京都を拠点に活動する美術作家・批評家の池田剛介さんによる、20世紀の絵画の「描線(ドローイング)」をテーマにした連載です。作品に描かれた「動き」や「身振り」としての線に注目することで、「これまで見えていなかった作品の姿」を明らかにします。第十三回は引き続き、東京国立近代美術館の「記録をひらく 記憶をつむぐ」展で展示されていた桂ゆきについてです。
超現実的リアリズム
東京国立近代美術館のコレクション展示室で桂ゆきによる奉祝美術展(1940)の出品作が展示されているのと同時期に、企画展示室の方では、戦後80年の節目に、同美術館の所蔵する戦争画を中核とした展示「記録をひらく 記憶をつむぐ」が開催された。所蔵と書いたが、正確にはこれら戦争を描いた絵画は、終戦後GHQによって接収され、1970年から現在に至るまで美術館に「無期限貸与」されているものである。
戦時下において前衛的な作品はしばしば取り締まりの対象となり、奉祝美術展の開催された翌年には、日本のシュルレアリスムを牽引する福沢一郎と瀧口修造が、その運動と共産主義との関係を疑われ拘束された。この41年から太平洋戦争にかけ、召集を受け従軍する画家が相次ぎ、数多くの戦争画(作戦記録画)が描かれることとなる。
ここで展示されている作品のほとんどが、旧来的な歴史画の様式を踏襲しており、大画面で戦争の様子を力強く、英雄主義的に描くことで国威発揚に資するべく制作されたものだ(図1)。その中に、明らかに他の作品とは一線を画する二点の絵画が展示されており、その制作に桂ゆきも共同制作者の一員として参加している。

図1 田村孝之介《佐野部隊長還らざる大野挺身隊と訣別す》1944年、撮影筆者
太平洋戦時中、陸軍情報部の指導のもとに展覧会などの活動を行う陸軍美術協会が結成され、数々の展覧会が組織された。これに関連して、長谷川春子を中心として女性による「女流美術家奉公隊」が結成され、陸軍報道部の指導のもと、戦争に関連する展示が開催されている。女性美術家の組織化を通じて展覧会をはじめとする活動が行われていくなかで、奉公隊のメンバー共同による絵画《大東亜戦皇国婦女皆働之図》の制作が行われ、戦時下の1944年の陸軍美術展に出品された[1](図2, 3)。

図2 女流美術家奉公隊《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》1944年

図3 女流美術家奉公隊《大東亜戦皇国婦女皆働之図 秋冬の部》1944年
陸軍美術協会から支給されたおおよそ縦横2×3mという巨大なキャンバスに、女性画家の合作によって女性による銃後の労働が描かれている。この作品の下絵の作成を長谷川春子から依頼された桂は、一度は拒否しながらも、ある方法を提案する。
下絵なんてとてもそんなもの描けないって言ったら、日本国のために労をおしむのか、などと言われて、ふと一策を思いついた。当時の新聞、雑誌、グラフ等には、働く銃後の女性をテーマにした、「戦争時に働く農村夫人」、「女性消防団」、「女子学生旋盤工」、「女子踏切番」その他さまざまな仕事をしている女性の写真がよく載っていたので、その写真をただ切り取って、大きな紙にベタベタ全部貼りつけたら、たちまち絵ができちゃったんです。コラージュですよ。[2]
雑誌などから切り抜いた様々な労働の場面を貼り合わせることによって、単一の大画面が小さく分割された下書きをもとに、20名を超える画家が共同制作で描きこんでいく。桂が数年前にコルクを通じて取り組んだコラージュに基づく絵画の、予想だにしない形での再来である。
結果として、個別の場面は写真を忠実に再現するリアリズムに基づきながらも、三次元的な空間が複数並存することによる、ほとんど超現実的な空間が現れることになる。その奇妙さは、とりわけ複数の場面の接合部に見られる。「春夏の部」の画面中央で旋盤を動かす工場には、飛行機とそれを整備する女性が闖入し、その女性の足元を掠めるように、画面中央奥から手前へと列をなして行進が行われる(図4)。「秋冬の部」では、画面中央上部で靖国神社で神酒を手にする従軍看護婦の姿が大きく描かれ、右下には戦闘機の翼に羽布を縫製する戦時労働が見られる。この戦闘機の翼を足場にするかのように金属を打ちつける鍛冶労働が描かれ、あたかも翼を屋根にするかのように理髪店が営まれている(図5)。

図4 《大東亜戦皇国婦女皆働之図 春夏の部》部分、撮影筆者

図5 《大東亜戦皇国婦女皆働之図 秋冬の部》部分、撮影筆者
時局を反映したリアリズム的な主題と表現が、コラージュ(ないしフォトモンタージュ)による超現実的な空間性としてパッチワークされていく、その相反する性質の不可能な同居を可能にしたのは、桂による下書きの力に他ならないだろう。
この共同制作に関わることになった桂だが、数年前には《賀象》という敬虔と猥雑、すなわち聖的なものと俗的なものとが手を結んだかのような謎めいた作品を手がけた画家が、一体どのようなスタンスで奉公隊の活動に参加していたのだろうか。戦時から時間をおいての回想であるとはいえ、次の発言は、奉公隊への関わりが、ある種の矛盾を孕むものであったことを感じさせる。
長谷川春子から奉公隊への参加を請われた桂は、「私はそういうことには生来怠け者なので(…)軍隊慰問や軍需工場の手伝いとかさかんにはじめられた時も、一度も行かなかった」という。だが、女性が絵を描くための油絵具の油を調達すべく軍部に働きかけるよう長谷川に詰め寄られた桂は、「私、嫌だ、嫌だ、と逃げたんです。でも結局、あなたのためでなくみんなのためだと強く言われると、そうなのかと思って談判しに行ったら、予想よりも多く二樽かしら、心よく判コ押させたの(笑)。それでみんなで、各自の配給粉を出し合って、甘みのないドーナツを揚げた」[3]とのことである。
時局に対して消極的に、あくまでも「怠け者」としての態度を示す一方で、しかし詰め寄られれば強く拒否するわけでもなく談判に行く。そうして女性が絵を描くためという大義のもと軍部から首尾よく調達したはずの油は、いつの間にかドーナツという中心を欠いた円形の食物の調理に用いられている。ここにもまた、ひとつの軸による正円的な姿勢とは異なる「敬虔と猥雑」、そして「信じながら疑い、疑いながら信ずること」とが入り混じるスタンスが見られるだろう[4]。
回転する寓話
戦後まもなく桂ゆきは岡本太郎に誘われ、前衛芸術の研究会「夜の会」に参加し、そこで花田清輝とも知り合うこととなる。この頃から桂は児童向けの書籍の装丁や挿画も手掛けながら、48年には「さるかに合戦」に着想を得た制作をしている(図6)。

図6 桂ゆき《さるかに合戦》1948年
狡猾な猿が蟹を騙し、殺された蟹の子供から仕返しを受けるという単純な因果応報を表すこの寓話に対して、桂の翻案は、蟹による報復を過度に誇張することによって、寓話に別のニュアンスを与えている。(先の《賀象》でも見られた)紺色の絣のパターンが丹念に描き込まれた服をまとう猿の背中が踏みつけられ、猿の「被害」にこそシンパシーを置いているかのようでもある。猿の頭部には右上から光が差し込む一方で、その光線によってできた影が、猿の上で足を踏み締める臼の「笑顔」の不気味さを浮き彫りにしてもいる。
本作の描かれた数年後、花田は「寓話について」という原題をもつテクストのなかで、イソップ寓話を取り上げている。古代ギリシャの奴隷アイソーポスに由来するとされるこの寓話は、いまや「説教や教訓」によって支配階級との妥協を図る処世術的な表現となっており、こうした「奴隷の言葉」と訣別するところから戦後の新しい文学をはじめるべきだと主張する。
寓話による教訓譚への批判を通じて「奴隷の言葉」からの離脱を語る一方で、思想家・林達夫によるテクスト「反語的精神」に言及しながら、花田は次のようにいう。「林達夫は(…)戦争中、警官の前で、戦争絶対反対! と叫んでその場で検挙されてしまうような英雄主義は、私の好みではない、といっているが、まさしくそういう英雄主義は、表現の苦労を回避する怠惰のあらわれ以外のなにものでもないのだ。(…)「奴隷の言葉」がいけないとなると、さっそく、きわめて形式的な「歯にきぬをきせぬ言葉」を採用する、なまけもののむれが、たくさんいる」[5]と。
新しい文学には「奴隷の言葉」からの離脱が求められる一方で、しかし「歯にきぬをきせぬ言葉」を振りかざす英雄主義とも異なる表現が必要であるという。そこで手掛かりになるのは、あることを語りながら別のことを意味する「反語」という方法である。[6]
あらためて桂の《さるかに合戦》を見てみると、作品はその寓話的な教訓に対して明確な反旗を翻しているのではないことがわかるだろう。つまり「逆張り」的に猿が蟹に勝利するというわけではなく、あくまでも蟹が猿に仕返しを果たすという寓話の筋に則っている。だが同時に、そこにある描写や陰影、つまりは表現の比重を変化させることで、この「説教や教訓」に満ちた寓話を、逆転したニュアンスへと転調させてもいるのである。
通俗的な道徳に基づく教訓譚をそのまま肯定するのではなく、しかしそれを真っ向から否定するのでもない、あることを言いながら別の意味を語ること。こうした反語的寓話というべき作品に取り組んだ桂は、そのさらなる延長上で、より時事的、社会的な出来事を作品の俎上に挙げている。
《抵抗》を見てみよう(図7)。眼光鋭く大きなはさみを露わにする蟹の存在は、《さるかに合戦》との関連を思わせるものでもあり、同様の戯画的な表現を汲んでいる。画面を大きく占めるのは、笑っているかのような顔と、その人物の髪の毛を引っ張る蟹。人物の両手は鳥の足を握りしめている。両手の先の鳥の羽には、本作の描かれた1952年の破壊活動防止法の成立を伝える新聞記事が覗いている。

図7 桂ゆき《抵抗》1952年
一体ここでは何が何に「抵抗」しているのだろうか。破防法の成立を起点に考えるのであれば、その飛散に「抵抗」するために両手を握りしめる人物が、その抵抗を阻止すべく攻撃を加えることにもまた「抵抗」する、そうした鳥に象徴される権力と、それに近い場所にいる蟹から与えられる二重の苦境への抵抗と考えることができるだろう。
だがこうした読み解きが可能であるとして、先の作品の「臼」の表情と通じていなくもない「笑顔」の表現を、一体どのように考えるべきなのだろうか。両腕を権力への抵抗に用いるなか無防備に攻撃を受けている状況において、この「笑顔」はこの上なく謎めいて感じられるだろう。そもそも人物の太い腕に対して、細密描写による鳥の足は、ぽきりと折れてしまいそうな危うさを湛えており、必ずしも強権的なものを象徴する表現とはそぐわないようにも感じられる。《さるかに合戦》の場合と同様に、笑顔の人物は、そのか細い足の鳥に対して過剰な攻撃を行い、鳥はそれに「抵抗」しているかのようでもある。
ところで桂ゆきのアトリエでの写真家による撮影が行われた際に、本作品が一度ならず時計回りに90度回転した縦向きで置かれていたこと、そしてその状態で見た場合、人物の表情が大きく異なる印象を与えることが指摘されている(図8, 9)。「《抵抗》が回転した場合に最も変化を被るはずの画面右下の女性の顔に着目してみると、横向けのときには少し驚いたようにも、あるいは右側に口を寄せて笑っているようにも見えるわけだが、縦型にすると、まるで片足蟹に髪を引っ張られ叫んでいるような表情を見せる」[7]。

図8 1955年ごろ アトリエにて。撮影は平田実。桂の背後に、縦方向に置かれた作品が見えている

図9 《抵抗》を時計回りに90度回転
横向けの場合には「笑顔」であるようにも見えた顔が、縦向きの状態では、長い髪が引っ張られることにより頭部が引きちぎれんばかりに回転しながら人物が叫び声を上げているかのようであり、その「被害」性はより明確なものとなる。苦痛のなかで上方に伸ばされた両腕の表現が、より痛切さをもって感じられ、人物の身振りは、その二重苦に抗する「英雄主義」的なものとも感じられるだろう。その意味で、縦向きの状態では、むしろストレートな仕方での「抵抗」の表現として受け取ることが可能である。
にもかかわらず本作には横構図を示すサインが記されており、キャンバスの回転を行うことによって、蟹に攻撃を受けながらの表情の矛盾は最大限に高められている。そこに英雄主義的な身振りを文字通り回転させることによって、「泣きながら笑い、笑いながら泣く」かのような、反語的な「抵抗」が現れている。同心円による両目の上に加えられた左右で縦横の方向の異なる楕円は、この作品の変転可能性こそを示すかのようでもある(図10)。

図10 《抵抗》部分
人物の周囲に張り巡らされた襞状の白い物体は、こうした作品の矛盾するニュアンスをさらに強めることになるだろう。写実的に描き込まれることによって人物のマンガのような記号的表現を際立たせると同時に、内部と外部がシームレスにつながる襞の表情は、「抵抗」の位置の不確定性こそを浮き彫りにする。こうして加害と被害、抑圧と抵抗といった固定的な位置づけが撹乱されながら、「抵抗」の主体のありかは、複数の焦点のはざまで揺らぎ続けることになるのである。
楕円の軌道
戦前のコラージュ的な表現から始まり、戦後にはマンガのような記号的な表現を交えながら寓話や社会的題材を扱うようになる桂だが、その後も作品は、さらなる変転を遂げていくことになる。
終戦から約10年を経た1956年から61年まで、40代にしてフランス・アフリカ・アメリカと海外に長期滞在し、このときのアフリカおよびアメリカでの経験を書き下ろした『女ひとり原始部落に入る』はベストセラーとなり、毎日出版文化賞を受賞した。長い海外滞在からの帰国後には、渡航前まで長く取り組んでいた戯画的な表現とは真逆ともいえる、どこか「敬虔」的とも感じられる抽象的な作品を発表する。当時のアメリカを席巻していた抽象表現主義を桂なりに受け止めながら、マーク・ロスコをも思わせる重たい色調の、純粋抽象であるかのような画面が現れている(図11)。

図11 桂ゆき《千本足》1962年
かのような、というのはキャンバスの上の色面のように見える帯は、絵具で描かれているのみならず、そこには和紙が貼り付けられているからである。和紙の皺のテクスチュアを生かしたその画面には、戦後アメリカの抽象絵画にみられる純粋な視覚性とは異なる、かつてのグチャグチャとした紙クズに通じる、猥雑さや物体性が残されてもいる。さらにその緑色の色面の周辺では、突起物が多く生え出しており、一見したところの大きな抽象的な色面は、害虫とみなされる千本足(ヤスデ)の巨大な体でもある。抽象でありながら抽象ではない、そうした反語的な逸脱がそこにはある。
コラージュから始まり、シュルレアリスムやマンガ的表現へと旋回し、抽象をも横断しながら本の執筆まで行う。幾つもの焦点をもちながら非直線的な軌道を描く桂の道行は、60代の半ばを迎えた1979年の個展において、自身の探究の出発点にあったコラージュへと立ち戻ることになる(図12)。

図12 桂ゆき《作品》1978–79年
初期に手がけた作品を想起させるコルクによるコラージュだが、新たに取り組まれたそれは、大きな平面の集積によって戦後アメリカの抽象絵画を思わせるものでもあり、コルクを手でちぎり取ったような表情は、かつて描いた立ち上がる紙屑や「染み」、さらには女学生時代のモノクロ写真の再構成にまで通じているだろう。コルクそのものでありながら、同時にコルクでないものでもある、そうした多重性をもつ反語的コラージュである。
45年の時を隔てて再び取り組むこととなったコルクの作品について、桂は次のようにいう。
今ならコルクもたやすく手に入るし、落語にあるように、蕎麦通が一度たっぷりとつゆをひたして蕎麦を食べたかった、というのに似ているかもしれない、などと自己を揶揄したりする。そしてまた、これは断固そんな低徊趣味ではなく、戦後、多くの人々による価値ある、新しいこころみが、たんに私を素通りしたのではないことの証しなのだといって、自分に対してすごんだりしている。[8]
戦前とは異なり、今では容易く手に入る素材をふんだんに用いて制作を行うことに対して、そのある種の通俗性を自己諧謔しつつ、もう一方では他の人々に先駆けてコラージュに取り組んでいた自身の試みを誇ってもいる。「敬虔と猥雑」とが重なり合う視線は、自身の制作にまで向けられているのである。決してどちらか一方へと収斂することのない二つの焦点こそが、融通無碍に多様な試みを横断していく桂の制作の底流に走っている。
*
戦前、《賀象》によって聖と俗とが入り混じる表現に取り組むことになる、そのさらに数年前、桂は自身の子供時代を思わせる文章を、およそ童話のような手つきで記している。
「これですか、クヤピツハ草の洋種ですよ」もうだいぶ以前のある陽春の午前、人の好さげな男がリアカアに草花の苗をつんで賣りに來ました。うす紅などの小さい芽が如何にも水々しいので私はほしくてたまらず、中でも一際大きな根株に紫めいた三角形の不思議な芽を所々につけたのを指さして名前をたづねた時その男はさう申しました。[9]
ある日、人の良さそうな男が草花の苗をリアカーに乗せて販売していた。そのなかでも一際珍しげな苗に興味をもって話しかけると、それは「クヤピツハ草」であるという。その珍妙な名前に惹かれ、母にねだって5株購入してもらう。季節は巡って初夏になり、花が咲くと、それはよく見慣れたギボウシの花であった。「クヤピツハソウ」を反対から読んで、「はたと手をうった」という。
珍しいものだと思って手に入れた苗が、季節を隔てて実は平凡な植物であったことが発覚する。騙されていたわけだが、しかし伝えられた名の前後を反転させて読めば、男が正直であったことにも、また気づかされる。表面的な教訓譚とは似て非なる、なんとも滋味深いエピソード=寓話だ。
聖と俗、真と偽とを切り分けることのない、その二つの焦点にこそ関心を寄せていた桂ゆき。この桂自身の寓話は、「醒めながら眠り、眠りながら醒め、泣きながら笑い、笑いながら泣き、信じながら疑い、疑いながら信ずる」姿勢をもちつづけた画家の、その後の長きにわたる楕円形の道行を指し示すかのようである。
【注】
[1] 女流美術家奉公隊による本作の制作については次を参照。吉良智子『女性画家たちの戦争』平凡社、2015年。
[2] インタビュー「桂ゆきの40年——コラージュと諷刺的表現の間で」『みづゑ』893号、1979年、48–49頁。
[3] 前掲インタビュー、48頁。
[4] 時局に全面的に乗っていく存在の極として藤田嗣治がおり、もう一方の極には明確な反戦的表明を行った松本竣介がいる。桂は30年代半ばごろからアヴァンガルド洋画研究所を通じて藤田と知己があり、また同時期に松本竣介が主宰する雑誌に挿画を寄稿している。38年に国家総動員法が施行され戦時体制が強化される以前の交流とはいえ、こうした二つの極となる存在との接点があったことは興味深い。
[5] 花田清輝『アヴァンギャルド芸術』講談社学芸文庫、1994年、79頁。
[6] 花田の反語的方法への関心については次を参照。佐藤泉『一九五〇年代、批評の政治学』中央公論新社、2018年、166–169頁。また、64年に花田自身が桂の作品について書いた文章の中では、桂の描いたトラが、本物それ自体というよりもトラのオモチャを描いているかのようであり、であるからこそトラの正体を描けている、とする逆説的な解釈を記している。『美術手帖』238号、美術出版社、1964年7月、68–69頁。
[7] 関直子「桂ゆき——ある寓話」『生誕百年 桂ゆき——ある寓話』東京都現代美術館他、2013年、11–13頁。
[8] 『美術手帖』451号、美術出版社、1979年7月、10–11頁。
[9] 前傾書『桂ゆき ある寓話』、296頁。
【図版出典】
02, 03:『戦争と美術 1937–1945』針生一郎他編、国書刊行会、2007年
06, 08,11,12:『桂ゆき——ある寓話』図録、東京都現代美術館他、2013年
07, 09, 10:ToMuKo – Tokyo Museum Collection
https://museumcollection.tokyo/works/6382735/
