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金子文子『何が私をこうさせたか――獄中手記』(岩波書店、2017年)

昨年、岩波文庫に『何が私をこうさせたか』が入り、金子文子の人となりに触れることができるようになったのは嬉しい。

本書は、朝鮮人アナキスト朴烈らと共謀して皇太子暗殺を企んだとされ、関東大震災後に逮捕された金子文子が獄中で綴った自伝的記録である。彼女らはその計画を実行に移しはしなかったが、大逆罪で死刑判決を受けた。のちに恩赦によって無期懲役に減刑されたもの、彼女はそれを拒否し、減刑状を破り捨てた。そしてその三ヶ月後、監房内で麻縄で首をくくって自殺してしまう。23歳という若さだった。

『何が私をこうさせたか』は、判事から、過去の経歴について書くようにと言われて書いたものだ。「それが裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない」と文子本人が言っているが、とにかく、そんな特殊な成立過程を持つ本なのだ。世の中に自伝的記録というものはたくさんあるけれど、これほど読者を引きずり込む力の強い本も珍しいのではないか。そして、これほどタイトルが内容を言い尽くしている本も少ない。タイトルが問いで、本文が答。読者はただ、本を開けばいい。するすると最後のページまで辿りついたとき、答はずっしりと手の中にある。

文子は横浜で1903年に生まれたが、貧困と父母たちの人間関係のもつれの中で、出生届が出されないまま成長した。そのため、小学校に行けなかった。父も母も文子に愛情を持っていたことは事実だろうが、いつも大人の事情に振り回され、自分の思いを汲んでもらえることはなかった。9歳のとき文子は、養女として朝鮮に住む親戚に預けられる。だが、この植民者の家庭に文子の情緒は全く合わなかった。

彼女の思想を育てたのは、このときの経験である。

例えば、祖母の家には働き者の高(コ)という下男がいた。彼は着物を一枚しか持っていないので、それを洗濯する日は仕事ができない。だから休ませてくれと言う彼に対し、祖母たちは事情を知っていながら「洗濯ならお前がしなくてもいいじゃないか」と突っ込み、「実は私、他に着物がないから、洗濯して火で乾して、綿を入れて、元通りに縫う間、裸で寒いから布団にくるまっているって算段なんですよ」と言わせてきゃっきゃっと笑う。なぜ、高にもう一枚着物をやらないのか。そしてなぜわざわざ理由を言わせて笑うのか。まじめな貧乏人をからかうことの、何が楽しいのか。文子は、他者のプライドをおもちゃにするような暮らしを居心地悪く感じる。

文子はこの家から高等小学校まで通ったが、卒業後はほとんど女中扱いされていた。養子縁組をするときには女子大学に行かせてくれるとまで言っていたのに、女学校にもやってくれなかった。祖母と伯母にいじめを受け、自殺を考えたこともある。それを思いとどまらせたのが、例えば朝鮮のおかみさんの親切さであった。食事もろくに与えられずにいた文子に、その人は「まあ、かわいそうに!」と言い、「麦ご飯でよければ、おあがりになりませんか」と声をかけてくれたのだった。文子は声をあげて泣いてしまい、「この時ほど人間の愛というものに感動したことはなかった」と後に書き残した。

1919年、3・1独立運動が起きた直後の4月、16歳の文子は結局、やっかい払いされるようにして日本に帰ってきた。うつうつとして暮らしていると父親が、お話にもならない縁談をもってくる。なんと、叔父に当たる男性と結婚しろというのである。財産目当ての縁談であった。自暴自棄になってふてくされ、たまたま声をかけられた男とつきあってみたり、別の卑怯な男にレイプされたり、この頃の文子の青春はさんざんである。

もう、自分しか頼るものはない!
男も肉親もあてにならない!

一人の力でがむしゃらに生きていくしかないのだと決めた彼女は、医者になろうと決意して一人で東京に出る。1920年のことだ。17歳の彼女が自活のために選んだのが、上野公園の前で新聞の売り子をやることだった。

当時、上野には降旗新聞店という販売店(捌き売所)があった。ここは「蛍雪学舎」と称して苦学生を住み込みで働かせるシステムを持っていた。文子も「苦学奮闘の士は来(きた)れ」という張り紙を見て、ここに就職する。降旗新聞店(『何が私をこうさせたか』では「白旗新聞店」となっている)の主人は、「女子は続かないからねえ」と渋るのだが、文子は主人を説得し、上野でも一番稼ぎが良い三橋の売り場を担当させてもらう。午前中は研数学館で数学を、昼から午後3時までは正則英語学校で英語を学び、4時半から夜中の12時まで上野で新聞を売る。これが、17歳の文子が立てた計画だった。ちなみに、研数学館と正則英語学校という組み合わせは苦学生のスタンダードだったらしく、田中角栄も同じコースで勉強していたと記録にある。

そのころのことを後に、獄中でこんな短歌にして残した。

 

上野山 さんまい橋により縋り

夕刊売りしこともありしが

 

事実そのままを淡々と叙述しているだけなのだが、自殺直前の歌なのでどことなく物悲しい。雨が降った日などは、新聞はまるで売れない。でも、決められた夜の12時までは、店をたたむことが許されなかった。この世にお別れだと思い始めたとき、一人ぼっちの十代の自分が橋にもたれて新聞を売っている姿をどんな気持ちで思い返したのだろう。

結局、新聞を売りながら学業を収めることは難しすぎ、彼女はこの販売店に何か月かいただけで辞めている。その後いくつかの仕事を転々とし、やがて、苦学で我が身一人の出世を図るのは自分の道ではないという決心を固めていく。そんな折に朝鮮苦学生たちと出会い、その中の一人・朴烈と恋仲になっていくのだ。

 

ところで、金子文子がやめたその降旗新聞店に、翌1921年、一人の朝鮮人の少年がやってきた。名を、金素雲(キム・ソウン)という。韓国文学に縁のある人で彼を知らない人はまずいないだろう。詩人・翻訳家・随筆家・編集者・民謡採集者・出版人として、韓国と日本双方で幅広く活躍した人だ。日本語の使い手としては一流という範囲を超えており、みごとな翻訳の他に、日本語による多数の随筆を書いた。

戦前、北原白秋に絶賛され、岩波文庫に『朝鮮詩集』『朝鮮童謡集』『朝鮮民謡集』の3冊、岩波少年文庫に『ネギを植えた人』という民話集を残した。これらはいずれも類いまれなロングセラーになり、韓国文化の日本への紹介者として、文字通りの第一人者であったと言える。

その金素雲が上野で新聞を売っていたのは、なんとまだ13歳のときである。

彼の父親は官吏だったが、日韓併合の翌年、「親日派」と目されて暗殺されてしまう。母親は、素雲の親権をめぐって夫の実家ともめたのち、帝政ロシアに渡ってしまった。

両親を失った素雲は釜山の叔父のもとで育てられたが、その叔父さんがビスマルクとナポレオンの崇拝者だったため、彼もこの二人をヒーローと崇める少年だった。そして3・1独立運動の時には、自前で同年代の少年たちが集まる民族団体を作った。そこで何をするというわけでもなかったのだろうが、とにかく、そうせずにはいられない血の騒ぎがあったのだろう。ちなみに、金子文子も朝鮮を去る直前に見聞きした3・1独立運動について、尋問の中で「朝鮮の方のなさる独立運動を思う時、他人のこととは思い得ぬほどの感激が胸に湧きます」と語った。

金素雲に戻る。少年団体が強制解散させられた後、彼は日本を目指す。文子と同じように苦学を志して。初め彼は大阪に来て、そこに住んでいた伯母さんが援助してくれようとしたのを断り、独学を選んだ。13歳なのに。

たった一人で東京に出て、たくさんの仕事を経験しながら夜間中学に通ったというが、その中でも比較的長く続いたのが降旗新聞店に住み込んでの新聞売りだったらしい。

素雲もまた一等地の売り場を与えられ、不忍池を真正面に見る場所で新聞を売っていた。するとある日、彼の新聞屋台の前を中学生の一団が通りかかった。雨が降ったあとだったので、彼らの元気な足が泥を盛大に跳ねて、素雲の新聞は台無しになってしまう。どこの中学かははっきりしていたので、素雲はダメになった新聞を抱えて中学を訪ねた。しかし教務主任の先生は、うちの学校の生徒の責任だという確かな証拠はないと言う。素雲はとてもおさまらず、この一件を文章に書いて「みやこ新聞」に投書した。「新聞売子から乱暴な富者の子へ」という一文である。

「私は新聞売りに依って苦学して居る者です。苦学生と云えば皆様が御想像なさるよりはるかに辛い耐え難い物です。貧しい為につらい事や腹立つ事や凡ての無理を皆忍び堪えねばなりません」

こう書き出したあと、新聞がダメになってしまった顛末を簡潔に記し、

「乱暴な彼等、どんなに富める者にせよ彼等の洋服は拾って来たのではなかろうに、ああして自分で付けた泥を彼等の母は――姉は――丁寧に洗って彼等に着せるのだろう――私はそんな事をつぶやき乍ら泥のはねた新聞を片付ました」

と結んだ。とても13歳の、しかもネイティブスピーカーではない少年の書いたものとは思えない流暢さである。この投書が、その後約六十年にも及び韓国と日本を行き来しながら送った長い文筆生活のスタートとなった。そしてこの一文は、思ってもみなかった反響を呼んだ。

素雲少年は朝刊専門の売り子だったので、早朝に店を出し、昼まで仕事するのがならわしだ。投書が掲載されたその日、店じまいをしていた彼のもとに、ひとりの芸者がやってくる。

「今日、〈みやこ〉に書いたのあんたね――。読んでて涙が出たわ」。そして新聞一部に法外なお金を出し、「お釣りはいらない」と言う。素雲が追いかけて釣り銭を渡して戻ると、また一人女性がやってきて、昼ごはんをごちそうしたいと申し出る。素雲は不承不承ついていって鰻をおごってもらうが、居心地の悪さが消えない。

不忍池周辺には料亭や待合が多い。そこで働く女性たちは、苦学少年の投書に自分の弟たちの姿を重ねて見たのかもしれない。「母は――姉は――」というくだりにグッときたのかもしれない。「苦学生」というだけで年齢は書かれていなかったから、どんな学生かと確かめにやってきた彼女たちは、素雲の幼さにいよいよほろりとしたことだろう。

翌日になってもそんなことが続き、素雲は結局、この絶好の売り場を他の仲間に譲って、ずっと見入りの少ない東京帝大近くに移ったという。

うるさくて商売にならぬということもあったろうが、素雲自身の言葉を借りるなら「心から尊敬できないそんな職業の女性」の同情を受けることが、潔癖な少年には重荷だったのだ。のちに彼は回想録に、「可愛げがなく偏屈だった自分自身が憎らしい。あの時のあの女性たちに、もしも今逢ったならば百万べんでも謝りたい」と書いている。

1920年から21年の上野。それは江戸文化の名残りとハイカラ趣味とが袖すり合わせ、あらゆる階級の人間が行きかう磁場だった。それまでにもたくさんの博覧会や演説会が開かれ、いつも注目のまとだった上野。揺れ動く社会の風向を示す、民衆エネルギーの坩堝であり、庶民の娯楽の中心地でもあった。

文子が新聞を売っていた1920年には、上野公園で初のメーデーが行われている。彼女の売り場のまわりではいつもさまざま集会が開かれていた。キリスト教団体や仏教団体が説教し、長髪の社会主義者たちがビラをまく。

盛り場としての上野の底力も、言うまでもない。素雲が新聞を売っていた1921年には、まだ16歳だった佐多稲子が池之端の清凌亭という料亭で座敷女中として働いており、芥川龍之介らが客として訪れていた。また同じころ、宮沢賢治は家出して本郷に下宿し、東大赤門前のガリ版屋で筆耕の仕事をしながら、上野で国柱会の街宣布教を行なっていた。稲子や賢治も、素雲の投書を読まなかっただろうか。または彼の姿を見たり、新聞を彼から買ったことがなかっただろうか。何より、もう新聞売りをやめた金子文子が上野を通り、素雲の姿を見かけることはなかっただろうか。

誰もが、近代というバケモノの懐の中で、自前のものといえる生のあり方を求めて、切実に、がむしゃらに歩いていた時代である。

「乱暴なる、富める彼等」に対して決して黙らず、直談判でだめならばと筆をとった13歳の金素雲。17歳で、かんかん照りの夏の夕方にのどを枯らして「ゆうかーん」と叫んでいた、後に裁判で身分を問われたときに「神聖な平民です」と答えた金子文子。植民地朝鮮を知るこの二人の若者が、一年の違いで上野の同じ店に勤めていた。

関東大震災を前にした上野という街を思い描くと、この二人の面影が必ず重なる。それは上野という街が持つ多くの顔の中でも、確実に陰影の濃い横顔の一つである。

(次回に続く)

 

 

※文中、金素雲の投書は旧仮名遣いを新かなに改めました。

※金素雲の回想は『天の涯に生くるとも』(講談社学術文庫)で読むことができます。