• Twitter
  • Facebook

日記百景 第8回
日本近代文学のもうひとつの可能性
太田静子『斜陽日記』

日記百景 / 川本 直

革命と恋、この二つを、世間の大人たちは、愚かしく、いまわしいものとして、私達に教えたのだ。この二つのものこそ、最も悲しく、美しくおいしいものであるのに、人間は恋と革命のために生まれて来たのであるのに・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

太田静子『斜陽日記』(朝日文庫/二〇一二年)

自意識の芽生えを迎える前に太宰治を読んだのは幸運だった、と今でも思う。十一歳だった私はある日、父の書庫で眠っていた太宰治全集を目にした。父に読んだのかと聞くと「あんな陰々滅々とした作家は読まない。古本屋で安かったので購入して書庫に入れておいただけだ。お前にあげる」と言う。

もちろん、小学生でも太宰の名前は知っていた。既に教科書で「走れメロス」は取り上げられていたし、私の実家の近所には太宰が情死した玉川上水が流れていたので、「ここで太宰って作家が自殺したんだよ。悪いことをするとこの川に放り込んでしまうよ」と毎日のように祖母に脅かされてもいたからだ。心中未遂、薬物中毒、度重なる自殺未遂、込み入った不倫関係、そして情死といったことについても祖母から聞かされていたように思う。もっとも、小学生にはそんなことはすべてピンと来なかったが。

「自殺したくらいだからよほど暗い作家に違いない」と思って、おっかなびっくり全集を読み始めたのだが、意外にも太宰の小説はまったく暗くなく、むしろ笑ってしまうほどユーモアたっぷりだった。「逆行」、「ダス・ゲマイネ」、「富嶽百景」、「畜犬談」、「女生徒」といった初期から中期にかけての珠玉の短編はどこか陽気だったし、後期の代表作『斜陽』すら結末は前向きだった。『人間失格』は今で言う自虐ギャグの傑作だった。遺作の『グッド・バイ』に至っては抱腹絶倒だった。面白がっているうちに、一年もしないで全集を読了してしまった。

太宰は日本文学では稀有な資質を二つ備えている。先程語ったとおりユーモア、そしてストーリーテラーとしての卓越した技巧だ。太宰の語り口の巧さは強調してもし過ぎることはない。落語家や講談師も裸足で逃げ出すほど、彼の語りは達者だ。小学生の私は太宰のメンタリティは無情なまでに無視してしまったが、「話の面白さ」だけは存分に楽しんだ。

そして、今に至るまで太宰のメンタリティには何の興味も抱いていない。もし太宰に小説家としての才能がなかったら、どこにでもいる自意識過剰で自己顕示欲の強いメンヘラ文学青年でしかなかっただろう。私は「太宰のもっていた性格的欠点は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だった。生活で解決すべきことに芸術を煩わしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには本当の病人の資格がない」という三島由紀夫の指摘に全面的に賛同する。ただし、三島の評の厄介なところは、ほとんど同族嫌悪に近いもので自己批判の性質を持っており、三島本人もあのような最後を遂げてしまったところにあるのだが。

私は十二歳の時に全集を読み終わると、それから太宰には長い間、興味を抱かなかった。中学校に入ってから、『人間失格』を聖書のように読む時代遅れの文学青年にも出会ったが、どうでもいいとしか思えなかった。中学生の私の興味は既に三島由紀夫や澁澤龍彦を経て、オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、ジャン・ジュネ、そしてトルーマン・カポーティやゴア・ヴィダルに向かっていたからだ。

ふたたび太宰に興味が芽生えたのは猪瀬直樹の『ピカレスク 太宰治伝』(小学館/二〇〇〇年)が出版された二十歳の時だったと思う。そこで描かれる太宰治は正に「自意識過剰で自己顕示欲の強いメンヘラ文学青年」に違いなかったが、そういった凡百な連中と太宰が違うのは、狡猾さだった。

特に女性関係においてその悪辣さは際立っていた。親切なカフェの女給だった田部シメ子(あつみ)、流されやすい芸妓で内縁の妻・小山初代、良妻賢母だった津島美知子、生真面目な愛人の山崎富栄、そしてこの文章で取り上げる『斜陽』の原型『斜陽日記』を書いた太田静子。多くの女性を踏みにじった結果として太宰の小説はある。これだけの人間を犠牲にしておいて弱さを売りにするとはいい気なものだという以外の感想はない。そういった太宰のよこしまな側面にすら惹かれる者がいるということが、日本近代文学の愛好者のどうしようもなさを露呈させているとも言えるだろう。

太宰が他人の日記や手紙を下敷きに小説を書くことが多いことは知っていた。「女生徒」は読者だった有明淑の日記、『正義と微笑』は後に俳優となった堤康久の日記、「トカトントン」も読者の手紙を下敷きにしている。文学における「オリジナリティ」などというものはロマン主義的な幻想に過ぎない。多くの作家は最良の場合でも過去の作品を模倣したり、複数の人間で共作したりしているし、最悪の場合は盗作していたり、パクっていたりするのだ。出版界ではゴーストライトも珍しいことではないし、編集者が作家の原稿をほとんど書き直してしまうこともよくある。

結局、作家論は結果論でしかない。遺された作品を読んで、「この作家の作風は~~、独創性は~~」などと評論家や研究者はもったいぶって語るが、それらはすべて後付け、後知恵に過ぎない。太宰にもまったく同じことが言える。しかし、この文章は太宰のそういった側面に立ち入ることが目的ではないので、オリジナリティの問題に関してはここまでとする。

太田静子は太宰の読者や論者にあまり重んじられている存在とは言えない。太宰における伝記研究の正史では正妻の津島美知子と最後を共にした山崎富栄が重要な人物とされており、後に作家となった太田治子を太宰との間にもうけたにもかかわらず、太田静子は徹頭徹尾脇役だ。実際、今、私の手元にある岩波文庫版『斜陽 他一篇』(二〇一一年の版で第25刷)の阿部昭の解説には太田静子という名も、『斜陽日記』という書名も一切記されていない。伝記や評論のなかには太田静子を「文学少女」と呼び、明らかに侮っているとしか思えないものもある。だが、「文学少女」のいったい何が悪いのか。

これからは『斜陽』と『斜陽日記』の成立過程、同一箇所とその違いを論じつつ、『斜陽日記』の魅力を語っていこうと思う。

太田静子は一九四一年、二八歳の時、太宰に手紙を送ったことがきっかけで出会う。静子は長女を亡くし、離婚したばかりだった。開業医の娘で、既に短歌集の著作もある歌人でもあった。その後、ふたりは不倫の関係になり、太宰は小説のために静子の日記(元々は『相模曾我日記』という題名で、『斜陽日記』というタイトルは最初の出版元の石狩書房がつけたものらしい)を欲しがり、静子は太宰の子供を欲しがったという経緯があり、ふたりの間に共犯関係が成立し、交情と引き換えに静子は日記を渡し、太宰はそれを元に『斜陽』を書いた。一九四七年、ふたりの娘・治子が生まれるが、太宰の関心は既に山崎富栄に移っており、翌年の四八年、太宰は自殺する。

静子は太宰の師・井伏鱒二たちに誓約書を書かされ、『斜陽』の印税十万円と引き換えに沈黙を強いられるが、太宰の死の年の十月に誓約を破って『斜陽日記』を出版する。しかし、『斜陽』とあまりにも重複する部分が多かったため、捏造疑惑が持ち上がり、苦しむこととなる。

私も『斜陽日記』と『斜陽』を読み比べて見て、あまりにも太宰が引き写した箇所が多いので愕然とした。冒頭で示したように『斜陽』のなかで最も秀抜な警句、「人間は恋と革命のために生まれて来た・・・・・・・・・・・・・・・・・」が現れる箇所さえ編集者が手を加える程度のアレンジしか太宰は施していない。

『斜陽』の母と娘の関係も、『桜の園』も、兄弟の麻薬中毒も、ローザ・ルクセンブルクから想起される革命も、印象的な蝮の卵のエピソードも、母の病死もほとんど引き写しだ。『斜陽』の語り手かず子は作家・上原二郎のことを手紙でM・C(最初はマイ・チェーホフ、途中からマイ・チャイルド、最後はマイ・コメディアンと意味が変化する)と呼んでいるが、これさえ太田静子が書簡で太宰を呼びかける時に使っていた呼称であり、マイ・チェーホフ、マイ・チャイルド、マイ・コメディアンとイニシャルが意味する言葉が変わっていったことすら同じだ。

では、太宰が『斜陽』で追加した要素はなんなのか。それは冒頭の「お母さま」が「スウプ」を召し上がる描写と「お母さま」の立ち小便のエピソード、他には太宰自身がモデルの薬物と酒に溺れる弟・直治、同じく太宰自身がモデルの作家・上原二郎という登場人物ふたり、そして母の死後のエピソードだ。それもそのはずで『斜陽日記』は一九四五年春から一九四五年一二月までの日記であり、その後のエピソードは太宰宛の太田静子の書簡を元にしている。

『斜陽日記』と『斜陽』を比べると、確かに太宰は元になった日記に直治の自殺と戦後を重ね合わせ、劇的に小説を構成してはいる。文章も太田静子より一日の長がある。しかし、志賀直哉や三島由紀夫が批判したように「お母さま」の人物造形はとても華族のそれとは思えず、作品全体が俗っぽい。おまけに作品の終盤で語り手のかず子に「『立派なお仕事』などよりも、いのちを捨てる気で、いわゆる悪徳生活をしとおす事のほうが、のちの世に人たちからかえって御礼を言わせるようになるかも知れません」と上原二郎に宛てて言わせているのは、女性の登場人物に自らを肯定させるという、後に『人間失格』でも使った手口で、図々しいにもほどがある。

一方、『斜陽日記』は母の死を除いて劇的なことはさして起こらないが、落ち着いた、たおやかな日記であり、率直に言って太田静子からは太宰以上の知性すら感じる。実際、『斜陽日記』ではローザ・ルクセンブルクのみならず、チェーホフ、プルースト、ニーチェ、ドストエフスキーに親しんでおり、フランス語も習っているという記述があり、東大仏文科中退にもかかわらず、フランス語ができず、家にもほとんど本を置かなかった太宰より太田静子のほうが明らかに読書家だ。

『斜陽日記』の解説を担当した小森陽一はいささか尊大な物言いではあるが、重要な指摘をしている。「もちろん、『斜陽日記』というテクストにおける自意識の欠落に、嫌悪や不快を憶える読者もいるだろう。しかし、自明化された近代の自意識そのものが、神すなわち法の裁き手となった現在の自己が、過去の一方的に罪ある者として裁くといった、男性中心的な社会システムを内面化したものであるとするなら、女性の書く行為をとおして、別な原理が生み出されているという現実を、とりあえずは、自明化しえぬ他者性の顕れとして、謙虚に受け止めておくべきなのではないか」。

もう一度繰り返すが、「文学少女」のいったい何が悪いのか。自意識などどうでもいい。この国の文学の歴史は紫式部の『源氏物語』や清少納言の『枕草子』で始まっている。その系譜は少女小説の祖・吉屋信子や尾崎翠、森茉莉、コバルト文庫を中心とした女性向けのライトノベル、そして「乙女のカリスマ」嶽本野ばら(男性だが)まで脈々と受け継がれ、豊穣な作品群を生み出してきた。

『斜陽日記』は間違いなくこの系譜に連なる作品であり、男性中心だった日本近代文学のあり得たかもしれない、もうひとつの可能性そのものだ。

太田静子『斜陽日記』(朝日文庫/二〇一二年)

バナー&プロフィールイラスト=岡田成生 http://shigeookada.tumblr.com