◎作家と批評家、編集者
矢野:町屋さんのキャリアって、『青が破れる』でデビューして、何作か後に『しき』で評価を上げて芥川賞がちょっと見え始め、どの作品で芥川賞を取るかという流れになり、『1R1分34秒』で芥川賞を取り、評価が定着した、という感じですよね。そのキャリアとご自身が書き続けてきた中での感触って乖離していたりするんですか?
町屋:それは私の中で根深いテーマで、デビュー作で評価してくれた人は矢野さん含めけっこういらっしゃったんですけど、はっきり言うと、批評家で評価してくれたのは矢野さんだけだったかもしれないです。結局、三島賞の選考にもかかったおかげでよく分かったのは担当編集者と読者と小説家が評価してくれたんです。
問題として引きずってるのは「作家」と「批評家と編集者」のことなんです。私がデビューしてから批評家と編集者の言うことは、はっきり言うとそんなに大差ないと感じる。けれど作家の言うことは全然違うんですね。この乖離がぼくの「仮想敵」であり、問題意識なんですね。編集者と批評家がなんか近い感じ。多分、本人たちはまったくそう思ってないんですよ。しかし、はっきり言うと根っこのところではその小説が商業的に適うかという論点において意見が近いと私は思っています。
キャリアの話に戻ると『青が破れる』が選考にかけられた時に、作家は好きって言ってくれるけど、編集者や批評家は「そんなにだね」「まぁね」という感じでした。その感覚をすごく覚えてて、二作目で『水面』を書いた時も矢野さんだけが評価してくれたんです。
この二作目の『水面』がターニングポイントで、三章立ての作品なんですが二章までは登場人物の個のことしかまったく書かなかったんです。自分は「一人称で男性の内声を書く作家だ」という認識でデビューしたので、自分に近い、社会とのつながりが薄い状態の語りを書いていました。けれどそれでは編集部に通らなかったんですね。
それで苦労してめちゃくちゃ書き直してるうちに、三章で社会性が介入しました。そうしたらOKになったんです。そうなったときに次作の『しき』は、はっきり言って、プロの小説。私がアマチュアリズムをすべて捨てて、小説家として求められているものを書いた。今までは個人として求められている小説を書いているという認識があったのが、『水面』の三章から『しき』以降は、小説家として求められている小説と、自分の個の部分を一致させるような作業になりました。
だから自分としては、『しき』はちょっと妥協した、力を抑えたところがあるんだけど、抑えた感じが逆にすごくマッチしたんですね。そうしたら矢野さんが「ちょっとまとまった」というような内容の書評を書いてくれて、それはそうなんだよなぁと思いながら、今に至っている感じです。それで芥川賞の後から長編を書き始めたので、今は少し最初の感じに戻せるようになってきましたかね。
矢野:いや、すごい嬉しいですね。町屋さんとこうやってしゃべるのは今日が初めてですよね。文学フリマで会ったとき「矢野と言います。ファンなので応援してます」と言った覚えがあるんですけど、これまで話したのはその一言だけでした。でも、今日こうやって町屋さんの話を聞いていると、「俺らめっちゃ作品で会話してるね!」という感じがある。そのことがとても嬉しいです。まあ、ぼくは短い書評くらいしか書いてないですけど。
『しき』の書評も「こんなこと書いちゃって悪ぃなあ」という気持ちがすごいありました。書評の意義というものもすごく迷うところがあるので。やっぱり、限られた文字数で思ったことを隅々まで書くのはちょっと限界があるな、と。文字数が短いから、ネガティヴなことを書くのはよほど何か自分の中で問題があるときですよね。面白くないものを無理矢理褒めることはないけど、しっかりと良いところを書いて売れてほしいと単純に思うし、この先もいい作品を書いてほしいと思う。そういう気持ちは当たり前に抱かれると思うんですね。でも『しき』の書評では、少しネガティヴな余計なことを書きました。「わざわざ書かなくてもいいこと書いちゃって悪ぃなあ」と思いながら。
『しき』の書評になんて書いたかというと、こう書いています。
「本作は、ダンスというモチーフを中心に、思春期を生きる者たちの頭や心に還元されない身体の躍動を見事に描き切った作品である」。
ここで終わってもよかったのですが、このあと最後の一段落が次のように続きます。
「と、ここまで書いて、最後に少しのさびしさを表明したい。それは、本作のわかりやすさに由来するものである。(中略)本作は、間違いなく町屋の代表作のひとつになるだろう。ただ、そのわかりやすさが同時に、町屋良平の小説家としての青春期を葬ったようにも思えた。僕が感じていた言葉にできない町屋作品の得体の知れない魅力。『青が破れる』に存在した過剰さ。作者自身も気づかぬ身体の躍動として書かれていた小説が、本作ではかなりの程度、すっきりと整理された頭で書かれている。それは、小説家としての成熟を感じさせるとともに小説家としての青春の終わりを感じさせる。喜ばしいとともに、それがどこかさびしい。「いまだ言葉にならぬ感情や関係のまっただなかで喜びもがき苦しんでいる」のは、なにより小説家としての町屋ではなかったか。そのたたずまいこそ、僕が町屋に魅了されていた理由ではなかったか。全身青春小説家は青春の終わりになにを思う。青春まっただなかの作中人物たちとは裏腹に、めぐりゆく季節は青春の終わりをこそ告げている。」
『「国語」と出会いなおす』の立場だと、成長して大人になることに対しては全肯定です。それを認めるんだ、という立場です。けど、町屋さんが『しき』を書いたときはなんていうんでしょうか、ゆずを路上で見てた人みたいな気持ちですね(笑)。ああ「夏色」……売れたんだ……、みたいな(笑)。
町屋:でも本当、私の体感を矢野さんの批評の言葉が正確につかんでいただいてたことにびっくりしたんですよね。
それで、近視眼的な私の問題意識として、小説にある種の社会性を取り入れたときに、わかりやすくなったのは実際あるんです。ただ社会性というもののなかには、自分なりの社会もあるし、いわゆる賞とか文芸誌に載るためにはみたいな商業的な社会性も混ざっちゃってる。そうすると自分の中でどう落とし前をつけるのかがよくわからなくなっていました。
矢野:「青春」というのは、英語にすると「youth」、つまり青年期のことで、青年期は大人と子供の間の時期だから、ゲーテの小説じゃないけど修業が終われば大人になる。中学校と高校は青年期で、そこにはいずれ卒業することがインプットされてるんですね。だから、「青春」はその定義からして終わるものなんです。
青春まっただなかを描いた『しき』が、その内容にかかわらずなぜ青春の終わりを感じさせたかというと、それは構成にあったんです。起承転結がしっかりしてることが『しき』の特徴だと思います。逆にデビュー作の『青が破れる』は、起承転結に全然収まらないところに目を見張りました。「こういう作家は今後どういうふうになっていくのだろう」という関心ですね。だから『しき』に対してはそういう意味では、その成長に拍手を送っていたつもりではあったんです。
町屋:書評自体は本当に嬉しくて、鼓舞も含めていろんな感情があったように思いました。一方で、『水面』という小説でこらえきれなかった作家性はずっとある。あの感じで書き続けたら、また別の作家になっただろうなという思いは普通にあります。
(後編に続く)