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2025.07.28

『「国語」と出会いなおす』刊行記念対談
町屋良平×矢野利裕
文学と批評の現在地(前編)

/ 町屋良平, 矢野利裕

◎現在における論争の価値

町屋:この本についてもっと踏み込みましょうか。気になった点がいくつかあります。まず「物語批判」みたいなタームがけっこうありますよね。物語批判というのは批評の世界で、素朴にその物語内容だけを取り上げて批評するのはどうなのか、もっと端的に言うと、それはちょっとダサいみたいな風潮があったと思います。批評の歴史のなかでは繰り返される主題です。
矢野さんはこの本の中でそれはそれとして、でも物語批判への批判を展開されている。これは、いわば「批評に対する逆張り」になりますよね。批評の王道に対する逆張り。とはいえ、批評における物語批判は、放っとくと物語に読みが偏重してしまう王道の読み方に対する逆張りの論旨なわけじゃないですか。つまり矢野さんのこの論点は、逆張りの逆張りになってくる。でも、矢野さんは素朴な逆張りのように書いている。そのプロセスがちょっと不透明なのは気になりました。

矢野:おっしゃるとおり、物語批判批判と言っている時点で逆張りの逆張り感がありますね。議論を進めるにあたってどこに前提を置くか、という問題があります。このあたりの議論は完全に「文芸誌界隈」みたいなものに向けていました。やや挑発的に言うなら、文芸誌界隈こそ本来逆張りであるはずの「物語批判」をベタな合言葉にしていませんか、界隈のなかで思考停止していませんか、という思いがありました。だから、素朴に物語擁護をする感じになったのかもしれない。
ちょっと遠回りしますが、『噂の真相』が98年に『日本の文化人』という別冊のムックを出しているんですね。ぼくはリアルタイムで読んだわけではないですけど、そこに「最近の論壇人は論争が下手だ」ということが書かれています。「吉本隆明は変なことも言っていたけど論争はうまかった。吉本の論敵は不思議とバカに見えてくる」と。で、そこでの論争のうまさが何かと言えば、それは「攻撃の方法」なんですね。悪罵が芸になっているということ。
そこでは、パラダイムが変わったと思わせる何かがあるんですよね。たとえば『朝まで生テレビ!』で西部邁が保守の立場から発言するのに対して宮台真司が「あなたは時代遅れだ」という論陣を張って、結果的に西部さんが退場するという有名な場面があります。当時、それを見て「時代が変わった!」と思った人がたくさんいたと思うんですよね。
文学史も、そういうパラダイム・チェンジの積み重ねで起こっていて、吉本隆明も圧倒的にそういうところがあったんだと思います。宮本顕治や蔵原惟人などプロレタリア文学および日本共産党に対して痛烈に批判する。ほとんど神格化されていた獄中非転向も批判する。そうやってパラダイム・チェンジを起こす吉本隆明はすごかったと思うんです。さらにその後、その吉本を時代遅れにしてしまう柄谷行人や蓮實重彦がいて、浅田彰がいて、『批評空間』一派がいて、というように。
そういう風景をぼくはがっつりインストールしちゃってる自覚があります。批評というのはそういうものだ、という意識がかなり強くあって、しかも憧れた。その場を制圧するように一夜にしてパラダイム・チェンジを起こす人たちはかっこいいなというふうに。もしかしたら東浩紀さんや宇野常寛さん、そのほか今も活躍してる人も、そういうところがあるかもしれないですよね。そのときどきにおいて時代と闘っている人がいて、それこそが批評家の姿なのだ、と。そうやって各時代で闘って社会を動かそうとする批評家の姿勢に対してはリスペクトする気持ちが強いです。
ぼくが町屋さんに向けて書いたnoteで「仮想敵・批判対象が見えない」ということを書きましたが、それはそのような話でもありました。そもそも、一般的に批評や研究というものは先行する批評や研究があって、その先行研究との差異を示すことによって自分の論には意義があるとする、という作法が基本とされています。つまり、弁証法的に何かを乗り越えることがひとつの形ではあるわけです。
でも、ここ数年、そういう思考も自分のなかで無批判に受け入れにくくなっている。というのも、切実な闘争をしているふりをして自分を誇示したいだけのポーズになっている人がほとんどじゃないですか? そうであれば、もっと対話的にできるんじゃないんですかね?  それを批評と呼ばないのであれば呼ばなければいいけれど、だったら批評じゃなくていい。批評家という肩書きにそこまでこだわってない。
そんなふうに思っていたけれど、町屋さんに対しては批評家モードでそういうふうに論争的な悪罵芸を求めてしまったわけですね。なので、そのことを見透かされるように正面から批判されてしまい納得しました。

町屋:「小説の死後」の原稿を書いていて、もっとわかりやすくしたいという欲望は私も常にありました。けれど、どうしてもうまくできない。具体名や固有名じゃなくても批判対象が明示されないと、読者が乗れないな、というのも正直思いました。これは普通の日常を書いたものでも、たとえば食べ物の話を書いても「これが好きじゃないんだ」って話は普通にわかりやすいし面白いじゃないですか。

 

◎批評と価値判断

町屋:ちょっとこの話はあとでするとして、さっきの話に戻って、批判対象とは別として、価値判断というのがあるじゃないですか。好きや嫌いというのもひとつの価値判断としてありますけど、批評というのは好き嫌いを超えたふりをするような価値判断が、ずっと求められてきましたよね。
2017年秋季号の『文藝』には「現代文学地図」という特集名で「来たるべき作家たち」と題された座談会が載っています。佐々木敦さんが司会でほかの参加者は江南亜美子さん、倉本さおりさん、そして矢野さん。8年ぐらい前なので私はデビュー直後。矢野さんがその来たるべき作家たちに、私を一応入れてくれたんですよね。だけど、めっちゃ多いんですよ、来たるべき作家たち(笑)。みんなそう思ったんじゃないですかね(笑)。

矢野:あと、もう来てんじゃんとか(笑)。

町屋:ここではっきり言葉で作品の価値判断してるのが矢野さんだけだったんですよ。けれど矢野さんはその後、文芸誌でお書きにならなくなった印象が私はあるんですね。だから価値判断は駄目なものなのかもしれないという気持ちがデビューした後に芽生えました。これは私だけではないでしょう。私はどっちかというと、価値判断した方がいいって気持ちがまだずっとあるんですが。

矢野:今のはすごい嬉しいですね。おっしゃる通り、座談会にあたって自分は価値判断を明確にしようという態度で臨んだことをよく覚えてます。またこの後の新人小説月評でも、マル・バツ・サンカクを絶対につけることをマイ・ルールとして課しました。
その新人小説月評の最後の1文は「願わくば、小説をめぐって多様な独善がぶつかり合い、活性化せんことを!」と締めています。なので、価値判断はしたほうがいい。もし評価を翻すことがあっても、こういうことだから転向しましたと言えばいい。そのスタンスはいまだに変わってないですね。
ただし今はインターネットみたいな問題が若干入ってきますよね。作品に対する価値判断をネットで言うのはどうかなと思うときはあります。でも、これは批評云々というよりコミュニケーションや礼儀の問題としてです。ともあれ、デビュー当時や『文藝』のときのギラギラした感じは今はないかもしれませんが、価値判断をすることに対する重要性はいまも変わっていません。

町屋:私はなぜ言ったほうがいいのか悩んでるんですね。自分としてはぜんぜん結論に達していないんですよ。もともと自分のなかにあるものだから言ってるってだけで。価値判断はなぜ言ったほうがいいんですかね?

矢野:町屋さんはたとえば小説を読んで「これはその理屈をつけなくても、自分にとっていい」という読後感はあるんですか?

町屋:(そういう価値判断、いい悪いの評価は)はっきりあります。それを書き手に伝わるような形で、アウトプットする意義がどれだけあるのかということですね。あると思ってるんですが、その理由はそっちの方が自分に合っているからっていうだけで、いろんな葛藤はありますね。

矢野:読者のためにそれをやるっていう考え方はありますよね。スポーツの楽しさ。観客がサッカーの勝ち負けを見て盛り上がったり応援したりするような。芥川賞などの賞レースもそういう楽しみというか消費のされかたがあると思う。

町屋:競技性ですね。競技性そのものは面白いけど、結局その競技性が批判されてもいますよね。競技性はやっぱり盛り上がるし、根源的に人が求めているものです。一方で芸術作品に優劣をつけるなんてという批判もあります。けれど、その立ち位置ってぜんぜん浅いですよね。もうちょっと進んだ議論を、ちょっと今後いろんな人がしたほうがいいかなと思っています。
というのも、『文藝』で矢野さん以外の方は価値判断をしていないわけじゃないんですよ。どうやって価値判断をしてるかというと、沈黙でしてるんですよ。矢野さんが私の名前に言及してくれても私の名前を引き取ってお話しする人はいなかったわけです。この沈黙において「あっ、おれのデビュー作、刺さってない可能性がある」とどうしても思うわけですね。私がデビューした前後ぐらいの小説家はそうじゃないかな。言及されることと同等に無視されることで評価がわかる。だから、辛さも正直あります。でもそれによって書き手が深く傷つきはしないようにもなりました。一方、現在はしっかり価値判断する人が減ってきたのもあり、ジャッジをするタイプの評者の論点や文章のほうが、かなり浅はかという現状ははっきりあると思います。これが悩みの種です。

矢野:なるほど、ぼくは実作者じゃないからか鈍感だからなのかわかんないですけど、その視点はなかったですね。

町屋:やっぱ書き手だったらほとんど全員そうではないかと思いますね。