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2025.12.25

 

もっとしなやかに不純に生きて行っていいと思う。もちろん、学問とか技術開発とかそれなりに必要な集約性というのがあるけど、生きている中で感受したものを形にする世界だったら、もっともっとしなやかで自由にやったっていいんじゃないかな。でも、しなやかにやりすぎるとアマチュアだと言われるけど、アマチュアでなぜ悪いのか私にはよくわからない。[1]

宮迫千鶴《魔法の庭》1987年[2]

「コ本や」でのレクチャー[3]の帰りがけ、アーティストで研究者の北川光恵さんと立ち話になった。親子関係についてやりとりしていた我々の会話は、とちゅう松浦理英子をかすめつつ、宮迫千鶴なる人物へと移っていった。北川さんが「宮迫千鶴の『ハイブリッドな子供たち』を読んだらぜひ感想を聞かせてほしい」とすすめてくれたのである。自分はそのとき、宮迫千鶴の名前をほとんどまったく知らなかった。すすめられたら読むしかないと、早速古本を手に入れたのであるが(宮迫の書籍は残念ながら多くが絶版である)、みるみる惹き込まれていった。フェミニズムと家族論のあいだのエアポケットを、片親のもとで育てられた自身の経験に根差して論じた文章で、1980年代にこともなげにこれを書いてる人がいたのか、という気持ちになった。きっといま以上に「片親」や「離婚」は欠陥のしるしとして受けとられていたに違いない。にもかかわらず、宮迫は「片親の子供」を当たり前のものとして描いていくのである。かくいう自分も片親育ちのため[4]、宮迫の書いていることはほとんど抵抗なくスッと入ってきた。

この感覚は珍しかった。なにかを学ぶということは、いまいる場所から出ていくということでもあるわけだが、宮迫の書く「片親の子供(=ハイブリッドな子供)」論は、自分が居残りしている場所に向こうから来てくれたという感覚があった。なにも寄り添ってくれるというわけではなく、彼女はただ勝手に書き倒しているだけなのであるが、その姿勢から受け取るものがあったのだ。自分はすっかり宮迫が気になり、次から次へと著作を読んでいった。旅先で訪れた街に引っ越してきてしまったようなものだ。

宮迫千鶴『ハイブリッドな子供たち──脱近代の家族論』河出書房新社、1987年
表紙は宮迫千鶴《カメレオンの無意識》1984年

宮迫千鶴は画家であり、評論家・エッセイストでもあった。1947年に広島の呉に生まれ、2008年に亡くなっている。1970年、広島県立女子大学の文学部を卒業したあと上京し、1988年からは伊豆に移り住んだ。60年あまりの人生のなかで、彼女は多くの作品と文章を残した。作品は絵画、コラージュ、キルト、立体とさまざまであり、伊豆では作家仲間たちと芸術祭も企画していた。書く内容も、家族論やフェミニズム論にとどまらない。生活に関するエッセイやスピリチュアル論もあれば、対談も数多くこなし、1970年代から80年代にかけては美術批評、文化批評、写真論を旺盛に手がけた。本の装画も、多くは宮迫自身によるものである。

したがって「これが宮迫千鶴だ」と一冊の書籍をもって即断してしまうことは難しい。北川さんと自分は「宮迫千鶴研究会(つる研)」を結成し、知人のアーティストや批評家も誘って読書会を重ねていくことにした[5]。現在はご遺族の協力のもと、作品調査をゆっくり始めている。この連載では、時折、宮迫千鶴の話が入ってくるだろう。ただ、強調しておきたいのは、北川さんも自分も「忘れられた作家の再発見!」という気持ちで宮迫を読んでいるのではないということだ。自分はほんとうに、宮迫千鶴の隣人になりたいのである。そこに過去も現在もないのだ。

宮迫千鶴『ママハハ物語』思潮社、1987年

というわけで、宮迫の著作を順に読んでいっているのだが、自分の場合は、序盤に『ママハハ物語』を読めたのがよかったような気がしている。1970年、上京して『月刊いけぶくろ』の編集アシスタントの仕事についた宮迫は、そこで雇われ編集長をしていた谷川晃一(1938–2024)と恋愛関係になる[6]。谷川には別に妻子がいた。谷川と、彼の子供といっしょに暮らす「悲喜劇」をまとめたのが本書であり、宮迫はそこで自らを「ママハハ」と呼んでみせる。子供のことは「Q太郎」、谷川にいたっては「アステカ怪人」呼ばわりである。

そんな「アステカ怪人」こと谷川晃一は1960年代から活躍していた作家であり、ハイレッドセンターによる「首都圏清掃整理促進計画」に参加したりと、同時代の作家たちとも交流があった。1970年代以降、谷川はそうした「シーン」から次第に距離をとり、ラテンアメリカの民衆美術に関心を向けるようになっていたが(ゆえに「アステカ怪人」なのだろう)、それでも前衛の旗手たる旧友たちは彼のもとを訪れた。ある夜(1983年頃である)、Q太郎が帰宅すると、秋山祐徳太子、中村宏、小島伸明、田名網敬一、平賀敬、吉野辰海がどんちゃん騒ぎをやっていた。こういうとき我々は「そうそうたる顔ぶれだ」と思ったりもするわけだが、子供からすれば全く関係のない話である。しかも、「アステカ怪人もママハハも自分が遊びたいので、「ここにあるものを適当に食べなさい」と言ったきりで、かまってやらない」[7]。あまつさえ、数日後には一枚の写真を見せられる。Q太郎が目撃したのは、大人たちがパンツ一丁になって「彫刻ごっこ」に興じている光景であった。

吉野辰海、平賀敬、谷川晃一、小島伸明による「彫刻ごっこ」。「ラオコーン」や「考える人」のようである。秋山祐徳太子らは帰っているため、撮影はおそらく宮迫千鶴。
出典:谷川晃一『毒曜日のギャラリー』リブロポート、1985年、p.215

「ヒジョーシキ」だと文句をいうQ太郎に、ママハハは事情を説明する。

「みんな、それぞれ一人で淋しかったのよ。友達が次々とガンになったり死んじゃったりすると、不安になるでしょ。自分の人生もこんなものかなと思うじゃない。Q太郎はまだ若いから、ピンと来ないかもしれないけど。みんなああやって騒いで、ああ生きてるんだなぁって気になったんだから、いいじゃない。少々非常識でも。ね、そう思わない」[8]

もちろん中年男性たちのホモソーシャルな戯れであり、子供にとっては心底うんざりする経験でもあると思うのだが(自分だったら絶対嫌である)、それでも、宮迫は彼らを「特別、悪いことをやってるわけでもないでしょ」と庇うのである。別のエッセイでは、「わたしもフェミニストのはしくれであるから」と強がりつつも、Q太郎の生きる「性革命時代」の進みぐあいにたじろぐ姿が描かれる。一方のQ太郎は、父と籍を入れない選択をしたママハハに向けて、いっしょに「新しい墓のデザインをしようよ」と提案するのだ[9]

宮迫千鶴『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年

──宮迫千鶴が気になってきてくれたら嬉しいのだが、どうだろうか。前のめりで、先回りをしすぎたような気もする。いったん腰を落ち着けて、宮迫の活動を順に見ていくことにしたい。

宮迫の最初の単著は『海・オブジェ・反機能』と題された現代美術論集である。ルイーズ・ネヴェルソン[10]の来日講演の記録と彼女のオブジェ制作の方法論の分析に始まり、コーネル、ラウシェンバーグ、ウェッセルマン、シーガル、オルデンバーグ…と主にアメリカを拠点とするアーティストの小論が続く。しかし注意すべきなのは、タイトルに「アメリカ」の文字がないように、宮迫の問題意識が海の「向こう」のアメリカ文化にあるのではない点だ。

私にとって六〇年代アメリカのポップ・アートは、その直接的な表現性ゆえに、私の神経を逆撫でする怪物であり、手におえない代物という感じだった。ダウンタウン〔・ブギウギ・バンド〕の歌を聴いた時、それまで無意識にひきずっていた私の〈内なるアメリカ〉ともいうべきものが一挙に動き始めた。[11]

南画廊でのルイーズ・ネヴェルソン展の様子、1975年
出典:Archives of American Art, Smithsonian Institution – Louise Nevelson papers
https://edan.si.edu/slideshow/viewer/?damspath=/CollectionsOnline/neveloui/Box_0014/Folder_038

社会の「海辺」[12]に漂着した廃品を拾い上げ、その機能を回復させるのではなく、「オブジェ」という別なる生への「転生の予感」を見出すアーティストたち。その批評を通じて宮迫が企むのは、〈内なるアメリカ〉探究の準備であった。日本のなかに──ダウンタウンが歌うように「ヨコハマ・ヨコスカ」にも[13]、生まれ育った軍港・呉にも、そして東京にも──アメリカが「いる」。そして自分の身体のなかにも、アメリカが「いる」。論集は立川[14]の「米軍ハウス」[15]を舞台にした生活の描写で締めくくられる。

映画「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」(1975年)のオープニングカット

一般公開されている東京・福生ふっさの米軍ハウス内[16]。撮影:西澤諭志

福生にあるカフェ。撮影:西澤諭志

宮迫は1974年、家具備え付けの米軍ハウスで谷川と同棲を始める。米軍ハウスとは、アメリカ兵やその家族が住むために基地外に設置された住居である。兵士の数はベトナム戦争の泥沼化に伴って増え続け、基地のなかだけではまったく足りなくなっていた。

かつて住んでいたアメリカ人にしてみれば、立川に住むということは、いわば戦時体制であり、ベトナムに向けて明日にも飛び立たねばならぬ境遇であって、物見遊山の日本生活ではなかった。それゆえ、慣れぬ日本的な暮しより、仮に気候条件は合わずとも自分達の生活習俗を行なうほうが、より自然だったはずである。米軍ハウスというのは言ってみればウェスタンコートの名の如く”小さなアメリカ”なのであり、そうでなければ基地にふさわしくなかったのだ。[17]

宮迫は米軍ハウスの広さ[18]に、10日分の食料を溜め込める冷蔵庫の巨大さに、あるいはペンキで赤、青、緑に彩色された内壁にうんざりしながら、自由が丘画廊のトム・ウェッセルマン[19]の展示を訪れ、ダウンタウン・ブギウギ・バンドを聴くのである。日本の高温多湿の気候に全く寄せることなく建設された家屋に大量のカビが発生するのを嘆きながら、その「ちぐはぐさ」を受け入れていく。宮迫のコラージュ作品には、全く同一のイメージを隣り合うよう並べるなど、ウェッセルマンからの影響を感じさせるものがいくつかあるが、この「ちぐはぐさ」の体感抜きには考えられない。どちらも生活環境に根差しつつ、大量消費社会やアメリカの豊かさを記号的に平面へと移植する点は共通するものの、ウェッセルマンの食卓には「黴の花」は咲かないのである。宮迫のコラージュに配された記号的アメリカのイメージは、しばしば、どこかよそよそしく、平面の端へ端へと遠慮がちに貼られている[20]

Tom Wesselmann, Still Life #25, 1963
出典:X – @RoseArtMuseum https://x.com/RoseArtMuseum/status/1065258851820285952

宮迫千鶴《イタリアン・ソング》1978年

宮迫が「美術や写真という視覚的なメディアを手がかりとして明らかにしてみたかったのは、この内なる混合状態の構造」──ひとつの身体のなかに複数の文化が混入する際のメカニズムであった[21]。彼女の洞察は、戦後文化における進駐軍の影響に関心を持っていた谷川を触発し、ふたりは日本の都市部における「基地文化」の影響について調査を始める。宮迫が集中的にアメリカの作家について執筆していた1977年は、敗戦以来米軍が占拠していた立川基地が全面返還された年でもあった[22]。返還の翌年(『海・オブジェ・反機能』が出版された年)、今度は谷川が渾身のエッセイを発表する。左派系総合誌『流動』に掲載されたそのエッセイは「アール・ポップの時代」[23]と題され、読者の手に渡るや否や毀誉褒貶を一挙に浴びることとなる。

『流動』1978年11月号の目次(一部)。谷川は『美術手帖』の外で、まったく異なる読者に向けて、「アール・ポップ」論を書いている。なお、谷川の次のページを飾るのは絓秀実である。


谷川晃一『アール・ポップの時代』(皓星社、1979年)と増補改訂版である『アール・ポップの世界』(‎廣松書店、1985年)。「時代」は谷川が、「世界」は宮迫がそれぞれ装丁を手がけている。宮迫がコラージュで使用しているのはロンドンで開催されたアールポップ展(「JAPAN TODAY」展、ICA、1981年)の際の郵便物の一部であろう。

「アール・ヌーボー アール・デコ に次ぐ新しい感覚の洪水が今、世界を浸し始めた クロスオーバー感覚の持主 谷川晃一のアンテナがとらえた新しい時代の波 物神から解放され人間の主体性をとりもどしたカジュアル・ライフの創造を提案する」[24]

いかにも挑発的なそのエッセイは「生活、表現、文化が三位一体となった「アール・ポップ」という新しい視点」[25]を観念的な芸術の対角線上におき、「生きられた芸術」を提示するものであった。それは「戦後のアメリカナイズされた日常、、、、、、、、、、、、的事物を好むことであり、そうした事物を好むデザイン感覚」[26]の析出であった。谷川が打ち出した「アール・ポップ」は、具体的にどのようなものなのか、そして宮迫は「アール・ポップ」をどのように考えていたのか──これらの疑問には、次回以降あらためて向き合っていきたい。差し当たって今回は、次のことばを引いて結びに代える。

「アール・ポップの時代」は、『流動』誌上においては谷川晃一の名前で発表されたが、このエッセイによって問題にされている”アール・ポップ的感性”の明確化は、ひとつの共同作業の結果で、私達すなわち青画廊を主催する青木彪、谷川晃一、そして私の3人が個々の角度から今日的感性について抱いていた意識を言語化してみようという実験的な試みだった。[27]

(続く)


[1]対談「ヒトと風景のために」『CONTRAST 谷川晃一・宮迫千鶴』リーフレット、ギャラリー505、1982年
[2]宮迫千鶴の作品画像は遺族にご提供いただいた。記して御礼申し上げます。
[3]キュレーターの権祥海との共同企画「沖縄・日本・韓国の美術をたどりなおす(全6回)韓国現代美術史レクチャー・シリーズ続編」の「第3回 優生保護法体制下の美術」、2024年9月1日、https://honkbooks.com/kcah2024/
[4]また宮迫と異なり、自分の親の場合は離婚ではなく死別である。
[5] 北川光恵さんのnoteも参照。 https://note.com/32e_ktgw/n/nd7f9171142fd
[6]谷川晃一「Ⅱ 宮迫千鶴と絵画──解説に代えて」宮迫千鶴『アートを通した言語表現──美術と言葉と私の関係』河合文化教育研究所、2009年、p. 59
[7]宮迫千鶴「“彫刻ごっこ”とママ乳」『ママハハ物語』思潮社、1987年、p. 108
[8]同書、pp. 110–111。この時期に早逝した作家に寺山修司(1935–1983)がいる。谷川とは3つ違いである。
[9]宮迫千鶴「素敵な共同墓地計画」同書、p. 94
[10]本文では「ルイーズ・ニーヴィルスン」とあるが、表記を改めた。展覧会は「Louise Nevelson」南画廊、1975年2月3日–2月28日。講演はアメリカ文化センター。
[11]宮迫千鶴「あとがき」『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年、p. 92
[12]『第三文明』での連載時のタイトルは「海辺の画廊」であった。
[13]「ダウンタウンの歌には、収拾されざる戦後、硝煙の匂いや武器輸送船を吹く潮風、前線に送られる兵士たちの不安と一夜の歓楽、取り残された女の孤独といったキナ臭い痛ましさがある。それは「どん底」、たとえば横須賀のどぶ板通りの、夜になるとMPがパトロールにまわり、なかばゴースト・タウン化しながら、エンター・プライズやその他の米海軍の艦船が入港すると一挙に息を吹きかえす、年増女を思わせる悪夢のような空間にある終らざる戦後なのである。」(「収拾されざる戦後」『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年、p. 73)
ただし、ダウンタウン・ブギウギ・バンドが「基地文化」を前提とした楽曲制作を行っていたのは戦略的な要素が強かったようである。もちろんそれはアメリカ文化の追従を意味するのではない。彼らの基地文化の引用は、「海外の本場のロック」との遠近法において自分たちの音楽を判断させないための戦略であり、対抗の手段としての換骨奪胎であった。(塚田修一「<基地文化>とポピュラー音楽:横浜・横須賀をフィールドとして」『三田社会学会』第19号、2014年、pp .83–85)
[14]正確には宮迫たちが住んでいた米軍ハウスは中神駅の近くである。
[15]米軍ハウスとアメリカナイゼーションの現象は日本国内に限らない。
「1950(昭和25)年にアメリカ軍が台湾に進駐し、経済支援を行なった際、アメリカは中国政府と交渉し、台湾に駐留する米軍の将校を移住させるため、各地に軍属村を建設した。〔…〕一方、近隣の台湾人は、生活費を稼ぐために米軍ハウス地区に出稼ぎに行った。それに伴って、コカ・コーラに始まり、サンドイッチ、バスケットボール、ハロウィンなど、アメリカ的生活文化の象徴が、次第に広がっていった。陽明山地区の農村は、西洋風の商業的な街並みに変化し、1962(昭和37)年に中国文化大学が設立されると、さらに人口が増加した。こうして米軍ハウスを通して台湾人とアメリカ人の日常生活の中に徐々に在来と外来の文化が相互に浸透していった。」(小塩和人『忘れられた米軍ハウス』上智大学出版、2024年、pp. 74–75)
以下も参照。Syong Yi-ping, Echoing Footsteps of the American Military Presence in Taiwan : Taichung in the 1960s, 臺中市文化局, 2025
[16]海老原暎(1942–)は福生の米軍ハウスに一時期居住していた。彼女の米軍ハウスをモチーフにした版画作品については以下を参照。「【連載】イザナギと呼ばれた時代の美術 #2:1970年に起きた検閲と抗議。ベトナム戦争の死者を扱った作品をめぐって(文:長谷川新)」https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/izanagi-to-yobareta-jidai-no-art-02-2022-11
[17]宮迫千鶴「ランドリー・ゲートの日々」『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年、pp. 84–85
[18]「6畳、4.5畳のツールーム、6畳のキッチン、10畳のリビングルーム(これでもハウスとしては一番小さなものだ)〔、〕バス・トイレにわずかながら庭もある。米人たちが置いていった据えつけのクーラーもあるし、四つ同時に使えるオーブンつきガスレンジ、中古ながらベッドやソファーもある。」(宮迫千鶴「ランドリー・ゲートの日々」『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年、pp. 83–84)
[19]「TOM WESSELMANN」自由が丘画廊、1976年4月20日–5月16日
[20]宮迫の平面作品においてイメージが中心から外れたところに配される点については、北川さんの指摘も大きい。ほかに、装丁における文字組などを考慮した仕事だった可能性についても話にあがった。
[21]宮迫千鶴「あとがき」『海・オブジェ・反機能』深夜叢書、1978年、p. 93
[22]「1977年11月30日 米軍立川基地、日本側に全面返還」日本経済新聞(2020年11月27日) https://www.nikkei.com/article/DGKKZO66710960X21C20A1EAC000/
[23]「アール・ポップ」の重要性については椹木野衣が2000年代から折に触れ言及している(椹木野衣「再読・石子順造──もの派/幻触からマンガを通じ、トマソン、アール・ポップ、日グラ、そしてスーパーフラットまで」『10+1』 No.4、2005年9月発行、pp. 13-15)。塚田優の以下論考も参照されたい。「ポップ・アートとデザイン 田名網敬一、横尾忠則、アール・ポップ(後編)」https://mediag.bunka.go.jp/article/article-17551/
[24]谷川晃一『アール・ポップの時代』(皓星社、1979年)の帯文
[25]谷川晃一「即解釈 アールポップの時代 80年代に向けての芸術及び大衆文化の行方」『流動』1978年11月号、p. 194
[26]同論考、p. 188
[27]宮迫千鶴「美術における直接感覚の復権 「キャンプ」から「アール・ポップ」へ」谷川晃一編『アール・ポップ』冬樹社、1980年、p. 8

プロフィール
長谷川新

インディペンデントキュレーター。2025年の主な企画は「西澤諭志 個展『1日外出券』」(YAU、東京、相談所企画)、「戦後80年企画 大和楓 個展『シッティング・イン・ザ・タイム』」(立命館大学国際平和ミュージアム、京都)、「無宿」(さっぽろ天神山アートスタジオほか、札幌、遠藤水城・沢田朔と共同キュレーション)、「カムバック! 紅葉祭 同時開催展」(AIR大原、京都)など。共訳にジュリア・ブライアン゠ウィルソン『アートワーカーズ 制作と労働をめぐる芸術家たちの社会実践』(フィルムアート社、2024)。国際美術評論家連盟会員。WORKS_HOP(https://work.haps-kyoto.com/)管理人。
撮影:FM797 三条ラジオカフェ

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