『「国語」と出会いなおす』の著者で批評家の矢野利裕と作家の町屋良平が、文学をめぐる現在地とこれからを語り合いました。
作品を読むこと、価値を判断すること、文学史を語ること……それらがいま、なぜ難しく感じられるのか。そして、それでも語る意味があるとすれば、どこにあるのか。ちがう立場のふたりだからこそ見えてくる論点を通じて、いま文学を考えるための視点を深めていきます。
(本記事は2025年6月4日に下北沢B&Bでおこなわれたイベント「小説の死後に文学を再設定する」の採録です)
矢野:今日はこの4月に出した『「国語」と出会いなおす』という本の刊行イベントですが、町屋さんにはぼくの希望でお声がけさせていただきました。
きっかけは『文藝』に掲載された座談会(「文芸批評は断絶したか――小説の死後の未来」町屋良平・滝口悠生・倉本さおり(司会:水上文)、2025年春号)に対してぼくが思ったことを記事にして、1月頃にnoteに書いたのが最初です。
「文芸批評は断絶したか」を読んで――ゼロ年代以降の現代小説雑感
https://note.com/yanotoshihiro/n/n2f987b8e5371
この記事に対して町屋さんは正面から誠実に応答してくださったんですね。なにかを書いて真正面から応答される経験は全然なかったので、そのことに感激してしまって、その勢いのまま対談相手として名前を挙げさせていただきました。
矢野利裕さん「「文芸批評は断絶したか」を読んで——ゼロ年代以降の現代小説雑感」への応答など
https://note.com/shosetsunoshigo/n/n81b0c43756a9
ということで、まずはこの本について忌憚ない感想などうかがえるでしょうか?
町屋:学校で国語を習う、というのは多くの人にとって共通体験としてありますよね。なので理解が深まるところがあると思いますし、なにより書かれていることが新鮮でした。こういう論点で文学について書いた本に出会っていなかったんで、端的にすごく面白かったです。
いろいろな論点の部分は個別に後でお話ししたりすると思うんですけど、とくに「文学史が必要か必要ではないか」という論点が印象に残りました。
必要がないと強く言われたのは80年代以降ぐらいでしょうか。白樺派、自然主義、第三の新人、内向の世代、みたいな、時系列に沿ってこういう作家にはこういう特徴があるという分け方が否定される空気があったと書かれています。私自身はその空気を全然よくわかってないですけど、文学史が繋がっていないなという感覚はありました。
◎文学史の暴力と必要性
矢野:私たちは1983年生まれで同い年なんですよね。2000年代初頭に大学生の年代。その頃は文学部で「文学史」と無批判に言うとバカにされる雰囲気を感じていました。もちろん文学研究にも色んな流派があるのですが、自分がいた大学ではとくにテクスト論的な作品分析が主流だったように感じます。そこに現代思想も入ってくるみたいな。
当時の文芸批評を見ても『批評空間』[1994年〜2002年刊行]の存在感が強く、文学研究においても作家を実体視しないテクスト論が流行っていました。となると作家の名前が連なる「文学史」というものを疑うところから始まるわけです。ただし、逆にそれは当時の学生からすると、文学史を覚えなくていい言い訳になってもいた気がします。
そう思ってたら10年後、誰も文学史の話なんてしなくなっていたんですね。いざそうなってみたら「まあ文学史は単純に必要だろう」と思って。だから、一周回って普通のことを書いたら逆に新鮮みたいなところがあります。いろいろねじれてるところもあるんですよ。
町屋:私も文学史の必要性について賛同できる部分が大きいです。技術史としての文学史を考えた時に、町田康さんや保坂和志さん古川日出男さんらが小説に対して言ってることは技術として共通する部分もあって、まとめられるところはまとめて共有できると思います。作品はそれぞれ違いますが、そうやって技術史としてくくってしまうほうが、初学者にとってみれば作品や小説観の差異がつかみやすい。
文学史の問題点は「移民文学」という呼称のように、くくること自体が暴力になることですよね。その暴力を文学史を書く側がどうやって引き受けて落とし前をつけるのかは、現状でも難しいように思うんです。
矢野:そこは書きながら悩むところでした。文学史を書くことがなぜ否定されたかといえば、ひとつの大きな批判は元号で区切るということですね。絓秀実さんなどがよく指摘していたことですが、元号で区切られてる以上それは天皇制のパラダイムにあり、そこに無批判に乗っかることを良しとしない立場があります。従来の文学史を引きずると、それ自体が天皇を中心とする差別構造を温存することになる、ということですね。
あるいは、今の国語便覧には「マイノリティーの文学」みたいな項目が立っています。「在日文学」という言い方もあります。この大雑把な括り方も少し気になりますよね? 在日外国人のなかには在日コリアンもいれば、台湾系の方もいらっしゃるはずなのに。そういうまとめ方をせざるをえないんですね。ぼくはこの本ではそのような大雑把さをある程度引き受けることを宣言したつもりです。けれど、ここは批判があっても仕方がないと思っているところです。
町屋:現状、文学史が未分化になっていることでどうなってるかというと、評者がそれぞれに責任を負うことになっているわけですよね。たとえば、評者はある作品を自分の責任で移民文学の文脈で批評している。そうすると責任の所在が移っているだけで、起きてることとしては、文学史がある状態と別にそこまで大きい違いがあるわけじゃないかもしれません。ただ大きくそれを制度として名指すかどうかの是非ですよね。
矢野:そうですね。文学史批判というのは「文学史」というものが制度化していることへの批判としてありました。それは国民文学批判や近代教育批判、ひいては国民国家批判を射程に含んだものです。この本は単に「文学」という以上に「国語」の本でもあるので、一貫してナショナルな言葉を取り扱っていると言えます。つまり国民国家をある程度前提にしたとこから出発している。ぼくは教員なので、基本的に義務教育のなかで義務として文学に接する状況について考えます。あるいは、成績をつける/つけられるという力関係の中で教えるリアリティが圧倒的にあります。小説を読むことも、基本的にはそういった教育のいとなみのリアリティの上に乗っかっているんですね。
教育という点で言うと、たとえば授業中には「しゃべるなよ」みたいなことを言うわけですよね。教員なんて所詮そういう存在ですから。究極的にはしゃべっちゃいけない理由なんてないのに、そこに対していろいろ理屈をつけて授業を維持するために私語を止める。もしかしたらそれは抑圧的で暴力的なところがあるかもしれないけど、ぼくは勉強が大事だと思って教育をしているからそのように振る舞います。ラディカルな立場に立てば、その振る舞いに対してはいくらでも批判可能です。むしろ、ある面においては批判されることを望んですらいます。要するに、教育のいとなみは、卒業して働きに出たり、大学に入ったりしたあとで、ある程度相対化されることも承知でやっているところがあります。
ぼくにとっての「文学」もその延長にあります。だからとりあえず「これが移民文学ですよ」とか大雑把に教えるわけです。さしあたり、1カ月後のテストに出るからそういう枠組みで覚えといて、と。それで一回ちゃんとわかった気にさせて、そのあとそれを相対化ないし批判するのはむしろ全然やってほしい。それは本当はみんなが通ってきた道のはずなんですよ。いろんな議論をするためには、一度畑を耕しとく必要があるわけです。
このリアリティは所詮教員のリアリティかもしれませんが、かなり分厚くあるリアリティです。そういう感覚と小説や批評の言葉がクロスしたらいいなと思います。
町屋:個人的には技術史としての文学史はしっかりと記録した方がいいなって気持ちはあります。『文藝』での座談の取りこぼしとしてはそこが大きかったので、たぶん個人的に機会を設けます。
矢野:いわゆる文学史が描きにくくなるのは1980年代くらいからとされていますが、現代の文学を技術史という観点から見るといろいろ見えてくるものがありそうですね。今後の議論を喚起するためにもそのような整備はあったほうがいいかも。大事な仕事だと思います。