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2026.02.03

第20回 究極の映画、さらにその先へ——ホン・サンス『水の中で』

映画月報 デクパージュとモンタージュの行方 / 須藤健太郎

映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は現在開催中の《月刊ホン・サンス》より、3本目の公開作となる『水の中で』を中心に取り上げます。ほぼ全編が「ピンボケ」によって制作された本作、そして本作以降につくられた近年の4作品を通じて、ホン・サンスの映画がいま向き合いつつある境地とはいかなるものなのかについて思考します。

 この連載の初回をホン・サンスから始めたとき、私は『水の中で』についてそれに先立つ3作を踏まえたものとひとこと触れた。撮影についての『あなたの顔の前に』(2021)があり、演出についての『小説家の映画』(2022)があり、編集についての『WALK UP』(2022)がある。そしてホン・サンスは『水の中で』にいたって映画作りそのものを主題にしたのだ、と。
 韓国版DVD(英語字幕付き)を取り寄せてすでに見ていたにもかかわらず、軽い言及にとどめた。日本ではまだ公開前だったから。いや、思い返せば、そんなことよりこれをどう受けとめていいかわからず動揺していたからだ。このたび2025年11月から2026年3月にかけて、《月刊ホン・サンス》と銘打って『WALK UP』以後に撮られた5作が毎月一本ずつ公開となり、先日『水の中で』を劇場で見直す機会を持つことができた。あいかわらず動揺したのだが、自分は何かを見誤っていたわけではなかった。
 この映画は全篇がほぼピンボケで撮られているくせに、その構成自体は最後の一点に向かってぴたりと焦点が当てられている。いたずらに穿った見方をする必要はない。この作品をそのまま受けとめるしかない。映画作りとは何か。ホン・サンスはこの問いに対して見誤りようのないほど明確に答えている。映画作りを突きつめていけば、それは作者自らの死に行きつくということだ。

『水の中で』©2023 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

 映画監督を目指すソンモ(シン・ソクホ)。彼は学生時代の友人二人サングク(ハ・ソングク)とナミ(キム・スンユン)と一緒に作品を撮るべく済州島にやって来た。サングクはカメラと録音、ナミは出演者として、3人で小さなチームが組まれている。ただソンモはいまだに脚本が定まらず難儀している。
 ソンモはあるとき撮るべきものを見つける。海岸でゴミ拾いをする女性だ。そしてこの女性との出会いから映画を構想するうち、撮るべきものはすでに自分が歌として書いていたと気付く。行き場を失い、海の彼方に泳いでいった男の話。海岸に聳える崖の上には浮かれ騒ぐ観光客。その崖の下に観光客の出すゴミを拾う女性がいる。男は他人の楽しみを人知れず支える女性に惹かれ、崖上から下に降りていく。しかし、彼はしだいに彼女から避けられるようになってしまう。一人取り残された彼は、海岸の上にも下にも行けず、海の彼方(奥)へと向かっていく。
『水の中で』には「総合」もしくは「統合」といった観念が貫いているようだ。たとえばここでは映画は現実の観察に根ざしつつ、一方では詩的かつ音楽的であり(歌の脚色)、もう一方では絵画的である(物語はあくまで空間的に把握される)。時間芸術と空間芸術の総合という昔なじみの映画の定義がここにある。また、ソンモは撮影と録音こそ友人の手を借りているが、脚本を書き、自ら演技をし、演出し、そして作曲まで手がける。製作資金を集め、予算を管理し、スタッフの泊まる場所を確保し、食事を毎回用意する。映画作りのあらゆるプロセスを統合する存在、それが監督だとでもいうように。
 驚くべきはラストのパン撮影である。こんな技巧ともいえないような技巧で、いとも簡単に映画と映画内映画とが一体化させられる。カメラが首を左に振り海に入水するソンモを捉えるとき、それまで被写体だった劇中のカメラが捉えているとおぼしき映像にいつしか切り替わっているからである。

『水の中で』©2023 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

 パンしてからのラストショットこそ、この映画の終点にして起点である。全篇をほぼフォーカスを合わせずに撮影してきたのは、このラストを見越しての布石にちがいない。ピンボケであることに美学的にも主題的にも整合性が与えられているのは、たぶんこのラストショットだけだと思う。
 ここではすべてが渾然一体をなす。まず、ソンモの指示は音声に関わる。自分の作った曲をスマホから流し、波の音と混ぜてほしい。声、音楽、物音のすべての輪郭を曖昧にし、いっさいを混ぜ合わせることが目論まれている。そして、映像については、入水するソンモの姿はしだいに波と一体化してゆき、風景の中に埋没するまでが描かれる。黒い染みとなった人物の動きははたして遠ざかっているのか近づいているのかさえ判別しがたいほどだ。監督兼主演のソンモはアウトフォーカスによって視覚的に輪郭を失うばかりではなく、海の中に沈むことで生を全うし、作品だけを残して姿を消すことになる。虚構が現実となり、作者の死と引き換えに作品が誕生して生と死の境界すらなくなって、かくして作者と作品との一体化が成し遂げられる。
 なお、水平線へと消え去る男は——このショットの構図においても作品全体の作劇の構成においても——文字通りの消失点を体現するもので、ホン・サンスは実に逆説的なことにここで透視図法の原理を引き受けている。その意味で、『水の中で』の映像の質感を印象派になぞらえるのは勇み足である。

『私たちの一日』©2023 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

 こんな究極の映画を手がけたあとに、ホン・サンスはいったいどこに向かうのか。今回の《月刊ホン・サンス》が示すのは、その新たな挑戦である。『水の中で』以後、彼は順に『私たちの一日』(2023)、『旅人の必需品』(2024)、『小川のほとりで』(2024)、『自然は君に何を語るのか』(2025)を完成させた。個人的には、編集に対する問題意識が以前にもまして前景化してくるようで面白い。
 すべてを一点に収斂させていく『水の中で』に続き、ホン・サンスは『私たちの一日』で二つの異なるエピソードを交互に展開させるという構成を選ぶ。二つの話は出演者も異なり、内容も互いに無関係に見える。一方は、靴デザイナーの家に転がり込んだ元俳優がいて、そこに俳優志望のいとこが相談にくるというもの。もう一方は、映画専攻の学生が老詩人をドキュメンタリーの題材としていて、そこに老詩人からの助言を求めて若い詩人がやってくるというもの。しかし、交わることのないこの二つには共通するモチーフがいくつも出てくる。3人の人物、ラーメン、コチュジャン、手土産、年長者からの助言、ギター、白いズボン、失うこと……。
 この構成が何を意図したものかは、『自然は君に何を語るのか』を見るとよくわかる。ここに30代の売れない詩人が出てきて「詩とは何か」と訊かれる場面がある。恋人の祖母の樹木墓と訪れた寺にあった大きな銀杏の木、こうした本来関係のないはずものものが自分の中で重なりあうこと、その神秘的な経験こそが詩なのだと彼はいう。つまり、『私たちの一日』は関連のない二つの物語が重なり合ってくるような「神秘」に賭けられている。そうした神秘を通じて、観客は詩人になっていくのである。

『自然は君に何を語るのか』©2025 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

『自然は君に何を語るのか』の詩人にとって詩がモンタージュの芸術だとすれば、『小川のほとりで』のテキスタイル・アーティストもまた編集に取り組む存在である。糸を編む行為と映像を組み合わせる編集という作業には、どこか響き合うところがあるのだから。この映画ではいくつものドラマがまるで織物をなすかのように織りなされている。
 叔父と姪の十年ぶりの再会、叔父と教授の出会い、男子学生による三股とその顛末、残された4人による寸劇、叔父の姉との確執、俳優業を干された過去、どれもドラマというには日常に溢れる些細なものにすぎないが、それらは小川の表面に立つさざなみのように些細だといってもいいはずだ。キム・ミニ演じるテキスタイル・アーティストは、小さいが使いやすいというパレット——ホン・サンスの小型のカメラを思わせる——でスケッチをしながら日々川面を観察し、パターンの着想を得ている。彼女は漢江から中浪へ、中浪から水踰へとどんどん上流に遡り、その根源には何があるかを探っていく。しかし、彼女がこれ以上ないほどの笑顔で発見するのは、そこには「何もない」ことである。生き物や人間や物や環境が関係を織りなしていくことにいわゆる第一原因があるのではない。世界はすでにそこにある。ただ生起するものが生起するがままに、そして各々が勝手に関係を織りなすがままにしておけばいい。作品もまたそこからひとりでに生まれゆく。

『小川のほとりで』©2024 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

 と、ここまで自由な思いつきを書いてきたが、『旅人の必需品』に触れるのをつい忘れてしまった。『3人のアンヌ』(2012)、『クレアのカメラ』(2017)、『旅人の必需品』のユペール三部作についてはまた機会を改めて。イザベル・ユペールは三作を通し、「演じること」、「撮影すること」、「台詞を書くこと」が何たるかを教えてくれる人物である。

『旅人の必需品』©2024Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.

『水の中で』 原題:물안에서|英題:In Water
2023年|韓国|韓国語|61分|カラー|16:9|ステレオ
監督・製作・脚本・撮影・編集・音楽:ホン・サンス
出演:シン・ソクホ、ハ・ソングク、キム・スンユン
字幕:根本理恵
配給:ミモザフィルムズ
©2023 Jeonwonsa Film Co. All Rights Reserved.
2026年1月10日(土)より、ユーロスペースほかにて全国順次公開

 

月刊ホン・サンス
公式サイト:https://mimosafilms.com/gekkan-hongsangsoo/

Vol.1『旅人の必需品』(2024年) 2025年11月1日公開
Vol.2『小川のほとりで』(2024年) 2025年12月13日公開
Vol.3 『水の中で』(2023年) 2026年1月10日公開
Vol.4 『私たちの一日』(2023年) 2026年2月14日公開
Vol.5 『自然は君に何を語るのか』(2025年) 2026年3月21日公開

東京・ユーロスペースほかにて順次開催中

 

バナーイラスト:大本有希子