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2026.01.12

マンガ研究者・小田切博によるアメリカン・ヒーロー・コミックスを解説した連載。第9回目の今回は、スーパーヒーローやアメコミ作品そのものからはやや距離を取り、1990年にニューヨーク近代美術館(MoMA)で開催された「ハイ・アンド・ロウ」展を起点に、アートと大衆文化を分けてきた価値観の歴史をたどります。連邦美術計画をはじめたとした事例から、なぜアメリカで「ハイ/ロウ」の線引きが生まれたのかを考えます。

 

1990年のアートとコミックス

1990年10月、ニューヨーク近代美術館(通称MoMA)[1]で、あるテーマ展が開かれました。
「ハイ・アンド・ロウーー近代美術と大衆文化(High and Low: Modern Art and Popular Culture)」と題されたこの企画展は、西欧近現代美術の名作と新聞や広告のグラフィックデザイン、コミックス、グラフィティといった大衆文化を並列に展示することでその影響関係を探ることをテーマにしたものです。現在でもMoMAのサイトでアーカイブを見ることができる[2]この展覧会は、開催と同時にアメリカの美術界に大きな議論を巻き起こしました。
ニューヨークからシカゴを巡回したこの展示のロサンゼルス現代美術館でのオープニングに合わせ『ロサンゼルス・タイムズ(Los Angels Times)』に掲載されたスザンヌ・ムクニックによるインタビューで[3]、MoMAの担当キュレーターであるカーク・ヴァルネドーは「リベラルな批評家たちはこの展示を「エリート主義的だ」と非難し、保守的な権威筋は「大衆迎合的だ」といって怒った、こうした反応があることは事前に予測できたが、いっぽうでフラットな反応がほとんどなかったことや批判の激しさには驚いた」という内容のコメントをしています。

「ハイ・アンド・ロウ」展は、戦後のアメリカにおいてMoMAのようなアカデミックな美術界の権威がコミックスのような大衆文化を正面から取り上げた比較的早い例のひとつだと考えられますが、同時に視覚文化を「ハイ」と「ロウ」に分けて垂直的な関係をそこに見る展覧会自体のコンセプトや先のヴァルネドーの発言にある当時のアートジャーナリズムからの反応は「現代美術は高尚でコミックスのような大衆文化は低俗である」という文化的ヒエラルキーが、20世紀終盤におこなわれたこの展示の時点でもまだ根強く存在していたことを感じさせるものです[4]。

MoMAでの「ハイ・アンド・ロウ」展から四半世紀以上が経過し、21世紀も中盤にさしかかろうとする現在では、イギリスの大英博物館やフランスのポンピドゥーセンターといった社会的権威のある文化施設で「マンガ」をテーマにした展示がおこなわれることも珍しくなくなりました。
現代美術の分野でもアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインのようなポップアーティストから日本の村上隆にいたるまで、マンガやアニメのような大衆文化を題材にする作家はいくらでもいます。
にもかかわらず、アカデミックな議論においてもインターネットなどで見られる一般的な見方においても、ハイとロウを分けて価値判断するような先入観は依然として存在しているようです。

 

21世紀のアートとコミックス

こうした研究者や批評家、ユーザー、オーディエンス側の認知と比較すると、2025年現在のクリエイター側の考え方はかなり違ったものになってきていると思います。
たとえば90年代半ばからゼロ年代初頭まで、ロードアイランド州プロヴィデンスの繊維工場跡地の倉庫を拠点に活動したアーティストグループ「フォート・サンダー(Fort Thunder)」[5]のクリエイターたちは、その場所でさまざまなす展示やライブパフォーマンスをおこなっていましたが、ペインティングやドローイング、インスタレーションやバンド演奏などと同じレベルの「表現」としてコミックスを発表していました。
90年代半ば以降、こうしたコミックスを自らの「表現」を伝えるための選択肢のひとつとして捉えるクリエイターが増えているのです。
「ハイ・アンド・ロウ」的な発想はアートとコミックスのようなポピュラーカルチャーのあいだに線を引き、前者にしか創造性を認めないような考え方だといえます。しかし、この世代にはジェフ・レミア[6]やデヴィッド・マック[7]のようにアートやグラフィックノベルとスーパーヒーローコミックスを往還するような仕事の仕方をしているアーティストも多く、現代の先鋭的な作家たちはこのような発想に意味を見出さなくなってきているとはいえるでしょう。

ただ、ここでまず考えておかなければならないのは、むしろアメリカにおいて「ハイ・アンド・ロウ」のような価値観が成立したのはいつなのか、という点だと思います。
というのは、ヨーロッパからの植民者によって打ち立てられた国であるアメリカ合衆国では、イギリスとの独立戦争がはじまり、独立宣言が出された1776年、あるいは独立戦争が終結し、国際的に独立国家として認められた1787年の時点でも、このような垂直的な美術観、芸術観が一般に共有されたものだったとは考えられないからです。
今回はまずスーパーヒーローそのものからはやや離れて、こうした美術との関係からコミックスについて考えていきたいと思います。

 

美術アカデミーと「アメリカ美術」

そもそも美術や芸術という概念は、欧米においても、近代以前には現在一般的に考えられているような権威や影響力を持つ文化ではありませんでした。
おそらく最初に近代的な意味で視覚芸術、現代日本語でいう「美術」を社会的な権威にすべく声をあげたのは、16世紀イタリアの画家、建築家、批評家であるジョルジュ・ヴァザーリ[8]だと思われます。彼の代表的な著作である『美術家列伝』[9]は13世紀以降にヨーロッパ諸国で活躍した画家、彫刻家、建築家といったひとたちの生涯を列伝形式で書いたもので、現在では20世紀以降に本格的に体系化されていく「美術史研究」[10]の先駆と考えられているものです。ヴァザーリはこの著作で巨匠とその作品群を古典化した一方で、フィレンツェの豪族メディチ家に働きかけ、美術家の教育養成機関である美術アカデミー「アカデミア・デル・ディセーニョ」[11]を1563年に設立しました。
この、現在も世界各国に存在する「美術アカデミー」[12]という制度は、芸術家の教育研究機関を運営すると同時に、当該団体が存在する地域における著名な美術家を会員とし、会員による展覧会を主催することで、団体自体に社会的な権威を持たせ、創作者にとっては会員になることが「美術家」としての身分保障になるような仕組みです。
イタリアにおける美術アカデミーの成功を受け、ルイ14世統治下のフランスでは1648年に「王立絵画彫刻アカデミー」[13]が設立され、以降17世紀から18世紀にかけて、新しい美術教育と美術研究を担う組織としての美術アカデミーがヨーロッパ各国で立ち上げられていきました。

ヨーロッパではこの「美術アカデミー」がそれまで職人的な手仕事の側面が大きかった「美術」概念を、より近代的なかたちで理論化、権威化していく現場になっていった訳ですが、当然ながら新大陸であるアメリカではヨーロッパでのこうした動向がリアルタイムに移植された訳ではなく、かなり遅れてそのあとを追ってくことになります。

現在、アメリカ初の「美術アカデミー」にあたるものと考えられているペンシルバニア美術アカデミーの設立が1805年[14]、この団体が「美術(Fine Arts)」専門の教育プログラムをはじめたのが1810年です。その後1821年に公教育のカリキュラムに「美術」が取り入れられ[15]、正規の教育過程で美術が学ばれる環境が整備されていきました。19世紀後半からは全米各地で専門の美術学校も開校されていきますが、これ以前のアメリカでの美術教育のチャンネルは、ヨーロッパでは衰退しつつあった徒弟制度しかなかったわけです。

いっぽうヨーロッパの美術アカデミーは、新しいクリエイターの養成機関であっただけではなく、それまでに創作された絵画や彫刻等の芸術作品を分類し、技法や歴史を理論化する研究機関としての側面も持っていました。
そうしたアカデミックな学術研究の対象としての「美術」が確立されたことによって、絵画や彫刻のような美術作品が「芸術」として権威を持つことにもなったわけですが、ややこしいのは美術アカデミーが美術の理論化を担ったことで、結果として同時代の作家、作品の価値を認定するゲートキーパーのような機能を持つようになってしまったことです。
つまり、すでに名のある作家や研究者が自分たちが理論化、体系化した美術的価値観に従って作品評価をおこなうため、自由に創作された新しい表現を認められず、保守的な美術アカデミーが若いクリエイターと衝突する、という現象が19世紀以降、西欧美術の世界では何度も繰り返されていくことになります。

たとえばフランスにおける美術運動としての印象派の形成は、1863年に美術アカデミーが主催する展覧会でクロード・モネの作品が落選したことをきっかけにおこなわれた「落選展」の開催をその端緒としたものでした。
じつはアメリカでもこれと似たような経緯から、1908年に新大陸でのモダニズム絵画の先駆のひとつとされる「ジ・エイト」展[16]がニューヨークのマクベス・ギャラリーで開催されています。この展示は、前年に現在も活動している美術団体「ナショナル・デザイン・アカデミー」[17]の公募展で選に漏れた作家を中心にした、当時の同アカデミーが認定する「美術」の保守性に対する異議申し立てのような動機から開かれたものでした。

 

転換点としてのアーモリーショー

「ジ・エイト」展参加者の一部を含む当時のアメリカにおける前衛的なモダニズム絵画の潮流は「アッシュカン・スクール」[18]と呼ばれています。
技法的には写実的なリアリズム絵画であるこの世代の画家たちの「前衛」性は、アートスタイルではなく、そのモチーフにありました。それまでのアメリカにおいて既存の美術アカデミーが権威性を保証してきた古典主義的な歴史画や名士たちの肖像画、自然を描いた風景画などではなく、同時代の都市生活を描く彼らの作品は、まずそのテーマ設定によって前世代の画家たちと対立することになったわけです。
そして、当時の市民生活や社会風俗を主題としたこの世代のアメリカの「前衛」画家たちは、新聞や雑誌の挿絵やマンガ、広告イラストレーションなどを積極的に描いていました。つまり、20世紀初頭のアメリカ社会においては、現在いうところの「純粋芸術(Fine Art)」と「商業美術(Comercial Art)」の区別はまだ確立されておらず、前衛的なスタンスの作家ほど積極的にコマーシャルな場で作品を公表していたことになります。

現在、アメリカにおける近現代美術の出発点と考えられているのは、1913年にニューヨーク、マンハッタンにあった兵器倉庫(アーモリー)でアメリカ画家彫刻家協会の主催でおこなわれた「国際近代美術展(The International Exhibition of Modern Art)」、通称「アーモリー・ショー」[19]なのですが、ヨーロッパにおける最新の美術の動向をアメリカの観衆に紹介し、併せてアメリカの若い作家たちの作品発表の場ともなっていたこの展覧会のアメリカ側の出展作家たちの多くもイラストレーションやコミックスを手掛けています。
印象派以降、キュビズムや未来派、シュールレアリズムなどの表現主義的な方向に急激に傾斜していったヨーロッパ美術に対し、具象絵画全盛で複製美術、商業美術に対する忌避感を持たなかった当時の「アメリカ美術」は実際にはイラストレーションやコミックスも含む視覚文化領域だったといえるでしょう。
むしろアーモリーショーがアメリカの近現代美術のはじまりと考えられていること自体、ヨーロッパにおける表現主義的な動きとその背景にある運動や理論をこの展覧会がはじめて本格的かつ網羅的に紹介したことで、1990年の「ハイ・アンド・ロウ」展に連なる「ハイ/ロウ」の区分を「アメリカ美術」の中につくりだしていく契機になったからだと考えられます。

 

コンプレックスとモダニズム

実際に1913年にアーモリーショーが開催された際には、その展示の目玉でもあったヨーロッパの最新美術作品群は一般の観客からは違和感を持たれ、その芸術的価値自体が新聞紙上などで大きな議論になりました[20]。特に運動をテーマにしたマルセル・デュシャンの作品「階段を降りる裸婦 No.2」はその奇矯さを題材に風刺マンガが描かれるほどスキャンダラスなものとして受け止められています。
キュビズムや未来派のような20世紀はじめのヨーロッパの表現主義的な前衛美術は、同時代のアメリカではけっして最初から「純粋美術」として一般に受け入れられていたわけではなかったのです。

こうした状況が変化し、アメリカ社会の中で美術における「ハイ」と「ロー」が完全に分裂して捉えられるようになったのは、1914年から1918年の第一次、1939年から1945年の第二次という二度の世界大戦を経て、美術の市場や活動の中心が、戦争によって荒廃したヨーロッパからアメリカに移って以降でしょう。
この時期のこうした「美術」観の転換は、戦争によってヨーロッパからアメリカへと亡命してきた芸術家や研究者、批評家たちの影響が大きいと思われますが、それだけではなく、アメリカ社会が抱いていたヨーロッパに対する文化的な後進性へのコンプレックスが潜在的な原因としてあったと見るべきだろうと思います。
第32代アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの妻、エレノア・ルーズベルトは1934年にアメリカ芸術家連盟第25回年次大会にて「芸術に対する政府の新たな関心(The New Governmental Interest in the Arts)」というスピーチをおこないました[21]。1929年に起きた株価の大暴落を受けて政府が導入した芸術家支援策の意義をアピールする目的でおこなわれたと思われるこの講演の冒頭で、彼女は「美を鑑賞することが私たちにとって極めて重要であることは、今や誰もが認識していると思います。しかし同時に、この国はまだ若く、自らの嗜好に常に自信があったわけではないことも自覚しています」と芸術の社会的意義を強調するとともに自分たちの美的基準に対する自信の無さも覗かせています。

このようなアメリカの知識人たちのヨーロッパ文化へのコンプレックスの背景として20世紀において支配的だった「モダニズム(modernism)」という考え方の存在を挙げることができるでしょう。

モダニズムは社会や文化全般に対して使われる概念ですが、文学や美術のような文化的な領域における辞書的な用法としては「伝統的な手法や既成の権威を否定して」常に「現代的な新しさ」に価値を見出す考え方といったところだと思います。20世紀の科学技術の発展を根拠に、人間の社会や文化は全般的に一定の方向に良くなっていくはずだという楽観的な考え方、進歩史観への信頼がその根底にあり、「純粋美術」を高尚とし「商業美術」を低俗とするような価値観は、この「モダニズム」的な価値基準によって対象を進歩的な「ハイ」と退嬰的な「ロー」に切り分けていくものです。
そして、こうしたモダニズム的な美術観がアメリカの美術分野において一般化していったのには、先のエレノア・ルーズベルトの講演でも言及されている「政府が導入した芸術家支援策」、「連邦美術計画」[22]が直接的なきっかけになっていると考えられます。

 

「公認された芸術」としての連邦美術計画

「連邦美術計画」は、1929年の株価暴落によって出来した世界的な大恐慌により壊滅的な打撃を受けたアメリカ経済に対してフランクリン・ルーズベルト大統領が打ち出した大恐慌対策、ニューディール政策の一環として導入された画家や彫刻家、写真家などに対する生活再建のための支援政策です。
1933年から34年にかけて試験的に実施され、1935年から43年まで本格的に運用されたこの「芸術家に対する財政支援」は、具体的には壁画やポスター、油彩、水彩画などの制作、各地域に設立されたコミュニティーアートセンターの運営、指導などのために、クリエイターを合衆国政府が直接雇用し、給与を保証しながら公共事業としての作品制作や業務を発注するというものでした[23]。

興味深いのはこの事業が新聞社や出版社、あるいは画商といった民間への投資によって市場における「絵を描く仕事」を増加させようとするものではなく、連邦政府が個々のアーティストを直接雇用し、かつその技量を事業内で評価するという性格のものだったことです。
つまり「生活に困窮した創作者に対して収入を保証する」という生活保護的な性格を持つ政策であるにもかかわらず、「連邦美術計画」に選ばれることは合衆国政府から「芸術家」として公認されるような意味を持ったのではないかと考えられます。
逆にコミックブック産業において1930年代末から40年代にかけては、スーパーマンの登場によって最初のスーパーヒーローブームが起こり、むしろ産業として急成長した時期にあたり、「売れている」ために恐慌期においてもパルプ雑誌やコミックブックのような娯楽読み物は公共投資の対象にされる必要がありませんでした。

第二次世界大戦にアメリカが参戦して以降も、戦地での需要も含め、雑誌や新聞のイラストレーション、マンガ、新興メディアであったコミックブックといった「大衆娯楽としての絵画表現」のニーズは拡大していきますが、同時期にある「連邦美術計画」の存在を視野に入れたとき、私たちはこの「成長」にこそ(かつては分かれていたわけではない)その領域が「美術」とは見做されなくなっていく契機を見出すことができるのではないでしょうか。

 

「現代美術」と「商業美術」の分裂と再接近

1945年に第二次世界大戦が終結すると、ナチスドイツの占領下にあったフランスをはじめ、戦争の傷跡が深く残るヨーロッパから「新しい美術」の中心地はアメリカへと移行しました。

この戦後美術の新しい動きを抽象表現主義のアーティストたちとともに60年代まで理論的に主導したのが美術批評家のクレメント・グリーンバーグです。
グリーンバーグは1939年に雑誌『パルチザン・レビュー』で発表したエッセイ「アヴァンギャルドとキッチュ」[24]によって美術ライターとして一躍有名になった人物ですが、彼はこの初期のエッセイで、すでにパルプ小説やイラストレーション、広告、マンガ、映画といった大衆文化は、新しく芸術的な進化を促すような表現「アヴァンギャルド」ではなく、時代遅れで低俗な「キッチュ」であるとして両者をはっきりと区別しています。
このグリーンバーグの「アヴァンギャルド/キッチュ」に代表されるような文化的ヒエラルキーを前提とした「美術」観が戦後のアメリカ美術界では支配的になり、前衛的な「純粋美術」と大衆迎合的な「商業美術」は異なるものだという社会的な認識が一般的なものになっていきました。
つまり、1930年代の連邦美術計画によって制度として用意された「美術」という枠組みが、グリーンバーグのような批評家や研究者、実作者たちによって理論化され、ヨーロッパから移植された美術市場やマスメディアを通じてイメージとして広がっていったことで、既存のより広範な視覚文化領域から切り離された特定の領域が戦後のアメリカにおける「美術」になっていったのだと考えられます[25]。

そのため、じつはそこでいう「美術」は、本質主義的な実体を持った概念ではなく、「商業美術ではないと説明づけられたものが純粋美術である」というような意味合いを持っていました[26]。そして、その「説明」の部分を担ったのが「抽象表現主義」や「ミニマリズム」といった創作におけるコンセプトや方法、その理論です。
日本においても戦後のアメリカ現代美術が作品や作家それ自体というより、その背景にあるコンセプトや美術理論を併せて紹介されるものになっているのはこのことが理由ではないかと思います。

ただ、ある意味皮肉なものを感じざるをえないのは、1960年代以降のテクノロジーとマスメディアの発達に呼応して、逆にアメリカの現代美術が広告やマンガのような大衆文化を創作上のモチーフやテーマとして見出し始めた点です。
コミックスとの関連でいえばアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタインに代表される「ポップアート」がその分水嶺に当たります。特にリキテンスタインは1961年以降、既存のコミックスのカバーアートやコマの絵柄を拡大してそのまま油絵などとして描くという手法で作品を量産し、美術界からは「低俗なマンガをモチーフにしていること」を激しく批判され、コミックスファンやクリエイターからは「まったくオリジナルの作者や出展作品に関する情報を含まない盗用」である点を糾弾されました[27]。
そこでは分裂し、かつては一体だったことが忘却されたからこそ、「美術」によって現代社会に対する批評的な表現をするためのモチーフとして大衆文化が再発見されていたのです。(前編了)

 

[1] Museum of Modern Art ニューヨーク、マンハッタンにある近現代美術を対象にした美術館。1929年に法人として設立され、1939年に現在の場所で開館した。ロックフェラー財団によって設立、運営されてきたこの美術館はアメリカにおいて戦後の現代美術を牽引してきた施設である。
[2] “High and Low: Modern Art and Popular Culture”, Oct 7, 1990–Jan 15, 1991, “MoMA”, https://www.moma.org/calendar/exhibitions/1764?
[3] Suzanne Muchnic, “ART : Highs and Lows of Kirk Varnedoe : The most powerful curator in the country did his homework for his first MOMA exhibit, but he wasn’t prepared for the reception it got”, “Los Angels Times”, June 23, 1991, https://www.latimes.com/archives/la-xpm-1991-06-23-ca-2151-story.html
[4] ピュリッツァー賞受賞前のArt Spiegelmanは現代美術専門誌“Artforum”の29号(1990, Artforum Media)に“High Art Lowdown”というこの展覧会を皮肉る内容のレビュー・コミックス(現在この作品は“Artforum”のウェブサイト上https://www.artforum.com/features/high-art-lowdown-a-project-for-artforum-204503/で読むことができる)を描いている。
[5] Fort Thunder ミュージシャンのMat BrinkmanとBrian Chippendaleが1995年に開設したライブスペース兼アートスタジオ。2002年に取り壊しのために活動を終了した。コミックスとの関わりについてはTom Spurgeon, “Fort Thunder Forever”, “The Comics Journal”#256, 2003, Fantagraphicsに詳しい。
[6] Jeff Lemire カナダのコミック・アーティスト、脚本家。2005年にコミックス・クリエイター向けの助成金、Xeric Fundを取得してデビューし、以降オルタナティブ系の出版社から文学性の高いオリジナルのグラフィックノベルを発表するとともに、DC、マーベルでスーパーヒーローコミックスの脚本も手掛ける。2021年にはオリジナル作品、“Sweet Tooth”がNetflixでドラマ化された。
[7] David Mack アメリカのコミックアーティスト、イラストレーター。1995年に独立系出版社から刊行したミックスト・メディアの技法で描かれた作品“Kabuki”(Caliber Press)でデビュー。以降、その独特なアートスタイルが評価され、多方面で活躍。ゼロ年代以降はグラフィックアーティストとしても評価されている。
[8] Giorgio Vasariに関しては2017年に詳細な評伝Ingrid Rowland, Noah Charney, “The Collector of Lives: Giorgio Vasari and the Invention of Art”, W. W. Norton & Company Inc.が出ており、2018年に邦訳『芸術をつくった男』(北沢あかね訳, 柏書房)が出ている。
[9] Giorgio Vasari, “Le vite de’ piu eccelenti pittori, scultori e architettori”, 1550 (増補新版1568), Duchy of Florence, 日本では2014年から2020年にかけて6巻本での新訳版が『美術家列伝』(森田義之・宮下規久朗・越川倫明・甲斐教行・高梨光正監修)として中央公論美術出版から刊行されている。
[10] ここでは「美術史研究」の体系化の契機を便宜的にHeinrich Wölfflin, “Kunstgeschichtliche Grundbegriffe”, Bruckmann(邦訳は海津忠雄訳, 『美術史の基礎概念』, 2000, 慶應義塾大学出版会)が刊行された1915年に設定している。
[11] Accademia e Compagnia delle Arti del Disegno 1339年にフィレンツェの画家、彫刻家、建築家らが設立した団体San Luca formata(Leonardo da VinciやMichelangeloらが所属していた)をもとに1563年に設立した。この組織は現在も活動している。公式HPはhttps://www.aadfi.it/
[12] “academy of art”, “Encyclopedia of Britannica”, https://www.britannica.com/art/academy-of-art
[13] Académie royale de peinture et de sculpture 1648年に設立されたフランスの国立美術アカデミー。フランス革命下の1793年に国民公会によって一度廃止されるが、1795年にl’Institut national des sciences et des arts est crééの一部門として再組織された。1815年に現在のAcadémie des beaux-artsに改称。公式HPはhttps://www.academiedesbeauxarts.fr/
[14] “About PAFA”, “PAFA: Pennsylvania Academy of the Fine Arts”, https://www.pafa.org/about
[15] W. G. Whitford, “Brief History of Art Education in the United States”, “The Elementary School Journal” Vol.24, No2, 1923, The University of Chicago Press
[16] The Eight 1908年2月、ニューヨークMacBeth Galleriesでおこなわれた合同展、出展者はArthur B. Davies, William Glackens, Robert Henri, Ernest Lawson, George Luks, Maurice Prendergast, Everett Shinn, John Sloanの8名。1907年にNational Academy of Designの選考委員を務めていたRobert HenriがLuks, Shinn, Glackensらの公募展への応募作品が落選となったことへの抗議のため選考委員を辞任。この一連の経緯を受けてHenriが企画した。その後全米各地を巡回している。
[17] ニューヨークに現在も存在する美術団体。団体の結成自体はペンシルバニアのそれに先行している。詳細は以下参照。“About Us”, “The National Academy of Design”, https://nationalacademy.org/the-academy/about-us
[18] Ashcan School 「ゴミ箱派」の意。このグループのイデオローグ的な立場であり、Armory Showを主導したひとりでもあるRobert Henriの主著“The Art Spirits” (1923, Basic Books)の邦訳が『アート・スピリット』(野中邦子訳, 2011, 国書刊行会)が滝本誠の熱っぽい解説が収録されるかたちで出版されている。
[19] The International Exhibition of Modern Art, Armory Show Walt Kuhn、Arthur B. Daviesらが中心になって企画された。この展覧会の意義や背景に関しては『アーモリー・ショウ物語』(木村要一訳, 2006, 美術出版社)として邦訳が刊行されているMilton W. Brown, “The Story of the Armory Show”, 1963, Joseph H. Hirshhorn Foundationに詳しい。
[20] この点は、たとえばTom McCormack, “The 1913 Armory Show: America’s First Art War”, “art21”, 2017, https://art21.org/read/the-1913-armory-show-americas-first-art-war/のような最近の記事でも指摘されているアメリカ美術史における常識的なトピックだといえる。
[21] Eleanor Roosevelt, “The New Governmental Interest in the Arts”, “Twenty-Fifth Annual Convention of the American Federation of Artists”, 1934, https://socialwelfare.library.vcu.edu/eras/great-depression/new-governmental-interest-arts/
[22] “WPA Federal Art Project”, “Britannica”, https://www.britannica.com/topic/WPA-Federal-Art-Project
[23] 西郷南海子, 「世界大恐慌と連邦美術計画」, 『同志社アメリカ研究』第56号, 2020, 同志社大学アメリカ研究所, https://doshisha.repo.nii.ac.jp/record/27873/files/012000560003.pdf
[24] Clement Greenberg, “Avant-Garde and Kitsch”, “Partisan Review”, 1939, Partisan Review, 邦訳は『グリーンバーグ批評選集』(藤枝晃雄訳, 2005, 勁草書房)に収録されている。
[25] こうした大恐慌から第二次世界大戦の時期に生じたアメリカ美術の変化と断絶は、日本におけるアメリカ美術史の記述に少なからぬ混乱を生んでいる。日本の美術批評や研究におけるアメリカ美術への言及は圧倒的に戦後の現代美術についてのものに偏っており、1920年代以前の具象絵画は先駆的なものとして軽く触れられる程度であることが多く、特にイラストレーションとの関係は無視されることが多い。記述がある場合も、たとえば村木明『アメリカ近代美術の展開 コマーシャル・アートの黄金時代を築いた作家たち』(1978, 美術評論社)では「画家/イラストレーター」の区分を自明のものとして扱いながら、それぞれを文中で定義しないという違和感のある記述になっている。
[26] このアメリカにおけるFine ArtとComercial Artの区別は、Walter Benjaminが1935年に発表したエッセイ“Das Kunstwerk im Zeitalter seiner technischen Reproduzierbarkeit(複製芸術時代の芸術)”で指摘したようなアウラを持ったオリジナルと大量生産によってつくられる複製芸術の差異とも異なっており、実際に連邦美術計画の業務には印刷物であるポスターやパンフレットのイラストレーション制作やデザインも含まれていた。オリジナルだからArtとされるわけではない。
[27] Pop Artとcomicsの関係についてはBart Beaty, “Comics Versus Art”(2012, University of Toronto Press)の中でかなり詳しく論じられている。