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2025.08.04

『「国語」と出会いなおす』刊行記念対談
町屋良平×矢野利裕
文学と批評の現在地(後編)

/ 町屋良平, 矢野利裕

◎小説と文責

矢野:もうひとつここで論点を追加してもいいですかね。『ほんのこども』に「文責」という言葉が出てくるんですね。こういう読みで合ってるか自信がないですが、『ほんのこども』は殺人を犯す「あべくん」という登場人物がいて、あべくんの小説を書くぼくみたいな構造になってますよね。現在という時代において、被害−加害の関係を社会的にどう描き、どういうふうに描かないか、についてはいろいろなレベルであると思うんですけど、この作品は加害者側を書いたという作品であるとまずは言えます。
加害者側を書いたときに、そちらに寄り添うことのリスク、そこで被害者がないがしろにされることのリスクが、とくに現在においては強く問われると思うんですね。でも『ほんのこども』はその難しい部分をちゃんと乗り越えて、加害側から描ききっている。では、なぜ描ききれているかというと、それはこの作品が心理小説じゃないからです。
あべくんとされる人物が女性を殺した理由が、人物の明確な意思や気持ちではなく、小説上の言語の営みや言葉の運動性のなかでやってしまったものとして描かれている。『生活』の中で暴力行為をした人も明確な意思はなかった。明確な意思じゃなくて暴発する暴力性をちゃんとしっかりと描く。非常に困難な試みをけっこう楽勝にやっていると思います。でも、そうやってやってはいけないことをしてしまった人は、たとえ自分の意思ではなくとも、社会的な責任は問われることになりますよね。
他方、『生活』の中で若い夫婦二人が共同作業のように小説を書いてます。それを世に出す時に署名する名前はひとつじゃないですか。それを「文責」というわけですね。自分の意思に還元できないものに対して責任を取る。言葉の手に負えなさの問題は、ぼくにとってはその先で責任の問題に関わってきます。
2022年に出した『今日よりもマシな明日──文学芸能論』という本では、小山田圭吾が東京オリンピックの時に過去のいじめ問題が掘り起こされたことについて書いています。そのいじめはすごく凡庸な悪、傍観していたことによって加担していたと言えるものでした。それをもっていろいろな責任追及などがおきたわけですが、それは文責の問題だと思ったんですね。要するに、傍観をしている意識と無意識の間ぐらいにあるものに対して名前がついてしまう。『ロッキング・オン』や『クイックジャパン』のインタビュー記事でも、自分以外の人が書いた記事に対して、将来その責任を問われてしまう(本当はインタビュー記事の「文責」はライターや編集者のほうにもあるはずなんですけどね)。言葉は手に負えない、言葉は自分の意思を裏切っていく、けれども、それを引き受けるという運動が、小説家やものを書く人だと思っています。

町屋:お答えはズレているかもですが小説はあらゆる意味で「文責」みたいなものを宙吊りにすることであぶり出される「責任」を読者と共有することができる形式かもしれません。語り手というものも責任からはほど遠い存在です。『生きる演技』という小説でその責任の無限の宙吊りみたいなものを問題にしたわけですが、結局「私たち(われわれ)」と「私」の間、その交通みたいなものを固定化せずに考えつづけることが責務かもしれないと今は思っています。

 

◎書評のうまさと主体の不在

町屋:話は飛んでしまいますが、私がもともと「小説の死後」で初めに持っていた問題設定や仮想敵みたいなものは批評や書評で小説の内容が再言語化されることなんですね。これはあらすじとは別です。小説の中に書いてあることを評者の解釈によって別の言葉で書いて、こういうことが書かれている小説ですと紹介する方法が主流だと思います。つまり書き手が「伝えたいこと」を中心に評者が再言語化しているということです。

矢野:それはたぶん良いこととしてやっていると思います。評者のひとりよがりの文章にならないように作者に寄り添っているのでしょう。

町屋:そう思います。それがいいのか悪いのかは、私の中でもちょっと迷いがあるんですが、「小説の死後」でも小説を書く側のことはそこまで問題視はしてなくて、いろんな小説があるからそれを読みましょう、としか言っていない。基本自分を含めて読む側の問題を書いているわけです。プロとして小説を読む側が、この小説はどういう属性の書き手でどういう属性の問題が扱われていてこういうメッセージが発されている、と書かれた評は小説を矮小化しちゃうしそれだけでいいのかという気持ちがすごく強くなってしまったんですね。
そこで踏み込んで考えたのは、こういうタイプの評は読者がこういう小説を欲望しちゃうんじゃないかという問題です。そういう風に再言語化にかなう小説を、一例を挙げると書き手の属性などを、読み手が無意識的に選別し求めてしまう、欲望してしまうのではないか。小説が少しでもなにかの「役に立ってほしい」みたいな気持ちになっちゃうのではないか。私自身も少なからずそういう風に思ってしまうし、小説を読むのは大変だから、少なくとも情報になりやすいこと、明日人にしゃべれるようなことが書いてあったらいいなと思う気持ちはわかる。が、プロの読み手として一人一人の責任で書いていることが、その集積である種の情報を必須のものとして欲しちゃってる気がしたし、その欲望を暗に称揚してしまっているのではないか。それはちょっとやだなという批判です。

矢野:いまは書き手の属性やアイデンティティが重要な作品が相対的に多いから、とりわけそのような書評も多い感じがするのかもしれないですね。他方、作品と書評と読者がみんなでなにかを欲望しているような内向きの気持ち悪さは正直よく感じます。そういう雰囲気を「文芸誌界隈」と嫌味たらしく言っているフシもあります。やはり評する人は自分の問題意識とクロスさせることが大事ではないでしょうか。

町屋:私がデビューした時にはもうそうだったと思うんですけど、書評の文章ってめちゃくちゃ上手くなってるんですね。書評という枠の中で発達した文章力や語彙が出てきた印象です。過去のそれに比べて圧倒的に上手い。
前半で言った「沈黙で評価を下す」じゃないですが、個人の意見みたいなものはもうほぼ感じないです。書き手の主体は感じない。ある種の商業性において、それを消すことが美徳でもあるわけです。そうすると、書いていないことのほうを読むようになります。文章って書いていることとまったく同時に、書いていないことも読むものです、誰しもが。書評というジャンルは豊崎由美さんがはっきりした価値判断とともに一般に広められた印象で、当初は意見がはっきり書かれていたわけですが、だんだんと削がれていって書評というジャンルが隆盛したと思うんです。文章は書評のそれは小説家よりはるかに上手いです。
そういえば、なんかの放送かなにかで聞いた気がするのですが、矢野さんは書評はあんまり好きじゃないとおっしゃってましたよね。

矢野:よく知っていますね(笑)。ツイッター文学賞の第一回の頃ですかね。帰り道で「最近書評の意義がわかんないんですよね」って先輩書評家の倉本さおりさんに愚痴を聞いてもらっていました。その頃はよく言ってましたね。長瀬海さんが「同時代評を残す意義がある」とおっしゃっていてなるほどと思いましたが。

町屋:私も書評を書くんですけど、難しいし、ほんとに大変です。でも作家は意見を書いていいっていう暗黙の、同調圧力みたいなのはあって作家のほうが楽ですよ。いまはどこでも、だれが実際に思っているわけでもないのに、集団となると抑圧に繋がるルールみたいなのはあって、それをどれだけ言葉にするものかはいつも迷いますが。だって誰もそんなこと思ってないから。根本問題としては「批評って本当にいるんですか?」ということになってくるんですよね。これはすごい飛躍かと思われるかもしれないんですけど、飛躍じゃなくて、小説について書く文章には、本当の意味で批評的要素がいるのかということを常に迷ってます。いらないかもとも思う。けれど小説家は賞などで批評的にジャッジされるわけです。小説家はそこの折り合いが今、かなりつきづらくなってると思いますね。

矢野:新人賞の選評は本当に期憚ない意見が飛び交ってますよね。ぼくは佳作で新人賞をもらいましたけど、そのときの選評を読んだだけで立ち直れないと思うほどダメージを食らった(笑)。「こんなこと言われるくらいだったらいっそ応募しなきゃよかった!」って、佐々木敦さんに言った覚えがあります(笑)。「こんなことを今後も言われ続けるんならもたないわ」と。でも、一旦デビューするとそれほどではなくなる。そもそも、評論に対してさらにそれを評論する場なんてほとんどないからですね。どこで誰が何言ってるかなんてわからないので、陰で悪口を言われてるかもしれないですけど。まあ、新人賞の選評ほどあからさまに評価の俎上に乗せられることはあまりないわけです。
それにしても、新人賞の選評なんか読むと、そこで求められている水準に達している小説がはたして文芸誌に載っているのか、と思うぐらい高い要求をされている印象はある。

町屋:はっきり言うと新人賞のほうが厳しいです。私も読んで「うん、ああ、まったくそうだな」と思う評はある。ただそれと同じぐらい「皆目見当違い!」と思う時もあります(笑)。

矢野:わははは。ウエストランド井口風に。町屋さんがソルジャーだという噂は聞いています(笑)。

 

◎スポーツを描くこと、勝ちと負け

町屋:最近、新しいなと思った小説があって、文學界新人賞をとった浅田優真さんの「親切な殺人」という小説です。前半で出た競技性やスポーツみたいな話と重なるところもあるんですが、この小説は総合格闘家の一人称なんですよ。
私が好きだと思ったのは、先ほどの「すこやかさ」の連続した問題で、たとえばアスリートや、20代の男子、自分もそうだったからそうかなと思うんですけど、ここでこれ以上考えちゃったらアスリートとしてマイナスだ、というところまで来て折り返す、思考の枠があると思うんです。それ以上いろいろ考えていたら、競技にマイナスだし、下手したら怪我しちゃうかも、みたいな地点。
学問や芸術というものは、その枠を超えていかに思考できるかってことなんですね。よく見ると一流のアスリートはここまでしか考えないよっていうポイントはわかってくる。思考が競技にそぐわない所まで行ったらそこで止めなきゃいけない生理があるわけです。しかし、その枠があってさえ、ない人よりずっと大きい思考の広さはある、ということもよくありますよね。それでこの「親切な殺人」という小説は男性のアスリートというその枠組の中にいる人間だからこその卑怯さやずるさがすごく書けてます。最初のすこやかさに対する批判とは違うんですけど、すこやかであるがゆえに気づかなくていい卑怯さや、ずるさ、それを一人称で書けてる。全体としてはじつはもう一作の受賞作のほうが私は評価できると思いましたが、この点は凄いと思いました。

矢野:町屋さんがでてきたぐらいの時、スポーツについてちゃんと小説を書ける人はいないかなとずっと思ってたんですね。そうしたら町屋さんが普通にボクシングを題材に書いてらっしゃって「おお!」と思いました。その後、身体を描く小説家として町屋さんや松波太郎さんを個人的に注目しました。スポーツという主題や身体を書くことってどうなんでしょうか。

町屋:私はボクシングこそ、脱物語化・脱社会化したいです。格闘技の中でとりわけボクシングは社会的なスポーツなんですね。人生と関わってることが多くて、よくテレビで言うじゃないですか「この間、結婚したばかりの奥様のなんとかさんも応援に駆けつけてます」とか。背負うものがあって頑張っています、と。でもまったく関係ないわけですよ。視聴者は純粋にボクシングそのものを見てるわけじゃなくて、そういう社会性や物語をかき分けてようやく競技を見てるんですね。
多くの場合は、他の格闘技と比較すれば、それは明らかなんです。総合格闘技をそういうふうに見てる人はあんまりいなくて、ボクシングはそれゆえにあんな大人気を一時期は博したんですね。だから、競技そのものを見ることに対して、こだわりのようなものがあります。これも反すこの精神があったから。競技そのものを見ろよという動機で書いたんですね。

矢野:みんなが物語的に背後を見るから、動きの部分を描写するということですよね。まさにそういうのが言語化されればいいなって思いましたね。
自分はサッカーをずっとやっていたんですが、大人になってサッカーを教える立場になったんですね。そうすると自分が無意識におこなっていた身体運動をもう一度言葉としてアウトプットして、子どもに伝えなければいけない。そのとき、身体をめぐる語彙の少なさに本当に慄然とする。自分は身体運動をめぐる言葉を持っていないんだなと思いました。
文学や国語に関して話すときはそれなりの数の引き出しを開けて「この言葉がいいかな」というのがあるんですけど、サッカーに関してはそんな引き出しがまったくない。しかもグラウンドで動きながら言葉を発するじゃないですか。舌ももつれるし、息切れしてる時に出てくる言葉の少なさ。これは誰かにちゃんと言語をたがやしてもらわないと厳しいな、と思いました。そこで自分は初めてコーチングの本を読むんですけど、その経験は文学的で面白かったですね。新しい種類の言葉との出会い。もし自分が小説家だったら、こういうフレッシュな言葉を持ってきて、小説を組み立てるんだろうなあ、と思いました。

町屋:息切れしてる時って本当に弱気になりますよね。

矢野:弱気になるし、たとえば単純に「からだ」って言うア段の連続が苦しいんですよ。この発音の苦しみを小説で表現してほしいですね。

町屋:そういうのはいわゆるそのエンターテインメントに書かれるマラソン小説、駅伝小説で果たせるような課題なんですかね?

矢野:三浦しをんさんの『風が強く吹いている』という箱根駅伝を題材にした傑作がありますが、あれはモノローグなんですよね。心の声じゃなければリアリティが出てくるかもしれない。松波太郎さんが「故郷」という作品で吃音の話を書いていて、あれなんかは自分の問題意識に重なってましたね。心から体の外に言葉が出るときにハードルがあって、外に出た時には自分が思っていたものと異なったものになっている。それがそのまま作品世界を彩っている感じは、さすが作家だなと思いました。

町屋:最近『「国語」と出会いなおす』を読んだからなのか、自分が若年層をよく書いている理由がだんだんわかってきたんですね。自分はいわゆる40代男性としての標準的な人生のコースに入っていません。子どもがいない、結婚していない、けどそれ以上によくよく考えたら、マジョリティの中のマジョリティというと40代以上の男性ってことになってきますよね。
だから20代は、まだちょっと男性の中でのマイノリティ性が若干残っている。少年時代などを考えればわかるかと思います。しかもそのなかでもアスリートなど競技者はめちゃくちゃ見られる存在で、特殊な磁場があったから書けたんだなって思いましたね。
ボクサーは女性性的な面があるというのが書いていて思ったところです。これはアスリート全体がそうですけど、好奇心とともに見られる。何を言われてもいいみたいなところもあるし、自分を晒すことの危険で得られるメリットの少なさもあるとも思います。これは社会的に規定されるジェンダーとはまた別のことです。もともと若年層を描いてたのは、男性の中のマイノリティとは何なのかという思いもあったんですね。自分で選んだわけではないけど、自然に気になってたんだろうと思います。

矢野:その発想は読んでて全然気づかなかったので、なるほどなと思いましたね。見られる存在としてのスポーツ選手ということですね。
ボクシングの勝ち負けについてはどうですか?  男性性という言葉も慎重に使わなければいけないのですが、ぼくが男性性としてイメージし、しばしばうんざりするのは、男の「勝ちに行く」感じなんですよね。さっきの批評の話で出たような「俺はこの場を制覇するよ」というこの「俺感」。これには耐えられない時があります。論争の話でも、パラダイムをこっちにチェンジするからね、と言うのはかっこいいし憧れもするけれど、実際にそういうふうに振る舞う自分は醜悪に思います。
スポーツも体育会系ノリもいいものばかりではないから、いろいろ考えることはあります。ただスポーツの勝ち負けは、意外といいなって思うんですよ。全力を出し切ってすがすがしく勝ったり負けたりする。これはとても良いと思うんですね。だから、批評もそのぐらい正々堂々とやって負けたら退場すればいいと、一方では思っていたりします。むしろ、そういう勝負の土壌がうまく共有できていないから、卑近な「俺はこの場を制覇するよ」感だけが強くなっている気がする。いろんなやつがいろんなところで内輪ノリの観客を集めて勝利宣言している感じ。政治もそうなっていますかね。

町屋:自分の中の批判意識はあるんですけど、競技性や勝ち負けの持つわかりやすさは、小説をやってると思うことはあります。そういうのが嫌だという人もいるかもしれないけど、将棋は勝ち負けがはっきりしていますよね。ぼくは小説もはっきり勝ち負けがついちゃったほうが、やってるほうとしては楽だなと思う側面もけっこうあるんですよね。
そんなのとんでもないと思う人はめちゃくちゃいますよ。少なくとも学問、あるいは芸術みたいなものとしてやってるのに。けど文化ってそういう分かりやすさを借りないと広まらない。はっきり言うと、とくにぼくより下の世代の作品で賞と関係なく売れた作品ってほぼないと思うんで。

矢野:勝ち負けの良さは対話性にあると思うんです。ちゃんと意見を表明したり、考えの違いをぶつけて認め合う。スポーツはそれを清々しくやってる。あなたは、こういう方針で、これだけのトレーニングを積んだんですね、それはもう参りました、次から頑張ります、というような対話のプロセスとしていいなと思います。その健全な高め合いに読者や観客がついて来てくれると良いですけどね。単に盛り上がるためだけのショーアップでも、もうしんどいと思います。

 

◎2016年以後の小説

矢野:もうひとつ今日話したいと思っていたのは『文藝』の座談会の中で2016年ぐらいから小説のモードが変わったという話題です。町屋さんの認識をあらためておうかがいできますか。

町屋:小説にはいろんなものがあって、どの小説もみんないいよねと言いたかったんですが、明確に批判したい小説があるんです。人物や人生や世界が記号的に書かれている小説はどうしても駄目です。具体的に言うと、作品名や個人名は言わないんですが、作品に書かれている無自覚なミステリー要素みたいなもの。ミステリーではそれがむしろいい、プラスの要素なんですけど、作品で書かれている登場人物の行動や生活、要するに作品内で描かれる登場人物の人生がすべて小説に関係ある、小説に寄与している作品にはどうしても批判的になります。とくに2020年代からそういう小説のほうが評価されているかもなという意識がけっこう出てきました。
2016年はぼくがデビューしたのもあるし、そういう小説が目につき始めたのと、あと、私が好きな乗代雄介さんの『十七八より』が2015年の作品で、当時『十七八より』をはっきり評価した人ってまずいなかったんですよ。乗代さんの評価は今は『旅する練習』以降の評価で、ほとんどそれ以前に言及する人がいないと思います。
ふたつ目の問題点は、これは繰り返し言ってることだけど、10年以上の文脈を踏まえて書いてる批評家の人ってのはほとんどいなくなっていることです。これも結局、じゃあ15年前の芥川賞を読んでることの何が偉いんだみたいな気持ちもあるけれど、でも、それはあったほうがいいように思います。
それで、矢野さんに聞きたいのは私が批評を書いてる時にいつもぶつかる価値観として、小説というものは人生・人体・世界に匹敵していないとダメというものがあるんですね。でも私の中でこれに理由はなくて、なんでそうじゃないとダメなのかははっきりは言えないんですよ。この価値観は、保坂さんがずっと持ち続けたもので、保坂さんはもう留保なく駄目なんだって言えています。ぼくにはその強さはなくて、なんでそこに拘らなければいけないのだろうと迷いがある。でも結局突き詰めるとそこに行きつくんです。必ず。それで矢野さんの議論は一部それがない方がいいみたいなところもあるように読めました。そこについてはちょっと聞いてみたい感じですね。論点が何個もでてしまいましたが。

矢野:ぼくたちは同い年じゃないですか。20歳前後の2001年ぐらいに保坂さんの小説論三部作が始まってきて。あと、岡田利規さんはすごかったですよね。その衝撃というか洗礼をまず受けた。これは今の40前後の人ってあると思うんですね。

町屋:まさにそうで、今後あらためてその時期の小説を語り起こさなければと思ってます。まず正史として、いまもう芥川賞などの選考委員にもなっているぐらいの人たち、私が生きているうちはずっと読まれるでしょうというクラスの人たちでできた歴史。その裏面史は、今私がやっているような読み落とされていってしまうかもしれない作品。その中間にある、重要な技術史みたいなものを描こうとしたら中心にあがってくる一人は岡田利規さんだと思います。

矢野:それこそパラダイム・チェンジ感があったわけですよね。ぼくも芸術は世界に匹敵するようなものがいい、というか結果的に世界を垣間見れたほうがいいと考えています。ぼくは社会社会と言いがちだから、世界と社会を対比しているように見えるかもしれませんが、世界は社会を徹底的に描いた先に垣間見られるものだと思っています。
世界と言ったときに、岡田利規はたしかに世界らしきものを見せてくれた気がしたんですよね。ぼくは仲間と作った『F』という2009年に出した同人誌で過去に岡田利規論を書きました。「三月の5日間」は最初に5人組ぐらいの若者たちが一緒に六本木のスーパー・デラックスに向かっていく描写がありますよね。いまちゃんと覚えてないんですが、その数人は塊のように移動しているんですよ。それが古井由吉の『円陣を組む女たち』という作品で主婦たちが円陣を組んで、上の方はごちゃごちゃで足がバラバラでそれを塊として描いているのに似てる、という論を書いてました。そういう古井由吉的な、前田愛が「述語的統合」と言っていたその手法を、いきなり岡田利規が蘇らせたって感じがして、びっくりしたんですね。
それから「三月の5日間」は2005年ですが、村上春樹の『アフターダーク』が2004年なんですね。『アフターダーク』も「私たち」という人称で、ちょっとグーグルアースを先取りするかのような視点になってますよね。ちょうど、あの頃はインターネットと描写みたいなモチーフがあって、そういった社会性と小説技術の両面が絡み合ったところに「三月の5日間」という作品は成立していた。さらに言えば、一方ではイラク戦争も起こっている。社会を描くとともに何か違う水準のものもゴリっと入っている点に、めちゃくちゃびっくりしたわけです。
たとえば陣野俊史さんは、「三月の5日間」をイラク戦争に力点を置いて評論していました。だけど、ぼくは当時イラク戦争に力点を置くのはなにか違うような気がした。保坂さんがなんて言ったかはちょっと覚えてないんですけど、「三月の5日間」に対してはいわゆる社会性とは違った面で評価する言説もあったかもしれない。
保坂さん以降のパラダイムがあるとすれば、それは「実際に小説で起こっていることはなにか」といった論点が本質化されたことだと思います。評論がそちらのほうに関心を寄せるのであれば、自分はもうちょっと社会の方から見ようと思います。さっき言ったように「いままさに小説を読んでいる」みたいな話になると「俺はその感じわかんないんですよね」という気持ちもあるから、自分は野暮ったく言語の社会的な記号作用を分析するように振る舞いたくなります。

町屋:小説を読んでて「この登場人物、全然小説と関係ない変なことしねえじゃん!」みたいな不満はないですかね?  もちろん作品によりますけど。

矢野:ああ、なるほど。わからなくはないけどけっこう許容できちゃうかもしれません。わりと予定調和でも満足しちゃいますね。もちろん、お互いにきっといろんな小説が好きだと思うから傾向にすぎないですけど、世界・人体・人生に匹敵しない記号的な小説でもそれなりに満足してしまうかもしれません。こう言っちゃうと本当に失礼なのですが、小説への期待がやはり低いのかもしれません。みなさんよりは小説を読んできてない、小説にハマってきてないなという気持ちは、コンプレックスとともにちょっとあります。でも、だからこそ、そんな自分の立場から書ける文学論はなんだろうと考えてますね。(了)