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2020.10.09

第29話 散歩の日の話

〇〇の日の話 / 大前粟生

 街全体が薄暗かった。だれも歩いていない。鳥がときどき鳴く。空気は澄んでいて、気持ちのいい風が吹くと植え込みの植物たちが時間のしっぽのようになびいた。朝美の目で見渡せる街のぜんぶが、自分の家のなかのように穏やかで、あの家にいるみんなは守られているんだ、と朝美は思った。他のものはぜんぶ滅亡した。わたしたちを脅かすものはすべて。碁盤の目のようになった街で、ジグザグに歩いているうちに、頭のなかで迷路でも作っているような気持ちになってくる。暗号めいていても規則正しく、いつまでも歩けてしまいそうだったから、朝美は川に出ることにした。川沿いの道はまっすぐで気分がすっとした。犬がちょこちょこ歩いてきて、なにもないところに向かって吠え、うれしそうに飛び跳ねている。一本の木が、無数の細かい粒子になって分裂していて、よく見ると、夥しい数のスズメが木から木へと移動をしているのだった。風がよく通る。ちょうどいい気温で、歩きながらも眠っているような気分になった。しばらく夢心地でいると、
 ボォウェェェェェェンボチン!
 爆発音がした。
 昔からときどき、聞こえていた音だ。耳鳴りや、だれかの怒鳴り声のように、ふとした瞬間に聞こえてくる音だった。
 朝美は、自分にだけ聞こえるんだろうと思っていたけれど、他のみんなにも聞こえていたみたいだ。うるさいよね、と音楽室で吹奏楽部の水田さんがいったとき、わたしのことかな、と朝美は思った。朝美だけじゃなく、他の何人かの生徒も思った。彼女たちは決してうるさくはしていなかったのだけれど。ほら、あれ、と水田さんはいった。あれ、という呼び方で通じるひともいた。朝美や他の何人かの生徒は水田さんと親しくなかったので、わからなかった。あれ、や、それ、とそれは呼ばれた。ほら、ボォウェェ……と水田さんは、音をまねしはじめた。だらしなく口が開き、恥ずかしがっていて、ェェェェ、という音が途中から、顎の筋肉をなにかにのっとられたかのように、ケケケケケ、と笑い声になった。
 たとえば蝉や雨や車の音みたいにそれはずっと世界に存在していたので、怖がったり、ビクビク震えたりは、だれもしなかった。そういう発想がなかった。うるさいなあ、と思うだけだった。
 ボォウェェェェェェンボチン!
 朝美はこの音を爆発音と表すけれど、水田さんは切断音だという。なにかが切られてるんだよ、たとえば世界とか。それでどんどん、あの音がする度に世界が小さくなっていってるんだ。
 今日は、二回で止んだ。
 もっと続く日もある。何時間も止まらないことだって。
 音が止まったあとは決まって静まり返る。話し声や、音、音、ああこれは鳥が鳴く音、机が引きずられる音、音の意味はわかるのだけれど、半透明の膜が、いや、もっと分厚い、たとえば耳が紙袋で包み込まれているかのように、静かだ。

 突然、別の音がした。
 これは、机が引きずられる音だな、と朝美は思った。
 川沿いの整備された芝生のなかで、そこだけ時間がおかしいように、草が伸びっぱなしのところがあった。きれいな円になっている。さっき、音がした方を見ると、そのなかに、机と椅子があった。
 草はまっすぐに、長いものだと朝美の頭の高さくらいに伸びていた。長方形の机はそのなかに収まり、両端が飛び出していて、机の裏にぶちあたっている草たちは、鍋にあたる火のように横にかいがいしく広がっていた。
 長い椅子は、少しだけ机から離れていた。そこに何人か座っている。はしゃいでいる音が微かに聞こえてきた。
 朝美は近づいてみた。
 すると、だれもいなかった。風で草がそよいだのかな、と思った。
 草の合間から見える机の表面に、びっしりと、なにか文字が書いてあった。
 なぜか草をかき分けてはいけない気がして、朝美は美術館にでもいるみたいに、草の周りを歩いて、もつれ合う緑の隙間から文字を凝視した。
 油性ペンかなにかで書かれているようだった。ずいぶん長い年月が経ち、文字は薄れていて、その多くが滲んでいて読めなかった。
「……の三人で……探し……引っ越してしま……なかよし……なかよし……未来……ピュア……これってただの想像で、妄想で、でも願いで……」
 なんだろうこれ。日記、いや、小説? と朝美は思った。ふだんあまり読まないけれど、これは小説というものだろう。
 机の真ん中の下部には、小さなプレートが埋め込まれ、そこには、「○○市民センター創立30周年記念寄贈品」と書かれている。この机が寄贈品なのだろう。○○とはこの街の名前だ。けれどここに、市民センターはない。朝美の物心がついたときにはなかったし、お母さんからも聞いたことはなかった。