『Playback』を世界に発信した最初の場であるロカルノ国際映画祭にて、最高賞となる金豹賞を受賞した三宅唱監督最新作『旅と日々』には、いたるところに「驚き」が潜在している。しかしそれらは、奇想天外な出来事がもたらすショックだとか、巧妙に張り巡らされた伏線の衝撃といった作為の消費に付随するものではなく、ある任意の時間と空間の中で何かを発見すること、それ自体を出来事として創造せしめるようなものとして、観客を待ち受けているだろう。2018年頃から継続されてきた勉強会の成果の最初のひとつとして、『演出をさがして 映画の勉強会』を刊行したばかりの三浦哲哉、濱口竜介、そして三宅唱による、『旅の日々』についての鼎談をお送りする。
(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)
■照応(=correspondence)の映画
三浦哲哉:いきなり質問なんですけど、ファーストカット、ビル群が映っているスタンダード・サイズの画面、そのビルの一つが改装中で青い網がかかってるじゃないですか。あの青は最初から狙って撮ったんですか? なぜこれを聞くかというと、画面の中のあの「青一点」、妙に気になるわけですけど、あとからじつは記号というか予兆のようなものだったことに気づきます。つまり、後編のべん造さんの家の中にぽつんと吊られている干物用の網の「青一点」が出てきたとき、あ!となる。「青一点」同士だ、と。こういう造形のおもしろさに充ち満ちた映画ですよね。これはほんの一例だけど、あるショットの中のある形や色や身ぶりが、別のかけ離れたショットの中の形や色や身ぶりと照らし合わされて、観客をはっと驚かせる。こういう「照応」(=corresnpondence)がつぎつぎと起こる。だからこの映画は本当に何度も見たくなるし、見返すたびに気付くことがあり、そのことでより一層映画がより豊かになっていく。僕はそんなふうにして心底楽しみ、また感動しました。見れば見るほど面白くなってゆく、するめみたいな作品だなと(笑)。
これはまた追い追い話題にしたいですが、この「照応」が、つげ義春の世界を映画化するためのものすごく有効な手段になっていると思った。「いま」が単なる「いま」ではない。「いま」が別の「いま」に絶えず侵食されている気配にぞくぞくと背筋が寒くなったり、あるいは逆に、「いま」が別の「いま」に向けて開放されていて胸が踊ったりする。直線的な因果連鎖を超えた、できごとの不思議に震撼させられる。つくづくすごい作品だなと思っています。一体どうやって発想されたのか、ということをじっくりお聞きしたいわけですが、まずは手始めに、あの青い網について。撮影時にどれぐらい映画全体の構成のことを意識していたんですか?
三宅唱:あの青い網、というよりもあの光景自体が撮影中に偶然出会ったものでした。準備としては、冒頭は東京の実景から始めようと思い、つげ義春さんが描いた東京のいろんな「コマ」を集めて制作部と検討し、線路脇、寂しい川辺、高架下などに目星をつけて探しました。それで、ちょうどいま新宿駅が工事している、あれはどうかな、と。東から西が、西から東が見えるのは今の時期だけなのであれこれ角度を変えて撮ったんですが、たいして面白くなかった。でも粘って、新宿のとあるホテル、あの上からの景色が見てみたいと制作部に交渉してもらいまして。後日上がってみたらあの光景が前にあって、「あ、これだ」となりました。
濱口竜介:扁平な、変なショットよね。ズームで奥行きが潰れちゃった、みたいな。狙ってこれを撮るってのはどういうことなんだろうと思ってた。やはり偶然も手伝って。
三宅:緩やかな坂にビルが建っていて、多くの面がこちらをまっすぐに向いていたのが「うわ」というインパクトになったんじゃないかな。それに、ほぼ順光で影がない。『ケイコ 目を澄ませて』(2022)と『夜明けのすべて』(2024)が冬の午後の斜光が多かったので、今回はスッキリとした快晴の光が物語にハマるんじゃないかと思っていたんですが、それも運よく、あの時間帯の光の角度だったからこそ立ち会えた。撮影の月永雄太さんと話して、空を切ったフレームにしたところ、そういうことがより際立つように感じました。編集の時には、人や車、鳥などの動きが極力ない時間を選びました。
濱口:街を魅力的に撮ろうとかみたいなこととはぜんぜん違うベクトルですよね。この作品にふさわしい、旅に出る起点としての東京を、視覚的に発見した、ということかな。
三宅:そうですね、過去2作が、いま住んでる街を撮るぞっていう目線だとすれば、今回は「旅先」としての東京って感じ。旅は少なくとも3つあって、「島編」「雪山編」に加えて「東京編」、番外編で「教授の旅立ち」もあるんですが。今振り返ると、出張先のホテルで窓開けた時に「へえー」ってとりとめもなく眺めてしまう、あの感じに似てるのかもですね。どの建物が何なのかわからないから、全部が等しく重要かつ無意味。なにも言葉と結びつかない感じ。カメラをもう少し上に向けると中野サンプラザや遠くの山が見えて、それだと意味に回収されちゃう感じがあった。ともあれ、あの青いブルーシートはたまたまあったものです。
三浦:なるほど、たしかに平板さによってとても印象に残るショットですよね。ビル群が幾何学的なマス目のようにもなっていて。ただその時点では、この青を使うことについて、チェスのような巧みな計算をするみたいなことは……。
三宅:いやあ、ないですね。「照応」と聞いて、実はすぐにはぴんとこなかったんです。実作業として、これまでより1カットずつ慎重に撮るテンションではありましたが、事前に綿密に設計したということはなくて。強いて言うなら、オリヴェイラの「深い両義性を帯びた記号たち」という言葉は漠然と、当初から念頭にはあってあれこれ考えてはいたので、それが関係しているのかしら……。
三浦:そうでしたか。オリヴェイラが言う「記号=シーニュ」というのは謎めいた何かで、つまり、最初から意味が定まったシンボルとかではまったくなくて、ただそこに自足的に存在しているもののことですよね。でも同時に、別の見えていていない何かを指し示してもいる。だから計算しえないもののことなんでしょうかね……。聞いてみないとわからないもので。
■夏と冬の間で
濱口:最初に見たとき、まあ完璧に近い映画だなと思いました。この世にこういうものがあるってどういうことなんだろう、そしてこんなものを撮って、あなたは次どうするんですか?って気持ちになりました。そこで最初の質問は、同じく色に関連したもので、すごくシンプルな質問ですが、なぜ河合優実さんが持っているのは黒い傘なんですか?
三宅:お、楽しい質問。シンプルに答えると、マンガのとおりです。
濱口:(笑)。なるほどね。というのは、泳いでいる2人の画と、シム・ウンギョンさんが映画を見ている場面がつながるところ、時空を越えちゃう同軸繋ぎなんだけど、これこそが同軸ヒキってことやろみたいな場面ですが、ウンギョンさんの背景は上映中で黒く落ちている。一方で河合さんは黒い傘をさして沖を泳いでいる男(髙田万作)を見ていた。そうすると、その背景の黒が海辺と上映会場をつなげてしまう。サイズも視線の方向性も相まって、あの河合さんとシム・ウンギョンさんの画が、それこそ「照応」をし始めるわけです。二つの異なる物語をこの「照応」を通じてバトンを渡す。どこまで狙ってやっているのか。編集しながら気づくものなのか。傘の選び方って難しくて、ビニール傘と柄物の傘とか、そういう選択肢もあるわけですよね。若い女性が持つものとして、黒い傘ってすごく珍しい。これが原作通りだとしても、ここ以外で原作通りにやってないことだってあるわけですから、そこには何かの確信があるような気がしている。
三宅:まず設定としては、河合さんは宿のビニール傘を借りてやってきて、雨風で折れてしまったと。一人で待っている時の髙田くんの脇に黒い傘があって、それを使ってますね。
現場で月永さんと話したのは、河合さんの背景が傘の黒地だけになるようにフレーミングしたい、と。抜けに木々が見えたりするんじゃなく、完全に黒。その判断は直感的なもので、上映中との繋ぎはこの時点では考えようともしていない。
で、冬編でウンギョンさんの上映中の姿を撮る時に、目線の向きをどっちにするかの選択が具体的に迫られ、その場で初めて「まあ、河合さんと同じ方向にしてみますか」と月永さんと決定しました。で、映画内映画と教室の編集点は、編集の大川景子さんと探っていく中で「これとこれが並ぶと面白いんだね」と。
濱口:……マジで? まさかこれが次第に編み出されていったことだとは。
三宅:うん。今回、夏の撮影と冬の撮影のあいだもずっとこの映画のことを考えていて、ものすごく長い制作期間だった感覚で、しばらくしんどくもあったんですよね。冬を撮るまで夏のカットは全て判断保留状態で。
濱口:なので、ああいうものを撮ったなということを記憶に持ちながら冬編の準備ができた、と。
三宅:はい。濱口さんが『ハッピーアワー』(2015)の際には、週末に撮影して、平日に考えて、それを次の撮影に生かしていくという流れがあったと思うんですが、撮影期間の序盤と終盤では見えているものも自分たち自身も少しずつ変わっていくような経験だったのではないかと思うんですよ。『旅と日々』でわかりやすく変わったのは、夏編の撮影時点で主人公はまだマンガ家の設定だった。そこに確信がないまま夏の撮影に入って、途中で、やっぱり脚本家に変更させてもらおう、と。
濱口:なるほど。映画を作る人にすると、それはそれで危険な賭けでもあるよね。
三宅:ええ、躊躇はありました。夏の初日の最初に撮ったのが、夏編の冒頭のカットなんですが、あれを撮っている最中に「あ、これは脚本家の話になるべきだな」と感じて、周りに相談し始めました。
■何を見たい人なのか、何を見逃している人なのか
濱口:夏編の実質のファーストカット、河合さんが後部座席で寝ているところがフロントガラス越しで撮られている。そして助手席のシートは倒されている、なぜならギターを置いているから……ってそんなことあるか!というのは置いておきますが(笑)。ここでのフロントガラスには雲の動きが映っていて、奥のバックガラスの先には海が映っている。そこで彼氏向けのショットが一回入って、彼氏が乗り込んでくると、こんなに晴れた日なのにワイパーをかけ始めて、そこで初めてフロントガラスに鳥のフンみたいなものがついていることに気づく。どうやって構想したらこんなショットが思いつくのか。そしてこのショットが強度を持つことへの確信も、どこから湧いて来るのか。
実際、あのフロントガラスの雲の流れって「こんなふうに流れるもの?」って思った。煙でも炊いてんのかなって。フロントガラスの雲、河合さん、そして奥の海っていう縦軸の三層構造がないと強度としては成立しないと思うんですよね。そこでもし雲の流れが偶然なのだとしたら運がよすぎるっていう話だと思うんだけれども、これは最初から脚本上でも夏編のファーストショットにしようとしたものなのか、それとも何がしかの偶然性を伴って撮れたものなのか。
三宅:まず、鳥のフンはシナリオに書いてるんです。「外の世界より手前のウンチが気になる」という冒頭で。その状況を一発で表現できそうなあのカメラポジションとフレームは事前に思いついていたので、ロケハン中に「うん、いけるな」と確認しました。ただ、ツッコミいただいた通り、助手席を倒さないと後ろで寝てる人が映らないや、と(笑)。ま、起き上がれば顔も見えてくるからそれでもよかったんですが、なぜか柴田貴哉くんがギターを持参してきたから、じゃ使ってみるか、と。ちなみに彼が演じたあの男性は恋人じゃなくて、たまたま宿で一緒だった男、という設定です。
濱口:構想できたこと自体がすごいと思うけど、それをロケハンで確信できた、と。しかし、河合さんが一人で来てるっていうのは本当にそうなんだ。彼が彼氏で、河合さんは嘘ついてるのかなと思った。
三宅:なんかね、嘘はつかないけど誤解はされる人がよく出てくるんですよね、自分が脚本を書くと……。あ、思い出した、撮ったけど使わなかったカットがありますね。後部座席で寝ている河合さんの脚を車の横側の窓ガラス越しに撮った。ただ、のちのちに教授が「官能的」と自然環境や生死の捉え方に関して発言するから、脚から始まるのは違うと思って使わなかった。ただ、教授も何がセクシーかは明言しないからその発言の真意は誤解される、という作りなんだけど……。それはさておき、雲の流れはロケハン時にも見えていて、当日も雲があればいいねって言っていたら、あった。
濱口:フロントガラスの雲は、ふつうは早回しでもしないと、あんなに早く動かない。でも奥に河合さんがいるから、早回しではありえない。いったいどういうことって思ってた。そこまで準備し、予見できていたからこそ、単に最後のワンピースとしての「雲の流れ」がハマってくるか来ないのか、それを待てたということなのかしら。
三宅:ラッキーなんだけど、確率的にどうなんだろう。島ですし、風を常に感じやすい地形なので、都心とはまた違います。
三浦:この夏編のファーストショット、2回目に見たときにこれを強く思ったんだけど、一つの画面の中にレイヤーがこんなにあるショットって、異常ですよね。濱口さんが指摘されたとおり、縦構図の中に三重のレイヤーがある。細かく分けるならば五重かも。背景の一番奥では海面が波打って輝いていて、その手前には陸があって、車があって、フロントガラスがあって、そこに反映する雲がどんどん流れている。本作の主人公を演じる河合優実が置かれているのは、その真中。つまり『旅と日々』はそういう多重レイヤーの間にいる人を見る作品であるということを最初に示すショットで、観客をそういうふうに感じ取るようチューニングさせてくれている。非常に鮮やかな導入だと思いました。で、その後もずっと、魅惑的な縦構図の画面がつづきます。手前と奥にそれこそ無際限に伸びていくみたいな感覚。繰り返されるトンネルもそうだし、ありとあらゆるところがそうなっている。
三宅:なるほど、たしかに。撮影前にどう考えていたか思い返すと、「奥行きを撮ろう」という形では考えていなかったです。いろんな要素が画面の内にも外にも溢れていて観客は圧倒される、でも登場人物は全然見ていない、そんな冒頭になればと考えていました。背景としては、ここ数年何度か『イタリア旅行』(1954)を真剣に見直す機会があって、「ユリイカ」の幸田文特集でもそれについて書いてるんですが、人が旅で何を見るのか、その過程でどんな変化を経験するのかを考えていたんです。旅行者は、最初からすべてが見えているわけではない。『イタリア旅行』だと、最初あの夫婦は景色なんか全然見ていなくて、その代わりに窓ガラスにぶつかった虫の血の跡にイライラしている。そこから前半は早歩きで全然周囲を見ないし、後半はゆっくり歩くんだけど目に見えないものを感じようとする映画で、だから漫然と見ちゃうと全部すり抜けていくんですが、その作りを追っていくと終盤の風景の定着ぶりに本当に圧倒される。それで、『旅と日々』の登場人物たちはそもそも何を見たい人なのか、そのせいで何を見逃している人なのか、そして何に驚き、何に心奪われるのか、やがて何に慄くのか、ということを考えて、「鳥のフン」とか、海じゃなくて崖崩れ、といった具体になっていきました。
■縦構図とロケーション

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濱口:三浦さんが言われたように、基本的には縦構図の映画なわけですよね。先ほどの風景の横移動や、資料館みたいなところにはパンがあるんだけど。
三宅:ええ。波打ち際や山道を歩く2人でパンで撮ったのもありましたけど、編集で落としました。
濱口:結果として、人物の動きをフォローするパンはあるけど、基本的にはカメラを一点に据えて、そこにある背景とともに人物を捉える。入江みたいなところでは、画面の斜めに走るような崖というか、山みたいなものが奥にあって、話している河合さんと髙田さんがいるっていう構図があったと思うんだけれども、やっぱりこういう背景もまた事前に見つけてないと確信が持てないと思うんだよね。海とか山って、普通に撮ったらすごくべったりとしたものにしかならないし、海と山を陸からの視点で同時に捉えるって、実はけっこう難しい。船の上から撮るなら簡単だけど、陸ならそのポジションはやっぱりあらかじめ見つけておく必要がある。山の斜めのラインが背景に走ってくるような浜辺を、つまりカメラポジションとして見つけておく必要がある。それがロケハンの成果なのかもしれないけど、今回は神津島で撮ってますよね。それはなぜだったのか。たまたまここで全部見つかっちゃったということなのか、それとも別の島という可能性もあったのか。
三宅:ロケハンでは周辺の島をいくつか回って、神津島を選んだ決め手は、河合さんが通り抜けるあのトンネルとあの崖崩れのある浜、あと島全体の雰囲気ですね。詳しくは以前に「文藝春秋」のエッセイに書いているんですが、映画で撮ったあれこれの雰囲気をまさに撮りたいと思いました。それに、端から端に行くにも確か40分ぐらいで移動できるので、自分の体で土地を把握できる感じもした。
三浦:コンパクトな島ですが、郷土資料館もある、つまり歴史もある。過去のレイヤーです。
三宅:はい。前半は原作の<ボーイ・ミーツ・ガール>の語りではなく、河合さんの道程をオリジナルで描く構成なので、その部分に神津島で見つけた一部が活きています。
濱口:でも今回はそれに先立つシナリオも当然あるわけだよね。それにはまるような場所をロケハンで見つけるという順番だと思うんだけど、これはやっぱり実際に場所を見つけた後でなければ難しかろうなというシーンもいくつかある。ひとつは「浮気ってしたことある?」って会話のところ。大画面で見させてもらうと、やっぱりあの木のざわめきが、あたかも獣の体表を風が撫ぜているかのよう。そしてもうひとつ、夕日が落ちていく中で2人が長い話をしている。そのとき、奥の方の町には明かりが点いている。風にしても、光にしても、いったい何でこんなものが映ってるんだ?と。こういうものがそもそも撮れると思っていたのか、たまたまそうなっちゃったのか。
三宅:そうそう、風が丘の草木を撫でて、目でも撫でたくなるあの感じ、絶対に撮りたかったんです。島のあちこちに「撫でポイント」はあったので、どこかにはハマるなと思っていました。後はおっしゃる通り、原作の風景描写に合致しそうな岩場や浜辺を選定していきました。
ロケハン前の準備稿は、とにかく原作研究がベースになっています。快晴のビーチから始まって、ページをめくっていくとだんだん天候が悪くなり、陽も沈んでいく。単なる背景ではなく、取り返しのつかない物語そのものとして描かれていると受け止めていました。あの天気や地形の描写があるから、他愛ない男女の出会いに妙な凄みがある。この男女は、多くの人が晴れた空の下で幸せを感じているときにはそういうものを感じられず、誰もが室内に閉じ込められているような天気の海の中で、ようやく生き生きとできる。状況と個人の心情が多くの他の人とは矛盾している、そういう話だと思っていたので、天気と地形を場面毎にどう組み合わせられるかがロケハンの課題でした。
で、あの日没の長い会話のショットですが、発想の由来は原作のコマです。人物が黒でベタ塗りのシルエットとして描かれているコマがいくつかあって、吹き出しと背景に目がいく。コマからコマへ、日暮の時間経過も感じるんですよね。これって映画ではどう表現できるんだろう、というよりも、つげさんはどんな風景を目にしてマンガ表現として落とし込んだんだろう、と想像しました。それに、旅行先だとつい夕暮れをぼうっと眺めたりしますよね。普段生活しているときって気づいたら夜だよなあ、とかぼんやりするあの感じ。マンガになる前のいわば<原風景>がああいう時間なのかなと。
三浦:数分なのに、本当に暗さが一気に変わりますよね。
三宅:5テイク撮って、テイク5を使いました。
濱口:ほとんど姿見えなくなってくるくらいの遅い時間だってことだね。
三宅:そうです。日の暮れる時間にロケハンして、村落の灯りがついていく様も目にしていました。ただ、夕暮れ時の岬って360度面白いので迷いはしましたね。サンセットの瞬間も見たくなるし、東側の空の暗がりも悪くないし、どこに向けても成立する。それで、最初は芝居も歩いてみたり座ったり、空間を自由に使う方向で試したんですけど、うまくいかなかった。しかも、それに応じてカットを割りすぎるとせっかくの光も台無しになる。だからもうここは賭けようと。微妙に親密だけどハグするにはちょっと遠いような距離だけ厳密に作って、「暗いと、耳だけで相手を探りますよね」という話をしてリハしてみたら、お、いいぞ、と。



写真提供゠三宅唱
濱口:段取りはどこでやっているの?
三宅:それは撮影前日などに、外の駐車場とか宿の広間で。
濱口:実際の背景の場ではなく。
三宅:はい。
濱口:これは単純な興味として聞くんですけど、実際に段取りもその場に行ってやるってことも、この島のサイズだと可能そうじゃないですか? そうしなかったのは、ある種の新鮮さを保つということなんですかね。
三宅:観光スポットだから遠慮したのと、ちょっとめんどくさいタイミングだった気がする。島編はスタッフ数が少なくて他の準備もあったような。ただ、今回は島に2人が着いた初日に、一日で全ロケ地を一緒に巡って説明しています。実際に少しリハもして確認したり。
濱口:じゃあ駐車場とかで段取りやってるときも、実際にはこういう場所でやるんだなということを彼らは知って、イメージできてもいた。
三宅:はい、知ってますね。
■夏の海で映画を撮ること――天気と撮影

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三浦:誰しもこの映画の海の表情の多様性には驚かされたと思うんですけれど、これはいったいどうやって実現できたのか。いわゆる天気待ちって言われることもしているんですよね。
三宅:雨が実際に降ろうが、人工の雨降らしは必要なので、その準備は進めていきます。あとそもそも、晴れた日だと天気雨になっちゃってマンガと違ってしまうので、なるべく雲が重い日を狙う必要はあり、梅雨明け前の時期に撮影期間を定めています。それは俳優のスケジュールに関わるのでだいぶ前に判断してますね。その上で、助監督の松尾崇さんが日々スケを作るわけですが、週間天気予報とにらめっこして、いつでも行ける準備をしていく。
濱口:天気の話は今日のひとつの本丸だと思うんですけど、天気に対する対応って大きくは三つありますよね。一つ目は余裕のあるスケジュール、こういう天気じゃないと決めているなら、予備日を持つということですね。二つ目は、現場で即興的に対応する。思ってないような天気になってしまっても、現場で対応できる体制を作っておく。そして三つ目は人工的になんとかする。狭いフレームだったらなんとかなるという範囲で、人工的につくる。現場でなんとかすることもあるけど、VFXも含めて。そういう三つの組み合わせだと思うんですけど、結局はコントロールできないものじゃないですか。だからもし風が吹かなかったらどうするつもりだったの?っていうことになる。一方で、夜が更けていく丘の場面だと逆に風がビュンビュン吹いちゃったら撮れないわけですよね。でもこの映画では、地形はもちろん動かないとしても、天候っていうものが背景や前景に絶妙な彩(あや)を与えていく。つまり風が吹かなかったときも吹いているときも、全部ベストみたいな感じで、「それって何なん?」って、やっぱり私なんぞは思うわけですよ。これはいったいどんなアプローチをしたのか。
三宅:一つ目のスケジュールに関しては、冬季撮影により予算がかかる見込みだったので、予備日はほぼ設けられず、ヒヤヒヤでした。その上で、シーン毎に第一希望、第二希望の天候をリクエストして、それをもとに松尾さんにスケジュールを組んでもらう、と。体制に関しては、少数ユニットを選択しました。予算意識もあったけど、島にハイエース10台持ち込むとか、なんかオラオラして格好悪い気がして。ただ、小さいチームだから機動力が上がるかというと限度もあって、体力は削られましたよね。砂浜を機材持って何回往復したか……。ある程度の人数のチームに慣れてしまっていて、少人数はデメリットもありました。島の方々のサポートがなかったら成立していないものがかなりある。浜にお風呂作ってくれたり、本当に色々と。
三浦:真上からほとんど垂直に見下ろす超俯瞰のショットが、この映画では繰り返されるじゃないですか。ものすごく機能している特筆すべきものだと思うんですが、機材的に特殊なものではないんですか。
三宅:夏はそういう特機はないですね。島は、ロケハンしながらどういうロングショットなら実現可能かを探ってました。展望台や見晴らしがいい登山道は数多くあるので、キャメラポジションとしてアリかもしれない場所を回ってます。ちなみに、水溜まりがあったのを覚えてます? 「浮気したことある?」って言った河合さんがちょっと避けて歩くあの水溜まりは作ったんです。
濱口:それは動線を膨らますために?
三宅:発想元は、あの画面左側の海がザバーンとなって、全部の波が引かずに道に水溜まりができたら、とロケハンの時に想像したというだけなんですけどね。魚やカニが海に戻れなくてその水溜まりに取り残されていたら運悪いなあ、と。そこから妄想が広がって、この映画の登場人物たちもそんな感じの人生観かなとか、自分が生きている世界とかこの国もいずれ干上がる水溜まりの中なのかもな、とか。それで井伏鱒二を読んだりもしてたんですが、ただそういうことはさておき、重要なのはたぶん、あの山道に水があるかないかで、結構印象違うと思うんですよね。あの場所の気配のようなものが。
三浦:なるほど、干上がる前の水たまりね……。言われてみると、あとほかに、波打ち際とか、後編の雪の足跡とか、やがて消えてしまう痕跡というか自然が描く一瞬の形は頻出するモチーフで、雰囲気の基調を作っていますね。この水たまりは、河合優実が山道で、よっ、とわざわざよける動作が印象に残っています。
三宅:東京編でも水溜まりは撮って、冒頭に使う案もあったんですが、あのビルのショットが撮れちゃったから使わなかった。
三浦:これはどこかから水を運んできたの?
三宅:すぐ近く、フレーム外の数メートル先に水洗トイレがある(笑)。
天気の話に戻ると、「よーい、ハイ」から「カット」までにどんな風が吹くかは運ですけど、ただ準備してないと回せないとも経験的に思ってました。準備できることは、風の通り道のような地形や木々の傾きなどをよく見ておいて、撮影当日は可能な範囲で風待ちをして、後は自分の肌で。
濱口:やはり一番は河合さんがトンネルが入っていく前のところですけど、あそこは、じゃあそういうふうに一日で撮ったってことですか?
三宅:実際の地図通りではなく架空の道のりなので、多少離れていて、たしか同日ではないですね。カット毎に場所も撮影日も違うのに風の強さが繋がってくれたように見えるのは、まあロケ地選定もあるけど、運ですね。
濱口:運⋯⋯。いやいや。ああいう風が吹くこともロケハンの時に見ていた?
三宅:はい。ただ、河合さんの存在感やアクションが同時にあるから、あの渦巻くような突風もより見えるものになったのではないかと思うんですよね。
濱口:撮れなかったらどうするつもりだったかとは思うけれども、しかしまあ撮るつもりであったということですよね。
三宅:恐ろしいことに、ロケハン後にト書きに「風に誘われるようにして」とか「風に押されて」って書いちゃいましたからね……。河合さんもそれを受けて、資料館以降のシーンは徐々に外の世界を感じる体として、演じてくれていますね。それ以前はもっと退屈した体で、と脚本を読んでいたのではないかな。
濱口:風、そして河合さん関連でいうと、スカートの選択も大きい。
三浦:マリリン・モンローみたいにひらひらと揺れる感じで。
濱口:でもめくれあがってはいけない。その選び方、あるいは合意の作り方はどういうものだったのか。
三宅:セレクトは衣裳の立花文乃さんのセンスですね。
濱口:風の話はしている?
三宅:記憶ないなあ……。基本的には役の設定がベースで、「これこれの理由で島にきた人だから、デニムは持ってこないだろうし、ラクでありたいのでは」と。都会ではどきっとするような格好でも、夏の島旅はオープンなほうが浮かないしとか。合意に関して、マンガの女性描写に対する僕の考え、今回の映画ではどうしたいかという方針は、河合さんには衣装合わせよりも前のタイミングで話しました。衣装に関して、今思うと本当に風の可視化にふさわしい素材でしたね。あと、あのブルーのシャツが好きでした。東京の服屋とか脳内で、あの島に合うのはあのブルーだって、すごい発想だなと。
■空間と繋ぎ

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濱口:青に関して言えば、夏編のグレーディング自体が青でしょう。なんだったらちょっと寒々しいぐらいだと思うんですけど、これはどういう選択だったんですか?
三宅:水が生きている感じが大事で、最後に怖くなってほしい、というようなことを言っただけだと思います。グレーダーの高田(淳)さんと撮影の月永さん、二人が作ってくれた色ですね。自分は終盤に立ち会って、「もうちょっとこうで」と言ったカットはいくつかありますけども。
濱口:やっぱ夏って単純にギラギラさせることも可能なわけじゃないですか? もっと黄色くするとか。この島のこの物語の夏は、そうではなく、どちらかというと青だった。そこで水だけ青くすることも可能だと思うんだけど、この全体的ににじむような青みはどういう選択なんだろう。要するに対比を利かせるんだったら、冬編は本当に白いわけだから、夏編はもっと黄色く、とか暖色系にしてしまうっていう手もあると思うんだけど、どっちかっていうとある種の寒さをどちらも使って、差異を強調するよりは韻を踏むような感じがありますよね。『旅と日々』というタイトルもそうですけども。
三宅:僕もあんまりわかってなくて、月永さんたちに聞きたい。横浜聡子監督の『海辺へ行く道』(2025)も二人の仕事だったはずですけど、違うタッチの仕上がりだった。
濱口:夏なのに唇が紫になってたり、どちらかと言えば全体的に「寒さ」が韻を踏んでいる印象はある。それはでもどこか三宅唱的なのかもしれない。「夏編」で自分がちょっと驚いた繋ぎは、海岸で髙田さんと河合さんが話してる場面。ワンショットの切り返しに続いて、最初に河合さんが立ち上がってフレームアウトする、次に髙田さんがフレームアウトする流れで、じゃあ次はどの画面にどういうふうに現れるんだろうって思っていると、髙田さんがフレームインするのを方向性を保って撮るのかと思ったら、水たまりの中に魚の死骸がまずあって、そこに上方から映り込みとしてで現れるんだよね。左や右からではなくて。これは本当にちょっとハッとする。フレームの中に入ってくるけど、予想通りには入りませんよっていう入り方。このショットの発想っていうのは、どういう感覚から生まれているものなのか、
三宅:編集で作りました。撮影時点では自分の頭の中にはない繋ぎ。間に別のカットや場所がいくつかあって、それらを全部落としたんです。
濱口:じゃあ、出会ったところと後の岩場ってけっこう違う場所なんですか?
三宅:はい。どうすれば面白いかっていうのを、大川(景子)さんと試行錯誤して。この繋ぎが一番ハッとするね、と。
濱口:その答えは安心するし、勇気が出ます。これを現場で想像できる人って何なんだろうって思うんですよね。これはやっぱまさに映画だなって思う繋ぎだな、と。ちなみにこの魚も素晴らしいですよね。原作だと、ちゃんと頭がある状態なんだけど、映画では頭のない状態で明らかに死んでいる、それが一目でわかる。2人が死に惹かれるようにしてそこに入ってくる、単純に素晴らしいなと。
三浦:この一連の流れは僕もすごくはっとさせられた。立ち上がって、ショットを横断して、足音がつながっているんですかね。
三宅:足音はどうだったかな。海が近くなった分、波音ははっきり強くしているので、足音は一旦掻き消されているかも。
濱口:時間としては実は、少し飛んでいるの?
三宅:浜辺と岩場で天候と光が微妙に繋がってないので、そうですね。ほんのちょっと距離を省略した、くらいの編集点かな。
濱口:気づかなかった。あの魚は美術の布部(雅人)さんと相談して決めたんですか?
三宅:演出部と布部さんと、ですね。買った魚で工夫もしたんですが、ロケハン中に浜辺で朽ちていた魚を見つけて、それを使ってます。つげさんのマンガの死生観をあれこれ考えながら、即物的にあっけらかんと、「モノ」として撮りたいなあと考えてました。夏の魚は絶対に笑えないのに、冬のあの魚はつい笑えるのって、それこそ映画の不思議なのか、なんなのか……。
三浦:この魚もたまたま落ちていたものなんだ(笑)。でも確かに朽ち方が絶妙で、作り物感がないからこそ、深く印象に残るんでしょうね。で、その印象が冬編のいろいろな魚と照応することになる……。
この魚を発見する前のトンネルの場面についても聞きたいんだけど、出口がけっこう大きな段差になっていますよね。そこで河合さんが一瞬ジャンプしようと考えるそぶりをみせてやめるじゃないですか。どうなるのかなと思ったら、カットが変わって、もう砂地にいる。
でもこういう、一瞬一瞬の逡巡に僕ら観客がその都度ささやかなサスペンスを覚えるようになっています。これまでの勉強会でも三宅さんは登場人物が周囲の環境に対していかに繊細に反応するかっていうことに注目していて、それが記憶に残っているんですけど、この映画の河合さんはまさにそういうふうに存在するよう仕向けられていますよね。ロッセリーニ映画の中のバーグマンのように、自然のアクシデンタルな地形の中でよろめく、その「いま」に観客は同期できる。だからトンネルの出口のでかい段差の前の河合さんを見て、どうするの?飛ぶの?とはらはらして。
三宅:僕らもロケハン中に「これ、どうやって降りる?」って話になったんですよ。大きい石を運んできて降りやすくしておくことも考えたんですけど、面倒だなあって。で、スムーズには降りられないのがつげマンガっぽさじゃないか、って会話がありました。
■ツーショットを形成しえない人たち

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濱口:この映画は基本はあまり動かない会話劇なわけですね。岩場のところで、たしか最初は河合さんが上手〔画面右手〕にいて、髙田さんが下手〔画面左手〕にいる。そこで土左衛門の話をして、いったん波を撮るんですが、そこからカメラが戻ってくるとその上下(かみしも)が入れ替わった位置に入る。つまりこの場面は一気に撮っているのではなく、段取りを変えて撮っていて、これ自分だとこうやるかな?というか、普通にやったら切り返しっぽいものを撮ってしまいそうだと思った。上下(かみしも)はもちろん逆になるとしても、たとえば河合さん側から髙田さんを撮る場合には海も映らなくなる。それでなのかな、と思った。調子の付け方として、細かいけどなんかけっこう大胆だなとも。
三宅:まず、髙田さんの「物語る声」がこのシーンでは肝になりそうだなと。すごくいい声だし、その声に誘われて過去の出来事が浮かびあがってくる感じ。だからまず「1.髙田さんの背中と聞く河合さん」で始まって、途中で「2. 岩場の波のインサート」があって、「3. 聞く河合さん」にもう一度戻りたい、という画面連鎖を想定していました。そこで、3で1と同じショットに戻ることもできるんですが、会話を終えた河合さんが立ち位置を移動して遠くを見上げるという立ち位置移動に対応して別の角度からのショットが要請されて撮っていたので、3ではそれを使った、という編集ですね。ただ、撮影現場では、使わないかもしれないけどと思いながら、髙田さんの表情が映る向きのショットも撮りました。彼の姿もちゃんと見ていることも伝えたくて、撮りましたね。
濱口:なるほど。結果として、これはちょっとなかなかないな、という繋ぎに落ち着いた、と。ちなみに『ケイコ』や『夜明けのすべて』でも、同じように「どっちも撮っておきます」みたいなことってあったんですか。
三宅:『ケイコ』はないですね。フィルムをとにかく節約していたし……。『夜明けのすべて』もほぼないですね、そもそもあまりカットバックをしない映画ですから。
濱口:『旅と日々』はほんとうに編集で発見されたこともかなり多いということですね。
三宅:夏は特にそうですね。模索しながら撮っていて、その一環として、今回は「通し」でテイクを重ねてみるぞ、ということもありました。
濱口:三宅唱の映画作りとしては、その「通し」はどうだったんですか?
三宅:スタンダードサイズを選んだこととも相まって、「個」を撮っていく充実感はありましたかね。
濱口:「個」というのはワンショットっていうこと? 確かに最初の髙田さんと河合さんの切り返しは珍しいことやってるな、という気持ちになった。
三宅:なんだろうな……。『旅と日々』の人たちは別に仲良くなろうとしてない。いつ「さようなら」と別れてもいいような、容易にツーショットを形成し得ない人たちなんです。なので、まずはそれぞれをちゃんと撮ろうと。
濱口:『ケイコ』のときってヨーロピアンヴィスタだったと思うんですが、今回がスタンダードだったのはなんでなんですかね。
三宅:月永さんとロケハン中に話しながら「スタンダードですね」「ですね」と。お互い特に理由は話してなくて。まあ、クランクイン直前まで僕は悩み続けていて、ほんと整理ついてなくて、黒白にするかすら迷っていた……。マジでカラーにしてよかった(笑)。最初、カラーだと天気に負けるとビビってたの。
濱口:天気に負けるっていうのはどういうこと?
三宅:天気が希望通りにいかずに、ぐちゃぐちゃになるんじゃないかと本当に怖かった。モノクロだとマンガのルックにも近づけやすいし。話が逸れましたが、サイズの話ですよね?
濱口:縦構図を撮ろうと思ったこととも関係しているんですよね。
三浦:絶対に最初から計算してスタンダードなのかと思いますよね。だって魅惑的な縦構図の画面がつぎつぎと出てきてすごい効果をあげるんだから。
三宅:撮りながら学んでいきましたね。
濱口:横方向に注意が広がってはいけないっていう考えもあったのかなと思った。できるだけ観客の注意を不動にしておく。すると、そこから注意力自体が振動し始めるような感覚がある。
三宅:『演出をさがして 映画の勉強会』のビクトル・エリセ回のときに話した、縦構図で撮るか横構図で撮るかというときの時間感覚の違いの話は頭にありました。旅の映画、ロードムービーって右から左、あるいは左から右へ人物や風景がだらーっと動いていく映画が印象として多いんですが、そのせいで、長くなりがちなんじゃないかと(笑)。そこにトライしたような映画はもうある。でも、遠ざかりと近づきとして捉えれば、時間をつくることができるし、そうすれば短い尺でも旅の映画になるって、やりながら気づいてきました。旅の本質は驚きだという狙いにするなら、編集点がキモなんだと。
濱口:なるほど。それこそ単に横移動なら運動、縦構図なら時間、みたいな単純なことでもなく、どこで切るかで事後的に、そのショットが何か、そこに含まれる時間が何かが立ち上がってくる。具体的なショットに即してしかそれは決定されない。
三宅:うん。でも事前にそれがわかっていたわけではないので、パンで撮ったものは編集でほぼ落としてますね。
三浦:例の、急速に暗くなる夕景のツーショットの長回しも、最後にカメラが二人を少し追いますよね。前もってフィックスと決めていなかったんだ、と逆にちょっと驚いたんです。
三宅:はい、決め切ってないですね。それもCGで止められはしますけど、まあここはいいかということで。夏の他のショットではいくつか神経質に、ほんの微かな動きでもフィックスに調整し直したフレームもあるんですが。
冬編では月永さんに「フィックスで徹底したい」と伝えました。マンガと映画の違い、つまりほんのちょっと何かが動いただけで驚ける効果、というのがやっとわかって。キャメラが動いちゃうと、マンガを映画化する根本が崩れちゃう。夏の前にそこまで整理ついてなかったのがまだまだ下手っぴだなって反省しますけど、やっぱり撮り始めなきゃわかんないことが僕は多いですね。
■夏編の俳優について、あるいは演技と人物像
三浦:この映画って夏編と冬編、それぞれがどちらも高め合うような構成になっていると思うんです。でも夏しか撮っていない段階では、要するにまだ片割れの状態ですよね。あの2人の物語は、発展する前に終わる。さっきおっしゃった通り、個人のまま、一瞬出会って別れるだけ。そうすると、俳優としてはどんなふうに臨むのか。直に交流する、という方向性が与えられないまま、その宙ぶらりんの状況をどうやって演じてもらったんでしょう。
三宅:めちゃ悩みました。夏編についていえば、『夜明けのすべて』の時のように役のプロフィールを作ったところで、あんまり意味をなさない気もして。
濱口:いらないでしょうね。この映画にとっては重みにしかならない。
三浦:河合さんも背景を背負っていない人って感じですよね。
三宅:河合さんとの撮影前の顔合わせで、「空っぽ」っていうキーワードが出てきたんですよね。人間関係に疲れて島旅にきて、いろんなものを捨てたい、でも人間そんな簡単には空っぽになれない、という話ですねと。つげさん的に言うと「蒸発」できない、自分からはどうしたって逃れられない。そのやりとりを反芻して、「中指に包帯巻くのはどうだろう?」というアイデアに繋がった気がする。
濱口:怪我は映画オリジナル要素なんですね。ずっと包帯をすることになると。
三宅:やっぱり気になるでしょ。自分の体に対する違和感。海にも入れなくなって、他人と自分の違いが際立って”異邦人”状態を経験する。
三浦:トンネルの出口でぱっと降りられなかった一因にも見える。つまり環境と親和的になりきれない人物像というか。
三宅:ああ、そうですね。絵面として包帯が悪目立ちするならやめようと思ってたんですが、現場で衣装来て外歩く姿で最終確認して、アリだねと。
濱口:実にほどよいですよね。少しの過去を思わせつつ、一方で見ている間に怪我のことは気にならなくもなる。
三宅:そうそう、それぐらいなのがいいと思いました。一方の髙田さんは、自分の革靴がもうボロボロで底が剥がれている、だから浜辺で拾った他人のサンダルを左右違いで履くという設定で。指の怪我同様、居心地の悪さが彼にもずっとある。それを拠り所にしてもらってますが、大前提として彼はシナリオをよくわかってたんだと思うし、勇気もあった。
濱口:髙田万作さんは素晴らしかったですね。つげマンガの登場人物として、本当にいい。
三宅:キャスティングディレクターの杉野剛さん――黒澤明組の助監督も務められた方ですが――が勧めてくださって、出会いました。声がほんとよいですよね。
濱口:本当に信じられるし、好きになれる。よかったな。
■「モノ」としての人間
濱口:先ほどこの映画における「モノ」っていう言葉がありましたが、そこで思い出したのは河合さんですね。物質として存在している感じ。『旅と日々』って、ともすれば風景が人に勝ってしまいそうな映画じゃないですか? でもそういう風景の中で、悪目立ちするわけでもなく、むしろ調和してただそこにいるみたいな感覚。これはどういうバランスでやってるんだろうな。
三宅:何考えているかわからない物質、動物みたいな存在感だなと。優雅な野良猫みたいな。退屈しまくってるんだけど、ある瞬間はっと顔をあげそうな気配もある。
でも撮影時のトライを経て編集でそれが見えた。撮影現場ではお互い試行錯誤がありました。不感すぎてもいけないし、敏感すぎてもいけない。正直その具合は現場では僕が整理ついてなくて、体で試し続けてもらった。あれこれ、お互いの肌感覚は言葉にして、今日はこういう風ですねとか、僕も海に入っているんで、海中での感覚とか。
三浦:河合さんが水着になるとき、雨よけのベンチ越しに撮っているのが印象的でした。過度に中心化していない。
三宅:マンガだと、彼が「すごくきれいだよ」と呟いた後に、2人が見つめあう切り返しショットのようなコマ連鎖があるんですが、それはやらなかったですね。
■海と曇天
濱口:海に入っていく場面、そこでカメラがまあ大胆に揺れる。やっぱり現場を知る人間としてすごいなと思うのは、あそこで波が粒立っているでしょう、まあこれはさすがに彼らを泳がせながら、ボートか何かに乗って人為的に降らせていたということでしょう?
三宅:はい、雨降らしをしています。深いところで泳いでいるように見えるように撮ってますが、実際には俳優もスタッフも海底に足を着地できる位置に基本いて、錘のついた綱が俳優の手元近くにあって、フレーム外にはセーフダイバーがいます。だから雨降らしもボートからではなく、波打ち際からちょっと入ったところから。ちなみにここでは自分も終日海に入っていたんですが、いちばん寒い格好、海パン一丁にしていたんです。スタッフはウェットスーツ。一番先に自分が音を上げる状態にしておいて、まずいと思ったら中断できるようにと思って。
濱口:おお、素晴らしい。見習いたい。
三宅:いや、違うんです。ここは反省を吐露させてほしいんですが、その格好、つまり海パン一丁だと、ついテンションあげちゃうんですよ……。正直、雨の海にいるとめっちゃ多幸感があるの。自然に笑いがこみあげていて、怖さが飛んじゃう。まあ、バカですよね。そういうのは伝播するから、勢いで乗り切ろうとする空気がチームに生まれちゃう。よりベターなのは、自分は陸にいるべきだった。いや、それだとモニター出ないから演技が見れなくてOK出せないんだった、やっぱり自分も入るのは必要だった。なので、自分より冷静に撮影を止める責任を果たせる人間が陸にいるべきだったという反省があります。少人数体制だったから、録音ベース以外ほぼ海中にいざるをえなくて、各部総出で雨降らしの数本のホースを握っている。本州の海岸での撮影ならばプロの特機部をつけて解決できますが、タンク車のない島でしかも天気次第で待機日含めて拘束するとなると、予算が膨れ上がる。そういう脚本でGOが出てるので、僕らが無理する必要は全くないんですが、現実的にそうもいかないもんで……。狙い以上にいいシーンは撮れたけど、プロセスに満足できてない。
濱口:渦中よりも外から見てたほうがより怖がれるのかもしれない。しかし正確さという点ではどこまでも難しいね。ちなみにあの曇天も本当の色なんですか?
三宅:ほぼほぼ実際の見た目に近いですかね。海が雨で粒立つ感じは絶対手を抜けないと考えていました。あとは音ですね、音響効果の長谷川剛さんの繊細さでウネリがより出た。
濱口:この天気で波の起こす水しぶきがあるなら、自分だったら、もしかして雨を降らさなくてもバレないんじゃない?って思っちゃうかもしれない(笑)。でも英断だったと思いますよ。あるとないでは大違い。
三宅:夏編の撮影日数は9日間なんですが、雨の浜辺と海中に3日かけています。
三浦:河合さんや髙田さんは島にはどれくらいいたんですか?
三宅:俳優たちは12泊13日ですね。イン直前、船が雨で欠航になってしまって、機材や一部スタッフが来るのが一日遅れちゃったんですよ。直前の準備が一日なくなるのは結構痛かったです。
濱口:なるほどね。でも、そんなふうには見えなかった。
三宅:編集で落としたところもありますからね……。ちなみに夏編はスタッフ15人。
濱口:これは『夜明けのすべて』を撮ったあとだと思うと、ものすごく少ないわけですよね。
三宅:そうですね。自分は5人以下とかの映画作りに憧れというか未練もあったんですが、踏ん切りがつきました。映画祭などで各国のアートフィルムを見ると、もはや「普通」の劇映画の作り方はレアになってしまっているのかなと感じたこともあるんですが、もう自分はこの中くらいサイズでいくしかないなと。『ワイルドツアー』(2018)みたいに自分がキャメラをやるならありえるかもしれないけど、今のチームの力を最大限生かすならある程度の規模でやるのがベスト。15人プラス地元の方たちのいろんな協力で、なんとか撮れた。
■雪国で映画を撮ること
三宅:夏編を撮り終えたあと、この映画にとって必要なこと、この映画ではあまり機能しないこと、その違いがやっと見えてきて、反省点も含めて、冬は狙いをより正確に共有しながら、準備を進めていきました。寒さ問題はモンベル(Montbell)さんの協賛もあってパワーアップできた。雪だと風景が一日一日変わるし、何でもかんでも簡単には準備できない環境、お金も時間もかかりやすい環境には変わりないので、ほんとうに多くのスタッフの事前準備であらゆる画面が成立している、ということは改めて言いたいですね。
濱口:冬編はスタッフの人数が増えているんですか?
三宅:3倍くらいですかね。オープンスタジオの管理事務所からあの宿のロケセット――実はこれ「おしんの家」なんですけど――まで、道がないんですよ。雪が降ったあとは、機材トラックが通れる道を数百メートル作るのにユンボ使って2週間かかる。先に現地入りした制作部に、1週間経ってから「宿(のセット)どんな感じ?」と聞いたら、「まだ屋根も見えません」と。1枚目、これは市街地からスタジオに向かう途中の普通の道路で、まあ2mくらい積雪していると。2枚目が、これは撮影終盤に撮ってもう土まみれになっている道ですが、本来ここに道はなかった。雪原に道を開拓するのを想像していただけたらと。


写真提供゠三宅唱
濱口:なんと。それは制作部だけでやったの?
三宅:制作部と地元のスタジオの方とですね。冬編の制作担当の古野修作さんがかつてここで冬季ロケのもっとハードなものをサバイブしていて、その経験値に助けられてます。それからあの鯉の池もゼロから作んなきゃいけなかった。
濱口:つまりこうした準備も含めて1年以上かけた企画であるということですね。ロケハン以前に「おしんの家」はだいたい決めていたんですかね。
三宅:インの2年半前、2022年の夏に初めて見学にいって、冬毎に確認に。中は装飾の大原清孝さんらが緻密に飾り直していて、外のトイレはゼロから建ててます。雪面は足跡で一気に台無しになるので、撮影順や必要なショットリストを事前に共有する必要があります。たとえば、終日室内のシーンでも、窓外には照明機材を置いたりスタッフ動線を作る必要があるので、足場の雪は当然荒れる。そうすると、大雪でも降らない限り翌日は外シーンが撮れない。いつ外のシーンを撮るか、どんなショットが必要かで、前日のスタッフの動線が限定される。CG処理も限度があるので。宿の裏が各部のテントベースで、そっちは映してません。
濱口:三宅くんは札幌出身じゃないですか。バカみたいなこと聞きますが雪に対する感性っていうのは、やっぱあるもんですか? 視覚的にというより、触覚的なものとして。
三宅:どうですかね、気温によって雪質が全然違うのは子供の頃から知ってはいて、本当はもっとパウダーな雪も撮りたかったですけど、少し暖かくて、ザクザクした硬めの雪が多めな時期でした。ただ、雪って映像や写真で見ると、非常に安定した、時の止まったような世界に思えるけれど、本当に一瞬で天気が変わったり、日によって雪の嵩は変わるし、一日として同じ風景がないということは久々に実感しました。
三浦:映画ライターの月永理絵さんも北国の出身なんですが、雪景色は沈黙こそが独特だと書かれていて、なるほどと思ったことがあるんです。雪の消音効果ということなのか、ノイズが吸い込まれて、シーンと静まりかえる。真冬の雪世界の音を録り、作る工夫はどういうものだったのか。
三宅:つららの溶ける音が想定外で、その対応がありました。室内ナイター場面は暗幕で夜にして撮っている場面が多く、夜の外は静かなはずなのに、実際には昼間で、つららが溶けていく……。デイシーンではいくらか生かしてますが。
濱口:つららの音が、音の少ない空間に実に効果的に響いていた。これは同録なんですか? それとも加えている?
三宅:両方だと思う。あとは、室内の囲炉裏周辺のノイズだとか、近くに小川が流れている設定なのでせせらぎ音が基調になっている場面もあります。一貫性は敢えてあまり持たせてなくて、シーンごとの雰囲気の狙いに応じて、ほぼゼロから作ってますね。雪らしいほぼ完全な静寂の時間は最後のみで、それまでは何かノイズがあります。
三浦:夏編は、島の自然の風や波のうごめく音が基調になっていると思うんですが、冬編では雪によって音が消される。『ケイコ 目を澄ませて』の時に背景音をものすごく緻密に作り込んだ話を聞きましたが、音の映画作家でもある三宅唱は今回、冬編への移行をどう捉えていたんでしょうか。
三宅:冬は声を聞く映画、他人の話を聞く映画になるなと。静かだし、他にやることないし、相手の話を聞くしかない。それに方言だしね。日本の観客の多くにとっては普段と違う耳になるのが、シンプルに面白いんじゃないかなと楽しみにしてました。
■ワンショットの繰り返し――堤真一と調和

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濱口:夏編で2人で会話するところは、ツーショットが基調になっていた。それが冬編では、ワンショットの繰り返し、対応というものが構成されるようになっている。そこの2人にはある共通した造形があって、それが猫背、背中が丸いっていうことですよね。そういう背中が映るようなサイズや角度で画面が撮られてもいる、そこは明確に違うって思った。夏編は、どの位置からというのは変化がありますけども、基本的には顔を撮ってる。この冬編の「背中」という選択はどのようにして決められたんでしょうか。
三宅:冬の2人は、夏の2人以上に他人度が高い。最終的には似たもの同士な一面も見つかるけど、共通するものが何もない印象から出発して、しばらく並行線を辿る。だからか、なかなか同じフレームに収まりにくい気がした。『夜明けのすべて』の2人は、異質だからこそ同じフレーム内で等しい距離から撮ることが面白い題材だったのだけど、今回はどうやら違うぞ、と。堤さんが演じた役に関しては、これは説話上の処理としても、初めは彼がどういう人物かわからない。あくまでも徐々にわかってくるけど、あくまで一面か二面だけ。旅先で見知らぬ人に出会ったときに、相手のことをちょっとずつ知っていく感じ。それで、横からのあの「背中」から始まった。
でも、それに気づいたのは撮影期間中のことで、実は最初の囲炉裏を囲んでいるシーン、あれはまるまるリテイクさせてもらったんです。というのも、最初に撮った時、堤さんを全部撮っちゃってた。あの人の怖さも可笑しさもせつなさも、全部。「これは先に見せすぎたわ」と気がついて、みんなに相談した。そしたら俳優2人もノってくれて、堤さんは「ああ、たしかに。だっておれ、あのシーン芝居してて楽しかったもん。でも出会ってすぐの場面で楽しくなっちゃダメだよね」って。
濱口:堤さん、素晴らしいですね。
三宅:「自分のことをベラベラと喋りすぎてたのかもね」って。最初の脚本ではもっとセリフの応酬を僕が書いてしまってた。そこで、「どのセリフを削ろうか」って鉛筆持って机を囲んで、一緒に改訂作業をさせてもらった。リテイクを終えたとき、2人とも「すごくよくわかった、こういうことだね」と。
三浦:濱口さんが言う通り、堤さんの顔を希少にしか写さない。だから逆に、いつ顔が正面から写し出されるのだろうか、と息を詰めるかんじになりますけれども、その決定的な瞬間が、彼の娘と対面する時なんですよね。ここは拍手喝采したくなった。『演出をさがして』のトニー・スコットの章で、三宅さんがまさに言っていたことを思い出したんです。いつどこで俳優の顔に正面から光を当てて、いまが晴れ舞台ですよと示すかがポイントなんだと。で、べん造はここで光輝く。しかもおかしいのは、この少し前の宿の場面で、シナリオ指南をするじゃないですか。「人間の悲しみを描いてなきゃダメだ」って。それを言った自分が、本当に一番おいしいところを持っていってしまう(笑)。でもここをハイライトにするためには、大スターである堤真一の顔さえも徹底的に節約しなければならなかった、という話にも唸らされました。
三宅:現場中ってすっかり忘れてますけど、身になってたのかな。撮休日だったか、堤さんとご飯食べている時に「自分の姿はずっと映らなくてもいい映画なんじゃないかって思ってたんだよね、台本を覚えている時に」と。フレームの中だろうが外だろうが自分はただそこにいればよくて、自分を観察しているシムさんをじっと見つめるような映画になると面白いんじゃないか、ってことを脚本から受け取っていたらしい。実際に我々が選んだカメラポジションを堤さんが気に入ってくださったようで、「月永さんがどこにいるかわからなかった」と。芝居の視界にキャメラがほとんど入らない、こんなこと今まであんまりないし、事前の思いが通じたようでそれも驚いた、と。
三浦:堤さんって僕は昔から好きな役者ですけど、でも堤真一ってどこからどう見ても堤真一だから、それは『旅と日々』にとっていいことなんだろうかという心配が若干あったんです。でもそれはまったく杞憂でした。空間とも、衣装ともすごくしっくり調和していた。方言も大きいと思うんだよね、方言指導というクレジットがありますが、非常に正確に喋っている。
濱口:これは福島出身の三浦さんからしても正確ですか。
三浦:いや、もうバッチリ。なんというか、東北弁のモノ真似みたいな方言は心から許せなくて。『フラガール』(2006)とかね(笑)。でもこの映画の堤さんはモノ真似ではなく、東北の言葉を、そのぶっきらぼうな感受性も含めてひたすら正確に発声しているだけだから。
三宅:僕も正解はわかんない。方言指導でびっちり付き添ってくれた佐久間としひこさんが、明快にその都度判断してくれたのは本当に助かりましたね。
三浦:正解です。親戚のおじさんを思い出した。
濱口:2人が宿で最初に出会って呼びかけるとき、その人が堤真一だと知っているのにわからなかったんです。撮り方もそうですが、堤さんもこの役のためにアプローチをしてきたんだということが、初手からよくわかりました。
三宅:堤さんにとって東北の方言はキャリアで初めてのことで、関西の方だからか苦手意識もあったみたいですね。
濱口:そもそも、堤さんという配役はどうしてなんでしょうか?
三宅:キャスティング会議で候補にあがって、もう直感的に、ぜひ堤さんに読んでほしい、とお願いしました。それまで接点は一切なかったのでダメもとでしたけど、脚本をいたく気に入ってくださった。堤さんは演劇人で、町場の職人のような方でしたね。仕事に誇りを持って生活を愛している人で、すごく接しやすく、心から尊敬できた。役に合わせてそう振る舞ってくれたのか……いや、あれはたぶん素ですね。
三浦:以前、シム・ウンギョンさんと共演していたんだよね。
三宅:ええ、舞台上での絡みはほぼなかったと聞いてますが。
三浦:意表を突く好配役。つげ義春の描いた田舎らしさをいかにもなぞるというのとは正反対で、むしろ世界を開いてます。主人公が韓国籍の女性というのもそうだけど。べん造役に堤真一を選択するってこともそうですよね。
三宅:そもそも年齢不詳で難しい。子供の年齢を考えると30代の俳優でも成立するけど、それじゃ味が足りない。結局自分が作る場合は人柄が大事だなと。
■その場のことを全て受け止める――シム・ウンギョンの清廉さ

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濱口:『旅と日々』は何も起きない系の映画みたいに言われこともあると思うんですが、しかし冬編のシム・ウンギョンさんの内面にはいろんなことが起きているのがよくわかる。
三浦:まるで自分のために当て書きされたような物語だと、シムさんが言っておられましたね。
三宅:最初から言ってました。ウンギョンさんを撮るのは本当に面白かったですね……。昔の大スターを撮ってるときってこんな感じなのかなあと思う瞬間もありました。たとえば光を受け止めて反射する輝きも、本当に澄んでいるなと。序盤でそれに気がついて、月永さんと照明の秋山恵二郎さんにも話して、今回は影の落ちないような顔の光を作っていくのがいいんじゃないか、「現実ではこう」みたいな光の作り方はある程度無視してみよう、と。マンガの線も背景の闇に比べて人物はツルッとしてるし。
濱口:言われてみれば、本当にすごく自然な形で彼女の顔は影なく発光していましたよね、特に昼の場面。つまり、それって彼女の前にセンチュリースタンド(照明用の脚)がたくさん立っている状況だったということ?
三宅:CM現場のメイキングで見たことあるような、あれほどの数ではないけどね。上に吊った照明と、さらにあれこれと。堤さんに比べて、ウンギョンさんはなるべく顔が見えてほしいと思っていました。
濱口:下を向いていることがすごく多い印象でしたね。最終的には上を向く話なんだなと思いましたが。
三宅:そのことで言うと、ウンギョンさんとバスター・キートンを見ていたんですね。キートンって下向きの憂鬱な顔をしている印象がある。でもよく見ると、目玉しか下を向いてない場面が多いことに気がついた。顔の角度は落とさずに目玉だけ下を向く。顔の角度が下になると、単に表情が隠れてつまらない。目だけで十分に表現が成立する。だからリアリズムの演技ではない。今回、全部が全部それを参考にしたわけじゃないですけど、面白いヒントになりました。
それから、彼女は現場でモニターを見たい人で。韓国ではそうされているらしく、僕もそれはやってみたかった。テイク1を見て「ここ早すぎる」「ここ面白い」とか話して、じゃあまたトライしますっていう流れもあった。
濱口:これまで俳優とモニターチェックはしたことはない?
三宅:初めてかな。最近はフィルムが続いていたし。あ、『ワイルドツアー』ではやりましたね。それは彼らに「これは演技なんだ」ってことを意識してもらうために。
三浦:この映画を見てシム・ウンギョンさんのことをすごく好きになって、『怪しい彼女』(2014)など見たんですが、めちゃくちゃうまいよね。
三宅:すんごいですよね。
三浦:演技のうまさとボケが同居する、ある種の大スターのような高みにあるなって思います。それこそ往年の高峰秀子みたいなね。つまり、自分がどう撮られているかを完璧にコントロールして、微細な表情をつくって、そこに加えて度胸もあって。アスリート的な正確さとともに柔らかさも持っていて、本当にすごいなと。
三宅:ドリュー・バリモアみたいな、ロマンティック・コメディの俳優たちのようなね。平気で泣いて爆笑できる技術がある。『旅と日々』のアプローチはまた違う路線で、たとえるなら原節子のようにワンシーンごとに堂々とやる、その場のことは全部受け止めます、みたいな感じな気もしますけれど。
三浦:モニターで芝居を見るというお話がありましたけれど、でも計算され尽くしてつまらないという印象ではない。どんな予測も超えてしまう、それこそ原節子的な瞬間風速があるというか。
三宅:彼女には信じられないような能力があって、もう10年以上前の映画でも「シーン〇〇のテイク〇〇ってどんな芝居?」って聞かれても答えられる、記憶してるんですって。「なんで?」って聞いたら、「いや、あの、仕事なんで、真剣にやってるんです……」って俯きがちに言うの。
三浦:信じられないですね。ほかに、作品全体としてはあんまり褒められないような映画に出ているのも見ましたが、シムさんの場面だけは見ていられた。ものすごく真摯な雰囲気を発散されているから。
三宅:理想的な聖職者のような清廉さがありますね。すっごくひょうきんで、よくイタズラ顔もしてるんだけど。『神の道化師、フランチェスコ』(1950)みたいな印象の人、というと大袈裟に聞こえるか。かっこよくて面白い人で、なんかありがたさがある。
濱口:私はウンギョンさんの他の作品をそんなに知らなくて、舞台は見に行ったことはあるんですけど、でも本当にこういう人なんだなと思えたというか、『旅と日々』では、やっぱり一番ストレートに入ってくる人なんですよね。4人の主演と言える人物がいるけど、最初の2人は彼女の想像の中から生まれている存在で、作品を貫く太い柱になっているのはやはりウンギョンさんなんだなと。
彼女が雪の中で最後にべん造さんを見送るショットとか、なんてことないショットにも感じるんだけど、なんでこんなものが撮れるんだろう?と思ってしまった。ただ立っているだけに見えるんだけど、あれは本当にただ立っているだけなんですか?
三宅:あの佇まい、いいですよね。現場状況としては、冬が終わりかけの時期だったので、もう夢が覚めたように土交じりのドロドロの雪原になりつつあったんです。それもいいなと思って、直前までは別の場所で準備してたんだけど、突然吹雪いてきた。そこで「今行こう、あの枯れ枝の下だ」ってなりまして。足跡問題もあるから段取りもほぼせず、月永さんもキャメラ位置をパッと決めて、「ウンギョンはそこで立って」と。終わったあと「なんか撮れちゃった」って話したんですが、唯一即興的に撮ったのがこの場面。「いったいなんだったんだ?」というのがウンギョンさんの演じる状況だったと思うんだけど、撮影現場自体がそんな感じで、謎にリンクした。
濱口:なんだろうな、物語に感動してるわけじゃない、彼女の立ち姿そのものに何か感動している。これはいったい何なんだろう?って思っていた。そういう時間全てが写ってるのかもしれない。
三宅:ロングショットの切り返しで、ポツンと立っているのがいいだろうというのは僕と月永さんの事前のプラン通りなんですが、天気が違ったらまた別の時間、別の佇まいになってそうですよね。
■『やさしい女』とマンガのコマ

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濱口:蝶番となっている東京編の話もちゃんとしますと、やっぱ佐野史郎。佐野史郎が出てきて、すぐ死んじゃったと思ったら、またすぐ双子が現れる。これは『演出をさがして』のロベール・ブレッソン回で話していた『やさしい女』(1969)ですよね。生と死を直結させてしまうような繋ぎ。あそこですごいなと思ったのは、ご馳走になるスープのお供としてバターロールが真ん中に置かれていたことです。なんかすげえなと、バターロールを小道具として考えられる人って、と思いましたね。
三宅:演出部の柴田咲南さんと小道具の福田弥生さんが相談して提案してくれたんじゃないかな。
濱口:バターロールもちゃんと照りがあって目を惹く。キャラクターの転換というものがそれだけで腑に落ちるわけじゃないけど、大学教授のキャラクターとの差というものを短い場面でちゃんと入れてきている。
三宅:この場面でさらに楽しかったのは、子供が登場するってことです。テイクごとに変わって当然いいよ、もし飽きたり体調が悪くなったらいなくなってもいいよという感じで。
濱口:それもね、なんかトニー・スコット回で話した豊かさに近い気がするな。ところで松浦(慎一郎)さん、特にティーチインのところ、なんか前日寝れなかったみたいな顔してない?(笑)。三宅唱が撮った映画の「監督」として出なくてはいけないから、非常に緊張してるのかな、と思ったりした。
三宅:わかんない(笑)。
三浦:『ケイコ 目を澄ませて』で大ファンになった観客からすると、やった!というところですが、でも仮に松浦さんだとわからなかったとしても問題がない。つまり、優しさ、深い気遣いが全身の雰囲気になって出ています。落ち込むシムさんをそのかたわらで気遣いつつ際立たせて絶妙でした。
濱口:この場面、ヴォイスオーヴァーでセリフが重なっていくわけじゃないですか。セリフは全部書いてたんですか?
三宅:書いてあります。
濱口:三宅くんはこれまでもヴォイスオーヴァーをずっと使ってますよね。いわゆるシンクロじゃない映像と音のありようというもの、その自由さに怖さはない?
三宅:ないですね。今回はヴォイスオーヴァー以外の通常のセリフのやりとりでも、要所要所で声と体を分離させるぞ、自由にさせるぞ、というトライをしていました。
濱口:いわゆるヒキ画で、2人が歩いて行くところは実際には喋ってない?
三宅:喋ってないですね。別で録ったセリフを被せているから、リップはシンクロしていない。
濱口:別でというのはアフレコで撮ってる?
三宅:いえ、ここはその直後の丘に並んで話している会話の一部を、大きくズリアゲしていますね。
濱口:でも主題と全くずれない。
三宅:そうですね。特に冬の2人は、同じ場所にはいるけれど別の時間に生きている、そういう2人だと考えました。だから、個別で撮ることによって、撮影現場では「芝居の編集」をそこまで詰めずに、まずはそれぞれの時間、それぞれの生の輪郭を撮る、という狙いを試してみた。一旦俳優に時間を預けた後に、編集室で「劇の時間」を厳密に詰め直す。セリフの間は現場の間がベースだけど、画と音を分離して自由にできるような技が夏編の仮編集時に見えてきたので、冬編ではもっと意識的に、フレームサイズに応じた2人の距離を作れた。
濱口:それはスタンダードにすることによって?
三宅:スタンダードじゃなくても多分できるようになったと思います。単にセリフのズリアゲ・ズリサゲだけでは芝居の間を調整するのは限界があるのでそういう話じゃなくて、カットバックの前後や間に挿入できるようなカットを撮っておく、という感じですかね。うまくやると、撮影効率も上がるというか、俳優の負担も軽減できる気がする。
濱口:それも現場で考えられるようなこと?
三宅:そうですね。同じ空間にいる2人を「フレーム」で切り分けるんじゃなくて、そもそもそれぞれ別の「ステージ」に生きている、というような芝居位置を作る。
三浦:声がオンとオフで自在に行き来する構成は、原作ものだったからこそ、より大胆にできたということもあったんでしょうかね。
三宅:マンガにおいて、セリフは吹き出しとして表現されて、キャラクターからそもそも離れてますからね。夏編の編集はそのこともヒントになったのですが、つげさんのマンガ特有の面白さ、特にコマからコマへの驚きって、吹き出しの使い方にもありそうだなと。無言の人物のコマ、無人のコマ、吹き出しのみが背景に響くコマなどを駆使している。マンガを読み進めている時、次のコマで物語が前に進んでいく期待と予想が自然と生まれるわけですけど、次のコマで、物語も確かに進みながら、同時に何かハッと驚きが必ずあるのがつげさんのマンガの面白さであり、上手さだなと。「ねじ式」なんかはアクロバットすぎて僕は驚き損ねてしまうところもありますが、旅モノや家族モノは説話とコマの緊張関係が面白い。
濱口:なるほどね、はい、予想と驚きがセットだと。
三宅:はい。ちなみに、ケリー・ライカート監督のBlu-rayボックスの特典用に原稿を寄せていまして。『ファースト・カウ』(2019)のある水辺の場面について「フレーム」と「ステージ」の話を書いているんですが、それはマンガ研究と本作の撮影と編集を経て考えたことがベースになっています。
■ショットとショットの間の驚き――飛躍について
三浦:『旅と日々』は初見時に次のショットが予想できないってすごく思った。もちろん三宅さんは規則的にA→B→Aみたいなスイッチング的なことはもともとやらないけど、いつも以上に予想もしないものがつなげられている。心地よい意外な飛躍を感じたし、全体の構成の自由さに驚いたところがある。
三宅:やっぱり夏編が本当に勉強になったんですよ。例えば、終盤で2人が海に入っていく場面、初めて水に足をつけるときの「冷たい」って思う特別な瞬間を撮りたいと思い、撮ってもいる。砂浜に残った2人の足跡を波が消していく様も、けっこう時間をかけて撮った。
濱口:まあ使いたくなるね。
三宅:ええ。でも、2人がいつの間にか海にザブンと入ってて「もう何分泳いだ? どこまで沖にでた?」と見せるほうがいいんだってことを編集で気づいた。そのとき、もっと本気で事前に考え抜かないと、冬編は痛い目に遭うと思ったんです。命に関わる。編集では平気で切れる方ですけど、冬の撮影現場の労働力を無駄にするのはいやで。
濱口:そこに関わるすべての人たちの努力も一緒に切ってしまうような、ね。
三宅:それを残して映画がダメになるのも本末転倒だけど、そもそも不要だと事前に判断できれば、休める。そして必要な仕事のクオリティをあげられる、超あたりまえのことですけど。
冬編でまず具体的に考えたのは、電車到着をどうするか。ホームに降り立って、あるいは駅から出て、初めて冬の風の冷たさを感じる瞬間が必要なのかどうか。いろいろ考えた結果、今の画面連鎖でいける、と。物語も前に進むし驚きもある、それが事前に確信できたので、無駄なロケをせずに済んだ。トンネルを抜ける実景を撮る日に、ウンギョンさんの都合も空いていたんですが、いや、呼ばなくて問題ないですと。
『ケイコ』とか『夜明けのすべて』のような、たとえば試合に向かうだとか、プラネタリウムのイベントに向かう流れとは違う、別の説話構造に今回は付き合う必要があった。とはいえ時間経過を表現する必要はあって、なんでもありってわけではない。でもそのなかで、ショットが変わるたびに見えるものが変わっていく驚き、喜び、戸惑い。そういう体験ができたらな、と。繰り返しますが、冬の現場なんでやりたいことばかりできるわけじゃない。やりたいこととできないことを整理して、ようやく想定外の天気や現場のナマの出来事に驚ける。
■スタッフに手紙を送る
濱口:今日、事前にこの映画のスタッフ向けの、手紙としても読める準備資料を共有してもらいましたが、まあ、本当に反省しました。映画監督っていうのは、ここまで考えるんだなと感じ入りました。特に夏編から冬編でスタッフの人数が三倍以上増えたってことは機動力の面で必要なことだとしても、やっぱりコミュニケーションが大変になると思うんですよ。それをいったいどうやって、こういう血の通ったスタッフワークの結晶のような映画が作れるんだろうかと。
三宅:僕の頭の中に答えがあると思われて、それを具体的に見せずに想像して働いてもらうっていうのは、自分にとっては居心地が悪くて。頭の中に答えなんてなくて、むしろ混沌とした問いがあるから、それをさっさと共有して考える。監督なんてさ、ものも運ばねえし、現場には最後に入ってくるし――僕はなるべく早く入りたいってお願いしますけど――、ただ黙って座って考えたふりだってできちゃう仕事なわけです。それが本当に嫌で、たぶんそういうことを共有しないと一緒に作る意味はないと思うんです。相手にはよるけど。
濱口:質問の鮮度のために、いただいた資料は半分程度しか読んでいないのですが、やっぱりこのような手紙を読めばふつうに感動しますよね。私も似たようなものを書いたりすることがあるんですけど、でもここまで書くのは、やっぱり恥ずかしいかもしれないと思った。ある種の弱さを見せるということはしつつ、立派なことも言っている。むしろそっちのほうが自分は恥ずかしいかもしれない、と思った。でもそれを両方どっちも言っているのが素晴らしいなと。
三宅:自分も年齢が上がって、スタッフの半数以上が年下になってしまった。冬編では東北芸工大学などの学生スタッフも複数名いたし、まあ、かっこつけたいじゃない(笑)。というか、映画って面白いと思わせたい。現場つまんないとか絶対思わせたくない、一人の映画好きの大人として。そして、現場はラクな仕事ではないですから、その葛藤も見せないと意味がない。だから両方出すっていう。ま、というのは建前で、あくまでも自分のため、自分が映画に集中するためにみんなにも自分の仕事に集中してもらうため、なんですけど。
濱口:それのための作業って、でも時間だってそこそこかかるでしょう。
三宅:でも、やっておくと本当に早い。
濱口:何が早くなる?
三宅:なんだろ、みんなが監督になってくれる……いや、違うな(笑)。全員、360度に敏感なボランチになってくれる。撮影現場って、最大のパフォーマンスを出して欲しいのは俳優であって、彼らがキャメラの前にいる時間をなるべく確保したいわけですよ。で、僕はキャメラの前の出来事にできるだけ集中したい。そのためにスタッフとのコミュニケーションは事前の時間を使う、一回紙の上でやるっていう。
濱口:脚本がその最たるものでありますよね。ただ、映画は脚本を超えたことをしなきゃいけない。
三宅:脚本読むのって、難しいじゃない。いろんな読み方ができるから。今回の映画は、言葉にした途端に難しくなるような、でも本当はシンプルなものをやろうとしていた。脚本のルール内だけではなかなか書き得ないものを撮ろうとした。だからこそ、事前にあらゆる形で言葉を尽くしてできる限り共有しておかないとたどり着けないだろうなと思って、手紙にしました。濱口さんも俳優に手紙を送ったりするって知ってたんで、真似してるわけですけど。
濱口:まあ、手紙だよね。でもこんなに見事に指針を示すっていうのは、なかなかできない気がする。
三宅:『ケイコ』のときは事前に参考ビデオを作ったけれど、今回はビデオでは難しい。でも僕の頭の中に見えつつあるものはあったので、それがどこまで見えていて、どこまで見えてないか。それを口頭で言うと混乱するので、手紙がベストだなと。
■ショットに「暇をかける」
三浦:改めて夏と冬の間のブリッジの場面が、やっぱり本当にいいなと思うんですよね。特に佐野史郎からに託されたカメラを、シムさんが一人、アパートの真っ暗い部屋で走りくる列車に向けて、シャッターを切るところ。夏編はシナリオライターとして、劇中劇の映画を構想する人物として存在していたわけだけど、後半はいわば映画の中に入る。世界と触れ合う、映画の登場人物になる。思い出したのは、さっきキートンの名前が出ましたが、『キートンの探偵学入門』(1924)でキートンがスクリーンに入るところ。あと『ベルリン・天使の詩』(1987)で、天使が体を持ってじかに世界に触れ合うところ。そういう質の感動を受け取った。ふわーっとトンネルの中を抜けていって、真冬の雪世界に肌で触れ合う、この一連の展開のすばらしさはほんといくら強調してもしきれないです。
濱口:夏編と冬編があって、その間に映画の上映があって、先生の存在があって、その人が死んだと思ったら双子が生きてたっていう展開、そこで故人の遺品としてカメラをもらって、自分のアパート前を通り過ぎる電車の写真を撮る。すると次は電車がトンネルを抜けていくと雪が降りしきっているいう、まあ⋯⋯、綺麗よね。ぐうの音も出ないところ。
三浦:ほんと美しい、幾何学的な構造とも言えるかもしれない。二人の佐野史郎が中央で蝶番になっているとか、できすぎていますけど(笑)。そして、夏編と冬編の間で、たくさんの「照応」(=correspondence)が見つかっていく。視覚的細部だけではなくて、台詞もそうで、髙田万作さんとシムさんが同じようなことを言ったり。
ただ、今日の話を聞いていてわかったのは、そういうふうに構成を支えている細部の多くがまったく計算尽くで置かれたわけではなかったということ。それに二重に驚かされました。「照応」といっても、グラフィカルだったり言葉上のパズルを組み立てるような発想でなされているわけではまったくなくて、自然の中の撮影で試行錯誤して、膨大な素材を捕まえようとして、待ち構え、監督自身が発見し、その上で取捨選別した結果だんだんとできあがったものだということですよね。
最初から定められた正解を見つけるとかではまったくなく、不特定の符牒と符牒が、ふっと出会ってしまって、それこそ差異の火花を散らす。だから明示的な「意味」が生じるということではない。じゃあなんだっていうと言葉にするのが難しいんだけど、あえて言えば、気配の交換……。さまざまな青、トンネルのシルエット、水、雪、舞うもの、壁に描かれた絵柄、そういう数え切れない符牒が、ちかちかと互いを照らし合っているように感じられる。異なるレイヤーが連絡し、「いま」が別の「いま」の気配を漏洩させている。
さっきも少し触れましたが、そのことが『旅と日々』をとても独創的なつげ義春映画にしていると思いました。つげ義春の世界は、シュルレアルだったり、摩訶不思議な現象が起きたりもするじゃないですか。映画化ではその側面が強調されることもある。ところが『旅と日々』は徹底して唯物論。ここでは超常現象は一切起きないし、内面性だとか夢にも一切回収しない。にもかかわらず、この世界の摩訶不思議さがまざまざと写されている。そこが清々しいし、僕も本作をきっかけに、つげ義春との付き合い方を教えてもらった感じがありました。
濱口:三浦さんがおっしゃったような照応って、夏編と冬編の間に三宅くんの中で醸成されていったものじゃないかとも想像する。全く関係ないような夏編と冬編の話は、つげ義春の原作だというだけではないところでつながっている。基本的に、前半でやられたことが後半で出てこないと、時間をかけて見るような映画って基本的にはつまらないわけですよ。でも、それが物語上の反復であっては、この映画においては興醒めるわけですよね。本当に何かが一瞬視聴覚的にその「照応」が垣間見えるようにつくられなくてはならない。これは単に知的な作業ではない気がする。この間、國分功一郎さんと伊藤亜紗さんが対談で「暇をかける」っていう表現を使っていて、いわゆる「手間暇をかける」のうち「手間をかける」のは実際に働くことだとして「暇をかける」っていうのは時間に任せることで、たとえば何かの天日干しをつくるとき、その時間の中で何かが勝手にできるのを待つ時間なんだと。
三宅:唯物論というご指摘については、佐野さんと撮影中に雑談していた際に「人間もモノですよね」というようなことをちょろっとお話してくれて、よかった、自分のつげさんの読み方が佐野さんと重なるところがあって、と。佐野さんが死んですぐ生き返る「双子」にしたのも、つげさんのマンガって喪失感ベースの前に進む話になりそうで全然そうじゃなく、「モノ」あるいは生そのものの不思議さに呆気にとられて感覚が変わる話で、だから一見暗いのに妙に軽くて明るいんじゃないか、という読みから来ていました。そして差異の火花、なるほど。『マルメロの陽光』(1993)の回で、同じショットの反復をみる喜びについて話したことも関連しますかね。
濱口:同じフレームの画面が再帰するからこそ際立ってくる。
三宅:そうそう。時間が経過すれば、その都度生の輪郭は自然に違う形になっている。それを捉える技、この世界の動的な姿に驚き損ねないための準備が、「暇をかける」ということなんですかね。
濱口:韻を踏まれることによって、一度目は通過していたことも、二度目は驚ける、という驚き損ねる人のための親切設計なのかもしれない。しかも、反芻しているうちにまた「一度目」から見たくなる、という。観客にとっても「暇をかける」タイプの映画なのではないか。いま私も次の作品の編集中なんですけど、大変刺激を受けました。実は似たようなカットがいくつか撮っている。それはパクってないということはここで言っておきたいんですが、でも編集はできることならパクりたい(笑)。
三宅:ぜひ(笑)! ちなみに、冒頭に話した「深い両義性を帯びた記号たち」という言葉や、今日出た「モノ」という言葉に関連して、お二人にお聞きしたいんですが、この映画を作り終わって少し経ったころに「ハッ!」と、「『悪は存在しない』(2023)ってそういうことだったのか……?」といまになって思うことがあったんですね。
悪でもないし善でもない、つまり意味以前の世界、ないしは意味の外の世界のありよう。『旅と日々』で僕は、同じ魚でも違う見え方だったり、言葉の誤解だったり、芝居そのものや画面連鎖の驚きなどを利用しながら、そこに近づこうとしていたのかな、ということを今日気付かされたんですが、改めて、濱口さんはそのあたりどう考えてらしたのか? 僕らはそれぞれ何をやっていたんだろう。そして、三浦さんからみると、改めてこの2本ってどういう繋がりがありますかね? 意味以前の世界を、例えば彫刻だとか写真とかでなく、物語映画でやることってどういうことなんでしょう。
三浦:『悪は存在しない』とのつながりは見た時に感じました。ただそれをいきなり言うと、それこそわかりやすい「意味」に回収するような気がして、言えなかったんですけど(笑)。
「因果疲れ」っていう表現を、『悪は存在しない』の後の鼎談の時に濱口さんが使っていたことを思い出していたんです。まず物語があって、その因果関係に沿ってショットを並べることの不自由さについて二人で話していた。映画作家としてキャリアの進路をどうするか、ということをそんなふうに二人して考えているのだな、と思って印象的だったんです。
『悪は存在しない』とは、単純な「因果」から距離を取ろうとする点で共通するわけですけれど、『悪は存在しない』は、「疲れ」というより、「怒り」の印象に打たれた映画という感じがしています。「怒り」というのは音楽を担当した石橋英子さんが使った言葉ですけれど、映像から底知れない「怒り」を感じ取り、楽曲の着想とされた、と。この世界の自然も労働も何もかもが瞬時に利潤計算の対象となってしまう世の流れに対する、ということなのか、ともかく「怒り」を受け取ったと書かれていて、なるほどと思ったんです。そこから実際、ものすごい切断、暴力の描写に突き進む。それに対して『旅と日々』の出発点はストレートな「疲れ」ですよね。この感情をシムさんがものすごく見事に体現しているわけですけれども、目の前に存在する、驚くべきはず、美しいはずの事物がただちに言葉や意味に絡め取られてしまうことに対する、深い疲れの感情から始まる。で、その「疲れ」が旅によって癒やされるプロセスが描かれる。声高には言っていないけれど、現代社会で映像作品をつくるとはどういうことか、という徹底した内省の結果でてきた点でどちらも共通する。そして東京も撮りつつ、自然に向かっている点も同様ですね。もちろん、自然を撮れば意味から離れられるというほど単純なことではない。だから、そこでどんな模索が具体的になされたかを聞けてとても貴重でした。
物語映画は、当たり前だけど、直線的な時間に従属している。けれど『旅と日々』は、掛け軸の二幅対のように、と言えるかもしれないけれど、夏編と冬編が支え合う構造になっていて、それがやっぱり決定的なアイデアですよね。冬編を見ていると、はっとする符牒によって夏編の記憶がまぎれこみ、二回目以降に見るときは、夏編が予兆で充たされているように感じる。そうするとショットの価値そのものが生まれ変わる。「因果連鎖」を飛び越える。窓からちらちらと雪の粒子がどこからともなく舞い込むショットがあるけれど、感覚的にはああいう感じ。フレームの外からいつのまにか粒子が舞い込んできて作用している、その開放感がある。そのための限定的なフレームサイズが選ばれ、反復する。厳密かつ自由、というやつになっていると思いました。それから、符牒と言っても記号と言ってもいいんですけれど、そういう機能を果たすイメージの多くが、予想を超えた偶然の結果もたらされた、という点もすごく興味深かったです。計算を超えた謎めいた細部だからこそ、なのかもしれない。
濱口:個人的な感慨で言えば、『悪は存在しない』のときは、そんな主体的に「モノ」そのものを撮るという意識で取り組んだというよりも、実際にそれを撮るまでに「意味」に疲れるところがあったので、一つの逃避として撮った。だからそれはある種の旅であったし、実際に自分にとっては回復のプロセスでもあった。三宅くんが指摘してくれていたけど、実に「楽しく」映画を撮った体験でもあったので。それでも、結果的に行き当たったのは、意味からの逃れ難さでもまたあったというのが、自分の印象かな。それは観客からの眼差しという点でもそうだし、自分の性向としても。カメラはモノ自体を見ることができるかもしれないが、成果物としての映画は人間が見る限り、「意味」からは逃れることができないという感覚が残った。でも、それをそんなにネガティヴに感じているわけでもない。意味から比較的自由に見える彫刻とか写真なんかも、その点では格闘しているところは一緒なんだろうと思うし、映画において「活劇」というのは、物語とか意味こそをスプリングボードとする、ショットの束の間の跳躍なのだと思う。『旅と日々』の夏編から東京編を招き寄せる同軸ヒキ、佐野史郎の死と生の反転、東京編と冬編をつなぐ電車の一連なんかはどれもまさにそんな感じがするし、どれだけ物語が慎ましいものだとしても十分に活劇的であるという点で、叱咤と勇気をもらう。当然、自分もそこを目指したいという憧れはある。⋯⋯けれど、実のところ「因果」の連鎖の果てに見えるものを、自分は見てみたいような気もしてる。こっからの旅があるとすれば、そういうものではないかと想像しもする。
もう一点だけ、この点に関して『旅と日々』に感じ入ったことを付け加えると、水平線が話題には出ても、視覚的には一切印象に残らないこと。水平線が映ってないはずもないのに。海を撮るときの罠というのは水平線がもたらしてしまうある種の人間的なロマンなのだという気が常々しているんだけど、夏で、これほど海が印象的であるにも関わらず、そこには水平線の印象がない。ジョン・フォードがスピルバーグに地平線を画面のまん中に置くなって言ったと言うけど、それとも近いのではないか。フォードが西部の大地を馬が跳ね上げる砂埃の場所にしたように、三宅唱は水しぶきや水面の泡立ちによって、具体的に海を触れるモノにしたんではないか。それがあの海の中での雨降らしが決定的に大事だった理由なのではないか、という気がする。
■シム・ウンギョンの天才

© 2025『旅と日々』製作委員会
三浦:もう一つ聞きたいと思ってきたことがあるんです。冬編の始めのほうでシム・ウンギョンさんの帽子がぶわっと風に吹き飛ばされるところ。ここは紐かなんかで引いているんですよね?
三宅:そういうことにしたいですよね……偶然です。
三浦:え、そうなんだ?! その前にこうぐっと深く帽子をかぶるカットがあるじゃないですか。で、次のロングショットになったところで帽子が飛んで、フレームの端までものすごく綺麗な軌道を描く。で、あわてて拾いに行ってシムさんがズルってすべるでしょう。それが最高なんだけど、僕はこの「ズルッ」だけが偶然だと思ってたんですよ。
三宅:見事ですよねえ。
三浦:なんてすごい演出なんだろうと思ってた(笑)。
三宅:僕は小心者なので、ここで帽子が飛んだ瞬間に「カッ…(ト)」って(笑)。ウンギョンさんは帽子が飛んだ瞬間に「やった!」って思いながら走ってたそうで、終わってから「絶対に使ってください」と言われました。あれは風の贈り物でしたね。
三浦:ああいう無声喜劇俳優みたいなサスペンダーで登場して、それで見事にずっこけてみせる。しかも帽子まで含めて、計算を超えた僥倖だったって、ほんと理解を超える。
三宅:ラストのあの歩き方もさあ、なんなんでしょう。
三浦:エンドクレジットのところ、雪原を歩くシムさんの足が時折ズボっと雪の硬い部分を踏み抜いてしまう、いわばズボズボ歩きにも心から脱帽した。コントロールしようとしてできない、バランスしようとする体の滑稽さ、切なさ、ひたむきさ、前向きさ、全部この動きに凝縮している。どうやってここに至ったの?
三宅:実は、準備稿にあの場面を書いていたものの、ロケハンでいい場所が見つからず、ラストとしても確信が持てず、撮影稿では削除していたんです。でも、ウンギョンさんが「私はあの最後を演じたいです」と伝えてきてくれた。「でもたぶん背中だよ」って、まあ愚かなことを言ったんだけども、「演じたいです。使わなくてもいいから撮りませんか?」って。月永さんがその会話を聞いていてくれたんでしょうね、撮休日に1人で行動されている時に、あの場所を発見してくれた。自分は一体何をしてるんだ、という……。
濱口:さっき言ったように、みんなが監督。
三宅:なぜ自分で一回削除したのか思い返してみると……道のないところを歩いて自分だけの道ができる、そういう物語の解釈つまり「意味」に掴まってしまい、それはそれでベタながら全然悪くない「意味」なんだけれど、それだけ撮るんじゃどうしてもつまんないし面倒くさい、と考えていた気がします。そうしたら本番、あの「ズボズボ」で、そんなものふわっと吹き飛ばしてくれた。
三浦:本当に高峰秀子並みの演技力と環境がもたらす偶然の奇跡のバランスを体現してますよね。
三宅:キートンやチャップリンの話を一緒にしててよかったなって。うん、楽しい人ですよ(笑)。
せっかくなので自分のつげ論的な考えを残しておきたいんですが、まずキャリアを映画史風に強引に振り返ると、貸本マンガ時代はいわばスタジオシステム下の修行期で、物語を手玉にとる技がどんどん磨かれる。その後は私小説的な物語、いわば独立プロで洗練を極める時期があった、と。そして、つげさんという人は惰性や予定調和を忌避し続けてきた人なんじゃないかというのが僕の仮説。正確には、安定した生活を求めるような発言も残っているので、彼にとって日常とは「不安定なのに変わり映えのない、驚きのない日々」で、それに苛々していたのではないか。寡作ぶりや発言から表面上は怠惰な印象があるのかもしれませんが、仕事に対してあまりにも真剣な方だと感じていました。本人の発言と作品分析を直結させすぎるのはどうかと思いますが、とにかく真剣な筆力によって、「予定調和からの逸脱という驚きによって生を痛感すること」が、物語レベルそのものだけでなく、コマの中の描写、またコマとコマの関係においても徹底的に実践されている。それがマンガの映画化のむずかしさでもあり、誘惑されるところでもあり、何か見出すとしたら僕はここだ、と。映画のラストの「意味」と「ズボズボ」の関係も、そういうことだと思うんですよね。それに、放尿や猫の肉球で自分の体温を感じる結末の作品が僕は妙に気になっていて、最後のヴォイスオーヴァーに「顔を洗った水の冷たさ」という話をしてみたんですが……。
というようなあれこれは、映画化を前提に読んだ立場からの勝手な解釈ではあるんですが、僕が言うまでもなく真剣に読むに値するマンガなのは間違いないので、ぜひ何度も映画と往復して楽しんでもらえたらと思っています。
濱口:こうしたすべてを、劇場で見られるうちに何度も見返したい、見返してほしい、と願うばかりですが、最後に、もう何度も聞かれてると思うんですけど、『旅と日々』っていうタイトルを思いついたのはどういう流れなんですか? さっきも言ったように微妙に韻を踏んでいるし、蝶番のような「と」が挟まれてもいる。見事にこの映画を言い当てたタイトルだな、と。
三宅:こういう内容はどうですかとプロットを出す段階で、このタイトルでしたね。もし自分がつげ義春論を書くならこの切り口かな、という思いつきからだったと思う。『旅には出たけれど』ってのも思いついたんだけど、誰にも言えなかった(笑)。でも英語タイトルは悩みました。編集完成後に、ビターズ・エンドの海外担当である伊藤さやかさんが50個ぐらい候補を挙げてくれて、時間をかけて一緒に検討してくれ、「Two Seasons, Two Strangers」を推してくれたんです。
それで、最近香港の旧友が書いた批評を読んだのですが、そこに「To become a “stranger” is not a failure ; it is a beginning of living with others.」という一節があった。これは本作どころか過去作も、そして自分自身のこれまでの人生、過去のつまづきだとか暗い感情を新たに見直させてもらえる感じがあって、全身が震えたんですけども。ウンギョンさんはさまざまな場面で“failure”な瞬間を見事に全身で生きてくれていて、だからあの爽やかな、つい微笑みたくなる佇まいに至ったと思うんですね。「言葉からいったん離れる」という旅の映画を作り終えた後に、「Stranger」という言葉を新たに手繰り寄せてくれた伊藤さん、批評を書いた何阿嵐さんに感謝です。なんかね、この映画作ってよかったとほんと思えたな。
2025年10月24日収録
構成:フィルムアート社
『旅と日々』
キャスト
シム・ウンギョン 堤真一 河合優実 髙田万作
佐野史郎 斉藤陽一郎 松浦慎一郎 足立智充 梅舟惟永
監督・脚本:三宅唱
原作:つげ義春「海辺の叙景」「ほんやら洞のべんさん」
音楽:Hi’Spec
プロデューサー:城内政芳
撮影:月永雄太
照明:秋山恵二郎
録音:川井崇満
美術:布部雅人
編集:大川景子
2025年/89分/スタンダード/日本
第78回ロカルノ国際映画祭
インターナショナル・コンペティション部門 金豹賞 ヤング審査員特別賞 受賞
製作:映画『旅と日々』製作委員会
製作幹事:ビターズ・エンド、カルチュア・エンタテインメント
企画・プロデュース:セディックインターナショナル
制作プロダクション:ザフール
配給・宣伝:ビターズ・エンド
© 2025『旅と日々』製作委員会
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■公式サイト:www.bitters.co.jp/tabitohibi
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