京都を拠点に活動する美術作家・批評家の池田剛介さんによる、20世紀の絵画の「描線(ドローイング)」をテーマにした連載です。作品に描かれた「動き」や「身振り」としての線に注目することで、「これまで見えていなかった作品の姿」を明らかにします。連載の最終回となる今回は、これまで取り組んできた分析的な見方を、それぞれの鑑賞者が実践するためのコツを提案します。
本連載では、絵画を具体的かつ分析的に見ることに取り組んできました。その視点は主に二つに分けられます。一つには、長年にわたるアーティストの制作の「展開や変化」、もう一つには個別の作品の「制作プロセス」。作品をめぐるこれら二つの時間性を念頭に置きながら、静止し、固定化しているように見える絵画に宿る動的な側面に光を当てています。
最終回となる今回は、これまで個別の作品を具体例として取り組んできた分析的な見方を、それぞれに実践していただくためのコツのようなものを提案できればと思います。
解説を読むこと、写真を撮ること
展覧会を見に行くとき、私たちはそこにあるものをなんとかして「理解」しなければならないと身構えがちではないでしょうか。
それなりに人の入っている展覧会で、展示の入口あたりが多くの人で渋滞していることがよくあります。せっかく展覧会に来たのだから全てをつぶさに見なければ、という日本人に特有の生真面目さの表れで、展示概要や章立てのパネルを読み込もうとする。とはいえ私たちはあらゆるものに注意を向け続けることはできず、展示の中盤ごろにはすでに疲れてしまう、ということになりがちです(そのあたりでは会場が空いてきたりします)。多くの場合、展覧会の目玉となる作品は終盤にやってきますが、その時点ですでに疲れ切っている……そんな経験はないでしょうか。
とかく私たちは作品について頭で理解しなければならないと考えがちで、しばしば展覧会の章立ての文章や各作品を紹介するキャプションを、作品をそっちのけで延々と読んでしまう。この連載で取り組んできたのは、こうして性急に「正解」を求めるのとは異なる仕方で、作品それ自体を見ることを取り戻すための、いわば実演です。
こうした問題は、実は私にとって他人事ではありません。私自身、特に学生の頃はそれなりに生真面目だったこともあり、見るもの全てが言葉で理解できないと気が済まないようなところがありました。学生で時間が有り余っていたということもありますが、当時はそれが高じて、こんなことをしていました。まず気になる展覧会の会場に行き、展覧会には入らずミュージアムショップで図録だけ買って帰り、作品解説から論文まで熟読した上で展覧会を見に行く。そうすると作品の前で路頭に迷うことを避けられるわけです。
これの何がいちばんの問題かというと、作品の前ですでに分かったつもりになっており、実物を見ることが結局知っていることの「答え合わせ」作業になってしまうことです。安心はできるかもしれませんが、しかしそれでは作品を見たことにはならない。
私自身の学生時代の振る舞いは、かなり極端なものですが、しかし今では多くの人にも似たような経験があるのではないでしょうか。というのもSNSを通じて、しばしば話題の展覧会の画像が流れてくるからです。私たちはあらかじめ見栄えのする写真に繰り返し曝されており、展覧会を見ることは、それと似たような角度から似たような写真を撮ることに限りなく近づいていってしまう。見ることが、既知のものを確認してSNSにアップする作業になりかねないのが現状ではないでしょうか。
展覧会の経験が、一方では解説を読むことに、もう一方では写真を撮ることに還元されてしまう。その狭間で、作品それ自体を見ることが抜け落ちてしまうわけです。こうした状況において、「正解」や「映え」に駆り立てられるのではない、具体的に作品を見ることを取り戻すことが、本連載の狙いでした。
アテンションの時代
私たちは日々、インターネットのプラットフォームによって与えられる注意に、がんじがらめになっています。一度スマートフォンを開けば、尽きることなく語られるべき話題が投下され、広告がポップアップし、自身の関心に基づく情報が流れ出てくる。その流動性から距離を置くこともままならない状況にあると言えるでしょう。
注意と近代化との関わりをめぐる研究で知られる美術史家のジョナサン・クレーリーは、私たちを取り巻く現代の情報環境について、サイトの閲覧数に「アイボール=眼球」という語が用いられることを念頭に、次のように指摘します。グーグルをはじめとする巨大テック企業は、利用者の関心に狙いを定める能力を精緻化しながら、私たちの注意を24時間絶え間なく、眼球運動のレベルで巻き込んでいる、と[1]。
近年のAIの発展によって、ますます眼球レベルでユーザーを管理する精度を高めていく情報環境に対して、本連載で検討してきたような絵画を見るとき、見るべきところがポップアップしてきたり、パーソナライズされた情報が繰り出されてきたりするわけではありません。絵画は絵画として自足していて、もしかすると見る者に対して閉じられ、切り離されているように感じられるかもしれません。しかし同時にそれはチャンスでもある。というのも作品がそれとして自足して存在するということは、見る側もまた自由に、様々な角度から作品を鑑賞できることにも通じているからです。
美学者のベンス・ナナイは、じっくりと絵画を見ることがそうであるように、ある対象に様々な角度から感覚を向けることを「オープンエンドな注意(open-ended attention)」とよび、あるものの見方が方向づけられた「固定された注意(fixated attention)」と区別しています[2]。学生時代の私のように、図録を読み込んでから作品を見ることは、まさに何らかの固定された注意として作品を見ることに他なりません。
例えばSNSに絶え間なく投下されるショート動画は、今の情報環境の流動性を示す際たる例ですが、ナナイの区分を念頭におけば、こうした短い動画に注意を向けるとき、私たちは見るべき対象の決まった「固定された注意」を飛び石のように渡り続けることになる。その結果として、AIのレコメンデーションに基づく、似たような画像や動画がSNSのフィードに溢れることになるのは、お馴染みの光景です。こうした状況のなかで、写真を撮ることに駆り立てられるのでもなく、しかしキャプションを読みふけるのでもない仕方で、目の前の作品に感覚を注ぐことは容易なことではないでしょう。
展覧会を散歩する
ではどうすれば作品を見ることができるのか、その方法を提案してみます。私たちは展覧会を入口から出口まで順路の決まった一本道であると考えがちですが、基本的に会場は自由に行ったり来たりしてよく、こうして複数回にわたって作品と出会い直すことが、作品を感覚する上での重要な鍵となります。
入口にはたいてい展覧会の挨拶や概要などの大きなパネルがあります。あれは一旦飛ばしてしまいましょう。疲れるし、体が緊張してしまいます。
いきなりじっくり作品を見ようとせず、展示の空気を体に馴染ませるように、作品を眺めながら一度ゆっくりと会場全体を歩いてみてください。初めは少し勇気がいるかもしれませんが、監視の人に声をかけられたりすることはありません。そうしてフロア全体を歩き終えたら、また入口のあたりに戻ってきましょう。
こうして全体的に眺めてみると、展覧会がどのように構成されているか、展示作品がどのような傾向をもっているかといった大枠が見えてきます。これは本を読む前に、目次を見たり、パラパラとめくったりして、どのようなことが書いてあるのかを大掴みすることに似ています。いきなり気合いを入れて初めから一字一句読み込もうとしても、挫折してしまうのは目に見えています。
展覧会の構成や、作品の傾向を大掴みした上で、気になる作品を一つずつ見ていく。すでに一度眺めたことのある作品ですので、全くの初対面ではありません。力を抜いて、様々な角度から観察してみてください。
例えば印象派の絵画を想定してみますが、距離をおいて見たときには、全体的に色鮮やかに感じられるはずです。そこから近づいてみると、また作品は別の姿を見せる。明るい印象とは裏腹に、絵具は意外と荒々しくキャンバスに置かれている。波打つような表面は呼吸するかのするようでもあり、丁寧に塗り込められた重厚な「油絵」とは異なる印象を与えるでしょう。
さらに影の部分に注意すると、実は黒ではなく青や紫といった色が、鮮やかに使われていることが分かってくる。明るい部分に目を向けると、引いて見た時には白っぽく見えた明るい色が、複数の色斑を並べるようにして置かれているのが見えてくる。そこから、また距離をおいて目を向けると、漠然と色鮮やかに見えていた作品が、細かな筆触によって編み上げられたリズムとして感じられるのではないでしょうか。
こうして近づいたり離れたりしながら作品を見るとき、ある意味で鑑賞者は絵画とダンスをしているとも言えるでしょう。絵画と鑑賞者は決して一体化するわけではなく、にもかかわらず、一つの感覚的な経験が立ち上がる。そのとき鑑賞者は、単に客観的に作品を理解するだけではない、作品とともに見ることの経験を構成する、その重要な一要素となるのです。
並んでいる全ての作品に対して、こうしたことができるわけではありません。一つの展覧会のなかで、それが可能なのは、おそらく多くても数点程度でしょう。数多くの作品が並ぶなかで、あまりにも少なく感じられるかもしれませんが、それでいいんです。人が深い印象として持ち帰ることのできる一日の限界は、その程度ではないかと思います。
いくつかの距離や角度から作品を見ることができれば、作品に添えられている説明文は、決して見ることを妨げるものにはなりません。むしろ、そこから新たな発見を与えてくれるヒントになるはずです。そうして得た情報を足がかりにしながら、再び作品のなかに入っていく。見ることに終わりはありません。重要なのは見ることが先にあり、読むことはそれをサポートするためのものであって、その逆ではないという点です。
こうして会場のあちこちを行き来しながら、個別の作品との距離を探っていく場として展覧会を捉えるとき、あらかじめ与えられた「順路」は、さほど意味を為さなくなります。展示会場は、そこかしこに小径があり、思いがけないところへと通じる散策路のようになる。本連載の序文では、複雑な経路がありながら正解の決まった「迷路」としてではなく、複数の道に開かれながら決して終わることのない「迷宮」として作品を捉えましたが、作品の並んだ会場もまた、そうした迷宮であり、複数の道に開かれた散策路とイメージすることができるのではないでしょうか。
ここで書いたような鑑賞方法は、「それを守らなければならない」というものではなく、鑑賞に使える時間や展覧会のフロア構成その他によって、柔軟に調整すべきものです。重要なのは、決まった方法を守るということでなく、いかに力を抜いて作品に多様な注意を走らせることができるか、ということです。
こうした方法が可能になる、鑑賞の上でもう一つ重要なポイントがあります。それは「混んでいない展示」に行くことです。
私たちの多くが、どこか展覧会とは混雑しているものであり、混んでいる展示こそが見る価値のあるものだと考えていないでしょうか。それなりの数の展覧会を見てきた者として、あえて断言すると、混み合っている展覧会は見ることのできるものではない。あるいは、こう言い換えてもいいでしょう。たとえ見る価値のある展示だったとしても、混んでいることによって、見ることは極端に難しいものになってしまうと。
先に述べたような鑑賞方法は、空間的に余裕があるからこそ可能になるものです。満員電車のような会場で、人の流れと無関係に会場を行き来したりすることは現実的ではないですし、作品と自由な距離をとることも不可能となります。実は極端に注目を集めている一部の展覧会を除けば、大半の会場はそこまで混雑したものではありません。
先に指摘した現代の情報環境の問題とも通じていますが、これはSNSで注目を集めている情報が、さらに注目を集めてしまうという「勝者総取り」的な状況と関わっているでしょう。こうしたインターネットの力学から少し距離を置いて、あえて話題のものは避けて別の選択肢を探すことも重要です。
先に触れた、「注意」をめぐる詳細な系譜を描き出した著作のなかでクレーリーは「宙吊りにされた注意(suspended attention)」という言葉に言及しています[3]。これはフロイトが、精神分析の際に患者から話を聞く上での原則の一つとして記したものです。分析家が患者に耳を傾ける際に重要なのは、何か特定の話題に集中することではない。というのも、そのような姿勢ではサーチライトでごく狭い範囲を照らすかのように、聞きたいことだけを聞くことになってしまうからです。
「宙吊りにされた注意」とは、何かに注意を向けることと、にもかかわらず開かれた姿勢でいることという、矛盾した状態を考える上で示唆的で、これは私の考える展覧会の見方とも通じるものです。先ほど、展示会場を散策するように見ることを提案しました。ナナイによる「オープンエンドな注意」やクレーリーの議論を念頭におきながら、私自身の感覚に即して、それを散歩的注意(wandering attention)と呼んでみたいと思います。
散歩をするとき、明確な始まりと終わりがあるわけではありません。あえて言えば、歩くことから移動という目的が抜け落ちるときに、歩くことは散歩へと変化している。さして目的もなく歩くとき、私たちは単に無心で歩いているわけではなく、そこにある様々なものに気まぐれな注意を向けます。風をうけて揺れる木々の動きや葉叢からこぼれ落ちる粒状の光、飼い主のリードを引っ張るように歩く犬や、不意に現れて横切る猫。歩くことでその都度に変化する景色に触発されながら、感覚が多方向に開かれていく──こうした時間がスマートフォンに縛られたそれとは異なるものであることは、誰もが経験しているのではないでしょうか。
展覧会を歩き回りながら、ふと気になる作品に立ち止まる。近づいたり離れたりしながら、作品との距離を探り、また次の展示室へと歩いていく。あらかじめ見知っていることを確認するのではない、彷徨いながら感覚し、感覚しながら彷徨うこと。一方向の流れに沿うのでもなければ、静止して凝視し続けるでもない、動くことと静止すること、歩くことと立ち止まることとが絡み合う、そうした運動と一時停止との織りなす散歩的な時間のただなかで、私たちは作品と遭遇することになるでしょう。
【注】
[1] ジョナサン・クレーリー『24/7 眠らない社会』岡田温司監訳、石谷治寛訳、2015年、NTT出版、97–98頁。
[2] ベンス・ナナイ『美学入門』武田宙也訳、人文書院、2025年、45–77頁。
[3] ジョナサン・クレーリー『知覚の宙吊り 注意、スペクタクル、近代文化』岡田温司 監訳、石谷治寛、大木美智子、橋本梓訳、平凡社ライブラリー、2025年、415–428頁。
