
戦艦ミズーリ記念館にある、ペリーの星条旗のレプリカ 撮影:筆者
ハワイの真珠湾には戦艦ミズーリが停泊しており、そのまま「記念館」となっている。艦内を歩いて甲板に出ると、退色した手縫いの星条旗が額装して展示されていた。星の数が少ない。数えると31個あった。これは、ペリーが日本に来航した際に掲げていた星条旗──そのレプリカであると説明がされている。なぜ戦艦ミズーリにあるのかといえば、太平洋戦争の降伏文書調印式の際、マッカーサーの意向で、この星条旗が「展示」されていたからに他ならない。1853年のペリーによる「開国」と、1945年のマッカーサーによる「占領」が、一枚の国旗を蝶番のようにして折り重ねられている。

戦艦ミズーリ上での降伏文書の調印式。左奥に見えるのが来日したペリーの戦艦に掲げられていた星条旗である
出典:https://www.history.navy.mil/our-collections/photography/us-navy-ships/battleships/missouri-bb-63/USA-C-2717.html
この旗はわざわざメリーランド州アナポリスの海軍兵学校博物館から「借用」し、空路で運ばれてきたもので、弱冠25歳のブレマイヤー大尉は、わざわざアメリカのワシントンから東京まで、この布を持ってくるという極秘任務を命じられている──「朝、家を出た時点では、自分が家に戻るまでに2万マイルもの旅をすることになるとは知る由もなかったんです」[1]。さらにいえば、戦艦ミズーリのメインマストに掲揚されていたのは、真珠湾攻撃の時点で議会議事堂に掲げられていた星条旗であったという。こうなるとインスタレーションである。異様であろう。降伏調印式という「儀式−展示」に対して、マッカーサーは徹底してコンセプチュアルな態度で臨んでおり、労力をかけて現物の旗をアメリカから持ってくることにいささかの躊躇もみせていない。

《ペリー献上電信機実験之図(油絵)》 郵政博物館蔵 制作年・制作者不明
ただし、倉地伸枝による優れた調査によれば、おそらく明治末〜大正期に逓信博物館(当時)所属の技手によって描かれた「展示解説画」だと推測される[2]。本作には黒田清輝による「外光派」の影響がみられるが、先行する図像を参照・合成しつつ、相当程度忠実に描かれている。ただし、「「実験当時の写生画」やその原図である「警護の光景」には、応接場に建てられた1本の高い電信柱から吉左衛門宅までロープウェイのようにまっすぐ張られた電信線が描かれて」おり、「これは史実とは考えにくい」[3]。
なぜこのようなことから話したかというと、1854年、ペリーが二度目の来日を果たした際、将軍・徳川家定に献上したもののなかに「電信機」があったからである。彼らは日米和親条約の締結を求めてはるばる太平洋を横断し、紆余曲折の末に上陸したかと思えば、すぐさま電信機の稼働実験を行なっている。横浜では、日米協力のもとで即席の電信柱が仮設され、900mほどの電線が架けられた。世界初の陸上電信の実用化は1838年(海底ケーブルの実用化はそれから遅れること12年ほど経った1850年)であるから[4]、ペリーによる電信実験は世界最先端技術の誇示であり、自分たちの圧倒的優位性を幕府側に見せつけるものであった。電信の力だけでは無論ないが、幕府は日米和親条約の締結を決める。時代が動くことはもはや誰にも止められなかった。1kmに満たないその「実線」が、来る帝国主義時代──国境線の策定と拡大──においても絶大な力を秘めていることは誰の目にもあきらかだった。明治政府は、明治元年(1868年)にすぐさま「電信線を国で布設し国で運営する」ことを決定している[5]。
着々と延びていく国内の電信網は、陸地だけで満足するはずもなく、海岸線からさらに先へと進もうとする。人々は海を「断絶」ではなく「媒介」と捉えなおす。海岸と海岸は「海底ケーブル」でつながれていく。実際、1951年に調印されたサンフランシスコ平和条約を読んでみると、そこに「海底電線」の文字を見つけることができる(歴史の授業で習うだけで終わっていた条約を実際に読んでみると、ときとして意外な発見があるのだ)。
日本国とこの条約に従つて日本国の支配から除かれる領域とを結ぶ日本所有の海底電線は、二等分され、日本国は、日本の終点施設及びこれに連なる電線の半分を保有し、分離される領域は、残りの電線及びその終点施設を保有する。[6]
日本が占領していた地域には海底ケーブルが敷設されていたが、その権利を「二等分」するという取り決めがなされている。日露戦争の折には海底ケーブルが大陸まで引かれていたことには前回触れたが、ペリーの実験から100年足らずのあいだに、日本は「樺太、国後島、鬱陵島、朝鮮半島、中国大陸の大連や青島、上海、ヤップ島、台湾」にも、海底ケーブルを敷設するようになっていた[7]。言い換えるならば、日本は占領を続けるたびに、そこに電線を這わせることで植民地と内地を「物理的に」連結していったのである。1933年には「既設の電信線を電話線に転用して工事が竣工し、大阪−釜山−京城のあいだに内鮮通話がはじめて開通し」、外地との通話が実現している[8]。もちろん、「北海道、本州、四国、九州の大きな四つの島をつなぐ海底ケーブルだけでなく、佐渡や小笠原諸島の父島や母島、隠岐、対馬、五島、種子島、屋久島、奄美大島、徳之島、沖縄、宮古島、石垣島、西表島といった主たる島々」にも海底ケーブルは敷設されていた[9]。こうして、1930年代の後半には、日本の通信社は「自力による海外情報の収集、海外への情報発信」という長年の夢を「ともかくも実現した」のであった。[10]

しばしば混同されるが、電信柱は本来、電信線(通信線)が架かっている柱のことである。電力の橋渡しをしている高圧線・低圧線が架かっている柱は電力柱(電柱)と呼ばれる。順序としては、まず電信(電信柱)の普及があり、それからずっと後になって電気(電柱)が普及している。電気よりも電信が先なのである。見分け方のコツであるが、高電圧で危険な電線のほうが高いところに設置されている。低い方の線が通信線(現在では電話・光ファイバー・CATV)である。なお現代では通信線と電線双方を兼ね揃えた「共用柱」が一般的となっている。さらにいえば共用柱自体、埋め立てなどによる「無電柱化」が各地で進行中である[11]。
出典:三上修『電柱鳥類学──スズメはどこに止まってる? (岩波科学ライブラリー 298)』岩波書店、2020年、図7
「電信」という言葉をほとんど説明せずに使ってきたが、ここで注釈をつけておくと「電信」と「電話」は別物である。電信(テレグラフ)は、電気の「オン・オフ」の信号を送ることで、送信者と受信者が共有している「文字コード(モールス符号[12])」に基づいて「意味」を伝達するものである。電信を通じてやってくる信号を「電信技士」と呼ばれる専門家が解読し、手紙におこして対象者に手渡す画期的な文書配送サービス──それこそが「電報(テレグラム)」であった。ペリーが電信の実験をやってのけた際にはまだ「電話(テレフォン)」は存在しておらず、ベルによって電話──「声」そのものの電送──が発明されるのは明治11年(1876年)をまたなければならない。
一八七六年、アメリカではすでに八五〇〇ヵ所の電信局と二一万マイルを超える電信線が全国を覆い、また数百の海底ケーブルが全世界を電信網で結ぼうとしていた。だれの目にも、電信の将来は洋々たるものであるように思われた。高度に発達しつつある電信システムに対し、電話は雑音が激しく、電送された情報が記録されない点など不利な点が多く、とても太刀打ちできるとは思えなかったのである。[13]
しかしもちろん、電話はあっという間に改良され、電信を凌駕していった。フランスでは、2回線を利用したステレオ(両耳で視聴できる[14])のオペラの通信装置「テアトロフォン」も導入された。人々はカフェやホテルのロビーにいながらにして、別会場で上演されているオペラを聴くことができた。これはいわば世界初の「ライブ配信」である。シュルレアリスムを日本に紹介した福沢一郎(1898年−1992年)は、パリからの帰国直前である1930年に《寡婦と誘惑》を制作しているが、この絵の主要な参照元となっているのはテアトロフォンのイラストであった。こことは異なる空間で生成している音声が、電信と配電盤を経由して「いまここ」へと接続されてしまう事態──「超現実的な」事態──は、シュールな夢物語ではなく、現に社会に実装された「過剰な現実」そのものといえる。コラージュという、ある領域において定着した意味を引き剥がし、別の平面へと移植する行為が、電信からテアトロフォンに至るケーブル装置においても、あるいは国家レベルの徴兵、収容、国外追放(亡命)においても共通して作動する権力であることに思い至るとき、シュルレアリスムは単なる技法以上の存在となる[15]。

(左)テアトロフォン 1892年ごろ
出典:https://skullsinthestars.com/2016/06/03/twitter-weird-science-facts-volume-8/theatrephone/
(右)福沢一郎《寡婦と誘惑》1930年
出典:https://fukuzmuseum.com/blog/2011/09/09/1930_widow/
《寡婦と誘惑》に描かれる女性はテアトロフォンの操作者(オペレーター)であるが、電話の場合も、こうした音声の転送は「電話交換手」によって行われていた[16]。モールス信号を解読するという役割が明確な「電信技士」とは違って、「電話交換手」がなんのために必要なのかピンとこないかもしれない。当時、「電話をかける」という行為は、利用者が電話機の手回し発電機を回して(!)電話局のベルを鳴らし、「電話交換手」を呼び出すことを意味していた。通話したい相手の番号を交換手に伝えると、交換手が相手の番号に対応するジャックにプラグを差し込み、相互に接続が可能になる[17]。「通話」とは、このようないくつものステップを経て、ようやく実現されるものであった。一見機械的なフローのなかに、人間の声が媒介される。電信線と電信線のあいだには交換手たる女性たちの身体が挟み込まれていたのである。「電話は誰もがもつ身近なアイテムではなく、役所、警察、銀行や病院、新聞社などの公共の場所や政治家、医者や弁護士など名士の家でしか利用されていなかったからこそ、誰もが電話交換手として通用するというわけでは」なかったし、「高い社会階層の人々とも円滑に会話をすることができ、国際線を担当する場合は英語をはじめ外国語もあやつれる必要が」あった[18]。次第に電話交換手は──通信技士が男性中心であったことと対照的に──女性たちで占められるようになった。透明でまっすぐなコミュニケーションというフィクションを可能にする、不透明な女性たちの声。

溝口健二監督『浪華悲歌』1936年
8:11から10:50のあたりで会社内部での電話交換のやりとりをみることができる。https://www.youtube.com/watch?v=bdIpLamYzQ8
ほかにも「電話交換手(telephone operator)」で検索すれば女性たちによる交換業務をとらえた写真が大量にでてくる。筆者のおすすめはドラマ「マーベラス・ミセス・メイゼル」[19]。シーズン2の冒頭に、主人公たちが電話交換手として働く過酷な環境が描かれている。これは1960年代初頭のアメリカであるが、戦後のこの時点でもまだ電話交換手が必要とされていたことがうかがい知れる。

1919年1月、「大阪逓信局では交換業務の異常繁忙に対して、職員の労苦をねぎらうとともに士気の高揚を計る〔ママ〕ため職員の慰安会を行」い、「多数の交換嬢が参加した」。
出典:『大阪市外電話局史──声をつないで八十八年』大阪市外電話局、1980年、pp. 76–77
昨年、芦屋市美術博物館にて開催された展覧会「山崎隆夫 その行路──ある画家/広告制作者の独白」[20]に関連して、イベントをすることになった。もともと、学芸員の大槻晃実さんから美術館の収蔵品をとりあげてイベントを企画できないかというお話をいただいていたのだが、そこで山崎隆夫(1905–1991)の《卓上の電話》(1937)が気になると答えたところ、偶然にも、もうひとりの学芸員である川原百合恵さんから、山崎の回顧展を予定していると告げられた。驚きだった。しかも、「美博」(芦屋市美術博物館のことをこう略す)の近くには、かつて芦屋郵便局電話事務室だった建物が結婚式場「芦屋モノリス」として残っているのである。それならば、とイベント名は「卓上の電話を取り次ぐ」とした。旧・芦屋郵便局電話事務室を出発して、電線を辿って歩いていけば、この絵の、これみよがしに白くぬられた電話コードに「つながっている」はずだからである。

山崎隆夫《卓上の電話》1937年 油彩、カンヴァス 芦屋市立美術館博物館蔵
提供元:芦屋市立美術館博物館
自分は当初、この電話事務室でたくさんの女性たちが電話交換手として働いているところを想像していた。しかし調べてみると、芦屋郵便局電話事務室では1930年から「自動交換方式」へと交換業務が切り替わっていたことがわかった[21]。富裕層が多く居を構えていた芦屋である。1933年の段階で、電話加入者は3.3世帯に1台にのぼっていたから[22]、人力での交換業務は限界だったのだろう。新しく誕生したばかりの職業は、早くも機械に取って代わられるという事態に直面し始めていた。とはいえ、当時、電話を所有している人はまだまだ圧倒的に少数派であった。《卓上の電話》が描かれた1937年の電話加入者数は100万世帯に満たない[23]。同時期の日本全体の世帯数が1400万程度だったと推測されるので、電話を保有できたのはわずか7%ほどの特権階級であることがわかる。

芦屋郵便局電話事務室竣工当時(1929)の様子。設計:上浪朗(逓信省)
出典:https://www.city.ashiya.lg.jp/gakushuu/bunkazai/documents/kindaikenchiku_p20_23.pdf
1930年に三和銀行へと入行した山崎は、小出楢重や林重義に師事して油彩を学び、仕事から帰ると絵画制作にとりかかるライフスタイルを送るようになる。夜中心の制作は、室内灯のもとでの静物画や室内画を生み出していく。《卓上の電話》の翌年からは灯火管制も始まり、「屋外に灯りが漏れないよう、アトリエの窓に暗幕を張って描き続け」、モチーフやその周囲には影が落ち、一層強いコントラストが描かれるようになる[24]。
《卓上の電話》をみると、四角いブロックを隙間なく埋める形で構成された平面であることがわかる。そこに別のリズムを呼び込むかのように、黒電話、タイプライター、観葉植物[25]がテーブルいっぱいに所狭しと並び、電話からは白いコードが床に垂れ落ちている。普段使いでこのような状況は考えづらいから、山崎は意図的にこの3つを同じ卓上に配置している。「3号自動卓上電話機」と呼ばれる、いわゆる「黒電話」が国内で流通するのは1933年以降のため、1937年当時、この絵は最先端のメディアデバイスが油彩画という古色蒼然としたメディアに描かれている、という特殊な状況にあったといえよう[26]。少なくとも、銀行務めの山崎にとっては身近だったであろう黒電話も(タイプライターも観葉植物も)、鑑賞者たちにとっては高価で手が出せないものだったと考えられる。

《卓上の電話》に描かれた電話とタイプライターの特定をすべく、事前に訪れたNTT技術史料館の様子
撮影:筆者
イベント当日、JR芦屋駅には20名ほどの参加者が集まった。ぞろぞろと街歩きをしつつ、付かず離れずで一行は芦屋モノリスへと向かう。芦屋モノリスのレンガ壁には、戦時迷彩として黒く塗られた痕跡がいまもわずかに残っている。空襲による焼失を回避しなければいけない、軍事上も重要な施設だったということだろう。今回、学芸員の大槻さんが事前にかけあってくださり、特別に中を見学させてもらうことができた。大型の電話交換機を並べるために、大部屋は柱がなく天井も高い。式場としては申し分ない。これまで書き連ねてきたことを、参加者にもMacbook Airの画面を見せつつ説明する。モノリスをでて美博に向かう途中には、大槻さんと川原さんの案内のもと、小出楢重のアトリエ跡(山崎は小出からアトリエを譲り受けるので山崎のアトリエでもある)や、吉原治良邸跡などにも立ち寄った。ふたりは当日朝、ルートの下見もしたとのこと(!)、頭が下がる。自分は道中ずっと電信柱の電線を目で追う。当時と同じではないだろうが、それなりに近い場所に電信柱が立っていたのではないかと想像しながら。美博に到着したあとは、少し休憩時間を取り、各々自由に展覧会を鑑賞する。それからまた集まって、椅子を並べ、展示室の一角に模造紙を貼り、プロジェクターでスライドを投影しながら話をする[27]。

芦屋モノリスの内部 撮影:筆者
最後に、壁にかかっている《卓上の電話》をひっくり返して絵の裏面を見せてもらう。裏にコードの続きが描かれてるわけでもないから、当然のこと、なんともいえない沈黙があたりに充満する。それでも、たっぷりと時間をとってから、自分はイベントの終了を告げた。電線を通過する電気からすれば数秒のことを、歩いて、話して、鑑賞する速度で追いかけなおす。ひとつの絵の鑑賞に半日を費やすというのは、どういうことなのだろう。見るという行為に、何が起きたのだろう[28]。

(左)壁から《卓上の電話》を外す様子 撮影:筆者
(右)《卓上の電話》の裏面 撮影:筆者
自分は事前に、卓上に置かれた黒電話、タイプライター、観葉植物のそれぞれを特定できないかと思い、観葉植物に詳しい友人に聞いたり、NTT技術史料館に足を運んだりしていた。ただ、山崎の絵画では一定のデフォルメが施されているために、ある程度は絞り込めても、どれも決定的なことは言えなかった。電話については、前述の「3号自動卓上電話機」だろうと推測して、NTT技術史料館で写真も撮っておいた。ところがである。イベント当日、美博に到着する少し前だろうか、参加者のひとりが「あれは3号自動卓上電話機ではないと思う」と話しかけてくれた。名刺を差し出しながら、控えめな口調で、「おそらく、富士1号自動式卓上電話機なんじゃないか」という。富士1号自動式卓上電話機?──もらった名刺を見ると、そこには「てれふぉん博物館(ミュージアム) 館長/学芸員」という文字が並んでいた。

富士1号自動式卓上電話機。てれふぉん博物館蔵 撮影:筆者
(続く)
註
[1]“To Mark Japan’s Surrender at the End of World War II, This Navy Officer Raced Halfway Around the World With a Historic Flag in Tow,” Smithonian magazine, https://www.smithsonianmag.com/history/to-mark-japans-surrender-at-the-end-of-world-war-ii-this-navy-officer-raced-halfway-around-the-world-with-a-historic-flag-in-tow-180984973/
[2]倉地伸枝「「ペリー献上電信機実験之図(油絵)」ー逓信博物館における展示解説画の一例としてー」『郵政博物館研究紀要』第12号、2021年、p. 148。絵画の図像も当該論考より引用した。
[3]同上、p. 142
[4] 土屋大洋『海底の覇権争奪──知られざる海底ケーブルの地政学』日本経済新聞出版、2025年、pp. 30–31
[5]石原藤夫『国際通信の日本史──植民地化解消へ苦闘の九十九年』東海大学出版会、1999年、p. 42
[6]日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)第4条(c)。https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F0000000000000106881&ID=&TYPE=
[7]土屋大洋『海底の覇権争奪──知られざる海底ケーブルの地政学』日本経済新聞出版、2025年、p. 61
[8]『大阪市外電話局史──声をつないで八十八年』大阪市外電話局、1980年、p. 106
[9]土屋大洋『海底の覇権争奪──知られざる海底ケーブルの地政学』日本経済新聞出版、2025年、p. 60
[10]有山輝雄『情報覇権と帝国日本Ⅱ──通信技術の拡大と宣伝戦』吉川弘文館、2013年、p. 375
[11]2035年には固定電話の銅回線が廃止される。
https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC069DL0W5A800C2000000/
[12]モールス信号機の発明者であるモールスは画家であり、《ルーヴル美術館の展示室(Gallery of the Louvre)》(1831–1833)で知られる。https://en.wikipedia.org/wiki/Gallery_of_the_Louvre#/media/File:Gallery_of_the_Louvre_1831-33_Samuel_Morse.jpg
[13]吉見俊哉『「声」の資本主義──電話・ラジオ・蓄音機の社会史』講談社、 1995年、p. 104
[14]福田貴成「技法としての両耳聴」『REPRE』55、表象文化論学会、2008年。https://www.repre.org/repre/vol5/notes/index.html
[15]コラージュを含む、シュルレアリストたちによる異化作用を「ディペイズマン(Dépaysement)」と呼ぶが、その語源は「国・故郷を離れる(Dé-pays)」である。沢山遼による議論を参照のこと(沢山遼「福沢一郎と場」『絵画の力学』書肆侃侃房、2020年、pp. 42–45)。
[16]自分が「電話交換手」に関心をもったのは、批評誌『アーギュメンツ』での黒嵜想の連載「仮声のマスク」によるところが大きい。
[17]石井香江「情報通信技術と「見えない労働」の誕生──職場から見る情報通信の近現代史」『情報・通信・メディアの歴史を考える(いまを知る、現代を考える山川歴史講座)』石橋悠人・石井香江・貴志俊彦編、山川出版社、2023年、p. 71
[18]同上、pp. 70–71
[19]“Marvelous Mrs Maisel S2 – Opening Shot,” https://www.youtube.com/watch?v=4VxFFTJPaM
[20]会期は2025年9月20日–11月16日。https://ashiya-museum.jp/exhibition/exhibition_backnumber/20074.html
[21]「昭和5〔1930〕年2月2日及び3月1日に阪神間の芦屋御影両局に待望の自動交換がわが国最初のシーメンス・ブラザー式で開始されたのであるが、その状況を説明する前に両局の状況を述べると、当時芦屋は兵庫県武庫郡精道村の一部であって、大正の初期までは1寒村に過ぎなかったが、第1次欧州大戦の影響と、風光明媚な健康地として大正中期において急に発展し、又御影は武庫郡御影町として元来灘郷の銘酒産地であり、それに高級住宅地として開けていたが、更に神戸市の東進によって急激な発展を遂げたものであって、開式当時芦屋局は磁石単式市内14台、市外11台、加入者1,050名〔、〕御影局は磁石式直列複式交換機10台、加入者複式2,700で本交換機の容量を遥かに超え、同一局内において分局接続を余儀なせねばならないような行詰り状況にあった。」
(『自動電話交換二十五年史 中巻』日本電信電話公社、1953年)
[22]芦屋市史編集専門委員会『新修芦屋市史 本篇』芦屋市役所、1971年、pp. 622–623
[23]ただし、当時の国内は電話回線を引きたくても長期間待たされる「積滞」と呼ばれる状態にあった。申し込んでから自宅に電話が引かれるまでに数ヶ月から数年を要したという。
[24]担当学芸員・川原による記述、『特別展 山崎隆夫 その行路──ある画家/広告制作者の独白』芦屋市立美術博物館、2025年、p. 16
[25]「特に神戸周辺で洋花が普及したのは、1912(大正元) 年 11 月に発行された『兵庫県の園芸』(兵庫県農会)によると明治維新後の神戸港の発展とともに外国貿易が頻繁となり、外国人の居住が多くなり、神戸市を中心として富豪紳士の別荘地となって流行したとある。以上のように、大正時代初期の阪神間では、上流階級を中心とした家庭園芸において、当時珍しかった観賞植物が普及していたと考えられた。」
(土橋豊「雑誌『郊外生活』に見る阪神間の大正時代初期における園芸文化」『人間・植物関係学会雑誌』2015年、p. 14)
[26]たとえば、ダリによる《ロブスター・テレフォン》は1936-38年の作である。https://www.tate.org.uk/art/artworks/dali-lobster-telephone-t03257
同時期にダリはコードの切れた黒電話の絵画を複数点手がけている。
[27]レクチャーの資料作成においては、練馬区立美術館の「電線絵画展-小林清親から山口晃まで-」(2021年2月28日−-4月18日)に多くを学んだ。電信線が表象空間に登場したのは浮世絵・錦絵が最も早く、「電信線から遅れること約20年にして絵画にも電柱、電線が登場」するようになった。(加藤陽介「電線絵画──その栄華の記憶と惜別のために」『電線絵画展-小林清親から山口晃まで-』求龍堂、2021年、p.152)https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=202012111607684505
[28]実は「《卓上の電話》を取り次ぐ、リハーサル」と称して、金沢美術工芸大学の集中講義の際に予行演習を行っている。聴講してくれた学生たちからはいろんな反応があり、彼ら、彼女らとのやりとりはイベント当日にもさまざま活かされている。記して感謝したい。
