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2025.12.10

第8回 大島渚と庵野秀明の虚構=風景論

風景のスクリーン・プラクティス / 佐々木友輔

映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第8回では、風景をめぐる世代間の対立を反映した『東京战争戦後秘話』(大島渚)と、さらにその後の世代として〈虚構〉における風景を模索した『新世紀エヴァンゲリオン』(庵野秀明)シリーズを考えます。つねに〈虚構〉として立ち現れる風景に、各世代の作家たちはどのように触れようとしたのでしょうか。そこで〈虚構〉に対する〈現実〉はいかに存在し、いかに私たちの生きる世界を映し出すのでしょうか。都市論やセカイ系に関する議論も踏まえながら考察します。

 

映画で遺書を残して死んだ男の物語──大島渚『東京战争戦後秘話』(1970)

1970年前後の風景論争に関連して、明示的に風景論映画として撮られたフィルムは『略称・連続射殺魔』(1969/1975)、そして大島渚が監督した『東京战争戦後秘話』(1970)の2作品のみである。前者は1975年まで一般公開されなかったため、『東京战争戦後秘話』が初めて公に現れた風景論映画となった。だが同作もまた、制作に携わった個々人の思惑が錯綜し、論争にさらなる混乱をもたらす厄介なフィルムであった。
映画評論家・映画監督の樋口尚文が、関係者への聞き取り調査や文献調査をもとに『東京战争戦後秘話』の製作過程を詳しくまとめている[1]。大島は前作『少年』公開後の1969年秋、ATG(アート・シアター・ギルド)と新たな映画制作の構想を練っていた。東大安田講堂の陥落や佐藤首相訪米阻止闘争の制圧など、1960年代の新左翼運動・学生運動が敗北し、終焉に向かう虚無的なムードの中、大島もまた自らの闘争および映画制作を顧みることを迫られた。当時彼は37歳。精神的にも肉体的にも疲労が重なり、30代前半の勢いが落ちてきたことや、目の前の現実に対する無力感、多くの革命家が40代を迎えずに死んでいったという歴史的事実を踏まえながら、「映画で遺書を残して死んだ男の物語」というアイデアを提出する。映画制作を通じて、自分自身は今後いかに闘い、いかに死ぬべきかをあらためて問うたのだ。

同時に大島は、より若い世代を映画制作に巻き込もうとした。1970年3月の全国高校映画祭で8ミリ映画『天地衰弱説』(1969)を上映した都立竹早高校「グループ・ポジポジ」のメンバーに協力を呼びかけると共に、天才映画少年として脚光を浴びていた当時19歳の原正孝(將人)にもコンタクトを取る。原は麻布学園高校在学時に制作した『おかしさに彩られた悲しみのバラード』(1968)で第1回東京フィルムフェスティバルのグランプリとATG賞を同時受賞し、卒業後も松本俊夫の『薔薇の葬列』(1969)の演出助手を務めるなど、映画制作の現場に関わり続けていた。大島は原に佐々木守と組んでの脚本執筆を依頼し、さらには音楽の方向性についても原に一任。武満徹との打ち合わせを指示するなど、破格の待遇を与えた。
自分よりも上の世代を激しく糾弾する一方で、若い世代の未知数な可能性には一貫して無条件に期待を寄せ、そのエネルギーを貪欲に取り込んで自己拡張を図る。大島のこうした姿勢を樋口は「過保護[2]」と形容するが、『東京战争戦後秘話』に限って言えば、大島は後続世代に対して相当に残酷な仕打ちをしているようにも思える。何しろ自分自身は映画で遺書を書くと宣言することで甘美な無力感に浸りながら、その行き詰まりを打開するための具体策を立てることは、他者に丸投げしているも同然だからだ。映画が成功すれば、大島は若い力を取り込んで延命ないしは復活を遂げられるが、失敗すれば、その責任は後続世代の不甲斐なさや物足りなさに帰せられるだろう。大島は死を選ぶことで亡霊となり、次に憑依すべき若い身体を見繕うつもりだったのだろうか。
結果から言えば、完成した『東京战争戦後秘話』の評価は芳しくないものだった。失敗作の烙印を押されることも多く、その原因は主に脚本や世代間の齟齬にあるとの見方が為された。作中に描かれた「遺書」はいつしか、大島の世代ではなく、後続世代の閉塞感を示すものへとスライドする。当然のように大島自身も、現実に死ぬわけでもなければ撮らなくなるわけでもなく、その後も旺盛な制作活動を続けるのである。

東京風景战争──ディスカッション・ドラマから映画によるディスカッションへ

完成した映画自体に目を向けてみよう。冒頭、ムービーカメラを持った一人の男がビルの屋上から飛び降り自殺する。彼の友人で、同じ高校の映画制作グループの一員である元木象一(グループ・ポジポジの後藤和夫が演じている)は遺体の傍に落ちていたムービーカメラを回収しようとするが、警察に追われ、カメラも押収されてしまう。ところがある日、皆で4・28沖縄デーのデモ活動を記録したフィルムを鑑賞している最中、象一だけはスクリーン上に、自殺した「あいつ」が撮った遺書としての映画が映し出されているのを幻視する。当初は象一だけの妄想に思われたが、仲間の一人である泰子(岩崎恵美子)も同じ映像を幻視し始め、映画は虚実の境が不分明な迷宮的世界へとなだれ込んでいく。象一は泰子と共に「あいつ」の撮影した風景を辿ろうとし、その過程で次第に「あいつ」と同化していく。あるいは、「あいつ」の正体ははじめから象一自身だったのかもしれない……。

大島渚『東京战争戦後秘話』(1970)より、象一と自殺した「あいつ」

映画で遺書を残して死んだ男と、その軌跡を辿る象一との関係は、大島渚と後続世代の関係と重なって見える。カメラを持って東京を彷徨う象一の姿は、あたかも大島渚という亡霊に取り憑かれ、同じ袋小路をぐるぐると回り続けながら出口を探す原正孝のようである。
実際、両者の間には、単純な師弟関係や継承関係に収まらない軋轢と緊張感が漲っていた。大島は『日本の夜と霧』(1960)ですでに、作中人物が安保闘争をめぐる議論を延々と繰り広げる「ディスカッション・ドラマ」を作り上げていたが、今作では、撮影や編集、演出といったミザンセン自体に両者の衝突がありありと刻まれている。例えば若いエネルギーを期待されていたはずのグループ・ポジポジの面々は、映画制作グループのメンバー役として作中に登場し、延々と空疎な議論を続ける。「要するに奴は政治的にも芸術的にも破産したんだよ」「こういう風に長廻しで意味のないカットを積み重ねると逆にある意味が生じて来るなんて考えたんじゃないかなあ」……こうした台詞を、大学映研の当事者たちは「大島渚に笑われた」「大学映研の破産がかなり意識的になじられている[3]」と受け取った。これに対して脚本を書いた原は、作中のディスカッションはドラマを成立させるためのムード作りが目的であり、個々の言葉はさして重要ではないとフォローしつつ、同時に「大島は、昔からきらいだったらしい。とにかく京都にいた時から、金もうけばかりしていて映研はきらいだったということはいってたけどね[4]」と暴露している。大島自身、当時の過激派学生たちがしきりに「大阪戦争」や「東京戦争」を掲げながら、それが「不発」に終わった後の物語として『東京战争戦後秘話』を構想したと述べており、そこには自己批判だけに収まらない明確な若者批判が読み取れるだろう。

もちろん、後続世代も黙って批判を受け入れたわけではない。『映画芸術』に掲載された座談会「大島渚に笑われた映研のいい分」では、現役映研学生の荒井晴彦(早大映研)と大久保昌一良(明大映研)、金子裕(元・全日本学生映画連盟委員長)、桜井正明(元・都下学生映画連盟委員長)、そして原正孝が参加し、矮小化された映研の活動に対する反論や、『東京战争戦後秘話』についての議論が交わされた。
そこで原は、松本俊夫や大島渚、さらには松田政男や佐々木守ら風景論争の主導者たちと自分自身との立ち位置の違いを強調しつつ、先行世代の作り上げたレールにあえて乗ることで、最終的に「別の所」「別な中心点[5]」へと行き着く戦略を採ったのだと説明する。それは具体的には、大島渚の映画制作に参加し、用意されていた「映画で遺書を残して死んだ男の物語」という枠組みを「風景論」という別の文脈へとずらすことであり、さらには松田=佐々木的な風景論の枠組みさえもずらし、自分独自の問題意識に接続して換骨奪胎してしまうということだ。『日本の夜と霧』が安保闘争に関する議論を対象化して描いた「ディスカッション・ドラマ」であるなら、『東京战争戦後秘話』は作品の制作過程そのものが議論の記録としてあるような映画、言うならば「映画によるディスカッション」である。各論者の風景観の相違や衝突がそのまま作品形成に反映しているという意味で、同作は擬制的な共視体験が埋め込まれた正真正銘の「風景論映画」だ。またこの観点からすれば、原が希望したという『東京風景战争』の方が、よりふさわしいタイトルだと言えるだろう。

風景論と国家のイデオロギー装置──ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』(1969)

以上を踏まえて、同作を風景論的な観点から再解釈してみたい。「あいつ」が遺した映画に記録されていたのは、学生運動の過程ではなく、ありふれた平凡な風景であった。自宅2階の窓から見た隣家の屋根。酒屋が立ち並ぶ通り。自動車が行き交う道路の向こう側にあるガードレール。トンネルの傍にあるポスト。線路沿いのタバコ屋。電線とアンテナ……。いずれも固定カメラで撮られているが、続くカットでは大通りに向けた映像が激しく手ぶれし、露光量も不安定に変化する。無駄な撮影だと非難する象一がカメラを奪おうとし、揉み合いになったためだ。「あいつ」はカメラを回しながら駆け出し、画面はさらに激しく揺れる。「あいつ」が指でレンズを塞いだところで映像は切れ、その直後、「あいつ」はビルから飛び降りて自殺する。

「あいつ、どんなつもりでこの映画撮ったのかな。」
「何かあるんじゃないかと思って隅から隅まで見てるんだけど、それらしいものは見当たらないのよ。」
「こんなもん見てても時間の無駄だよ。要するにあいつは政治的にも芸術的にも破産したんだよ。」
「こういうふうにさ、長回しで意味のないカットを積み重ねるとさ、逆にある意味が生じるなんて考えたんじゃないのかな。」
「そういうのを破産って言うんだよ。」

映画制作グループのメンバーたちは、記録された風景の平凡さや無意味さを批判する。だがその後、象一が「あいつ」の見た風景を辿ろうとし、泰子がその撮影の妨害を図るシークエンスにおいて、平凡なはずの風景に埋め込まれた権力が露出する。例えば泰子が郵便ポストの前に立ち、郵便配達員の集荷を阻もうとすると、すぐさま警察官が現れて彼女を取り押さえてしまう。タバコ屋の前の公衆電話を独占していると、後ろで待っていたスーツの男に平手打ちを喰らう。信号のない車道を横断しようとすると、車から降りてきた男に殴られ、踏みつけられ、そのまま連れ去られて犯されてしまう。僅かばかり例外的な行動をとり、公共インフラを乱した瞬間、国家権力によって行使ないしは正当化された暴力が剥き出しになって泰子に襲いかかるのだ。

大島渚『東京战争戦後秘話』(1970)より、ありふれた風景と例外的行動に対して行使される暴力

こうした風景観は、明らかに松田=佐々木的な風景論の延長線上にあるが、加えて、ジャン゠リュック・ゴダールとジャン゠ピエール・ゴランが主導したジガ・ヴェルトフ集団のテレビ映画『イタリアにおける闘争』(1969)との類似性も指摘しておくべきだろう。同作はルイ・アルチュセールの論考「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」(1970)を理論的支柱として[6]、革命運動に身を投じる大学生パオラの日常の隅々に──例えば大学や家庭、住宅、健康問題、性生活など──変革を妨げ、国家の存続に資する「イデオロギー装置」が埋め込まれていることを暴露した。国家のイデオロギー装置は、あたかも「現実」そのものであるように見えながら、実際には歪められた虚構の世界像を映し出すのであり、ゴダールらはそれを「幻想」や「反映」と呼ぶ。
松田政男自身が認めているように、ジガ・ヴェルトフ集団による問題提起は日本の風景論争と同時代的な並行関係にあった。時系列的には、大島が『イタリアにおける闘争』を直接的に参照して『東京战争戦後秘話』を制作した可能性も十分に考えられる[7]。たとえ直接的な影響関係がなかったとしても、両作には表現上の共通点が多く見られる。例えば『イタリアにおける闘争』では、大学生パオラの日常生活(婦人服店での試着の様子など)を映し出しながら、随所に黒画面を差し込み、隠蔽された「何か」があることを示唆する。その上で、再度同一のショットを提示すると共に、黒画面を別の映像(婦人服が生産される工場の風景など)に差し替えることで、ブルジョワ的な生活を支える生産関係を明るみに出そうとするのだ。

ジガ・ヴェルトフ集団『イタリアにおける闘争』(1969)における黒画面

他方の『東京战争戦後秘話』は、一度は何の変哲もない風景を説明なく提示した上で、後に同じ風景を辿り直し、そこに泰子の身体を介在させることで、隠された権力・暴力の作動を浮かび上がらせる試みとしてあった。両者は共に風景の見方を段階的に示すことで、日常的な風景が国家のイデオロギーによって歪められた虚構であることを可視化する。「風景は、教育装置として機能することではじめて風景となる[8]」という蓮實重彥の言葉を踏まえるなら、国家の教育によって風景の見方を学んだ人びとに対して映画による逆教育を施し、別の風景の見方を学ばせる試みだとも言い換えられよう。
ただしここで、風景論とイデオロギー装置論が共に抱えるジレンマにも言及せねばなるまい。それは、既存の風景およびイデオロギーを否定し、置き換えたものもまた風景であり、イデオロギーであるということだ。虚構と現実の関係を問題にしながらも、映画によって構築されるのはあくまで別の虚構であり、「現実」そのものではあり得ない。大島が覚えた行き詰まりはまさにこの点にあった。ゴダールは現実かイデオロギーかという二項対立ではなく、誤ったイデオロギーと正しいイデオロギーの闘争を問題にすべきなのだと、ある種開き直った態度を表明する。一方の大島は、映画を通じて革命に関わろうとするゴダールの活動に共感し、それは映画の世界の変革のためには決定的な意味を持つとしながらも、同時に、現実の世界革命のためには「このことが何ほどの役に立つか[9]」と自問せざるを得なかった。自分自身の映画制作は、映研学生の空疎な議論や「東京戦争」といった大袈裟なスローガンと何が違うのか。たとえ理論的・理念的には違いを説明できたとしても、10年間の闘争で得たのは結局、徒労感と無力感だけだったではないか。映画と革命との間にある埋め難い距離。国家による虚構を暴き、現実に迫ろうとすればするほど、その現実から遠ざかっていくような感覚。それは、不在の「あいつ」を追ううちに現実と虚構の区別がつかなくなっていく象一の姿として見事に可視化されている。あるいは、挫折の果てに「死」を選んだにも関わらず、そんな自分の映画に影響を受けた若い世代が台頭し、映画制作や革命運動を反復する姿に、大島は己の亡霊を見たのかもしれない。

現実と虚構を巡る世代間対立──大島渚と原正孝、そして庵野秀明

だがすでに述べた通り、脚本を書いた原正孝の狙いは、先行世代を反復するふりをしながら、ループではなく螺旋状に旋回し、最終的に「別の所」へ辿り着くことにあった。原の風景論については別の回で詳しく論じる予定のため、ここでは簡潔な紹介に留めるが、要点は、大島や佐々木守、松田政男の世代が現実と虚構(風景/イデオロギー)の対立図式のもとに自らの映画制作や運動を組織しようとしたのに対し、原の世代においては、最早そうした二項対立自体が成立していないということだ。先行世代は、国家や資本主義のイデオロギー装置によって風景が変貌し、全国各地が「均質化」ないしは「総東京化」する過程を目の当たりにする中で、従来の風景(現実)と歪められた風景(虚構)の対立という論点を形成し得た。他方、後続世代にとっては、そうした「均質化」「総東京化」した風景こそが所与のものとして与えられた「現実」であり、故郷の風景として経験される。それ以前の風景を知らない以上、目の前のありふれた風景の中に、戦うべき敵の姿や戦うべき根拠を見出すことは困難である。むしろ年長者が語る「現実」や「失われた風景」のほうが、直接経験したことのない虚構と感じられるのも致し方ないことだろう。
『東京战争戦後秘話』において、象一が「あいつ」の足取りを追ううちに現実感覚を失っていく展開は、大島にとっては己の闘いの終着点(自殺)であったのに対し、原にとっては出発点に位置づけられるべきものとしてあった。あるいは松田=佐々木的な風景論の支持者であれば、泰子が己の生身の肉体(現実)を晒すことで風景に対抗しようとしたことを評価するだろうが、原はそれも「単純肉体派の敗北みたいなつもりで書いた[10]」と述べて明確に否定する。原が同作で目指したのは、それ自体虚構でしかあり得ない「現実」に立ち戻ろうとすることではなく、所与のものとしてある無数の虚構──国家のイデオロギー装置としての風景であれ、大島らのイデオロギー装置としての映画であれ──の上に、自らの存在や闘いの根拠を仮構することであった。
原の試みの成否はともかく、ここで問題にしたいのは、『東京战争戦後秘話』におけるこうした世代間闘争が、その後の風景論および風景論映画の文脈で繰り返し再演されることだ。

例えばアニメーター・映画監督の庵野秀明(1960年生まれ)は、大島渚との対談で、「大島監督の60年代の作品を観ると、空想と現実の交差というのが出てきますが、そのころ子供だった僕らは、そのころ本当に空想と現実というのが交差してたわけです」と述べ、自分たちの世代には「現実感」を形成する基盤となるべき「共通体験」や「原風景」が欠けていると打ち明ける[11]。そして、もし共通体験と呼べるものがあるとすれば、それは一つにはウルトラマンや怪獣が街を破壊する姿などのサブカルチャー・おたくカルチャーの風景であり、もう一つは、コンビナートや工場から出る煙、立体交差といった1960年代の高度経済成長の風景だと言うのだ。
映画史研究者・批評家の渡邉大輔はこの対談を踏まえて、『新世紀エヴァンゲリオン』(1995–1996)や『ラブ&ポップ』(1998)、『式日』(2000)など、庵野が1990年代に描いてきた無機質な郊外の風景には──「ウルトラマン」シリーズなどの特撮ドラマと風景論争の双方に深く関わった佐々木守を蝶番として──『略称・連続射殺魔』や『東京战争戦後秘話』における風景が確かにオーヴァーラップしていると述べた上で、かつて大島が批判的に捉えていた風景がもはや自明のものになったという庵野の発言は、先行世代への痛烈な批判とも取れると指摘する[12]。原が大島に仕掛けたのと同型の議論が、1990年代末にも庵野によって反復されているのが分かるだろう。
さらに言えば、1990年代から2000年代にかけて、宮台真司や三浦展を代表的な論者として議論された郊外論・ファスト風土論自体も、多分に世代間闘争的な側面があった。例えば社会学者の西田亮介は、郊外論の多くが各論者の実体験や思い出、心象風景に基づいた「好きな場所」競争になっているのではないか、多くの議論が世代論を突破し得ていないのでないかと疑問を呈している[13]。補足しておくと、筆者自身も、郊外の負の側面ばかりが強調されがちな従来の郊外論に対して、その場所を故郷として育った若い世代がいかなる想像力を育んできたのか、本当に郊外は均質で没個性的な場所なのかを問う展覧会「floating view “郊外”からうまれるアート」(トーキョーワンダーサイト本郷、2011)を行い、宮台真司や若林幹夫、丸田ハジメといった先行世代の郊外論者を招いて議論したことがある。同展では、一見均質に見える郊外にも、開発された時代や住民の移住時期などに応じて異なるあり方の場所や風景が重なり合っていることを「地層[14]」として論じた若林の議論と、地域情報化の鍵となり得る新たな技術として丸田が注目していた「拡張現実」(AR)とを結びつけることで、世代論の乗り越えを図った。人それぞれに異なる郊外のイメージをレイヤー化し、亡霊的に重ね合わせようとしたのだ。
いずれにせよ、風景論以後の風景論は、亡霊の実在を認めることから始まる。虚構を虚構として退けるのではなく、虚構が作り出した新たな現実を批判的に吟味することが、1970年代以降に風景論や郊外論に取り組む者にとっての共通の課題となった。

第3新東京市の風景論──庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』(1995–1996)

世代の違いが風景観に反映された具体例として、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』に登場する第3新東京市の風景を取り上げよう。同シリーズにおいて、私たちの知る東京は、2000年に起きた「セカンドインパクト」と呼ばれる大災害およびそれを発端とする紛争のために壊滅状態に陥った。新型爆弾が投下され、主要都市はほぼ水没して廃墟化している。日本政府は一時的に遷都して、長野県松本市に第2新東京市を建設。第1話(2015年)の時点ではさらなる遷都計画が進められ、新たに神奈川県箱根に建造されつつあるのが第3新東京市だ。

第3新東京市を舞台に繰り広げられる使徒との戦闘
(名シーン – アスカとシンジ、完璧なユニゾン | 新世紀エヴァンゲリオン | Netflix Japan)

建築史・建築批評家の五十嵐太郎は、『新世紀エヴァンゲリオン』を都市論的に読み解いた先行研究を踏まえつつ、第3新東京市とはいかなる都市なのかを考察している[15]。曰く、この架空都市の一方には、千葉を思わせる郊外的・団地的な風景が広がっているが、他方には、新宿副都心のような高層ビル群が建ち並んでいる。また周囲を山と湖に囲まれ豊かな自然と調和した「風水都市」の側面もあれば、巨大な地下空間を活用し、先端テクノロジーを以て「使徒」と呼ばれる外敵を迎撃する機能を持った「戦闘都市」の側面もある。要するに第3新東京市とは、「垂直方向に分断された複数の様相をもつコラージュ・シティ[16]」なのだ。加えて五十嵐は、日本のアニメには「箱庭[17]」的な囲われた空間が頻出するという上野俊哉の議論を参照し、第3新東京市もまた閉じた空間であり、碇シンジをはじめとする登場人物たちの内面とも結びついた場であると指摘する。「第3新東京市の構造を、見知らぬ他者/使徒が接触する、自我形成のための箱庭として読むことができる[18]」のである。
ここに挙げられている特徴は、決して第3新東京市のようなアニメ世界の都市だけに見られるものではない。そもそもコラージュ・シティという語自体、複数の時間・場所・文脈が組み合わされた理想都市を構想するために建築史家のコーリン・ロウが提唱した概念である[19]。また日本の郊外論では、高度経済成長を背景とする交通網の発達や住宅地の乱開発によって、以前は田園で隔てられていた都市と農村が混在したことが、「均質な風景」の出現の主要因であると説明されてきた[20]。その意味で、「地方の独自性がいちじるしく摩滅し、中央の複製とでも呼ぶほかない、均質化された風景[21]」を論じた松田政男の風景論は、郊外を混在郷ヘテロトピアやコラージュ・シティとして捉えた議論の先駆けであった。『略称・連続射殺魔』と『東京战争戦後秘話』で対象化された風景が、第3新東京市にも確かに引き継がれていることが分かるだろう。

だが先述したように、庵野は1970年代の風景論者たちと類似した風景を見つめながらも、その解釈や位置づけは大きく異なっている。『新世紀エヴァンゲリオン』の風景論的な分析を行う際、とりわけ重要と思われるのが第4話「雨、逃げ出した後」である。
第1話から3話で、碇シンジは疎遠だった父ゲンドウに呼び出され、特務機関NERVネルフが開発した汎用人型決戦兵器・人造人間エヴァンゲリオン(通称エヴァ)に乗って未知の外敵「使徒」を迎え撃つよう命じられる。突如として人類の存亡を託されたシンジは、2体の使徒の撃破に成功するが、任務の重圧や環境の変化に耐えかねて脱走。行くアテもなく第3新東京市を彷徨い歩く。電車に乗っても、映画館に入っても、言い知れぬ孤独感を抱き、逃げるようにその場を去る。夕暮れの街並みを眺め、怯えて耳を塞ぐシーンは、かつて永山則夫が経験した(とされる)風景からの疎外を想起させる。木々の向こうにそびえ立つ高層ビル群は、屋外でありながらシンジを取り囲む箱庭=密室を構築し、どこにも逃げ場がないことを痛感させる。ここまでは、松田的な風景論を忠実に反復するかのような描写である。
その後、シンジはバスに乗って辿り着いた山奥で、テントを張って一人で軍事訓練ごっこに興じるクラスメイト・相田ケンスケに遭遇する。彼は重度のミリタリーオタクで、第4使徒の襲来時には地下シェルターを抜け出してエヴァとの戦闘を見物しようとするなど、身の危険も厭わない情熱と行動力の持ち主である。結局二人はNERV保安諜報部に見つかり、シンジは本部に連れ戻されてしまうのだが、この時のケンスケとの対話が周囲の人びとと向き合うきっかけとなった。シンジは第3新東京市に残り、再びエヴァに乗る決意をする。
これら一連のシークエンスは、庵野が大島に語った「原風景」発見の物語と符合する。すなわち、庵野にとっては特撮やアニメなどおたくカルチャーの記憶が同世代の「共通体験」となり、また高度経済成長以後の混在的・郊外的な風景が「原風景」として見出されたように、シンジは軍事訓練のごっこ遊びに興じるケンスケの姿とエヴァに乗って戦う自身の体験を重ね合わせることを通じて、第3新東京市の人工的・箱庭的な風景を自身の帰るべき家・守るべき風景として再発見するのだ。両者は共に、虚構の風景にこそ自らの起源があるという認識に至り、そこから新たな「現実」を構成していく。
だが他方で、このような「風景の発見」の物語は、松田的な風景論や風景論映画とは明確に対立するものである。NERV保安諜報部は、行き先も告げず逃げ出したシンジを見逃さず、容易に身柄を拘束して連れ戻してしまう。この場面は、『東京战争戦後秘話』で泰子が公共サービスの妨害を試みて制圧されるシークエンスを想起させもするが、同作のような権力批判のトーンは希薄である。むしろここでNERVは──同組織の総司令を務める実父の碇ゲンドウや、シンジの保護者役を務める葛城ミサトの存在を通じて──家出した子どもを叱り、責任ある大人になるよう促す親のような存在として描かれている。捉え方によっては、イデオロギー装置としての「家族」や「教育」が、シンジの成長に必要不可欠なものとして素朴に肯定されているようにも見えるだろう。

帰るべき「現実」はどこにあるのか──セカイ系を巡る論争

もちろん『新世紀エヴァンゲリオン』の物語がここで完結するわけもなく、第5話以降もシンジは数々の試練に直面する。父ゲンドウとの確執や学校での人間関係、NERVの秘密主義への疑念、それを発端とするミサトとの口論など、シンジは他者と関わりを持とうとするたびに傷つき、心を閉ざしたり、再び向き合おうとしたりする。ここでは個別のエピソードの詳細には立ち入らないが、もがき苦しむシンジの姿を通して庵野が伝えようとするのは、一貫して「現実に帰れ」というメッセージだ。批評家の藤田直哉が指摘するように、テレビ放送版でも、結末が作り直された『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』(1997)でも、さらには2007年から2021年にかけて公開された『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』4部作でも、庵野は手を替え品を替え虚構に耽溺するオタク的な視聴者・観客を批判し、現実の他者と関係を築くよう促すのである[22]
しかしここには矛盾がある。そもそも庵野の出発点には、自分たちの世代には現実感を形成する基盤となるべき「共通体験」や「原風景」が欠如しているという問題意識があった。だとすれば、どれだけ「現実に帰れ」と叫んでも、では帰るべき「現実」はどこにあるのかという話になる。長きにわたる「新世紀エヴァンゲリオン」シリーズをはじめとして、庵野が手がけた作品群には常に、オタク的な想像力によって構築された虚構が新たな「現実」になるのだという信念と、虚構に引きこもろうとせず「現実に帰れ」と呼びかけるオタク批判とが入り混じり、緊張関係を保ち続けている。安易にどちらか一方に振り切れることなく、問い続ける姿勢自体が作家としての倫理であり、誠実さだとも言えるが、そうした問いの立て方自体が見覚えのある袋小路ではないかとも感じられる。帰るべき「現実」を探し求める庵野の姿は、あるがままの「現実」を求めて風景のヴェールを切り裂き続けた中平卓馬の姿や、自らの映画制作が「現実」に触れられないことに苦悩する大島渚の姿、あるいは現実感覚を失って東京を彷徨い歩く象一の姿と重なって見えるのだ。

庵野が提起した虚構と現実に関する議論は、個々の作品や作家の範疇を超え、「セカイ系」と呼ばれる作品群を巡る論争へと発展していく。セカイ系とは、狭義には『新世紀エヴァンゲリオン』の影響を受けて制作された、オタク文化と親和性の高い諸要素を持つ作品群の呼称で、若い男性主人公による一人語りや詳細な内面描写、「世界」という語の頻出などが特徴として挙げられる[23]。また広義には、少年(ぼく)と少女(きみ)の恋愛のような二者関係が、「社会」や「国家」などの中間項を媒介せずに世界の危機や破滅といった大問題と直結する物語構造を持つ作品群を指す語として広く知られるようになった。批評家の宇野常寛は、『新世紀エヴァンゲリオン』で庵野が発した「現実へ帰れ」というメッセージを拒絶し、徹底した自己愛へと退却しようとした結果がセカイ系であると指摘する[24]。従来の社会や国家が機能不全に陥り、人びとに信じるべき価値や生きる意味を供給できなくなった時代において、オタクたちは他者を傷つけたり他者から傷つけられたりすることを恐れて箱庭的な虚構世界に逃げ込み、美少女キャラクターから無条件の愛情と承認が得られる「母性のディストピア[25]」に安住しようとする。だがそのような行為は誰も傷つけないどころか、女性を所有・消費しようとする差別的かつ暴力的な欲望を肯定し、温存させるものでしかない。宇野もまた現実の他者と関わりを持つことの重要性を説くと共に、旧来の社会や国家に代わる新たな中間項として、地縁や血縁ではなくスポーツやサブカルチャーによってゆるやかにつながる新たな郊外型中間共同体の可能性を論じ、その具体例として、宮藤官九郎が脚本を手がけたテレビドラマ『木更津キャッツアイ』(TBS、2002)を挙げている。
これに対して批評家・評論家の笠井潔は、従来の社会や国家が機能不全に陥っているとの前提は共有しつつも、セカイ系は虚構への退却に過ぎないという宇野の説には異を唱える[26]。さしあたり、笠井は社会領域の喪失を、社会契約論に基づいた憲法秩序と法的支配が崩壊し、主権者による無根拠な決断が顕になる「例外状態」(カール・シュミット)の出現と定義する。セカイ系の本質はまさに社会領域の消失にあるのだから、虚構の世界に引きこもることも、秩序なき世界で生き残りを賭けて競争に励むことも、代替的な中間共同体の可能性を模索することも、いずれも例外状態における各々の対応であるという意味で「セカイ系的」だと言えるだろう。要するに笠井は、セカイ系の作品群を現実から目を背けた表現として否定するのではなく、例外状態が常態化した新たな現実を反映した表現として評価するのである。
また笠井は同様の立場から、シリーズ最終作『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』(庵野秀明、2021)を「オタクとしての成熟」が描かれた作品として絶賛した藤田直哉の説にも批判を加えている[27]。藤田は同作で初めて登場した「第3村」に注目し、登場人物たちが緑豊かな自然の中で田植えをしたり、釣りをしたり、子育てをする姿に、生命力に満ちた不確定かつ流動的な世界をまるごと肯定しようとする庵野の覚悟を読み取っている。だがこうした「自然」や「家族」への転向は、1930年代のコミュニストやモダニストが土俗的な日本文化や民衆、自然の再発見を通じて、天皇制の肯定や戦争の翼賛へと向かったのと同型的な論理であると笠井は言う。要するに、藤田および庵野もまたセカイ系を社会構造の問題として捉えず、「現実へ帰れ」という自己責任論へと転嫁しているのではないかとの批判である。庵野は就職氷河期や新自由主義的改革による格差社会を生き延びた勝ち組オタクの立場から「成熟」を説き、現在も貧困に喘ぐ者や非正規労働に従事する者、恋人や家族を持てずにいる者といった負け組オタクの不遇感や絶望感は一切考慮していない。自然の礼賛も、その行き着く先はロハスやSDGs、オリンピックや万博の巨大な木造建築であろう。『シン・ゴジラ』(庵野秀明、2016)で大活躍を見せる保守政治家と土建業者、オタク的な若手官僚たちが、成熟したオタクの理想像なのだ。
批判を受けた藤田もまた、こうした問題に無自覚なわけではない。彼は『新世紀エヴァンゲリオン』におけるヤシマ作戦(第6話)や『シン・ゴジラ』におけるヤシオリ作戦に、オタクとナショナリズムを結びつけることで国家と一体感を感じようとする全体主義的な欲望を読み取っている[28]。とりわけ印象的なのが工業や製造業に関わる描写であるとし、そこにはかつて繁栄を極めた「強い日本」への郷愁と、その復活を夢想するロマン主義的な心情が感じられると言う。実際、そうした高度経済成長の風景が庵野の世代の「原風景」であることは、ここまで見てきた通りである。

『シン・ゴジラ』予告

 
関係の絶対性が作り出す「現実」──NERVのイデオロギー装置

虚構から新たな現実を立ち上げるしかないという切実な問題意識が、いつしか虚構世界に引きこもるオタク批判へとスライドし、さらには国家のイデオロギー装置に絡め取られてしまうこと。この問題を、『新世紀エヴァンゲリオン』における権力の描写からあらためて考えてみたい。
シンジの選択が世界の命運を握ると言っても、それは彼の独力によるものではない。シンジたちが乗るエヴァを開発し、実戦投入を実現させたのは、国連直属の非公開組織NERVである。第3新東京市という軍事都市を建設できるほどの莫大な資金提供を受け、エヴァという強大な暴力装置を保有し、有事には超国家的・超法規的な権限が与えられていることからも明らかなように、NERVは例外状態において作動する、一国家を超える権力を有している。加えて、国連およびNERVの背後にはゼーレという秘密結社が控えており、「人類補完計画」と呼ばれる共産主義革命・世界革命とSF的想像力を結びつけたようなプロジェクトが進行中である。そこでは、裏死海文書、アダムとリリス、使徒やエヴァンゲリオン(福音)などのキリスト教的用語──とりわけ、グノーシス主義などの神秘主義思想に関係する語──が頻出し、ゼーレが単なる政治結社ではなく、陰謀論的な教義を持った宗教団体であることも示唆される。一人の中学生が世界を動かすという荒唐無稽な物語が一定の説得力を持つとすれば、それは莫大な資金力や軍事力を行使できる超国家的権力と、その力を行使する根拠となる共産主義的な革命思想、そして、途方もないプロジェクトを実行に移すだけの熱情を調達する宗教思想が三位一体となった組織NERVの後ろ盾によるものだ。
NERVに所属してエヴァを操縦するシンジは、明確に権力の中枢に組み込まれた存在であるはずだが、上層部の徹底した秘密主義やシンジ自身の受動的な姿勢によって、あたかも権力から疎外されているかのような印象が作り出されている。さらにはNERV自体も、国連直属でありながら非公式組織でもあるという曖昧な地位を利用して、権力の外部に自らを位置づけようとする。例えばミサトは現場で指揮を執りながら、国連軍や戦略自衛隊、米軍や日本国政府の旧弊で官僚的な振る舞いに苛立ちを見せる。総司令のゲンドウも表面上はゼーレの計画に従いながら、極めて私的な動機のためにその計画を利用しようと目論んでいる。組織の構成員それぞれが既存権力の敵対者として振る舞うと共に、一つ一つの決断や行動に私的・内面的な動機を結びつけることで、自らが備える権力性や政治性を慎重に覆い隠している。補足しておくと、こうした隠蔽の構造──「NERVのイデオロギー装置」とでも呼ぶべきだろうか──は現代社会において国内外の政党・政治家が採る常套戦略の一つであり、連載初回で論じた「ヴァルネラブルな権力」として語ることもできるだろう。このイデオロギー装置は、世界を操る闇の組織や既得権益に関する真偽不明な陰謀論を振り撒くことで、我々は騙され続けてきたのだ、不利益を被ってきたのだと呼びかけ、「被害者」としての主体を構成しようとする。そして、陰謀論的な「真実」ないしは「現実」に目覚め、義憤に駆られた人びとに感情的に寄り添い、巨悪との戦いを掲げることで、自らの行使する権力や弱者への加害行為を正当化するのだ。

ここであらためて検討したいのが、庵野が「現実に帰れ」と呼びかける際の、「現実」という言葉の内実である。先に確認したように、シンジは権力の暴力装置としてのエヴァのパイロットであるという公的な立場にありながら、その力の行使の是非は常に私的な動機に基づいて判断されるという特異な環境に身を置いている。軍事行動に関する一般論で言えば、エヴァに乗って戦うべきか否かの判断は、戦略の妥当性や戦術の有効性、攻撃目標(使徒)との戦力差など、様々な事実確認に基づいた状況分析を踏まえて行われるべきであろう。仮にその原則に即して「現実に帰れ」を解釈するなら、個々人の私的な感情や都合の良い楽観論に流されるのではなく、客観的な事実ファクトを収集し、それに基づいて行動することこそが、帰るべき「現実」の内実となるはずだ。だがミサトやゲンドウは──あるいはその背後にいる庵野は──事実ファクトを示してシンジを説得しようとするのではなく、エヴァに乗る/乗らない、戦う/戦わないの選択を、現実に向き合う/現実から逃げるというシンジの内面の問題へとスライドさせることで決断を迫る。要するに庵野が掲げる「現実に帰れ」とは、端的に言って身近な他者と関係を築くことを意味しており、その「現実」には事実ファクトの次元が決定的に欠けている。このことを、かつて吉本隆明が提起した「関係の絶対性[29]」という概念で言い表すことができるだろう。他者がいかなる思想・信条を持っているか、いかなる行動をし、その行動はいかなる評価基準クライテリアに照らして正当性や妥当性があるかといった事実ファクトに基づく評価は棚上げされ、代わりに互いの心理的な距離感や期待、上下関係や恋愛関係などが、物事を判断する根拠となるのだ。
こうした「関係の絶対性」の思想が明瞭に浮かび上がるのが、テレビ版の最終話(26話)「世界の中心でアイを叫んだけもの」である。全編にわたってシンジの内面が描写され、彼と関わりを持つ人びととの想像的な対話が繰り広げられる大島渚ばりのディスカッション・ドラマだ。
そこで中心的に議論されるのは、自己の内面に引きこもろうとするのであれ、他者と関わりを持とうとするのであれ、いずれにせよ「現実」とは構築されるものだということだ。自分自身の捉え方次第で、「現実」のかたちは如何様にも変化するのであり、そうして作られた個々人の認識する現実が「真実」であると定義される。一般的な見方に囚われていれば、晴れの日は気分が良く、雨の日は憂鬱だと思い込んでしまうが、気の持ち方次第で雨の日に気分良く、晴れの日に憂鬱に過ごすこともできるだろう[30]。しかしこうした流動的な世界は、自由すぎて漠然としており、却って「現実」のかたちや自己のかたちが分からなくなってしまう。だからこそ、自己の内面に引きこもって勝手に他者の感情を想像するのではなく、実際に他者と関わりを持ち、その他者のかたちを見ることを通じて自分のかたちを見出していく必要があるのだと、シンジを取り巻く人びとは言う。例えばケンスケとのコミュニケーションを契機として、第3新東京市の風景に対して抱いていた疎外感を解消し、守るべき友人や家族が暮らす街の風景として再発見した時のように。こうしてシンジは自分だけの世界に引きこもるのではなく、他者と共に「真実」を作り上げることの重要性に気づき、皆から祝福を受ける。
だがこうした「関係の絶対性」に基づく「真実」の構築もまた、どのような他者と関わりを持つか次第で如何様にも「現実」の解釈が変化する、流動性に満ちた不安定なものである。エヴァに乗る/乗らないの選択を、現実に向き合う/逃げるの対立に結びつけたミサトやゲンドウの恣意的な問題設定を受け入れ、その問いの枠組み自体の妥当性を疑えなかったシンジは、例えば身近な友人から「エヴァに乗らないことが現実と向き合うことだ」と諭されれば、やはり言われたままに行動することを選ぶのではないか。社会的な規範や法的秩序が崩壊した例外状態において、「現実に帰れ」というメッセージは、身近な人びととの「関係の絶対性」を根拠として構築された「現実」を自らの「真実」と捉える人物を生み出す。しかし笠井潔が指摘したように、そこで関わりを持つ他者は多くの場合、自分自身と同質的な属性を備える存在であり[31]、社会階層やジェンダー、民族、国籍、地域など、属性が大きく異なる他者にとっての「真実」は、自らの信じる「真実」から除外されるか、気づくこともないまま放置されるだろう。

エヴァに乗る/乗らないの選択が、現実と向き合う/逃げるの選択にスライドされる
(『新世紀エヴァンゲリオン』多言語音声クリップ:乗るなら早くしろ。でなければ──帰れ)

 
現実/虚構史の再検討──考古学的アプローチの導入

まとめよう。大島渚は革命運動の挫折を前にして、「東京戦争」を掲げるアジテーションも自らの映画制作も空疎な虚構に過ぎないと感じ、一向に「現実」に触れられない閉塞感や絶望感を『東京战争戦後秘話』で表現しようとした。同作に松田政男的な風景論を接続した佐々木守は、「現実」に触れられないという閉塞感を作り上げているものこそが我々を取り囲む風景であり、戦うべき敵=権力であることを暴こうとした。佐々木と共に脚本を書いた原正孝は、あるべき「現実」を措定できないこと自体が若い世代にとっての新たな現実であり、戦うべき敵の姿が見えないこと自体を新たな戦いの根拠とせねばならないと説いた。
そして庵野秀明もまた、帰るべき「現実」があらかじめ失われた更地の上に、虚構を通じた新たな「現実」の構築が可能であると示そうとした。それは、オタクとしてアイデンティティを形成してきたからこそ「オリジナルなんて存在しない」という認識を持たざるを得ず、実際に「究極のコピー・バンド[32]」としてデビューした庵野とGAINAXにとって切実な課題であり、また高度経済成長以後の郊外的風景を見て育った世代にとっての実存的課題でもあった。『新世紀エヴァンゲリオン』テレビ版の最終話で語られたように──また社会学者の宮台真司が論じたように[33]──人間は過剰に流動的で無根拠な世界に耐え続けることができない。帰るべき故郷や守るべき伝統、信じるべき価値や生きる意味を与えられなかった世代にとって、拠りどころとすべき「現実」の構築は、生きていくために必要不可欠な取り組みである。だが庵野の躓きは、そうした現実/虚構の再配置の問題と、オタク批判の文脈における現実/虚構の対立を混同し、曖昧にしたまま「現実に帰れ」とのメッセージを投げかけたことにある。これにより、虚構の価値が矮小化されたのみならず、現実の豊かさや多様さ、複雑さまでもが矮小化され、遠くの他者を排除する狭量な「現実」を理想化してしまったのではないか。もしくは、「関係の絶対性」に資するものであれば現実であろうが虚構であろうが見境なく動員する、都合の良い振る舞いを自らに許してしまったのではないか。庵野の到達点は一見、大島の挫折を乗り越えているようだが、実際には風景論的なイデオロギー装置に絡め取られ、象一のように先行者と同じ場所を辿り、ぐるぐると廻り続けていただけなのかもしれない。現実/虚構という対立図式そのものが、何代にも渡り芸術家たちに取り憑き、惑わせてきた亡霊なのだ。
では、どうすれば良いのか。私見では、筆者も含め大島や庵野らが生み出してきた数々の虚構(映画やアニメ)を見て育ち、それを自らの現実の経験として生きてきた世代のなすべき仕事は、現実/虚構の対立図式に基づいてどちらか一方を過度に賛美し、もう一方を否定し去ることでもなければ、現実/虚構の混淆や融合を無邪気に肯定し、なるがままに任せておくことでもない。「現実」と呼ばれてきたものも、「虚構」と呼ばれてきたものも、等しく私たちの生きる経験の一部を構成してきたのだという事実をまずは認めること。その上で、無数の現実と虚構が堆積して出来た地層を掘り起こし、発掘された過去の断片をつなげたり、組み替えたりする考古学的な作業を通じて、私たちは今どのような歴史の上に形成された現在に生きているのかを問うことが必要ではないか。もちろん、こうした現実/虚構史の再検討は──僅かな断片から過去の復元を試みる考古学的アプローチの性質上、必然的に──絶対的な真実や正しい歴史の記述にはなり得ないが、「関係の絶対性」に基づいて現実と虚構の双方が都合よく動員される状況を相対化する役割を担ってはくれるだろう。完全な達成は不可能であると知りつつ、それでもなお歴史的な事実や物質的な事実を志向し、現実/虚構の概念的区別を保ちながら両者を同一平面上で思考する枠組みを手にいれることが、我々の──そして次回に紹介する作家たちの──課題である。


[1]樋口尚文編著『大島渚 全映画秘蔵資料集成』国書刊行会、2021年、pp. 352–363
[2]同書、p. 358
[3]原正孝・金子裕・桜井正明・大久保昌一良・荒井晴彦「大島渚に笑われた大学映研のいい分」『映画芸術』1970年8月号(No.274)、大和書房、p. 62
[4]同前
[5]同書、p. 64
[6]ルイ・アルチュセール「イデオロギーと国家のイデオロギー装置」の初版刊行は、『イタリアにおける闘争』の制作以後の1970年6月である。ゴダールらは、親交のあったアルチュセール本人から刊行前の原稿を得たものと思われる。
[7]『イタリアにおける闘争』は、大島が率いる独立プロダクション創造社とフランス映画社の共催による上映プログラム「ゴダール・マニフェスト」の一環として日本で初公開された(松田政男「「ゴダール・マニフェスト」の頃──同時代者のモノローグ風に」『文藝別冊 ゴダール──新たなる全貌』河出書房新社、2002年、p. 130)。大島は『映画批評』1970年11月号(新泉社)に寄稿した「ゴダール・解体と噴出」の中で『イタリアにおける闘争』を字幕なしで見たことを明かしており(p. 109)、同作が制作された1970年1月から11月までの間に試写に参加したものと思われる。一方、『東京战争戦後秘話』が構想されたのは1969年の秋で、公開は1970年6月。大島が同作の完成前に『イタリアにおける闘争』を見て、何らかの影響を受けた可能性は十分にあり得るだろう。
[8]蓮實重彥「風景を超えて」『表層批評宣言』ちくま文庫、1985年、p. 186
[9]大島渚「ゴダール・解体と噴出」前掲、p. 112
[10]原正孝「大島渚に笑われた大学映研のいい分」前掲、p. 64
[11]大島渚・庵野秀明「国家と風景の現在」『ユリイカ』2000年1月号、青土社、p. 67
[12]渡邉大輔『セカイ系入門』星海社新書、2025年、pp. 228–229
[13]西田亮介「郊外と郊外論を問い直す」『PLANETS SPECIAL 2010 ゼロ年代のすべて』第二次惑星開発委員会、2009年、pp.55–56
[14]若林幹夫『郊外の社会学』ちくま新書、2007年、pp.95–96
[15]五十嵐太郎「ポストカタストロフのコラージュ・シティ──『新世紀エヴァンゲリオン』」『映画的建築/建築的映画』春秋社、2009年、pp.194–212
[16]同書、p. 209
[17]上野俊哉『紅のメタルスーツ──アニメという戦場』紀伊國屋書店、1998年、pp. 144–148
[18]同書、p. 198
[19]コーリン・ロウ、フレッド・コッター『コラージュ・シティ』渡辺真理訳、鹿島出版会、2009年
[20]小光田光雄『〈郊外〉の誕生と死』青弓社、1997年、p. 17
[21]松田政男『風景の死滅 増補新版』航思社、2013年、p. 24
[22]藤田直哉『シン・エヴァンゲリオン論』河出書房新社、2021年、pp.55–58
[23]前島賢『セカイ系とは何か──ポスト・エヴァのオタク史』ソフトバンク新書、2010年、pp. 129–130
[24]宇野常寛『ゼロ年代の想像力』ハヤカワ文庫、2011年、p. 204
[25]同書、p. 211
[26]笠井潔「セカイ系と例外状態」『社会は存在しないセカイ系文化論』限界小説研究会編、南雲堂、2009年、pp. 31–49
[27]笠井潔「ポストコロナ文化論 第5回 破滅と成熟──佐藤友哉『青春とシリアルキラー』」光文社 文芸/文庫編集部note、2023年1月16日、https://note.com/giallo_kobunsha/n/n0dfa57e67820
[28]藤田直哉『シン・ゴジラ論』(作品社、2017年、pp. 218–222)および『シン・エヴァンゲリオン論』(前掲、pp. 184–186)を参照。
[29]吉本隆明「マタイ書試論」『吉本有名全著作集4』勁草書房、1969年、p. 106
[30]こうした見方は、「風景」とは目の前の景色に自己の内面を投影することによって発見されるものであり、実は外的なものや他者に対して無関心な人間によって見出されるという柄谷行人の議論を想起させる。柄⾕⾏⼈『定本 ⽇本近代⽂学の起源』岩波書店、2002年、pp. 28–29
[31]笠井潔「ポストコロナ文化論 第5回 破滅と成熟──佐藤友哉『青春とシリアルキラー』」前掲
[32]竹熊健太郎「私とエヴァンゲリオン」『Quick Japan』Vol.9、太田出版、1996年8月、p. 186
[33]宮台真司「つまらなさ、一段と深刻──地下鉄サリン事件10年(三者三論)」『朝日新聞』朝刊、2005年2月25日付