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2026.09.03

特別鼎談 濱口竜介×三宅唱×三浦哲哉
「逃げ去るもの」に立ち会うために――濱口竜介『急に具合が悪くなる』をめぐって

Creator's Words / 三宅唱, 濱口竜介, 三浦哲哉

末期がんを患った哲学者・宮野真生子と、その事実とともに彼女に出会った文化人類学者・磯野真穂が、予告された別れの直前となる数ヶ月間に「魂の対話」として紡いだ往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社)を、濱口竜介が映画化する――はたしてそれはいったいいかなる試みであったのか。第79回カンヌ国際映画祭にてヴィルジニー・エフィラと岡本多緒の二人が本作で最優秀女優賞を獲得したことは、もちろんこの二人の優れた女性俳優の本作への献身に与えられたものである。そしてそのことは、俳優(被写体)とカメラが如何なる関係を持ちうるかの探求が映画制作の核心であるとして、今日まで数多くの作品で継続されてきた濱口竜介監督の実践が、この類稀な原作書籍との出会いの先に素晴らしい成果を上げたということでもあるだろう。
本作における数えきれない驚きの瞬間は、いかにして見出され、掘り起こされたのか。本作をめぐる映画監督・三宅唱、映画批評家/研究者・三浦哲哉との鼎談を、「映画の勉強会」の最新の成果報告としてここにお送りする。

(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)

■魂の聞き役

三宅唱:まずは感想として、マリー゠ルーを演じたヴィルジニー・エフィラさんの話題から始めさせてください。あのさあ、いやあ……ほんとうにすごいと思うんですよ。冒頭から彼女にずっと惹き込まれて、もう大好きすぎたのでいくらでも話したいんですが、ひとまず、前半の舞台後Q&Aの場面について。ヴィルジニーさんのあの聞き顔と佇まい、まじでとんでもないです。岡本多緒さん演じる真理の切実な言葉と姿を捉えたショットの次に、客席でそれを聞くマリー゠ルーのショットになった瞬間、ぐわっと目頭が熱くなった。といっても、こっちが泣いてる場合じゃないと思わされるような真剣さがあるから涙はぐっと押し留められて……。いやあ、あんなふうに相手の話を全身で聞こうとする人物を映画で目にできるなんて、マリー゠ルーという人物を作ってくれてほんとありがとうございます、という気持ちです。

三浦哲哉:本当だね。ヴィルジニーさんの聞き顔の多彩さ、明るさ、繊細さ。いったい何種類の顔があるのか。途中でなんとなく数えようとしてみたんだけれど、すぐ数えるのを諦めた。一回一回のリアクションが本当にどれも違う。そしてその一つひとつが内面の繊細な反映だとしか思えない、こんな魅力的な聞き顔の人がいるのかって見れば見るほど思う。

三宅:ええ、単なる顔でなく聞き顔、相互作用に開かれている顔。だから、ヴィルジニーさんが素晴らしいというのは、多緒さんはもちろん、全員とともに素晴らしさを引き立てあっているからという意味です。オープニングからそうで、庭でうたた寝顔から目覚めてすぐ、煙草を手にしたお婆ちゃんと話す顔があって、そこからハッと切り替わってタタタッと駆けていく、そして入居者の方にユマニチュードを始めるときの顔。ものの数分でもう豊かな変化があって、これは見逃せないぞという始まりになっている。するとその直後、今度は大勢のスタッフを前にしたときにはまた違った表情がみえて、最高に面白い。もちろん、顔だけじゃなく全身でその場のすべてに応じていますよね。

三浦:ここに本当に屈託のない人物が存在している。本作のヴィルジニーさんは、働く人っていう佇まいですよね。どっしりと構えているけど、話しぶりは気さくで、完璧にオープン。

三宅:スタイリングもいいんだよな。無地のTシャツ姿も、シャツをデニムにタックインしている姿もいい。地に足がついた大人の生活感をベースに、いつでも動けるぞという気配が後ろ姿にも漂っている。

濱口竜介:いやいや、ありがとうございます。衣装はキャロリーヌ・スピエットさんのチョイスで、その「いつでも動ける」感というか、パリの生活者であり、介護産業の従事者であるっていうのをちゃんと出してもらってた気がします。これが本当に素晴らしかったですね。
先日のことなんですけど、フランスでの公開時にヴィルジニーさんと二人でいろいろと宣伝を回っていて、ラジオのインタビューの受け答えを聞いていて思ったのは、薄々気づいていたけれど、シンプルにこの人ってめちゃめちゃ頭いいんだなって。その聡明さのレベルというものが、超一級という気はしました。自分も演出上、いろいろ理解に苦しむであろうことを言ったはずなんだけど、それについてもヴィルジニーさんはもちろん当惑はしつつも、ジャッジをせずに保留して、まずやってみて自分の身体で試して考えるところが常にあった。頭だけで考えるのではない全身体的な聡明さ、それによる理解は、撮影を通じて驚いていたものであって。久しぶりに会って、そのことを思い出しましたね。

三浦:ベルギーで生まれ、フランスで活躍されている方ですけれど、その出自が持つ強みというか、ナチュラルにエクスプレッシブ。いかに反応し、いかに聞くかって、濱口さんがこれまでの映画でずっと追求してきたことじゃないですか。何かを聞いて反応する、それが表情に出る。これまでも卓越した聞き手の顔が濱口映画ではいつも映っていて、たとえば『うたうひと』(2013)の小野和子さんがいらっしゃった。でも今回フランスでフランス人たちの映画を撮られて、それに別の表現性が加わっている、と思って驚いたんです。とりわけヴィルジニーさんは聞く顔が外に向いていてめちゃくちゃ豊か。「わたしは聞いてるよ」っていうその都度のニュアンスを繊細に伝えるためのナチュラルな技術がある。僕も特筆したいところを言いますが、最初にマリー゠ルーが智樹(黒崎煌代)とユマニチュード・ポジションに入るところ。丘の上で、初対面の智樹が落ち着かないでいるとき、「私とここにいる?」と聞く。じっと相手を見つめて反応を感じ取りながら、フランス語、英語、日本語で三回聞く。すると智樹に何かが通じる、という流れですけれども、このときの人物同士の配置とヴィルジニーさんの繊細で力強い佇まいがあまりに完璧で、うわあ、とんでもないことが始まるぞ、と思った。シナリオ的にも大事な場面で、ユマニチュードを彼女が学んでいなかったら智樹と気持ちを通じ合わせることができず、したがって真理とも出会っていなかった、と後から思わせる、稀有な出会いの場面を成立させたのが、ヴィルジニーさんの「聞く力」だという。感動ですね。顔を間近に近づけて、聞くことによって相手に何か作用を与える、というわけですけれど、ここはやはり『ジャン・ルノワールの演技指導』(ジゼル・ブロンベルジェ監督、1969)のルノワールの、顔を思い切り近づけて相手の反応を観察しつつ不思議な影響をおよぼす、あの演出方法を少し思い出しもしました。ともあれマリー゠ルーは「聞く」ことで映画を動かしていく存在なのだな、ということが序盤で鮮やかに示されますよね。

濱口:いや、お二人に言っていただいたことは本当に我が意を得たり、というか、嬉しいですね。できる限りニュアンスを削って撮影前に台本を読む「イタリア式本読み」ってこれまでもずっとやってきたことで、ヴィルジニーさんは本読みを経た上で、撮影現場では、本当にその場で何かを感じて、表現する。だからずっと、そうそう、それ!みたいな感じでした。
彼女のキャラクターをよく表しているのは、彼女の聞き方で、公開後にいろいろとイベントやインタビューを一緒に受けている中で、ヴィルジニーさんは自分が喋っているときではないときに、目線をずっと話者に向けて聞いているのに気づく。それは監督だから聞いてる、とかじゃなく、たとえば多緒さんや長塚(京三)さんが喋ってるときもそうで、もちろん日本語はわかってないわけだけど、身体全体を向けてじっと聞いている。だんだん、近づいちゃったりもする(笑)。そうやって全感覚で摂取する、相手の情報量はものすごいものがあるだろうなと改めて思いました。そういう姿勢を彼女自身が「生き方」として持っているんです。彼女はちょっと変わった経歴をしていて、もともとテレビの司会者、それもけっこうバラエティ寄りの司会をされていて、当初から俳優になりたかったけど、自分にはその資格がないと思い込んでいたんだそうです。ただ、ベルギーでもかなりの人気司会者で、20代後半から徐々に、30代でようやくいい役をつかんで、本格的に女優業を始めた人で、いわゆる遅咲きというか。

三浦:司会者としての長いキャリアがあると聞いて腑に落ちたんです。そう、日本で言えばたとえば阿川佐和子さんのような、聞く技術を持たれている方なわけですよね。もちろんうわべの技術ではなく、とても深いレベルで交流することができる、魂の聞き役みたいな。そういう素養とキャリアを持った方が、「聞くこと」を基軸にすえた演出をする濱口さんと出会って、ものの見事に互いを高め合ったという。

濱口:そうしたプロフェッショナルの聞き手の方って、短い時間で取れ高を確実に取っていくようなところも、実のところあると思うんですよね。ただ、少なくとも現在のヴィルジニーさんの聞き方はそうではない。自分が受け取ったものに応じて、自在に変化できる。それは自分を差し出すということでもあって、つまりすごくヴァルネラブル(vulnerable)な、いつ傷ついてもおかしくない状態に自分を持っていくということでもある。自分の演技が相手役に依存した状態になるわけだから。ただ、このことで、観客は彼女を見ていて、いま自分は稀有なもの、かけがえのないものを見ている、という感覚を得られるんだと思います。たとえば『ベネデッタ』(ポール・ヴァーホーベン監督、2021)を見たときに、この人はなんでこんなにも堂々としてられるんだろうと思った。どこかに羞恥心かその裏返しの硬さみたいなものが生じてもおかしくはない役柄なんですが、威厳に満ちた神々しさがまずある。でも、その根底にあるのは、彼女の人間としての揺らぎみたいなものなんですよね。ある面では、邪悪さも感じられるような、いろんな曖昧さがそのまま出てる感じが、あの役を一個の人間を超えた領域にまで連れ出していて素晴らしいわけですが、一緒に仕事をしてそこにものすごく納得がいきました。現場に飛び込んで、そこで変化していく力が本質的に備わっている。

三浦:柔らかい好奇心が常に絶えないっていう、本物の知性ですよね。面白がるところでも、子供っぽいというか、茶目っ気があって。聞く顔でいえば、すでに三宅さんが言った通り、ほかのフランス人キャストも全員素晴らしい。ミーティング・ルームでは、ヴィルジニーさんの周辺にいる方々が、話し手の言葉に対して常に生き生きとした反応を返している。看護師チームが、ヴィルジニーさんの言葉の端々にそれぞれの仕方でムッとしていたり(笑)。二回目以降に見て気付いたんですが、みんな画面の周縁にいるときも、話をぐっと聞いて、聞いていることが顔の上で表現されている。だからミーティング場面はどれもとてつもなく賑やかで、見ていてまったく飽きないし、聞くときの表情によって、言葉による説明が必ずしもなくても、人間関係やその勢力図のようなものがとても雄弁に伝わってくる。それから岡本多緒さんの聞く顔も、ヴィルジニーさんの顔と拮抗して素晴らしい。ただそれはフランス人たちの表現性とはやはり違っていて、内向性というか、秘められた陰影の部分を感じさせて、それゆえの魅力だと感じました。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

■突然と出会い

三宅:主人公の二人が出会う場面についてお聞きします。雨の公園の場面の終盤、真理がマリー゠ルーに公演のチラシを渡す直前ですが、立ち去るマリー゠ルーの背中を捉えたショットに、真理が突然フレームインしてきますよね。マリー゠ルーの世界に真理が突然現れた、という感覚が自分にはありました。それで、シナリオではどうなっていたのか気になり、今日のために送ってもらったものを確認してみました。

ML「(Ja)楽しかった。ありがとう。トモキ、またね!」
と⾔って、踵を返す。智樹はわずかに声を上げる。吾朗はMLの⽇本語に少し驚く。MLは吾朗や智樹と反対⽅向に歩き出す。真理を通り過ぎる際に会釈をする。真理も会釈を返し、吾朗の⽅に⾏きかけるが、翻って駆け出す。MLの前に回って、⼆⼈は向かい合う。
真理「(Fr)あの⋯⋯、テアトル13って分かりますか?」

(『急に具合が悪くなる』第3稿より/提供゠濱口竜介)

シナリオでは、真理の「翻って駆け出す」動きが描写されているけれど、お聞きしたいのは、真理が「翻って駆け出す」瞬間を捉えるショットは現場で撮っているんですか? あるいは編集時の決断なのか。

濱口:撮ってない。三宅くんが言った通り、ここに至るまで、基本的にはマリー゠ルーの視点というか、彼女が経験したことを通じて物語を進めているわけで、マリー゠ルーの世界に真理が飛び込んできたっていうほうが、世界が見えやすいかなって。まさにその状況を表すのに「突然」って言ってもらったけど、まあこの映画が(仏題で)「Soudain(突然)」だから、という(笑)。
ここは今映画にある通り、真理のリアクションを撮っているカメラに、マリー゠ルーがフレームインして、シャッターする(真理の前を通り過ぎる)。それに合わせてカメラはマリー゠ルーの背中について移動撮影し、そのフレームに再び真理が飛び込んでくる、というこの1ショットしか撮っていない。そう思うと、ある程度確信があったんでしょう。脚本は、基本的に俳優たちがそれを読むだけで、できるだけ「自分がどういればいいか」ということがわかるように書いているので、書かれている動きがまさにカメラを向けるべきものとは限らない。実際のところ、真理が踵を返す瞬間を強調するように撮ってしまうと、段取り臭くなるだろうな、という思いがあった気がする。ただ、マリー゠ルーの背中を追っかけている時間が意外と長いから、後でトラムの音を加えたりして、そっちに気が行くようにしたりもした。

三宅:そもそも、なぜマリー゠ルーの側からこの物語自体を語り始めようと考えたんですか? というのも、出会いってどっちからでも語りえますよね。でもどっちで始めるかは決定的に違う。僕にとっては、説話レベルでも、その瞬間を捉えるショットレベルでも、いつも悩みまくる問題でして。

濱口:この映画の制作にはいろんな紆余曲折があったんですが、すごくはっきりしている根本が一つあって。それは、『急に具合が悪くなる』という原作書籍を映画化するプロジェクトだ、ということです。もう少し言うと、それは宮野真生子さんと磯野真穂さんという二人の関係性の発展、二人の心の動きを彼女たちが交わす言葉を介して示すものであり、狙い定めるのは、この感情的な関係性だ、と当初から思っていた。なぜならそれが一番自分が感動したものだから。
原作はまずそれぞれの来歴とかあんま関係ない感じで始まるわけです。やり取りのうちにそれぞれの家族構成であったり、パートナーがいるらしいといったことがぼんやり浮かび上がってはくるけれど、話の中心にあるのはあくまでそれぞれの研究を介し文化人類学と哲学というそれぞれが研究してきた分野に関する知見の出し合いが、やり取りの推進力になっていく。
ただ、じゃあこれを抽象的な言葉のやり取りではなく、具体的な社会状況に置かれた人間の行為の連鎖である映画に置き換える場合、それを見る観客にこの感情・関係を受け止めてもらうためには、どう置き換えればいいのか。そもそも、映画で二人の人間が出会うって難しいんですよ、マジで。さらに短期間でその関係性が深まることの説得力を高めるのはめちゃめちゃ難しい。これは『The Depths』(2010)をつくったときに一番強く感じたんですけど、「こんなことってある?」っていう問いに自分自身がずっと晒され続けるところがある。うまくやらないと自分がそのツッコミに負けて、本来たどり着くべきエモーションまでたどり着けないこともあるのではないかと思うし、逆に単なる段取り。設定の域を出ないものにもなりかねない。まあ兎に角慎重にことを運ばなきゃいかん、とは思っていた。
出会いをはじめ、偶然がいろいろ起きるっていうのは、題材的にも合っているわけですけど、原作は本当にこの出会いが起きたっていうノンフィクションだから説得力がある。だから、それを説得するという手続きは不要なんだけど、そもそもかなりありえないような関係性なんです。それをフィクションの登場人物として再構成するとなれば、どうしたらより観客からツッコミ少なく、むしろあり得ることとして、二人の人物が出会えるか、そしてその関係性の発展を見つめることができるかを考えなくちゃいけない。結局、それは少しずつ観客の「知りたい」という欲望を育てていって、まさに「知りたい」と思っていることを差し出し続けるしかない。そのことで、本来ならありえないことが、観客にとっての起こるべきことに変わっていくんです。
そこでは、言うなれば観客の想像力を水の流れのようなものとして捉えて、それが流れる水路をつくるような、想像力のデザインがある。映画はまずマリー゠ルーの側から始めて、彼女がいま介護施設のディレクターをしていて、その施設はなんらかの問題を抱えていて、彼女はどうもそこのスタッフや経営者との間で板挟みになっていろいろな問題を抱えているようだと、見ているとおぼろげながらもわかってくる。そう働くよう、観客の想像力の使い方を予め限定・集中させる。そこに真理というもう一人の人が入ってくると、この新しい出会いはマリー゠ルーに何をもたらすんだろうって考えるようになる。
何も考えずにそれを描くと、なんか新しい人が急に入ってきたなっていうだけに留まるんだけど、真理は演出家で彼女の精神を凝縮したような演劇作品をマリー゠ルーは見て、こういう作品を作る人なのかと知る。観客もまたあのような演劇をつくった真理にも興味が湧き、その興味を代替するように、お互いがお互いのことを尋ね始める。1時間ぐらい経ったところで二人の会話が始まるけど、実はここでようやくマリー゠ルーの情報量も飛躍的に増えていく……。長くなりましたが、こういう考えで構築したときに、マリー゠ルーのラインで進めたところに真理が突然現れて二人が出会うっていうのが、観客の想像力に対して抵抗のより少ない流れであろうと考えたわけです。

三宅:真理側から描くことにトライした時期はあるんですか?

濱口:実際、パリに取材に行く前の叩き台としてつくった第0稿は、マリー゠ルーの方を哲学専攻の大学院生にして、ユマニチュードを学びに来た日本人である真理と出会うっていう流れを考えてました。つまり、ここではがんを患ってるのはマリー゠ルーってことですね。その一番最初の場面が「言語交換(language exchange)」、それぞれ日本語とフランス語を勉強したい人がアプリかなんかで出会って待ち合わせをしてる場面から始まるというシナリオです。そのヴァージョンでは、出会っていきなり会話が止まらなくなる、みたいな書き方でした。

三浦:へえ、そのような試行錯誤があったんですね。なるほど。完成版では、ありえないような出会いの、その稀有さがまさに観客の体感として入ってきたし、二回目に見たときにそれはもっとはっきりわかりました。中盤まで行くと、この二人が出会うべくして出会ったってことが理解できる。同種の問題を二人とも悩み抜いていて、得難い話し相手を得たってことがわかる。でもそこに一挙に至るわけではなくて、ちょっとずつちょっとずつわかっていく。「想像力のデザイン」という言葉があったけど、ほんとその塩梅がすごく絶妙。マリー゠ルーが「智樹、またね!」と流暢な日本語で話していて、なんでだ?!という疑問とともに巨大な何かの予感を覚えさせて、で、「テアトル13」で上演される演劇は、さらに二人の邂逅がいかに必然的なものであったかと関わっている。演劇で語られるのはイタリアにおける精神病院をめぐる改革の話で、それを聞くマリー゠ルーは「どうして私の問題をこの人たちは演じているのかしら」というように顔色を変えていく。そして「あなたは何者?」という真理の問いかけから二人の長い会話の口火が切られる。強烈な謎とクエスチョンが提示されてから次に二人の素性が開示されていくところにすごくワクワクさせられて。

三宅:劇中で登場人物と登場人物を出会わせるのも難しいし、彼女たちと観客とを出会わせるのも難しい。二重の出会いを演出する必要がありますよね。難しいんだけれど、大前提として、誰かと出会うことそれ自体の驚きや喜びがしっかり刻まれていることで、それがこちらにも伝播してきていると感じました。
それから、個人的には、認知症の当事者でもなくがん患者でもない、つまり問題の第三者でしかないマリー゠ルーから語り始められたことが、結果として、「彼女たちの出会い」に出会う観客たちに、映画観客としての自覚をも促すものになっているのではないかと考えました。

濱口:なるほどね。それを言うと、宮野さんに対する磯野さんの立ち位置ともきっと似ているところだと思うんですよね。非当事者性というか、ある種究極的には手を出せない状況であることというか。

三宅:ええ。そして、何もできない歯痒さのようなものは、いち観客である自分自身の日々で感じていることを、勝手ながら重ねもしました。
第三者と言いましたが、マリー゠ルーも、介護施設の運営に悩む当事者であり、資本主義という大きな構造の中で生きる当事者だし、不眠障害の当事者でもある。もう自分のことで精一杯で、悔しいことばかり。そんな半径数メートル以内の自分事と、その外で勃発する数々の他人事の間で日々をどう生きるか、そういうことを日々実感している観客も多いと思うし、だから「人生の映画」とでもいうような映画体験になるんだと思うんです。他者に対して根本的に何ができないか、しかし応答できる可能性があるとしたらそれは何か、という問いに貫かれている映画だと受け止めました。簡単にいえば「第三者(非当事者)に何ができるか」映画。そして、映画ってもの自体が第三者のようなものですから、「この世界に対して映画には何ができるか」映画だとも言いたい。
濱口さんが宮野さんと磯野さんの本を受け止めて、今の時代にわざわざ映画化するにあたって、その必要性や限界、やってはいけないこととか、いろんな問いを考え抜かれたと思うんですが、そうした問いに最終的に、映画という実践を通して応答しているのだと思います。つまり、マリー゠ルーから語り始めることや、フレームに突然真理が入ってくるというショットの演出として。この映画の政治性は、その後のシーンでセリフとして語られる内容以上に、出会いの場面を濱口さんがどう考え、どうシナリオを書き、どう準備し、どう撮ったのかといった実践にこそあるんじゃないかなと思い、質問させてもらいました。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

 

■周縁の人々

濱口:シナリオに関して大事なことをひとつ言っておくと、実は『夜明けのすべて』(2024)を見て、さっき話していた第0稿はすっかり捨てたんです。設定がまったく変わっているところからもわかるように、叩き台としてもほとんど使っていない。『夜明けのすべて』の試写を見たあとに、松田広子プロデューサーに「この映画を見てください」って伝えて。すでに病や障害を抱えた人が多く出てくる物語になることは想定していたわけなんだけど、第0稿はちょっと都合が良すぎるなっていう感じが自分的にあった。

三宅:『夜明けのすべて』のどういう部分に反応してくれたんですか?

濱口:派手なことは何もやらず、それでも何かが確かに変化したのだ、という感覚を見事に映画に与えている部分が最も大きい。それは素直に感動し、憧れた部分ではあった。ただ、自分にはそういうものは無理だろうという気もして、せめて、登場人物を道具的・背景的に扱う態度から少しでも離れたいという思いが強くなった、ということかな。今思えば、当初はこの映画を物語としてどうまとめるか、というところに気を取られすぎていたという気もするね。松田プロデューサーとやるのも初めてだし、基本的には2時間は超えるかな、ぐらいで収まる尺のものを書いていた。ただ、主演の二人はまだしも、その周縁の人たち、認知症や自閉症の人たちの扱いが背景的というか、道具的という印象がまだ強くあった。だから、そういう部分をちゃんとやりたい、という気持ちが強くなった。それで取材を経て、今ある脚本に近い形のものにした。『急に具合が悪くなる』で自分が労力をかけて演出してすごく作り上げたっていう実感のある部分って、主役の二人ではない部分のほうだったりするんですよね。この人たちが確かに存在している。そういう感覚がないといかん映画だなと思ったし、そのためには自分は時間を必要とする、という感覚も大いに持った。その覚悟を決めるうえで、『夜明けのすべて』という映画の存在はとても大きかった。

三宅:ありがとう、なんだか報われるような思いです。

三浦:以前、濱口さんとこの映画について三宅さんを交えて少し話したとき、日本人である自分がフランスでいかにして映画を撮るかって考えたとき、フランスの生活習俗とか土地勘っていうのは当然ないわけだから、フレデリック・ワイズマンのようにやらねばならない、とおっしゃっていましたよね。つまり、ワイズマンが撮るような、人が仕事をする「施設」を舞台にするということ。ワイズマン的ということで言えば、『夜明けのすべて』に登場するリハビリ施設も非常に印象的で、実際、ものすごく時間をかけて分厚く作り込んだという話を聞きました。『夜明けのすべて』が成立するうえで、この施設がとても大事だったと思うんです。そして今回のマリー゠ルーという主人公の根城であるところの介護施設の分厚さたるや……。いったいどうしたのか、詳しくお聞きしたいと思ってきました。前作までと同様の方法が用いられている、ということは事前に聞いていて、例の「17の質問」〔濱口監督が『ハッピーアワー』の制作につながる「即興演技ワークショップ」内で開発したサブテキストの手法の一つ。キャラクターに対して「幸せですか?/それはなぜですか?/何が大切ですか?」といった17の質問をした場合にキャラクターはどう答えるのか、キャラクターの立場に立って回答を書いていくことで、その造形に深みをもたらすことを狙った手法。詳細は『カメラの前で演じること』(左右社)17-18頁を参照〕のテキストも主演二人以外のサブキャラクターの人たちのために書いているとのことで、それも読ませていただいたんですけれど、質量ともに凄まじいなと。モニター上では読み切れないと思ってプリントアウトしたら物理的にほんとに分厚かった(笑)。

三宅:周囲の人物で言うと、オリヴィエ大好きだな。オリヴィエとマリー゠ルーの関係って、同期で一緒に働いているってことが途中で明かされますけど、オリヴィエはマリー゠ルーに「寝ろ!」ってツッコみができたり、「やりすぎだと思う」と真摯に伝えることもできて、親密なリスペクトがある。恋愛関係ではない男女のやりとりとして、『夜明けのすべて』の二人の中年版。

三浦:オリヴィエ、いい……。彼は説明的なことを言い過ぎないんだよね。言わなくともわかる、マリー゠ルーとの寡黙で全然いい間柄が映っていて、そこがすごい。ハリウッド映画だとああいうサブキャラクターがソロを演じる場面ってありますよね。「これからぼくが芝居の一員です、よろしく」って感じでギャグをしたりする場面で、観客としては親しみを抱くきっかけになる。本作のサブキャラクターに与えられているのは、そういうものではないですよね。いきなり普通に端役は端役として分厚い存在感を持っていて、その人たちがすでに関係し合っている。ワイズマン的、と観客が言うのはたやすいですけれど、どうしたらこうなるのか……。

濱口:真理とマリー゠ルーは当然この映画の核心なんだけれども、一方で、サブキャラクターたちも一つの中心を為すように、とは思っていました。真円というよりは二つの中心を持つ楕円みたいなイメージです。
今回、最終的にはベルギーとドイツも入ってるんですが、シンプルに日仏の合作を選んだ理由は、一見エンターテイメントとはほど遠いようなこの内容では、日本だけでは資金が十分に集まらないことが予想されたということも大きい。資金が集まらないというと、それで自分の目指す質が達成できないのが問題なのはもちろんだけど、それと同じかそれ以上に、スタッフ・キャストが適正な労働環境で働くことを難しくすることもまた問題なわけです。その状況を解決するためにも、日仏合作に踏み切ったというところがあった。でも、そこで一番のネックは、ぼくがフランス人のプライベートな身体性を知らないことだと思っていました。つまり、家族や恋人同士、少し親しい友人同士が身体的にどう反応し合っているのか、互いにどう振る舞うことが自然なのか、ほとんどわからない。もちろん舞台や登場人物が日本であっても、そういった関係を描くのは一筋縄ではないんですが、外国人のプライベートな側面を想像したり描くことは、日本人のそれを描くときよりもはるかに難しい。描かざるを得ないけれども、かなりの無理難題だなとも思っていた。
ただ、パリで取材する前から、日仏をつなぐ要素として、ユマニチュードを扱うことはすでに考えてはいて、実際にリサーチした結果、この脚本のモデルになるような、ユマニチュードを導入する道半ばで苦労している施設が見つかった。そのことで、本格的にある種の「仕事もの」の映画とする方向に振り切ったわけです。つまり、少なくとも取材さえできれば、そこで働く人たちがどういうふうに振る舞っているのか、ということはかなりわかるはずだ、と。プライベートな関係性を主軸にするよりは遥かにリアリティをもって書けるだろうと思ったんです。
ただ、それでもやっぱり一つ関門があって、その施設がちゃんと本物の施設であるかのように見えないと、結局それは単に作品の弱さになってしまう。それこそ『夜明けのすべて』の会社がきちんと会社に見えなければならないことと同じように、その施設ではどういうことが行われていて、どういう人がいて、どういう関係を構築しているのかが見えなければならない。
そう考えたときにフレデリック・ワイズマン方式というか、それこそワイズマンの映画を見ていると、アメリカの病院とか警察とかまったく素性を知らない人物たちについて、彼らの会話やアクションを見ていくうちに、こういう場所ではこういう振る舞いをする人たちがいるのね、こういう問題を抱えて奮闘しているのね、っていうことが理解されていくと思うんだけど、そういうふうにしてみようと。もうすでにある場所、即ち「自由の庭」が現実に存在していて、そこにカメラが入ったかのように撮ろうと考えた。つまり、人と人の関係性とか、行われている業務とか、日常のルーティンというものは、観客のためにではなく、登場人物たち自身の生活としてすでに存在していると仮定してみようと。カメラはたまたまそこに居合わせているだけ、というスタンス。ただしドキュメンタリーと違うのは、常に最良のポジションに入れるようにする、ということ。

三宅:なるほど。でもさ、それを本気で達成しようとすると途轍もない準備になるよね?

濱口:そうなんですよ……。なぜなら撮影するのは実際の介護士や看護師ではなく、あくまでも俳優なので。当然、彼らは介護士や看護師としての歴史を有しているわけではないし、一緒に働いてきたわけでもない。そういう身体を、せめてカメラが回っている間だけでもそう見えるレベルに達してもらわないといけない。
ただ、そうした事態が生じるためにはシナリオだけではまったく足らない。というのは、この物語の主軸はあくまで、マリー゠ルーと真理であって、物語情報のほとんどは彼女たちに集中している。なので、各キャラクターを演じる俳優にとって、脚本を読むだけでは自分のキャラクターについての情報量が圧倒的に足らない状況だ、と。この不足を補わないと、職員を演じる俳優たち――これは長塚さんや黒崎さんも同様なんだけど――撮影現場でそもそも「立つ」ための基盤がなくなってしまうと自分は思っていて。俳優さんたちがいったいどうやったらあたかもずっとその職場にいたかのようにいられるかを考えた結果、膨大な量のサブテキストをひたすら書くという作業が発生したわけです。

三宅:しかもそれ、翻訳の手間を考えれば、いつもの〆切感覚より前倒しでしょう……。

濱口:そう、これは通訳の人や、日仏できる助監督に翻訳してもらわなくちゃいけなくて、それは彼らにとっても予想外の負担だったようで申し訳なかった。残業代も発生したようです。けど、その過程でおかしなところは指摘してもらったりもできたのはよかった。「フランスでは普通こんな準備はしません」と言われたけど、「日本でもしませんよ」とは思いつつやっていた(笑)。サブテキスト、もしくは来歴を作るような作業は台詞があるようなキャラクターには、ほとんど全員していて、基本的には以前開発した「17の質問」っていうサブテキストを書いて渡した。これは、あくまでキャラクターの来歴の一つの可能性でしかないものとして、最終的には俳優たちが自由にそれらの質問に答えていいという前提で渡している。ただそのことで、少なくとも俳優は、演出家が考えるキャラクターの来歴や方向性を共有できる。自分はあまりキャラクターについて俳優とディスカッションはしないんだけど、これを渡しておけば、俳優は演出家の考えもわかるし、より不安が少ない状態で立てるんじゃないかと想像しています。労働量的にはこの作業が一番大変でした。
ほかには、ユマニチュードの研修を受けているであろう人物たちを演じる俳優には、役の大小にかかわらず、実際にユマニチュードの基礎研修を受けてもらったり。入居者役の人たちに対しては、さすがに自分がフランスの80代の人たちの来歴を書くのはあまりにハードルが高いので、若いキャストやスタッフとインタビューし合ってもらいながら、それぞれの経歴や家族の人物像を混ぜ合わせるような形で来歴を作ったりしました。ちなみに、実際の介護施設を使ったおかげで、実際そこで働いている人や入居者にエキストラになってもらうことができたのも大きかった。
究極的に大事だったのは、それぞれの関係性の網の目、つまり予め人物間の「歴史」を、クランクイン前に形成しておくこと。つまりリハーサルとして、それまでの過去の関係性を演じてもらって、ということをいろんな関係性でやってもらった。たとえば、マリー゠ルーとオリヴィエはいかにして一緒に働くに至ったのか、ソフィは若手看護師(ステファニー)からどのように敬意を払われているのか、真理はいかにしてテアトル13に迎えられるに至ったのか、アニマーターチームのダミアンとヴァネッサはどんな関係なのか……、とかを日本語だったらA4で1枚ぐらいのシーンを演じてもらったりしました。本読みからどうやって本番に至るのかという予行演習も兼ねて。

三宅:撮影前の時間の確保がどれだけ大切か、そしてそれがいかに難しいかは身をもって知っているつもりでいますが、異国でそれを実現するにはどれだけの意思と体力が必要か。撮影前の準備スケジュールの一部も見せてもらいましたけど、ボクシング映画のような準備が複数同時に走っている感じで、ギョッとしました。ほんとすごい。いやはや、そんな準備の跡を全く感じないほど、どの役者もずっと前からそこにいた人のようでした。マリー゠ルーと「似た者同士」と言われるソフィだけじゃなく。

三浦:施設の中で重要な「アニマーター」の二人、ダミアンとヴァネッサにもやられました。あの存在感。

三宅:ヴァネッサ、素敵ですよね。ロバート・アルトマンの映画のシェリー・デュヴァルとか、カサヴェテス映画に1シーンだけ出てくる人みたいな、映画では脇役だろうがそんなの知らない、私はちゃんと自分の人生の主人公を生きていますというような輝きが常にあって。慎ましいんだけれど、輝いてる。

三浦:そう、仕事にすごいやりがいと愛を感じている。「17の質問」では、二人ともかつて映画業界に関わって、でも絶望してきたって書かれていた。そうしたすべての情報が、直接現れるわけではないにせよ、二人の姿勢、能動的で主体的な言動を支えているんでしょうね。ただ、この分厚さは驚嘆すべきものではあるけれど、バランスも慎重に見定める必要があったのではないかとも思いました。たとえば、脚本も読ませてもらいましたが、この施設がどういう場所かを示すための登場人物どうしのやり取りで、削ることのできるところは削っていますよね。上映時間は3時間を超えていて、感情は活性化されるんだけど、なにしろ情報が多いので、認知的な負荷はかなり高い。

濱口:こうしたサブキャラクターたちの準備作業は、実のところストーリーテリングとしては非常に分裂した作業でもあるんです。根本として『急に具合が悪くなる』という映画は、原作の通りに女性二人の魂の分け合いを描くものであって、マリー゠ルーと真理の二人の話が絶対的な中心としてある。必要以上に二人以外のキャラクターを追ったり、細部を追うことは基本的にはしない。マリー゠ルーがどういう人かはまず提示する、彼女がどうやって真理と出会うのか、真理がどういう人なのかもだんだんわかってくる。これらが骨なわけで、それ以外はあえて言えば背景、書き割り的な存在だと言ってもいい。少なくとも脚本家としての自分はそう書いている。そう書かざるを得ない。
ただ、演出家としての自分は背景であるにもかかわらず、あたかも背景でないかのように人物たちが浮き上がってくるように演出している。いわば、もう一つの中心として浮かび上がらせている。この分裂や混乱は当然、映画の見え方も変える。自分が、公開されてから観客の反応としてどこか驚くのは、この映画を「介護施設の話」「ケアの話」だと多くの人は見ていることです。でも、自分としては、撮影時、別に「介護施設の話」をやってる意識はなかったんです。あくまで女性二人の関係性がどう変化していくのか、ということだけを考えていた。ただ、彼女たちが関わるキャラクターもそれぞれを演じている俳優がいて、その人たちがある種の尊厳を持ってそこに存在するようにしないと、彼女たちが確かに存在しているとも思えないだろうから、そのために必要な作業をしていただけ、という感覚だった。ただ、結果として、この「混乱」というのは自分の「背景を単なる背景としない」という当初の思いが、結実したものなのかもしれないとしてポジティヴに捉えてもいる(笑)。

三宅:今の話を聞いてパッと思い出したのは、映画の序盤、ユマニチュードの実習を見ているスタッフが小声で「こんなの選挙前の政治家と一緒でしょ」って話していて、その奥に無言で立っているマリー゠ルーの姿も同時に捉えたショット。ワイズマンにはなさそうなショットでは。

濱口:そうですね。何も起きてないところにピントが合っている、と言ってもいいわけだから、もしこれが介護施設の話だとすれば。

三宅:「お、同時に捉えるんだ?」ってここで驚いたんだけど、訊きそびれるところでした。このショット、奥行きがあるというか、同じ画面の中で複数の出来事が起きている。侯孝賢回を踏まえるなら複数の時間が流れていますよね。カメラのこちら側、登場人物の視線の先では研修の時間も流れているから、これは三つの時間を同時に捉えようとしているショットだと言ってもいい。で、いま濱口さんが話してくれた周縁や背景についての考えや試行錯誤が、まさに具体的に現れているショットな気がしたんだけど、これって現場で「ここだ!」って発見したんですか?それとも事前にこのシーンの狙いとして、カメラポジションとフレームを計画できていた?

濱口:いや、何とも答えづらい……。少し遠回りするけど、この映画についてはすでにいろんな国のメディアから、かなりの数のインタビューを受けているのだけれど、自分にとって映画そのものについて聞かれたという感覚を持つことはいつもに輪をかけて少ない。物語やテーマとかについての質問に終始するのは、もちろん今回はそういうところがとても大事な映画なので構わないし、責任もあるから答えるんだけれど、でもじゃあいったい何がこの映画を映画たらしめているのかについては、滅多に聞かれない、という印象がある。だから、今こうして聞いてもらえていることが非常にありがたい。ようやく自分の「仕事」について話せる、という気持ちになる。ただ一方で、今回は、それについて答えるのがすごく難しくもあるんです。というのは、基本的にすべて、一つひとつは極めてシンプルなことを、ただ愚鈍にやった積み重ねでしかないからです。どういうことかといえば、現場だけじゃなくサブテキストもそうなんですが、単純に労働の作業量がものを言っている。
たとえば現場のことで言えば、今回もほとんどすべてのシーンで、複数のポジションから演技を通しで何テイクも回している。そして、たまたまうまくいったものをツギハギしている。今話に出してもらった、映画冒頭近くのシャワーの研修の場面は初日に撮ったものなんですが、ここもまさにそういうやり方で撮っている。まずシャワーをしている看護師のアンナとユマニチュードのインストラクターのクロード、そしてアガタという元パイロットの入居者を撮る。ここはいわゆるインティマシー場面でもあるから、最初は実は研修を受けている人たちはいない。いざ、研修を受けている側を撮るとなったとき、手前に研修自体も映り込んでほしいので、実際に研修しながらやる。そこで、本作の録音マン、ピエール・メルタンス――シャンタル・アケルマンの映画で仕事されていて、素晴らしい人だったんだけど――がニコニコしながら近づいてきて、「ぼくは君のやりたいことにすべて対応する。その前提で言っておくけども、今のシーンのささやきゼリフは全然録れてないよ」と言われた。

三宅:うわあ、撮影現場って感じ! ドキドキしてきますねえ。

濱口:研修中のシャワーの音とか、その周りで喋っている音とか、そういうことですね。で、ぼくは「もちろんわかっているが、このままやらせてくれ」と。この場面ではないけど、そういう指摘が入ったときに、音の出元で演技をやめてもらったことがあったけど、やっぱりリアクションはうまくいかない。たとえば〈ヴァネッサの部屋〉〔介護施設のアニマーター、ヴァネッサが企画する対話レクリエーション〕で、ステージ側と客席側で同時に会話があるときとかね。こういうとき、音が重なると、小さな声の方は録れない。それでも、視線の先に実際に何か「見て、感じる」対象がないと、こういう場面は絶対にうまく行かない。集中力が全然違ってしまう。というか、どういるか、どう話すかみたいなとこに意識が行っちゃうとうまくいかない。いい意味で、ちゃんと気が逸れてないといけない。

三宅:うんうん。

濱口:なので、これでは音が入らないということもわかってる、でも全部通しでやらせてくれということになった。どうするかと言えば、研修を一通りやってもらいつつ、シャワーを使わないときはシャワーを出しっぱなしにせずに切ってもらって、体を洗うとき、台詞の合間に差し挟んでもらったりする。最終的には、ポスプロ時点でそれをほどよく重ねる。で、三宅くんが指摘したショットはそういう流れのなかで、当然撮るべきショットとしてあった、ということなんだよね。マリー゠ルーたちだけを切り出して撮ってしまうとあまり意味がなく、他の職員たちと同じ時空間を共にしていることが一目瞭然、という証拠映像になるのが望ましいし、その職員たちの目線の先でも研修を実際にしてもらうことで一定の集中力が保たれる。なので、画面外の音やフレーム周縁の存在感がより強い。現場に「研修」という渦があり、その渦の端っこにヴィルジニーさんもだけど、ジブリル役のガブリエル・ダマニもいる。特に主役のヴィルジニーさんにとっては不思議な初日だったんではないかな。最初は主役なのにセリフもない、ただ立っているみたいな感じで、監督は主役そっちのけで、研修の側の演出に熱中している。と思ったら、あるとき急にカメラが向く。初日だし、皆「こいつ映画の撮り方知らないんじゃないか、カットを割ればもっと簡単なのに」とか思われてんじゃないかと不安だったけど(笑)、こういう現場なんだと、実践を通してわかってもらうしかない、そんなふうに思っていた気がします。

三宅:撮影初日らしい、最高の初日じゃん。

三浦:そんな不安を抱えながら撮ったショットだとは。でもそれによって「ハマグチって監督はそういう人なんだ」って印象を与えたんじゃない?リアクションを撮るためには全てをやり直しする、そういう人だって。

濱口:看護師役のアンナのすごくいい表情が撮れたので、そのことで何か伝わるものもあったような気がします。ただ初日にすぐ、って感じでもなかったですね。最初の一週間ぐらいは混乱した感じでしたよ。うまくやろうとして、あれもこれも撮っちゃおうって、「今ここでパンして!」みたいな合図をカメラマンに送っても、全然タイミングが合わなくて、フォーカスも混乱するし、結局役者に繰り返し演技をさせてしまうようなことになったり。やっぱり、言葉の通じる現場でこそ「あれを、こう」とか、身振り手振りで示したりしてることが多いことに気づく。言葉以外のコミュニケーションもまた言葉を基盤として成立していたことが沢山あったと思い知らされるわけです。結局コミュニケーションに失敗したら、改めて説明したり、あまりに複雑なものは諦めたり、すべて愚直に、一つひとつやっていくしかなかった。

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■フォーカスと音響と目線

三宅:今のショットと同様に「手前と奥の別の時間を同時に捉える」ショットで思い出すのは、ラストの庭での演劇場面の終盤です。カメラの手前で主人公二人がハグしてるところから、フォーカスが動いて、奥でまだ演劇を続けている長塚さんが途切れなくワンカットで捉えられる。このフォーカス送りって、手前と奥を同時に演出しなきゃいけないという意味でも、なかなか大変ですよね?もし、撮影初日にさっきのようなことを俳優やスタッフたちと経験していなかったら、これははたして実現できたのかな。別々に撮る選択肢なども当然あって、何がクレバーかは簡単にはいえない。にもかかわらず、フォーカス送りのショットを撮る段取りを決断されている。そこにぼくは強く心を動かされました。「同時に映るか、別々に映るか」というのは、この主題と響き合っていると思うし。
それを、愚直にやるしかないっておっしゃるけど、でもやっぱり大変だよ。

三浦:まあ『ゲームの規則』(1939)の国の人たちだから、それと同じようによろしくと(笑)。

三宅:あ、なら濱口さんも突然フレームインして出演しなきゃ!おもむろに足裏ダンスの輪に加わりだしてさ、みんな唖然みたいな(笑)。

濱口:足裏ダンスのリハーサルは一緒に参加したりしたよ。やってみると、かなり疲れる(笑)。ご指摘いただいたショットはここでフォーカスプラーを担当したカティ・バイヨの手柄ですね。さっきもフォーカスの話をしたけど、途中まで正直、かなりうまくいかなかったんですよ。というのは、自分の現場はフォーカスプラーにとっては過酷なもので、基本的に一つのポジション/アングルで1、2度、テストなしに撮って、撮れたら次へ移ることを繰り返していた。これはフォーカスプラーはテストもできないし、しかも俳優はマークに来るわけでもない。予想外の動きをすることもある。しかも撮影の中盤から真理とマリー゠ルーは日本語とフランス語が混ざったやりとりになっているから、カティはどこで何を喋ってるのか明確にわかんないから、フォーカス送りのきっかけもぜんぜんわからないって状況が続いて。彼女にとって地獄のような状況なんですよ。だから、フォーカスが外れても、それは彼女の責任ではなく、自分のやり方の結果なのだと受け止めて、ときに俳優に謝りながら繰り返すということを続けたけど、カティは相当なプレッシャーに晒されていたと思う。ただ、段々とそういうやり方を繰り返すうちに、チーム全体がだんだんだんだん、適応していった感じですね。カティもひたすら目印になるものとカメラとの間の尺を測って対応していた。だから、言ってたショットは最終日の1日前に撮ったんだけど、撮れたものを見て驚いた。「あ、撮れてる」みたいな。大手柄ですね。

三宅:年配の俳優たちに身体的負荷がかかっているし、いろんな人が同時に感情的ピークを迎えていて、それをキープしなければならない。フォーカスは指先一つで世界が変わるから、そんなリスクまで負わなくたっていいのに、絶対にワンショットでいくのだと。言ってみれば、撮影現場という社会においてすごい政策が実行されている、そういうシークエンスとショット。監督一人の狂気だけでは実行できないものだと思うから、撮影初日からのナマの積み重ねがあったからこそ実現したんだろうな、と。

濱口:実際のところ、このショットはさっきも言ったようにたまたまよく撮れただけなんです。たまたまというと、カティに申し訳ないけれど、撮れない可能性も十分にあるし、それを許容しながら撮っている。撮れたから使っているけれど、撮れてなかったら、それはしょうがないって思ってやっていた。これだけいろんな角度から撮っているというのは、編集での逃げようはある、ということでもある。ただ、カメラが俳優の動きに呼応して、ワンショットの持続のなかでその場の相互作用を捉えられたらそれに越したことはなくて、それはとても力強いショットになる。で、そういうものをツギハギしながらつくられたのが今作という感じかな。

三浦:前にもちらっとお聞きしたのを思い出したんですけど、最後の足裏ダンスに至るクライマックスの演劇の場面は、愚直を通り越して、成功するまで何度も何度も繰り返されたとのことでしたね。途中から天候がけっこう変わっていて、最後にはすごい光が降り注ぐ。たまたま撮れたと言っておられるけれど、うまくいくまで繰り返す覚悟というか執念の産物なんでしょうか。

三宅:ここはもともと何日の撮影予定が確保できていたんですか?

濱口:最後の演劇場面の撮影日数は3日です。ただ途中で雨が降る予報があって、そうすると半日くらい逃さなきゃいけない時間があり、そこでジブリルとステファニーがユマニチュードの研修してる場面を撮ったりしたから、実質2日半。ここはさすがに不安で必死で考えた(笑)。俯瞰図を書いて、ポジションを事前に検討したんですが、そうしたら必要なポジションが全部で60ポジションぐらい。2台のカメラだったから、単純計算、最低30テイク回さないといけない。ただ、倒れる場面なんかはそんなに何度もやらせられないので、そこを境目にする感じだったから、純粋に30回の通しではないけれど。

三浦:30回……。足裏ダンスをきっかけに、舞台が急速にカオスに傾いて、偶発が偶発を呼んで、ついにはフレームがもはや存在しないような極限にまで行って驚愕しますけれど、そのテイク数の上に成り立っているんですね。でも、この場面ほど突出しているわけではないですけれど、すでに他の多くの場面でも、一つのフレームの内と外を自在にさまざまな要素が行き来して、作用を及ぼしあっていて、同様に、ものすごく手間をかけられているのではと思った。映画の前半でもアニマーターの方々が中庭でレクリエーションをしていて、マリー゠ルーの背後に映っている。前景と後景がやっぱり通底している。都合よく切り取っただけの画面っていうのがないという印象です。今見ているものが、相互作用しあっているより広い世界の一断片という感覚がある。画面外の音響の豊さも、その印象をさらに強めていると思います。直接その光景が映ってなかったとしても、画面内に音としてそれが入り込んでいる。智樹の声もそうですけれど、画面外の隣接空間からいきなり飛び込んでくる。より広い空間がすぐ隣に実在していて、取り囲まれている。絵コンテの中のものだけが存在してそれだけが映っているというような映像は一般的にすごく多いですけれど、本作は本質的にそういうのとは異質。

濱口:ある一部分を撮ることが、全体もまた撮ることであるように、とは思いながら撮っていましたね。とはいえ、言うは易しで、実際のところはポスプロの音でその印象を強めていることも多いと思います。この演劇場面の客席の楽器なんかも、ピエールさんも台詞がない部分に関しては許容してくれていて、かなり実際の音ではあるんですが、最終的に、楽器をアフレコし直して、劇伴音楽のように再構成しているところがあります。今回はサウンド・レコーディスト(録音)がピエール・メルタンスさん、サウンド・エディター(音編集)がポール・エイマンスさん、リ・レコーディング・ミキサー(整音)はトマ・ゴデールさんというチームでして、音の作り方も面白かったですね。
都合よく撮った感じがしないというのは非常に嬉しいところで、というのは基本的に事前にカットを割ってるところは非常に少ないんですけど、当然狙いなく撮っているわけではない。あるワンショットを撮って、一つ力強い何かが撮れたとする。すると、それと編集で呼応するようなポジションからまた撮って、を繰り返す。カメラポジションを決めるということはやはり、編集を決めるということであって、後でどうにかなると思って撮ってはいない。あくまで、一つの流れの中で撮られないと、望んでいるような演技や感情が生じない、少なくとも今自分が求めているレベルのものが得られないから、通しで全部やってもらっているということなんです。それがベストなやり方だと思っているわけでもない。ただ今のところ、ほかの良いやり方を知らないだけで。ただこのやり方だと望むような演技が生まれたとしても、それが狙いのポジションとずれることはあるわけです。ヒキから始めて、次ぐらいに来るかな、と思って、メインと思われるポジションに置いたら、俳優が妙にハマってしまって、時間だけが過ぎてしまうような状況もある。役者も疲れさせたと思う。

三宅:ほんとにナマモノですよね。カット割りの話でいうと、石橋英子さんとの往復書簡、めちゃくちゃ面白く拝読しました。濱口さんが「年々、カット割りがわからなくなっている」とお話しされたことに共感もしまして。

濱口:おお、あなたもですか。

三宅:十年前の自分に比べれば全然わかるとも言えるんだけど、でも違う意味で、全然わからなくなっている。なんて言えばいいのかな……。

濱口:新作の現場ではどうやってたのか聞いてもいいもんですか?

三宅:簡単にいえば、「通し」を複数ポジションかつ多くの場面で徹底してみる、という。今までそんなにやってなくて、だから、目線の変化とそれに応じた繋ぎとかあんまり考えたことがなく、編集時では何ができて何ができないんだっけ、そこから逆算して現場中は何をどこまで考えておけばいいんだっけ、みたいな。

濱口:つまり、これまでの三宅くんがたとえ現場で目線がつながらなくても、別の仕方で繋がるように撮っていたってことでもあるよね。それはおそらくリズムやショット一つひとつの呼吸と呼ぶべきものなんだろう、と思う。
自分がカット割りがわからなくなるのは、俳優たちにあんまり指示をしないっていうことが根本としてあるわけですよ。通しで演じることを繰り返すうちに、その場が機能し始める。そうすれば、思ってるようなものが撮れるはず、っていう前提でやっている。俳優たちが自発的に自分のキャラクターっていうものをある程度把握して、そこでの関係性の中に入って、興味を惹かれたものをちゃんと見るっていうことが起きれば、後は俳優たちの集中が切れないうちに、適切な位置にカメラを置く、っていうことを繰り返すだけになる。でもこのやり方だと、やっぱり俳優の感情がいつどうやって生じるのか、正確にはやっぱり定められない。感情を定められない、というのは動きを定められないということでもある。感情が生じたときに、それに即した動きが生じるものだから。仮に動きを定めてしまうと、たとえば「見てくれ」って言われたから「見た」という動きになってしまう。
実際には、指示をした動きと自発的な動き、この2つにはほとんど差がないのかもしれない。けれども、少なくとも今の自分にはわかる気がする。思い込みかもしれないけど。となると、自分は自分の基準に従わざるを得ず、俳優たちがそういう状態になることに任せるしかない。そうすると事前にカットを決めるというのは、ある程度の目算を立てることはあっても、厳密には不可能になる。

 

■「見る」と「見つめる」

三宅:俳優たちがそういう状態になるという点では、長塚京三さんにも不意打ちされました。夕陽のベッド際に立つ場面の佇まいにもハッとしましたし、やっぱり、前半の舞台のQ&Aで「フランス語では感情を乗せられないから」と発言した人物が、庭での舞台中、咄嗟に日本語からフランス語に切り替えて芝居を続けるところ。その声の響きとか、長塚さんの全身が喜びに溢れかえっているようでもいて、生の祝祭感を体現されていましたよね。

三浦:それに関連して、パンフレットの中での長塚京三さんの発言に興味深いところがあって、濱口さんは「同じテイクをあんまり繰り返さない」って書かれていたんです。つまり微妙に演技を変えるとカメラの角度も変えると。ここでの「同じテイクは繰り返さず、微妙に角度を変える」っていうのはどういうことなんでしょう。

濱口:さっき自分のことを愚直と言いましたけど、長塚さんの実直さが、一つの指針としてあったと思います。本当に自分みたいな若造のよくわからない演出や撮り方を、何とか理解し、どこまでも遂行しようと付き合ってくれたという気がします。長塚さんが仰ったのは、自分が言ったことというよりも長塚さんの解釈でもあるのかなと思うんですが、まず自分が俳優に伝えていることは基本的に二つです。一つは、演技をいろんな角度から撮りますから、何度も全部通しでやることにはなりますよということ。もう一つは、基本的にそのとき同じことをやっていただいてまったく構わない、ただ何か違うことをやりたいと思ったらいつ何時そうやっていただいても構わないということ。もう微妙に角度が違う、というのは、それが撮られている側の感じ方なんでしょうね。特に演劇部分なんかは、基本的には長塚さんにカメラが向いているので。何度も繰り返すけど、いちいちOKとかNGというのも基本的には言わないんです。というのは、少なくとも部分的にはすべてOKだから。ある場面が編集可能になるよう、OKテイクが撮れるまでひたすらただただ撮っていく。ただそうやっていると、だんだん俳優たちも「これ、撮ったものってほとんど使わないですよね?」とはわかると思うんですよね。10分のシーンで3時間撮っていたら、まあ170分は使わないわけですから。さっき言ったみたいに、それはカメラが向いてないときもやらなきゃいけないわけです。カメラの向いてない側で演技をしてもらうときも、カメラの向いてない側がどれだけ重要かというのは、けっこう繰り返し演説のようなことをしました。全部必要で、その都度、いい加減に撮ってるわけではない、あなたがたを便利遣いしようとしているわけではないってことをなんらかの形で示すようにはしてました。演劇とか〈ヴァネッサの部屋〉の観客に対しても。感動したのは客席のリアクションを撮っているときも、長塚さんが一切手抜きなく演技を繰り返してくれたことですね。その姿勢は全体に作用したと思います。長塚さんだけでなく、俳優の誰一人手を抜く様子がなくて、何かその都度発見をしているような感触のある現場で、その雰囲気は心からありがたかったです。

三宅:俳優の仕事を受け止めるにあたって、そもそも濱口さんの脚本では、基本的にト書きはきわめて自制されている。体の動きについては、たとえば介護の段取りなどを必要最低限に具体的に書かれている一方で、内面に関しては書かれていない。

濱口:つまり感情的な指示がない。

三宅:ええ。ただ、「見る」と「見つめる」という特別なト書きがありますよね。この違い、濱口さんの中でどうなってるのか。そしてなぜ、「見る」というアクションをト書きにしたり、しなかったりするのか。たとえばシーン41。

真理「これから何が起こるか、勉強しすぎるぐらい、してしまったから」
真理は痛むのか、肩を強く掴む。
真理「もう奇跡はない。後は、痛みを薬で抑えながら、この世界から消えていくだけ。何も残せないまま」
MLは真理を⾒つめる。
真理「だから怖いよりもずっと、悔しい」
ML「真理、パリに⼀緒に帰ろう」
真理はMLを⾒る。

(『急に具合が悪くなる』第3稿より/提供゠濱口竜介)

濱口:これはね、「見つめる」と「見る」はやっぱりぜんぜん違うものとして書いているとは思います。感情的な状態として。

三宅:うん、ぜんぜん違うものを求めているなとは思う。俳優も読み飛ばせないはずです。このト書きは何?

濱口:具体的な行為そのものを指示しているというよりは……、何度もこの原作を読んでいて、作者の身体性みたいなものが移ってくる感覚があるんですよ。宮野さんの身体の状態でキーを叩くっていうのは一体どういうことなのか。言葉を選ぶときやメールの送信ボタンを押すときの磯野さんの祈るような気持ちとか、返信を待つときの緊張っていうのは一体どういうものなのか、そういうことを想像したりするわけです。文字を介してだけど、本当にグイッと差し向かいで見つめ合うような場面が往復書簡のなかにもある気がするんですよね。それを脚本という別のテキストにおいて移し替えていく。それは最終的に俳優の身体の状態として受け渡されるようにしていく。それこそ、今読んでもらった真理が「怖いよりもずっと、悔しい」と言っている場面、この真理をやはりマリー゠ルーは見つめているだろうと思うわけです。全身の感覚のすべてが彼女に向かっているだろう、と。意図としてあるいは指示として書いているというより、そのときの想像上のマリー゠ルーを叙述している感じ。その発言によってトーンが変わったマリー゠ルーの言葉を聞いて、今度は真理がふとマリー゠ルーを見るってこともまたその場に起きるはずだと想像した結果のト書きなんだと思います、だから、多分会議の場面とかも同じなんだと思うんですが、正確にそのタイミングで見なきゃいけないということじゃなくて、つくっているのは、ある流れの全体。それも話の流れというよりは、あまりいい言葉が見つからないけど、気の流れとか力の流れとか、そういうものに近い。

三宅:うおお、すげえ。

濱口:全体の空間の中でうねっているものを、文字として置いていくような。本読みをして、現場で大まかな配置と動線を決めるだけとなると、もうほぼこのテキストを俳優が読めば何かが起こるように、仕掛けとかなきゃいけないわけで。そういうふうに書いてはいると思う。まあ、もちろんそれだけでは十分ではないのでサブテキストとかも書くわけなんだけど、ト書きについては、力の方向を示す矢印みたいな気持ちで書いているっていうことなのかな。具体的な指示ではないし、やらなくてもいいんだが、読んだらそうなっているはずだ、みたいな。

三浦:今三宅さんが上げた場面の直前に、「怖い?」「何が?」「死ぬことが」、というやり取りがあります。この「死ぬこと(de mourir)」、とマリー゠ルーが意を決して言うその直前にクロースアップになると思うんですけど、この呼吸には心底しびれました。まさにこれしかないという流れで。たとえばここでカットが変わるということは、どの時点で決まるんでしょう。これもまた、事前に、ではない?

濱口:これはもう編集です。この場面は、天候予備日があって2日撮っているんです。前日に台風があって、撮影が1日順延した。その直後の1日目は霧が出たんです。おそらく地面が水分を多く含んでいたので。ただ、太陽が出なかった。2日目になると今度は霧がすっかり晴れていて。それを組み合わせたものがこの場面になっています。

三浦:シナリオだと「朝日が昇って顔を照らす」って書かれてるから、それが必須条件だったんですか。

濱口:いや、そんなこともなかったです。やっぱり撮れない可能性もあるので。そういうのは書いといたら、チーム全体が目標とするものがわかって動きやすいかな、ということぐらいで。でも、この1日目の霧が非常に良くてですね。本当にこの日の最後に日さえ出てくれれば、全部この霧を使いたかったぐらいなんですけど、あまりに五里霧中って感じで終わっていたので、このシーンがこれではいかんと。そうしたら、2日目に太陽の面でも、演技の面でも更に素晴らしいものが撮れた。できればどっちもいいとこを使いたいが、そうするならどこかで霧の場面から、晴れて日の出るところにスイッチしなきゃいけない。ヒキ 画えで変えたらあまりに違いすぎるので、変えるとしたら寄りになる。ただ、顔を見せたい理由もあった。それは言っていることと表情のギャップのようなものを見せたかったからで、そうなるとどう切り返しに入るかが問題になる。そうなったときに、けっこう寄りどころは、シンプルに決まった気がします。まさにこの瞬間しかないだろう、と。数週間後には死ぬであろう人に、一般的には口にしてはいけないようなことを言葉にするその瞬間にこそ向けるべきだろう、と。そのとき、彼女がどんな表情でその一言を放つのか。ここから会話も一段深まっていくので。

三浦:この後の岡本多緒さんが、この映画でも指折りの顔を見せる。この顔も、ちょっと言葉で形容しようのないすごい顔でした。この場面は後半のクライマックスの一つだと思うけれど、その画面連鎖は、いろんな複数のファクターがあって、その中で偶然を巻き込みながら決まっていったんですね。

濱口:そうですね、あれは本当に最終日の顔なので。本当にどちらの俳優にも何も言う必要がない。むしろまあ、誰も立ち入れないような感じ。

三宅:ここでの多緒さん、本当に素晴らしいと思いました。ヴィルジニーさんには逆光で表情が見えづらい位置に座ってもらう一方で、多緒さんには正面で光を受けてもらう、一切何も隠しませんという、濱口さんの厳格な選択、言ってみればハードな愛情に見事に応えている。「怖いよりもずっと悔しい」というあまりにも強いセリフが、どのようにしてあの顔、あの言い方になったのか。単にセリフ一つの言い方なんかのレヴェルでなく、この役に決まるよりもずっと前の人生経験もここには流れ込んでいるのではないかとも感じるので、そう簡単に「なぜ」「どうやって」とは聞けませんが、撮影期間中、多緒さんと濱口さんの間ではどんなことが起きていたんですか?

濱口:多緒さんとは撮影の中間を超えたぐらいの頃に「私の中ですごくいろんなことが起きているんです」って話をされまして。彼女は本当にこの脚本に惚れ込んで、真理というキャラクターも自分にとってすごく運命的な役であるということで準備をしてきていたんですね。
少し分かりやすくするためにさかのぼって話すと、演劇後のQ&Aの場面の撮影時――マリー゠ルーと出会うシーンはもう先に撮っていたんですけど――ここが本当に真理というキャラクターが表現される最初の場面ですよね。多緒さんから「寄りから撮ってもらえませんか? 自分のなかで、もういろいろなことが起きていて、それが出てしまいそうなので」と言われたんです。準備期間も長かったし、最初だけどある種のピークっていうところがある。で、私も「わかりました」と答えてそうしたんです。

三宅:わお。

三浦:「中ですごくいろいろなことが起きている」というのは聞けてよかった…。沸々としている印象ありますものね。それで?

濱口:それで1、2テイク撮ったんです。これは確かにエモーショナルなものであって、彼女は自分がガンであることを告げるときに、ちょっと涙ぐんだり、涙声になったりしていった。演技そのものは全然悪いものではなかったし、話し始めるぐらいの一部は本編でも使ってもいるんですけど、ただ、ちょっと引っかかるところがあった。というのは、ここではまだ真理の感情に観客はやっぱりついていけないはずなんです。やはり、さっきも言ったように、物語の外部から飛び込んできた人だから。なので、その演技を使ってしまうと、おそらくこの人の第一印象が「かわいそうな人」っていうふうに見えてしまう気がした。なので「もう1テイク撮らしてもらえますか」と伝えました。そして「できれば感情の量は一緒でいいんですが、それをできるだけ抑えてください。そうすると密度が高い演技になるはずです」と。最終的にそう伝えたあとの演技が、現在OKテイクとして使われています。実際に、真理というキャラクターが実に気高く見えた。
で、撮影の中盤過ぎくらいに、多緒さんから「私の中で沸き返っている感情を、いつか表現する機会っていうのはあるんでしょうか」と相談されたんです。それに対しての答えは――多緒さんだけでなくあらゆる人にそう伝えてるんですが――「私の考えでは、感情の蛇口はできるだけ絞った方がいいと思います。ぎゅっと絞って、それでも漏れ出てくるものだけが観客に伝わるものになると思うんです」というものでした。悲しいとか辛いという気持ちがあるからといって、それを率直に表現することがベストにはならない。で、カメラはその奥底にあるものを捉える力を持っていると私は思ってるんです。そういうお話をして、結果的に多緒さんが、あの瞬間に選んでくれた演技は自分としても、本当に素晴らしかったと思っています。「悔しい」というあの瞬間、彼女は笑う。それはそう指示したわけではまったくない。そこに、それまでの多緒さんの人生や、この現場でやって来たことのすべてが表現されていると思いますね。カメラを多緒さん側は北川喜雄さんが担当してたんですけど、彼も「泣いちゃった」って(笑)。私も編集してて泣けてくる場面の一つになりました。

三宅:いやあ、面白い話で震えますね。それにしても、濱口さんは俳優の不安を取り除くためにも本読みの時間を作ったり、そして本番で起きたことはなんでも受け止めるという姿勢があるわけですけど、同時に、ときには映画のストーリーテラーという存在として、観客とのコミュニケーションを理由に、演技の不正解も指摘しなければならない。ただ、俳優からすれば、演劇と違ってそこに観客はいないわけだから、たとえば、一体何が支えになるのかな?

濱口:そう、これは未だにわかんない、というのが正直なところ。俳優に自由にやってほしいとは願っているけれど、でもどこかにやっぱりディレクション、即ち方向づけをするという一線はある。ただここに関しては、何より宮野さんという人がきっとそういう人だったんじゃないかっていう感触を持っているんです。

三宅:ほう?

濱口:原作の宮野さんの意気地と言うかな、ある種の「格好つけ」の部分。感情に押し流されず、自分の病状すべてを哲学の言葉で分析し尽くしてやる、と持ち堪えようとする姿勢は読んでいて自分が最も心震えた部分です。死に向かう時間に、人はこのような矜持を保てるものなのか、っていう。宮野さんのご友人の方やご家族に聞いても、宮野さんはどこか格好をつける人だったってお話しされていて、そうだよな、と。なので、真理というキャラクターにもそういう部分ってやっぱり要るんじゃないかなって。そういう姿勢のほうが観客にもより深く届くっていうことは絶対にあるんじゃないかと、原作を読んで思ってました。

三浦:岡本多緒さんには、原作の宮野さんの言葉にたえず立ち戻ってほしいと何度も伝えたのだそうですね。それから、シナリオにおける真理の台詞にも、宮野さんの実存の「格好つけ」の部分が、言葉の端々にそれこそタッチとして表れていると感じていました。たとえば、「ありがとう、勇気を出してくれて」、というときの「ありがとう」。これは何度も繰り返される言葉だけれど、このキャラクターのガイドラインという感じがした。他人に安直には頼らない、頼れない、そうした「気高い」部分と、でも、弱さをシェアせずにはどうにもならない、だから当事者でもないのに踏み込んでくれるマリー゠ルーが死ぬほどありがたい、そうした複雑な葛藤が凝縮した言葉だと思うんです。「ありがとう」というときの岡本さんには、たしかに、押さえつつも沸々と感情が漏れ出る、その震える感じがしてものすごくエモーショナルでした。

濱口:ええ。ちなみに全くの余談みたいな話なんですが、この間、宮野真生子さんのご友人たちが命日近くに毎年続けてる「マキコミヤ」っていう哲学イベントがあって、それに招いていただいて、磯野さんと宮野さんが出会った福岡の書店に行ったんです。そこに宮野さんの教え子の方やご友人たちがいらしてたんですけど、この映画の多緒さんの喋り方を見聞きして、宮野さんご自身の受け答えや物腰にすごく似ていると言われたんです。「動画とかを見て研究されたんですか?」とも聞かれて。ただ、私も多緒さんも、宮野さんの喋ってる姿を見たことや、声も聞いたことがない状態でやっていて。似せることがゴールではまったくなかったんですが、それでも何か安堵するものはありましたね。

三浦:なんとすごい!

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■真理のターニングポイント

三浦:「格好つける人」である真理は、後半に「具合が悪く」なっていきます。そこではっきり転回が起きますね。そこをどうされたのかもお聞きしたいと思ってきました。

三宅:後半には減量をされているように見えたんですが、どうなんでしょう?

濱口:していただいてます。その、中間ぐらいに話したときにお願いしました。

三宅:もともとただでさえ細身な方だから過酷な減量だったんじゃないかと想像しますが、常に力強い存在感になっていますよね。役上の変化、肉体の変化だけでなく、撮影期間には他にも何か変化があったのでは?

濱口:ターニングポイントとしてそこはすごく明確で。今回、撮影が全体で9週間あったんですが、たぶん5週間終わったぐらいに、ここからどんどん終わりに向かっていく、もちろんメイクなどで調整するけれども1、2キロでいいから減量をして欲しいというオーダーをしました。結果的に彼女は4キロぐらい痩せたそうで、それは見ていて心配になりましたね。実際、動く体力もなくなっていって、いい意味で受動的になっていく印象がありました。
砂連尾理さんの存在もとても大きかったと思います。リハから一緒で、言うなれば真理は砂連尾ワールドを表現しているようなところがあるので、二人の間に信頼関係が育っているのも感じました。その砂連尾さんのアドバイスも、彼女に対して、なるに任せなさい的なところがあったと聞いています。減量や疲労の結果、実際に体力もどんどん下がっていったということもあると思うんですが、その受動性の中から生じてくる意志、みたいなものが真理というキャラクターにまた一つ符合していったということもあると思います。

三浦:この映画のテーマに、「立つ」/「倒れる」がありますよね。ユマニチュードの柱の一つが「立つ」ことで、マリー゠ルーは「立たせる」人として表れている。だからその意味で「倒れる」は一見してネガティブな姿勢に思えるんですけれど、しかしそれだけではない。「倒れる」、「横になる」ことが、何かポジティブな力を振るい始めるというのが本作の後半なんだと思います。真理は「倒れる」人になり、そのことで自分が変わり、それだけでなく、自分の周囲も変えていく。おおまかなテーマとして、そういうふうになっていると思うんです。そしてそれは岡本多緒さんの佇まいにも、感動的な変化をもたらしている。つまり自分の殻のようなものを捨てて、生身の存在がさらけ出されている、ということが切々と伝わってくる。そこで、「足裏ダンス」の砂連尾さんがさまざまに助言されていたというのも、膝を打つような話。そこからひるがえって考えると、前半で、いささか無理しているようにも感じられたこのキャラクターの「気高さ」、堂々とフランス語を操る「国際的舞台演出家」の晴れやかだけれど少しハラハラさせもする姿は必要不可欠だったなあ、と。そこから「倒れる」、そのことで生まれる落差が、素晴らしくドラマティックな効果を生み出しているのだから。

三宅:前半の上演後のQ&Aのとき、「不可能なことは不可能です」という言葉を受け止めているヴィルジニーさんが本当に素晴らしいと最初に話しましたけど、ここで多緒さんが「不可能なことは」と言った後に少し間をおいて「不可能です」って発話する、この間も非常に響きました。今更ながら、こういう句読点の指示は、準備中の本読みのときにするんですか? それとも撮影日とか、カメラ置いてからもあるの?

濱口:おお。本読み中に、日本人キャストの句読点はかなり調整してますね。読点は特に、ブレスの位置の調整っていう意味があります。本読みを聞いていると、声が減衰することがあるんですよ。それはなぜかというと、一つのこの言葉の塊を言うために必要な息が十分に吸えてないからで、そういうときに「ここに読点を入れましょうか」と伝えて、調整しています。それが習慣化してしまえば、無理せず減衰せずに発声できるようになる。ただ、フランス語になるともうわかんなかったんで、そこはよほど明瞭な言いづらさでない限りは放棄しているけれど、日本語においてはかなり調整している。でも、その読点によるブレスの調整も「もしよかったら使ってくださいね」ぐらいので、絶対というわけではない。撮影現場で、言い方について言うことはほとんどないかな。そのときやりたいようにやってほしい、とは思っている。ただ、「本読みの通りにやったほうが言いやすいだろうな」みたいなときは、「直してください」と直接に言うよりは、単にもう一回テイクの合間に本読みをしたりする。

三宅:説話上の必要性に紐づいたコントロールではなくて、あくまでも身体操作として必要なブレスを提案する、と。

濱口:うーん、でもどっちもかな。結局、減衰せずに発声ができることによって言葉の意味も伝わる。それは観客にもそうだけど、相手役に対しても大きな意味を持つと思ってます。

三宅:なるほど。ステージ上でいろんな人の目がある中で、でも今はあなたとだけ話しますよっていう、日本語で自己開示をするということも含めた振る舞いによって、「あ、始まった!」というスイッチが入る。音楽などの力を借りずに、二人の演技、声によって。

三浦:「自己開示」という言葉にはすごくピンと来るものがありますね。「格好つけ」の真理が「自己開示」してゆくプロセスが本作の最も大事な柱の一つであって、それが役者の身体性の水準で生きられている。そこが本当にスリリングでしたし、恐れが突破される瞬間は、本当にエモーショナルで感動します。「ステージ4のがんです」と言う瞬間は前半のピークですよね。照れつつ、自分でうんうんと頷きながらそう言う感じ。そこに恥と勇気のせめぎあいが示されていて。

三宅:介護施設でも入居者やスタッフの「自己開示」の場、ないしは「あなたは誰?」という場が複数設けられている。重要なことが形を変えて韻をふむ構成になっているから、その度に自然にこちらの体に入ってきますよね。

 

■ホワイトボードと振り向き

三浦:ホワイトボードの場面で、真理の方が振り返る動きってけっこうあるじゃないですか。黒板を見ながら振り返ったり、話に没頭した後に首を上げてマリー゠ルーを見て、ニヤッと不敵な笑みを浮かべるようなところ。たとえば、「資本主義にはたしかにいい面もある」というようなことを真理が言ったあと、マリー゠ルーが「Mais(しかし)?」って合いの手を入れると、真理が振り返って、笑みとともに目配せをする箇所。こういうところも、「格好つけ」の真理の感情の動きが可視化される仕草として印象的です。こういう身振りは、ある程度濱口さんが振り付けている?

濱口:ここもほかの場面と同様にあんまり細かくは振り付けていなくて。というのは先に言ってしまうと、多緒さんにはホワイトボードのシーンでは基本的にはあくまでホワイトボードに向かってやってくださいと伝えていたんです。というのはここで真理は今この場で思いついたことを書いているから。もちろんその下地にはそれまで考えてきたことはあるとは思うけれども、マリー゠ルーとの会話の中で思いついたものをメモしているのであって、すでにわかりきったことを講義しているわけではない。もし真理がマリー゠ルーの方を向きすぎてしまうと、ただの講義になってしまう。つまり、基本的には二人とも同じホワイトボードを見て、同じように感じ、考えている、そういう場面だということは伝えていて。
このとき同時に、マリー゠ルーが何か言葉を発したら、そちらに目を向けるっていうのは自然な動きとしてあって構わないとも言っていて、その結果として多緒さんが向きたいと思ったときにはマリー゠ルーの方を向くっていう演技が発生している。

三浦:じゃあ内発的に岡本さんから出てきたものなんですね。

三宅:映画公開後、ホワイトボードへの反応がいろいろあったのを読みましたが、ぼくはあのシーンを見たときに「きた! 犯罪映画が始まる!」と思った。銀行強盗の作戦会議で使うやつでしょう。「永遠に傷が回復する化け物と戦っている」とか「戦っているものの正体」っていう勇ましいセリフにもワクワクした。そして何がアガるって、最終的に二人がホワイトボードの方を向いて横並びになる最後のショット。ジョン・カーペンターか、ジョニー・トーか、アベンジャーズかわかんないけど、タッグ完成!みたいなね。

三浦:ほんとそうだね。横並びで腕組んで。未来を見定めようと、同方向を凛々しく見つめている。

濱口:いやいや、ありがとうございます。余談めきますが、こういう正面ショットを使ったときに、「これは誰々の目線で」みたいなことを言われるとちょっとイラっとするところがあるんですよ。「『ドライブ・マイ・カー』での西島秀俊目線の岡田将生が〜」みたいな。でも、撮影行為の実感としては、全部ただカメラで撮った場面が提示されているっていうふうに感じるんです。つまりある意味では、必ずしも自然な視線に回収されない、おかしな場面だと思って撮っている。古典映画でも、レンズから考えたら、そのカメラ位置、その家の壁に埋まってるよね、っていうのがあるじゃないですか。セットだから壁を外して撮っているだけで。『悪は存在しない』はその感覚を突き詰めて撮っているところがある。
で、その延長線上にこのホワイトボードの場面がある。この映画の中にはすでに先行する正面ショットがあって、それは吾朗の演劇場面で、カメラが長塚さんに対して鏡の位置に入るところ。
そして、ここでもやっぱり彼女たちを見つめるものは誰もいない。強いて言うなら、自分たちが書いたホワイトボードそのものに見つめられ、かつ見つめ返している、そういうシーンとして捉えられた方が良いのではないだろうかということでやってるんです。ただ、これは言うは易しで、このシーンを一続きの場面として撮影している場合、この正面の位置にカメラが入るのは非常に難しいんです。この場面も2日間撮影があり、正面ショットは本当に最後の方に撮っている。どうやったかというと、途中まではホワイトボードがそのままの位置にあるんだけど、あるタイミングでそのボードをスタッフがズズズって動かす、そしたらそこにカメラが現れるっていう。

三宅:まじ? ひゃー、かっこいい。

濱口:やっぱりそこまでの流れすべてがないと、ああいう目線や声にはならない。カメラを見てって言われたから見てるっていうのをなかなか抜け出せないところがある。

三宅:実際にはホワイトボードじゃなくて、機材や撮影助手などが視線の先にいるわけですもんね。

濱口:目の前のカメラがあたかも本当にそのホワイトボード、つまり自分たちが挑むべきもの、戦うべきものを見ているというふうに感じられるためには、やっぱりそれまでの記憶と、前段としての流れを通しでやらなきゃいけない。そこでザザザってそのホワイトボードを抜いたらカメラが現れるようにして、スタッフもみんな黒布被ったりとかして、彼女たちの集中を妨げないようにしながらやらないといけない。

三宅:いいですねえ。端から見ると撮影隊ってほんとマヌケで愛おしい。

三浦:あの曇りのない二人の目は、そういう工夫の上で成立していたんですね。驚いた。ヴィルジニーさんがスクリーンのこちら側を見ているような印象もありました。つまりカメラそのものを見ているような印象で、こちらを射抜かれるような力強さ。

 

■正面から顔を撮ること

三宅:施設内での会議の場面、大きく2つありますけども、初見の際に冒頭の会議を目にして「うわ、ワイズマンだ、やりやがった!やられちゃった!」と、悔しさを通り越して興奮したんです。多様な人種、多様な年齢、多様な身体を持った人たちがいて、圧倒されたし、準備含めどうやって作ったんだろうとしばらく考えていました。二回目はなんとか冷静に見て、一応ポジションや編集点などの理屈はわかったんですが、実現するにはどれだけ周到な準備が必要なのか、と。ここはリハはやっているんですよね?

濱口:もちろん。ここはイン前に本読み1日、立ってのリハ1日という感じでやっている。ただここは本当に大変で、リハではセリフのある人をみんな集めて、細かいタイミングを全部調整していく。どこで手を上げるか、入っていくか、みたいな。撮影本番はむしろそれ以外のセリフのないエキストラの人たちの集中力を維持するのが大変なんですね。だから、俳優たちが事前にある程度仕上がってないと、エキストラの人たちには「何なのこの場面?」ってなっちゃう。

三宅:持たないよね。

濱口:そうそう。なのである程度台詞のある人たちはできるようになってもらって。ここはまず遠いところから撮り始めて、だんだん中に入って、どちらかといえばマリー゠ルーとオリヴィエの側から撮って、その後にリアクションを撮って、という感じでやっている。

三宅:マップにすると、関係性に基づいた配置になってるのかなと。

三浦:窓側にマリー゠ルーたちがいて、その奥の壁際のテーブル周辺が看護師の陣営の定位置で、その中央で睨みを効かせるソフィーの存在感が強調されている。

濱口:この場面は、編集で切られた前段が脚本上だとあって、そこである程度わかるんですが、このミーティングで職員たちは引き継ぎをしていて、マリー゠ルーとオリヴィエは経営チームからのお知らせを伝えに来たという場面なんですね。最初の会議でのポイントは、やっぱりメラニーっていう曖昧な立ち位置にいる人物、この後すぐに施設を辞めちゃう人ですね。介護士とも看護師とも経営側ともつかないような位置に居座っている。

三宅:よくわかりました。
それで、まだ理解が追いついてないのは、映画後半の会議場面の演出です。マリー゠ルーが謝罪し、最終的に自分の思いを語る。真理もスタッフと一緒にその話を聞いている。この場面、前半の会議と似ているようで、でも全く違う撮影、編集をされているっていうのが、いや、ちょっとすごいなと。

三浦:違うというのは気づかなかったけれど、どういう?

三宅:1回目の会議に関しては、登場人物間の視線をさほど遮らないような位置にカメラがある。

濱口:まあ、この場面では人物に対して、物理的にも精神的にもより外側の角度にカメラがあるって感じですね。最初の会議はもちろん撮影序盤に撮ったところだったし、1日の撮影ということもあって、グイッと中に入るのは、マリー゠ルーとソフィがバチバチやるとこだけですね。こういうところは集中力も上げやすいし、カメラも必ずしも邪魔にならない。

三宅:それが2回目の会議の場面になると、最終的に人物間の内側にカメラが入っていって、「あれ、ワイズマンを見てたら小津になったぞ?」みたいな。多緒さんの演技、聞き顔のショットも、あれ、ただ撮っても簡単にはああは映らない。何をどうやったんですか?

濱口:すごい表現、ありがとうございます。この、後半の会議場面も2日あって、テイクを重ねて苦労してはいるんだけど、ここは本当に二人の演技が結実した場面というか、この正面ショットを撮った最終テイクは12周目、13周目ぐらいかな。ヴィルジニーさんも撮影全体を通して、最初から適応できたわけではもちろんなく。当初は私の言ってることがよくわかんなかったって後で言われました(笑)。まあ確かに実際少し曖昧なことを言っていて。セリフをこれから覚えてもらいますよというときに、「もちろん自分の覚え方もあるだろうからそれを使ってもらって構わないんだけれど、ただ、セリフを外側から道具として使用するようなアプローチではなく、言葉の中に入ってやってほしい」ということを言ったら、最初はまあキョトンとされました。ただ、なんかわかることを言うより、ちょっとわからないことを言うのが大事みたいなことは思ってるんで、いいんですが。

三宅:なんて恐ろしい。でも、その通りだと思います。

濱口:でも後々にこれをもっとわかりやすい言い方を発見したんです。それは、セリフが楽器みたいなもんだとして、もちろんちゃんとその楽器のプロフェッショナルとして自分のフレーズを演奏できるようになってもらわなきゃいけない。でもあなたたちはそこからさらに音楽全体の中に入らなきゃいけないんだと。わかりやすくないですか? ただ、これはもう最終日2日前ぐらいにようやく見つけた言葉ですね(笑)。ただ、やっぱりわかり易すぎると何か違うような気にもなる。
で、話を戻すと、この長い会議のシーンが終わった後にヴィルジニーさんから「私、あなたの言ったことがわかった気がする。私はその中に入った気がする」と言われまして、「私もそう思いました」とお伝えしました。
今回はアラン・ギシャウアって撮影監督とやったんですが、ここはどうやっているかというと、ホワイトボードのときと同じで、途中まではみんなの目線の邪魔にならないところ、とは言ってもすでにかなり正面に近い位置にカメラを置いていて、あるセリフに達するとアランに合図を出して、移動車に載ったカメラが動いて真理とマリー゠ルーの間にスッと入るっていうことをしている。

三宅:まじで!? そうか、そういうふうに助走があってから正面ポジションに入れば……。かつて、気合いを入れて斜めの切り返しから正面切り返しになる編集点をイメージして撮ったことがあるんですが、カメラや照明を置き直すとやっぱり空気が壊れて、さっきまでは瞳の奥に見えていた気がしたものが消えちゃったんだよね。それ以来、諦めてたんですが、そんな手が。それにしたって、本当にすごいものが映ってる。

濱口:このシーン、私もカメラ脇から演技を見ているんだけど、よくカメラ見てこんなことできるもんだ、すごいなと思った。アランも「すごかった」って興奮してた場面ですね。ただ、ここで一つ言っておきたいのは、こういう場面が撮れるのはこのアランの人間性もとても大きいということです。撮影監督の中には、ほとんど撮影現場のリーダーみたいな、現場を支配してしまうようなタイプの人がいるけれど、アランはそうではなかった。カティの苦労についてはお話ししましたが、単にいい画を撮ろうと思うなら、私のやってることは言わば撮影チームの邪魔ばかりしているわけです。でも、彼は私のやろうとしていることを受け入れてくれたし、どうすればそれを実現できるかを常に考えてくれた。彼の献身が、ここでの正面ショットの表情を引き出す一因になっているのだ、とは強く言いたいですね。その上で重ねて言いたいのは、ここは実は、切り返しの多緒さんはもっと大変なんですよ

三宅:うん、そうだよねえ。

濱口:多緒さんもここでは7〜8分ぐらいずっとマリー゠ルーの話を聞いてるんだけども、終盤のあるタイミングでやはりスッとカメラが二人の目線の間に入ってくる。ここもそれまで真理がマリー゠ルーと目が合うっていう芝居も何テイクもやっていて、その積み重ねの記憶がちゃんとあるからできることなんだと思っています。多緒さんはもちろん、本読みしながら、意味と音の大まかな関連は理解しているとはいえ、フランス語が完璧に分かるわけじゃない。なのにこの表情っていうのは、マリー゠ルーの声そのものを聞いているんだな、という気がしました。このときはすげえと思いましたね。

三浦:いやあ、ここもそんな試行錯誤があったとは……。顔の正面性は印象的でしたが、なんとなく望遠レンズでうまく撮っているのだろうぐらいのことしか思いが及んでいなかった。でもこうした複雑な工夫の帰結としてしか「正面性」は得られないということか。非常に勉強になりました。あと、この正面の顔のショットのとき、台詞の流れもその力と合致している。真理のこのときの聞く顔が感動的なのは、まさにこの瞬間のマリー゠ルーのセリフに反応しているからですよね。若年性認知症になったのだというマリー゠ルーの母親が死の間際に最後の命の炎を燃やすくだりについて語られるんだけれど、それが真理自身の死を覚悟してこの施設にやってきた状況に重ねられていて、それを聞き手として受け止めることによって、微細な表情の変化が生じ続けている。驚くべき重層性ですけれど、それもこれも、いま聞いた驚くべきカメラ・ポジションを前提としたものだった。

三宅:ちなみに、そうやってカメラが動くことは俳優たちに事前に伝えますよね?

濱口:言ってます。

三宅:ですよね。驚かせる必要ないもんね。

濱口:そうそう。「ここではカメラの向こうにマリがいるので、間に入って申し訳ないですが、変わらずマリに向かってやってください」と伝えてます。

三宅:そんな仕掛けがあるからこそ、ワイズマン見てたと思っていたら小津になった、言い換えれば、フィクションだからこそ立ち現れるものを見せてもらえたんだとわかりました。
それから、多緒さんがここではセリフがないということを考えてみると、それまではむしろ自分から働きかける人物なんですよね。「喋ろう」とか「帰りたくない」っていうのも基本的には真理からだった。京都においてさえ、真理がマリー゠ルーを癒そうとマッサージを施す。それがここで初めてシーンを通して聞き役に徹する、そういう驚きがある。

濱口:そうなんですよね。全面的な受動性に達する、とも言える。この場面を撮ったのは、それ以降のワークショップのシーンの前ですが、多緒さんがもう仕上がってるなと感じた場面ですね。

三宅:ここでは、サウンドの処理も見事だと思いました。周囲の音環境が、そうと気づかれないレベルで変化していきますよね。いつのまにか声と静寂が立って、まるでサイレント映画のような集中力がショットに宿っている。他の場面、たとえば外を長く散歩する場面でも、ときおり風の音が強くなっているんだけれど、それがいつのまにか止んだ頃にまた声や佇まい、二人がいる情景がすっとこちらに入ってくる。簡単にいえばメリハリ、でも理屈によるコントロールではなくて、水や大気の流れそのままのような。

濱口:いや、そうなんすよ。トマ・ゴデールっていう方でカラックスの『アネット』(2021)やダルデンヌ兄弟の作品を手がけていて、ちなみに黒沢(清)さんのフランス版『蛇の道』(2024)もやってる方なんですが、本当にワールドクラスってこういうことなんだなと。サウンド・エディターにポール・エイマンスさんという方がいて、トマさんの最終的にミックス前に彼がいったん集めてきた音ネタをProTools上に貼り付けるんだよね。ただ、その状態を聞いたらものすごい不安になったんですよ。一個一個の音ネタの主張が強くて、すごくゴチャゴチャして聞こえた。なので、エディットの段階で確認を求められて、今思うと申し訳なかったんだけれども「あの音もこの音も全部いらないんですが……」っていう話をポールにしてしまって。そしたら彼は「大丈夫だ。トマが全部判断する、トマが全部置いとけって言うんだよ。ないものはミキシングできないから」って。ポールさんはトマさんと長らく一緒に仕事をしてるんですが、常に要求されたものは全部残しとかないといけないそうなんですね。で、最終的にトマさんのミックスを聴くと、自分が「なくていい」と思ってた音が、本当に薄く、空気感のようなものとして加えられていた。エディットの段階では騒がしかった音の全部が、世界の厚みとして必要だったって気づくというか。黒沢さんもどこかで言っていたけど、エキストラみたいな人たちの吐息とか自分たちで録音したのを重ねるんですよね。それがあると、確かに世界がちょっと膨らむ。その細かな作業の繰り返し。しかも、三宅くんが言った通り、場面の進行に合わせた流れやメリハリがある。たんに音の処理をしているんではなく、聞き手の感覚そのものを音を通じて調整しているというのが、トマさんのミキシングでしたね。

三浦:すごい話だ。

三宅:音については、画以上に、お互いの感覚を信頼することが肝になりますよね。

濱口:そしてベルギーではミックスが2週間もある。これだけの作業をするには、その期間も必要なんだな、と思った。

三宅:それはいいなあ。とにかく、どの芝居、どのショットが重要かをよくわかっている人の仕事だと思った。音の変化に気づかれたら負けというレベルの最高級の仕事。

 

■夜明け前と音響

三浦:前半の夜通し話し続けるところ、施設内を歩き回る場面あるじゃないですか。そこでの音もすごく印象的で、夜が白けると鳥の「チッチッチッ」って鳴き声がある。その前にジブリルがひとりでラップやってるときには飛行機の音があるし、パリの夜の空に広がる救急車や雑踏の音も聴こえる。その音が時間帯によって刻々と変わっていくんだけど、屋内に戻るとサーッと静寂が訪れて二人の議論が始まる、その緩急がすごく良くて。時間帯によってまったく異なる音響の「ゾーン」をいくつも通り抜けることによって、長い長い夜が過ぎてゆく、という感覚が醸成されている。

濱口:こういうありえないぐらい濃密な一晩を過ごした感覚は、音響によってかなり加味されてると思います。わずかな音によって、静寂が強調され、二人の集中状態もまた、強調される。ちなみに、勉強会の成果として犬の声も入れてみました(笑)。とは言ってもこれは松田広子プロデューサーからのアイディアで、ホワイトボードの場面ぐらいで「ちょっと私眠くなっちゃうから、私のような観客のために犬の声を入れてもらっていい?」って言われたんです。こういう風に後からつける音って、なんかわざとらしくない?っていつも不安なんですけど、でも、ここのミキシングも非常に素晴らしかったですね。現場で鳴ってたかな、みたいな感じで自分も聴けてしまう。

三宅:飛行機の音とかね、その音自体を聴かせるのが重要なのではなくて、次のショットで聴覚を際立たせるためにあるのかな、と。自分がそういう考えでやってるからそう反応してるのかもしれないけど。

濱口:そうね、それこそ『夜明けのすべて』で終盤、藤沢さんのアパートから、山添くんが自転車で走るところの音がそんな感じだった記憶がある。

三宅:そうだ、少し話変わるんですが、夜明けのシーンについて聞きたいんです。夜明けの撮影って、めちゃめんどくさいですよね。労働時間の調整の面からしても。『親密さ』(2012)のような映画で夜明けに賭け金をベットするのはわかるんです。でも、今回の映画の規模で夜明けを撮るってリスキーじゃない? しかも、1回ならまだしも全部で3回もありません?

濱口:あります。

三宅:夜明けなんて、わざわざ頑張って早起きして余裕持って準備してもさ、結局なんかバタバタドキドキするじゃん。ていうか暗いなかで仕事しなきゃだし。

濱口:そう!

三宅:じゃ、なんで夜明けなんて撮るの?

濱口:いや、でも夜明けが好きだから。

三宅:うお。

濱口:まあもうね、この歳になると本当にもう夜明けを体験するなんてことがすごく少なくなる、徹夜とかしなくなるからね。でも夜明けのタイミングって、やっぱ話せることが変わっちゃうっていう感覚があるんですよ。深夜には話せていたことが、明けてしまうともう話せなくなる。夜明けってのはその境目だっていう感じがあるってことを、経験的、身体的に思うわけです。

三宅:そっか、でも確かに、正統の青春映画、あるいは恋愛映画のような雰囲気もあるのはその感覚がベースなんですね。ちなみに夜中のシーンって、シナリオも夜中に書いたりするんですか? 濱口さんは早起きでしょう。日中に夜中特有の会話って書けるもんですか。

濱口:あ、確かに書きづらいところはある。

三浦:濱口さんの初期短編に夜中に脚本家がずっと書いてるやつありますよね。夜の非日常の言葉で多くが占められている。

濱口:でも、もうなかなか単純に起きてはいられないから、早朝に作業することも多い。昼間に書くとき、書いてる顔を妻に見られたりすると妙に恥ずかしいんで、むしろファミレスに行ってみたり。
でも夜明けの場面に関しては、やっぱり撮影がめちゃめちゃ大変でしたね。なぜならフランスには厳格な労働ルールがあって、撮影終了時間から次の撮影まで、11時間は必ず空けないといけないんですよ。仮に朝8時に撮影が終わったら、その日はもう日中は撮影できない。もちろん当然だと思うし、そちらのほうが望ましいとは思っているんだけど。一度夜の場面を撮ってしまうと、撮影時間をどうやって昼に戻していくか、そのためのスケジュールを作るのが本当に大変そうでした。今回は、助監督のアマンディーヌ・エスコフィエさん――ちなみにこの方は『アネット』の助監督もされているんですが、黒澤明と黒沢清が無関係であるのと同様に、カラックスの撮影監督であるジャン゠イヴ・エスコフィエとは無関係です――が、ものすごく献身的だったからできたことなんです。やっぱりプロダクションからしたら「夕方じゃダメなのか?」という意見もあるわけですよ。でもまあ、長回しで夜がだんだん明るくなっていくところを撮るんで、やっぱり夜明けじゃなきゃダメなんです。そういうものを交渉して勝ち取ってくれた。
今回、基本的には撮り順をできるだけ脚本の順番にと伝えていたんですが、小さいシーンについてはここでの調整のために順撮りを崩して、撮影したりしています。たとえば朝8時に終わったら、じゃあ次の日は夜の7時からからしか始められない。そうしたら7時に始めて夜中の2時には終われるようなシーンを撮る、たとえばマリー゠ルーのマンションの場面とかね。そうすれば次の日は13時から始めて、21時には終えて、みたいにだんだんだんだん戻していくみたいな。そうやって撮り順も正確じゃなくていいっていうことを合意しながら、あの手この手を使って撮った夜明けですね。でも、夜がちゃんと明けたのはラッキーです。雨が降ったりしなかったのも。

三宅:本当だね。どの夜明けも不可逆な変化に満ちていて、素晴らしかった。カメラの動きなど厄介なリスクも負いながら、驚きが企まれている。

 

■鳥

三浦:小さい話ですが、鳥のモチーフって、ファーストショットから頻出するじゃないですか。部分的にはもちろんCGを使ってるんですよね。

濱口:鳥のフンはCGです。あれは移動撮影の最後に、小道具の人が水鉄砲的なものを決められた瞬間に打つことで、二人同時に「何か付いた!」みたいな反応をしてます。ちなみに次の切り返しは美術部の用意したフン的なものを実際に顔につけていて、CGはこの形状に合わせて作ってもらってます。ただ、鳥そのものに関してはCGはゼロです。

三浦:え、ほんと? ラストのパンアップの前に横切る2羽の鳥も?

濱口:あれも本物。鳥自体は本当にぜんぶ本物が撮れている。ただまあいろいろ苦労はありまして……。そもそもなぜ鳥を撮ろうと思ったかというと、撮影の1年以上前にパリに行って、2ヶ月ぐらい滞在して脚本のためにリサーチしていた時期があるんですけど、そのときに妻と二人でアジア人街のある13区で歩いていたら、鳩のフンにやられまして……。もう二人でもう半べそかきながらアパートに戻ったという……。これがパリなのかという洗礼を食らった記憶があり、これはもうどっかで使わないと収まりがつかん、と。

三浦:なんと、そんなことが(笑)。「偶然」と「突発」というテーマが、鳥のあれこれによって、軽やかになってるよね。良い感じのつなり。

濱口:実際、最初の方で話した画面外から「突然」何かが入ってくるって話に近いかもしれません。本当にパリは鳩がよく飛んでいる。一回くらうとほんと怖いんです、あいつ俺を狙ってくるんじゃないかみたいな気持ちになる。ただ、パリで鳥のフンをくらうって、誰でも一度はあるようなありふれた偶然なんですね。ちなみに、多緒さんもこの映画のキャスティングの決まった当日にくらったそうなんです。

三浦:すごい。ぜんぶ本物って話だけど、真理の部屋に入ってくる鳩って、あれはさすがにCGですよね?

濱口:あれはペットタレント事務所の人が窓のすぐ外に待機していて飛ばしていて、CGはその人を消すほうに使ってるんです。

三浦:じゃああの場面は全部本物? あんなふうに腕に乗せるとかって常人にはとても無理としか思えないけど。

濱口:多緒さんが動物慣れしていたっていうのは大きいかもしれませんね。ちなみにここは複数の鳩を実は使ってまして、映画全体で6羽かな。5羽は飛ばしていいやつで、人に慣れている鳩は訓練に時間がかかっているので飛ばしてはいけなくて。

三浦:『子猫物語』(1986)と一緒で、複数の動物に演じさせているんですね(笑)。でもこの真理が鳩を自在に操るように見える場面って物語上大事なんじゃないかなと思っていて。マリー゠ルーの能力は、ユマニチュードという技術・思想に裏打ちされているじゃないですか。それに対して、真理は、哲学を勉強した演出家であるという情報はあるけれど、彼女が発揮する能力は、かならずしもそのバックグラウンドが劇中で説明されない。施設の人々の身体をほぐし、やがては「足裏ダンス」によって自分とともにみなを解放してゆく、そのプロセスを見ていて、あ、真理にはこういうすごい能力があったんだと後からわかるんだけれど、この鳩の場面は、その能力の一端をちょっと神秘的な仕方で示しているのかなと。

三宅:あ、そうなんだ。ぜんぜんそう見てなかった。

濱口:そういう根拠になってるかはわからないですけども、これは誰でもわかる元ネタとして『ヤンヤン 夏の想い出』(2000)ですね。『エドワード・ヤン 再見/再考』の中だったかの伊藤丈紘さんの文章の中で、鳩を肩に乗せるシーンのイッセー尾形さんにエドワード・ヤンが「大丈夫です。あなたにはできます。あなたは肩に鳩がとまることができる人なんです」って伝えたというエピソードがあって、すごくいい話だなって。何か画面というよりは、その精神へのオマージュと言いますか。あれは、初めて真理が一人で出てくる場面で、少なくとも映画全体の調子をどこか変えようとしている場面ですね。『風の谷のナウシカ』(1984)じゃないけど、「怖くないよ」みたいにできる人として(笑)。

三浦:ナウシカ! でもやっぱり生物の身体との交信に長けた「解放者」のイメージですよね。

濱口:最初と最後の鳥に関して、順番としては、まず最後のものが撮れたんです。で、このラストシーンは、本当にフランスでの撮影の最終日に撮ったんですね。実は例によって、その時点では最後をどう終わらせるかが決めきれてなかった。ラストショットってどこなんだろうと。ただ、映画全体として最初が都市のショット始まって、そこから施設の中に入っていくという予定だったので、最後にそこを反転させるということもあり得るだろうと。そこで最後の場面は、まず施設内のベランダで一番高いところからパンアップして撮ってるんですが、2テイク目ぐらいにビルの向こうから鳥が偶然飛来してきたんです。その感じがよくてですね。これや、と。これで終われる、って思ったんですけど、そのときは下の現場がまだ整ってなくて、アディジャやフィリップの動きのタイミングがパンと全然合っていなかった。なので続けてそこで5、6回やったんですが、そこでマリー゠ルーとミレーユの二人の切り返しを撮らないといけなかったので、もう降りないと日が沈みますよ、とアマンディーヌに言われて急いで降りてそれらを撮り終わった後、「すいません、もう一回上がっていいですか?」と伝えて再度撮り始めたんです。ただ、この日はもう最終日だったので、スタッフが家族とか呼んで打ち上げの準備を始めてたんですよ。それ自体はフランスの素晴らしい習慣だと思ったんですが、結構「早く終われ」プレッシャーを感じてしまって……。自分は何度も「鳥来い鳥来い」と思いながら同じショットを撮っているんだけど、みんな「いつ終わんの? 何が悪いの?」みたいな感じで、下から見ていて。10回くらい撮ったんですが、もう空も色も変わってしまい、終わったんですよ。

三宅:そんな最終日、つらくなかったですか? ラストシーンでそれだけ粘って撮れない状態のまま、楽しく打ち上げできたんですか?

濱口:いやあ、つらい気持ちでしたよ。どう終わるんだ、この映画、みたいな。ヴィルジニーの笑顔で終われはする、でもなんかな……、と思っていた。多分、観客の気持ちを整理するものが足らない、と。それで編集時に何度も素材を見直していたら、再度ベランダから撮り始めてすぐぐらいに撮った、下の人の動きがタイミングよく撮れていてかつ手前に鳥が飛来したテイクと、当初、2テイクめに撮れた鳥をVFXで合わせることができたんです。ベランダの同じ角からせり出すようにカメラを設定していたから、最終フレームがほとんど一緒で、うまく合わせられたんです。これもまた、たまたま撮れたもののツギハギですね。

三浦:CGっぽいとかそういう印象があるってことじゃなくて、あまりにも見事なタイミングだったから、そうお聞きしたんです。

濱口:でも鳥自体をCGにっていうのは、やっぱりやれなかったと思うんですよね。実際に撮れたものと実物の違いってやっぱり未だに分かることがあるし、無理があるかもっていう不安を消せずに、同じようなラストショットにする勇気も持てなかったと思います。やっぱりそれが撮れてしまっていたっていうことが大きかった。で、ラストショットこれで行けるよ、とCG担当のオリヴィエ・ヴィヨーという人が言ってくれて――この人も優秀でした――そうしたら編集の山崎梓さんがBカメがいろんな実景を撮ってくれていた中から見つけてくれたのが、冒頭のショットです。まず鳥が1羽、画面中央を通り過ぎる。そしてその直後に、また違う鳥が建物を下降していく。なので、これと元々撮ってあったカメラの下降の動きと合わせて、オープニングとしたわけです。

三宅:ちょっと話の腰を折ってしまうかもしれませんが、いいですか。鳥、なんでそんなに重要だったんでしょう? というのも、ぼくはラストの鳥たちは初見ではあんまり目にとまらなかったんです。

濱口:ぜんぜんそれででもいいんですよ。鳥に気づかない人がいてもなんの問題もないぐらいのことで。鳥が重要というわけでも必ずしもなくて。どっちかというと、どうしようか迷っていた部分に、「こんなん撮れてます」というのが見つかって、ああ、こうすればいいんだと自分の気持ちが救われただけ、というところもある。

三宅:その代わりに僕がラストショットで何を感じていたかというと、冒頭で目にしたなんてことはない街角のショットが、最後でふたたび、今度は秋の風景として目に飛び込んでくる、その一回性に撃ち抜かれたんですね。うわ、人生があった、時間が流れた、と。カット1の初夏の実景、カット2の壁面をなぞるパンダウンからその後のすべてが一瞬でフラッシュバックするような。庭から空へとパンアップしていくのにも驚きがあって、グググっというパン棒のなめらかな動きに心が乗っていきました。鳥は、2回目の鑑賞でやっと気づいたんだけど、秋空の夕方の光、その一部として味わった。
そんなこともあって、鳥の話題を今お聞きしながらつい、寝室に鳥が闖入する場面ははたしてどういう必要があったんだろう、と。主題から導かれるアイデアだとは思うので、いわば「書かれた偶然」ですよね。僕はまあ、寝室の鳥には仕込みが必要という経験値が邪魔になっているのかもしれないけど、多くの観客に対して、あの鳥自体にハッと驚くことも期待されているのか、そうではなく、ここでは一旦「記号」として認知されてもよく、あるいは無意識のレベルで、これがその後の「ただの偶然」に開かれるための準備、スイッチとして作用すればいいのか。

三浦:むしろ仕込みと純然たる偶然の境目がなくなっていくみたいな印象を覚えたかな、自分としては。境界を通り抜ける存在としての鳥。ちなみに僕は冒頭で言うと、2つ目のショットのパンダウンも後からじわじわ来ていて。カメラが舐めるように捉える壁が傷だらけで年輪を刻んでいてとても印象的なんです。この施設の前身が精神病院で、過酷な現実があったという歴史が、後からソフィの話で明らかにされますけれど、そういう過去とつながる「記号」だったのかも、と思うんです。観念的だったり紋切り型としての「記号」ということではなく、いまここで中心化されていない「何か」をおぼろげにであれ示すという、広い意味での「記号」。これも自分の単なる深読みかもしれないし、初見ではそれこそ無意識レベルでしか感じられないことでしたけれど、でも「鳥」や「壁の傷」が、映画の始まりに画面を通り過ぎていくことが本作をすごく解放的にしているのではと思う。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

 

■coincidence/accident

濱口:この窓から入ってきた鳩、確かに動物プロダクションに来てもらっての「仕込み」であることは間違いない。一方で、現在映画に残っているような、部屋に入ってきてなかをバタつくっていうのはテスト回しのときだけの動きで。それ以降のテイクでは、もう一方のフレーム外にいた着地点の動物プロの人にまで鳩がスッと直線的に飛んできちゃう。多分状況に慣れてしまったんだと思うんだけど、もうアクシデント性が薄く感じるものしか撮れなかったんですよ。テスト回しなものだから、編集の現場までこのテイクが降りてきていなくって、編集時になって「いや、確かに鳩がもっとバタついていたやつがあったはず」と言って探して、見つけてもらった。でもテストだからバッチリ動物プロの人も映ってしまっていたのをCG班に消してもらって、ようやくこれを使っているという経緯がある。なので、仕込みとは言え、このショットのニュアンスは、偶然によってしか得られなかったものだという実感もある。
ここがこの映画の一つの核心という気もするので、少し展開すると、カンヌ映画祭でプレミアがあって、そこで初めて映画の反応が得られたわけなんですけど、そこで自分が軽くショックを受けたのは「なんか予定調和だね」みたいなリアクションがあったことで。ショックだったというのは、今回の制作全体、撮影そのものが、自分にとっては予定調和と最も遠い体験だったからなんです。だから、「ああ、そう見えるのね」っていうショック。プロセスのほとんどすべてが「これ大丈夫なのか?」の連続で、首の皮一枚つながり続けて、ようやくできたという感覚があった。だからと言って、「予定調和」という印象は間違っている!とか主張したいわけではなくて。今回の映画について言えば、その感想が出るのもまた、わからなくはないという感覚も一応持ってはいるんです。というのは自分も、あんなに撮影も編集もオフロードを走ってるみたいだったのに、最終的にできあがった映画が、極めて滑らかに感じるものでもあったことに自分でも驚いた。それは、さっきの鳥のラストショットみたいに、ある意味では偶発的なものの痕跡を、あの手この手で消した結果でもある。何でそんなことをしたかというと、偶然を求めてはいるんだけど、いかにもアクシデント然として「偶然でござい」ってことで観客の関心を惹くっていうようなことに、今の自分は違和感を感じるところがそもそもあるので。つまり、明らかに作り物である、にもかかわらず偶然であるということが可能か、ということを目指している。そもそも予定調和と、結果的に果たされた調和の境って、どれほど見わけられるものなのか?っていうことを興味深く思っているのが現在なんです。
そういうことを考えるようになったのは、やっぱりここや砂連尾さんとやっている勉強会の影響が大きくて、そこでの成果の一つが『他なる映画と 1』に収められている小津の『東京物語』(1953)についてのレクチャーだと思ってるんですが、そこで山村聰、杉村春子、原節子がそれぞれフレーム内フレームから一斉に、全く同じタイミングでアウトするショットを扱っています。これは、映画の中でも物語の中の流れのなかで、ほとんど意識に上らず過ぎていく。こういう瞬間を自分は「同期」と呼んだんだけど、こういう同期的瞬間を小津は『東京物語』に限らずよく捉えている。で、自分は何で小津はこんなことをやるようになったんだろう、って考えたときに、小津が日常のなかで見つけた同期的瞬間、つまり偶然がヒントになったのではないか、と考えた。まったくの想像ですけどね。ただ、小津ぐらいの認識能力を持って世界を見たら、そういうものを無限に発見してしまうだろうとも思った。
偶然は英語ではコインシデンス(co-incidence)で、つまりは二つ以上の出来事が共時的に起こること。簡単に言えばよく言う「偶然の一致」のことを指している。それは別の見方では突発的なアクシデント(accident)でもある。ただ、日常を壊すというよりはむしろ、時の流れそのものでもあるような些細なコインシデンス、すなわち動きが束の間一致してまた解けていくような瞬間を、小津の眼差しはよく捉えていたんじゃないか。そう考えたときに、小津が吉田喜重に向けて言ったという「映画はドラマだ、アクシデントではない」というあの謎めいた言葉もまた違う印象をもって迫ってくるところがあるんです。それは小津の構築美への執着を意味するのではなくて、この世界がアクシデント・偶然に満ちているという深い認識のなかで放たれた、小津の自分自身への警句であって、偶然の瞬間というものをドラマとして再構築する、ということを小津は撮影現場でひたすらやっていたのではないか。ひたすら、っていうのはつまりはテイクを重ねるということです。ここが面白いところだと思っていて、こうした同期的、もしくは調和的な瞬間っていうのは、結局のところ試行回数をひたすら増やしていくことによってしか、偶発的にしか得られないってことなんですよね。それは偶然を排除しながら、偶然を目指すようなアンビバレントな行為なわけです。だから単にそれが脚本に書かれてあった、というだけでそれが偶然でなかったとは言えないという感覚を自分は持っている。一方で、過去作の撮影を通じて最もよく演出された場面と見えるものが、偶然の出来事でしかないという体験もしてきた。だから、改めて問いたいと思うのは、はたして調和と偶然というのは、見分けられるようなものなのだろうか、ということ。

三浦:いやあ、啓発的な話。あれほど様式的に見える小津映画がじつは偶然に満ちているという不思議は、ほんと砂連尾さんや濱口さんのような観察の精度によってしか言語化できないところだと思っていて、すごく刺激的ですし、自分もこういうことを考えてみたい。で、調和と偶然ということでいえば智樹の存在もそうですよね。彼は黒崎煌代さんが演じているのだから、もちろん本物のASDの方の振る舞いが純粋にドキュメンタリー的に記録されているわけではない。つまり仕込みといえば仕込みかもしれない。ただここでも、映画において仕込みと仕込みじゃないものの境目ってなんなのかが問いに付されている。この点について、本作が、ものすごく高度な領域で試行錯誤をしているのはあきらかで、おそらく黒崎さんと濱口さんが、身体レベルでASDの方々について徹底的に繊細に研究し、敬意を払いつつ膨大な対話を重ねたうえで、さまざまなことが決定されているはず。雑な言葉でいうと、偶然と計算の複雑な弁証法があったんだと想像します。ただその具体がどういったものだったのかは、まったくわからない。たとえば、前半の「テアトル13」の場面で、智樹がどこでいつどんな声が出るかっていうのはどうやって決まっていったんですか? 絶妙なタイミングで画面外から、「うぃー」と声が入ってきたりしますが、アフレコも併用されましたか?

濱口:黒崎さんに関しては、いくら褒めても足らないような気持ちですね。セリフに被らないっていうことは条件としてあるんですけど、アフレコは黒崎さんについては一切していません。音の位置のはめ替えっていうものはありますが、基本的には彼が何かに反応してる場面は、間違いなく現場でやってもらっている。

三浦:そうだよね、喜びに反応して近づいていっちゃうという。

濱口:実際に自閉症の方と一緒にいたりして、ああした声をよく聞く。それがどういう状況で起きるかはさまざまで、マイナスの状態から安定状態をつくるためにやっているのか、もしくは端的に喜びの表現なのかはわかりませんが、基本的には快方向の傾きを持っているという印象を受けました。その声を出したり動くということは、その人にとっての心地よい方向を求めた結果であるだろう、と。
だとすると、映画の中での智樹の行動や声は、黒崎くんの身体の状態として近しい条件で起きていなきゃいけない。そうなると気持ちよく出してもらうことが望ましいと思っていました。で、快感を得るっていうのは感覚なわけですから、インプットが必要だと考えて、リハーサルでは動きだけではなくて、ひたすら蛇口から流れる水を見たり、木の葉が風に揺れるのを見るワークをしたりしました。カメラの知覚を模倣するような「カメラごっこ」と言って。そういう詳細な知覚を持つことができれば、いろんな瞬間から喜びや、快感情を感じることができるのではないかと思って。
ただ実際の現場ではいろんなことを決めなきゃいけないので、こちらはジレンマがある。でも、撮影が始まってから一貫して、この声は違う、と思ったことがなかった。彼は決められたタイミングの幅のなかで、それでも自分にとって心地よい瞬間を待ったり、捉えることができていたんじゃないか、という気がしています。現場での黒崎さんにはただただ助けられた、という感覚です。

三浦:実際、とても気持ちよさそうな声なんです。

濱口:ええ。本当に素晴らしかったなと。

三浦:ぼくは大友良英さんのことをすごく考えました。

濱口:ああ、これは実に近いです。「音遊びの会」という知的障害のある人たちとそれをサポートする人たちがやっている演奏集団があって、大友さんがそこと初期から関わっているんですけど、その活動からヒントを得たところはあります。

三浦:そうでしたか…! 僕は震災後の東北で「音遊びの会」のパフォーマンスを見る機会があって、すごく印象に残っていました。本作の黒崎さんは、なんか風貌までも大友さんに寄っていたなと個人的には感じていた(笑)。大友さんはミュージックとノイズの境目をずっと問題にしている方ですよね。だから単なる参照ということではなく、先ほどの話につなげれば、仕込みと仕込みじゃないものの境界をどうやって突き抜けるか、という問題と関わる。単なる偶然の音=ノイズと、調和の中にある音=ミュージックの境界をどう突き崩して、ありえないようなよろこばしい音世界をつくれるか、というのが大友さんのしている試みだとすれば、本作で黒崎くんがしていることはまさに同質に思えるんです。最後の「足裏ダンス」が成立するのも、黒崎さんが演じる智樹のこうした力があってのことかなと。

濱口:神戸で『ハッピーアワー』制作前のワークショップをやっていたときに「音遊びの会」に来てもらったことがあるんですけど、そこの方たちが鳴らす楽器がすごく気持ち良かった。その人たちが本当に気持ちがいいって思う瞬間に鳴らす音が本当にジャスト、という気がして不思議でした。今この場所、この世界に鳴るべき音がひたすら連続するような感じがあって、それが理想として頭の中にはありました。だから智樹も言わなきゃいけないから言うんじゃなく、言いたいから言うっていう状態であってほしいと思ってましたね。

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■ハグとマッサージ

三宅:今日出てきたいくつかの話題や単語は、ふと思い返すと過去の勉強会でも口にされていて、今になってまた腹に落ちてくると言いますか、読み返したくなりました。
それで、最後の質問です。試写で拝見した際、外にいらしたプロデューサーの松田広子さんに感想を伝えようとしたんですが、なぜか思わず「ハグしてもいいですか」って言ってしまって、ハグさせてもらったんですね。そんな距離感の方ではないので、松田さんを当惑させてしまったと思うんですが……。ともあれ、思わずハグしたくなる映画だった、と。でね、お聞きしたいのは、ハグってなんなんでしょう?濱口さんはこれまでもけっこうハグを撮ってますよね。

濱口:撮ってます。『偶然と想像』とか『ドライブ・マイ・カー』でも撮ってる。

三浦:『悪は存在しない』もね。最後の裸絞めもバックハグの一種でしょう。

濱口:殺意のバックハグ。

三宅:なんでそんなにハグを撮るんですか?

濱口:え。ハグ最高だから。

一同:(笑)

三宅:映画のハグって他人の行為を見てるだけじゃないですか。自分がやるのと他人がやるのを見ているのと、どっちが最高なんですか?

濱口:いや、それはもう自分のハグじゃないですか。

三宅:ま、そうですよね。ぼくもハグってほんといいことだなと思っていて、ハグしたいなって思って生きてるんですけど、真面目な話、他人のハグを撮るのはどういうわけで?

濱口:まあ、映画の触覚問題とも言えるというか、要するにまあ視覚、聴覚的要素っていうのは観客とある程度共有・共振し得るものとして配置できるけど、触覚はそうではない。というのは、被写体同士が触れ合うときってその感覚的強度って当事者にとってはものすごく高いものだと思うんですけど、同じ強度ではそれを外側に伝えることができないっていう問題があると思うんですよ。つまり、観客にとって他者性が高くて、登場人物たちは盛り上がってるけど、「知らんがな」ということにもなり得る。

三浦:『ドライブ・マイ・カー』で西島さんが「何かが起きている、これを今度は観客に開く」と話す場面がありますが、それですね。女優二人がハグをするけれど、その次の「開く」ステップが問題となる。本作では、前半のQ&Aで「フランス語でやってよ」って観客の声があがるじゃないですか。ここではハグこそないけれど、本人たちにしかわからない強いコネクトの感覚が起きている。で、多くのひとにとってはその感覚はわからないまま通り過ぎてしまっている。この「フランス語でやってよ!」のもどかしい感覚もまた大事ですよね。何かが起きていることだけはわかるけど、はっきり視覚化・聴覚化されるわけではなく、ぱっと通り過ぎてしまって、捕まえられないものの感触。そういうものこそが最も尊いとも思う。ちなみに濱口さんの映画で特にそれを強く感じたのは『ハッピーアワー』なんですよ。それこそハグが頻出し、演者同士はきっと得難いコネクトの感覚を得ているのだろうけれど、本人たちこそが一番それを分かっているに違いない、とも感じた。『急に具合が悪くなる』もそういうところがある気がして。

濱口:そうだと思いますね。世間一般のものの見方と同じかどうかはわかりませんが、感触として『ハッピーアワー』に近いっていうのは自分も感じていることで、やっぱりまあ『ハッピーアワー』って自分にとってはかなり特殊な、人生のなかでも特別な体験ではあって、まあやっぱそのワークショップ全体でやったことの方が、実のところ映画そのものよりはるかに濃かったっていう感覚があった。極めて濃密なワークショップで過ごした時間があって、その残滓でできているのが『ハッピーアワー』。逆に言うと、先立つ時間の濃密さがないと、ああいうもの――って何だというところはありますが、「何だこれ?」っていうようなもの――はできない。そういうもの、時間がかかるという意味では極めて非効率的なものを、より商業的な映画の現場でも作ることは可能なのかについて、これまでよりも一段進めて、真面目に試みてみた映画ではあると思います。
時間をかけることの効用は2つあって。一つはある種の発酵。俳優の身体が無意識レベルで変わっていくというか、キャラクターといわく言い難く馴染んでいくようなことは、コントロールに限界があって、時間をかけるしかない。だから、朝ドラとか見てるとときに驚くような表情が捉えられていたりすることがあるけど、ああいうのはやっぱり時間をかけて撮影をすることの効果でしょうね。で、もう一つは単純に試行回数が増やせる、ということ。うまくいくまで何度もやることが可能になる。で、何度もやらないとうまくいかないのは、やっぱりそれがコントロール不能な側面を持っているから。でも、本気で捉えようとするけど捉えられないものこそを求めているところはあって。というのは、先ほど調和と偶然を分けられるのか、と言ったけど、最終的には動的な調和、みたいなものが達成されないといけない。演出っていうのは、目の前から本気で逃げ去ろうとするものを本気で捕まえるってことでしょう。そこで得られたコインシデンスには「逃げ去る」ものとしての動性が宿る。
たまたま撮れたもののツギハギ、というのは実のところ誇らしく言っているようなところもあるんです。たとえばマリー゠ルーが夜の散歩前に真理のふくらはぎをマッサージする場面で、多緒さんの艶やかな白いふくらはぎが映るんですが、それってほかに撮れるものがなくてアランがふとカメラを向けた瞬間なんです。逆光のふくらはぎがそんなに美しく映るっていうのは、こっちはまったく想定できないわけです。この映画におけるカメラの前を逃げ去るものの究極は、最後の場面の足裏マッサージですね。何十回も繰り返しても、さっきも言ったように触覚的なものっていうのはなかなか伝わらない。何やってんだかよくわかんなくて、編集上捨てたショットっていうのが山とあるんですよ。でも、たまたまある位置から撮ったものは、これは今何かが起きている瞬間に立ち会っている、とより強く感じられる。そういうショットを編集では、選び出して使っていると思います。偶発的な事態に、カメラが間に合ったっていう瞬間。この偶然から生じている微妙な動性が、観客にとっても何か今、かけがえのないものを見ているという印象になってほしいと願っている。でも、それをするにはどこか感覚側の動性が必要なんだとも思います。蓮實さんが言う「動体視力」のようなもの。

三浦:ふくらはぎの画面、ちょっとびっくりしました。「マリー゠ルー、なめんなよ」という、原作の読者にとっては、とっておき、と思える大事なセリフを言うとき、マリー゠ルーが丹念にマッサージする真理のふくらはぎが映される。ここ、普通だったら顔を撮ると思うんですよ。

濱口:ここも通して撮影しているので顔を撮ってもいるけど、あそこはその顔を使うよりも、このふくらはぎショットに声をかぶせることのほうが、そのセリフを観客がより意義深く受け取るだろうという判断で、ああなったと思いますね。さっきの映画の触覚問題で言うと、映画内で誰かの身体を触ったり、もしくは触られているとき、その人の状態は触覚以外の形で開示されないと十分に伝えることが難しい。それはたとえば声を発するということによって。声はそれを発する人の内的な状態を表現してしまうっていうふうに自分は考えている。直接的には内臓の状態だけど、その状態から、我々は精神的な状態をかなり類推することもできる。ある場面にふさわしい声がちゃんと撮れるか、ということがいつもOK基準になっていると思います。そこに加えて、もう一段階、その感覚的強度を伝えるために正面に、その人の眼差しの延長にカメラが入るということもある、ということですね。演じている俳優の瞳の奥を見つめるような体験によってこそ、彼女たちが触れ合っているときに感じていることが観客にまでダイレクトに入ってくることもあるのではないかと。

三宅:なるほど、面白い。となると、松田さんにハグした僕の反応というのはこの映画の受け止め方としてすごくダイレクトで、偉いんじゃないか(笑)。

濱口:そうだよ。聞いたときは嬉しかったし、松田さんも嬉しそうでしたよ。

三宅:いやいや(笑)。それはさておき、京都のマッサージの場面は、思わず吹き出しました。だってヴィルジニーさんが「あー」とか「痛い」とか、マジの反応がダダ漏れてて。

濱口:多緒さんは本当にマッサージうまいらしいんですよ。だからヴィルジニーさんからも再現できないようなナマの反応が体の芯から出ちゃう。でも本当に彼女も日本に来て時差ボケも十分に治ってないし、撮影で疲れ切っているところで、ちょっと免疫が下がっちゃったのか親指が腫れちゃったりしてたんですけど、それが本当に癒されていることが声やため息になっていると思います。そういうのは、俳優からの贈り物だと思いますね。そんな生々しい内的な状態を、普段我々は耳をそばだてて聞くことはできないわけですから。そして正面ショットというのも、俳優が自身の内的な状態を差し出してくれてる状態にならないと、単に観客を醒めさせるものにしかならない。圧倒的に作り物でしかない画面なのに、信じるしかないものが映るかどうか。それをずっとやっている。

三宅:「この世界が最高」って、書きたくても書きづらいセリフ第一位、書けても撮れないセリフ第一位だと思うんです。「素晴らしき哉この人生」とか「ライフイズビューティフル」のようなことを言う、この世界を肯定的に描こう、善の方向に向かおうという映画ってどの時代にも無数にあって、めちゃ安易なものから切実なものまでありますよね。直接言えばいいってもんじゃないし、表現方法はいろいろあると思うんだけど、でもこの映画では、現実の社会が「最高」なんて全然言えないことを明らかにするホワイトボード作戦会議や幾つもの衝突や涙をちゃんと経て、このセリフに至る。そして、それを実際に口にしうるために、そうとしか口にできない場面を書き、それをなんとか他者にも信じられるものにしようとして、本当に大変なことを一つずつ積み重ねている。こんなセリフを書いた責任を果たすというか。その極め付けとして、ハグがあり、ハグをしているときのあの正面の顔がある。そんなあたりを、同業者として、というよりも同じ時代のいち生活者として、正面から受け止めさせてもらったんだと思う。

三浦:「この世界が最高」のくだり、僕は最初チャップリンの『独裁者』(1940)を思い出した。ナチスによって世界が全体主義に覆い尽くされようとする状況の中で、映画館の観客に向けてチャップリンが演説をぶちかます、ああいう感じがしましたよね。長塚京三さんが晴れがましい笑みを浮かべながら、フランス語で、この世界に残された希望について声を張り上げるまさにそのとき、演出家の真理が、マリー゠ルーの肩越しにこちらを見つめる。

三宅:そう、見つめられる。だから、我を忘れて感動するというより、むしろ醒める。こちらも二人に感化されて、相互作用に開かれて、真剣にさせられる感じ。

三浦:スクリーンから多緒さんがこっち側を見てる。「内」と「外」をひっくり返す話ですからね。

濱口:お二人に、ここまで言っていただいたことを心からありがたく思います。正面ショット自体もやっぱり、暴力的であり得るものです。それは俳優がヴァルネラブルに自分を差し出しているなら、なおさらですね。観客も自分の眼差しの暴力性を自覚したり、それを弱めないと見ることはできないのではないか。つまり、画面内の過去でしかないものを、現在生じている生々しい何かとして尊重しないと見られないような場面なのではないか。
三浦さんに『独裁者』って言われて少しドキッとしたんですが、今回はまさにチャップリンのその映画と、あと(フランク・)キャプラのことをけっこう考えました。彼らの映画を見ながら感じた結論としては、何がしかのファンタジーを背負うことを前提にしないと、今回の映画は成り立たんなってことですね。虚構であることを全く隠さずにやる必要がある。実のところ、そうでなければひっくり返し、「反転」は起こらない。宮野真生子さんは、九鬼周造の偶然の思想を捉えることに一生をかけたと言ってもいいと思うんだけど、九鬼や宮野さんにとって、偶然とは「存在に食い入る無」なわけです。本来なら、ありえないものが存在している。だから、その偶発的な事態はいつでも消え入りそうに、無に引きずり込まれるようにしながらも成立している。そう考えると、内と外を反転させる、虚実を混ぜ合わせることを目指すこの映画が、偶然を取り扱うのも当然だと思うんですよね。というか偶然においてでしか、虚実は混ざり合わない。起こらないはずなのに、それが起こってしまっているということについての映画です。だから、この映画が予定調和とか、理想として片付けられてしまうことも、ある意味では当然だとは思います。ここで起きていることの強度というのは「こんなことは起こらない」という受け手の感覚にそもそも支えられたものでもある。でも、「起きてるでしょ?」っていう、そういう映画。そして、個人的な感覚で言えば、時間っていうのはどうも悠久なものであるようだから、意外とものすごく確率の低いことも、平然と起こってしまうのがこの世界、という気はしています。たとえば、宮野さんと磯野さんの関係というのもそういうものだと思っているんです。

© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners

2026年8月19日収録
構成:フィルムアート社

 

『急に具合が悪くなる』 Soudain
2026年|フランス゠日本゠ドイツ゠ベルギー合作|196分|1:1.5

監督:濱口竜介
脚本:濱口竜介、ルディムナ玲亜
原作:宮野真生子、磯野真穂著『急に具合が悪くなる』(晶文社)
出演:ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒、長塚京三、黒崎煌代

撮影:アラン・ギシャウア
音楽:サミュエル・アンドレイエフ
音響:ピエール・メルタンス、ポール・エイマンス、トマ・ゴデール
編集:山崎梓
美術:ミラ・プレリ
キャスティング:コラリー・アメデオ
劇中ワークショップ・演劇指導:砂連尾理
衣装:キャロリーヌ・スピエット
メイク:アメリー・ブイイ・ガルニエ
ヘア:マチュー・ゲラサーグ

製作:Cinéfrance Studios、オフィス・シロウズ、ビターズ・エンド、Heimatfilm、Tarantula
提供:Soudain JPN Partners
配給:ビターズ・エンド
© 2026 Cinéfrance Studios – Arte France Cinéma – Office Shirous – Bitters End – Heimatfilm – Tarantula – Gapbusters – Same Player – Soudain JPN Partners
公式X:@FilmAOAS
www.bitters.co.jp/soudain

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濱口竜介 三宅唱 三浦哲哉

2025年12月12日

映画の「演出」とは何か?

ロベール・ブレッソン、ビクトル・エリセ、トニー・スコット、侯孝賢──

巨匠たちの作品の「演出」に焦点を当て、

つかまえようとしては逃げていく、目には見えない「演出」のありかを探す。

見れば見るほど発見があり、考えれば考えるほど面白い「演出」の魅力に迫る、

映画の演出をめぐる、終わりなき学びのドキュメント。