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2025.09.29

マンガ研究者・小田切博によるアメリカン・ヒーロー・コミックスを解説した連載。第6回目の今回は、「コミックブック」という形態について。その文化的な位置づけは、懐かしさと未熟さのイメージをまといながら、子供時代の象徴としての記憶と、大衆文化への偏見のあいだで揺れ動いてきました。

 

マイケル・シェイボンの「驚くべき冒険」

2001年、アメリカの純文学界では、マイケル・シェイボンという作家がスーパーヒーローコミックスとコミックブック業界をモチーフにした『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険(The Amazing Adventure of Kavalier & Clay)』[1]という作品でピュリッツァー賞の小説部門を受賞したことが大きな話題になりました。

この作品は、1938年のナチスドイツによるチェコ侵攻から、ひとり逃れてアメリカへとやってきたユダヤ系の青年、ジョー・カヴァリエと彼の従弟であるサミー・クレイの二人が第二次世界大戦とコミックス業界で経験していく「驚くべき冒険」を、コミックブック産業の黎明期から戦後までを舞台として描いた一種の歴史小説です。
アメリカのコミックス業界でクリエイターとして成功していくことになる主人公たちは、スーパーマンのクリエイター、ジュリー・シーゲルとジョー・シャスター、キャプテン・アメリカを産み出したジョー・サイモンとジャック・カービィという二組の創作者コンビをモデルにしているようですが、物語としては前者を意識した部分が大きいと思われます。
特に作中で描かれる彼らが創作した人気キャラクター「ジ・エスケ-ピスト(The Escapist)」を巡る出版社との確執は、文芸情報サイトに掲載されたインタビューでのシェイボンの発言[2]からみても、シーゲルとシャスターがスーパーマンの出版権をDCコミックスによってわずか130ドル[3]で譲渡させられた悪名高いエピソードを意識したものでしょう。
このインタビューも含め、同書に対する刊行時(2000年)のレビューからは、青年の性自認の揺らぎを描いた『ピッツバーグの秘密の夏(The Mystery of Pittsburgh)』(1988)[4]という作品で大学在学中にデビューして話題を呼び、それまでは「アメリカの生活の断面(スライス・オブ・ライフ)」を巧みに書く主流文学作家と看做されていたシェイボンが、本作で「コミックス」をモチーフにしていることに注目が集まっていたことがわかります。

興味深いのは、基本的に好評をもって迎えられたこの本に対する評価においてもこの「コミックス」に対する部分に関しては決まって「逆接」で言及されていることです。
たとえば、『ニューヨーク』誌のレビュアー、ダニエル・メンデルソンはこの作品を「マーベルコミックス風の軽薄なタイトル」にもかかわらず「偉大なアメリカ小説」になり得る作品であるという表現で賞賛していました[5]。
インターネット上の書評サイトやアマゾンのレビューなどでも本作がコミックスをテーマにしていることへの言及は当惑気味のものが多く、こうした言説群から21世紀初頭のアメリカの文学マーケットにはコミックスに対してある種の偏見や先入観が依然として存在していたことがわかると思います。

シェイボン自身はこうしたハイカルチャーとポピュラーカルチャーを分割する障壁の存在に反発を感じたのか、以降キャリアとしてはよりジャンル横断的な仕事を中心に据えるようになりました。2002年にはミニマルな主題に偏った当時の(自身を含む)アメリカ文学シーンを批判する意図でシェイボン自身の命名による「トリックスター文学」の書き手を集めたアンソロジーを編纂[6]、2007年に刊行されヒューゴー、ネビュラの二大SF賞を受賞した『ユダヤ警官同盟(The Yiddish Policemen’s Union)』[7]は、よりはっきりとSF、ホラー、ファンタジーといったジャンルフィクションを意識した作品になっていました。
2004年には『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』の劇中作だったカヴァリエとクレイによるスーパーヒーローコミックス「ジ・エスケ-ピスト」を実際にダークホースコミックス(Dark Horse Comics)[8]からコミックスとして刊行[9]し、サム・ライミ監督の映画『スパイダーマン2』(2004)の脚本を担当するなど、文学だけではなくポピュラーカルチャーのつくり手としてもキャリアを積んでいきます。

 

21世紀のコミックス

一方でシェイボンがピュリッツァー賞を受賞した2000年代は、クリス・ウェア[10]やアリソン・ベクダル[11]といった作家たちのシリアスな作品が文芸批評家から絶賛され「グラフィックノベル(Graohic Novel)」[12]という文芸ジャンルがアメリカの出版文化内に確立されていった時代でもありました。1992年のアート・スピーゲルマン[13]『マウス――アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語(Maus: A Survivor’s Tale)』[14]のピュリッァー賞受賞以降、主に独立系の作家たちによって継続されてきた「芸術としてコミックスを認めさせよう」という努力が花開き、実を結びはじめたのがこの時期なのです。
興味深いのは、クリス・ウェアの『ジミー・コリガン(Jimmy Corrigan, the Smartest Kid on Earth)』[15](2000)やジェフ・レミア[16]の『エセックス・カントリー(Essex Country)』[17](2009)など、こうした「新しいアメリカ文学」としてのオルタナティブなグラフィックノベルにおいても、しばしば子供時代を象徴するノスタルジックな記号としてスーパーヒーローが登場することでしょう。
このことと文学の側でマイケル・シェイボンやその盟友であるジョナサン・レセム[18]のようなポピュラーカルチャー、特にスーパーヒーローをモチーフとして扱う文学者たちが同時期に注目されたことはおそらく偶然ではありません。

2001年9月11日にイスラム原理主義者によってアメリカ合衆国で起こされた同時多発テロ事件は、ハイジャックされた大型旅客機がニューヨークにおける象徴的な建造物のひとつだったワールドトレードセンタービルに激突し、高層ビルがリアルタイムに崩壊していく映像が全世界に中継されたこともあって、アメリカのみならず、全世界に衝撃を与えました。この事件に対してはコミックブック業界も各種チャリティーコミックスの発売、チャリティー目的の展示やイベントの開催などで鋭敏に反応し、そうした対応が社会的に評価されたこともあって、じつはこの事件は改めてアメリカ社会でコミックブックとスーパーヒーローに注目が集まる大きなきっかけになっています。
不安に揺れていた当時のアメリカ社会において、コミックブックやスーパーヒーローはかつてあった(と信じられている)「強いアメリカ」を象徴するコンテンツとして求められた側面があったのではないでしょうか。
その後、2003年にイラク戦争が開戦、そうしたアメリカ社会の中でサム・ライミ監督のスパイダーマン三部作やクリストファー・ノーラン監督のダークナイト三部作がヒットを重ね、2010年代のMCUの成功によってスーパーヒーロー映画の全盛期が出現するわけですが、この映画やドラマを中心とした21世紀のスーパーヒーローリバイバルも、このような時代背景を含めて考えられたほうがいいのではないかと個人的には思います。

逆にいえば、アメリカにおけるコミックス、特にコミックブックとスーパーヒーローコミックスは21世紀に入るまでは、ポピュラーカルチャーの中でもごく一部の例外を除くとじつはマスメディアや批評家からは「とるに足らないくだらないもの」として扱われてきたわけです[19]。

しかし、そもそも「コミックス(comics)」とはなんなのでしょうか。

 

コミックスとは何か

コミックスの起源をどこに見出すかは議論が分かれるところですが、現在のコミックス研究においては、19世紀にスイスで刊行されたルドルフ・テプフェールという教師によるスラップスティックな「版画物語」だとされています[20]。
うち一作の英訳版『ジ・アドベンチャーズ・オブ・ミスター・オバディア・オールドバック(The Adventures of Obadiah Oldbuck)』がはじめてアメリカで出版されたのが1842年[21]、以降先行するヨーロッパの諷刺画や挿絵、イラストレーションの影響を受けつつもアメリカ大陸の新聞、雑誌メディアの中で「コミックス」は独自の発展を遂げていきました。

もともと「COMIC」は喜劇(お笑い)を意味する言葉です。
それが「マンガ」を意味するようになったのは、「コミックス」という言葉が新聞、雑誌の紙上でのグラフィックなユーモア表現を中核として形成されていった概念だからだといえます。
現在アメリカの新聞における最初のコミックスと考えられているのは1893年に『サンフランシスコ・エキザミナー』紙に掲載された熊のキャラクターを主人公にした「ザ・リトル・ベアーズ(The Little Bears)」です[22]。ジミー・スウィーナートン[23]が描いたこの子熊は同年サンフランシスコでおこなわれた博覧会向けにつくられた同紙のマスコットキャラクターでした。
次いで1895年に新聞王ジョーゼフ・ピュリッツァーが刊行する『ニューヨーク・ワールド』紙にリチャード・アウトコールトのイエローキッド[24]が登場し、大衆的な人気を博したことからアメリカにおける新聞マンガは社会的に大きな注目を集めるメディアになっていきます。

イエローキッドに関しては、アウトコールトが当時ピュリッツァーのライバルだったウィリアム・ランドルフハーストに引き抜かれ、ピュリッツァーはこれに対抗して別な作家にイエローキッドを描き継がせるといったキャラクターの争奪戦がおこなわれました。
その結果イエローキッドは「イエロー・ジャーナリズム」(「売り上げのために煽情的な報道をおこなうジャーナリズム」を意味する言葉)の語源になったのですが、大衆向けメディアとしての新聞市場の成長を背景として、これ以降アメリカの新聞にルドルフ・ダークスの『カッツェンジャマー・キッズ(The Katzenjammer Kids)』(1897)[25]、フレデリック・オッパーの『ハッピー・フーリガン(Happy Hooligan)』(1900)[26]、ウィンザー・マッケイ『夢の国のリトル・ニモ(Little Nemo in Slumberland)』(1905)[27]といった人気作品が続々と生まれていきます。
1901年には新聞記事の全国配信をおこなう通信社がコミックスの配信も開始し、まず新聞というメディアのなかでアメリカにおける「コミックス」のイメージが形成されていきました。
フランスのコミックス研究者ティエリー・グルンステインは日本語訳も出版されているコミックス研究書『マンガのシステム(Systeme De La Bande Dessinee)』(1999)[28]の「コミックス」概念の不確定性を論じた章で、デヴィッド・クンズルとビル・ブラックベアードという二人の先行研究者の定義[29]をもとにこの概念について批判的に検討しています。

このうちブラックベアードは「コミックス」の必要条件として「再帰的な登場人物」の存在を挙げているのですが、グルンステインはこのブラックベアードの定義を「新聞マンガにしか適用できないものであり、マンガの領域からイエローキッド登場(一八九六年)以前のものを排除する」ものだと批判しました。
ただ、グルンステインがいうように、ブラックベアードの定義が「ある任意の歴史区分」にコミックスを限定しようとするものだったとしても、だからこそ彼の議論はむしろアメリカにおける「コミックス」概念の歴史的形成に関して考える際には重要な示唆を含むものだといえます。

 

コミックからアドベンチャーへ

初期のアウトコールト作品は、現在は便宜的に「イエローキッド」と総称されていますが、内容的な連続性を持ったものではなく、都市に暮らす様々なひとびとの猥雑な生態を騒々しく赤裸々に描いた一枚ものの諷刺画でした。
そのバラバラな作品群を一種の連作として認識させた要素が、画面のどこかに必ず黄色い貫頭衣を着た少年「イエローキッド」が描かれていることだったのです。
のちにこのシリーズの内容は、明示的に彼を主人公にしたユーモアコミックスへと変化していきますが、それはキャラクター商品が作られるほどの彼の人気があってこそのことでした。

スウィーナートンの子熊がイベントのマスコットキャラクターであったことも含めて考えれば、北米という特定の地域、19世紀末から20世紀初頭という特定の時代に形を成していった「コミックス」という概念の中核には、これら特徴的な「キャラクター」の存在があったと考えるのが妥当でしょう。

その後アウトコールトはイエローキッドのキャラクター商品が勝手につくられることに業を煮やし、事前に著作権登録をおこなうことで自身の許諾を得なければ商品化できないように対策した『バスター・ブラウン(Buster Brown)』(1902)[30]を発表しますが、その頃にはすでにアメリカの新聞全体で『カッツェンジャマー・キッズ』のいたずら好きなドイツ系移民の少年たちや『ハッピー・フーリガン』の不運な季節労働者ハッピーなどの人気キャラクターが、新聞のカラー日曜版付録という舞台ではっきりとコマ割りマンガの形式をとった「お笑い」を演じるようになっていました。

このようにアメリカン・コミックスは特徴的なキャラクターたちが演じるドタバタ喜劇としてはじまったものでした――そして、だからこそそれらは総称として「コミック」・ストリップと呼ばれたわけです。
ところが、1920年代に入るころからこのコンテンツの性格が徐々に変化していく……というより多様化していきます。そのひとつのあらわれが「アドベンチャー・ストリップ」と呼ばれる新ジャンルの登場でした。

 

娯楽としての冒険物語

「アドベンチャー・ストリップ」とは、その名の如く喜劇的ではない、アクション要素を持った冒険物語のコミックスです。「ストリップ」は布切れを表す英単語で、これに内容を示す「コミック」、「アドベンチャー」が冠されていることから、もともとコミックスの掲載媒体の主流が新聞だった1930年代までは、日本語でいう「コマ割りマンガ」の意味は「コミック」ではなく「ストリップ」のほうに込められていたと考えられます。

『ターザン』[31]や『バック・ロジャース』[32]といったアドベンチャー・ストリップが登場した1920年代は、パルプ雑誌の黄金期でした。
パルプ雑誌とは、1896年にフランク・マンシー[33]が創刊した『アーゴシー(Argosy)』誌の形式、内容を踏襲した安価なパルプ紙を使った低価格の娯楽雑誌で、20年代になると美麗なカラーイラストが表紙や口絵を飾るその紙面は、ミステリ、SF、サスペンス、ホラーなどの様々なジャンルに特化した「専門誌化」が進行していました。

当時、この種の雑誌に掲載される小説の特徴のひとつとして、日本でいう「マンガ的」な性格、外見を持った主人公をタイトルキャラクターとしたシリーズものの多さを挙げることができます。
優れたイラストレーターたちの手によって魅力的なヴィジュアルを与えられた彼らは、ドック・サベイジやザ・シャドウなどその名称が冠された個人誌が刊行されたキャラクターも多かったのです。

大衆文化史研究者ラッセル・ナイはその著作『アメリカ大衆芸術物語』[34]でパルプ雑誌とその前身であるダイムノベルのヒーローたちについて「素朴で、悪ずれのしていない、「自然のままの」男たち(文盲の者さえいた)であり、例外なく、性質は善良公正で、紳士的、倫理的であった」と評し、その物語自体については「ごく厳しい定式にあわせて書かれたマスプロもので」あるとしています。
1929年にハル・フォスターを作画担当者として始まったターザンの新聞コミックスに象徴されるように、「アドベンチャー・ストリップ」はこの類型化された大衆娯楽の物語とヒーロー像を新聞のコミックス欄に移植することによって出来上がったジャンルだったといえるでしょう。

 

コミックストリップとアニメーション

アメリカにおいて2025年現在まで、コミックスの主要な流通、出版形態のひとつになっているのが「コミックブック(comic book / comicbook)」と呼ばれるものです。
日本語ではかつて「漫画本」とも「漫画雑誌」とも訳されたことがある「コミックブック」は、実際には日本人が考える書籍、雑誌のいずれとも異なるアメリカ独自の出版フォーマットだといえると思います。
「コミックブック」はA4サイズ、フルカラー32ページ程度の分量で中綴じというパンフレットスタイルの出版物で、現在は基本的に一冊ずつ月刊のシリーズとして刊行されているものです。
個々のコミックブックのシリーズ名は通常「タイトル」と呼ばれ、スーパーマンのコミックブックであれば『アクション・コミックス』や『スーパーマン』がコミックブック単位での誌名になります。

それ以前にも新聞掲載のコミックスをまとめた出版物はいくつかあったようなのですが、現在「最初のコミックブック」とされるのは1933年にコネチカット州の印刷会社、イースタンカラー社が洗剤や化粧品の大手メーカー、プロクター&ギャンブル社の宣伝キャンペーン用に企画した冊子『ファニーズ・オンパレード(Funnies on Palade)』、もしくはこの企画の成功を受けてイースタンカラー社が販売を前提に翌1934年に刊行した『フェイマス・ファニーズ(Famous Funnies)』でしょう。

文化社会学者のポール・ロペスは『デマンディング・リスペクト(Demanding Respect)』(2009)[35]において、この時期にコミックブックというメディアが誕生した要因として、先行する三つの大衆文化の成立を挙げていました。新聞のコミックストリップ、アニメーション映画、そしてパルプ雑誌がそれです。

初期のコミックブックの多くは新聞に掲載されたコミックストリップの再録でしたから両者の影響関係はあきらかですが、二番目のアニメーション映画もじつはコミックストリップ、コミックブック双方と密接な関係を持っていました。
1900年代後半に映像表現技術として確立されていった「アニメーション」は、1910年代にウィンザー・マッケイ[36]に代表される、新聞でコミックストリップやイラストレーションを描いていたアーティストの参加によって創作が活発化し、1920年代から1930年代にかけてウォルト・ディズニーやフライシャー兄弟、ワーナー・ブラザースなどが次々にアニメーション制作スタジオを設立しています[37]。

これらの制作スタジオでつくられたアニメーション映画に登場したキャラクターたちは、人気を博すとすぐに新聞のコミックストリップやコミックブックに登場するようになり、該当のコミックスの制作をアニメーションのスタッフが担当することもよくありました。
たとえば日本でも大正期に翻訳が新聞連載されていた『黒猫フェリックス(Felix the Cat)』[38]のコミックストリップ版をアニメーション映画の共同制作者であるパット・サリバン[39]がつとめたり、コミックブック『ウォルト・ディズニー・コミックス・アンド・ストーリーズ(Walt Disney Comics & Stories)』[40]に掲載される作品の制作をディズニー・スタジオのアニメーターだったカール・バークス[41]がおこなっているケース等がこれに当たります。
つまり、アニメーションスタジオとコミックス産業はキャラクターと制作スタッフの両面で交流関係を持っていたわけです。

 

労働者階級のエンターテインメント

最後のパルプ雑誌は、これまで述べてきたように「ストーリーマンガ」としてのコミックスの物語やキャラクターのフォーマットを提供した側面もありますが、より直接的な影響関係として、DC、マーベルに代表されるコミックス出版社の多くがもともとはパルプ雑誌の出版をおこなっていたという事実があります。
広告収入で制作費を賄い販売売上に頼らないビジネスモデルやキャラクターや作品の権利を出版社が所有し、脚本担当のライターやアーティストを頻繁に変える制作プロセス、ジャンル別に専門誌を創刊するというマーケティング戦略などは、パルプ雑誌のやり方を踏襲したものだったとコレクターでコミックブック研究者のマイク・ベントンは指摘しています[42]。

また、コミックブックが誕生した1933年は1929年10月に起きたウォール街での株価大暴落をきっかけとした世界的な経済恐慌(大恐慌)の真っただ中でした。当時のアメリカ合衆国の失業者数は1500万人を数え、失業率は25%。じつに労働力人口のうち4人にひとりが失業している状況です。
パルプ雑誌やコミックブックは、そうした苦しい時代に労働者家庭向けに提供されたもっとも安価な娯楽のひとつだったといえます。
メディア史的にいえば、ピュリッツァーやハーストの大衆向け新聞やパルプ雑誌は、19世紀前半までは高等教育を受けた富裕層、知的市民階級のためのものであった「読書」という習慣を、より広い一般大衆に向けた「マスコミュニケーション」へと変換する意味合いを持ったものです。

こうしたメディアとしての性格は、必然的にセンセーショナリズムを売りにした大衆迎合的な内容を求めるものでした。
アメリカの文化状況において(特に文学や美術のようなハイカルチャーからの評価として)コミックスが受けてきた軽視の要因のひとつはこの通俗性にあると思われますが、特にコミックブックに関してはもう一点、「子ども向け」という先入観の存在についても考える必要があるでしょう。

 

コミックスと子供時代

欧米の小説や映画には、子供時代を象徴する小道具としてコミックスやスーパーヒーローがよく登場します。
たとえばホラー作家、スティーヴン・キングの小説を原作としたロブ・ライナー監督の映画『スタンド・バイ・ミー』(1986)[43]は1950年代末の閉鎖的な田舎町に住むロウティーンの少年たちが経験した残酷でほろ苦い冒険行を、長じて作家になった少年のひとりが回顧する、という構造の作品ですが、少年時代のセリフや小道具としてスーパーマンやコミックブックがたびたび登場していました。実在する詐欺師の自伝をもとにしたスティーブン・スピルバーグ監督の映画『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』[44](2002)では、FBI捜査官が自分が追う犯罪者は少年なのではないかと気付くきっかけが「使われた偽名がスーパーヒーローコミックスのキャラクターの名前だったこと」にされています。
キングよりも4半世紀以上年長のSF作家レイ・ブラッドベリ(キングが1947年、ブラッドベリが1920年の生まれ)の伝記『ブラッドベリ年代記(The Bradbury Chronicles)』[45]にも、少年時代のブラッドベリが趣味のアドベンチャーストリップの収集を同級生から馬鹿にされ、集めた切り抜きを泣きながら捨ててしまう(そして、すぐそのことを後悔する)エピソードが出てきますが、このことからブラッドベリが子どもだった1930年代にはすでにヒーローもののコミックスに熱狂することを「子どもっぽい」とする見方があったことがわかるでしょう。

アメリカ社会においてコミックスは、幼少期をノスタルジックに想起させるアイテムであると同時に、長くその未成熟さ、通俗性を嘲笑される性格を持った文化カテゴリでした。しかし、コミックストリップが掲載されている新聞はもちろん、コミックブックも40年代の時点では大衆向けの通俗的な読み物ではあっても、児童向けのメディアだったわけではありません。
戦地の軍人にも送られていたその内容には成人男性向けの艶笑ひとコママンガ(カートゥーン)を集めたメンズマガジン的なものも含まれており[46]、じつは「コミックブックが子どものためのものである」という捉え方は、むしろ第二次世界大戦終結後のコミックブックバッシングの時期に広まったものだと考えられます。

 

コミックスバッシングの影響

メディアとしてのコミックスと児童文化や教育の問題を関連付けて考えていた最初期の人物のひとりが、最初のコミックブックである『ファニーズ・オンパレード』の企画者のひとりであり、のちに共同出版者であったオール・アメリカン・コミックスのキャラクタープロパティをナショナル・アライド・パブリケーションに売却して独立し、戦後のホラーコミックスブームを主導することになるECコミックス(EC Comics)[47]を設立したM.C.ゲインズ[48]でした[49]。ゲインズ自身は子どもというよりは生涯教育のようなものを想定していたようなのですが、1942年に彼が急逝してしまうと、その跡を継いだ息子のウィリアム・ゲインズ[50]はより刺激の強い描写を売りにしたホラーやクライムといった娯楽作品中心へとECコミックスの出版方針を転換します。

そして、この新しい出版方針とその成功が戦後の暴力的でグロテスクな描写を売りにしたコミックブックの流行を生み、それが当時の不安定な社会状況と結びついて教育者や司書、PTAなどによるコミックブックバッシングにつながっていきました。この攻撃の理論的根拠となったのが、コミックブックというメディアの児童への悪影響を説いた精神科医フレデリック・ワーサム[51]の著作『無垢への誘惑(Seduction of the Innocent)』(1954)[52]です。
ワーサムは同書において、コミックスのグロテスクな描写やキャラクターの描かれ方が青少年の健全な心理的発達を阻害し、それが少年非行の原因になっているのだと主張していました。この書籍の出版を契機として、1954年にアメリカ合衆国上院でコミックブックの少年非行に対する影響についての公聴会がおこなわれ、テレビ中継もおこなわれたこの委員会からの指導を受け入れるかたちで、コミックブック業界は悪名高い自主規制コード「コミックスコード(comics code)」[53]を導入することになります。
この一連の「コミックブックの教育的悪影響」に関する議論が、現在まで続く「コミックブックは子どものためのものである」という考え方を産み出した直接的な要因だと考えるべきでしょう。

つまり、戦時中のコミックブックは啓蒙的な意図を持った出版人によって教育と結びつけられはしましたが、それは全体の中のごく一部でしかなく、実際には年齢や対象を絞らない通俗的な娯楽読み物が幅広く出版されていました。むしろ第二次世界戦後、残酷描写や暴力表現などの教育面での悪影響が指摘され、社会的なバッシングを受けたことによって急速にコミックスやコミックブック全体が「子ども」と結びつけられ、自主規制コードが導入された結果、コミックブック業界側もこのメディアの性質を「児童向け」であると再定義したのだと考えられるのです。

その意味では、60年代以降のコミックブックやスーパーヒーローコミックスの作り手と受け手が、ともにこのメディア、ジャンルがアートや文化であることを主張し「大人も楽しめるコミックス」のようなモデルを目指すかたちで発展していったこと、ようやく21世紀になって名実ともにそれが実現したことは、じつはかなり皮肉なことなのかもしれません。

 

[1] Michael Chabon, “The Amazing Adventures of Kavalier & Clay”, 2000, Random House, 訳書は『カヴァリエ&クレイの驚くべき冒険』, 菊地よしみ訳, 2001, 早川書房
[2] “But as far as the inspiration for this book, it was reading about Joe Shuster and Jerry Siegel, the creators of Superman, and how they sold the rights to the character to DC Comics for けど$100.00.”, “Interview with Michael Chabon”, https://failbetter.com/01/Chabon.htm
[3] 皮肉なことにこの130ドルの小切手は2012年にオークションに出品され、16万ドルで落札されたことがニュースになっている。Barbara Goldberg, “Check that bought Superman rights for $130 sells for $160,000”, https://www.reuters.com/article/entertainment-us-usa-superman/check-that-bought-superman-rights-for-130-sells-for-160000-idUSBRE83G02F20120417/
[4] Michael Chabon, “The Mystery of Pittsburgh”, 1988, William Morrow and Company, 訳書は宮本美智子訳, 『ピッツバーグの秘密の夏』, 1989, 早川書房
[5] Daniel Mendelsohn, “Comics Opera”, “The New York”, 2000, Vox Media, https://nymag.com/nymetro/arts/books/reviews/3808/
[6] Michael Chabon編, “McSweeney’s Mammoth Treasury of Thrilling Tales”, 2003, Knopf Doubleday Publishing Group
[7] Michael Chabon, “The Yiddish Policemen’s Union”, 2007, HarperCollins, 邦訳は黒原 敏行訳, 『ユダヤ警官同盟』, 2009, 新潮社
[8] Dark Horse Comics 1986年に設立されたアメリカのコミックブック出版社。映画等のキャラクターフランチャイズのコミックスが出版タイトルとしては多い。
[9] “The Amazing Adventures of Kavalier & Clay”劇中で刊行されていたコミックブック掲載の作品を模したMichael Chabonの脚本を、多彩な作家が描いたアンソロジーシリーズ“Michael Chabon Presents the Amazing Adventures of the Escapist”が2004年に刊行。
[10] Chris Ware, 1994年から大胆で実験的なグラフィックデザインを駆使したオリジナルコミックスシリーズ、“Acme Novelty Library”(Fantagraphics)を開始。このシリーズで連載した自伝的なエピソードを再編集した“Jimmy Corrigan, the Smartest Kid on Earth”(Pantheon Books)を2000年に刊行するとアイスナー、ハーヴェイの二大コミック賞の他、ベストアメリカンブックアワードなど、アートや文学的にも高い評価を受ける
[11] Alison Bechdel, コミックストリップ“Dykes to Watch Out For”の著者として知られ、80年代から自身のレズビアンとしてのライフスタイルを表現していた。父親との関係を軸に自身の性自認の問題を描いた2006年に発表した“Fun Home: A Family Tragicomic” , Houghton Mifflin,(訳書は椎名ゆかり訳, 『ファン・ホーム ある家族の悲喜劇』,2011, 小学館集英社プロダクション)でコミックス界を超えた高い評価を得る
[12] Graohic Novel 単行本などの出版フォーマットを意味する用法もあるが、ここではアメリカにおけるコミックスのジャンルとして「文学的なコミックス作品」程度の意味。
[13] Art Spiegelman アメリカのコミックス作家、編集者、イラストレーター。1960年代にunderground Comixムーブメントの中でコミックス作家としての活動を開始。1980年からアート志向の強い実験的なコミックスアンソロジ“RAW”の刊行をはじめ、同誌に一部先行連載した自伝的な作品“Maus: A Survivor’s Tale”を1991年に刊行し1992年に同作でコミックスとしてははじめてピュリッツァー賞を受賞。1992年から2001年まで雑誌“New Yorker”(Advance Publications)のイラストレーター、アートディレクターをつとめる。
[14] Art Spiegelman, “Maus: A Survivor’s Tale”, 1991, Pantheon Books, 直近の邦訳は小野耕世訳, 『完全版 マウス――アウシュヴィッツを生きのびた父親の物語』, 2020, パンローリング株式会社
[15] Chris Ware, “Jimmy Corrigan, the Smartest Kid on Earth”, 2000, Pantheon Books, 訳書は山下奏平, 中沢俊介, 伯井真紀訳, 『JIMMY CORRIGAN日本語版』全三巻, 2007~2010, PRESSPOP GALLERY
[16] Jeff Lemire, カナダ出身のコミックス作家。2003年からコミックブック出版を開始、2005年にアマチュアへのコミックス出版支援を目的としたXeric基金の援助を受ける。2009年からDC ComicsのVertigoレーベルから刊行した “Sweet Tooth” は2020年にNetflixでドラマ化。現在はDC、マーベル等でスーパーヒーローコミックスの脚本も担当している
[17] Jeff Lemire, “Essex Country”, 2009, Top Shelf Production
[18] Jonathan Lethem, アメリカの作家、デビュー時からSF、ファンタジー、ミステリ等の要素を取り入れた作風で注目される。2003年に発表した“The Fortress of Solitude”(Doubleday, 訳書は佐々田雅子訳, 『孤独の要塞』, 2008, 早川書房)はスーパーマンの設定を比喩的に盛り込んだ自伝的な作品である他、コミックス脚本も手掛けている
[19] この点について、2013年に刊行されたスーパーヒーロー研究の入門書的なアンソロジー“The Superhero Reader”(Charles Hatfield, Jeet Heer, Kent Worcester編, University Press of Mississippi)のイントロダクションで編者たちはアカデミックなコミックス研究においてもスーパーヒーローコミックスが疎外されてきた経緯を自省的に振り返っている。
[20] たとえば森田直子, 『「ストーリー漫画の父」テプフェール 笑いと物語を運ぶメディアの原点』, 2019, 萌書房
[21] Jamie Coville, “See you in the Funny Pages..”, “TheComicBooks.com – History of Comics”, http://www.thecomicbooks.com/old/Platinum.html
[22] Andrew Farago, “A tradition returns: San Francisco Examiner launches Comix Showcase”, “San Francisco Examiner”, 2023, https://www.sfexaminer.com/culture/a-tradition-returns-san-francisco-examiner-launches-comix-showcase/article_c62baac2-4404-11ed-b3c6-33d858ffa5e8.html
[23] Jimmy Swinnerton, アメリカのコミックアーティスト。このキャラクターの発見もあってか、近年再評価が進んでおり、評伝や作品を集めた“Jimmy! The Comic Art of James Swinnerton”(Peter Maresca, Michael Tisserand編, 2025, Fantagraphics)が出版された。
[24] Richard F. Outcault, “Hogan’s Alley”, 1895, New York World
[25] Rudolph Dirks, “The Katzenjammer Kids”, 1897, King Features Syndicate
[26] Frederick Burr Opper, “Happy Hooligan”, 1900, King Features Syndicate
[27] Winsor McCay, “Little Nemo in Slumberland”,1905, New York Herald, 訳書は小野耕世訳『夢の国のリトル・ニモ』, 1976, パルコ出版局他
[28] Thierry Groensteen, “Systeme De La BandeSysteme De La Bande Dessinee”, 1999, Presses Universitaires De France, 訳書は野田謙介訳, 『マンガのシステム コマはなぜ物語になるのか』, 2009, 青土社
[29] David Kunzle, “The Early Comic Strip: Narrative Strips and Picture Stories in the European Broadsheet from c.1450 to 1825”, 1973, University of California Press, Bill Blackbeard, Martin Williams編, “The Smithsonian Collection of Newspaper Comics”, 1977, Smithsonian Institution Press
[30] Richard F. Outcault, “Buster Brown”, 1902, New York Herald
[31] Edgar Rice Burroughsが1912年から発表し始めた冒険小説シリーズを原作とした作品。初代作画担当者はHal Foster。
[32] Philip Francis Nowlanが1929年に開始したSF冒険モノの作品。
[33] Frank Munsey, アメリカの出版者。取次ぎを通さない自主流通の導入や広告収入の重視によって雑誌の小売り価格を下げることで、Pulp Magazine出版において成功を収めた
[34] Russel Nye, “The Unemarrassed Muse: Popular Arts in America”, 1970, Dial Press, 訳書は亀井俊介, 平田純, 吉田和夫訳, 『アメリカ大衆芸術物語』全三巻, 1979, 研究社出版
[35] Paul Lopes, “Demanding Respect: The Evolution of the American Comic Book”, 2009, Temple University Press
[36] 1911年から1921年までに未公開作品を含め10本のアニメーションを制作している
[37] Disney Bro’s Cartoon Studioが1923年、Fleischer Studioが1929年、Warner Bros. Cartoonsの前身であるHarman-Ising Productionsが1929年にそれぞれ設立
[38] 1919年の“Feline Follies”にはじまる、アニメーション映画のシリーズ、その主役キャラクターの名称。日本オリジナルも含め、テレビシリーズも何度も制作されている。コミックストリップ版は1927年からKing Feature Syndicateで配信
[39] Pat Sullivan, オーストラリア出身のアニメーター、プロデューサー。Otto Messmerとともにフェリックスを創作した
[40] 1940年から1960年までDell Comicsから刊行されていたコミックブック
[41] Carl Barks, 主にドナルドダック関係のコミックスの作者として知られる1942年までWalt Disney Studioでアニメーターとして働き、以降はコミックアーティスト専業になる
[42] Mike Benton, “The Comic Book in America: An Illustrated History”, 1989, Taylor Publishing
[43] Robert Reiner, “Stand By Me”, 1986, Columbia Pictures
[44] Steven Spielberg, “Catch Me If You Can”, 2002, DreamWorks Pictures
[45] Sam Weller, “The Bradbury Chronicles: The Life of Ray Bradbury”, 2005, Harper Collins, 翻訳は中村融訳, 『ブラッドベリ年代記』, 2011, 河出書房新社
[46] パブリックドメイン化したコミックブックは現在ウェブサイト「Digital Comic Museum」(https://digitalcomicmuseum.com/)で広範なタイトルがアーカイブ化されているため、同サイト上で当時のさまざまなタイトルの内容を確認できる。
[47] EC Comics 1944年にM. C. Gainesが設立したコミックブック出版社。コミックスコード導入後の1956年にすべてのコミックブックの刊行を停止した。
[48] Maxwell Charles Gaines アメリカのコミックス出版者、編集者。1894年生れ。1933年に最初のコミックブックである“Funnies on Parade”を編集し、現在のコミックブックの出版フォーマットの原型を作り上げた。1944年にEC Comicsを設立するが、1947年にボート事故で亡くなった。
[49] Gerard Jones, “Men of Tomorrow”, 2004, Basic Books
[50] William Gaines アメリカのコミックブック出版者。Max Gainesの長男。1922年生れ。父の死後、EC Comicsの経営を引き継ぐ。1954年の上院少年非行対策小委員会に召喚され喚問を受けた。1992年没。
[51] Fredric Wertham アメリカの精神科医。1895年生まれ。第二次世界大戦後のコミックブック悪影響論の主導者だが、のちの著作ではファンダム研究の方向に転換している。1981年没。
[52] Fredric Wertham, “Seduction of the Innocent”, 1954, Rinehart & Company
[53] Comics Code 1954年の公聴会の結果を受け、コミックス業界は自主規制団体「The Comics Code Authority」を設立。基準となる自主規制コードを制定した。1980年代以降、徐々に有名無実化し、2011年にこのコードを使用する出版者はなくなった。