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クリストファー・ノーラン監督『ダンケルク』
幻影から没入へ/井原慶一郎

レビュー / 井原慶一郎

クリストファー・ノーラン監督の記念すべき長編第10作目であるダンケルクが、2017年9月9日に日本で全国公開されました。

本作はイギリス、オランダ、フランス、アメリカ合衆国の4ヵ国合作映画であり、第2次世界大戦時にフランス・ダンケルクで実際に行われた史上最大の救出作戦を題材にしています。

『ダンケルク』の内容をさらに深めるために、クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論の訳者である井原慶一郎さんに本作のレビューを執筆していただきました。ぜひご一読ください。

バナー・イラスト…大寺聡

 

幻影から没入へ

――IMAXカメラで描く360度全方位の戦争パノラマ画『ダンケルク』

 

『ダンケルク』(2017年)についてのインタビューのなかで、クリストファー・ノーラン監督は、「subjective experience」や「subjective view」というように、しばしば「subjective」という言葉を使っている(1)。「subjectivity(主観性または主体性)」は、『ダンケルク』を語るうえで、キーワードとなる言葉だろう。

近現代哲学において、「subjectivity(主体性)」は、最重要ワードであると言ってよい。ヘーゲルの『精神現象学』は、主体が「真実」を次々に発見していくプロセス(逆に言えば、主体が自らの「嘘」を明らかにしていくプロセス)として記述されているし、ラカンの精神分析学も、主体が自らの欲望によってどのように構造化されているかを明らかにしようとしている。

トッド・マガウアンは、『クリストファー・ノーランの嘘/思想で読む映画論』(フィルムアート社、2017年)において、ヘーゲル哲学やラカンの精神分析理論を使って、ノーラン作品(長編デビュー作の『フォロウィング』から『インターステラー』まで)を論じているが、その議論全体の基調となっているのが、第2章の『メメント』論(「『メメント』と知ろうとしない欲望」)である。

『メメント』(2000年)を語るうえで、「subjectivity」は絶対に外せないキーワードだろう。『メメント』についてのインタビューのなかでも、ノーラン監督はしばしば「subjective」という言葉を使っていた(2)

10分間しか記憶を保てない前向性健忘症の主人公レナード・シェルビー(ガイ・ピアース)の体験を、観客にも追体験させるために、ノーラン監督は、前向きに進む物語を約5分間のシークェンスに断片化し、それらを逆向きの時系列で配置した。観客は、次に何が起こるかを知らない主体としてというよりも、レナードと同じように、前に何が起こったかを知らない主体としてこの映画に向き合うことになるのである。

これは(記憶障害に特有の)特殊な経験であるかのように見えるが、私たちは、主体性を超えて客観的(objective)に物事を見ることはできないという、私たちが置かれた認識の条件を明らかにするものである(さらに言えば、私たちは、知ろうとしない欲望[ラカンの言う「無知への情熱」]を持っている。レナードの振る舞いは、その事実をあらわにする)。ノーラン監督には、おそらく、こうした主体が置かれた条件からなるべく逸脱しないかたちで映画を製作したいという欲求があり、それが彼の映画を倫理的なものにしている。

『ダンケルク』は、第二次世界対戦初期の1940年5月26日から6月4日にかけてフランスの港町ダンケルクでおこなわれた、英仏連合軍の大規模撤退作戦を扱った映画だが、ウィンストン・チャーチルもアドルフ・ヒトラーも登場しない。

ふつうの映画であれば、作戦全体を描くために、たとえば、イギリス海軍中将バートラム・ラムゼイによる作戦の指揮(ドーバー城の地下の司令室が、発電機室すなわちダイナモ・ルームと呼ばれていたことにちなみ「ダイナモ作戦」と呼ばれた)の場面などが描かれるだろう。1958年のイギリス映画『激戦ダンケルク』(レスリー・ノーマン監督)も、2004年にBBCによってドラマ化された『ダンケルク 史上最大の撤退作戦・奇跡の10日間』(ベネディクト・カンバーバッチが陸軍将校役で出演している)もそうした場面を描いている。

しかし、ノーラン監督は、これとはまったく異なるアプローチを採用している。誰のものかわからない全知の視点で描く代わりに、彼は、特定の個人の(おもに三つの)視点に限定して映画を構成している。すなわち、若きイギリス軍兵士トミー(フィン・ホワイトヘッド)、民間のベテラン船長(マーク・ライランス)、英空軍のパイロット(トム・ハーディ)――言い換えれば、陸、海、空――の三つの視点である。

キャプションからも明らかなように、陸のパートは一週間、海のパートは一日、空のパートは一時間の時間幅を持つ。これら三つのパートを交互にクロス・カットすることによって、ノーラン監督は、これまでにない斬新なモンタージュ・シークェンスを生み出している。クロス・カッティングは、通常、異なる空間で同時に起こっている出来事を暗示するために用いられることが多いが、『ダンケルク』では、異なる時間幅を持つ三つの物語が、同時並行的にクロス・カットされるため、観客は奇妙な時間のねじれを体験することになる。

時間の操作――ラカンの精神分析理論において、時間は時計時間(クロノスの時間)とは異なる、「subjective(主観的)」なものである――は、『フォロウィング』(1998年)以来、ノーラン監督のトレードマークと言ってよい特徴の一つである。それを最も実験的におこなっているのが『メメント』であり、『ダンケルク』のモンタージュ・シークェンスはそれに匹敵するほどの実験性に溢れている。

と言うのも、ノーラン監督がインタビューのなかで述べているように、『ダンケルク』は、音楽で用いられる「シェパードの無限音階」の理論を脚本執筆に応用した作品だからである(3)。目の錯覚によって無限に上昇し続けるように見える理髪店のサインポールのように、「無限音階」は、耳の錯覚によって無限に音階が上昇しているように感じさせる技法である。

ノーラン監督は、これまで、『プレステージ』(2006年)以降の映画音楽や(バットポッドの走行音などの)サウンド・エフェクトにおいて「無限音階」を用いているが、『ダンケルク』では、この技法を脚本執筆に応用して全編を構成した。観客は、三つのストーリー・ラインを交互に追いながら、これらの物語がクライマックスに向かって――「無限音階」を用いた音楽(ハンス・ジマー)とサウンドとともに――無限に上昇し続けるような感覚にとらわれるのである。

こうしたパラレル編集の古典的な例は、D・W・グリフィス監督の『イントレランス』(1916年)だが、ノーラン監督自身、『インセプション』(2010年)において、この技法を部分的に用いている。『インセプション』では、夢の第一階層(落下する自動車)、第二階層(無重力のホテル)、第三階層(雪山での銃撃戦)、〈虚無(limbo)〉と呼ばれる夢の最下層の間を自在にカットすることでサスペンスの効果を最大限に高めていた(興味深いことに『インセプション』には「ペンローズの無限階段」が登場する)。『ダンケルク』ではこの技法を、最初から最後までほぼ全編にわたって用いている。

はたしてマガウアンであれば、どのように『ダンケルク』を読み解くのか興味深いところだが――彼はジャーナリスティックなレビューを書く人ではないので、一、二年後の論文発表を楽しみに待ちたいと思う――私自身はこの映画を「アトラクションの映画」(トム・ガニング)の系譜に位置づけたいと思っている。「アトラクションの映画」(「見世物映画」とも訳される)という用語は、初期のサイレント映画の視覚的魅力――スペクタクル映像によって観客に鮮烈な印象を与える初期映画の傾向――を言い表している(4)。ノーラン監督自身が、『ダンケルク』をテーマパークの「ライド」になぞらえており、この映画は、「読む(読み解く)」ものであるよりも、まず「見る」ものであり、さらに言えば、「体験」するものとして構想されている。

ここで思い出されるのは、オリヴァー・グラウの『ヴァーチャル・アート/幻影から没入へ』の議論である(5)。グラウが明らかにしているように、ヴァーチャル・リアリティ(VR)は新しい現象ではなく、見る者に臨場感と没入感を与える映像(イメージ)は、VR以前、さらには映画以前にも存在していた。その最も大がかりなものが360度の円筒形の絵画、パノラマであり、興味深いことに、パノラマ画の題材の多くは、戦争画だった。

グラウが例示している重要なパノラマ画の一つは、ドイツの画家アントン・フォン・ヴェルナーの監修のもと、巨大なキャンバス――縦15m×横115m!――に写真のような精密さで描かれた「セダンの戦い」(1883年)である(セダンは普仏戦争でナポレオン3世が破れたフランス北東部の町)。グラウは、さらに、見る者に没入感を与えるための装置――シネラマ、センソラマ、エキスパンディッド・シネマ、3D、オムニマックス、IMAX、ヘッドマウントディスプレイ――の歴史をたどっている。IMAXカメラを駆使し、実際のロケーションで本物の戦闘機と軍艦を使って撮影された『ダンケルク』は、ノーラン版「セダンの戦い」と言ってよいかもしれない(ただし、ノーラン監督が描くのは「勝利」ではなく「撤退」である)。

会話以外のほぼ全ての場面をIMAXカメラで撮影した『ダンケルク』は、一部IMAXカメラを使用した『ダークナイト』(2008年)、『ダークナイト ライジング』(2012年)、『インターステラー』(2014年)以上に、IMAXで観るべき作品と言えるが、IMAX70mmフィルムと同じアスペクト比(1.43:1)で上映されるのは、残念ながら、日本では、IMAX次世代レーザーを備えた109シネマズ大阪エキスポシティのみである。その他のIMAXシアターでは、1.9:1の比率で上映されるため、上下が約25パーセントカットされてしまう(ふつうの映画館のデジタル上映では約40パーセントがカットされる)。さらに、解像度の違いもある。

最も理想的な超高解像度のIMAX70mmフィルム上映(よく知られているように、ノーラン監督は一貫したフィルム主義者だ)を見るためにわざわざ海外にまで出かけたツワモノもいるようだが、おいそれと真似ができることではない。たとえサード、フォース・ベストだとしても、ノーラン監督の意図した上映の形態に少しでも近づくために、『ダンケルク』は、できるだけ大きなスクリーンと音響設備の整った映画館で楽しみたい作品である。

 

 

  1. たとえば、Inside the making of ‘Dunkirk’ with director Christopher Nolan: https://youtu.be/3xHkBRtVNE0?t=9m44sを参照。
  2. たとえば、Christopher Nolan interview on perceptual & character distortion in MEMENTO (2000): https://youtu.be/nQqZNZE9ByE?t=10m5sを参照。
  3. Christopher Nolan explains the biggest challenges in making his latest movie ‘Dunkirk’ into an ‘intimate epic’: http://www.businessinsider.com/christopher-nolan-dunkirk-interview-2017-7を参照。
  4. スティーヴ・ブランドフォードほか『フィルム・スタディーズ事典/映画・映像用語のすべて』(フィルムアート社、2004年)の「アトラクションの映画」の項目を参照。
  5. Oliver Grau, Virtual Art: From Illusion to Immersion (Cambridge, MA: MIT Press, 2003).

クリストファー・ノーランの嘘
思想で読む映画論

トッド・マガウアン=著|井原慶一郎=訳

発売日:2017年05月25日

四六判・上製|520頁|本体:3,200円+税|ISBN 978-4-8459-1622-1


プロフィール
井原慶一郎いはら・けいいちろう

1969年生まれ。鹿児島大学教授。専門は英文学、表象文化論、芸術文化デザイン論。著書に映画学叢書『映画とイデオロギー』(共著、ミネルヴァ書房、2015年)、訳書にアン・フリードバーグ『ウィンドウ・ショッピング/映画とポストモダン』(共訳、松柏社、2008年)、同『ヴァーチャル・ウィンドウ/アルベルティからマイクロソフトまで』(共訳、産業図書、2012年)、チャールズ・ディケンズ『クリスマス・キャロル』(訳・解説、春風社、2015年)、トッド・マガウアン『クリストファー・ノーランの嘘/思想で読む映画論』(フィルムアート社、2017年)、監修書に『オーテマティック 大寺聡作品集』(フィルムアート社、2018年)がある。

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