文章を書いて絵を描くということは、一日のうちに同時にはできないことですけれども、人生の中ではできることです。それから文章を書くということは、普通に、よく考えてみるということです。よく考えて、よく感じるという──よく噛んだら身体の栄養になるという、その程度の問題です。そういうようなことだけは、これからもやっていきたいと思っています。[1]

宮迫千鶴《海辺の玩具》1974年
「一九七五年、宮迫は“荒れた海辺”を主体とした初めての個展をシミズ画廊で開いた」とあり、本作も初個展での出品作と考えられる[2]。
宮迫千鶴(1947–2008)について今あらためて書くのであれば、主著と見なされている『超少女へ』(1984年)や、自身も深く関わった「アール・ポップ」ムーブメントから始めるのが穏当な方法だろう。あるいは若き大竹伸朗(1955–)がはじめて参加した企画展である「チャイナタウン・ファンタジア」(1980年)だろうか[3]。いずれにせよ、人々は80年代の大都市・東京において[4]「宮迫千鶴」という固有名に遭遇するようになり、その存在は瞬く間に「上野〔千鶴子〕さんと並び立つ論客と目されて」いった[5]。
宮迫は八〇年代、日本論から女性論、家族論など多方面にわたる評論やエッセイを精力的に書いていた。ことに伊豆に移る頃〔1988年〕には、時に月に三十本もの原稿を書く、いわば「売れっ子の評論家」になりつつあった。[6]
したがって──前回予告してしまった通り──「アール・ポップ」における宮迫の立ち位置や姿勢について書き、「80年代」前夜から始めるのが正着だろうと思う。思うのだが、この連載ではあえて、それ以前からの連続性のなかで宮迫について書いてみたいと考えるようになった。そうすることで遭遇しうる「宮迫千鶴」がいるはずなのだ。

月刊タウン誌『いけぶくろ』。発行は池袋名店会。制作は株式会社城宣。
撮影:筆者
まずは訂正の報告から始めなければならない。「宮迫千鶴の隣人になりたい#1」において自分は、「上京して『月刊いけぶくろ』の編集アシスタントの仕事についた宮迫は、そこで雇われ編集長をしていた谷川晃一(1938–2024)と恋愛関係になる」と書いた。これは後年の谷川の証言に基づいているのだが[7]、当の宮迫は、『広告批評』の編集長・島森路子(1947–2013)によるインタビューで次のように述べている。
入ったらいきなり編集長で、というより、他にやる人がいなかったんだけど、とにかく無我夢中でやってた。[8]
谷川と宮迫、どちらも自分が編集長だったと言っているのである。この謎を解くには『いけぶくろ』の誌面にあたるにしくはない。現時点でかろうじて入手できた同誌を確認すると、はたして編集後記には「宮迫」の二文字があった。谷川の名前は見当たらない。前述のインタビューで宮迫は、谷川の立ち位置についても明かしている。
〔谷川は〕私が3つ目に入った会社の顧問みたいなこともアルバイトでしていて、一緒に企画会議とか編集会議をやってたわけ。〔…〕「オートバイ」の特集とか、「ヤクザ」とか、そういうことを言うと面白がる。池袋のPR雑誌なのに、ついには「場末特集」なんかやっちゃったり。[9]
会社とは『いけぶくろ』を手がけていた株式会社城宣のことである。実際の肩書は不明であるが、すくなくとも、宮迫が実質的な編集長業務を一手に引き受けていたのは確かなようだ。取材や編集のほか、「森ちづる」というペンネームで自ら寄稿もしている[10]。宮迫は大学生のころすでに中国新聞にエッセイを寄稿したことがあるほどの書き手であった[11]。
記念すべき100号(1971年2月号)の特集は「毒婦エレジー」(!)であり、その次(1971年3月号)の特集は「オートバイ」──宮迫も認めるように、「池袋をPRする」という目的から完全に逸脱した企画が毎号のようにあり、ふたりの感性と好奇心で次々に特集を進めていったことがうかがわれる。職場内での不倫関係については宮迫・谷川の言葉しか残っていないため細心の注意を払う必要があるのだが、その上で書くならば、谷川の妻は離婚を決して認めようとしなかったという。宮迫の遺稿集には、当時の心境が次のように綴られている。
私たちは恐ろしく真面目に、多くのことを語り合い、そうすることで難問を切り抜け、自分たちだけに通用する関係のモラルを探った。〔…〕私はいつも自分に言い聞かせていた。「関係は最良、しかし状況は最悪」だ、と。[12]

森ちづる「わかっちゃいるけどやめられない」『いけぶくろ』101号、1971年、pp. 18–19
撮影:筆者
宮迫は株式会社城宣に1年ほど務めたのち転職し、絵画制作と賃金労働の両立を模索し始める(これによって谷川との上司・部下という関係も解消される)。「新宿の三畳半のアパート」[13]と池袋の職場の往復から脱出できたとはいえ、転職後も仕事に追われる生活は続いていたようで、宮迫はこの頃の自分を「字義通り残業後の深夜と日曜日しか絵の描けぬ“サンデー・ペインター”でした」と表現している[14]。1974年、昭島の米軍ハウスで谷川との同棲を始めた宮迫は、同年、荻窪にあったシミズ画廊のグループ展に谷川とともに参加し、翌75年には同画廊にて初個展を開催した[15]。上京から5年の歳月が流れていた。
20代の宮迫の動向についてはわからないことが多く、本人も(2歳年下である村上春樹の言葉を借りて)「七〇年代の沈黙」[16]と呼んでいる──「七〇年代の美術に対しては、いつもウォッチャーみたいなところがありました」[17]。「アール・ポップ」や「超少女」といった時代の先端を見据えるような姿勢とは裏腹に、70年代の宮迫が最も影響を受けていたと思われる作家のひとりは、ウィーン幻想派の画家カール・コーラップ(Karl Korab、1937–2003)であった。

(左)宮迫千鶴《制御装置IV》1976年
(右)カール・コーラップ(Karl Korab)《頭(Kopf)》1972年
出典:https://www.auktionshaus-stahl.de/de/artikel/103789-karl-korab-kopf
《制御装置》のシリーズは1976年の春秋画廊での個展において発表されている。構図からモチーフ(機械化された人体表現、幾何学模様)までかなりの影響をみてとることができる。そのうえで気づかされるのは、宮迫の機械の──潮風によるであろう──「錆び」のようなテクスチャである。
コーラップをはじめとするウィーン幻想派の熱心な紹介者はドイツ文学者の種村季弘(1933–2004)である。『いけぶくろ』にも寄稿していた種村を宮迫は「タネさん」と呼んで慕っていたようで、澁澤龍彦(1928–1987)とも種村の出版記念パーティーではじめて出会っている[18]。補助線を引いておくならば、メジャーな戦後前衛とはどこか公然と棲み分けられていた「シュルレアリスム/幻想文学・絵画」という別なる前衛の一群があり[19]、しかし両者は互いに一定程度の人脈を共有しつつ、独自の生態系を育んでいた(谷川はまさにそのような狭間にいる人物であった)。宮迫自身も「もの派」や「コンセプチュアルアート」、美術手帖が主導していたような「絵画/彫刻の復権」という動向よりも、カール・コーラップのような薄暗く妖しい具象表現にシンパシーを感じていた。別の言い方をすれば、『海・オブジェ・反機能』(1977年)において論じられてきたアメリカの作家たちと、種村・澁澤的なウィーン幻想派の作家たちは──オブジェというタイトルが図らずも示す通り──都市や資本主義の暗部、拭えない死の匂い、故郷・呉の鉄錆の翳りと結びついている点で宮迫のなかでは等価であった。

(左)宮迫千鶴《白亜紀》1976年
(右)ジャパン マリンユナイテッド株式会社・呉事業所(旧呉海軍工廠造船部造船船渠)。撮影:筆者
「いわゆる芸術的前衛、芸術的問題を提出するラジカルなアーチストとは無縁の絵描き」[20]を自認しながら、宮迫は次第に主たる表現手段をコラージュ表現に定めていく。1970年代も終わりに近づき、80年代の足音が聴こえ始めていた。幻想絵画ではなく都市的なコラージュへ──この重要な「転換」については稿を改めることとして、ここでは差し当たりコラージュという技法をとりいれた「きっかけ」について検討をしておきたい。例によって(?)、コラージュを始めた経緯についても、宮迫と谷川、ふたりの証言は微妙に食い違う。谷川は、宮迫が上京して間もない時点でコラージュの制作を行っていたと思わせる発言をしている。じっさい、本人がそれを「作品」だと思っていたかどうかはさておき、『いけぶくろ』においても宮迫(森)のコラージュの挿画が確認できる。
宮迫が一九七〇年に東京に出てきて間もなく僕は彼女に出会い、はじめて彼女の作品を見せてもらいましたが、その作品は新聞紙の上に新聞紙を貼り付けたコラージュでした。[21]

『いけぶくろ』でのコラージュの例。1971年3月号「特集・オートバイ」。撮影:筆者
いっぽうの宮迫は、次のように回想している。少し長いが引いておく。
だって向こう〔谷川〕は、私が描いてる絵を見て、こんなに才能がない人間はいないと思っていたと言うんだから。えーと、私が二十四、五のとき。で、才能がない奴だなあ、可哀想にと思ってたらしいのだけど、そんなことは口に出して言わないよね。こっちも向こうを絵描きってバカだなあと思ってたし。まあ、それでも「どうですか見て下さい」なんてときどき見せてたんだけど、「うんうん」という感じで、どうも反応が悪いというのはわかってくるわよね。で、最終的に私が何をやったかと言うと、そうだ、ダメなのは私が頭が悪いからかもしれないから、山下清のようにやれば、あそこから出発すれば、なにかができるんじゃないかと思った。
今度は色紙を買ってきてね、貼り絵から始めたわけ。木馬みたいな馬を貼り絵で一生懸命作ってた。そしたら突然ね、「これ、面白いね」って、初めて言ってくれたんです。「面白いですか?」って、自分でもわからないから聞いたりして。で、「同じような方法でずーっと作ってごらん」って言われて、んじゃ、やってみようかしらと続けているうちに、少しずつ教えてくれるようになったのね。[22]

宮迫がコラージュを提供した、井上浴『学校が火事にでもならんかいな 尾道・井上塾物語』(家族社、1987年)の表紙・裏表紙
撮影:筆者
コラージュが西洋的な文脈ではなく、山下清の「貼り絵」由来であることに注意を向けよう。山下は1971年に49歳の若さで亡くなっている。ただしその名は1950年代の後半にはすでに人口に膾炙しており、あくまでひとつの例えとして持ち出されているのかもしれない。じっさい、ちぎり絵のようなコラージュを宮迫が発表するのは80年代の後半を待つ必要があった。岡上淑子(1928–)のようにマックス・エルンストを知らずにコラージュを制作していたということも考えづらく、かと言ってそのような美術史的な文脈に接木しようという意図も見当たらない。端的に、制作の条件面での利点──準備に時間を要さないこと、小さなテーブルがあれば手元で作れること、雑誌から素材を切り出すだけのときがあってもよいこと、紙に素材を並べながら事前に構図を吟味できること──からコラージュが最もしっくりくる形だったように思われる。結果的に宮迫の都市的な風合いを漂わせたコラージュは「アール・ポップ」を代表する作品として知られるようになるわけであるが、その時期の作品は、ウィーン幻想絵画のようなねっとりとした実存主義的陰鬱さと、前衛芸術を絶対視しない屈託のなさの両方を通り抜けたうえで制作されていたのである。一個人、一市民、一消費者、一都市生活者──自分をあまねく「作り手」のひとりとしてカウントする姿勢。

1967年の県立広島女子大学・大学祭のパレード。文学部・国文学科の宮迫は卒業論文で徒然草の研究をしているため、指導教官は園田均だと思われる。
出典:https://www.pu-hiroshima.ac.jp/p/100anniversary/episode.html
1966年に県立広島女子大学に入学し、1970年に卒業した宮迫は、在学中から仲間たちと詩や映画をつくっていた。さまざまな政治闘争が大学でも激しく展開されていた時期である。そのような若者が東京は新宿にやってきて、アンダーグラウンドでサイケデリックな環境にどっぷりと浸からなかったのだろうか(たとえば宮迫と同い年で、一足早く新宿へとやってきていたシュウゾウ・アヅチ・ガリバーと遭遇しなかったのだろうか)。あるいは、1970年の安保闘争、ベトナム戦争反対運動などをどのように捉えていたのだろうか。そのような疑問を携えながら残された文章たちをたどっていくと、ひとつの地域にたどりつく。上京した宮迫がたびたび訪れたのは東京の寄せ場・山谷であった。山谷の日雇い労働者たちの解放運動に身を投じていた「Nさん」──中山幸雄(1945–)[23]は、宮迫の学生時代からの知り合いで、宮迫は中山をとおして、山谷に生きる人たちの話を聞いていたのである。
1975年、宮迫は知人からひとりの男性の死を告げられる。中山とともに山谷・釜ヶ崎で闘争を続けていた船本洲治(1945-1975)──彼が沖縄の米軍基地前で抗議の焼身自殺をおこなったという報であった[24]。宮迫と船本は数年前に一度だけ邂逅したことがあった。70年代の宮迫には死が避けがたくまとわりついている。
たえず私の頭のなかでくり返しフラッシュ・バックしていたのは、Nさんから聞いた山谷の若い労務者の怒りでした。じいさん、死ぬのなら、この山谷で死ね。あんたはモルモットじゃねぇ、人間なんだから、この山谷で死ね。[25]
(続く)
註
[1]宮迫千鶴『アートを通した言語表現──美術と言葉と私の関係』河合文化教育研究所、2009年、p. 51
[2]谷川晃一「情報時代の形而上学 宮迫千鶴『デイリー・ブルー』」『アール・ポップの時代』皓星社、1979年、p. 168
[3]1980年3月11日~21日、ラフォーレ原宿
[4]江原由美子は宮迫の早逝に驚きつつ、次のように振り返っている。
「残念なことに、やはり当時活躍されていた宮迫千鶴さんは、最近亡くなられましたね。新聞で知ってびっくりしちゃいました。宮迫千鶴さんは美術家だったんですが、この頃やっぱり活躍したフェミニズム理論家です。都市的フェミニズムというのかなあ、なんて言うかなあ…。『ママハハ物語』とかですね、なかなか優れた人でした。」
(江原由美子「ジェンダー研究のこれまでとこれから」『立教大学ジェンダーフォーラム年報』2008年、p. 21、強調は筆者による)
[5]「足立倫行 連続対談〈団塊世代の転進と再生〉 第4回」『望星』2007年11月号、p. 80
[6]追分日出子『自分を生きる人たち』晶文社、2005年、p. 180
[7]「僕は一九七〇年頃、アルバイトで『月刊・池袋』〔ママ〕という小さなタウン誌の編集長をやっていました。編集者が足りないので募集したところ、やってきたのが宮迫でした。それが僕と彼女の出会いでした。『月刊・池袋』はタウン誌ですから大半は広告でしたが、僕らは記事を作っていました。表紙は宇野亜喜良、口絵は赤瀬川原平、コラムは上野昴志、平岡正明、松田政男、石子順造などの諸氏に頼んでいましたが、あるとき映画のコラムの原稿が間に合わなくなり、宮迫に「あんた書いてみない」といったら翌日、仲代竜矢主演の『いのち棒に振ろう』〔ママ〕という映画評の原稿を持ってきた。この原稿はパトスが激しいものでしたが、思った以上の出来で驚きました。それからいろいろ文章を書いてもらいましたが、骨格のしっかりしたいい書き手でした。」(谷川晃一「Ⅱ 宮迫千鶴と絵画──解説に代えて」宮迫千鶴『アートを通した言語表現』pp. 59–60)
なお言及されている映画「いのちぼうにふろう」(監督:小林正樹)の公開は1971年9月である。自分はまだ当該号を見つけられていないのだが、後述するように、少なくとも1971年2月刊行の「いけぶくろ」100号にはすでに「森ちづる」名義で「好きな男の骨時計」というエッセイが掲載されている。
[8]『広告批評』1985年3月号、p. 101
特集は「女はなにを考えているか」。なお、宮迫は上野千鶴子との対談のなかで、島森を「実にうまいインタビュア」だったと絶賛している(上野千鶴子・宮迫千鶴『つるつる対談 多型倒錯』創元社、1985年、p. 191)。
[9]『広告批評』1985年3月号、p. 102
[10]紹介文は以下の通りで、まず間違いなく宮迫自身だと思われる。「昭和22年広島生れ。カトリシズム研究家。鈴木清順「関東無宿」のファン」。
[11]追分日出子『自分を生きる人たち』p. 186
[12]宮迫千鶴「人生という長い旅の同伴者」『楽園の歳月──宮迫千鶴遺稿集』清流出版、2009年、p. 102
[13]宮迫千鶴『イエロー感覚──不純なもの、あるいは都市への欲望』冬樹社、1980年、p. 262
[14]宮迫千鶴 ・三田格『ダークサイドの憂鬱──「崩壊家庭」の社会学』時事通信社、1986年、p. 9
[15]シミズ画廊は当時珍しく写真家の展覧会を積極的に行っている画廊であった。また1974年には、手塚治虫が30周年の展覧会を開催している。https://tezukaosamu.net/jp/mushi/200912/column.html
[16]宮迫千鶴 ・三田格『ダークサイドの憂鬱』p. 240
[17]川本三郎・宮迫千鶴・中沢新一「文明のなかの感性」『月刊ロアジール』1984年4月号、p.55
また、この時期の生活圏について宮迫は次のように書いている。
「最初の一年を新宿で暮らした以外は、おおむね世田谷区・大田区・目黒区あたりで暮らし、そのせいか渋谷や自由ヶ丘で遊ぶくらいで、青山・原宿・六本木はおろか銀座などはめったに行かなかった。最後に長くいたのは成城だったが、これまた駅の回り〔ママ〕をブラブラしたくらいで、ほとんど家にこもっていた。」
(『東京人』1990年5月号、p. 116)
[18]宮迫千鶴「澁澤龍彦への頌歌(オード)──無邪気な悪童」『鳩よ!』1992年4月号、p. 34
[19]とりわけ、1971年に小田急百貨店で開催された「現代の幻想絵画展──不安と恐怖のイメージを探る」の影響は大きく、特筆すべきことに、この展覧会は1973年、復帰直後の沖縄にも巡回している。
[20]宮迫千鶴 ・三田格『ダークサイドの憂鬱』p. 9
[21]谷川晃一「Ⅱ 宮迫千鶴と絵画──解説に代えて」宮迫千鶴『アートを通した言語表現』p. 58
[22]『広告批評』1985年3月号、p. 102
[23]上山純二・原口剛により中山幸雄『暴動の時代に生きて──山谷 ’68-’86』(月曜社、2024年)が刊行されていたことで、自分は「Nさん」が中山ではないかと考えることができた。
[24]船本洲治『[新版]黙って野たれ死ぬな』(船本洲治遺稿集刊行会、共和国、2018年)に、中山は「船本洲治とともに半世紀を生きて」という文章を寄稿している(pp. 355–370)。
[25]宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱』p.108
著者・長谷川新さんがキュレーションする、写真家・西澤諭志さんの個展が京都で開催されます。
ぜひ足をお運びください!
西澤諭志「世界無名戦士の日」
会期:2026年4月18日(土)–5月24日(日)
時間:10:00–17:00 (4/24(金)のみ12:00–17:00)
定休日:水曜日(4/22、29、5/6、13、20)
会場 :半兵衛麸五条ビル2階 ホールKeiryu
(京都府京都市東山区上人町433 半兵衛麸本店北側)
イベント等の詳細についてはこちらから
