映像作家でメディア研究者の佐々木友輔さんが、映画、写真、美術、アニメにおける〈風景〉と、それを写し出す〈スクリーン〉を軸に、さまざまな作品を縦横無尽に論じる連載。1970年前後に議論された「風景論」を出発点にしつつ、その更新を目論みます。第12回では、均質な風景のなかにある「平坦な戦場」を描いた岡崎京子と、学習漫画的な手法で東東京の風景を見つめるかつしかけいた、二人の漫画家を取り上げます。それぞれが描く「断層的な風景」は、そこに無数の暴力や記憶が埋め込まれていることを明らかにしています。まったく異なる作風の両者に共通する〈並置〉という方法論からは、どのような表現の可能性が見えてくるでしょうか。
パノラマ/ジオラマとしての風景──岡崎京子『ジオラマボーイ・パノラマガール』(1989)
岡崎京子は漫画『リバーズ・エッジ』(1994)巻末に付した「ノート──あとがきにかえて」で、同作の舞台を「深みのない、のっぺりとした書き割りのような戦場[1]」と形容し、さらにはウィリアム・ギブスンの詩から「平坦な戦場で僕らが生き延びること[2]」という一節を引用している(この詩は本編中でも重要な役割を果たす)。河口近くの郊外都市に暮らす高校生ハルナや山田、吉川こずえらにとって、書き割り(虚構)じみているのは学校や団地、コンビナートのような人工物だけではない。学校の屋上から見える風景や無機質な海、期待された役割を演じるだけの人間関係や恋愛関係など、自己を取り巻く世界のすべてに現実感がなく、偽物のように感じられる。
岡崎はこうした「平坦な戦場」の感覚を、絵と言葉の双方から追求する。彼女が引くシンプルな描線は紙面の余白を際立たせ、立体感や物質感を欠いた「均質な風景」を現出させると共に、登場人物たちが発する無数の固有名詞(ランコム、アニベー、ミロス、HMV、シャネル……)は、商品化・記号化されたモノに囲まれて生きることを条件づけられた資本主義・大量消費社会の状況を的確に捉えている。同作は漫画という形式で書かれた風景論・郊外論としても、多くの読者や論者の注目を集めてきた。
ただし、岡崎が郊外の「均質な風景」を前面に打ち出したのはこれが初めてではない。例えば『ジオラマボーイ・パノラマガール』(1989)では、東京郊外の集合住宅を舞台とし、見知らぬ少女・津田沼春子と少年・神奈川健一の偶然の出会いが描かれる。高層マンションの10階に暮らす春子は、そこから見える風景を「まるでパノラマ」と感じ、一戸建て住宅に暮らす健一もまた、駅前広場から眺める風景を「ジオラマみてー」だと感じる。パノラマとは、虚構の風景が描かれた壁面によって密閉された空間であり、ジオラマとは、空や山脈など遠景の書き割り(パノラマ)と、家や木など近景の模型を組み合わせたものである。美術評論家の椹木野衣が指摘するように、パノラマ/ジオラマとして風景を見つめることは、この世界を無限の広がりとして理解するのではなく、明確に「果て」のある閉鎖空間として捉えることである。「空は、ぼくらをここに閉じ込める書き割りの壁と化す。どんなにきれいに見えても、それが牢屋であることにはかわりない[3]」。春子は閉鎖的な世界に飽き飽きし、まだ見ぬ誰かとの恋愛の成就によって外部への脱出を図ろうとするが、そうした「ボーイ・ミーツ・ガール」的な恋愛物語の希求もまた、少女漫画など当時のメディアが発信するイデオロギーを内面化したものであるという点で、資本主義・大量消費社会の論理に組み込まれており、外部への離脱よりもむしろその補強として作用してしまうだろう[4]。
椹木は、同作の登場人物がしばしば「建物の屋上[5]」に上るのは、そこが世界のパノラマ/ジオラマ性を分かりやすく教えてくれる場所だからだと言う。確かに『ジオラマボーイ・パノラマガール』でも『リバーズ・エッジ』でも、さらには風景論争の出発点となったフィルムの一つである『ゆけゆけ二度目の処女』(若松孝二監督、1969年)でも、密室(閉鎖空間)としての風景観をもっとも象徴的に示しているのは、男女が屋上に昇るシーンであった。この世界の果てにある空=障壁(スクリーン)を360度見渡せる屋上は、風景というヴェールに取り囲まれた状況を強烈に痛感させられる場所であると同時に、そのヴェールの向こう側には何があるのかという想像力をも喚起するという点で、パノラマ/ジオラマ世界の「ほころび[6]」が垣間見える場所でもある。中平卓馬が写真を撮ることを通じて風景のヴェールを切り裂こうとしたように(連載第1回参照)、岡崎もまた、漫画を描くことを通じて風景の裂け目を探そうとした。『リバーズ・エッジ』の黒々とした水面や夜の闇は、中平の捉えた海面や夜景とどこか重なって見える。
断層的な風景──岡崎京子『リバーズ・エッジ』(1994)
『ジオラマボーイ・パノラマガール』と『リバーズ・エッジ』の顕著な違いは、前者がパノラマ/ジオラマじみた風景の「ツルツル/ピカピカな表面[7]」をシンプルな描線で描き出しているのに対し、後者はその上に無数の亀裂やひび割れ、汚れや染みを描き加えている点だ。真新しい建物の外壁や美しく舗装された道路でも、日照りや風雨、自動車の走行や人為的な損壊など、様々な力が加えられて瞬く間に経年劣化が進行する。荒れ果てた学校にはゴミが散乱し、壁面は落書きだらけ。河原も整備が追いつかず、動物の死骸が散乱し、セイタカアワダチソウが生い茂っている。
各頁に執拗に描き込まれた亀裂やひび割れは、原則としてそのコマ限りの登場であり、なぜ傷が生じたのかが具体的に語られることはない。椹木野衣は、起源を辿ることのできないこれらの傷が──同じく紙面/壁面上に描き込まれた無数の落書きと同様に──「徹頭徹尾、表層だけのもの」であり、失われた現実感の回復や過去の想起といったテーマにも決して結びつき得ない「落書き可能な表面の効果[8]」に過ぎないと断じている。確かに、岡崎が描こうとしたのは「戦場」としての郊外ではなく、あくまで「平坦な戦場」としての郊外だ。過去の痕跡を表層的な落書きと等しいものとして捉えてしまう想像力が、郊外に特有な現実感なき現実感を作り上げている。しかしここで椹木は、「平坦な戦場」の平坦さを強調しようとするあまり、「無数に刻み込まれた擦り傷や切り傷、表面の剥離や酸化、光沢[9]」にこそ目を向けるべきだという自ら掲げた方針を裏切ってしまっているのではないか。記憶と痕跡の側面と、忘却と風化の側面、その両方を同時に見なければ、郊外の特殊な場所性に迫ることはできない。「忘却の歴史と希薄さの地理のなかにある神話と現実を生きることが、郊外を生きるということ[10]」だという若林幹夫の言葉は、『リバーズ・エッジ』の郊外像を分析する上でも重要である。
この観点から同作を読み返すと、どれだけエフェメラルな傷であっても、他愛のない落書きであっても、それもまた確かに過去の痕跡であるということを、岡崎が絵と言葉の双方で明示していたのに気づかされるだろう。全編にわたり、起源を辿り得ない傷に満ちた風景が広がる一方で、ハルナたちは今まさに行使されようとしている暴力の目撃者もしくは当事者として、この世界に新たな傷が付け加えられるのを目の当たりにする。同級生からいじめられ、暴行を加えられた山田の身体は傷とアザだらけになり、衣服には血が染み付く。こずえが学校内で見つけた子猫たちの死骸は、ビニール袋に詰められ、その血や肉によるものと思われる汚れが荒々しい描線で表現されている。こうした暴力と傷との因果関係の明示は、先述した起源不明な傷の見え方にも影響を及ぼす。どの頁にも描き込まれた大小様々な傷や汚れはすべて、かつてそこで何かしらの暴力が打ち振るわれたことを仄めかす痕跡として機能するのだ。
岡崎は「ノート──あとがきにかえて」で次のように書く。
彼ら(彼女ら)は決してもう二度と出逢うことはないだろう。そして彼ら(彼女ら)はそのことを徐々に忘れてゆくだろう。切り傷やすり傷が乾き、かさぶたになり、新しい皮膚になってゆくように。そして彼ら(彼女ら)は決して忘れないだろう。皮膚の上の赤いひきつれのように[11]。
たとえ起源の暴力の記憶が次第に薄れていったとしても、完全な忘却はあり得ない。一度刻まれた傷はかさぶたとなり、新しい皮膚となり、「赤いひきつれ」として、エフェメラルな痕跡が残り続ける。『リバーズ・エッジ』の舞台が「平坦な戦場」と呼ばれるのは、一見すると均質な郊外の風景が、実はこうした無数の暴力による破壊と変形によって成立した「断層的な風景」(連載第11回)であることを示すために他ならない。
「つながり」の切断──沈黙の政治学
山田は河原の奥まったところで打ち棄てられた人間の死体を発見し、それを眺めに行くのを密かな楽しみとしている。その事実を知るのは、同じく時折死体を眺めに来る吉川こずえのみである。死体は布のようなもので包まれているが、あちこちが破れ、めくれた箇所から白骨が露出している。特に頭蓋骨周りの布が綺麗にめくれているのは、山田かこずえがよく見えるように意図的にそうしたのかもしれない。布の表面には黒々とした染みが描かれ、まだ血や肉が残っていた時の光景を生々しく想起させる。
山田はハルナを死体の場所まで案内し、自分が生きているのか死んでいるのかも分からないけれど、これを見ると「ほっとする」「勇気が出る」と打ち明ける。多くの論者が指摘するように、ここで死体は何ら象徴的な意味を持たない、物質的なモノとして示されている。またこの時、別の場所でハルナの彼氏である観音崎と友人のルミがドラッグを吸い、セックスをする様子を描いたコマが挟まれ、2つの場面が同時進行することにも注意したい。心理的・内面的な描写もなければ、感情的な昂りも感じられない、淡々とした描写が続く。どこまでも即物的に捉えられた死と性は、そうであるがゆえに彼/彼女らの生きるよすがとなる。
ただし岡崎は、あらゆるものが記号化・商品化し──別の言い方をすれば虚構化し──現実感を喪失した郊外の「均質な風景」の中で、厳然たる死や身体的な快楽が「現実感」を回復してくれるといった明快な解決策を提示しているわけではない。自分が生きているのか死んでいるのかも分からないという山田の感覚が、死体を眺めることできれいさっぱり解消するわけではないし、ハルナもまた、死体を見て「こわい」「おそろしい」という感情を一応は抱きつつも、「やっぱ実感がわかない」と感じる。物言わぬ死体や身体の生理的な反応が与えてくれるのは、「現実感」ではなく、むしろ「沈黙」である。資本主義・大量消費社会は人間の生や死さえも記号化・商品化し、家庭や学校も、個々人に何かしらの役割を担うキャラとして振る舞うよう強制する。どこまで行っても何らかの意味づけから逃れ得ない社会において、河原の死体は単なるモノとして沈黙を貫き、自らの死を意味づけもしないし、山田やハルナの生を意味づけようともしない。それが現実か虚構か、現実感があるか否かといった問いが生じる未然の、意味に還元し得ない「情動 Affect」を喚起させる対象であるからこそ、山田はそれに安らぎを感じる。ドラッグやセックスもまた、身体的な快楽や感覚の変容といった非意味的な情動の領域に留まるための手段と見做せよう。
だがセックスが容易に恋愛関係や家族関係に回収され、意味や象徴の世界に組み込まれていくように、河原の死体もその存在が露見してしまえば、瞬く間に意味づけられ、解釈され、都合よく消費されてしまうだろう。漫画研究者の杉本章吾は『リバーズ・エッジ』について、死にまつわる出来事が真偽不明な「噂」として流通するプロセスに注目する[12]。例えば山田に想いを寄せていた田島カンナの焼死は、彼女の通っていた高校が江戸時代には処刑場だったという──これ自体が真偽不明な──噂話や、12年前に起きたという教師による殺人事件と関連づけて語られ、「田島カンナのユーレイ」が出るらしいと囁かれる。カンナが死に至るまでの経緯やその内面がねじ曲げられ、空無化し、死という結末だけが「学校の怪談」や都市伝説へと組み込まれていくのである。
杉本はこうした噂話の流通を説明するために、社会学者・北田暁大が提唱した「つながりの社会性[13]」を参照し、『リバーズ・エッジ』は意味やメッセージを正確に伝達すること(秩序の社会性)に価値を置く社会から、コミュニケーションが途切れず継続すること(つながりの社会性)に価値を置く社会への変容を浮き彫りにしていると評価する。ここで杉本は、『ジオラマボーイ・パノラマガール』ではメディアや広告による記号化・商品化が進行し、「秩序の社会性」が支配的な場が描かれたのに対し、『リバーズ・エッジ』ではそうした記号性が剥ぎ取られ、陰惨な死や暴力が充満した場が描かれていると論じているが、これを単純に資本主義の回路に組み込まれた場と切り離された場の対立として捉えてはならない。『リバーズ・エッジ』の作中、カンナの死にまつわる噂話と、芸能人(マ◯セリホ)のCMにまつわる噂話が並列的に語られることからも窺えるように、「つながり」、あるいは死や暴力が喚起する情動のような非意味的なものが、必ずしも資本主義の論理と対立するわけではない。人びとの注意を常に惹きつけ、絶え間なくコミュニケーションが続くことを至上命題化したソーシャルメディアやショート動画の隆盛は、もはや意味よりも「つながり」や情動のほうが資本主義を加速させる原動力になっていることを示している。
河原のどこかに埋蔵金があるという噂が広まると、山田ら三人は協力して死体を土深くに埋める。もしも死体が見つかり、コミュニケーションの回路に組み込まれてしまえば、容易に「宝物」としての価値も消えてしまうと直感的に理解しているからこそ、その存在を自分たちだけの秘密にし、世間から隠し通そうとするのだ。加えて三人は、死体を見てどう感じたかは語っても、それが何者なのか、なぜ殺され、遺棄されたのかについては問わず、無言を貫く。徹底して死体をモノとして扱い、意味や解釈から遠ざける「沈黙の政治学[14]」を実践することで、彼/彼女らは「平坦な戦場」の中に自分たちの領域を作り出そうとするのだ。
並置の論理と調査的感性術──岡崎京子「チワワちゃん」(1994)
だが「沈黙の政治学」には明確な問題点がある。河原の死体をモノとして扱い、沈黙を貫くことで、山田らは安らぎや勇気を得られるかもしれないが、その死体がまだ生きた人間であった時に打ち振るわれたであろう暴力は見過ごされたままである。また岡崎京子が描く即物的なセックスも、しばしば一方的で強制的な性暴力として行われる。若松孝二が「密室」としての風景を破壊するために他者としての女性を召喚し、過酷な暴力に耐え忍ぶ役割を担わせたように(連載第4回参照)、『リバーズ・エッジ』における「沈黙の政治学」も、暴力を行使された誰かの犠牲の上に成り立っている。
この問題を別の角度から考えるための手がかりとなるのが、岡崎京子が『リバーズ・エッジ』と同年に発表した短編「チワワちゃん」である。同作では、東京湾で発見されたバラバラ殺人事件の遺体が友人のチワワちゃん(千脇良子)であることを知ったミキが、友人たちを集めて彼女の思い出を語り合う。だが各々が語るエピソードは自分の知るチワワちゃんのイメージとうまく噛み合わず、一向に全体像が見えてこない。やがてミキは、自分自身も含めて「誰もチワワちゃんのことを何も知らなかった」と気づく。そして友人たちと東京湾を訪れ、一人一人チワワちゃんとの思い出を語る姿をビデオに収めた後、持参した花とワインを海に投げ入れる。
一見するとこの結末は、『リバーズ・エッジ』で否定的に扱われていた「噂」や「つながりの社会性」をなし崩し的に許容しているかのようであり、「チワワちゃん」は他者の死を都合よく解釈して歪める過程を描いただけの漫画だと感じられるかもしれない。実際、チワワちゃんはなぜ殺されたのか、彼女は何をしたかったのかという問いは未解決のままだし、そもそもミキたちは──そして岡崎も──初めから答えが見つかると思ってはいなさそうである。その意味では「チワワちゃん」も、『リバーズ・エッジ』の問題に適切な解答を出せているとは言い難い。
だがここで、作中で明確に批判的な描かれ方をしている「噂」が、雑誌やテレビで評論家が語る「物質や情報の大量消費される都市でホンローされる若者が劇場都市東京で演じてしまった典型的な悲劇」「むもくてきな若者」などのコメントであることに注意したい。評論家がチワワちゃんに関する断片的な情報をつなぎ合わせて紋切り型の物語を構築するのに対し、ミキたちは各々の語りを無理につなげようとせず、事務的な手つきで順にカメラを回していく。花とワインを海に投げ入れる瞬間も記録しておけばとの提案も、「クサいし ソレ撮ったらヤリスギ」と却下される。他者の死を即物的に捉えるところから一歩踏み込んで、チワワちゃんとの個人的な思い出を語り、共有しはするが、それらが連鎖して大きな物語が構築される一歩手前で立ち止まり、断片的なエピソードを「並置」しただけの状態に留める。ここでは、不在のチワワちゃんを巡るイメージが、無数の傷や亀裂、歪曲や欠落に満ちた「断層的な風景」として提示されているのだ。
「チワワちゃん」が見出した「並置」の論理をさらに発展させることで、「均質な風景」や紋切り型の物語に抗いつつ、同時に暴力の起源や歴史にも迫れるような方法論を構築できないだろうか。あらためて同作の冒頭を確認してみると、そもそも東京湾で見つかった死体が千脇良子の遺体であると判明したのは、血液型や歯型などの分析から身元を割り出すフォレンジックス(法医学/科学捜査)の結果であることがテレビニュースで明かされている。それがなければ、損傷が激しく腐乱の進んでいた死体はずっと身元不明のままであり、ミキがチワワちゃんの死を知ることも、皆で思い出を語り合うこともなかっただろう。このように、一見すると客観的事実の探究とは無縁に思えるミキたちの喪の作業も、実はフォレンジックスによる死の同定に支えられている。確かに死体が自ら声を発し、証言することはできないが、その死体に刻まれた傷や変形は、かつて何かしらの暴力を感知した痕跡=記録であり、そこから意味を読み取る「超感性術[15]」によって、失われたはずの過去を高精度に復元できるのである。
フォレンジック・アーキテクチャを率いるエヤル・ヴァイツマンは、「骨はいまだに主体に取り憑かれている特殊なモノの秩序であり、それゆえ主体と客体の証言と証拠をつなぐ役割を担っている[16]」と述べ、その一例として、ナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレの頭蓋骨を挙げる。メンゲレはアウシュヴィッツ強制収容所で残虐な人体実験を行っていたが、敗戦後は南米に逃亡。1985年にブラジルでメンゲレと思しき遺体が発見され、専門家たちのフォレンジックスが行われた。結果は、メンゲレの頭蓋骨である蓋然性が極めて高いというものだったが、どれだけ厳密な分析でも100%事実とは言い切れない。専門家および一般の人びとを納得させる決め手となったのは、調査団の一員リヒャルト・ヘルマーが示した、メンゲレの顔写真と頭蓋骨画像を重ね合わせたイメージであった。顔と骨がぴったり一致した輪郭と、生と死が不気味に混じり合った情動的イメージは、理性的な判断を超えて感覚的にもこの頭蓋骨はメンゲレのものだと確信させる。フォレンジックスはその語源からして、開かれた議論の場(フォーラム)や、そこで表現力やレトリックを駆使して真実を説得的に語ろうとすること(提示=上演)といったニュアンスが含まれているとヴァイツマンは言い、それを「フォレンジック・エステティックス[17]」もしくは「調査的感性術[18]」と呼ぶ。チワワちゃんの死がフォレンジックスと友人たちの語りによって確かなものとされたように、メンゲレの死もまた、フォレンジックスと人びとの確信の協働によって認定されたのだ。
「学習」過程を描く漫画──かつしかけいた『東東京区区』(2023)
登場人物の語り(証言)に重きを置く「チワワちゃん」に対して、語りだけでなく、モノに刻まれた痕跡=記録にも関心を向けた漫画作品として、かつしかけいた『東東京区区』(2023)を挙げることができる。同作では、ムスリムの大学生で社会学を専攻するサラ、立石仲見世でカフェを営むエチオピア人夫婦の娘で、食にうるさい小学生のセラム、街歩きや地理・歴史を調べるのが趣味の中学生・春太が偶然出会い、葛飾区や墨田区など東東京の町々を散策する様子が描かれる。タイトルの通り、訪れた町の特徴も各自の関心もまちまち(区々)である。三人はしばしば当初の目的──セラムの父の忘れ物を届けに行く、カフェの宣伝を兼ねた立石周辺の地図を作るなど──も忘れて寄り道し、その土地の歴史を学んだり、食を楽しんだりする。
かつしかと岡崎の風景に対する態度の違いが象徴的に示されているのが、東京スカイツリーに上る場面だ。サラとセラム、春太は、展望台からパノラマ的な風景を見下ろし、真っ先に両親の店や自宅の位置を特定しようとする。また同じフロアに鍬形蕙斎《江戸一目図屏風》(1809)の複製パネルを発見し、そこに描かれた江戸の風景と現在の風景を見比べながら、分析的に──あえて言えばフォレンジックに──東東京の地理と歴史への理解を深めようとする。『リバーズ・エッジ』における屋上のパノラマとは対照的に、『東東京区区』におけるスカイツリーのパノラマには固有名詞が満ちており、また密室的な閉塞感ではなく、過去から現在へと至る歴史の広がりが感じられる場所として描かれている。

『東東京区区』©かつしかけいた/リイド社
だがそもそも、岡崎とかつしかの間には共通点より差異が目立ちすぎて、そもそも比較対象になり得るのか、共通の批評基準で分析し得るのかと疑問を抱く読者もいるかもしれない。確かに両者の漫画の読後感はまったく異なる。男性向けロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』で商業デビューし、挑発的な台詞回しや露骨な性描写も辞さないアングラ的な作風の岡崎に対して、かつしかの作風は穏やかで行儀良く、端的に表すなら「学習漫画」的である。春太が町の歴史について学んだ成果を披露し、サラが社会学的な観点からコメントを加える。セラムによる食の探究や地域住民たちの語りは、大文字の歴史叙述からはこぼれ落ちる町のディティールや個人史を豊かに伝える。町の姿を多面的に捉えようとする姿勢や、配慮の行き届いた構成は、しかし、場合によってはむしろ弱点と見做されることもあろう。学習漫画的なスタイルの困難は、読者を教育せんとする作者の意図が透けて見え、物語世界への没入を阻害してしまうことにある。地理や歴史に関する語りは「説明台詞」と受け取られ、登場人物の学習過程もご都合主義だと見做されるリスクと常に隣り合わせである。
ここで、『東東京区区』と一般的な学習漫画の違いを強調することもできるだろうが、筆者はむしろ同作を、あえて学習漫画的なスタイルを借用することで既存の表現の更新を図ったものとして評価したい。そもそも「学習」や「教育」は、人間の社会生活の中でありふれた日常的営みの一つであり、それを避けて通らざるを得ないというのは──個々の作家や作品の問題というよりは──漫画や映画など物語を扱う表現形式自体に内在するエラーである。かつしかは、『リバーズ・エッジ』や「チワワちゃん」にも描かれることのなかった「学習」の過程を、物語世界に組み込むことを選んだ。なぜなら、エヤル・ヴァイツマンが言うように、モノは独自の感知能力を備えているが、自らその意味を説明したり、証言を始めることは決してないからである。調査的感性術を実践するためには、モノに刻まれた痕跡を読み取り、意味づけ、解釈するプロセスがどうしても必要になる。言い換えれば、自分の知らない情報や知識、意味形成の方法や技術をその都度「学習」していかなければならないのだ。
コミックベース・リサーチ──絵と言葉によるスクリーン・プラクティス
かつしかの漫画と学習漫画との関係をより厳密に説明するために、ポール・J・カットナー、マーカス・B・ウィーヴァー゠ハイタワー、ニック・スーザニスが提唱する「コミックベース・リサーチ」(Comics-based Research、CBR)に触れておこう[19]。CBRとは、研究プロセスの中に漫画という形式を組み込んだ実践の総称で、①フィールドノートなど研究データの作成に漫画という形式を用いること、②漫画形式の研究データやその制作プロセスを分析すること、③研究成果の報告・周知の手段として漫画を用いることに大別される。学習漫画と呼ばれる作品の多くは③に該当するが、かつしかの場合は、自分自身が暮らす葛飾区やその周辺地域のフィールドワークを行い、そこで見聞きしたものやスケッチしたものに基づき漫画を描いている。『東東京区区』自体がフィールドノート的ないしはドキュメンタリー的であり、研究データと研究成果が一体化しているという点で、彼の漫画を①の実践として捉えることもできるだろう[20]。また自分自身の経験を国籍や世代の異なる三名の経験に置き換え、相対化し、町々への理解を深めていくプロセスを再構成して描いているという点では、②の要素も含んでいると言える。
カットナーらは、CBRの研究上の特徴の一つにマルチモダリティ(多様式性)を挙げている。多くの漫画は絵と言葉で出来ているが、両者はそれぞれ異なる意味を、異なる仕方で読者に伝えることができる。また絵と言葉は、組み合わせられることで互いに影響を及ぼしあったり、新たな意味を生み出したりもする。この特徴は、本連載の第6回で論じた映像(スクリーン)と音声(語り)の離接的関係による「スクリーン・プラクティス」と共通するものだ。『東東京区区』において、それは、特定の風景(絵)に向けて寄せられる、様々な人びとの語り(吹き出し)の組み合わせとして表現される。たとえ同じ風景を見ていても、サラとセラム、春太では、興味や関心を向けるものが大きく異なっており、その視差によって場所に対する多面的な理解が形成されていく。例えば江戸川土手に辿り着いた時、サラとセラムは「わぁすごい開放感」「風が気持ちいい」と自身の体感を口にするが、春太はすぐさま「江戸川の向こうはもう千葉県だ」と述べ、地理的に場所を見つめているのだ。
加えて言えば、かつしかは絵と言葉の離接的関係を駆使して、一人の人間の中にある複数の視点や視差を描いてもいる。『東東京区区』の冒頭、東東京の地図や下町の風景が描かれた3つのコマと共に、その土地の簡潔な歴史が二重線の四角吹き出しで語られる。いかにも導入といった体裁だが、次のページに移ると、実はそのナレーションは図書館で卒論執筆の構想を練るサラがパソコンに打ち込んだ文章であったことが分かる。彼女は「うーん」「なんか違う」「これじゃただの歴史の叙述だ」と呟き、空腹を感じて外に出る。ここでかつしかは、登場人物にあえて東東京に関する「説明台詞」を語らせることで、学術研究と実体験、歴史を語る言葉と現在の風景の間には明確な差異があることを明らかにしている。さらには、この台詞を語るのが作者(かつしか)とは年齢も性別も違えば、国籍も宗教的背景も異なるサラであることで、中立的・客観的な歴史叙述はあり得ず、それを誰が発話するのかが重要であると仄めかしているようにも感じられる。漫画における絵(キャラクター)と言葉(吹き出し)の組み合わせは、郷土史的な語りであれ、社会学的な分析であれ、あらゆる言説に話者の固有名性を付与する。サラが自らの歴史叙述に違和感を抱いたのを端緒として、『東東京区区』は、無数の視差が人と人の間にも個人の内部にも積み重なっていく様子を丁寧に描き出していく。

『東東京区区』©かつしかけいた/リイド社
このようにして見ると、一見違いばかりが目についたかつしかと岡崎の漫画にも、実は思いがけない符合や重要な共通点が数多くあるのに気づく。立場の異なる三者が結託して、自分たちだけの楽しみ(町歩き/河原の死体)を見つけること。自分たちの暮らす都市を一望できるパノラマ(東京スカイツリー/学校の屋上)が、作中で重要な役割を果たすこと。そして、喪失や死と結びついた風景を前にして、皆でその場所/人との思い出を語り合うこと。
「チワワちゃん」では、チワワちゃんの遺体が発見された東京湾に友人たちが集まり、それぞれ自分と彼女との思い出をビデオに収めていった。それに対して『東東京区区』では、京成立石駅周辺の再開発に伴い、高架化工事のために駅舎が取り壊されることが決まり、サラたち三人は町の住人たちにインタビューを行う。「あそこにカレーのルーを作ってる工場あるでしょ/その向かいに屋台のもつ焼きがあったんですよ」「家の敷地内に防空壕があってそこに逃げるんだ/今でも焼夷弾の音を覚えているよ」「あのねー昔ね/公園でセミの抜け殻見つけたの」。一コマ一コマに、思い出を語る人物の絵と言葉(吹き出し)が収められ、均等に並べられる。悲しみや寂しさといった心情の吐露よりも、「子どもの頃からなじみの惣菜屋さんもあります」「荒川を渡った八広にある朝鮮学校に通っていた」というような、経験的事実に基づくエピソードが大半を占め、人の記憶(証言)とモノの記録(痕跡)の協働によるささやかな調査的感性術が実践される。

『東東京区区』©かつしかけいた/リイド社
次の頁では語り手の姿が消え、立石の風景の上に、その場所にまつわる語りの吹き出しが2個ずつ並んでいる。さらに次の頁をめくると、京成立石駅の駅舎から線路を見下ろした風景が見開きで描かれ、計10個の吹き出しが空に浮かぶ。「チワワちゃん」と同様に、かつしかはこれらの証言を「並置」の論理で構成する。一つ一つの思い出は断片の状態に留まり、一つの大きな物語へと回収されることのないまま、人とモノ、記憶と記録、過去と現在が重なり合った「断層的な風景」を作り上げている。もしかすると、両者が「並置」の方法に辿り着いたのは、漫画という形式を選択したからこそかもしれない。複数のコマを等間隔の余白を挟んで並べ、一つのコマの中にも複数の吹き出しを並べられるこの形式は、時間軸に沿って順序良く物語を進めるだけでなく、一コマ一コマを同一平面上に共存させ、意味的にも空間的にも横並びにして描き出すのに向いている。コマとコマを区切る枠線と余白、風景と台詞を区切る吹き出し線もまた、「断層的な風景」の一端を成す亀裂なのだ。
註
[1]岡崎京子『リバーズ・エッジ』宝島社、1994年、p. 234
[2]同前、p. 235
[3]椹木野衣『新版 平坦な戦場でぼくらが生き延びること──岡崎京子論』イースト・プレス、2012年、p. 38
[4]杉本章吾『岡崎京子論──少女マンガ・都市・メディア』新曜社、2012年
[5]椹木野衣『新版 平坦な戦場でぼくらが生き延びること』前掲、p. 42
[6]同前、p. 42
[7]椹木野衣『「爆心地」の芸術』晶文社、2002年、p. 313
[8]椹木野衣『新版 平坦な戦場でぼくらが生き延びること』前掲、p. 147
[9]椹木野衣「なんでもない場所、万歳!──風景なき平坦な戦場」『美術手帖』2000年9月号、美術出版社、p. 50
[10]若林幹夫『郊外の社会学──現代を生きる形』ちくま新書、2007年、p.221
[11]岡崎京子『リバーズ・エッジ オリジナル復刻版』宝島社、2015年、p. 235
[12]杉本章吾『岡崎京子論』前掲、pp. 199–200
[13]北田暁大『広告都市・東京──その誕生と死』廣済堂出版、2002年、p. 153。なお北田が提唱する「つながりの社会性」は、本連載の第8回で取り上げた概念「関係の絶対性」(吉本隆明)と関連づけて論じることもできるだろう。
[14]E・アン・カプラン『フェミニスト映画──性幻想と映像表現』水田宗子訳、田畑書店、1985年、p. 182。カプランはマルグリット・デュラスの映画『ナタリー・グランジェ(女の館)』(1972)を論じ、男性中心的・家父長制的なディスコース(ある社会において用いられる言葉・知識の編成や運用のされ方)が支配的な社会の中で、あえて「沈黙」を選ぶことで抵抗を試みるフェミニズム的な実践を「沈黙の政治学」と名づけている。
[15]エヤル・ヴァイツマン、マシュー・フラー『調査的感性術──真実の政治における紛争とコモンズ』中井悠訳、水声社、2024年、pp. 70–71
[16]エヤル・ヴァイツマン『フォレンジック・アーキテクチャー──認知可能性の敷居における暴力』中井悠訳、水声社、2025年、p. 81
[17]同前、p. 92
[18]エヤル・ヴァイツマン、マシュー・フラー『調査的感性術』前掲、pp. 28–31
[19]Paul J. Kuttner, Marcus B. Weaver-Hightower, and Nick Sousanis, “Comics-based research: The affordances of comics for research across disciplines,” Qualitative research, Vol. 21, No. 2, April 2021, pp. 195–214.
[20]筆者はかつしかの漫画およびイラストが備えるドキュメンタリー性に着目し、それを「イラストレーション・ドキュメンタリー」の実践例として位置づけることを提案した(かつしかけいた、Clara、杵島和泉、佐々木友輔「イラストレーション・ドキュメンタリーの作り手たち」『「見る場所」のメディア考古学──鳥取から日本映画史を描き重ねる』佐々木友輔・杵島和泉・Clara編、小取舎、2025年)。イラストレーション・ドキュメンタリーとは、調査・研究の成果をイラスト作品として発表し、それを見た鑑賞者の反応や情報提供をもとにさらなる調査・研究を行い、また次のイラスト制作を行うという循環構造を作り出す試みである。
