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2026.01.16

Lesson.0

歌うための準備をしよう。昨日のさみしさと、“折り合い”をつけるために。
目をつむり、あなたの部屋で、あなたの心をともす歌を、思い浮かべよう。
歌う自らを、まずはただ、想像すること。あなたが歌う姿を見つめる、その聴き手の目が、ひとつ、ふたつと増え、聴衆となる。
さて、
言葉に集中せよ。一人きりで口ずさめ。言葉を確実に自分のものにせよ。
誰かが書いた歌。あなたの耳へとすべり込んだ歌。それはいつしかあなた自身の心と共振し、あなたの口からこぼれだす。
あなたはいつしか歌を食べてしまったのだ。その歌があなたの身体を変容させる。あなたが咀嚼したその歌もまた、すでに元通りでなく、あなたのなかを通った歌としてそこにある。
その歌の観客はまず、あなた自身なのであり、そしてあなたが思う誰かに“再び”会いに行くための“杖”になるだろう。いま、わたしたちには、だれかと様々な距離のもとで歩くためのレッスンが必要だ。
いかなければならなかった/帰らなければならなかった昨日を思って、たった一人で歌いきれ。

そしてあなたがたが読む、これも当然、わたしの歌であり、わたしへのレッスンなのである。

 

“詩”として“歌詞”を読むために

本連載で私が試みるのは、歌詞についての批評である。としての歌詞を、つまりことばとしてのを、手にとってよく眺めてみる作業である。

ちょっと見渡せば、音楽批評はこの世に溢れている[1]。アーティストへのインタビューそれ自体が、批評的な役割を持っていることもある。ただしそこでは往々にして、印象にのこる歌詞のフレーズ引用が象徴的にちりばめられ、“音楽”としてのルーツ、活動のきっかけ、シーン意識やポジションの話に言葉がさかれている。またアーティスト本人が“どのように意図して制作したプロダクトであるか”が重視される傾向もあるだろう。もちろん、歌は言葉だけでは成り立たず、またライブの場は往々にして、アーティスト自身がそこに実際にいることに価値がおかれている側面もあり、歌をとりまく批評空間がアーティスト本人を中心におくことはなんらおかしなことではない。ただ、少し首の向きを変えてラップ批評を見てみれば、中村拓哉[2]、つやちゃん[3]、赤井浩太[4]、佐々木知子[5]といった面々が、人だけでなく言葉の批評として分析対象と切り結び、批評シーンを作っているようにみえる。

むろん、ないわけではない。むしろ歌詞に注目した批評自体は多くある。たとえば近年では伏見瞬のスピッツ論[6]や2021年にすばるクリティーク賞を受賞した西村紗知の椎名林檎論[7]があり、クィア・リーディングを精力的に発表するライターとしては長谷川白紙論[8]の青本柚紀や、Haru Takitoh[9]の名を挙げることができる。直近では水城鉄茶が詩人としての立場から星野源の歌詞批評を発表[10]していたことも印象深かった[11]。しかし“歌詞”を“詩”として、言葉の側にあえて過剰なまでに強く重心を置いて、読み込むことに注力した批評は、蓄積がまだやや浅いようにも思える。歌詞批評全体総数が多い割には、シーンとしてやや分散しているともいうべきか[12]。ひとつの歌の歌詞が、あるいは編み物としてのアルバムが、言葉の構造物として、どのような自律性をもち、聴き手に何をもたらしているのか、という問題について、私はもう少し考えてみたい[13]

文学研究の領域ではロラン・バルトが「作者の死」[14]を宣言して久しく、作者がどう企図したかではなく読者の読みの可能性により重心を置くのが主流となっている。もちろん作者もまた読者の一人であり、また一人の生きた人間であるからして、テクスト読解から作者を排斥する所作が取りこぼす問題も多くあれど、歌の批評において、アーティストの像をやや特権的な位置からずらし、また言葉の“構造物”としての歌詞/詩について改めて思考しつづける、そんな批評の言葉が必要なのではないだろうか。

詩/歌/ステートメント、その境界域へ

詩と歌の境界域にはもとより、ややはりつめた空気がある。相互の境界の曖昧さゆえの緊張感。両者の違いはなにか。あるいは両者に共通するものは。歌詞批評を、言葉の批評としておしすすめるのであれば、まずはこの点について考えなければならないだろう。詩も歌も、散文とは違った飛躍が可能だ。そして音の力に左右されるところにジャンルとして大きな特徴をもつ。そして詩も歌と同様に声に出すことで、朗読として聴覚的に作品を立上らせることが可能だ。また一方で歌も、それだけで成立しえないのはもちろんとして、歌詞カードをただ読むときに感じる愉楽もあるだろう[15]

詩人の小池昌代は「歌うように書きたいと願いながら、それでも歌になってしまったらおしまいだというようなぎりぎりの意識で現代詩は書かれているように思う[16]」と言う。この「おしまい」という言葉にかかる重力。ここには “詩人”として“歌”ではなく“詩”として作品を発表することの矜持を感じるだけでない。近接領域として、その曖昧さゆえに線引きをしなければすまないことの切実さをみることができよう。小池がこのように言及したのは、『現代詩手帖』「詩と歌──作曲という批評」特集(2016・3)である。しかし本特集において詩と歌の境界に関する見解は様々で、文月悠光が提示していたのは、すでに“歌”を包摂する“詩”が持つ言葉の力への期待のようなものだった。

言葉に飢えている。わかりやすいフレーズが歓待される世の中で、音楽だけでなく、世間全体が詩に飢えているのかもしれない。果たして、詩は歌に飢えているか。
(中略)
しかし、優れた詩人の詩を読んでいると、その詩が声になって響きはじめることがある。それは限りなく「歌」に近いものだ。文体の勢い、立ち止まり方、「聴かせる」かのようなリフレイン。詩ははじめから「歌」を持つ。定型から離れた現代詩にも「歌」は潜在している。[17]

後半から読み取れるように、文月は“詩”と“歌”の間に強い線引きをすることはなく、むしろ両者が互いに食い合っているような風景を見る。その曖昧さのうえで私が重要だと思うのは、“わかりやすいフレーズが歓待される世の中”に、“詩”の言葉が必要なのではなかろうか、という“詩”の“現実”へのアクセス回路の可能性である。約10年前のテクストといえど、 “わかりやすい”敵を作ることで、分断を煽り、排外主義的で差別的なデマを積極的に流布させた参政党やトランプ大統領がそれでも票をあつめ、政治的権力を得てしまう2026年現在の情勢の火種はもちろんすでにあった。文月が期待を寄せるのは、そうした詩(/歌)の、“わかりやすくはない”言葉の力が、現在“世界”を支配する言葉のありようを組み直す、その可能性なのではなかろうか。しかし一方で、かつて戦時中に少なくない詩人たちが戦争プロパガンダに加担したこともよく知られている[18]。“詩”はよくもわるくも現実に作用する力をもつ。それは“歌”とて同じだろう。しかしゆえに、“詩”の言葉が持つ、“現実”へのアクセス可能性から、わたしは目をそらすことができない。

アメリカの詩人ボブ・ホールマンもまた、『現代詩手帖』「朗読/リーディングの地層」特集(2024・4)においてこのように話す。「あらゆる文化において詩と音楽はつねにひとつ、それを切り離すことはたんに商品化の手段だ」と。詩/歌を分かつ線のありようは、作品の内部に起因するものではなく、外在的な環境要因による場合がある。つまり詩/歌が現実にアクセス可能なように、詩/歌も現実からの影響を多いに受けるということだ。ちなみにこの一節をまとめる小見出しは「詩とアクティヴィズムが合わさる場所」である[19]

詩を考えること、歌を考えることは、すなわちその言葉は放たれた先の現実を考えること、政治性の問題を考えることでもある。詩と歌の境が曖昧なように、詩とアクティビズム、詩とステートメント(≒声明・宣言)もまた、その線引きは引かれ直され続けていく。

この連載もまた、そうした境界域の曖昧さを追うことを目的のひとつとした。

なにより、私は文学研究にルーツを持つ書き手だから、歌詞をテクスト分析の俎上にのせてみたかったのだった。音楽に強い専門性をもつわけではない私とっては、こうした手法がより確かな批評態度ともなるだろう。

分析対象も、歌詞それ自体が、歌でありながら詩に限りなく近いと思われるものを選んだつもりである。隔月で6回、ピックアップしたアーティストの歌詞について、できうるかぎりテクストとしての可能性を引き出していく。

さあようこそ、詩と歌とステートメントの、境界域へ。

昨日のさみしさのために──関係性のポリティクスへ

しかし、さみしさの話がしたいのだった。分析対象を選んでいくにあたって、またその歌詞を読み込んでいくにあたって、いつしか頭はそのことばかりだった。詩と歌詞のことを考えていたつもりが、浮かんでくるのは“さみしさ”のことだった。

ひとしきり笑いあって、「次の予定があるから」といって電車に乗る友達、「家が遠いから」と早めに帰った夜、親しい人との素晴らしくあたたかい時間、その翌日布団で寝込んでいる自分、二度と会わないと告げ合った決定的な訣別、不意に訪れるなつかしさ、そして何とはなしにいつのまにかあわなくなってしまった数々の人たちよ……どうして(/いるの)。

愛おしいもの、手放したい悲しみ、誰かにつけてしまった傷、出会ってしまったすべて、忘れたい/忘れられない/忘れたくない/忘れてしまうかもしれない/もう忘れてしまったのかもしれない、過去と記憶への偏執が、わたしのなかで首をもたげはじめる。

先ほど、詩/歌を考えることはすなわち、現実を考えること、政治の問題にタッチすることだと言った。わたしにとっての現実はひとまず、“さみしさ”と“記憶への偏執”として立ち現れた。そしてそれは、関係性と親密さにまつわるポリティクスをも問題の射程にいれることとなる。本連載のもうひとつの軸は、ここにある。

すでに過去に書いてきた文章でも、わたしは“関係性”の話をしてきたつもりだ[20]。主にジェンダー・セクシュアリティ研究、フェミニズム等のアイデンティティ・ポリティクス、蓄積された/されつつある知と思索と実践をたよりに、わたしたちを抑圧する社会の仕組み、構造的な課題、それらが身近なところでどのように表出しているのか(あるいは秘匿されてきたのか)、考えてきたつもりである。そして、“関係性のポリティクス”というとき、それは多くの場合、あらゆる差異を抱えるもの同士が“どのようにして共にいるか”という未来に向けた問いとして、イメージされることが多いだろう。

では、すでに去った者たちは?(喪失は、出会いがそこに確かにあったことの証左。)

あるいは、(明日また会うとしても)いまここにいない他者への思いは?

いくつものあなたとの、関係性のままならなさを、距離を、どうにもできないことを、“失敗”したのかもしれないコミュニケーションを、自分でも耐えがたい感情の矛先を、許せない誰かを、悔いを、どのように見つめるべきか。過去への遡行、現在の凝視。それはあらゆる親密さ、あるいはまったく親密とはいえない関係性においても、問うことが出来る。

ここで一度、『現代思想』「〈友情〉の現在」特集(2024・6)をひらいてみるのもいいだろう。中村香住・西井開の対談「すべてを「友情」と呼ぶ前に 名づけえないいくつもの関係」[21]の前段では、本対談が「恋人にも家族にも収斂しえないつながりが社会的にも切実に求められつつある現在、「友情」はいかなる可能性を持っているのか」という問いのみならず、「ときに含まれうるその危うさについて」も問うものであることが示されている。

ヘテロセクシズム(≒異性愛主義×性差別)をはじめとする性規範は、いずれ結婚に結びつく異性愛恋愛を頂点にしてその他の関係性を弁別し、異性愛恋愛の下位へと序列化し、それが事実であるかのように見せかけるシステムだ[22]。だからこそ中村が「それぞれ異なるはずの関係がすべて同じ「友達」という言葉で説明されなくてはならないこと、いわば「残余カテゴリー」として」の「社会規範上の友情」が「不当に価値が貶められている」ともいうように、関係性のポリティクスにおいて、ヘテロセクシズムの瓦解にむけた「友情」の再考は有効である。しかし一方で、西井が「やはり友情というマジックワードにさまざまな意味が込められすぎている」とも言うように、「友情」を恋愛(主義)の“別解”のように扱うこともまた危うさをはらんでいる[23]

対談において西井が「欠乏感を埋めるために、さらなる承認を求め、強く結びつきたいと思えば思うほど、境界線が太く濃く引かれてしまう」ことがある、「自分の失態によって向こうが離れていく怖さを思うと、卵の殻の上を歩くように過度に慎重になってしまう自分がいるのも確か」だとも述べるように、いかなる関係性(親密さや断絶……)においても、輝かしい喜びやぬくもりのほか、執着や不安、苦悩、悲しみに向き合わざるを得ない。

同誌収録のひらりさによるエッセイ「ロマンチック・フレンドシップ・シンドローム」では、いくつかの断絶とあきらめの先で友情をこのようにとらえている[24]

たがいの性質を理解しながら、不誠実さを認めながら、片方に負荷のかかりすぎない境界線を引くこと。友情とは、自他の境界を確認しつづける行為の反復の結果に過ぎない。
友達なんていなくても大丈夫だと思えてから、私には友達がちゃんといるようになった。

関係性のポリティクスとは、接点と継続の問題だけでなく、距離と断絶の問題でもある。そしてそれは未来への問いであるだけでなく、過去への問いともなる。中村もまた、関係性において断絶を経験する場合、一度「身を引きつつ」「待つ」という選択をすると述べていた。関係性の未来に向けた問いは、“どのようにして共にいるか”というだけでないのだ。

距離を、過去を、その“ままならなさ”を、みつめてみること[25]

どうすればよかったか、そしてなぜどうにもしようがなかったのか。

共にいないという選択、あるいは事実。

それらをただ“さみしさ”という言葉から問いはじめてみるのはどうだろうか。

思えば、わたしは“さみしさ”に背を向けるようにして、あるいは踏み散らすようにして、前に進んできたのだった。わたしは、卒業式で泣けない人間だった。どれほど仲が良くてもその人にはもっと仲がいいひとがいるように見えた。同志のような関係性でさえ、何かのきっかけでふいに終わりがくることもあった。さみしさを紛らわすために居場所を増やした。どこにも居場所があって、どこもHOMEではなかった。

自分が、いずれ必ずどこかへ去ること。誰かとの距離が広がっては縮まり、忘れられたり思い出されたりすること、それでもいつも脳のどこかには残っていること。

すでに繰り返され、繰り返していくであろう日々、そう宿命づけられている(極めて不安定な)現実を、わたしは、わたしは……?

言葉で踊りながら歩くために

帰り道、夜の県道の端を、一人きりで歩いている。時々ステップを踏む。理由は“この”歌。イヤホンを耳に装着し、スマホをタップして再生した“この”歌。歩行のリズムに沿って様々なことを考える。言葉に集中する。この歌を聴く理由、なんども聞く理由、なんども聴かなければ気が済まない理由、だんだん歌っているのは、私だったようにおもえてくる。耳から流れ込んできた歌がふいに自分の感情をいいあててしまったとき、そこではじめて感情が言葉の輪郭を得たにもかかわらず、まるではじめから自分でそのように語っていたかのように錯覚している。

一人きりで、口に出さずとも歌っている。さみしいから、歌っている。さみしい理由を、探している。

歌人で研究者の瀬口真司は寺山修司論において、寺山の「外套のまま墓石を抱きおこす枯野の男かヽわりもなし」の歌について「だが、本当に「かヽわりもな」いのであれば、なぜわざわざそのように歌い込まなければならないのか。」[26]と述べていたが、歌はそう、名指すことがためらわれる何かを、それでも歌い込まなければならない切実な心のためにある。

ポール・ヴァレリーが散文を歩行に、詩を舞踊・ダンスにたとえたことはよく知られているが[27]、わたしにとって詩/歌は、ダンスであり、そして歩行でもある[28]。『ウォークス 歩くことの精神史』でレベッカ・ソルニットは言う。「歩行のリズムは思考のリズムのようなものを産」むと。そして「歩くことの理想とは、精神と肉体と世界が対話をはじめ、三者の奏でる音が思いがけない和音を響かせるような、そういった調和の状態」であると。ならばこの文章も、言葉で歩きながら同時に踊る、そしてその先で思考を続けるための、そのレッスンになりうるだろう。そしてわたしはこれを、わたしなりのひとつの歌としてあなたへさしだす。

「由煕」で第100回芥川賞を受賞した小説家・李良枝は、受賞の言葉として「生き行くためのことばの杖」[29]と書き残していた。生きるために必要なのは、歩くための言葉と、踊るための言葉だ。二つはきっとわかちがたい。

言葉を“杖”として、踊りながら歩く。たとえば今ここにいない誰かを思って。昨日のさみしさと折り合いをつけて。その先を歩け。“杖”となる言葉を吟味する時間が、そしてその“杖”でもって踊り歩く時間が、その練習をする時間が、わたしたちには必要なはずだ[30]

さあはじめよう。あなたのペースで、踊ってみせて。

 

第0回 了

第1回は折坂悠太論を公開予定

 


1]日本の音楽・歌詞批評について、文化論的な蓄積としては、佐藤良明『J-POP進化論「ヨサホイ節」から「Automatic」へ』(平凡社、1999年)、烏賀陽弘道『Jポップとは何か 巨大化する音楽産業』(岩波新書、2005年)、宮入恭平『J−POP文化論』(彩流社、2015年)、imdkm『リズムから考えるJ-POP史』(blueprint、2019年)、細馬宏通『うたのしくみ 増補完全版』(ぴあ、2021年)などを挙げることができる。そのほか近年の雑誌の特集としては、『ことばと』vol.3(書肆侃侃房、2021・4)は「ことばと音楽」特集であり、『文藝』2026年春季号(65(1)、河出書房新社、2026・2)は「うたのことば」特集が組まれていた。歌の/と言葉の関係性には注目が集まっている。

2]「韻踏み夫」名義での著作に『日本語ラップ名盤100』(イースト・プレス、2022年)があり、近著である『日本語ラップ 繰り返し首を縦に振ること』(書肆侃侃房、2025年)から本名名義となっている。https://www.kankanbou.com/books/jinbun/0684(2025年11月29日最終閲覧)
3]主な著作として『わたしはラップをやることに決めた フィメールラッパー批評原論』(DU BOOKS、2022年)、『スピード・バイブス・パンチライン= Speed Vibes Punchline : ラップと漫才、勝つためのしゃべり論』(アルテスパブリッシング、2024年)がある。
4]赤井浩太「日本語ラップfeat.平岡正明」『すばる』41(2)、集英社、2019・2(1月5日発売)。第2回すばるクリティーク賞受賞作。
5]「日本のラップ音楽における 『戦争』表現」『メディア研究』106、日本メディア学会、2025・2/web連載『日本語ラップと戦争』生きのびるブックス(2025年7月1日第1回「ラップが紡ぐ〈戦争〉のリアル」公開・11月29日最終閲覧)
https://ikinobirubooks.jp/series/sasaki-tomoko/1933/
6]伏見瞬『スピッツ論 「分裂」するポップ・ミュージック』(イースト・プレス、2021年)
7]西村紗知「椎名林檎における母性の問題」『すばる』43(2)、集英社、2021・2(1月6日発売)
8]青本柚紀「破断と攪乱──長谷川白紙の詞におけるクィアネス」『ユリイカ』55(17)、青土社、2023・12
9https://kanipepsi.com/auther/(2025年11月3日最終閲覧)
10]水城鉄茶「言葉遊びは外へ──星野源『Gen』と詩の現代」https://note.com/tessa_miz/n/n8aacf099d7b7 (2025年10月10日公開、2025年11月3日最終閲覧)
11]また、約2年前には北田斎『鳥の鎮魂歌』という連載(柏書房のwebマガジン「かしわもち」)が印象深かった。ここでは主にフジファブリックが取り上げられており、「現代のロックやポップスに沈められた「神話的想像力」を汲み上げる」連載だと説明書きがある。
2023年12月20日公開「【第1回】神話的想像力とうたをめぐる試論——鳥の鎮魂歌へ」より引用・2026年1月12日最終閲覧
https://note.com/kashiwashobho/m/me36ece67d932

12]もうひとつ先行例として磯部涼編『新しい音楽とことば 13人の音楽家が語る作施術と歌詞論』(スペースシャワーネットワーク、2014年)を挙げてみるのもいいだろう。しかしこちらもアーティスト本人の語り──それは時に特権的な言葉にもなりうる──によって歌詞をまなざす試みだ。
13]入沢康夫は『詩の構造についての覚え書』(ちくま学芸文庫、2025年)において、詩の「構造への自覚と反省を積極的に深めていくこと」を志していた。そして「詩の「構造」が、作者と作品と読者と世界の関係を内に含む以上、ことは倫理的な局面にまでも触れていくだろう」と述べている点も重要である。
14]ロラン・バルト「作者の死」は『物語の構造分析』(花輪光訳、みすず書房、1979年)に収録されている。「作者の死」及びテクスト論というイデオロギーの理解にあたっては、石原千秋『読者はどこにいるのか 読者論入門』(河出文庫、2021年)が参考になる。テクスト論は「作者に言及することだけはしないという立場」であり、「たとえば、書いた後に作者がその小説に何を言おうと、それはそれ以上のものでもそれ以下のものでもなく、書かれた小説の言葉が変わるわけではない」という考えに基づくものであり、そしてテクスト論者の仕事は「テクストの可能性を限界まで引き出す」ことであると石原は述べる。初学者向けに簡潔に述べれば、作者を正解にしない立場と理解すればよい。
15]磯部涼は「歌詞やメロディやサウンドが絡み合った歌という芸術の中でも、歌詞という要素は妙に偏愛されているように思えてならないのだ」と述べている。(「はじめに」、前掲『新しい音楽とことば 13人の音楽家が語る作詞術と歌詞論』)
16]小池昌代「歌の大衆性」『現代詩手帖』59(3)、思潮社、2016・3
17]文月悠光「詩は歌に飢えているか」『現代詩手帖』59(3)、思潮社、2016・3
18]日本文学における特に詩の戦争責任問題については、坪井秀人『声の祝祭』(名古屋大学出版、1997年)に詳しい。序章で述べられているように、第Ⅲ部は「〈大東亜戦争〉下における戦争詩を論じたパート」であり、「日本近代詩の表現が戦争詩にゆきついてしまうことの意味を表現史的な問題として考察」されている。第Ⅳ部では「戦争期から戦後にかけて詩が連続していったもの」についても考察されている。本書は、文学者・詩人の「戦争責任(戦争協力)の問題の重要性」について注視しつつ、「単なる戦争詩批判」ではなく、「前史を見極め」、「詩表現の歴史の過程の中で考察」するものであり、一読をおすすめする。
19]ボブ・ホールマン/聴き手:村田活彦「詩の合衆国へ アメリカのリーディング史五十年」『現代詩手帖』67(4)、思潮社、2024・4。
ボブは「多くのアフリカの詩人たち」が「アフリカの外」で「詩人」ではなく「ミュージシャン」として認識され、またそのように自認さえしていることを紹介する。ここでもまた詩と歌の境界域の曖昧さをみることが可能だ。
20]長濵よし野「「あなた」をなかったことにしないために──竹村和子論」赤井浩太・松田樹編『批評の歩き方』(人文書院・2024年)、長濵よし野「大庭みな子作品における「母」表象の変遷 ―「山姥の微笑」から「啼く 鳥の」へ―」『近代文学研究と資料 第二次』18、早稲田大学大学院教育学研究科石原・金井・五味渕・和田研究室、2024・3
21]『現代思想』52(9)、青土社、2024・6
22]本誌(注21)内では、たとえば佐川魅恵が「「恋愛」と「友情」(あるいは「恋人」と「友人」)」の社会的な区別について「ともに親密な他者に対する感情的な結びつきやそれに基づく関係性だが、両者は質的に大きく異なるものとされて」おり、「恋愛が特別な感情に基づいた排他性を伴う関係であるのに対し、友情にはそうした感情的な激しさは必ずしも求められないと理解されているからであ」るということ、そして「こうした区別は、近代化に伴う人間関係の序列化と密接」であると述べている(「アセクシュアルとノンバイナリ―からみる「恋愛/友情」の(不)可能性」)。
そのほか『現代思想』「〈恋愛〉の現在」特集で谷本奈穂は、ロマンティック・ラブ・イデオロギーについて、「「結婚相手としてふさわしい相手に抱く感情」こそが「恋愛」なのだと規定してしまう方法」、いいかえれば「「恋愛のゴールは結婚である」という規範」であるとし、それが「ふさわしい相手との関係こそが「正しい」恋愛として社会的に認められることになる」こと、「ふさわしくない相手との関係は、「偽物」の恋愛として排除されること」につながってしまうのだと述べている(「ロマンティックラブ・イデオロギーというゾンビ」『現代思想』49(10)、青土社、2021・9)。これはまぎれもなく近代家族の再生産を稼働させ続けるためのイデオロギーであるが、その意味でもうひとつここに絡み合っているのが、男女二元論的かつ性器中心的な、異性愛主義である。竹村和子は、ヘテロセクシズムの仕組みのなかでは、同性愛の間で交わされる情愛についても、異性愛イメージからくる「「疑似」性器的な関係」を想定してしまうことによって、同性愛を「単に精神的なもの」 としないようにしているという。そしてそれは、そうしなければ異性愛者を自認する者にとって、異性愛者同士の「友情」と、「「単に精神的なもの」と認識した場合の同性愛」の区別がつかなくなってしまうためであり、そこから分かるのは、異性愛者が友情から性愛的なニュアンスを強迫的に取り除こうとしていることなのだと述べている。(竹村和子『愛について アイデンティティと欲望の政治学』岩波現代文庫、2021年)
谷本と竹村の議論をまとめると、ヘテロセクシズムの体制のもとでは、①男女の間の、②結婚にむすびつく、③次世代再生産のための性(器)的なニュアンスをはらんだ、恋愛関係のみに社会的な正当性という特権的な地位が与えられており、それ以外は「偽物」とされているということであり、これは同性愛・異性愛共に結婚に結びつかない恋愛のみならず、友人関係をも序列の下位に位置付けてしまうということである。そして結婚に結びつく恋愛に特権的地位を与えるということが、モノガミー規範を強化する仕組みであることは明白である。なぜなら、その特別な一対の関係性にのみ社会的な正当性が付与されてしまうからだ。
23]筒井晴香は「恋愛至上主義への疑問と多様なセクシュアリティが「かつてよりは広く理解されるように」なった一方で、「恋人がいなくても充実した人生を生きられる」」といった言説の「充実した人生」もまた、「友人など、親しく付き合える相手が誰かしら存在すること」を「前提」にしているのではないかと述べていた。(「「友情問題」と推すこと 好意の御しがたさ」、注21同誌収録)
24]ひらりさは「私にとって、「純粋な友達」とはどんなものか。認知の歪みを承知で明かそう。二人きりで何時間でも話せること。お互いになんでも話しあえること。何よりも誰よりもお互いを優先しあえること。かつては本気でそう思っていた。/でも、何度かの失敗を経て、私はこの概念を諦めた。諦めるべきだと思った。」とも述べている。
25]星野太は『食客論』(講談社、2023年)において、「「共生」とは達成されるべき理念などではなく、われわれがあらかじめ巻き込まれている所与の現実」であるという。ゆえに星野は、「ここ二〇年ほど」たとえば文部科学省のウェブサイトで公開されている事業報告書などで、「「共生社会」や「多文化共生」」といった言葉が「そうすべきである」というニュアンス含みで語られることが増えたことについて、その「社会的意義を否定するつもりもない」が、「共生それ自体が目指すべきゴールであるといったような言葉づかいには、やはりどこか違和感がつきまとう」という。
また、距離を起点に思索をすすめるアーティストとしてソー・ソウエンもあげておきたい。特に2021年11月に行われたプロジェクト「We will sea」は「北九州在住のアーティスト、ソー・ソウエン(Soh Souen)とオランダ在住のアーティスト、サラ・ミリオ(Sara Milio)によって、2021年5月に始まったパフォーマンスプロジェクトで」あり、「ライブ配信上で発生する《遅延》などの現象も巻き込みながら、わたしたちの間にある《隔たり》と《共有》について確かめ続けようとする試み」であった。(引用元 https://soh-souen.com/jp/exhibitions/we_will_sea 最終閲覧2025年11月3日)そしてパフォーマンスの制作過程の記録冊子『We will sea』(虚屯出版、2021年)をひらいてみれば、サラ・エミリオが「この距離がなければできない、別の種類の親密さがあると思うから、とても特別な感じがするの。」「It’s special because I think it’s a different kind of intimacy that wouldn’t be possible without this distance.」ということばを書き出しているのをみることができる。
26]瀬口真司「「つかのま」の火に集う者ら──寺山修司『空には本』論──」『日本近代文学』112、日本近代文学会、2025・5。なお、本文で記載した寺山歌「外套のまま~」については、瀬口論の参照元と同様、寺山修司『空には本』(的場書房、1958)を確認のうえ記載した。
27]ポール・ヴァレリー/訳:佐藤正彰「詩と抽象的思考」鈴木信太郎・佐藤正彰編『ヴァリエテ』2(人文書院、1966年)にそのような記述がある。
28]ヴァレリーの言葉については、伊藤亜紗が『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』(講談社学術文庫、2021年)で指摘するように、「「孫引き」を誘発し、こうした引用の連鎖の果てに、もはや典拠が不明になっている場合」や、もとのコンテクストからはなれて使用されることもある。散文≒歩行、詩≒舞踊のたとえもそのように流布する言葉のひとつだろう。今回はそのような「引用の連鎖」をそのまま受け取ってそれに反論をするようなロジックをとったが、伊藤のヴァレリー論を読んでいくと、そこでは、ヴァレリー自身が詩作において社会的にあたえる「作用」に意識的であったこと、詩とは「読者の諸力を活動させ秩序づけるよう巧みに構成されている」「装置」であり、その「装置」が促すようにして読者は「自らを作り変えられ」ながら作品の「価値を積極的に作り出す消費者」となっていると分析されており、本連載と向いている方向はそう違えていないこともわかる。
29]李良枝「受賞のことば」『ことばの杖 李良枝エッセイ集』(新泉社、2022年)
30]雑誌『cygnifiant』0号(archaeopteryx、2024・9)には2024年1月に亡くなった榎本櫻湖が生前書き残していた創刊のことば(2021年11月20日)が記されている。「ひとりひとりの小さな声はいよいよかき消されてしま」う今、しかし「発話や対話が生活の根幹をなしているに疑う余地」はなく、「詩こそがそのような発話される以前の声そのものなのではないか。多くのひとびとの生活からは遠く隔たってしまったようにも感じられそうな詩を、ふたたび日常生活へととり戻したい」と榎本は述べている。「ことばは世界を記述しうる。/だからこの雑誌であつかうのは、世界そのものです」と結ばれる言葉に、私は少なからず後押しされている。

プロフィール
長濵よし野ながはま・よしの

2000年生まれ。文筆・編集。共著に『批評の歩き方』(人文書院、2024)「「あなた」をなかったことにしないために──竹村和子論」。『とある日 詩と歩むためのアンソロジー』(2023)では編集組版担当、「とある日」編集部として責任編集・川上雨季と共に第12回エルスール財団新人賞現代詩部門を受賞。大庭みな子研究(早稲田大学 大学院 教育学研究科 国語教育専攻 修士課程修了)。

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