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2021.09.08

特別鼎談 濱口竜介(映画監督)×三宅唱(映画監督)×三浦哲哉(映画批評家)
映画の「演出」はいかにして発見されるのか――『ドライブ・マイ・カー』をめぐって

Creator's Words / 三宅唱, 濱口竜介, 三浦哲哉

■自動車と音、自動車と楽屋

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三宅:赤い車、どういう選択なんですか?

濱口:原作に黄色のサーブっていう設定があったので車種はそれに限定して探していたんですが、黄色は緑と近いということもあって、実際の風景の中で埋没しがちということもあって、ちょっと避けたいなと思っていました。
とはいえ、まずは原作通りのサーブの黄色いオープンカーを見にいこうと、サーブの工場に行ったんです。そうしたら劇用車会社の武藤さんって人が乗り付けて来たのがあの赤い車だったんですよ。一応、黄色いオープンカーのほうも見ましたが、最終的に「これまさにサーブ900ですよね、めちゃめちゃカッコいいじゃないですか、これにしましょう」って話になって(笑)。向こうから走ってきた時点でもうカッコよかった。それは決断する上ではありがたい偶然でした。

三浦:運転手の渡利みさき役の三浦透子さんが、この映画のために運転を特訓したと伺いましたけども、みさきが卓越したドライバーであると示すことについての勝算はどのくらいあったんでしょうか。というのは、どれだけ練習してもトム・クルーズ並の運転ができるわけじゃないですし、映画の中で実際に三浦さんが路線変更するところなどはありますが、それで上手いのか下手なのか観てるこっちはよくわからない。ただ、もちろん我々は最終的には彼女が素晴らしいドライバーであると説得されたわけですが、どういうプランを立てたのでしょうか。

濱口:ひとつの結論としては決して運転が上手だとは強調しないってことです。たとえば運転中に何か危険な局面とかがあったりしたらテクニックは浮き立ってくると思うんですけど、彼女の仕事の中でそれを強調する場面ってそんなにない。ドラマと顔だけで納得してもらうってことに尽きるということです。シフトレバーを動かす手を捉えるとか、そういうのはレース映画というわけでもないし、バカバカしくも映ると思ったので、個別の技術はわざわざ強調しない。運転の特訓は監督補の渡辺直樹さんにお任せしていて、とても運転が上手な方なんですが、実際うまくなったとも思います。ただ、三浦さんには「大丈夫です、あなたの顔っていうのは絶対運転が上手く見えるから、普通にリラックスして運転してくれればそれで良いから」と言い続けました。三浦さんはいい意味で、とてもふてぶてしい表情をしてました。なので実際、それだけで十分だと思っていました。

三浦:もうひとつ説得力があるのはやはり音ですよね。エンジン音の唸りは録音して要所要所で使われているんだと思いますが、こんな音を鳴らすやつは上手いに違いないと。流れている石橋さんの音楽とも絶妙に合う。ジャズという選択は村上春樹さんとのつながりもあると思うんだけど、石橋英子さんってご自身がジャズのドラムもなさっている方なんですよね。エンジンの音と、ジャズのブラシストロークが組み合わさって、畳み掛けるような躍動感が出ていました。

濱口:エンジン音に関しては、劇用車会社の運転担当の方に運転していただいたものを録っていまして、実際のエンジン音です。音楽の石橋さんもめちゃめちゃ映画観てる方なんですが、初めて聴いたときにはヴィム・ヴェンダースの映画とか、クリント・イーストウッドとか、70〜80年代ぐらいの映画のイメージが石橋さんの音楽にはあって、それをそのまま良いところに差し込みました。

三浦:みさきが登場してサーブ900を運転するようになってからは、音楽の力も加わりつつ、前進し続けるドライブ感に本当に気持ちよくもっていかれる展開になります。これはシナリオの組み立て方とも関わると思うんですけど、家福の仕事で濃密な会話劇が展開した後で、車とともにみさきが控えていて、それに乗って次の場所に運んでくれる。この繰り返しがえもいわれず心地いい。演劇制作の現場などで一悶着あった後、観客がふと忘れたときにもみさきは常に待機していて、無意識に家福を支える。そこが感動的です。無口で寡黙、1日ぐらい寝なくても仕事はきっちりやる、というすごすぎる能力なんですが、三浦さんの存在感ゆえにまったく不自然ではない。彼女が煙草を吸う場面も、風を避けて背中を丸めて火をつける動作がこなれている。映画の中で2回出てくる動作なんだけど、無意識から出てきている感じがして、それが観客の信頼感を醸成している。三浦さんには取ってつけたところがないんです。

濱口:芸歴が長いということもあるのかもしれません。いまのお話を聞いていて思ったのは、東京編の楽屋と車の中の空間が近いんじゃないかということですね。仕事場と家、もしくは仕事場と宿泊先、その2つをつなぐ空間として楽屋や車があるんだなって。こういう空間がなければプライベートの自分にも仕事をする自分にもなれない。後半になるとみさきはドラマの中で喋るようになるんですけど、それまではずっとこの移動中に家福と一緒にいるだけで。でも、ほどよく観客の意識の中にいてくれる気はするんですよね。この人あんまり出てこないけど重要なんだろうなって思いながら観てくれるだろうと。仕事場からプライベートな場所に帰るというときに、この人だったら邪魔にならずその空間にいられるだろうっていうリアリティが三浦さんにあるような気がしていて。

三浦:最初にみさきがテストドライブをするときに、家福が「カセットテープをかけてくれないか」って言うと、黙ってテープをかける。そうすると家福は自分が運転するときと同じように、いきなり声を張ってセリフの朗読を始めるんだけど、みさきはそれスルーするんですよね。「え?」みたいな空気になるタイミングで、それもテストの一部なんだと思うけど、沈黙によって彼女の聡明さが一発で理解される瞬間ですよね。

濱口:この演出はやっていて、どこまで伝わるかっていうのは不安ではあったんです。ただ、この状況でもスルーできるなら彼女がいて構わないって家福が思えるってことなんだろうなとやりながら思いました。

三浦:でもみさきって頭良過ぎますよね。喋る内容もすごく高度です。濱口さんは、人の知性を表現するのに絶対ブレーキをかけない。

濱口:原作でも「こいつやるな」って感じのあるキャラクターなので、その部分に惹かれてる部分もあったとは思います。それをすごく納得できるようにサブテキストも書いた。みさきってでもめちゃめちゃ本を読んでるんですよね。彼女が書き言葉みたいな話し方をするのは、彼女が言葉を学ぶのが基本的に本からだという理由もあると思います。

三宅:なるほどね。

濱口:もともと三浦(透子)さんが本当に本を読む人で、聡明な人なんですよ。この年代でこんなに理解のある人は初めてってぐらい。みさきは言ってみれば家福と互角か、それ以上に知的なキャラクターなんだけど、それをファンタジーにしないためにも、みさきを演じる人には本当の知性が必要だと思ってたんだけど、その点でも三浦さんに出会えて、やってもらえたのは本当にラッキーだったなと思います。

三浦:映画の終盤の話ですが、高槻が捕まった後に家福が「落ち着いて考えられる場所知らないか」って言うじゃないですか。それに対してみさきはただコンコンって車を叩く。あの身ぶりが様になるって相当ですよね。

濱口:ああ、確かに。

三浦:「車の中が一番だと思いますよ」みたいなことは冗長だから言わない。というか、この映画に出てくる人たちは無駄なことを言わないよね。一言で分かって当然っていう。

三宅:格好良いよね。

 

■演技の根底には不安がある

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三宅:濱口さんは役者がいる場での映画監督としての自分の振る舞いってどれくらい意識してますか?

濱口:自分が演技してるか、ですか?

三宅:まあ演技って言うとあれかな、自分のことをどれくらいコントロールしてますか?

濱口:それは、めちゃめちゃしてると思う。役者を最大限注視して、おかしなことがあったら最大限のケアをして、自分の言葉があんまり暴力的に働かないよう、支配的にならないように、役者の自発性がどうやったら引き出されるかというのは、めちゃめちゃ気にしている。プライベートまでそういう人間だと思われたら困るぐらい。ある種、仕事中は監督というフィクションを生きている。ただ、それはフリをするということとも違って、真剣にフィクションを構築しているという感じかな。

三宅:家福という演出家は、一言一言が堂々としていて、言葉に確信があって、演出中に熟考しているときの揺れみたいなものを極力表に出さないようにしている人物だとみたんですが、現場って基本的にめっちゃ悩む時間ですよね。悩むのは当然として、悩む姿とか言葉の間って、良くも悪くもいろんな受け取りかたをされる。濱口さんはどうしてるのかなって。

濱口:確信はむしろないことが多い。特にカメラポジションを決めるとか、あと何ショット撮るかとか、顔を撮っとくべきかどうかとか、そういうことに関しては常に悩む。けど、役者さんに関しては基本的な考えとして、プロフェッショナルに対してはもしかしたら失礼なのかもしれないけれど、演じるっていうことは不安や恐怖がある、と想定している。そういうものが和らげられるにはどうしたら良いのかっていうことを行動指針にはしてますね。

三浦:知り合いに聞いた話だと、濱口さんは「アクション」って声が思わずみんな身震いするぐらい大音量で言われるそうですね。

濱口:「よーい、はい」は基本的には大きな声で言います。イーストウッドみたいに何も言わず滑らかにオフとオンをつなげるやり方も素敵ですが、大島渚はめちゃめちゃでかい声で言ってましたよね。役者というのは現場ですごく不安を感じているはずだと僕は想像しているんで、いままで続いてきてる現実とか社会を断ち切るように大きめに言ってます。けっこう僕の「よーいはい」は狂気を感じるみたいですね。でもまあ、その狂気があって、役者さんがフィクションの方にも行きやすくなるんじゃないかと期待しています。

三浦:なるほど。三宅さんはどうしてます?

三宅:僕はシーンのトーンに合わせて、ものすごく小さかったり大きかったり。場合によっては何も言わずに始められないかな、気づいたら始まってる感じにならないかなって思うときもあるし。そういう場面は、それこそイーストウッド映画をみて真似していることですけど、たとえばドアの向こうに最初の立ち位置を設定したりしますかね。でも、濱口さんの映画はテキストの強度が高いし、スイッチをグイッと別の世界に切り替える必要がその声にあるだろうなって思う。僕もホラー作品のときにそれはけっこう意識したかも。話が戻りますが、演技の根底には不安みたいなものがベースにあるという濱口さんの考え方、僕もすごく影響受けたし、いろんな人が影響受けたほうが良いんじゃないかなって。濱口さんみたいにサブテキストまであることがどれだけ信頼できるかってことですよ。用意するのすごい面倒臭いと思うんですけど。だってどうせ撮らないものを書くなんて。

濱口:ええ、面倒くさいです。めちゃくちゃ。

三宅:このあいだ真似しようとしたけど、間に合わなかった。プロフィールまでは作ったけど、サブテキストまではやれなかったな。それが絶対に必要だってお互いに了解しあうまでの労力をかけるべきか、確信もなかったから、別のやり方になった。普通はそんなサブテキストなしでみなさん仕事をしているわけだから、単にサブテキストを押し付けるんじゃなくて「これが必要なことなんです、なぜなら」って伝えて理解してもらう手続き自体、相当なこと。本当にすごいと思う。

濱口:いやいや、でも本当に、演じることは相当に大変なんだっていうのは一般的な考えになってほしいっていうか、それだけでめちゃめちゃ仕事が変わると思う。

三宅:演じる仕事は、何かしら自分を守ること自体は多少なりとも本質的に要求される仕事だけど、現場のどうでもいい都合を「それも仕事だから」という言葉で押し付けちゃうと、やっぱり役者という一人の人間の、なにか大事な部分を壊しちゃいそうで、恐ろしい。

三浦:だからその意味で『ドライブ・マイ・カー』はすごく政治的な映画だよね。下手をすればいろいろなシステムの中で搾取されてしまうかもしれない、演者たちの、それから私たちの生のとても繊細な何かを、どうやって尊重し、守るのか。そのための場をどうやって確保するのか。こういう政治的な問いを深く問うて、具体的な解決のための手立てを考え、実践している。だからこの映画は、傑作がまた一つつけ加えられたという以上の、本当に大きい意味をもつ作品だと思うんです。演技の別の在りよう、それを可能にするための場を要求して、世の中に問いを投げかけて、しかもすでにすごく注目を浴びているわけだから。でも、そのやり方がまったく暴力的ではなくて、これまた非常に用意周到であることも強調したい。実際にとても繊細な演技が生まれることと、家福たちの傷ついた魂が再生に向かう物語展開がぴったり一致している。

 

■公園での立ち稽古について:素材以上に良い編集を求める

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三浦:昼の公園での立ち稽古の場面について、編集の観点からもお聞きしたいんですよ。すばらしい演技が成立して、演出家の家福が「これをこのまま舞台に移す」って力強く宣言してみせるんですが、ここは映画的な編集がとても鮮やかに奏功している場面でもあると思うんです。
演技をしている二人のうち、ジャニス・チャン(ソニア・ユアン)が画面手前へフレームアウトすると、イ・ユナ(パク・ユリム)が画面に残ります。で、オフフレームのジャニスに反応して、ぱっと笑顔を輝かせる。観客にはこのときジャニスが見えないから、瞬時にすごく引き込まれる。そこから、遠くで二人を見つめる家福たちを横から撮ったショットを経由して、パンッとロングショットになる。そこで家福たちの背中越しに二人が映されるんですが、ここで、二人はすでに抱き合っている。抱き合う瞬間そのものは映されないんです。この一連のタイミングが本当に感動的です。その後は、望遠レンズでジャニスが抱き合っているイ・ユナの耳元へ囁くように話しかけるショットに続きます。これは絶対に家福に聞こえるわけのないくらい小さな囁き声なんだけど、映画の観客には届くじゃないですか。だからこそ、二人のありえないような親密さの印象が胸に刻まれる。
すごくドラマティックでメリハリが効いた構成ですよね。これは涙腺決壊せざるをえない。でもこれってぜんぜん自然ではありませんよね。二人が抱き合う動作を普通に撮って普通に編集したら絶対にこうはならない。どういう試行錯誤の結果、ああなったんでしょうか。

濱口:撮影の段階からお話ししますと、基本的に2カメで撮っていて、Aカメは基本的にはBカメにはあまり配慮しない1カメ的なポジションに置いてもらいます。Bカメは実際に演技を見ている家福たちのリアクションを撮っています。で、マスターショットとして移動ショットをまず撮りました。これは一番最初に歩き始めるところでも使ってますし、一番最後にイ・ユナが演じるソーニャが葉っぱを拾って出す場所でも使っています。ちなみに葉っぱを拾うというのは彼女のアイデアで、その場のひらめきなんですよ。皆さんどう思われたかわからないけど、これはちょっとすげえな、この人、天才なのかなと思った。構想の段階でも切り返しがあるってことは考えていて、そのなかでも特に二人が抱き合った段階での正面ショットは欲しかった。三浦さんが仰っていた、二人が一回離れて抱き合うショットは、イ・ユナを撮る正面ショットにそのまんま切り替わるわけなんですが、正面ショットを撮るときって結局全部やらないとダメなんですよ、助走が必要なんです。こないだ東京藝大の学生から「正面ショットがうまくいかないんです」と質問をされたんだけど……。

三宅:めちゃくちゃいい質問!

濱口:ここがうまくいったのは、最初に通しで演技したってことが大事なんです。なぜなら場面が通しでうまくいっていないときは、正面ショットってまず上手く行かないと思う。役者さんの集中力がいっぺん出来上がっていなければいけない。あの場面はまだ抱き合うだけなんですけど、たとえば車の中の対話で正面ショットを使うなら、相手役の記憶みたいなものが役者さんに明確にないと絶対無理。三浦さんが指摘された切り返しの部分も、編集したときに彼女の笑顔というものがふっと浮かぶ瞬間があって、向こうにはまだジャニスは見えないけど、ユナがフッと笑ってジャニスがスッと入ってくるっていう呼吸があった。でも、そのときに抱き合うところをそのまま見せると、単純に野暮ったいという感覚があったんです。それからもうひとつ、この映画の最後の最後でみさきと家福が抱き合ったり、舞台上でワーニャ(家福)とソーニャ(イ・ユナ)が抱き合う場面がありますよね。でもこの二人はあくまでも脇役なので、ここにエモーションのピークをもってきても観客は戸惑うだろうと。基本的にこの映画は家福と高槻の物語に主軸があるわけですから、あくまで彼らの映画であると示すためにこういう構成にしました。

三浦:二人のエモーションが、少し離れて観察している家福たちに伝染する、そういう編集になっている。それがまたたまらないよね。

濱口:この場での一番最後に家福が「オッケー」って言うんですけど、このタイミングが完璧だなって思ったんです。もっと早く言っててもおかしくない、というのは、このとき西島さんからは彼女たちの表情が見えていないからです。この場面、ぜんぜんこちらからは合図を出していなくて西島さんに任せていたんですが、顔が見えているこちらとしてもそのタイミングで完璧だなって思えた。背中を向けているという点で観客にとって不親切なものであるのは間違いないんだけど、なんか感じているものがあったんじゃないかと。西島さんに聞いてみたら「あそこはああいうタイミングでしか言えないですよね」というふうに仰っていて、なんかあったんだろうなと、だから、ああいうセリフも素直に言える流れになっていたのかなと。

三浦:「いま、何かが起きていた」という名台詞ですよね、超ドヤ顔(笑)での。西島さんがもう「俺の手柄だぜ」という晴れがましい表情をされていて最高です。

濱口:あそこが家福のドヤ顔ピークですね。

三宅:「今度はこれを舞台の上で起こさなきゃいけない」ってね、真似したくなるよね。

濱口:ほんとにね、この台詞を書いたときは大丈夫かなって思ったんですよ。

三宅:この場面、かなり複雑かつ繊細な動線とカメラポジションになっていて、あの光のなかで、つまり決して長くない時間のなかでどうやれば撮り切れるのか、全くわからないんです。僕ならビビって、いろいろシンプルにしすぎちゃうかもしれない。濱口さんは普段カメラポジション云々のプランについて、たとえばノートか何かに平面図や動線を書いて事前に準備しますか?

濱口:どうしても共有しないといけないとき、スピードが問われるときは書くけど、そうじゃないときは、あくまでも口頭でカメラマンに説明してやってもらう。基本的に動きができないとそういうプランはつくれないんです。一番の目的は役者さんが安心して、集中して演技ができるということで、違和感がある動きをできる限り少なくしなきゃいけない。もし突っ立っていたり不安があるような動きがあったりしたら「こう動いてください、もしくは動かなくていいです」って伝える必要が現場で生まれるので、撮影の直前までプランは決まらないわけです。座っている場所とかは別にして、基本的にはポジショニングもその場で行っていて、編集は撮影をしながら、撮れたものに応じて撮りながら考えている感じ。

三宅:そうなんだ、正直それは意外。現場中か、あるいは現場前に編集まで見えているんじゃないかと思っていた。編集で重要視していることはなんですか?

濱口:編集に入ると、その場で確かに撮れたという実感のある画面を軸にして考えるんですが、それでもやっぱりその空間で起きたすべてのことは拾いきれてないんですよ。もっと微細な感情が別のアングルには存在してる。だから編集の山崎さんと話したのは「この映画は、引き画一発でも十分いいものが撮れているんだけど、この一発を選択するよりもいい編集にしましょう」ということでした。たとえばそういう引き画にちょっと別の画面をインサートして、引き画に戻って終わり、みたいなことにはなかなかできない。カットを割る以上は、ちゃんとある種の流れが生じて、最後まで持続するようなものにしようと。そのためには、そういう作業が可能になるような素材を現場で撮っておかないといけない。なので、撮影素材も膨大なものにはなっている。ある意味で自分を信用しないことを現場で覚えていくというか……無駄にしてるというわけではないんですが、使ってない素材も膨大にある中で見つけた「たまたまよく撮れたものをつないだ」ルートとして、この場面は出来上がっています。

三宅:そんな作り方だったんだ……。濱口さんの映画って、出来上がったものが無駄なく強いものに見えるから、最初からそう構築しているかのように見えてしまっていたんだけど、実は現場ではいろんなことにナマで反応しながらその場で決められているんですね、それも想像以上に。聞けてよかった。なんというか、勇気というか度胸をもらいますわ。

 

■海っぺりの家福とみさき

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

三宅:今日一番聞きたいことなんですが、広島のスクラップ工場(広島市 環境局中工場)を出た海っぺりの場面。すごく不思議な段取り、立ち位置です。二人の決定的な場面の一つですが、たとえば小津の映画の老夫婦のように二人座って並んで会話をする可能性もあったのかと。もしくは二人で並んで歩きながら喋るとか。でも実際にはそうじゃなくて、一人は海沿いに立って煙草を吸い、もう一人は階段の2段ぐらい上がったところで煙草を吸い、少し離れたところで会話をする。これはいったいどんな理由でこの段取りになったんだと。

濱口:これはね、まずひとつは喫煙シーンはあの海っぺりじゃないとダメって言われたことが決定的でした。この前に二人が建物を出たあとにゴミ収集車を二人で見る場面があるんですけども、そこでは灰皿を置いちゃダメですと言われて。じゃあ階段降りたところでと思ったらそこもダメですと。どこだったら良いですかって聞いたら、あの海っぺりだったらということになって。これはロケハン段階でわかっていたことなんですが、それで海っぺりでということになります。ただ、この場面がなんでああいう配置になったかというと、家福とみさきの二人が並ぶっていうことを、映画全体の配置の中でとっておくということかな。

三浦:それは後半の展開に向けて控えておくってこと?

濱口:そうです。ここでは二人の関係はまだそこまではいってない。じゃあここではどういう関係性があるかというと、口で言うと馬鹿馬鹿しいけど、高低差があって低いところに家福を置いて、高いところにみさきが立っているっていう状況を作るということです。そこでみさきがしゃがむことによって、二人の目線がだいたい同じ高さになる。そういう関係性がこの時点での二人としては良いのじゃないだろうかと。心理的なものとはそこまで関係がないけど、普通の配置で会話を撮ろうとすると、基本的には家福がみさきを見下ろして話す関係性になる。そうじゃない関係性ってことになると、ああいう配置になるわけで。

三宅:この海っぺりの空間って、どんな立ち位置でもありえてしまうというか、拠り所の少ないすごい不安な場所じゃない? きつくなかった?

濱口:最初は移動撮影しようかとか、すごい悩んだ。海っぺりまでまず歩かせて、そこから海沿いに二人を並んで歩かせることもできなくはない。それをツーショットで捉えて水辺が映ってるってだけでも素敵なものにはなる。あの時間帯に水辺で移動撮影をすれば、すごく強度のある画面になったと思うし、二人の関係性も強まって見えると思う。でもやっぱりそれはあの時点での場面には強すぎるっていう判断だったんだよね。この映画の中では4回ぐらい過去を話すところがあるんですが、ここは2回目なんです。関係としては進展してるけど、全体ではあそこに至ってもまだ初期段階で。だからそこまで画として魅力的な演出を選択しない理由になった。

三宅:確かにね、水辺を一緒に並んで歩いてたら違う関係が生まれちゃいますよね、よくない意味でカップル度が高くなりそう。なるほどな、難しいシーンだったと思う。

濱口:難しかった。俯瞰ショットも使っているんですけど、それは最初は引き画として撮っていて、そこから切り返しショットに向かおうとしたんです。実際、切り返しも撮っていて後半部分で使ってるんですけど、でも実際にそれでやってみたら西島さんの投げたライターを三浦さんがキャッチできなかったんですよ。風も強かったし、何回もやってるうちに陽も変わってきてしまって。引き画なのでちょっと気付きづらいと思うんですけど、だんだん日がすーっと陰ってるんです。その変化が撮れてたから、少し日が落ちたあとの明るさとも合いやすくなって編集がこうなった。そういう偶然映ったものがすごいたくさんあるんです。単純に今回は運が良すぎる撮影で、少し怖いぐらいだった。天候に関してもそうですが、全体的に撮影でひたすら偶然起きた良いことをできるだけつないでいったというのが実際なんです。

三浦:二人の関係が4段階ぐらい発展していくっていう大きな流れが先にあって、それによってこのシーンの二人の距離が選択されたって言われてましたけど、それってシナリオを書く段階、あるいはロケハンの段階でもおおよそ決まっていたってことなんですか? そうでなければどの段階で決まるんでしょう?

濱口:ものすごく明瞭に決まっているわけではないんです。たとえば家福が車の後部座席ではなく助手席に座るシーンはシナリオにも書き込まれているんですが、そうすると二人が初めて並ぶ瞬間というのはその場面までとっておく必要ができますよね。シーンの撮り方はもちろんその場その場で決めるんだけど、どこが重要なポイントかというのはあらかじめ決まっている。そこから細部は逆算するというか、そういう段階が作れるようにやっているんです。それと同じように、関係が逆戻りしたように見えるような演出は避けるということでもあります。

三宅:シナリオの段階ではそこまで厳密にできないこともありますよね。シナリオであまりに空間の使い方を前提にしていると、さっきの煙草吸えない問題みたいなことがあって変わっちゃうから。ある程度抽象的に、内面の問題くらいに留めておかないと、あとで痛い目にあったりする。もし煙草がどこでも吸えたら、あのシーン全然違う段取りになってますよね。

濱口:そう、そうなのよ。

三宅:もし灰皿が置けていたら、単純にそこで並んでタバコを吸って会話するだけの場面になっていたかもしれない。二人が特別な時間を共有するみたいな瞬間にはなるかもしれないけれど、セリフの発話や目の動きも当然変わって、全然違う場面になりそう。いやあ聞けてよかった、面白かった。

 

■顔の傷と北海道の大地と覆われた原爆ドーム

三宅: 二回この映画をみたんですが、二回めに、涙こそ出なかったけど最も感動したのが、広島の原爆ドームが映るカットでした。原爆ドームにあの時間帯にカメラを向けたこと、あのタイミングであのカットを入れたことの経緯や判断について、教えてください。

濱口:あれは車を俯瞰で撮るためのポイントから撮っていて、もともとは中盤ぐらいに夜に車が行くのをパンで振り上げて追うところがあるんだけど、それを撮るためにおりづるタワーというところに夕暮れの時間に入って、夜まで待っていたんです。あの高さだから広島の街の実景も撮っておきましょうかってことになって、そうしたら原爆ドームがもう目の前にあるわけ。フィルムコミッションの人によればNHKの方とかも基本的にここから撮られるという場所のようで。でも原爆ドームって、この映画はそこに焦点があるわけではないし、撮っていいのかってやはり考えるじゃないですか。

三宅:うん。

濱口:とは言え撮った。夕暮れの赤も美しくて、まあこれを撮らないということは難しかった。撮ったとしても使わないっていう可能性も全然あるので。でも、結果的にあれを使おうと思ったことにはいくつか理由があって。今回の映画ではダブルチーフのような体制で、監督補に渡辺さん、チーフ助監督に川井隼人さんって方がついていたんです。スケジュールは渡辺さんが作られて、現場は川井さんが回すというかたちで。川井さんは『ザ・ファブル』(2019)のような大作でも監督補をやられているベテランなんですが、撮影が終わったときに「あそこで、あの時間帯でああいう原爆ドームを撮ったことには何か意味があると思っているんです」っていうことをぼそっと言われたんですね。そのことは編集中まで残っていた。そうしたこととともに自分の中で原爆ドームの映像を使う踏ん切りがついたのは、ドームがカバーで覆われていたことです。

三浦:ああ、工事中だったね。

濱口:そう、改修中だったんです。それのおかげでいわゆる一般的、抽象的に「原爆ドーム」ということではなく時間帯も含めて、撮影のときにたまたま自分たちの目の前に現れた「その瞬間の原爆ドーム」だという感じに見えた。自分と個別的な関係があるように思えて、それなら使っても良いんじゃないかと。原爆ドームは普通だったらごく端的に「広島だ」ってことを示すだけになりそうですが、この状態を撮ったものであれば、この映画の辿り着く場所として悪くないかなと考えたんです。

三宅:北海道での二人のやりとりが終わった瞬間、そこで不意に原爆ドームのカットが入ってきて、そこから舞台の場面に入る。原爆ドームが映ったところですでに舞台の声が響き始めていましたよね。原爆ドームをあの時間帯の光で捉えたショットが、いまは失われてしまった奥さんをシルエットで捉えたファーストカットを思い出したし、それから三浦透子さんの顔の傷と、北海道のボロボロの傷ついた土地と、そして原爆ドームとが結びつくというか、それぞれの歴史と現在が重ねられていって、見事にはまっている、あそこ以外使いようがない、と思いました。それが、単に事前の想定どおり映像化されただけという訳ではなく、もっと生々しく、現場中のスタッフからの一言で発見と決断があり、撮った映像とともにじっくり考えた結果でこうなったということが知れて、よかったというか、映画作りってやっぱり強烈に面白いなと思わせられています。

三浦:死者をめぐる思索が、ドラマの中で行き着くところまで行き着いて、ようやくそれを映せる準備をできたような感じ、ありますよね。

三宅:いやあ、良かった。

濱口:ありがとうございます。最後に声を大にして言いたいのは、三浦さんには政治的な映画だと言っていただきましたが、実際それはそうで、こういう作品を作るには、そもそもの作り方を変えなければならない。で、作り方を変えるには、僕一人では足らなくて、それはたとえば先ほどの話にあった助監督の川井さんの現場運営やスケジュールを切ってくれた監督補の渡辺さんの仕事のおかげなんです。リハーサルの時間をきちんととるとか、どれだけ撮影の時間が詰まっていても本読みの時間は確保してもらうとか。ひいては、役者さんを尊重するとか、そういうことも含めて映画制作全体の理解が更新されなければつくれないタイプの映画なんですね。川井さんや渡辺さんの仕事は、そうした面でこの映画にものすごく根本的な力を与えてくれた。それがこの日本の映画業界でどれほど重要かというのはどれだけ強く言っても足りないぐらいだと思っています。この映画の撮影はいろいろと運が良過ぎたと言いましたけど、これをこの一本の幸運で僕自身は終わらせたくない。そのためには一人ひとりが作りながら変わっていかなくてはいけない。その変わっていく一つの実例として『ドライブ・マイ・カー』があるんだとも思っています。二人のおかげで、そういう「作り方」の面でこの映画が少なからず特異なものであるということを言う機会をもらって、それがとてもありがたく思いました。ありがとうございました。

©️2021『ドライブ・マイ・カー』製作委員会

2021年8月10日収録(オンライン収録)

構成:フィルムアート社

『ドライブ・マイ・カー』
監督:濱口竜介
原作:村上春樹 「ドライブ・マイ・カー」 (短編小説集「女のいない男たち」所収/文春文庫刊)
キャスト:西島秀俊 三浦透子 霧島れいか/岡田将生
脚本:濱口竜介 大江崇允
音楽:石橋英子
製作:『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
製作幹事:カルチュア・エンタテインメント、ビターズ・エンド
制作プロダクション:C&Iエンタテインメント
配給:ビターズ・エンド
(C)2021 『ドライブ・マイ・カー』製作委員会
2021/日本/1.85:1/179分/PG-12
公式サイト dmc.bitters.co.jp
TOHOシネマズ日比谷ほか全国大ヒット上映中!


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