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2021.05.21

第1回:MMDからVTuberへ
──身体運用の複製・流通・再生

踊るのは新しい体 / 太田充胤

我々はもう、持って生まれた自分の身体で踊らなくとも構わないのかもしれない──3DCG、VTuber、アバター、ゴーレム、人形、ロボット、生命をもたないモノたちの身体運用は人類に何を問うか? 元ダンサーで医師でもある若き批評家・太田充胤が、モノたちと共に考える新しい身体論。

 

 ─

 

複製される芸術作品はしだいに、あらかじめ複製されることを狙いとした作品の、
複製となる度合を高めてゆく。[1]

──ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術作品』

 

新しい身体

 アプリケーションを立ち上げると、画面には真っ白な空間が現れる。
いや、正確には、画面の中央に表示されたのは白い四角形、そしてそこに引かれたいくつかの線である。しかし直観的には、その奥に果てしない空間がひらけていることが明らかだ。水平面には碁盤の目状に線が敷かれ、原点からはXYZ方向に赤・青・緑の3本の矢印が伸びている。マウスでドラッグすると、原点を中心として碁盤とXYZ軸がぐりんぐりんと回転し、画面の奥の白い空間が天地の別を失う。
 それが空間であることを確かめるのに飽きると、「ファイル」のタブから3DCGモデルのファイルを呼び出し、白い空間上にモデルを展開してみる。原点上に、両腕を左右に広げ十字のようにして直立する「初音ミク」のモデルが現れる。再びマウスでドラッグすると、今度はモデルが画面の中で縦横無尽に回転する。
 モデルの肢体をカーソルでなぞる。モデルは内部にいかなる構造物も持たないが、仮想的な骨格を仕込まれている。骨格同士をつなぐ関節をカーソルで触れると、球体状の矢印がポップアップする。右前腕が、右肘関節を支点としてレバーのようにあらゆる方向へぐにゃりと曲がる。あちこちの可動関節で角度を調整し、モデルを粘土のようにこねくり回すうちに、だんだんとそれらしいポーズが出来上がる。仮想空間における身体運用とは、粘土細工のごときものであると知る。
 ポージングにも飽きると、今度はインターネット上に流通するモーションデータを漁り、適当なものをダウンロードしてモデルに割り当てる。どこかの誰かのダンスをトレースして作られたモーションデータには、モデルが1コマ毎に動かすべき関節とその角度がくまなく書き込まれている。読み込みが終わった瞬間、ぱっ、とモデルの体が反応し、まるで音楽が鳴りだすのを待つようにして、いつのまにか新しいポーズを取っている。はやる気持ちを抑えて楽曲データをダウンロードし、アプリケーション上にドロップする。再生ボタンを押すと、モデルはついに私の手を離れ、ひとりでに踊りはじめる──。

 新しい身体論を書いてください、といういささか荷の重いお話をいただいてまず想起したのは、どういうわけかゼロ年代の終わりに見たあの光景だった。
 デジタルとアナログが混ざりあい、機械と生体が混ざりあい、そのあわいであらゆる手段を通じて身体が運用される今日、わざわざ身体について語るというのならば、まずあの奇妙な光景、無機質で無表情な3DCGのボディが生命の躍動を獲得するあの瞬間について、語らないわけにはいかないような気がした。
 くだらないと思うだろうか? そうかもしれない。たとえば自分の身体で踊ることに生涯をかける人たち、あるいはそのような身体表現を好み語る人たちは、CGのダンスなど語るに値しないと一笑に付し、そんなものをダンスと呼ぶことすら嫌悪するだろう。逆に、CG映像やアニメ表現を普通に消費することに慣れてしまった人たちには、もしかしたら画面の中に「身体」があるという感覚すらピンとこないだろう。

 ただ、あのとき私が踊る3Dモデルを眺め弄りながらたしかに感じたのは、我々はもう持って生まれた自分の身体で踊らなくとも構わないのかもしれないという、解放感にも似たなにかだった。
 件のアプリケーションの名は「MikuMikuDance」という。通常、頭文字をとってMMDと略される。
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