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2026.01.20

マンガ研究者・小田切博によるアメリカン・ヒーロー・コミックスを解説した連載。第10回目の今回は前回に引き続きアートとコミックの関係を考えていきます。独立系出版社や新しい発表の場が広げた可能性、イメージコミックスの設立や、スモール・プレス・エキスポ/オルタナティブ・プレス・エキスポといった動きが示すのは、「商業」と「アート」を二分する発想そのものの更新です。コミックスがいかにして境界を越える表現になっていったのでしょうか。
(前編はこちら

 

コミック・アーティストの権利

一方で第二次世界大戦中に大衆娯楽としての最初のピークを迎えたコミックブックは、戦後の社会不安の中でホラーやクライムコミックスの児童への悪影響の指摘からバッシングを受け、1950年代には「子供向け」のメディアというレッテルを貼られるとともに社会的な影響力を低下させていったと見られます。
1960年代にはスーパーヒーローコミックス・リバイバルによってセールスを回復していきますが、1957年に新聞、雑誌、コミックブックの取次最大手だったアメリカン・ニュース・カンパニー[1]が倒産していたこともあって全体としては業界の再編が進み、1970年代、80年代にはメディアミックスやキャラクターマーチャンダイズといったライセンスビジネスの増加、コミックショップ向け流通の整備など、特にスーパーヒーローコミックスの分野では読者層もメディアとしての性格、制作環境もこの間に大きく変化していきました。

そうした一連の変化の中で改めて注目されることになったのがコミック・クリエイター、特にアーティストの権利です。

まず1965年にスーパーマンのクリエイターであるジェリー・シーゲルとジョー・シャスターが「スーパーマン」の著作権保護期間の延長を巡ってDCコミックスを提訴しました。
じつはシーゲルとシャスターはこの時点ですでにスーパーマンの著作権の所在に関して一度DCコミックスの親会社であるナショナル・ピリオディカル・パブリケーションを訴えていたのですが、1947年から48年までおこなわれたこの最初の裁判ではスーパーボーイ[2]の著作権やラジオドラマのロイヤリティなど部分的には彼らの主張が認められたものの、裁判所は彼らがDCコミックスと交わした雇用契約を根拠にスーパーマンに関する権利はナショナル・ピリオディカル社に帰属すると結論付けています[3]。
1965年の裁判は当時のアメリカの著作権法における著作権保護期間が28年間であったことを受け、1938年にDCコミックスとシーゲル、シャスターのあいだで交わされたスーパーマンに関する著作権契約は終了するとして改めて両者がナショナル・ピリオディカル・パブリケーションの著作権延長は無効であることを訴えたものです。この二度目の訴訟は1974年まで続きますが、けっきょくは最初の雇用契約によって二人はスーパーマンの著作権の将来的な更新まで含めて譲渡したのだという内容の判決が下されました[4]。

このシーゲルとシャスターによる二度目の起訴の翌年の1966年、今度はキャプテン・アメリカのクリエイターのひとりであるジョー・サイモン(もうひとりはジャック・カービー)が1964年に『アヴェンジャーズ』誌においてキャプテン・アメリカを再登場させたマーベル・コミックスを、自身の持つ著作権を侵害したとして訴えています。こちらの訴訟は1969年に両者の和解によって結審していますが、この時の和解内容も「キャプテン・アメリカの創作活動のすべてはサイモンとタイムリーコミックス(マーベルコミックスの前身)との雇用契約に基づいて業務著作としてなされたものだった」とするものでした[5]。

コミックブック出版における最初の隆盛期に登場した二人のキャラクターを巡るこの60年代に行われた二つの起訴は、「アヴァンギャルド」か「キッチュ」かという恣意的な価値づけよりも、はるかに明確に(そして深刻に)「純粋美術」と「商業美術」の違いを物語るものでしょう。
それらの司法判断は、コミックブックの創作を暗黙に「雇用契約」に基づいた「業務」であって純粋美術作品のような「創造的な芸術表現」としての「作品」ではない、と位置づけるものだったのです。

こうしたコミック・アーティストの権利を巡る問題と生涯一貫して戦い続けたのが1970年代のコミックス業界におけるトップ・アーティスト、ニール・アダムス[6]でした。

 

ニール・アダムス

1959年にニューヨーク、マンハッタンの美術デザイン系の専門学校を卒業したアダムスはフリーランスのコミック・アーティスト、イラストレーターとして身を立てることを目標に活動をはじめ、まずアメリカ版ラブコメマンガ『アーチー』で有名なアーチーコミックス[7]でアシスタント的な仕事を経験したのち、広告代理店経由で商業イラストレーションの仕事を請け負うようになります。
その流れで1961年から1966年までテレビ放映された人気医療ドラマ『ベン・ケイシー』のコミカライズを新聞で連載、ドラマ終了後はECコミックスの影響を受けて意欲的なSF、ホラー、ファンタジーコミックスを出版していた雑誌出版社ウォーレン・パブリッシング[8]での短編作品の作画からコミック・アーティストとしての活動を本格化させていきました。1967年からはDCコミックスでもカバーや本編の作画を担当するようになり、その写実的でダイナミックなアートスタイルは瞬く間に読者の心を掴み、1969年以降はマーベルコミックスでもアートを手掛けるようになります。現在よりもはるかにギスギスしたライバル関係にあった60年代末のDC、マーベルというコミックブックの二大メジャー出版社で、専属契約を結ばずにフリーランスの立場でその両方と同時期に並行して仕事をしていたこの彼のスタンスは、当時としては大変珍しい仕事の仕方でした。

1960年代末から1970年代にかけて『バットマン』、『グリーン・ランターン/グリーン・アロー』、『アヴェンジャーズ』などの人気タイトルで、現在では古典的な評価を受けている作品のアートを多数担当した彼の人気がこうした例外的な扱いを可能にした面はあるでしょうが、それ以上に彼が持つコミックス出版社とクリエイターの関係の非対称性についての強い問題意識がそのような独特のキャリア構築を可能にしたのだといえます。
たとえば前述したシーゲルとシャスターによるスーパーマン裁判が1974年に結審すると、1969年にDCコミックスを系列企業にしていた映画会社ワーナーブラザースは翌1975年にスーパーマンの映画化を発表するのですが、ニール・アダムスはこの一連の経緯の不公正さを業界内外を問わず積極的に訴えました。アダムスをはじめとした有志による抗議活動の影響もあり、最終的にシーゲルとシャスターはDCコミックスから年金と健康保険を保証される代わりに以降は自分たちの著作権を主張しない、というかたちで出版社側と和解します。

1970年、アダムスは現在アカデミー賞の運営元として知られる「映画芸術アカデミー」[9]をモデルに設立された「アカデミー・オブ・コミックブック・アート(通称、ACBA)」の設立に参加しました。この業界団体は設立時にはDCコミックスのカーマイン・インファンティーノ[10]、マーベルコミックスのスタン・リー[11]という二大コミックブック出版社の編集責任者たちも参加していました[12]が、団体の運営方針を巡って、ほとんどが出版社の直接雇用を受けていない不安定な立場であるコミック・クリエイターたちと対立して出版社側が離脱、この団体の活動は年次での贈賞活動はおこなうものの、コミック・クリエイターによる業界に対する共同組合的な側面を強めていくことになります。
1977年にこの団体が活動を休止するまで[13]その動きの中心にいたのがニール・アダムスであり[14]、1978年のアメリカ著作権法改正……というよりは、この新法に対するコミックブック出版社の対応に対して、彼はより直接的に「コミックス・クリエイターズ・ギルド」の結成を業界内に呼び掛けることになりました。結果としてギルド構想自体はけっきょく流産したかたちで終わりますが、この法改正とアダムスによる問題提起が以降のコミックブック業界を変えていくきっかけになっていくのです。

じつは、その「変化」の兆しのようなある事件がアカデミー・オブ・コミックブック・アートが設立された1970年に起こっていました。それは、マーベルコミックスの看板アーティストだったジャック・カービー[15]のDCコミックスへの移籍です。
キャプテン・アメリカやファンタスティック・フォー、マイティー・ソーなど、スパイダーマンのクリエイターであるスティーブ・ディッコと共に現在まで続くマーベルコミックスのビジュアルと物語の基盤をつくりあげたジャック・カービーは当時のスーパーヒーローコミックスを代表するアーティストでした。

 

コミックス・パッケージング

1917年にニューヨークのユダヤ系工場労働者の家庭で生まれたカービーは、絵を描く仕事で身を立てることを志し、ほぼ独学でシンジケートでの新聞社向けのカットや一コママンガの制作、フライシャー・スタジオでの動画マンとしてのキャリアを掴み、1938年にコミックス・パッケージング(Comics Packaging)会社「アイスナー・アンド・アイガー・スタジオ」[16]に入社、本格的にコミックブックの制作に携わることになりました。

ジャック・カービー自身、第二次世界大戦後にキャプテン・アメリカ創作のパートナー、ジョー・サイモンとともに同種のプロダクション「メインライン・パブリケーションズ」[17]を設立することになりますし、ニール・アダムスも1971年に盟友ディック・ジョルダーノ[18]とともに業務として「コミックス・パッケージング」を含むアート・プロダクション「コンティニュティー・アソシエイツ」[19]を設立しますが、日本ではよく「スタジオ」と表記されているこの業態はアメリカのコミックブック出版の成り立ちと深く結びつき、国内には類例がない[20]ため大変わかりにくいものです。
のちに奇妙な探偵モノ『スピリッツ』で有名になり、現在はグラフィックノベルの先駆者として知られるコミック・アーティストのウィル・アイスナーとその編集者だったジェリー・アイガーが設立した「アイスナー・アンド・アイガー・スタジオ」はこの種のサービスのはしりとなった組織のひとつで、彼らがはじめた「コミックス・パッケージング」とは簡単にいえば「コミックブック出版社向けの編集プロダクション」のようなものだといえます。
現代の日本でもマンガを専門に扱う編集プロダクションは存在しますが、マンガ家と出版社の間にたって編集業務をおこなうこの種の組織とアメリカの「コミックス・パッケージング」会社が異なるのは、後者が企画からマンガの制作まで「コミックブックの内容すべて」の制作を請け負うものだ、という点でしょう。

1933年の『ファニーズ・オン・パレード』を起源とするコミックブックは、新聞掲載のコミックストリップの再録からはじまったものです。
これは最初期のコミックブック出版がコンテンツの制作部門を持たないメディアだったということを意味します。アイスナーとアイガーのようなこの分野の先駆者たちはこの点に新たなビジネスとしての可能性を見出し、印刷機と販路を持つ出版社に対して、いずれストックが尽きる新聞掲載作品ではない新作のコミックスを含むコンテンツを制作する仕事を創出したわけです。
まだ20代はじめだったカービーが足を踏み入れた初期のコミックブック制作の世界は、雇われた何人ものアーティストが並行して複数の出版社のコンテンツをつくりあげるこの「コミックス・パッケージング」会社や出版社から直接仕事を依頼されたフリーランスのクリエイターたちが試行錯誤しながら大量の作品を市場に供給し続けている混沌とした業界でした。

その後、よりよい収入を求めて「アイスナー・アンド・アイガー・スタジオ」を離れたカービーは、コミックブック出版に参入をはじめていた新聞向けのコミック配信社、フォックス・フィーチャー・シンジケートで、生涯の友人であり、50年代までは創作上のパートナーになるジョー・サイモンに出会います。彼らは当時まだ新興のコミックブック出版社だったタイムリーコミックス(マーベルコミックスの前身)に移籍後、1940年、この時期に登場した数多くのスーパーヒーローの中でももっとも成功を収めたひとりであるキャプテン・アメリカを生み出しました。
しかし、キャプテン・アメリカが獲得した収益の配分について不満を抱いたカービーとサイモンは当時コミックブック出版最大手であったナショナル・コミックス・パブリケーションズ(DCコミックスの前身)への移籍を画策し、その計画が露見したため、タイムリー社を解雇され、書面で契約を交わしていなかった彼らのキャプテン・アメリカに関する著作財産権は、会社側に取り上げられることになります。

 

ジャック・カービーとコミックブック出版

カービーとサイモンはその後ナショナル社でも成功を収めますが、1943年に徴兵されヨーロッパ戦線に送られました。兵役後、フリーランスとして活動するようになった彼らは、ホラーやクライムといった新しいジャンルのコミックスが流行する戦後のコミックブック業界にそれまでは存在しなかったシリアスなロマンスコミックスを創り出して成功を収めます。
1953年にはコミックス・パッケージング会社「メインライン・パブリケーションズ」を設立。以降、彼らは様々なジャンルのコミックブックを複数の出版社に売り込むことで順調に収益をあげていくかに見えましたが、50年代のコミックスバッシングの影響により活動が継続できなくなって同社は1956年に倒産、サイモンとも袂を分かったカービーは路頭に迷うことになりました。
1958年、生活に窮した彼は1941年に激しい対立の末に解雇されたタイムリー・コミックス[21]からフリーランスの立場で仕事を受けるようになり、その後、60年代を通じてマーベルの新生スーパーヒーローの物語を一手に支えることになるわけですが、じつはこの間の彼の労働条件契約はまったく文書化されていませんでした。これは当時のコミックブック業界のビジネスとしての杜撰さを示すものであるとともに、その経営者たちが自分たちが創り出しているものにどのような価値があるかについていかに無自覚だったかを示しています。

今日ではコミックブックのような物語メディアにおいて独創性を持ったクリエイターの存在が財産であることはほぼ常識化していますが、すでにキャラクターやコンテンツのメディア展開、商品化がおこなわれていた60年代の時点でも、経営者の多くはビジネスを成立させているコミックブックの何がどう「創造的」であるのかを理解していなかったのです。
いっぽうでこの時期はメディア関連産業の統合、系列化が進んだ時期でもあり、1968年にマーベル・コミックスの創設者であるマーティン・グッドマン[22]は親会社であるマガジン・マネジメント・カンパニーごとその経営権を複合企業パーフェクト・フィルム・アンド・ケミカル・コーポレーションに売却しています。この新しい経営陣の下でも自分の貢献が評価されないことに失望したカービーはカーマイン・インファンティーノからの誘いを受けて、ついに1970年マーベルコミックスからDCコミックスに移籍しました。

1968年にDCコミックスも幾度かの企業買収の結果、映画配給会社ワーナーブラザースを中心としたメディア・コングロマリットの傘下に組み入れられていますが、大資本によるコミックブック出版の系列化は、労使契約のようなビジネス面での厳密化とともに経営と制作現場の乖離が進んだことも示しています。

こうしてより官僚的になっていく組織に、制作のすべてを自分のアイディアをもとにおこなおうとする天才型のカービーはうまく適応できませんでした。移籍後、期待されたほど担当、企画したタイトルのセールスが延びず[23]、彼はDCとの契約更新を断り、1975年にマーベルに戻ります。
しかし、既存の人気キャラクターのアートだけを担当する職人であることを良しとせず、自分自身の想像力の赴くままに物語とキャラクターを描こうとする彼は、ニール・アダムスらが持ち込んだよりリアリスティックなアートと作劇が人気を博していく1970年代のスーパーヒーローコミックスのトレンドの中で、コミックブックの読者たちにとってすら浮いた存在になっていきました。
当時のコミックブックは現在のように単行本化されておらず、熱心なファンがコレクターとしてコミックショップという小売を舞台に中古市場を形成している途上でした。ダイレクトマーケットもまだ本格的に機能していなかったため[24]、作家や作品が古典として評価されることやそれがコミックブックのセールスへ直接結びつくような回路はまだ整備されていません。

リキテンスタインが自分たちが創り出したロマンス・コミックスを模写した「作品」によって純粋美術の世界での名声と顰蹙を同時に獲得しようとしていたのと同じ時期に、そのオリジナルであるカービーはスーパーヒーローコミックスの世界で「時代遅れな作家」として忘れ去られようとしていたのです。

 

原稿返却問題

ジャック・カービーの作家的な評価自体は、ダイレクトマーケット環境が整備された80年代後半以降は回復し、むしろ巨匠としての名声を不動のものとしますが、コミックブックやスーパーヒーローコミックスに関するジャーナリズムやメディアがファンダムやミニマガジンしかなかった時期にコミック・クリエイターの評価を実質的に価値づけるものは出版社からのそれしかありませんでした。
ニール・アダムスの登場と彼が1971年に「コンティニュティー・アソシエイツ」を立ち上げたことは、1978年の「コミックス・クリエイターズ・ギルド」以上に、そうした状況に風穴を空けるような意味を持つものだったといえると思います。コンティニュティー・アソシエイツはコミックス・パッケージングだけではなく、映画のストーリーボードや広告イラストレーションなども業務として扱い、アダムスや参加しているアーティストたちにコミックブック業界からの収入のみに依存せず経済的な安定を得る場を提供したのです[25]。
このアダムスのキャリアは、1950年代にコミックス・バッシングによってメインライン・パブリケーションズというコミックブック出版社から独立した創作の場を失ったカービーのそれと対照的なものだといえるでしょう。コミックファンのあいだでの名声にもかかわらず、安定した経済基盤を持たない60年代以降のカービーは出版社の雇用に頼らざるを得ませんでした。

カービーがそうしたストレスに晒されていた1978年、コミックブック業界に対して決定的な影響を与えた出来事が起きます。
それが1976年に制定され、この年から施行されたアメリカ合衆国著作権法の大型改正です。

もともとアメリカは著作物を含む知的財産の権利に関して孤立主義的なスタンスをとっており、第二次世界大戦後に映画や音楽などアメリカの大衆文化が国際的な人気を博していく一方で、著作権登録制度や著作者人格権が保護されないなど、国際基準に合わないその法制度が70年代を通じて国際貿易レベルで問題になっていました。
1978年に施行されたこの新しい著作権法は、将来的に国際著作権協約であるベルヌ条約に加盟することを目的に、国内の著作権保護状況を整備し直すためになされたものです[26]。
この改正で特にコミックブック業界が衝撃を受けたのは、先に見たスーパーマン、キャプテン・アメリカに関する二つの起訴でも判決理由となっていた「業務著作」の契約を、改正著作権法が文書によって締結されなければならないものだとしていた[27]ことでした。

アーティストやライターとほぼ口約束レベルでの契約しか結んでこなかったコミックブック出版社は、この法改正によって突然彼らと書面での契約を結ばなくてはならなくなったわけです。
基本的にクリエイターに対して日本の著作権法でいう「著作財産権」[28]の放棄を求めるコミックブック出版社側(の法的代理人)が提示した契約内容がクリエイター側からの反発を呼び、それが先に述べた「コミックス・クリエイターズ・ギルド」結成の呼び掛けにもつながったわけですが、じつはこの突然出現した契約書によってもっとも大きな影響を受けたアーティストのひとりがジャック・カービーでした。

1979年にこの契約書の内容に失望した彼はマーベルを再び去りました。
以降はフリーランスとしてアートを担当したり、いくつかのオリジナル企画に関わったりはしていますが、健康上の問題もあって、ジャック・カービーはアーティストとしてセミリタイアに近い状態になっていきます。

いっぽう、マーベルコミックスは1984年から過去の出版作品の原画のアーティストへの返却業務をはじめますが、このときカービーに提示された返却にまつわる契約書が新たな問題を生み出すことになりました。
この契約書はキャラクターや作品に関する権利だけでなく、出版された作品へのカービーの名前のクレジット表記、返却された原画の売買はもちろん展示の可否まで出版社側が決定権を持つという、マーベルコミックスの所有するキャラクタープロパティ、コンテンツに対する彼の貢献をまったく認めず、彼が作成した原画に対する権利すら放棄させようとするものだったのです[29]。
この契約書に対する署名を拒否したカービーはマーベルコミックスで彼が作成にかかわった原画の返却と出版された作品へのクレジット記載を求める戦いをはじめることになりました。

 

独立系出版社の登場とクリエイター

この闘争自体はニール・アダムスら業界関係者の支援やコミックスファン、ダイレクトマーケットの成長とともにコミックス業界の情報、批評誌として発言力を持っていった『ザ・コミックス・ジャーナル』[30]に代表されるコミックス・ジャーナリズムからの批判もあり、1987年以降、マーベルコミックスは当初提示した条件を放棄してカービーへの原画の返却に同意[31]、じつはその多くが失われてしまっており、けっきょく返却されたのは実際に作画した原画全体の4分の1程度だと考えられているようですが、ようやく彼の手元に原画が戻ってきたのです。
こうして、純粋美術の画家や彫刻家にとっては議論の余地もない自作の販売や展示を自由におこなう権利をようやくコミック・アーティストは得ることになりました。

コミックス・ジャーナリストのマイケル・ディーンによれば、1970年代半ばにはDC、マーベルはアーティストへの原画の返却をはじめ、コミックブックが再版された場合にはそのロイヤリティー(印税)の支払いもおこなうようになっていた[32]ということですが、こうした動きが出版側に出てきた背景には、おそらく合衆国の知的財産政策の方針転換と共に1960年代後半以降のアンダーグラウンドコミックスの登場があります。

既存の権威に対する反抗を旨とするカウンター・カルチャーの流れの中で出現したアンダーグラウンド・コミックスの作家たちは、当然既存のコミックブック出版のあり方に批判的であり、メディア・コングロマリットに組み入れられつつあった大手コミックブック出版社ではなく、自分たちで設立した独立系の出版社から作品を出版し、原画の返却やページ単価のあり方についても一般メディアなどで盛んに発言していました。
アンダーグラウンド・コミックスの運動自体は1974年に終結しますが、こうしたクリエイターの権利に対する議論の蓄積や意識はその後も共有され、アメリカ社会で「業務」ではなく「創作」としてのコミックスが再発見されることにつながっていきます。
1975年にはバリー・ウィンザー=スミス[33]、ジェフ・ジョーンズ[34]、マイケル・カルタ[35]、バーニー・ライトソン[36]の4人のアーティストが出版社の制約を受けずに創作活動をおこなう場としてニューヨーク、マンハッタンに共有のアート・スタジオを[37]設立。1978年にはハワード・チェイキン[38]、ウォルター・サイモンソン[39]、ヴァル・メイエリック[40]、ジム・スターリン[41]がその後継ともいえるアップスタートアソシエイツ[42]を立ち上げています。
おそらくニール・アダムスのコンティニュティー・アソシエイツやアンディー・ウォーホルが1963年に立ち上げた「ファクトリー」[43]の存在などに影響を受けたと思われる、これらのサロン的なアートスタジオの出現はその後のクリエイター主導の新しいコミックス、コミックブックの潮流を準備するものでした。

カウンター・カルチャーの流れの中で新しい大衆文化市場として発見された「若者文化」という考え方は、70年代から80年代にかけてアメリカにおけるコミックスという文化に対する見方を変えていったのだと思われます。ファンダムやコレクター市場の形成によって、読者の側にも50年代にコミックブックに対して貼られた「子供向け」というレッテルに抗おうとする価値観が共有されるようになり、設立自体は1957年ですが、コミックブック流通ではなく雑誌流通を利用することで大人向けの作品を出版し、クリエイターの権利保障についても先駆的な取り組みを多数おこなったウォーレンコミックスを嚆矢として、1971年設立のパシフィック・コミックス[44]、1977年設立のエクリプス・コミックス[45]、1983年設立のファースト・コミックス[46]など「コミックスコードに縛られない自由な創作環境」を保証するコミックスファンが立ち上げに関わる新しい独立系のコミック出版社がこの時期に次々に登場することになりました。
1980年にキャピタルシティ・ディストリビューション、1982年にダイアモンド・コミック・ディストリビューターズというのちの二大コミックショップ・ディストリビューターが設立され、コミックショップ専門流通が整備されていった1980年代中盤以降は『ティーンエイジ・ミュータント・ニンジャ・タートルズ』[47]や『セレバス』[48]、『ラブ・アンド・ロケッツ』[49]のような商業的に成功した独立系出版社からの作品も出てきますし、1977年にアメリカで創刊されたフランスのSFコミック誌『メタル・ユルラン』のアメリカ版である『ヘヴィメタル』[50]は、若いクリエイターたちに「視覚表現としてのコミックス」の可能性の豊かさを再認識させるものでした。1980年にこの『ヘヴィメタル』の影響を受けてマーベルコミックスが創刊した『エピック・イラストレーテッド』[51]にはジョン・J・ミュースやケント・ウィリアムスといった若いアートスクール出身のアーティストたちが集い、「表現」としてのコミックスを追及していくことになるのです。

 

「アート」としてのコミックス

現在ではウィリアムスやミュースをはじめとする『エピック・イラストレーテッド』に集ったクリエイターたちの多くは、コミックスやイラストレーション、映画制作といった商業美術の分野の仕事と並行してギャラリーと契約し、ファインアートとしてのペインティングやドローイングの販売もおこなう「アーティスト」になっています。この「エピック」世代以降、アメリカの若いクリエイターたちは、徐々に「ハイとロウ」、「アヴァンギャルドとキッチュ」の軛から自由になっていきました。
90年代以降、ファインアートとコマーシャルアートの差異を文化的なヒエラルキーとしては捉えず、ペインティングやドローイングとコミックスの違いを表現手段、技法の差として考える新しい世代が台頭してくるのです。

1991年には当時の人気アーティスト7人がマーベルコミックスとの契約を打ち切り、独立して新出版社「イメージコミックス」[52]を立ち上げ、カービーやアダムスの運動を継ぎクリエイターたちにオリジナル作品発表の場を提供していくことになりますが、こうしたコミックブック業界内部の動きと並行して、1994年にキャラクターフランチャイズやコミックファンではなく、若いクリエイターたちが中心になったコンベンションである「スモール・プレス・エキスポ」、「オルタナティブ・プレス・エキスポ」の開催がスタートし、クリエイターが「表現としてのコミックス」を発表していく流れが活発化していきました。
2000年代に入りインターネット環境が整備されると「デヴィアント・アート」[53]のようなオンラインアートコミュニティも登場し、現在ではアート志向の強いクリエイターにとってもコミックスというメディアやコミックブック業界での活動はキャリア構築の上で無視できないものになっています。

コミックブック業界での仕事で注目され、現代美術の文脈でプラダやディズニーといった大企業とコラボレーションしながらペイント作品が美術館に収蔵されるようになってきているジェームス・ジーン[54]のような、ファインアートの領域とコマーシャルアートの領域を自在に行き来するような創作活動をおこなうアーティストも登場してきている現在、アートとコミックスの境界はきわめて流動的なものになっているといえるのではないでしょうか。

 

 

[1] American News Company 1864年にSinclair Touseyによって設立された新聞、雑誌、コミックブック、雑貨等の流通会社。アメリカ国内で最初に鉄道網の整備を積極的に利用して成長した取次として知られ、駅の販売店への卸売りによって独占的な影響力を持つことになった。このため、合衆国政府から1952年に独占禁止法違反で訴えられ、結果的に1957年に倒産した。
[2] Superboy Supermanの少年期のストーリーのタイトル。クリエイターであるJerry Siegelは1938年の時点でSupermanの幼少期のエピソードをコミックス展開することを提案していたが、当時Detective Comicsという社名であったDC Comicsはこの企画を却下した。その後、Siegelは1940年に完成した脚本と共に再度この企画を提案したが、DC側は判断を保留。Siegelの従軍中に彼の同意を得ないまま、このアイディアを1942年以降Superboyとしてコンテンツ展開しはじめた。このためSuperboyに関しては業務契約が成立していないとされた。
[3] “Young 1948 Final Judgment”, “Jerome Siegel and Joseph Shuster vs. National Comics Publications Inc. et al. (New York Supreme Court 1947)”, https://www.scribd.com/doc/298843461/Young-1948-Final-Judgment
[4] “Final decision of the court (December 1974)”, “Jerome Siegel and Joseph Shuster, Plaintiffs-appellants, v. National Periodical Publications, Inc., et al., Defendants-appellees, 508 F.2d 909 (2d Cir. 1974)”, https://law.justia.com/cases/federal/appellate-courts/F2/508/909/366910/
[5] Michael L. Lovitz, “The Struggle for Captain America”, “The Philadelphia Lawyer”Summer 2003, Vol. 66, No. 2, Philadelphia Bar Association, https://philadelphiabar.org/?pg=TPLSummer03CaptainAmerica
[6] Neal Adams アメリカのコミック・アーティスト、イラストレーター、映画監督。2022年没。
[7] Archie Comics 1939年設立のアメリカのコミックス出版社。現在も続くラブコメ“Archie”の他、アニメ化やドラマ化もされている“Sabrina the Teenage Witch”、“Josie and the Pussycats”など十代の若者を主人公にしたコメディが多い。
[8] Warren Publishing 1957年創業のアメリカの出版社。コミックブックではなく、雑誌のフォーマットでコミックスも出版していたためにコミックスコードの影響を受けず、当時としては例外的にキャラクターに頼らない表現も物語も大人向けのオリジナル作品を中心に出版していた。1983年に出版活動を停止している。
[9] Academy of Motion Picture Arts and Sciences 1927年に設立されたアメリカの映画業界団体。1929年から年次映画賞“Academy Awards”を主催することで知られる。同年からカリフォルニア大学と提携し、大学に映画専門のコースを設立、映画に関する教育と研究もおこなっている。
[10] Carmine Infantino アメリカのコミック・アーティスト、編集者。“Flash”など多くの人気キャラクターを生み出したいわゆる「Silver Age」を代表するアーティストのひとり。1967年からDCコミックスの編集責任者に就任し、編集部制を導入するなど同社のコミックブック編集を改革。1971年から1976年まで同社の発行人をつとめた。以降はフリーランスのコミック・アーティストとして活動。2013年に亡くなっている。
[11] Stan Lee アメリカの作家、コミック脚本家、編集者、プロデューサー。Spider-ManやHulk、Fantastic Fourなど1960年代に生まれたマーベルコミックスの人気キャラクターのほとんどの共同制作者として知られる。縁戚関係にあるTimely Comics創設者、Martin Goodmanのもとで1940年代からコミックブック編集の仕事に就き、1972年にはマーベルコミックスの発行人に就任している。1990年代以降は同社の名誉会長扱いになった。2018年没。
[12] Academy of Comic Book Arts 1970年設立、1977年解散。初代会長はStan Leeだが、翌年には脱会している。
[13] Carmine Infantinoは当時のこうしたクリエイター側からの圧力に対抗するために、スト破り的な動機から単価の安いフィリピンのアーティストたちを雇用したことを率直に回想している。Gary Groth, “The Carmine Infantino Interview”, “The Comics Journal”#191, 1996, Fantagraphics
[14] Joe George, “Neal Adams and the Fight to Unionize Comics”, “The Progressive Magazine”, 2022, https://progressive.org/latest/neal-adams-fight-to-unionize-comics-george-220505/
[15] Jack Kirby 本名、Jacob Kurtzberg。アメリカのコミック・アーティスト。1994年没。彼の業績とキャリアについてはMark Evanierによる伝記“Kirby: King of Comics”, 2008, Abrams Booksの邦訳が『ジャック・カービー アメコミの”キング”と呼ばれた男』(吉川悠監修, 中山ゆかり翻訳, 2019、フィルムアート社)として出ている。
[16] Eisner and Iger Studio 1936年から1940年までWill EisnerとJerry Igerによって設立、運営されたコミックス・パッケージング会社。Eisnerが1940年に自身の持つ株式をIgerに売却し、会社を去って以降はIgerがS. M. Iger Studioと改称して業務を継続。1961年まで活動した。
[17] Mainline Publications 1953年から1956年までJack KirbyとJoe Simonによって設立、運営されたコミックス・パッケージング会社。
[18] Dick Giordano アメリカのコミック・アーティスト、編集者。1952年にCharlton Comicsでフリーランスのアーティストとして活動をはじめ、1960年代半ばに同社の編集責任者に就任、その実績から1968年にアーティスト兼編集者としてDCコミックスに引き抜かれる。1980年にDCコミックスに編集責任者として呼び戻され、1983年からは副社長を兼任、1993年までその職をつとめた。以降はフリーランスのコミック・アーティストとして活動後、2010年に病没。
[19] Continuity Associates 1971年から2020年代までニューヨークとロサンゼルスを拠点に活動したコミックブック・パッケージ会社、イラストレーション制作スタジオ。
[20] おそらく貸本マンガの制作システムが近いものだと考えられる。
[21] 当時はAtlas Comicsというハウスネームを使うことが多かった。Marvel Comicsを出版社名とするのは1961年から。
[22] Martin Goodman アメリカの出版者。1932年にパルプ出版社Newsstand Publications Inc.を設立。1939年に刊行された“Marvel Comics”#1でコミックブック出版に参入し、Timely Comicsを設立。このTimely社がMarvel Comicsの直接的な前身になる。Marvel Comicsの経営権売却後も1972年までは同社の出版者として在籍した。1992年没。妻はStan Leeの従妹にあたる。
[23] “New Gods”, “OMAC” , “Kamandi”などのこの時期のDCでのKirby作品は、現在ではそのサイケデリックでシュールな作風が高く評価されている。Marvelに戻って以降の作品も含め、Kirbyの70年代作品は同時代のスーパーヒーローコミックスの流行と乖離した作風だったために刊行時にはセールス面での不調を理由に評価されなかった。
[24] Phil Seulingという個人ディストリビューターによる実験的な取組、Sea Gate Distributorsが1972年に開始され、出版社による通信販売もはじまっていくものの70年代にはファンをメインターゲットにした専門流通の整備は実現しなかった。
[25] このスタジオはまた、キャリアの浅いアーティストやライター、編集者の育成機関としての性格を持っていたことが在籍したスタッフの証言からわかっている。Alex Grand, Michael Dean, “Neal Adams, 1941-2022”, “The Comics Journal”, 2022, https://www.tcj.com/neal-adams-1941-2022/
[26] “Copyright Act of 1976”, https://www.copyright.gov/history/pl94-553.pdf
[27] “201. Ownership of copyright (b) Works Made for Hire”, “Copyright Law of the United States”, https://www.copyright.gov/title17/92chap2.html
[28] 著作財産権 翻案権や出版権、商品化権など著作物に関する経済的な権利。
[29] この時点でKirbyがMarvel Comicsでアートを担当した原画はMichael Dean, “Kirby and Goliath: The Fight for Jack Kirby’s Marvel Artwork”, “The Comics Journal Library: Jack Kirby”, 2002, Fantagraphicsによれば8000ページ、Glen Gold, “The Stolen Art”, “Jack Kirby Collector”#19, 1998, Twomorrowsによれば10000ページを超えるという。
[30] The Comics Journal 1976年にコレクター向け雑誌“The Nostalgia Journal”の出版権を取得したGary GrothとMichael Catronが翌1977年に創刊したコミックス情報・批評誌。1971年に創刊されたコミックブック業界紙“Comics Buyer’s Guide”とともにアメリカにおけるコミックス・ジャーナリズムの中心を担ってきたメディア。
[31] コミックブック出版社側がこうした妥協に至った要因としては、彼らが原画の所有権を主張した場合には所得税の支払い義務が発生する点をNeal Adamsは指摘している。仮に雇用契約を結ばずにフリーランスの立場のアーティストから原画を買い上げたのであれば、コミックブック出版社は州政府に対して所有する原画全てに対して課される莫大な税金を滞納している形になる。Gary Groth, “The 1982 Neal Adams Interview”, “The Comics Journal”#72, 1982, Fantagraphics
[32] Michael Dean, “Kirby and Goliath: The Fight for Jack Kirby’s Marvel Artwork”, “The Comics Journal Library: Jack Kirby”, 2002, Fantagraphics
[33] Barry Windsor-Smith イギリス出身のコミック・アーティスト、イラストレーター。70年代のMarvel Comicsにおけるトップクリエイターのひとり。Robert E. Howardのヒロイックファンタジー、“Conan”シリーズのコミカライズで注目された。
[34] Jeffrey Catherine Jones アメリカのコミック・アーティスト、イラストレーター。ホラー、ファンタジー系のコミックスの名手。
[35] Michael William Kaluta アメリカのコミック・アーティスト、イラストレーター。アール・ヌーボー的な華麗な画面構成、ペンタッチが特徴。
[36] Bernie Wrightson アメリカのコミック・アーティスト、イラストレーター。70年代における代表的なホラーコミックスの描き手。
[37] 通称The Studioと呼ばれたこのスタジオでのアーティストたちの活動記録はBarry Windsor-Smith, Jeff Jones, Michael Kaluta, Bernie Wrightson, “The Studio”, 1978, Paper Tiger Booksとしてまとめられている。1978年の同書刊行後、4人はそれぞれ独立したスタジオを構えることになり、事実上解散した。
[38] Howard Chaykin アメリカのコミック・アーティスト、脚本家、イラストレーター。80年代の独立系出版社でハイクォリティなオリジナル作品を多数出版し、この動きの以降のコミックス界への影響を決定づけた作家のひとり。
[39] Walter Simonson アメリカのコミック・アーティスト、脚本家。80年代Marvelのトップクリエイターのひとり。
[40] Val Mayerik アメリカのコミック・アーティスト、イラストレーター。映画化もされたMarvelのアヒルのキャラクター“Howard the Duck”のクリエイターとして知られる。
[41] Jim Starlin アメリカのコミック・アーティスト、脚本家。Jack Kirbyのヴィジョンを受け継ぎMarvel Comicsのスーパーヒーロー世界で“Cosmic”系のストーリーを作り出し、80~90年代に人気を博した。
[42] Upstart Associates 1978年から1989年まで活動したコミック・アーティストを中心とするアートスタジオ。活動メンバーによって前期と後期に分かれ、前期は設立者であるHoward Chaykin, Walt Simonson, Val Mayerik, Jim Starlin、後期はJames Sherman, Frank Miller, Gary Hallgrenが中心作家になる。
[43] The Factory アーティストのAndy Warholが立ち上げたアートスタジオ。さまざまなクリエイター、パフォーマーが集うサロン的な場所として1987年まで存在した。
[44] Pacific Comics 1971年から1984年まで活動していたアメリカのコミックショップ、コミック・ディストリビューター、コミックブック出版社。
[45] Eclipse Comics 1977年から1994年まで活動していたアメリカのコミックブック出版社。
[46] First Comics 1983年から1991年まで活動していたアメリカのコミックブック出版社。
[47] Teen Age Mutant Ninja Turtles 1984年にKevin EastmanとPeter Lairdの二人が創作したコミックス。当初は彼らの自費出版だったが、87年に玩具化され、以降アニメ化、映画化されるなど人気キャラクターとなっている。
[48] Cerebus 1977年にDave Simによって創作されたヒロイック・ファンタジーのパロディコミックス。Sim自身のパブリッシャー Aardvark-Vanaheimから刊行され、2004年に完結。
[49] Love & Rockets 1981年にGilbert, Jaime, MarioのHernandez兄弟によって創作されたオルタナティブ・コミックス。コミックス版マジック・リアリズムと評されている。当初は自費出版だったが、1982年以降はFantagraphicsから刊行され、現在も断続的にシリーズが続いている。
[50] Heavy Metal 1977年に創刊したアメリカのSFコミック誌。創刊当初はフランスの“Métal hurlant”のアメリカ版という位置づけだったが、次第にオリジナル色が強くなり、何度か休止を挟み版元を変えながらアメリカ独自のSFコミック・アンソロジーとして刊行され続けている。
[51] Epic Illustrated Marvel Comicsが1980年から1986年まで刊行していたSF、ファンタジーコミックス誌。基本的にMarvel Comicsのキャラクターと無関係なクリエイターのオリジナル作品が掲載されている。
[52] Image Comics Jim Lee, Todd McFarlane, Erik Larsen, Jim Valentino, Marc Silvestri, Rob Liefeld, Whilce Portacioという1991年の時点でトップクラスの人気を誇っていたアーティストたちが独立して立ち上げたコミックブック出版社。
[53] DeviantArt 2000年にサービスを開始したオンライン・アート・コミュニティー。日本におけるPixivのようなサービス。https://www.deviantart.com/
[54] James Jean 台湾出身のペインター、造形作家、コミック・アーティスト。2001年頃からコミックス作品の発表をはじめ、DC、Marvel、Dark Horseなどのコミックブック出版社でのカバーアートで注目される。2010年代に入ってからはアート作品に力点を移して活動している。