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2025.08.04

『「国語」と出会いなおす』刊行記念対談
町屋良平×矢野利裕
文学と批評の現在地(後編)

/ 町屋良平, 矢野利裕

『「国語」と出会いなおす』の著者で批評家の矢野利裕と作家の町屋良平が、文学をめぐる現在地とこれからを語り合いました(前編はこちら)。
前編に引き続き、後編では「仮想敵」「すこやかさ」「文責」「競技性」などのキーワードを軸に、文学における責任と自由の現在地を探っていきます。
(本記事は2025年6月4日に下北沢B&Bでおこなわれたイベント「小説の死後に文学を再設定する」の採録です)

 

◎仮想敵とすこやかさ

町屋:これは言っておかなければと思った話ですが、『「国語」と出会いなおす』にも仮想敵みたいなものがありますよね。この本は本当に面白くて多くの人に読んでほしい、ベストセラーになっていい本だと思います。けれど一方で、自分は疎外感を感じる本ではありました。
それはなにかというと、帯の背に「すこやかな文学」と書かれていて、あとがきでも二回ほど「すこやか」と使ってるんですね。私は「反・すこやか」なんですよ。
すこやかであるとはどういうことなのか、それは感情のぶつかり合いで、ロジックではなんともならないものだと思いますが、でもこの本を読んで矢野さんは実は「反・反すこやか」なんじゃないかと思いました。やや無自覚に「反すこ」を批判する立場なのではないかと。
これは、保坂和志さんの話につながってきて、一般的に保坂さんはすこやかな印象を持たれている感じがするんですけど、私自身も批評を始める前はかなりそう思っている部分があって、しかしよく読んでいくと本人自身は一貫してすこやかにさに欠けるところがある。保坂さんにつづく作家はけっこうすこやかに感じることがありますけど。
それで保坂さんは影響力自体はずっとゆるやかに下がっていると思うんですが、論敵にする人がいつの時期にも必ず現れるというか、なぜ目立つ存在でありつづけるのだろうとずっと思っていたんです。それであるとき、そのぶつかりは保坂さんの反すこやかな部分に対する反・反すこやかの立場からなんじゃないか、つまり、保坂さんの反すこやかの部分にすこやかな人が反発しているのじゃないか、論理のぶつかり合いじゃなくて、見かけ上そう見えているけど、じつは根っこのところでは感情のぶつかり合いではないのか、と仮説を立てたときにすごい腑に落ちた気がしたんです。
保坂和志さんを「小説の死後」で論じていて、一番思ったのは振る舞いにおいて権威的部分はやはり見受けられる。そこに関しては、しっかりその都度批判していかなきゃいけないと思いました。
けれど一方で、思った以上にもう一度保坂さんのことが好きになっちゃったんですよね。保坂和志さんを批判的に乗り越えようと思っていたけど、保坂さんの反すこな立ち位置みたいなものにすごい共感しちゃったんですね。だから矢野さんとのやり取りをしていただいた後に、むしろ保坂さんのことが好きになっちゃったんですよ。

矢野:「すこやか」は最近好きなワードですね。本のなかでは、教員2年目に受け持ったスポーツ科クラスのことについて書いた章に登場します。彼らは全然勉強に対してモチベーションがないんだけども、自分の身体に巻き起こったことと論理がまっすぐにつながってるんですね。ディベートをやらせてみても「てめ殺すぞ」とか言うわけですが、悪口を言い合っても破綻しない関係性がある。それは一緒に汗を流してるという信頼関係があるからですよね。そういうすこやかな言語運用のありかたに感動しました。
柄谷行人が「意味という病」という言い方をしていましたが、これは言葉と体と意味が一致しないことの病ということです。これは夏目漱石の病であり、芥川龍之介の病であり、マルクスの病である。批評とは、意識と自然が一致しない病のようなものとして存在する。そういう柄谷的な議論の影響下にある教員2年目の24歳ぐらいの自分は、すっかりそういう頭になっていたので、彼らの——言葉を選ばずに言うと——健康的な姿を見て衝撃的だったんですね。「なるほど、こういうふうに文学を語る言葉がありうるのか!」と。
もちろん「すこやか」という言葉を使うとき、頭の片隅には、健康を崩された方や障害を持っている方の存在、あるいはメンタルヘルスの問題なんかがあります。中高生と接していると、そういう問題も身近と言えば身近です。でも、そのような問題にちゃんと向き合っていて言葉にしようとすること。それも「すこやか」なありかただと、ぼくの語感では思います。
生徒たちは、そういういろいろな悩みと言葉とを乖離させるのではなくて一致させようとしている気がする。自分の身に起こっていることと言語を一致させている。柄谷は意味と言葉のズレを「病」と呼んでいましたが、逆に身体と言葉を一直線に結ぼうとしている人は「すこやか」だなと思ったんです。気持ち・心と体がまっすぐだと。

町屋:私もそういうすこやかさに対する憧れはすごいありました。とくに小説の中ではそういうことは展開されてるはずなんですが……。

矢野:『生活』はそういう作品のように見えました。

町屋:おおむねそうなってると思います。でも、どっちみちすこやかじゃない方に行くんですよね。私自身はたしかに学校はそんなに得意じゃなかったんです。苛められたりなどあったものの、中高の人間関係はそこそこ大丈夫だったんですが、そもそもどうしても朝起きられなかったので。とはいえ、国語は好きだったんですよ。ぼくは中学受験をしててルールがわかってそれをやるのが楽しかったし、作文もめっちゃ早く書けました。教卓に積まれた原稿用紙を取りに行くと目立つんですよ。あそこだけはおれの見せ場みたいな感じで(笑)。

 

◎小説を一言で言い表す

町屋: 小説家は作文や読書感想文に対する忌避感がすごく強いですよね。私にはないのでその予定調和感には多少、反発があります。

矢野:ぼくは小説を作文として読んでいるところが正直あります。ちょっと話が前後するんですが、ぼくはもともととりわけ小説が好きというわけではなくて、小説や文学に対しては「わからない」と思っていたんですね。
ぼくは音楽がけっこう好きで、音楽に対しては「わかってる」という思いがちょっとあるんですよ。だから自分が好きな音楽に対して褒めてる文章を読んでも、直感的に「このライターはわかってないな」と思っちゃうこともあります。「音楽をちゃんと聴けていないな」と。もちろん、音楽の聴き方は自由だし、受け取り方も百人いれば百通りあるということは頭ではわかっているけど、「この人は本質的に音楽をわかってないよね」と思っちゃう時があるんですね。けれど、小説はそうじゃないなって思ったんですね。
自分が小説を読む場合は「この時代がこうで、これまでにこういう試みがこうあって、それに対してこの作品はこういうふうになってるからよい」みたいに何回か段階を踏んで価値判断をしている気がします。あるいは「これはよいものだ」と思い込みながら読んだりすることもある。身体と直結していない受容の仕方をしているような感覚があるんです。そう考えたとき、ふと、保坂さんが「評論家がこの小説に対してこう言うけど、全然わかってない」と言うのは「なるほど、ぼくが音楽ライターに対して思っていることと同じなのか」と思いました。
そんなことを思って以降、最近は、小説を読むときに音楽を聴くかのような心のかまえをするように努めています。そうすると自分のなかで小説の良し悪しの基準が少し変わってくる。意味が透き通って自分に入ってくる感じがなんとなくわかってきた気がして、今は人生のなかでけっこう小説を読むのが楽しい時期ではありますね。

町屋:なるほど。ちょっとずれる話ですけど、私は音楽に関してはめっちゃベタな聞き手だと思っていて、リズムとメロディーしかわからんと思って聞いてるんですね。漫画にも物語性を強く求めがちです。他ジャンルのことはわからないで、そうやって済ませたりするわけです。だから結局、小説も自分のジャンルのことだから言えるに過ぎない部分は大きいですよね。やってる人はわかっちゃうけど、みたいなことはありますが、小説は書いてる人の世界だけじゃ狭いですから。

矢野:とはいえ小説というものは言語じゃないですか。言語なのに意味が阻まれないなんてことはありえるのかはまだ疑ってますけどね。

町屋:ご自身でも自覚して書いてると思うんですけど、矢野さんはアンビバレンスというか、多面性を保持しようとしていますよね。小説に含まれる社会性みたいなものも多面的に考えたとしても、批判するアプローチと肯定するアプローチと、けっこう時期によっても違ったりするじゃないですか。
具体的に聞いてみたいんですが、2017年の「来たるべき小説」の段階では一面的に読むと、社会性に頼って小説をドライブすることに対して批判しているようなニュアンスが見受けられます。けれどその後の議論はおおむねそうじゃなかったりします。これは転換があったのか、それともそうじゃなくて両義性を受け入れてるんでしょうか?

矢野:小説である以上、社会に還元しきることはありえないと思うんです。つねに小説としての余剰性はもたらされる。だから、根本的な転換はなくて両義性を受け入れています。ただ、そのうえで「この作品で何を伝えたかったんですか?」と作者に聞きたい気持ちが強い。それで、聞かれた作者には即答してほしいと思っています。即答で「これが伝えたかったんです」と言ってほしい。そこはロマンティックな作家主義だと思うんです。

町屋:そんな作家いなくないですか?

矢野:いない(笑)。実は円城塔さんに聞いたことがあるんですけどね。『烏有此譚』が出たときかな、サイン会に行って「何を伝えたかったんですか」と。そうしたら「何を伝えたい……か。それを知るためにぼくは書いてるのかもしれない……」と。かっこいいと思いました(笑)。まあ、我ながら「円城さんに聞くことではないよな」と思いましたが(笑)。
評論家はちょっと野暮天ぐらいのほうがいいと思った時期があったんですね。もちろん、小説家というのは一言でまとまらないから400ページ書くという人たちであることもわかっているつもりです。だけど、僕は書いた人の考えを率直に聞いてみたいですね。今、この世界に対してどう思っているのかについて、お話をしたい気持ちがあるんですね。結局、話したり議論することが好きなのかもしれない。
それに、作者が一言なにかを言ったくらいでは作品の価値の多様性なんて失われませんよ。だから、作者なりの答えを提示してくれれば、それはそれとして受け取って、そのうえでこっちはこっちで読みます。その意味では、作品への信頼の裏返しでもありますね。だから自分がインタビュー仕事でやるときは、野暮ったく「何を伝えたかったんですか?」と聞くようにしています。

町屋:今まで印象的な答えが返ってきた人はいますか?

矢野:明確な答えを聞いたことは自分自身はないですね。最近、歴史小説家の今村翔吾さんがラジオに出ていて「自分は一作ごとに伝えたいことがまずあってそれを作品という形にするんです」と言っていました。あまりそういう論調って聞いたことないから新鮮でした。エンタメの作家はもしかしたらそういうことを考えるかもしれないですね。

町屋:確かに物語をカチッと構成する上で、そういうものが必要になってくるときもあるかもしれない。自分も一言で伝えたかったことは何なのか今後は一応、考えてみたいと思います。
矢野さんは私への応答でそのあたりのことを一度しっかり書かれてますよね。読み上げますね。

「ことばというものは、事前の計画どおりに細部までコントロールされるようなものではありません。その意味ではことばは手に負えません。そのことばの手に負えなさと作者の意志の絡み合いのなかで小説なり批評なりは姿をあらわします(このあたりも、町屋さんの小説観ともけっこう重なるでしょうか)。ここに書き手の主体性や意志が感じられなければ、そのことばは色褪せているように思います。もう少し言うと、創作者の明確な意志や目的意識がなければ、ことばの手に負えなさの側面というのはうまくアウトプットできないのではないか。その意味では、技術的な観点から考えても、書き手があらかじめ抱く方向性のようなものの存在は重要だと思います。」
(論争にともなう「高揚感」の問題、および現代小説について──町屋良平さんの応答に触発されて)

だから両義性という意味では、この落としどころなんだろうと私は理解したんです。