗読音声を当時暮らしていた首都圏郊外(茨城県取手市)の風景に重ね合わせた。加藤智大が供述した「誰でもよかった」という言葉は、犯行が「無差別」に行われたことの表明であるだけでなく、その実行犯が他でもあり得たという意味での「誰でもよかった」なのかもしれない。そう考えた時、全国どこでも画一的な風景が広がっていると言われる郊外の「入れ替え可能性[5]」の問題と、加害者の入れ替え可能性の問題が結びついた。宮台真司は、郊外化は各地の風景を均質化し、入れ替え可能なものにするだけでなく、家族や地域の空洞化・流動化を押し進め、人間個人をも入れ替え可能性な存在へと変えてしまうと指摘する。私は郊外生活者としての立場から、宮台の議論に反感を抱きながらも、同時にそれらの言葉は時代の気分を的確に捉えているとも感じており、その相反する感情を──別の言い方をすれば、郊外に対する「愛憎[6]」を──踏まえた自分たちの世代の郊外論を語るべく、風景論映画の制作を行っていた。それゆえ、もしも秋葉原の事件に入れ替え可能性の問題が関わっているならば、それは私自身の課題として引き受ける必要があると感じたのだった。

佐々木友輔『夢ばかり、眠りはない』(2010)

だが当時から心残りだったのは、事件の被害者とどう向き合うべきかについて、明確な態度を示せずにいたことだ。17名の死傷者の中には、私の友人の友人に当たる人物が含まれていた。直接の面識はなかったが、ごく身近な場所に被害当事者がいる事件について──しかも加害者の心理を想像する側に立って──映画を制作することへの葛藤は常にあった。せめてそれが二次的な暴力とならないよう、可能な限り配慮しようとしたが、実際のところ、どうすることがもっとも正しい行動であったのか、今でも答えは見つからないままだ。
自作に限らず、凶悪犯罪と郊外的風景とを結びつけた映画は何度も撮られてきたが、私が記憶する限り、そうした物語の大半は、加害者側の視点で描かれてきたように思う。被害者側の視点で描かれた物語が少ないのは、一つには、題材とする事件や物語の元になった事件の被害当事者および周辺人物たちが二次被害を被るリスクを考慮したためであろうが、おそらくそれだけではない。特に「無差別」殺人事件に関しては、本来、被害者たちが殺されなければならない正当な理由や動機などどこにもなかった。彼・彼女らは、「誰でもよかった」という理由にならない理由によって偶然ターゲットに選ばれ、その先の人生を奪われた。別の言い方をすれば、これから語られていくはずだった無数の物語の可能性を奪われてしまったのであり、それゆえ映画は、事件を生き延びた人びとの物語か、もしくは加害者の物語を描くことに偏重せざるを得ないのだ。

被害者の風景論──工藤春香「生きていたら見た風景」(2017)
またもう一つ問われるべきは、無差別殺人と口にする時、本当にその犯行は「無差別」だったのかということだ。法務省の「無差別殺傷事犯に関する研究」に拠れば、事件の加害者は圧倒的に男性が多く、子どもや女性、高齢者など「自分より弱者と思われる者[7]」をターゲットに選ぶ傾向が強いという。だとすれば、「無差別」殺人という言い方は端的に誤りである。実際には明白な「差別」殺人が行われているのだという事実を、まずは率直に受け止めなければならない。
この問題を考える上で、重要な手がかりを与えてくれるのが、アーティストの工藤春香である。工藤は2017年に実施した個展「生きていたら見た風景」(ART TRACE Gallery)のステイトメントにおいて、2016年7月26日未明に起きた相模原障害者施設殺傷事件に言及している。当時、知的障害者福祉施設・津久井やまゆり園の職員であった植松聖が、同園の入所者19人を刺殺し、職員も含めて計26名に重軽傷を負わせた大量殺人事件である。

「相模原障害者施設殺傷事件の犯人は明確な優生思想のもとに事件を犯した。犯人は多くの障害のある他人を殺したことで社会に衝撃を与えたが、昔から障害のある我が子を殺す事件は何度も起きていた。しかしそれは今回のように公に非難されづらく殺人を犯した親側に同情すら集まっていたように思える。「内なる優生思想」は表にでなくとも暗黙の了解のように無意識のうちに心の底に棲みついている[8]

工藤自身は特別意識したわけではないと言うが[9]、この問題提起を、加害者の見た風景ばかりを追いかけてきた風景論に対する痛烈な批判として読み取ることも可能だろう。
工藤は20代の頃、脳性麻痺(Cerebral Palsy、CP)者の当事者団体「青い芝の会」の横塚晃一が執筆した『母よ!殺すな』(すずさわ叢書、1975年)を読み、衝撃を受けたという。1970年5月29日、横浜市の主婦が脳性マヒ児の我が子をエプロンの紐で締め殺す事件が起きたが、マスコミや世論は母親の側に同情し、減刑を求める署名運動や抗議運動が展開された。それに対して横塚ら「青い芝の会」は、被害者である障害者側の人権や主張がまったく考慮されていないことを批判し、殺される側から生きる権利を訴えた[10]。もしも減刑が認められるならば、障害児は殺されてもやむを得ない存在、殺されるに足る理由がある存在だと認めることになってしまうではないか、と。工藤は同書を読み、自分自身が健常者の視点でしか物事を見ていなかったことに気づかされると同時に、それでもなお、我が子が障害を持って生まれてくる可能性には不安を感じてしまうという、自らの心中に棲みついた「内なる優生思想」に直面する。
そして工藤は、こうした価値観がどのように形成されてきたのかを理解すべく、個展「生きていたら見た風景」を構想した。会場には、「もし強制不妊等で生まれなかった子どもが生まれていたらどういう風景を見たのか[11]」を想像するために描かれた、乳幼児の視点から見た室内風景の絵画が設置されている。また同じ部屋の壁面には、日本に優生思想が持ち込まれた歴史に関する年表が掲示され、その上には、1948年に制定された旧優生保護法に影響を与えた社会運動家、マーガレット・ヒギンズ・サンガーの肖像画が置かれた。サンガーは、産児制限バース・コントロール(避妊や不妊手術など女性の妊娠・出産・育児を人為的にコントロールすること)を掲げて女性の性の権利を主張した先駆的なフェミニストとして知られるが、同時に、優生学に基づき不良な遺伝子を持つ家系を断とうとする優生思想の持ち主としての顔も持つ。女性としては「殺される」(差別される)立場でありながら、母親としては「殺す」(差別する)立場でもあるという二重性の起源を、工藤はサンガーの思想や活動の中に見出したのだ。

工藤春香「生きていたら見た風景」(2017)展示風景
撮影=工藤真衣子

工藤春香「生きていたら見た風景」より、《マーガレット・サンガー》(2017)
撮影=工藤真衣子

このようにして工藤は、一つの展示空間の中に制度の歴史や思想的起源、想像上の乳幼児が見た個人的体験など、位相の異なる複数のスクリーンを重ね合わせ、同居させることによって、心中に潜む「内なる優生思想」を可視的な風景として浮かび上がらせようとする。これらの試みは、前回の連載で取り上げたジェームズ・ベニングの提唱する「球状空間Spherical Space」──一見無関係に見える複数の視覚的・聴覚的モチーフを並置し、それらを相互参照的に機能させる方法──をインスタレーションに適用し、空間的に展開したものだと、ひとまずはまとめることができるだろう。
ただし、ベニングが『ランドスケープ・スーサイド』(1987)で、実在する二人の殺人犯(バーナデット・プロッティとエド・ゲイン)が見たかもしれない風景というかたちで過去の視点の再現・復元へと向かうのに対し、工藤は、生まれてこなかった子どもが生まれていたら見たかもしれない風景というかたちで、あり得た未来の想像へと向かう。仮定(生まれていたら)に仮定(見たかもしれない)を重ねざるを得ない、この不確かさこそが、加害者の風景論と被害者の風景論の根本的な差異を示している。命を奪われた者は──殺された死者であれ、生まれることを許されなかった未生者であれ──他者との視差を確かめ合う以前に、同じ風景を眺め、視座を重ね合わせようと試みる権利や可能性そのものを剥奪された存在なのだ。

視差と時差──原一男『さようならCP』(1972)
このように、被害者の奪われた未来を想像することには明白な限界があるが、だからと言って想像しなくて良いということにはならないし、容易にやめられるものでもないだろう。被害者の死に「教訓」としての意義を見出すことは──彼・彼女らが殺されるに足る理由があったと認めることになってしまうから──厳として慎まなければならないが、残された者の責務として、同型の差別や暴力を反復・再生産しない未来を希求し、一つ一つ実現させていこうとするならば、やはり、自分とは異なる生のありようを想像することから始めるしかないはずだ。
工藤が乳幼児の視点から見た風景を描き出そうとしたことは、前回定義した「擬制的な共視体験」の出発点であり、自己と他者との間にある「視差[12]」を確かめることで、自分とは異なる属性を持つ人びとがどのようにこの世界を経験しているのかを想像するための手がかりとなる。
この試みは、フェミニスト現象学における「生きられた経験」の記述とも類似したものと見做せるだろう。フェミニスト現象学では、ジェンダーや人種・民族、社会階層、障害などに関して、何らかのマイナー性を持つ当事者の「日常的な経験についての一人称の記述[13]」を行うことから始め、その経験を詳しく分析することで、彼・彼女らが日々感じている「生きづらさ」を作り出している要因を明るみに出すことが目指される。現象学・ジェンダー論・臨床哲学研究者の稲原美苗が言うように、障害を「個人モデル」(障害は治療や訓練といった個人の努力によって解決可能であるとするモデル)で捉えるのではなく、また「社会モデル」(障害は社会の構造や制度によって作り出されるものだとするモデル)で捉えるのでもなく、日常における具体的な不便や不利益、苦しみや喜びといった経験から障害を考える「生活モデル」を採用することによって、既存の枠組みや理論が見落としてきた問題系を発見することが目指されるのだ[14]。当事者の経験を直接経験することはできなくても、現象学的な記述によって生活上の具体的な困難や障害に関する主観的な経験が言語化されることで、その視座に自らの視座をなるべく重ね合わせての想像が可能になる。あくまで視差の存在を前提とした上で、それでもなお擬制的な共視体験を試みるという点で、工藤の絵画とフェミニスト現象学には方法論的な共通性がある。

もう一つ、フェミニスト現象学的なアプローチで撮られたドキュメンタリー映画、もしくは擬制的な共視体験をもたらす風景論映画の実例として、原一男の『さようならCP』(1972)を見てみよう。
同作では、先述した「青い柴の会」の横塚晃一が出演し、もう一人の脳性マヒ者・横田弘と共に中心的な役割を担っている。映画の冒頭、横田は妻子と暮らす団地から屋外へと出て、車椅子を降り、膝立ちで横断歩道を渡ろうとする。左右の足を交互にずるずると引きずりながら進むが、そのたびに上半身が大きく揺れて、かけていた眼鏡を早々に落としてしまう。左手で眼鏡を拾い、その手を支えにしながら前進を続けるが、対岸までの道のりは遠い。道路を曲がって来たバイクや車が横田のすぐ傍を駆け抜けていき、観客は終始ひやひやしながらその歩行を見守る。ようやく横田が渡り終えると、カメラは右斜め上にパンし、カメラを構えた横塚晃一の姿を写し出す。横塚は道行く人びとにカメラを向け、横田はマイクを片手に街頭インタビューを試みる。見る者と見られる者、あるいは撮(録)る者と撮(録)られる者の鮮やかな反転によって、観客はいつしか横塚と横田の視座に置かれ、二人を取り囲む風景を共視するよう促される。離れた場所から怪訝な表情を浮かべる通行人や、憐みの目を向けて寄付をする親子連れ、明らかに脳性マヒ者のためには設計されていない街路などから、二人が日常的に経験している恐怖や痛みが垣間見える。『さようならCP』には、『略称・連続射殺魔』(1969/1975)よりも遥かに露骨なかたちで権力としての風景が表出していると言っても過言ではないだろう。『略称・連続射殺魔』の制作者たちは日本各地の風景が均質化していると指摘したが、権力による抑圧は決して均質ではなく、対象に応じて異なる作動をしているのだ。

原一男『さようならCP』(1972)

ただし、こうした気づきをもたらしてくれる共視の関係はそう長くは続かない。横塚と横田ら脳性マヒ者、カメラを回す原一男、そして観客の共犯関係に大きな綻びが生じ、視差が際立ち始める第一の契機は、脳性マヒ者たちが自らの性事情について赤裸々に語るシーンだ。もちろん、語ること自体が問題なのではない。普段は見過ごされがちな、障害を持つ人びとの性についてざっくばらんに語られる重要な場面でありながら、作中では女性の脳性マヒ者の経験がいかなるかたちでも描かれないという「構造的不在者[15]」の存在こそが問題なのだ。加えて男性脳性マヒ者のメンバーの中には、赤線で買春行為をしたエピソードや、16歳の少女を強姦したエピソードを語る者もいた。障害者/健常者という枠組みの下では差別・暴力を受ける側でありながら、同時に女性/男性という枠組みの下では差別・暴力を行う側でもあるという複合的な属性の問題が露呈し、特に現代の観客は、作中の男性脳性マヒ者たちへの素朴な共感や同一化の欲望を打ち砕かれる。
そして第二の契機は、横田夫妻と他の脳性マヒ者たちが、原一男も交えて口論するシーンだ。横田が電車を降りようとして、駅のホームに転倒したことが示唆されるショットの後、彼は妻の淑子から危険な撮影を続けるようなら離婚すると言い渡された旨を述べ、映画制作を続行することへの躊躇いを表明する。だが「青い柴の会」のメンバーたちはその態度を厳しく批判し、会に金を出させておいて勝手に中断するのはペテンではないかと指摘。この発言に横田は激昂し、場は騒然となる。さらには淑子も登場し、カメラに向けて直接怒りをぶつけるに至り、脳性マヒ者・映画制作者・観客の間で結ばれていた共視・共犯の関係は、対面・対立の関係へと明白に転換することになるだろう。
結局この後も撮影は継続され、『さようならCP』という映画は完成・公開までこぎ着けるわけだが、関係性の破綻以降、再び共視的な撮影が行われることはなかった。代わりに、カメラを構える横塚や、屋外で裸になって自己表現を試みる横田と対峙し、その姿をまっすぐ捉える構図が多用され始める。
だがこの変化を以て、共視の失敗や挫折、もしくは共視関係の不可能性の表明と受け取ったり、その裏返しとして、撮影対象と真正面から向き合う態度こそがドキュメンタリー作家のあるべき姿だとの結論を導き出したりすることは、いささか早計に過ぎる。むしろここで必要なのは、共視概念に「時間」のパラメータを導入することではないか。すなわち、共視を安定した関係性の中で成立する静的な概念として捉えるのではなく、一時的な関係性の中で偶発的に生じる動的な概念として理解すること。それぞれ異なる軌道を描いてきた──視線計測アイトラッキング的な意味での──視線が交錯する一点が、共視関係が結ばれる場所なのだ。
ただし、この視線の交錯をリアルタイムで感知することは至難の業である。『さようならCP』を見る観客は、突如として路上に投げ出され、横塚および横田と対峙する。その出会いの衝撃を引きずったまま映画は進行し、気づけば撮影継続が困難になるほど激しい議論の場に立ち会っている。常に誰かと誰かが衝突しているため、観客は終始、対面の関係で映画を見ている印象を抱くだろう。だが観賞後に振り返ってみれば、私たちは決して対峙・対立しかしていなかったわけではないと気づく。横塚や横田と視座を重ね合わせ、2人が路上で感じる不自由や恐怖を共に味わった時間が確かにあったことに──たとえそれが擬制的な共視体験に過ぎないとしても──後から思い至るのである。
要するに、共視も視差も時差として現れる。稲原美苗がフェミニスト現象学の方法について論じているように、現在進行形で「生きている体験」自体を捉えることはできないのであり、過去の現象を反省的に捉え直すことで記述を試みるしか方法はない[16]。意図的に視座を重ね合わせ、共視関係を築く努力はできても、その成否は事後的にしか──しかも曖昧なかたちでしか──判断できないのだ。ここでも、連載第3回で参照したマルセル・デュシャンの「アンフラマンス[17]」概念を持ち出すことが有効だろう。先ほどまで誰かが座っていたと思われる座席の温もりを感じるように、私はあの時、あなたと共に、同じものを同じような仕方で見ていたかもしれないというおぼろげな感触だけが、共視の証となり得る。

身体的負荷と遅延を伴うリサーチ──工藤春香「静かな湖畔の底から」(2020)
再び工藤春香のインスタレーションに戻ろう。『さようならCP』の視差と時差に関する考察を踏まえるなら、「生きていたら見た風景」の仮定に仮定を重ねざるを得ない不確かさは、①死者もしくは未生者が生きたはずの時間に立ち会えなかったという意味での時差と、②その人との擬制的な共視体験が成立したか否かは事後的にしか判断し得ないという意味での時差という、二重の「遅延」から来る不確かさ、曖昧さなのだと言い換えることができる。工藤の近年の芸術活動を特徴づけるのもまた、こうした遅延である。工藤の制作は遅れて来ることから始まり、決して埋められない時差をなぞり続けることで、その「隔たり」そのものに触れることが目指されるのだ。
工藤は2020年1月11日から2月2日にかけて開催した個展「静かな湖畔の底から」(Arai Associates)およびMOTアニュアル2022「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(東京都現代美術館、2022年7月16日〜10月16日)に出品した《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》で、より直接的に相模原障害者施設殺傷事件を題材とし、回遊型のインスタレーション空間を作り上げている。
同じ事件を発端とする展示としては、アーティストの佐々木健が、かつて祖父母が暮らしていた神奈川県鎌倉市の民家で開催した「合流点」(2021年7月31日~2022年2月13日)も話題となった。両者は共に、相模原の風景画や事件に関連する資料、年表、地図など断片的なモチーフのモンタージュによって「球状空間」を形成する手法は共通しているが、球体の中心に何を置くかという選択に──それぞれの立ち位置や事件との距離感、問題意識を反映した──重要な違いがある。佐々木は事件被害者の実名が報道されなかったことに疑問を抱き、障害という属性に還元されない個人の固有性を見つめるために、自分自身と家族の関係、特に神奈川県内の障害者施設に入所していた兄・耕を中心としたアーカイブを形成した[18]。他方、工藤も自分自身の生い立ちや家族関係を意識しながら事件を思考しつつも、その想像力はあくまで、直接出会う機会のないままこの世を去った事件の被害者たちへと向かう。両者のアプローチは相補的であり、被害者の固有の生とその剥奪という暴力を考える上で、極めて重要な問題提起となっている。
工藤は初めに津久井やまゆり園が立地していた相模湖の地域史のリサーチを行い、相模湖が戦時中に作られた人工湖であることや、ダム建設という国策のために多くの朝鮮・中国の人びとが従事させられたこと、勝瀬部落が水底に沈められたことなどを知る。そこで「静かな湖畔の底から」では、勝瀬部落で養蚕業が営まれていた背景を踏まえ、絹地に絹糸を縫って、今はなき同部落の風景画を描き出した。安定した日本社会のインフラを形成するために人知れず犠牲となった者たちの歴史が刻まれた土地の上に、新たに障害者施設が建てられ、まさにその場所で、社会に負荷をかける者は殺すべきだという極端な優生思想を掲げる者による大量殺人が行われたという事実を、知識として認識するだけでなく、手仕事という身体的行為の反復を通じて体感しようとしたのだ[19]

工藤春香「静かな湖畔の底から」(2020)展示風景
撮影=工藤真衣子

身体的負荷をかけたリサーチと制作は、MOTアニュアル2022に出品した《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》にも見られる。その一部を成す「相模湖の水を京浜工業地帯に運び、京浜工業地帯の植物を相模湖に移住させる」と題された40分の映像作品で、工藤は、相模湖から京浜工業地帯までを徒歩で往復し、水資源の移動(上流から下流へ)と障害を持つ人びとの移動(下流から上流へ)という構造を体感しようとした。
あるいは2025年1月21日から2月9日に行われた個展「わたしたちがいるために」(左近山アトリエ131110)でも、横浜で障害福祉に関わる二つの団体の活動年表を制作する際、あえて多大な労力を要する方法が採用されている。工藤は透明シート全体にすりガラス仕上げ用のコーティング剤を塗り、それをアルコールに浸した綿棒で削り取るかたちで一字一字を刻んでいった。これらの作業から窺えるように、工藤にとって「知る」ことや「理解する」ことは、伝達された情報をただ正確に受信するだけでは完結しない。手間と暇(時間)をかけてその情報を血肉化し、デコード(解読・復号)することが必要なのであり、その試みには必然的に「遅延」が伴うのである[20]

工藤春香「わたしたちがいるために」(2025)展示風景 撮影=筆者

工藤春香「わたしたちがいるために」(2025)展示風景 撮影=筆者

「静かな湖畔の底から」では、事件の起きた場所や被害者の生きた環境についてのリサーチに加えて、19人の被害者それぞれの人となりを想像することも試みられた。工藤はとあるウェブサイトで被害者たちが生前に好きだったものを知り[21]、それを元にして「じゃあこれも好きかな[22]」と推測したものを用意し、会場に設置した。囲碁が好きな人には囲碁セット、缶コーヒーが好きな人には缶コーヒー、音楽が好きな人にはCDプレーヤー、中山美穂が好きな人には中山美穂の写真というように、工藤が選択した19人分の物品は、実際に当人が所有していたオリジナル資料でもなければ、メーカーや品番を正確に特定して揃えた複製資料でもないという点で、被害者にまつわる「アーカイブ」とは言い難く、むしろ工藤から19人への「お供え物」であると言ったほうがしっくり来る[23]。ここでも工藤は、自分自身と被害者との間にある埋め難い距離と時差を前提とした上で、死者との関係性を築ける数少ない方法の一つとしての供犠を選択するのである。

工藤春香「静かな湖畔の底から」(2020)展示風景
撮影=工藤真衣子

障壁スクリーンのデトリタス──自他の「隔たり」に触れる

リサーチャーの高橋ひかりは、MOTアニュアル2022のレビューで工藤の展示に触れ、そこには一貫して「線」のモチーフが──物理的なものから比喩的なものまで──通底していると述べている[24]。この指摘は同作に限らず、工藤の近年のインスタレーション全体にも当てはまる特徴と言えるだろう。それは、絵具や錦糸によって引かれたストロークとしての「線」であり、相模湖から京浜工業地帯までの移動の軌跡およびそのルートを地図上に書き加えた「線」であり、湖底に沈んだ勝瀬部落の風景とダム建設後の風景(1964年に相模湖で東京オリンピックのカヌー競技が行われた)を分かつ水面としての「線」であり、また、旧優生保護法の歴史とそれに抵抗した障害者たちの運動史が表裏に記された布によって展示空間を二分する「線」でもある。

MOTアニュアル2022「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」(東京都現代美術館)展示風景より、工藤春香《あなたの見ている風景を私は見ることはできない。私の見ている風景をあなたは見ることはできない。》(2022)
撮影=森田兼次

この「線」を三次元上(展示空間上)に展開し、布地や年表、半透明のシートなど空間を区切る物質としての実体を持たせたものが「スクリーン」であるとするなら、工藤は、そのスクリーンに死者や未生者たちが「生きていたら見た風景」を投影すると同時に、それはあくまで想像上の風景に過ぎず、彼・彼女らが見るはずだった風景は永遠にヴェールに覆われたままだという現実を突きつける障壁としての機能も、同じスクリーンに担わせていると言えるだろう[25]。工藤は決して出会い得ぬ者たちと出会うべく、あの手この手を尽くして彼・彼女らに接近し、やがて最後の壁にぶつかる。絵画や地図、造形物や新聞記事、囲碁セットや缶コーヒーなど、展示空間に置かれたものは皆、目の前のヴェールを──連載第1回で論じた中平卓馬のように、だが中平よりも慎重かつ丁重に──一枚一枚取り去って、その向こう側に触れようとする不可能な試みによって生み出された残骸、障壁スクリーンの「デトリタス[26]」なのだ。
このようにして工藤は、①身体的な負荷や手仕事性を伴うリサーチと、②本来は不可視かつ概念的なものとしてある障壁のデトリタス化(物質性を備えたスクリーンへの変換)によって、擬制的な共視体験の試みに不可避的に付随する「視差」や「時差」に触れる方法を発明した。死者や未生者たちに直接触れることができなくても、自己と他者の間にある「隔たり[27]」に触れ、なぞり、その輪郭を確かめることで、アンフラマンスな関係を持つことができる。「隔たり」にであれば直接触れることができるのだと、あえて断言してみせるのは、それこそが私たち人間を悩ませ、苦しめてきた当のものであるからだ。もしも「隔たり」が行く手を阻まず、視差や時差を完全になくすことができるのなら、私は今すぐ制作も執筆もやめて、会いたい人に会いに行くだろう。


[1]ヴァルター・ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」野村修訳、多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』所収、岩波書店、2000年、p. 153
[2]後藤和智『お前が若者を語るな!』角川グループパブリッシング、2008年
[3]荻上チキ「物語の暴走を招くメディア/メディアの暴走をうながす物語」『アキバ通り魔事件をどう読むか!?』洋泉社ムック編集部編、洋泉社、2008年
[4]東浩紀「「私的に公的であること」から言論の場を再構築する」『アキハバラ発──〈00年代〉への問い』大澤真幸編、岩波書店、2008年、p. 65
[5]宮台真司「つまらなさ、一段と深刻──地下鉄サリン事件10年(三者三論)」『朝日新聞』朝刊、2005年2月25日付
[6]アーティストの中島晴矢は『オイル・オン・タウンスケープ』(論創社、2022年)において、自らの故郷であり、また郊外的環境の一種でもあるニュータウンに対する「愛憎」(p. 155)を表明している。
[7]野下智之・寺村堅志・櫨山昇「無差別殺傷事犯に関する研究」『法務総合研究所研究部報告』50号、法務総合研究所編、2013年、p. 66
[8]工藤春香「生きていたら見た風景」ステイトメント、https://tatsuy1.wixsite.com/haruka-kudo/statement
[9]工藤春香・佐々木友輔「〈生きていたら見た風景〉を辿る──工藤春香の制作と活動」(収録2021年12月8日)、風景/映画再考、2022年8月25日、https://qspds996.com/landscapefilm/?p=286
[10]横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、2007年、p. 40–41
[11]工藤春香・佐々木友輔「〈生きていたら見た風景〉を辿る」前掲
[12]「視差 Parallax」という語は、柄谷行人『トランスクリティーク──カントとマルクス』(岩波現代文庫、2010年)やスラヴォイ・ジジェク『パララックス・ヴュー』(山本耕一訳、作品社、2010年)から示唆を得た。
[13]中澤瞳「フェミニスト現象学とは何か?──基本的な視点と意義」『フェミニスト現象学入門──経験から「普通」を問い直す』稲原美苗・川崎唯史・中澤瞳・宮原優編、ナカニシヤ出版、2020年、p. 3
[14]稲原美苗「障害はどのような経験なのか?──生きづらさのフェミニスト現象学」『フェミニスト現象学入門』前掲、pp. 156–159
[15]ロバート・スタム、ルイス・スペンス「映画表現における植民地主義と人種差別 序説」奥村賢訳、『「新」映画理論集成①──歴史/人種/ジェンダー』岩本憲児・武田潔・斎藤綾子編、フィルムアート社、1998年、p. 182
[16]稲原美苗「障害はどのような経験なのか?」前掲、p. 161
[17]Marcel Duchamp. Notes. Flammarion, 2008. p. 21.
[18]佐々木健・福尾匠「芸術も国家も福祉も私自身も、根本から狂っていると思いました」TOKYO ART BEAT、2022年6月7日、https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/sasaki-ken-interview-2022
[19]工藤のインスタレーションは、クレア・ビショップが論じた「リサーチ・ベースド・アート Research-Based Art」の一種として捉えることも可能である。ビショップはリサーチ・ベースド・アートにおける主要な方法論の変遷を4つの段階に整理した上で、オンライン上の検索や断片的な情報の並置(第3段階)、学術的な調査や一方通行的な主張(第4段階)に代わる芸術的リサーチの方法として、アンナ・ボギギアンのように──そしておそらく工藤や佐々木健もそこに含まれるであろう──アーティスト自身の経験を反映した身体的・手仕事的な調査を取り上げ、高く評価している(クレア・ビショップ「情報オーバーロード」青木識至・原田遠訳、『Jodo Journal 5』所収、浄土複合、2024年)。
[20]あるいはこうした工藤の方法を、ブリュノ・ラトゥールがアクターネットワーク理論(ANT)の方針として掲げた「グローバルなもののローカル化」として論じることもできるだろう(『社会的なものを組み直す──アクターネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳、法政大学出版局、2019年)。ラトゥールは、「コンテクスト」や「フレームワーク」、「社会」などのグローバルな概念を用いて物事を俯瞰的・総体的に捉えようとする思考を批判する。そうしたグローバルな概念をローカルな場に置き直し(これをラトゥールは「パノラマ」と呼ぶ)、他のローカルなものとの連関の中で、その概念がいかに機能しているかを分析することが必要だと論じた。工藤は「年表」によって社会を俯瞰的に把握しようとするグローバルな思考をローカル化し、誰かによって書かれ、印刷され、手渡され、読まれ、捨てられ……といった、具体的で物理的な連関の中に「年表」を置き直そうとしたのではないだろうか。
[21]工藤が参照したウェブサイトは、おそらく「19のいのち──相模原障害者殺傷事件の犠牲者を伝える」(https://www3.nhk.or.jp/news/special/19inochi/index.html)だと思われる。同サイトでは、19人の犠牲者を知る家族や関係者らが語ったエピソードが、ヨネヤマタカノリによるイラストと共に掲載されている。
[22]工藤春香・佐々木友輔「〈生きていたら見た風景〉を辿る」前掲
[23]本稿では被害者にまつわる「アーカイブ」と「お供え物」を便宜的に区別したが、この対比は絶対的なものではなく、お供え物をアーカイブの一種として捉えることも可能である。例えば美術批評家・美術史家のハル・フォスターが「アーカイブ的アート」の代表的作家として取り上げるトーマス・ヒルシュホルンは、特定の芸術家や作家を讃える記念品やロウソクなどで構成された「祭壇」を街路の脇に設置することで、通行人たちに当該の人物に思いを馳せるよう促すプロジェクトを行っている(ハル・フォスター「アーカイブ的衝動」『Я(アール)──金沢21世紀美術館研究紀要』第6号、金沢21世紀美術館、2016年7月)。
[24]高橋ひかり「手渡される語りと忘却。高橋ひかり評「MOTアニュアル2022 私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」展」『美術手帖』ウェブ版、2022年9月12日、https://bijutsutecho.com/magazine/review/26026
[25]本論では十分に論じることができなかったが、工藤の個展「わたしたちがいるために」のメインビジュアルにすりガラス越しの団地風景写真が用いられているのも、こうしたスクリーンの二重性を作家自身が明示しているようで興味深い。またインスタレーションの構成物を「デトリタス」として捉える発想は、同展に関連したワークショップ(陶芸用の土を使い、「自分の好きな形」を作る)で、特別支援学校に通う子を持つ母親たちが制作した彫刻作品や、工藤が左近山の地形を形作った立体作品から生まれたアイデアであることを、備忘録としてここに記しておきたい。
[26]Amelie Hastie. “Introduction Detritus and the Moving Image: Ephemera, Materiality, History”, Journal of Visual Culture 6, no.2, April 2007. pp. 171–174.
[27]「隔たり」に触れることは、哲学者のジャン゠リュック・ナンシーとジャック・デリダに倣って「限界に触れる」あるいは「限界において触れる」とも言い換えられるかもしれない(ジャック・デリダ『触覚、ジャン゠リュック・ナンシーに触れる』松葉祥一・榊原達哉・加國尚志訳、青土社、p. 20)。私たちは触れようとするものの表面、すなわち「限界の皮膚あるいは膜」にしか触れることができない。またそもそも「限界」は定義上身体を持たず、触れられるものではないことを鑑みれば、私たちは永遠に限界に達することがないか、あるいは永遠に限界を侵犯し続けるしかないとデリダは指摘する。筆者が「限界」ではなく「隔たり」という語を用いたのは、「隔たり」が、限界とそれに触れようとする手の間にある埋め難い距離も含み込んだ、厚みのある語であると考えたからだ。また「隔たり」は、本稿でも論じたようにスクリーン(障壁、ヴェール)として具体化され、身体を持つことで、物理的に触れられるものになる。「隔たり」は限界に肉薄しながら、同時に、その限界を侵犯する行為──それは本稿の出発点となった無差別/差別的な殺傷行為や、第4回と5回で論じた窃視症的なまなざしの暴力とも結びつく──を直前で踏みとどまらせるバリケードテープや目隠しカバーとしても機能する。

*次回は6月27日(金)に公開予定です。


 

工藤春香さんの参加する展覧会が、東京都美術館で開催予定です。ぜひ足をお運びください。

「Public Family パブリック・ファミリー」展
アーティスト:金川晋吾・工藤春香・坂本夏海・佐々瞬・さめしまことえ
企画・キュレーション:西田祥子・工藤春香
会期:2025年6月10日(火)〜7月2日(水)
会場:東京都美術館 ギャラリーC
詳しくは こちら から