東京国立近代美術館の「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展(2025年7月15日–10月26日)には次のような文言が掲示されていた。
153点の戦争記録画は、大阪万博に日本中が湧いていた1970年4月に、東京国立近代美術館に運び込まれました。以後数年に及ぶ修復作業に移るも、公開をめぐっては様々な議論がありました。作品の芸術性をめぐる評価や、画家とその遺族への配慮、そして、絵画に描かれた当事者、すなわち交戦国および戦地となった国や地域の人々への配慮などが論点となりました。とりわけ1970年代の日本は国際情勢の変化の中で過去の戦争に向き合うことを余儀なくされます。日中国交回復を実現した他、ヨーロッパ、アジアの反日感情に直面したことなどが契機となりました。そのとき、これらの戦時のプロパガンダであった美術はどう扱うべきなのか。東京国立近代美術館は大規模展示ではなく、所蔵品展において歴史の流れの中で少しずつ戦争画を公開することを選択しました。[1]
同美術館は1977年3月、展示公開日の直前になって急遽「戦争記録画の一般公開を見送り」、7月に「常設展にて戦争記録画8点を公開」する[2]。この是非や経緯はいまは措く。戦争画をどう見せるべきかという議論を日本がしている頃、韓国では「戦争記録画(전쟁 기록화)」がまさに制作され、美術館で展示されていた。韓国軍はベトナム戦争に参加しており、画家たちが従軍していたのである。「戦時」と「戦後」はこのようにして同時に出現する。

キム・ギチャン(김기창)《敵影(적영)》 1972年
出典:イ・ソンレ(이성례) 、ヤン・ソンハ(양선하)「千鏡子のベトナム戦争記録画(천경자의 베트남 전쟁 기록화)」『美術史論壇』第29号、2009年、p. 88
《敵影》は韓国国防部が収蔵・展示していたが、1979年のクーデター時に被弾し損傷している。作者のキム・ギチャン(1913–2001)は、ろう者の画家であり、太平洋戦争下においては日本軍の戦争画も手がけている。彼はふたつの戦争で戦争画を描いた、ということになる。
Tokyo Art Beatにて、2022年から2024年にかけて「イザナギと呼ばれた時代の美術」という連載を行っていた[3]。「イザナギ」とはイザナギ景気のことで、1960年代の華やかなる日本戦後美術を底支えしてきた高度成長ならびに、朝鮮半島やベトナムを「戦時」とすることで日本の「戦後」が成立していることを、今一度考えたくて名づけたものだった[4]。
ベトナム戦争から「日本戦後美術」を再検討することを企図した連載は、なかばムキになって、個人的に、やっていたところがある。インディペンデントキュレーターとして、自分が依って立つものが何かを、自分の言葉で説明できるようになりたかったのである。博物館法に職務が明記された学芸員・学芸員補とは異なり、フリーランスのキュレーターはいわば名乗ればいつでも誰でもなれるものである(だからもっと増えればいいと思っている)。自分はインディペンデントキュレーターであることを、その無根拠さや偏りも含めて存分に楽しんでいるつもりではあるが(それはつまり、その都度、鑑賞者、作家、作品、展示のかたちを考え直しながら動くということだ)、そうするなかで意外と居心地が悪いのが「美術史」と呼ばれる存在であった。展覧会(や作品)は美術史を意識して「文脈化」しなければならない(あるいはそのようなものとは無縁に自由に表現していい)といった話がしたいわけではない。意識するにせよ放っておくにせよ、自分はこのように見ていると、自分の言葉で話せるようになりたいのである。このように語ることで見えるものがあるだろうし、このように語ることで見えなくなってしまうものがあるだろう。その負荷と醍醐味(「責任」とは言わない)を自分に基づかせたいのである。勝手にやりたいし、勝手にやれると言いたい。とはいえ、文章には多くの先行者による研究や証言が編み込まれ、それによってかろうじて歩みを続けられる、そのような連載である。このように心を打たれ、このように歩みを進めた、というセーブポイントの履歴である。なんて効率が悪いことを、と思う人もいるかもしれないが(じっさい恐ろしく効率は悪いのだが)、そのぶん体重は乗っているだろう。

『北海道=ヴェトナム詩集Ⅱ』北海道=ヴェトナム詩集刊行会編、ベトナムに平和を!札幌市民連合、1968年
2025年8月、札幌で展覧会を共同キュレーションする機会があり、その準備中に手に入れた本。
さて、唐突に奇妙な告白をするが、自分は最近、作品に触れたり、文章を読んだり、また話を聞いたりといった経験、そして、自分が書き、展示をし、誰かに何かを話す経験に対して、「食べており、食べられている」という感触をもつようになった(村田沙耶香が「私の食べた本」という言い方をしていると知ったときは心が躍った)。どんなキュレーターだ、と訝しがられるかもしれないが、そのような実感を手放さずに、文章へと送り返したいと思う。今年(2025年)は5つの展覧会に関わったが、展覧会をやるのは(そしてそれに振り回されるのは)やはり、とても楽しい。そして文章を書くのは──頭の中に朧げにある塊同士の噛み跡をつなぐのは──喜ばしくも厳しいものがある。そして時々誤解されるのだが、展覧会をすることと、この連載を続けることは、互いにまったく異なる実践領域に属している(この連載でやっているようには、自分は展覧会をやってない)。少なくとも自分の実感においてはそうであり、それがどういうことなのかについても、連載のなかで書くことができればと思う。今回はTokyo Art Beatのときよりは更新頻度を上げたい。幾つかの線をそれぞれに延ばしていく、一見バラバラなものが代わるがわるスイッチする連載になるだろう。食べており、食べられている。韓国軍の従軍画家たちに戻ろう。

チョン・キョンジャ(천경자)《花と兵士と砲声(꽃과 병사와 포성)》 1972年
撮影:筆者(チョン・キョンジャ生誕100周年記念「激動の時代、女性の生活と芸術(전경자 탄생 100주년 기념 격동의 시대, 여성의 삶과 예술)」展、ソウル市立美術館、2024年)

チョン・キョンジャ(천경자)《目標(목적)》 1972年
出典:イ・ソンレ(이성례)、ヤン・ソンハ(양선하)「千鏡子のベトナム戦争記録画(천경자의 베트남 전쟁 기록화)」『美術史論壇』第29号、2009年、p. 84
1970年が「ベトナム戦争」期であったという視点から考えるならば、異なる「戦争画」が姿をあらわす。ベトナムに従軍した韓国の作家のなかに、チョン・キョンジャ(千鏡子、1924–2015)がいる[5]。「戦前」──太平洋戦争のことだ──、東京女子美術専門学校(現・女子美術大学)に「留学」[6]した経歴をもつキョンジャは、1972年6月にベトナムを訪れている。現地では、ヘリに乗って戦闘の前線に赴いたり、暑いなかわざわざ防弾チョッキを着用してポーズをとる兵士たちや、鮮やかな花をスケッチしたりするなど、かなり積極的に、かつ前向きに、活動をしていたようである[7]。国立現代美術館での「越南戦記録展示会」は同年12月の開催であったため、従軍画家たちは帰国後すぐさま制作にとりかからなければならないタイトなスケジュールであった。そのような制作条件下においても、キョンジャは現地のスケッチ群を元手に自身のフィルターを通して取材先のジャングルを描き楽しんだようで、画面には他の従軍画家たちには見られない物語的世界が構築されている。
当時、従軍画家たちには最低でも2枚の絵画制作が要請されており、彼女が発表したのは《花と兵士と砲声》や《目標》であった[8]。たしかに、狭義の「戦争画」のなかでは、印象に残る絵ではある。しかし自分は、もっと奇妙な絵を、釜山市立美術館で観たことがあった[9]。今回はそちらのほうに舵を切りたい。チェ・ジョンテ(1932–1978)による「木箱」の絵である。

チェ・ジョンテ 최종태《沈黙の対話 침묵의 대화》1970年
撮影:筆者(「BMA Collection from Historically Created Relations: Everything Affects Each Other」、釜山市立美術館、2022–2023年)
韓国は1965年から1973年にかけて、30万人以上の兵士をベトナムへと送りこんだ[10]。殺害した民間人は8000–9000人におよぶと推定され、韓国軍兵士の死者も5000人を超えた[11]。戦地から帰還できた者たちは、軍需物資が詰められていた木箱を再利用して、故郷に送る荷物を梱包した。ジョンテが描いたのは、この箱──釜山港に到着した「帰国ボックス(귀국박스)」であり、この絵もまた掛け値なしに「戦争画」であった。
帰国できた兵士たちには「帰国ボックス」なるものが与えられ、そのなかに入っていたアメリカ製や日本製のテレビやカメラ、扇風機などの家電製品は、そのまま彼らの家庭に備え付けられたり、あるいは転売されて経済的利益を得ることも多々あった。[12]

国立中央博物館で展示されている、1969年に使用された「帰国ボックス」。 撮影:筆者

ベトナムでの帰国ボックスと韓国軍兵士たち。
出典:https://vietnamwarstory.tistory.com/241
ベトナムへは、キョンジャも所属した首都機械化歩兵師団 、通称「猛虎部隊」に加え、第9歩兵師団「白馬部隊」、第2海兵旅団「青龍部隊」が派遣されていた[13]。ジョンテの帰国ボックスには「白馬部隊」のマークがはっきりと描かれている[14]。おそらくは、(日本製の)電化製品がぎっしりと収納されているはずである。緩衝材として、レーションが入っていた段ボールを詰めることもあったようだ。ただ、そうした一種の「戦利品」[15]を描いているにしては、ジョンテの絵はいかにも不穏である。同じ1970年に沖縄の岸本一夫(1935–)が描いた「PACKAGE TO OKINAWA」のシリーズが、死者や兵器の「輸送」を示唆していながら、くっきりとした影ができるほどに明るい光を浴びて描かれているのと鮮やかな好対照をなしている[16]。
「岸本一夫 オキナワデザイン」アーティストトーク(聞き手:大城さゆり)35’26’’ 参照。
なお同展は、岸本のデザインの構想ドローイングの全貌に肉薄すべく毎月展示替えするという恐るべき気概をもった展覧会であった。
ジョンテも、岸本も、本来見ることのできないはずの箱の「中身」と「来歴(物流)」を強く示唆することで、広義の「戦争画」へと侵犯する。1970年、ベトナムはいうまでもなく、韓国も、沖縄も、「戦時」であった。では「日本」は「戦後」だったのかと問われれば、自らの生存が国家によって脅かされる非常体制下──「戦時」を生き抜くほかなかった人たちがいる。1965年の日韓基本条約締結後も、国籍や永住権を棚上げにされつづけた人々がそうである。ベトナム戦争を期にコンテナボックスを単位としたロジスティクス空間が急速に実体化し[17]、また「一九六〇年代前後から一九七〇年代半ばにかけて〔日本国内における〕武器生産の基礎部分が形成され」[18]、兵士、武器、物資がこれほどまでに滑らかに往来をしてみせるなかで、移動を封じられた人々がいる。

自分は宮崎繁樹『出入国管理──現代の「鎖国」』(三省堂新書、1970年)において、にわかには信じがたい文言が引かれている箇所に出くわし、その出典をあたった。法務省入国管理局の検事(のちに検事正まで出世している)が、1965年に「日韓協定に基づく永住権を取れなかった者や取らなかった者の処遇はどうなるのか?」という質問に対して、次のように回答している。

池上努『法的地位200の質問』京文社、1965年、p. 167
「煮て食おうと焼いて食おうと自由」
本当にそう書いているのである。入管の責任者によって、人間を煮て食い、焼いて食う自由が公然と表明されているのである。これを比喩だと片付けることはできない。昨今「新しい戦前」という言い方がまことしやかに嘯かれる。そのようにして焚き付けてどうしたいのだろうかと思う。1965年は戦時であった。1970年は戦時であった。ずっと戦時であった。ある人々にとっては、安全に移動できず、安心して眠りにつくことのできない時代が続いている。逆に言えば、それでもなお、人々は移動してきたのであり、眠り目覚めたのであり、つまるところ生き延びてきたのであり、笑い、泣き、つくり、疲弊しながらも淡々としのいできたのである[19]。それをこそ自由と呼びたいし、実際に行使されてきた自由を炉の火として、この連載を開始したい。
(続く)
註
[1]「コレクションを中心とした特集 記録をひらく 記憶をつむぐ」展会場内に掲示された年表より。
[2]同上。なお、しばしば誤解されるがあくまで「一般公開」であり「一括公開」ではないことに注意されたい。
[3]担当いただいた福島さん、永田さんには大変お世話になりました。改めて感謝申し上げます。
[4]「東アジアの「戦後」とは、戦場(朝鮮半島や後のベトナム)、占領地(沖縄)、経済成長拠点(日本)という地政学的な分断を制度化したものとしてあったのです。〔…〕高度経済成長の「豊かさ」〔…〕を享受しえた日本本土では、一般的には植民地の存在は忘却され、異なる「戦後」を歩む国境の向こう側への想像力は後退していったと考えられます。」(大野光明「第一〇章 一九七二年、沖縄返還 終わらなかった「戦後」」西川長夫・大野光明・番匠健一編著『戦後史再考──「歴史の裂け目」をとらえる』平凡社、2014年、pp. 203–204)
[5]チョン・キョンジャについては、エレノア・ハートニー(Eleanor Heartney)によるモノグラフが近く出版予定である。
[6]ただし、「留学」は主権国家間の対等な移動(国境の横断)を前提にした言葉であるため、植民地から「内地」に就学に来ることを指すのに適切な言葉ではない。その移動はたんに「渡日」と見なされてしまう。
[7]イ・ソンレ(이성례) 、ヤン・ソンハ(양선하)「千鏡子のベトナム戦争記録画(천경자의 베트남 전쟁 기록화)」『美術史論壇』第29号、2009年、p. 86
[8]キョンジャは、当時の女性としては珍しく40代後半であった1969年からの28年間に12回も海外旅行をしており、ベトナムもまた、彼女にとっては戦地であると同時に異国情緒あふれる「旅先」であった(韓惠軫、内藤幸江「韓国女性画家千鏡子(チョン・キョンジャ)の業績について」『女子美術大学研究紀要』第47号、2017年、p. 132)。1972年には『南太平洋へ行く:スケッチ世界旅行(남태평양에 가다 스케치 세계여행)』と題した紀行文も刊行している。
[9]「BMA Collection from Historically Created Relations: Everything Affects Each Other」(釜山市立美術館、2022–2023年)https://art.busan.go.kr/tblTsite07Display/viewNowClientEng.nm?id=20220709134621833
[10]韓国軍の加害についてはコ・ギョンテ『ベトナム戦争と韓国、そして1968』(平井一臣・ 姜信一・木村貴・ 山田良介訳、人文書院、2021年)を参照。日韓基本条約と韓国軍の派兵については先の連載でも触れている。「【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #4:日本アニメの形成期にみる「戦時」。制作背景をベトナム戦争から読み直す(文:長谷川新)」 https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/izanagi-to-yobareta-jidai-no-art-04-202303
[11]Hoang Do, “The Forgotten History of South Korean Massacres in Vietnam”, The Diplomat, 2020, https://thediplomat.com/2020/05/the-forgotten-history-of-south-korean-massacres-in-vietnam/
[12]渡辺直紀「六八革命と東アジア──思想・言説連環の冷戦的文脈」『東アジア冷戦文化の系譜学──一九四五年を跨境して』越智博美・齊藤一・橋本恭子・吉原ゆかり・渡辺直紀編、筑波大学出版、2024年、pp. 450–451
[13]ベトナムでの韓国軍の様子については以下で写真が閲覧できる。 http://vietvet.co.kr/
[14]백마の文字は「白馬」であり、Bとあるのは下士官用の帰国ボックスであることを示している(持ち主の階級は「軍曹(병장)」だと記載されている)。なお、Aは大型で将校用であった。帰国ボックスの種類については以下も参照。https://www.geojenews.co.kr/news/articleView.html?idxno=81408
[15]日本においても、ベトナムとの勾配を利用して利潤を得ようとするという従軍者がいた点は変わらないことを付記しておく。
「横浜と佐世保で〔ベトナムを往復する米軍のLST(Landing Ship Tank=戦車揚陸艦)従事者を〕三百八十人を公募したときも、自衛官、大学浪人、失業者など三倍近くの希望者がワンサと詰めかけた。四万円から二十四万円という“高給”が魅力なのだろう。また手回り品類が事務長のサイン一つで自由に持ち出しできるのも魅力の一つらしい。「トランジスタラジオをごっそり持って行って三倍くらいの値で売り、宝石、金塊なんかを買って帰って荒稼ぎする悪質な船員も相当いる」(元乗り組み員の話)といった“ご利益”があるようだ。」 ( 『この日本列島ーー在日米軍・自衛隊・ベトナム戦争』共同通信社会部編、現代書房、1968年、p. 204)
[16] 以下も参照。「ベトナムー沖縄ーアメリカを結んだコンテナと段ボール【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #9 最終回(文:長谷川新) 」https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/izanagi-to-yobareta-jidai-no-art-09-202410
[17]ベトナムで軍事物資を下ろし切って空になったコンテナ船は、神戸や横浜で日本製の電化製品を積めるだけ積み込み、アメリカに戻っていった。「かくして、米国西海岸 – 那覇 – カムラン湾 – 横浜・神戸 – 西海岸を結ぶ循環の回路が生み出され」た。往路で軍事物資を運び、復路では電化製品を運ぶ。ここでは、軍事と商取引は分離しえず、「戦争と平和は、ひとつの箱の、別々の側面でしかない」。(北川眞也『アンチ・ジオポリティクス 資本と国家に抗う移動の地理学』青土社、2023年、pp. 267–268)
[18]纐纈厚『戦後日本の武器移転史 1945〜2024』緑風出版、2024年、p. 38
[19]西南戦争(西郷戦争)のさなかに生まれた「老百姓」から「状況に対する何食わぬ身構えと、ひそかな優越」を感じ取った石牟礼道子は、彼ら「下層農民達」のなかでは、権力の側こそが取るに足りないものとされ、「自在に陽を当てられたりかげらされたり」していることを書き留めている。
「体制の思想を丸ごと抱えこみ、厚く大きな鉄鍋を野天にかけ、ゆっくりとこれを煮溶し続けている文盲の、下層農民達の思想がある。そこに宿って繋り拡がる史劇の原野がある。一たび疎外の極にとじこめられた者が、次々に縄抜けの技を秘得してゆくように、状況に対する何食わぬ身構えと、ひそかな優越が、歴史に対する生得的な体験としての弁証法を創り出す。「想うてさえおれば、孫子の代へ代へときっと成る」とほほ笑む時、彼は、人間の全き存在、全き欲求のためしか発言しないというやさしさに、変化しているようにも見える。だから彼の手の内で物語化される何れの権力も、自在に陽を当てられたりかげらされたりするのだろう。」(石牟礼道子『西南役伝説』講談社文芸文庫、2018年、p.17)
著者・長谷川新さんが以下のイベントにて講師をつとめます。
公開研究会「怪傑トパンガ」を読む──ベトナム戦争と絵本作家たち
会場:立命館大学国際平和ミュージアム1階 エントランスホール
日時:2025年12月8日(月)16:30~18:00
参加費無料(事前予約不要)
https://rwp-museum.jp/event/20251208_01/
