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2026.04.25

第10回 原將人と新海誠の天皇=風景論

風景のスクリーン・プラクティス / 佐々木友輔

映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第10回では、映画についての映画として撮られた原將人の『初国知所之天皇』と、東日本大震災を直接的な題材とする新海誠の『すずめの戸締まり』を取り上げます。日本各地を巡る旅を描く両作品に共通する「天皇」という主題は、風景の問題とどのように関係しているのでしょうか。

 

原將人の風景論──「世界−内−存在の風景論的眺望」(1970)
大島渚『東京战争戦後秘話』(1970)の脚本執筆を通じて風景論争の渦中に身を投じた原將人(当時の名義は原正孝)は、第二次『映画批評』創刊号に掲載された「世界−内−存在の風景論的眺望」において、大島や松田政男ら先行世代を厳しく批判し、自らの立場を明らかにしている。
前提として、松田政男の風景論は、当時盛んに議論された「情況」論の批判的継承を期して書かれた。情況論とは、端的に言えば、世界の変革を志す主体が目の前に広がる状況──現実社会の具体的な問題や出来事──に対していかに関われるかを問うものである。実存主義で知られるフランスの哲学者ジャン゠ポール・サルトルは、知識人や芸術家は状況シチュアシオンに積極的に関与し、社会参加アンガージュマンするべきだと訴えた。だがその際、知識人はしばしば自らを特権的な立場に置いて高みから状況を見下ろし、地べたで右往左往する「愚か」な大衆を啓蒙して、理想的な革命主体へと育て上げねばならないと考えてしまう。思想家の吉本隆明は、多くの知識人が大衆に抽象的な理想を押し付けて「大衆はかくあるべき」と語りがちなことを批判し、むしろ自分自身の大衆性──知識人となる以前の、大衆だった頃の自己のありよう──を思い起こさなければ、情況を正しく理解できないとする「大衆の原像[1]」論を説いた。客観的で中立的な印象を備える「状況」の語を、大衆的な情念や情動を埋め込んだ「情況」へと置き換えること。知識人の立場にありながらマルクス主義的な革命主体であるためには、打ち倒されるべきプチブル(資本家と労働者の間に位置する中産階級層)ではなく、下層のプロレタリアート(労働者階級)に自身の起源オリジンを見出し、そこに自らの戦いの根拠を求めなければならなかった。吉本の議論に頷く者も、異を唱える者も、いかにして大衆と同じ目線で世界を見つめ、情況に関与できるかという問題意識は広く共有していたと言えるだろう。左翼やリベラルの「上から目線」を内外から批判する言説は、近年になって突然現れてきたものではなく、古くから延々と繰り返されてきた伝統的なテーマなのだ。
1960年代末の松田は、今や「情況」という語すらも形骸化しており、特権的な高みから語りたいインテリ好みの言葉に堕していると指摘し、情況論から風景論への転換を訴えた。貧しい家庭に生まれた集団就職者の永山則夫が起こした連続ピストル射殺事件について「おそらく、永山則夫は、風景を切り裂くために、弾丸を発射したに違いない[2]」と述べ、どこにでもある風景こそが国家権力の作動の具体的現れなのだと喝破した。情況や権力なるものを直接見ることはできないが、風景なら誰でも見ることができる。抽象的な概念に物質的な実体を与えることで、知識人と大衆が共視可能な風景=スクリーンを提示したことは、松田の風景論の重要な意義のひとつである。
だが原は、風景論も結局のところ、情況論と同じ陥穽に嵌っていると容赦ない批判を加える。曰く、松田は見る主体(自己)と見られる客体(風景)の対立を前提とする典型的な二元論に留まっている。主体が特権的な立場から対象を見下ろす関係が温存されたままである以上、そのようにして眺められた風景は「風呂屋の富士山同然[3]」のものにしかならないのだから、やはり捉えるべき現実を捉えることはできないだろう、と。

この批判の意図をより正確に理解するためには──文中で直接言及されているわけではないが──マルティン・ハイデガーの「世界像 Weltbild[4]」概念を参照することが有効である。世界像とは文字通り、「像 Bild」(イメージ)として把握された世界を意味する。ハイデガーは、主体(見るもの)と客体(見られるもの)を切り分けること自体が西洋近代に特有の思考であると言うが、そこで主体は、存在するものの全体をも対象化(客体化)して「世界像」として表象し、自己と世界像が向かい合うような関係を打ち立てる。これは前回紹介した、ブリュノ・ラトゥールの「パノラマ[5]」概念に相当する。すなわち、人は世界像というパノラマを作ることで、世界の全体像を見渡したり、所有したり、利用・操作したり、管理したりできるという、本来ならば不可能なはずの誇大な感覚を抱く。だがそれは、あくまで人工的なパノラマであり、当然、世界そのものとは異なる。まさに「風呂屋の富士山」のように、現実に似てはいるが虚構に過ぎない書き割りのセットを本物と見間違えているだけなのだ。
原は、連続ピストル射殺事件に関する松田の解釈にも言及し、永山則夫は風景を権力と捉えて弾丸を撃ったのではないと反論する。曰く、永山(1949年生まれ)や原(1950年生まれ)の世代は、もはや戦うべき敵の姿が見えず、自分自身の行動を決定する根拠を喪失した時代を生きている。松田のようにマルクス主義に依拠して、プロレタリアートに自らの「起源オリジン」を見出すことはできないし、大島のように「現実」対「虚構」という対立軸を設定して、それを戦いの根拠とすることもできない。永山の犯行は、特定の敵に向けたものでもなければ、特定の思想に基づいた行為でもなく、自分自身でも理由や根拠が分からぬまま、あらゆるものに等しく向けられた憎悪あるいは怒りの表現だったとの主張がなされる。
さらに原は、こうした無根拠な憎悪にこそ、自らの世代の起源が見出せると言う。永山は、先行世代が前提としてきた「理論」や「現実」からは出発できないことを出発点とし、確固たる起源など持ち得ないことを自覚した上で、無根拠な憎悪の中に闘いの起源を──それはあくまで虚構でしかないと知りつつ──仮構してみせた。「永山則夫は風景を切り裂いたのでは決してなく、むしろ風景を完成させた[6]」という一見謎めいた言葉は、原の主客二元論批判を踏まえれば整合的に解釈できる。すなわち、永山があらゆるものに向けた憎悪のまなざしは、主体(自己)と客体(風景)の区別さえもない混ぜにし、主客の分離未然の状態、つまりは世界像ではなく世界そのものへと回帰しようとする試みとして評価されるのである。
しかしこのようにして再発見された「世界」は、果たして本当に主客の分離以前にあったとされる世界と同一だと言えるのか。それもまた、新たな世界像のバリエーションに過ぎないのではないか。原自身、永山が完成させた風景とは「己の仮構性を極限にまで引き受ける[7]」ことによって成立した風景であると述べ、その「世界」があくまで仮構されたものであること、要するに虚構に過ぎないことを強調している。前々回に論じた庵野秀明と同様に、原もまた帰るべき「現実」を持たない世代に生まれ、無数の虚構から新たな「現実」を作り上げる必要に迫られた一人であった。

原將人『初国知所之天皇』(1973)──仮構された起源を辿る旅
「世界−内−存在の風景論的眺望」を発表した翌年1971年の春、原は新たな映画制作を構想する。それは神武天皇(初国知所之天皇)の分身であり、また原自身の分身でもあるだろう青年Mが馬に跨り、東征神話の経路を逆走して日本列島を南下するというプロットを持つロードムービーだった。
同年秋、原は北海道にスタッフを集めて16ミリフィルムによる撮影を始めたが、制作は難航し、程なくして中断を余儀なくされる。個人制作にありがちな資金難やスタッフ確保の困難など様々な課題が噴出した中でも、やはり根本的な問題は、映画制作の方針そのものにあったと見るべきだろう。原は永山則夫の犯行に関する自説──永山はあらゆるものに憎悪を向けることで、主客の分離未然に回帰しようとしたとの仮説──を手がかりとして、あえて撮る目的やテーマを設けず、また物語映画でありながら一般的な語りのスタイルや因果関係の連鎖をも否定することで、主体(撮る者)と客体(撮られる映画)を分離させない一体的な関係を築こうとした。この試みは、先述の論考で「方法としての《フェティシズム》[8]」と呼ばれていたものの実践である。すなわち、何らかの「思想」の表現や「現実」の描写を目的として映画を撮るのではなく、映画自体を物神崇拝フェティシズムの対象とし、映画を撮ること自体を己の表現活動の根拠として、ただひたすら撮り続けること。だがそれは思弁的には成立し得たとしても、実際の撮影現場においては「行き当たりばったり[9]」なものでしかなく、スタッフと足並みを揃えることは至難の業であった。理想と現実のギャップに直面し、原は一旦住まいのある京都に戻る。
そして翌年の1972年10月、原はまた新たな映画の構想を立てる。それは九州の高千穂などを舞台として、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』(1922)のような神話的世界が展開するというものだった。原は撮影機材を16ミリカメラからより手軽な8ミリカメラに持ち替え、スタッフもつけずに九州へと向かう。一人旅の道中、新作のカメラテストのつもりで行く先々の風景を撮影して回ったが、いつしかテストフィルムがそのまま本編となって、後に伝説的映画として語り継がれる『初国知所之天皇』が誕生した。
映画は秋の昼下がり、京都を少し南に下ったところ(宇治)で撮られた映像から始まる。上述の制作経緯を語るナレーションと共に、手をつないで歩く子どもたちの姿や街路、晴れた空、川縁、木漏れ日、撮影をする原の影などがスローモーションで映し出されていく。カメラワークは流動的で捉えどころがなく、分かりやすいランドマークも登場しないため、具体的な地理と結びつかない匿名的な風景だと感じられる。ナレーションは、旅の中で到達した認識を先取りして語る。

しかし、一体撮ったものをどうするか、それをどんな映画にするのか、どんな映画を作るのか、ということについては何一つ考えが纏っていなかった。テストフィルムだ、カメラテストだと言い繕いながら、ある一つの漠然とした感情に従ってカメラを回していくしかなかった。それは、私があるひとつの映画の主人公になってしまったという漠然とした感情であった(中略)まるで映画を見ているようだ。まるで映画を見ているようだ──旅に出てからそう私は何度つぶやいたことだろう。似通ってはいるが見ず知らずの土地に分け入り、あるいは幾度か立ち寄り、見知っているはずの街が突然見知らぬ街に変貌するのに立ち合い、晴れたり曇ったりする光の転調に遅ればせに自己の和音をのせながら、まるで映画を見ているようだ、そう何度つぶやき、つぶやき続けたことだろう。[10]

映画の主人公となった原は、北海道で撮ろうとした映画の撮影素材や制作ノートなどを参照し、当時の自身の思考を振り返りながら旅を続ける。奈良、橿原、熊野、志摩、伊勢から木曾、松本、糸魚川、金沢と来て、加賀を過ぎた辺りでバックパックの背負子が折れてしまう。背負子を背負う自らの姿を父の行軍に重ねていた原は、片手が折れたような気分を味わい、福井の手前で神戸行きのトラックに乗って一旦京都に戻る。その後、再出発した原は天橋立、城崎、鳥取、大山、松江、出雲、萩、下関から九州へ渡り、門司、大分、延岡、高千穂、西都原古墳群、宮崎、鹿児島などを回る[11]
このように書くと、各地の特色が表れた風光明媚な光景が続く映画を想像するかもしれない。だが実際にスクリーンに映し出される風景は匿名的で、捉えどころがない。『略称・連続射殺魔』では、日本中至るところで国家権力が作動しているからこそ、どこにカメラを向けても「均質な風景」が記録されるのだとの主張が為されたが、原はむしろ、自らの意思で風景が均質に見えるような撮り方を選び、どの土地も代わり映えのしない風景を積極的に蒐集しているように思える。実際、『初国知所之天皇』というフィルムにとって重要なのは、スクリーンに映し出されている場所はどこか、どのような歴史や背景があるのか、なぜ撮るのかといったことではなく、目の前の事物がまさに「まるで映画を見ているよう」な風景として立ち現れてくることであった。そもそも映画制作の当初の構想からして、馬で旅をする青年Mのイメージは、デニス・ホッパー『イージー・ライダー』(1969)でチョッパーを駆る「キャプテン・アメリカ」ことワイアット(ピーター・フォンダ)になぞらえたものだったのだ。

馬に跨り歩む青年M
原將人『初国知所之天皇』マルチ・デジタルリマスター版(1973)より

もう少し踏み込んで同作の撮影スタイルに言及するなら、匿名的な風景の印象を抱かせる要因は、特定の対象を凝視することを避けて不安定に流れ続けるカメラワークにある。さしあたり、風景論の最大公約数的な前提を示しておくと、普段は無意識的・無自覚的に営まれている場所の経験を対象化(風景化)し、美的・意味的に見つめることによって「風景」は発見される[12]。またそれに伴い、主体(見る私)と客体(見られる風景)の分離が生じる。だが『初国知所之天皇』の流動的なカメラワークは、常に動き続けて構図を固めないことによって対象化・風景化を拒み、何も考えずにただぼんやりと街を歩いているような──見えているはずなのに、何も見ていないような──視覚体験を生じさせる[13]。また原は、あっけらかんとカメラを手放して肉眼とカメラアイを分離させ、構図内に自分自身の姿を収めたり、複数の映写機を用いたマルチチャンネルの上映によって多視点的・多元的な空間を作り出したりすることで、主体/客体、見るもの/見られるものの関係を徹底的に相対化する。「こんな旅は無駄だと知って/こんな旅は無駄だと知って/あてのない旅をつづける」と歌う劇中歌は、見る対象や目的を定めずに漂流し続けることに賭ける同作の──旅への、そして映画への──フェティシズムを端的に表している。

匿名的かつ流動的な風景
原將人『初国知所之天皇』マルチ・デジタルリマスター版(1973)より

原の試みは、中平卓馬が風景のヴェールを切り裂くために行った数々の試行錯誤を否応なく想起させるだろう(連載第1回参照)。あるいはローラ・マルヴィとピーター・ウォーレンが『スフィンクスの謎』(1977)で行った、360度パンニングするカメラワークによって映画を「見る」快楽を破壊する企てとも似たところがある。だが先にも確認したように、原が成し遂げようとしたのは、風景の破壊や見る快楽の破壊といった西洋的な二元論の解体に留まらず、さらにそこから、主客の分離未然の一元論的世界へと回帰することであった。そして、ここで登場するのが「天皇」という概念である。九州への旅の途中、原は自分自身が「映画の主人公」であり、また「映画」そのものであり、さらには「初国知所之天皇」なのだという認識に到達する。

突然、街を見ていて思った。何故、新しい映画など、とりわけ高千穂などという意味ありげな場所を選び、そんな大層な構えを作り、新しい映画など撮る必要があるのかと。そんなものを撮るくらいなら、ぼくが家でクマと遊んでいるところや煙草を買いに五本木通りを歩いたりすることを撮った方がいいのではないか。俺ははっきり分った。俺の存在自体、虚構なのだ。俺は『初国知所之天皇』なのだと、だから俺の姿を撮り続ければそれで充分虚構であるし、映画なのだと。[14]

新海誠と原將人──個人制作・内面・セカイ
虚構であり、映画であり、「俺」の存在自体でもあるという「天皇」とは一体何かを論じる前に、時を隔てて共通の問題に取り組んだ、もう一人の映画作家にも登場してもらうことにしよう[15]
『初国知所之天皇』初上映から約50年後の2022年11月、新海誠によるアニメーション映画『すずめの戸締まり』が公開された。宮崎県の港町に暮らす高校生・岩戸鈴芽(原菜乃華)が、「閉じ師」としての役割を担う大学生・宗像草太(松村北斗)と共に日本列島を北上し、各地の廃墟に開いた扉(後ろ戸)を閉めることで災いを鎮めようとするロードムービーだ。映画史研究者・批評家の渡邉大輔は『すずめの戸締まり』を風景論の文脈と結びつけ、同作は「裏返された『略称・連続射殺魔』[16]」であると論じているが、筆者はむしろ『初国知所之天皇』と『すずめの戸締まり』との間に──さらには原將人と新海誠との間に──より深い結びつきを見出すことができると主張したい。
第一に、両者は日本の実写映画/アニメーションにおける代表的な「個人映画」作家である。原は松本俊夫や大島渚ら先行世代の集団制作体制を批判し、8ミリフィルムや16ミリフィルムによる個人映画の可能性を模索。1975年には同人雑誌『NEW CINEMA EXPRESS』を創刊し、個人映画の制作のみならず自主上映運動をも組織しようとした。他方の新海も、1999年に自主制作アニメーション『彼女と彼女の猫』で第12回「CGアニメコンテスト」のグランプリを受賞し、同じくほぼすべての制作工程を自分一人でこなした『ほしのこえ』(2002)で一躍脚光を浴びた。『雲のむこう、約束の場所』(2004)からは集団制作による商業アニメーションに移行するが、多くの新海作品の製作を務める川口典孝が土居伸彰との対談で語ったように、新海の作家としての本質はあくまで「個人制作[17]」にある。どれだけ予算規模が拡大しても、映画制作の最初の作業(脚本)と最後の作業(編集)を手放さないことで、独自の作風を維持し続けているのだ。
第二に、風景論への関心がある。多くの論者が新海作品の特徴として「風景」描写を挙げてきたし[18]、作家自身もそれに自覚的である。彼は大学の講義で柄谷行人の『日本近代文学の起源』(講談社、1980年)を読み、「風景」が近代以降に生まれた概念であること、さらにはそれが個人の「内面」と密接に結びついていることを知って衝撃を受けたという[19]。柄谷によれば、外的なものから疎外された自己の「内面」という概念が現れたことで、初めて「風景」という概念が成立した[20]。例えば国木田独歩『忘れえぬ人々』(1898)に登場する無名の文学者・大津は、忘れてしまって構わないはずなのに、なぜか忘れられない印象を残す人びとについて語る。大津にとっては、旅人宿でその話を熱心に聞いてくれた秋山という男よりも、遠い島かげにいた漁師の姿や、さして深い関わりのなかった宿の主人のほうが強く印象に残っている。この時、大津は人を「人」として見るのではなく、「風景」として見ているのだと柄谷は言う。風景とはその実、自己の内面を外部に投影したものであり、現実の世界そのものにはむしろ無関心な人間によって見出されるという根本的な倒錯が生じているのだ。新海はこの考察を知って「世界が引っくり返されるような感覚」を抱き、そのことが、自作に「人の内面と風景を重ねる手法」を導入するきっかけになったと語っている。
第三に、セカイ系的な物語構造がある。新海は自主制作というミニマルな制作体制と同期させるように、個人の内面や感情の微細な揺れを描き出すことに心血を注いできた。またそうした極私的な物語は、しばしば人類存亡の危機(『ほしのこえ』『雲のむこう、約束の場所』)や都市の消滅(『君の名は。』『天気の子』)といった巨大なスケールの出来事と結びつく。若い男女(ボクとキミ)の内面や恋愛関係が世界の危機と直結する物語構造によって、新海はしばしばセカイ系を代表する作家と位置づけられてきた。『すずめの戸締まり』でも、東日本大震災によって命を落とした母の記憶を辿る鈴芽の個人的な喪の旅と、巨大な厄災を防ぐ使命を背負って各地の後ろ戸を探す旅が、互いに連動したものとして描かれている。
付言しておけば、セカイ系の起源と言われる『新世紀エヴァンゲリオン』(1995-1996)の放送と同年の1995年8月、原將人は初の商業映画監督作である『20世紀ノスタルジア』の撮影を始めていた(劇場公開は1997年7月)。高校生の男女がビデオカメラで互いを撮影し合いながら、間もなく訪れるであろう地球の滅亡を語る同作は、渡邉大輔も指摘するように『新世紀エヴァンゲリオン』の裏に隠れたもう一つのセカイ系の起源である[21]。また同時に、原が1968年のデビュー作『おかしさに彩られた悲しみのバラード』から一貫してセカイ系的な想像力を備えた映画作家であることを、遡行的に気づかせてくれるフィルムでもあった。

新海誠『すずめの戸締まり』(2022)──国民的作家の巡幸
自主制作、風景、セカイ系──そして第四の共通項として、「天皇」という概念が浮上する。
『すずめの戸締まり』における鈴芽と草太の旅は、神武天皇(初国知所之天皇)の東征神話や昭和天皇の敗戦後の巡幸をなぞったものではないかとの指摘は、すでに繰り返し為されてきた。実際、考察の手がかりには事欠かない。「鈴芽」という名は、日本神話において芸能や鎮魂の神とされるアメノウズメノミコト(天鈿女命)に由来しており[22]、草太は神格を持つ子猫ダイジンによって八咫烏(やたがらす)を思わせる三本足の椅子に姿を変えられてしまう。二人は宮崎県日南市を出発して東へ進み、大分、愛媛、兵庫、東京を訪れた後、最終的な目的地である東北、宮城・岩手へと至る。行く先々で出会う人びとの暮らしに触れ、荒廃した地方や災害被災地の現状を見つめながら、要石による地鎮と死者たちの慰霊の旅を続ける。それは『初国知所之天皇』と同様に、日本という国家成立の起源を辿る旅であり、映画の主人公である鈴芽の起源(個人史)を辿る旅であり、さらには作者である新海誠自身の起源を辿る旅でもあるだろう。

映画『すずめの戸締まり』予告編

『君の名は。』が興行収入250億円を超える社会現象的な大ヒット作となり、続く『天気の子』も140億円を超える興行収入を記録したことで、新海の立ち位置はコアなファン層に支えられた知る人ぞ知るアニメーション作家から、宮崎駿や庵野秀明、細田守らと並び誰もがその名を知る「国民的作家」へと変化した。作品のみならず作家自身の発言や思想にも関心が集まり、無数の毀誉褒貶に晒されたが、とりわけ重要な争点となったのは現実に起きた大災害に対する態度である。新海は『君の名は。』で、彗星の衝突による一つの町(糸守町)の消失を東日本大震災に重ね合わせた上、高校生男女の時空を超えた交流によって歴史を改変し、死者の復活が果たされる物語を描いた。それを「希望」や「癒し」として受け取る観客も多かったが、他方では、現実の死を軽く扱っている、娯楽として消費しているとの批判も少なからず寄せられた。『君の名は。』以降の監督作には、こうした声に対する新海なりの応答がある。『天気の子』では気候変動や若年層の貧困など不可逆的な社会の変化を真っ向から描き、『すずめの戸締まり』では東日本大震災を直接的な題材として、決して戻らぬ死者たちの追悼と残された者たちの喪の作業を描くというように、ただ娯楽大作を全国に届けるだけではなく、国民的作家としての立場を自ら引き受けようとする生真面目な意志が感じられる。
また、だからこそ新海の次の動向を注視してきた観客や批評家たちは、『すずめの戸締まり』で明確に「天皇」という概念が打ち出されたことに衝撃を受けた。『君の名は。』の反響を通じて自分の作るアニメーションには「誰かを変える力」があることに気づき、それならば「なるべく美しいこと、正しいことに使いたい」と語る新海が、東日本大震災によって傷ついた場所を悼み、その土地に生きる人びとの喪の作業の手助けになるようなロードムービーを構想する。国民的作家としての影響力を自覚した人物が、その力を行使するために参照するのが「東征」や「巡幸」であるというのは、素朴に解釈するなら、自分自身を天皇と重ね合わせているも同然ではないか。新海もまた原將人と同様に──ただし、やや違った経路を通じて──自己と天皇との一体化を夢想するのだ。

これが危うい挑戦であることは間違いない。例えば批評家の杉田俊介は、大災害によるトラウマや地方の荒廃、天皇制とジェンダーなど日本社会が抱える問題に真正面から取り組み、アニメーションという文化の力を用いて人びとに希望を与えようとする新海の志に対して「率直に凄みを感じた」と述べる一方で、そこで具体的に描かれる「日本」のかたちについては、さらなる議論があって然るべきだと主張する[23]。『すずめの戸締まり』における「日本」には、東日本大震災の物理的・心理的痛みはあっても、福島第一原子力発電所事故がもたらした土地の汚染や分断はなく、また地方の貧困や荒廃への哀しみはあっても、地域間の格差や排外主義の問題はない。新海は共通体験としての「災害」、そして象徴としての「天皇」を媒介として同質的な「日本」および「日本人」像を構築していくが、その過程で、同じ土地や周辺の土地に暮らす他者の異質性は消去され、はじめから存在しないものと見做される。しかし実際には、人種・民族・国籍・ジェンダー・障害・社会階層・居住地域、その他様々な差異を備えた人びとが、その土地に生きているはずであろう。杉田は国民的作家としての責任を果たそうとする新海の覚悟を評価するからこそ、狭義の「日本」や「国民」の枠をも超えて、「日本列島の混血性と雑種性をも深く受け止めてくれ」と訴えかける。
あるいは批評家・まんが原作者の大塚英志は、新海が「天皇」を参照する手つきの「直裁さ」や「真面目さ」、「本気さ」に困惑を覚えたと語り、そのような態度が劣化したナショナリズムや自主参加型のファシズムへと転化する危険性について率直な危惧を表明している[24]。『すずめの戸締まり』は、セカイというそれ自体フラットな表層の下に、要石によって封じられた地下世界という神話的な「古層」が存在するという二層構造を備えており、大塚はそれを「古層の実装」という言葉で表現する。ただし、「古層の実装」は新海独自の表現というわけではない。神話学者ジョーゼフ・キャンベルが見出した物語類型「英雄の旅ヒーローズ・ジャーニー」がハリウッド脚本術に組み込まれて以来、映画やアニメに神話的な物語構造が導入されることは定番の手法になっているし、日本のサブカルチャーにおいて「後ろ戸」や「要石」といったモチーフがギミック的に導入されるのも、とりたてて珍しいことではない。ここで問題とすべきは、新海が神話やサブカルチャーの雑多な借用を至って「真面目」に行い、偽史的・陰謀論的なものを「本気」で信じているかのように振る舞う点にある[25]。それはかつてオウム真理教が「サブカル宗教」として現れて一世を風靡し、現実と虚構を混ぜ合わせてその思想をかたち作っていったプロセスを、あまりにも無批判に反復しているように見える。

縮小する世界、巨大化する主体
事態が厄介なのは、これを歴史に対する無知や不勉強として一蹴したり、虚構に惑わされず現実を見据えるよう促しさえすれば、それで万事解決というわけにはいかないことだ。現実と虚構の境目が見えなくなった後の世代に属する新海からすれば、アニメーションやサブカルチャーの記憶を一切抜きにして己の起源を解き明かすことなど、到底不可能であった。すでに方々で指摘されている通り、『すずめの戸締まり』には、宮崎駿や高畑勲らが手がけたジブリ映画のオマージュと思しき表現や、新海自身の過去作への自己言及的な表現が多数見受けられる。同じく映画史の参照やオマージュに満ちた『初国知所之天皇』が、映画を撮るために映画を撮るというトートロジカルな試みの果てに完成したフィルムであったのと同様に、『すずめの戸締まり』にも、アニメーションを作るためにアニメーションを作るという側面が確かにある。個人作家の「天皇」への同一化だけでなく、「アニメーション」への同一化という事態も同時進行しているのである。
『すずめの戸締まり』公開後のインタビューで、新海は10代の頃にジブリを初めとするアニメーションを見て救われた経験を明かすと共に、自分自身も現在を生きる子どもたちに向けて、周囲の世界を理解する助けとなるような作品を作りたいと語っている[26]。彼は国民的作家である以前に、アニメーションを通じて己の世界観を形成してきた一人の「オタク」としてのアイデンティティーを強く持っていた。オタクのまま大人になり、またその文化を担う代表的作家と目されるようになったのを機に──かつて知識人が、いかにして社会参加できるかを問うたのを反復するように──オタクはいかにしてオタクであり続けながら公共的に生きられるかを模索してきた。
このような問題意識が原將人や庵野秀明によって先取りされていたことは、すでに確認してきた通りである。生まれた時から無数の虚構に囲まれて育った作家たちは、帰るべき「現実」などどこにもなく、この世界を正しく説明できる「理論」も存在しないという諦念を内面化している。しかし、それでもなお自らの生きる世界を表現しようとするならば、映画やアニメーションなど幼少期から慣れ親しんできた虚構の断片を寄せ集めることによって「世界像」を──それはあくまで世界そのものではなく、書き割りのパノラマでしかないと知りながら──構築し、また「方法としてのフェティシズム」を介して、仮構された世界(世界像)と自己との再統合を図るしかない。虚構から作り上げた「現実」という新たな虚構と一体化することで、現実と虚構の区別自体が無効化した新たな現実を生きること。こうした切実かつ倒錯した試みの過程で、半ば必然的に生まれてくるのが「天皇」という新たな主体である。ハイデガーが論じたように、世界像の構築とは、世界を対象化することで所有・管理・操作可能なものとして扱うことを意味する。別の言い方をすれば、それは世界を自己のスケールにまで縮小することであり、また逆に、自己を世界のスケールにまで拡大することでもある。世界との再統合・世界像との一体化を夢想する内面は際限なく肥大化して、自身を神の如き存在と錯覚するようになり、ついには人性と神性を併せ持つ現人神あらひとがみとしての「天皇」を名乗ることになるだろう。だがそれは、自己の認識しないものは端的に存在しないとする独我論に陥るリスク(杉田俊介による批判)や、偽史的・陰謀論的な想像力に染まり、劣化したナショナリズムに陥るリスク(大塚英志による批判)を内包せざるを得ない、危うい主体の構築プロセスでもあった。

世界像から場所へ──メディア考古学的アプローチとしてのライブ上映
では、どうすればこの陥穽から抜け出せるだろうか。最後にあらためて『初国知所之天皇』を取り上げて、同作のポテンシャルを別の可能性に開くための手がかりを探りたい。
先に述べた通り、原將人には主客二元論批判の意図があり、『初国知所之天皇』にも主体(見るもの)と客体(見られるもの)の関係を撹乱するための仕掛けが至るところに施されている。その際たるものが、原の奇妙な自己分裂・自己増殖だろう。一見、作家自身がカメラを構えた主観的な旅の記録のようでありながら、原はしばしばカメラを手放し、三脚に乗せたり、地べたに置いたり、近くの誰かに手渡したりして、撮影者の地位をあっけらかんと譲渡してしまう。結果、画面上には繰り返し原の姿が客体として映し出され、風景を見る主体としての原との分裂が生じる。また映像に付随した原自身の「語り」の音声も、本来なら風景を見る主体の内面の表出として捉えられそうなものだが、原は過去に書いた日記や映画論、作品の制作ノートからの引用などを織り交ぜることで、時系列的にも自己分裂を生じさせている。さらにその「語り」は、書き言葉特有の硬い分体や、あえて感情を込めない訥々とした発話により[27]、意味内容よりも音や朗読原稿自体の形式やモノ性に意識が向かうように設計されている。

マルチチャンネルで映し出される原將人の姿
原將人『初国知所之天皇』マルチ・デジタルリマスター版(1973)より

加えて『初国知所之天皇』を語る上で重要なのは、「ライブ上映」と呼ばれる特異な上映形式である。原は当初から、編集したフィルムを自ら映写しながら随時速度を調整し、録音した音声と即興的に同期させる上映活動を行っていた。この形式は次第に発展し、フィルムを2〜3巻に分けてマルチチャンネル上映を行ったり、弁士のようにその場で「語り」を入れたり、自作曲の生演奏や歌唱を組み込むなど、様々な要素が加えられていく。原はその後も『MI・TA・RI!』(2002)や『マテリアル&メモリーズ』(2009)などライブ上映を前提とした作品を発表し、初期映画の多様な上映形態や、佐藤朋子のレクチャー・パフォーマンスなども彷彿とさせる豊かなスクリーン・プラクティスを展開するのだが、本稿の文脈から重要なのは、ライブ上映の導入によって作品の自己分裂性・自己増殖性がますます強化される点である。日記や制作ノートの執筆時および撮影時の原將人について、編集時の原將人が語ったかと思えば、編集時の原將人をライブ上映時の原將人がまた語るという自己言及のフィードバックループによって、主客二元論的な枠組みが解体され、まさに映画を撮るために映画を撮るというトートロジカルな「映画一元論[28]」が実現するのだ。

原將人・MAORI『MI・TA・RI!』ライブ上映の様子
(2016年10月15日、鳥取大学サテライトキャンパスSAKAE401にて)

しかしそれは、無限に増殖する自己だけを確かな実在と見做し、他者の介在を許さない独我論的な世界ではないだろうか。かつてロザリンド・クラウスがビデオというメディウムの特性を映像と音声の閉回路クローズド・サーキット構造に見出し、「ナルシシズムの美学[29]」と呼んで批判的に論じたように、映画や天皇、さらには世界との同一化を果たしたのだという原の「語り」は、結局のところ、誇大なナルシシズムの発露に過ぎないのだろうか。
こうしたリスクが皆無であるとは言わないが、別の解釈も可能である。ある時には風景を見つめる主体として振る舞い、またある時には見られる客体として風景の一部となり、さらに別の時にはかつて見た映画の主人公──例えば『イージー・ライダー』のキャプテン・アメリカ──に同一化したり、父親の中国行軍や神武天皇の東征に映画制作の旅を重ね合わせたりと、複数の自己の異質な現れを雑多にモンタージュすることで成立する『初国知所之天皇』は、一元論というよりもむしろ多元論的な構造を備えていると見ることもできる。中平卓馬が《サーキュレーション──日付、場所、行為》(1971)において、無数の写真を壁面や床面に貼り付けることで多元的・多視点的なインスタレーションを展開したように、原は無限に分裂・増殖し続ける己の姿を示すことで、「自己」という枠組み自体が固定的・安定的なものではなく、時や場の変化、さらには社会や国家の変化と連動して移ろい続ける、可塑的で複数的なものであることを体現してみせたのではないか。
だとすれば、原が語る「天皇」も、自意識が肥大化した巨大な主体ではなく、むしろ──皇室を「無の有」「全体的一と個物的多との矛盾的自己同一[30]」として論じた西田幾多郎に倣って──主体や国家などあらゆるものが生成される源泉であると共に、それらが成立する条件としてある「場所」のようなものと解釈すべきだろう。ハイデガー的な世界像が、自己と世界を同一スケールに揃えて対峙する関係を作り出すものであるのに対して、西田的な場所は、世界(場所)に於いてある自己というかたちで、両者の不均等なスケール関係を記述する。例えば、無数の言語体系がある中で私は日本語文化圏に於いてあり、数々の都市や居住地域がある中で私は鳥取市に於いてあり……というように、ひたすら自己限定を繰り返すことで「この私」の存在が浮かび上がってくる。世界と不可分に結びつきつつも、その中での自らのちっぽけさ(限定性)を感じられる点で、西田的な場所の論理は独我論への有効な抵抗策となり得るのではないか。
またこの「場所」を、ミシェル・フーコーが「知の考古学」および「系譜学」の実践を通じて浮かび上がらせようとしてきたものの別名として捉え直すこともできるだろう。知の考古学とは、ある時と場における人びとの思考や行動を規定し、その成立条件となるような「知の枠組みエピステーメー」を明らかにする試みであり、系譜学とは、そうした知の枠組みがいかなる文化的・社会的・政治的な権力闘争の果てに「真理」の座や支配的制度の座を得たのかを明らかにする試みである。原もまた、映画制作を通じてフーコー的な考古学・系譜学を実践し、己の闘いの「起源」を──すなわち、この私の生を規定し、その成立を裏支えしている条件を──探ろうとした。ただし先にも述べたように、ここで想定される「起源」とは、本質主義的で固定的な概念ではなく、構築主義的・関係的な概念であり、常にかたちを変えたり、組み替えられたりする可能性に開かれている。
こうした流動的な概念を、流動的なままに探求するために、ライブ上映は最適な上映形式であった。原は以前、あるトークイベントで筆者からの質問に答えて、ライブ上映では完成済の映画に歌や「語り」を後付けしているのではなく、その都度、新たな映画を編集している気持ちで上映を行っているのだと述べている[31]。過去に書きつけた言葉や撮影した映像、影響を受けた映画や土地にまつわる神話など、寄せ集められた無数の断片は、上映のたびに原の身体を通じて再解釈され、編集され、別のかたちへと組織されていく。個々の断片自体は過去の遺物であっても、それらをリアルタイムでつなぎ合わせて作られた映画には、原が生きる現在の条件が確かに反映されている。フィルムの物理的な操作によって更新され続ける「起源」の映画。『初国知所之天皇』は、本連載が構想しようとする「メディア考古学的アプローチ」の手がかりとなる、先駆的なスクリーン・プラクティスである。


[1]「大衆の原像」については、吉本隆明『自立の思想的拠点』(徳間書店、1966年)を参照。
[2]松田政男「風景としての性──若松孝二と密室のユートピア」『朝日ジャーナル』1969年12月号、p. 16
[3]原正孝「世界−内−存在の風景論的眺望」『映画批評』1970年10月号、新泉社、p. 48
[4]マルティン・ハイデガー「世界像の時代」『技術への問い』中山元訳、日経BPクラシックス、2025年、pp.167–213。なお原の主客二元論批判は、ハイデガーの存在論および廣松渉『世界の共同主観的存在構造』(岩波文庫、2017年)を踏まえたものと思われる。
[5]ブリュノ・ラトゥール『社会的なものを組み直す──アクターネットワーク理論入門』伊藤嘉高訳、法政大学出版局、2019年、pp. 352–366
[6]原正孝「世界‐内‐存在の風景論的眺望」前掲、p. 49
[7]同前、p. 49
[8]同前、p. 56
[9]原将人『見たい映画のことだけを』有文社、1977年、p. 67
[10]原正孝『初国知所之天皇──映画+小説』新泉社、1974年、pp. 7–9
[11]原将人「PART1からPART4まで──私の風景へのアプローチ」『写真装置4』写真装置社、1982年、p. 100
[12]風景化のプロセスについては、加藤典洋「「風景」以後」『現代思想』1992年9月号を参照。
[13]筆者は以前、場所の体験を対象化することによって得られる映像を〈風景映画〉、対象化を行わない撮影によって得られる映像を〈場所映画〉と定義し、後者を活用した映画制作の可能性について論じた。佐々木友輔「風景映画から場所映画へ」(『土瀝青——場所が揺らす映画』佐々木友輔・木村裕之編、トポフィル、2014年)を参照。
[14]原正孝『初国知所之天皇』前掲、p. 140
[15]原將人と新海誠を比較する今回の論考は、佐々木友輔「風景論以後の風景論を構想する──原將人『初国知所之天皇』と新海誠『すずめの戸締まり』の比較を手がかりとして」(『ビンダー vol.8』cucuruss、2023年、pp. 209–217)および「風景論映画のスクリーン・プラクティス──『初国知所之天皇』と『略称・連続射殺魔』の比較分析」(『DNP文化振興財団 学術研究助成紀要』第6号、公益財団法人DNP文化振興財団、2024年12月7日、pp. 42–51)を土台として、その内容をさらに発展させたものである。
[16]渡邉大輔「新海誠と「国民の物語」──『すずめの戸締まり』と70年代」note、2022年12月12日、https://note.com/bungakukai/n/nb94d3cc3e477
[17]土居伸彰『新海誠──国民的アニメ作家の誕生』集英社新書、2022年、p. 48
[18]例えば加藤幹郎「風景の実存──新海誠アニメーション映画におけるクラウドスケイプ」(『アニメーションの映画学』臨川書店、2009年)および『ユリイカ』2016年9月号(特集:新海誠)所収のトーマス・ラマール、渡邉大輔、河野聡子、中田健太郎、畠山宗明、荒川徹らの各論文を参照。
[19]『電子特別版 ダ・ヴィンチ特集 新海誠の“言葉”』KADOKAWA、2016年
[20]柄谷行人『日本近代文学の起源』講談社、1980年、p. 24
[21]渡邉大輔『セカイ系入門』星海社新書、2025年、pp. 230–233
[22]新海誠ロングインタビュー「観客の何かを変えてしまう力が映画にあるのなら、美しいことや正しいことにその力を使いたい」『新海誠本』(映画『すずめの戸締り』劇場配布特典)、東宝株式会社・STORY inc.、2022年、p. 6
[23]杉田俊介「新海誠が『すずめの戸締まり』で描きたかったものは何か?」imidas、2022年12月1日、https://imidas.jp/jijikaitai/l-40-299-22-12-g823/3
[24]大塚英志『二層文学論──古層の実装』TOBIO BOOKS、2024年、pp. 10–32
[25]佐々木友輔「スーパーマンの実在を信じる男」(『人間から遠く離れて──ザック・スナイダーと21世紀映画の旅』(佐々木友輔・noirse共著、トポフィル、2017年)では、新海と同様に神話的な物語構造を単なる脚本術を超えた価値を持つものとして扱う映画作家として、『エンジェル ウォーズ』(2011)や『マン・オブ・スティール』(2013)などの監督作で知られるザック・スナイダーを論じた。
[26]Crystal Bell, With “Suzume,” Anime Director Makoto Shinkai Heals Old Wounds. April 14, 2023, https://www.teenvogue.com/story/suzume-director-makoto-shinkai-on-living-side-by-side-with-disaster-interview
[27]筆者は2023年2月18日に原への聞き取り調査を行い、この印象的な発話がいかにして録音されたのかを確認した。原は3ヘッド方式の録音機を用いて、あえて収録中の音声を大音量でモニタリングしながら録音を行ったという。この録音機は録音ヘッドと再生ヘッドの位置がずれており、録音中の音声が僅かに遅れて聴こえてくる。その結果、あたかも「目をつぶって歩く」ように、テキストを読み上げる足取りはおぼつかなくなり、方向感覚を失っていく。原はそうした状態を意図的に作り出すことで、感情のこもらない独特の「語り」を生み出した。
[28]2023年2月18日に実施した原への聞き取り調査より。
[29]ロザリンド・クラウス「ヴィデオ──ナルシシズムの美学」(石岡良治訳、展覧会カタログ『ヴィデオを待ちながら──映像,60年代から今日へ』東京国立近代美術館、2009年)を参照。
[30]西田幾多郎「日本文化の問題」『西田幾多郎全集 第12巻』所収、岩波書店、1950年、pp. 335–336
[31]原將人×MAORI×比嘉賢多 トーク採録「光と音で呼吸する」(収録2016年10月15日)、風景/映画再考、2017年2月26日、https://qspds996.com/landscapefilm/?p=46