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2023.01.23

特別鼎談 三宅唱×濱口竜介×三浦哲哉
「時間」はどのようにして映画に定着するのか?──『ケイコ 目を澄ませて』の演出をめぐって

Creator's Words / 三宅唱, 濱口竜介, 三浦哲哉

2022年12月16日から公開された三宅唱監督の最新作『ケイコ 目を澄ませて』。16ミリフィルムで映し出された、澄み渡るような光、しんと静まり冴え冴えとした空気。寡黙なケイコの目に映るもの、そして流れる時間を丁寧に映し取り、積み重なる小さな瞬間そのひとつひとつにかけがえのなさを感じさせる、紛れもない傑作だ。この作品がどのようにして撮られていったのか、ひとつの映画をつくるまでに何をして、何を考えてきたのか。三宅監督と映画監督の濱口竜介氏、映画研究者の三浦哲哉氏の鼎談をお届けする。
数年前から定期的に映画演出の勉強会を継続しているお三方ならではの、徹底的に演出について検討する問いかけと応答は、実に3時間半にも及んだ。じっくりとお楽しみいただきたい。

(本記事は全編にわたって映画の内容に触れています。ご鑑賞後に記事をお読みいただくことをお勧めいたします)

 

■「岸井ゆきの」と「ケイコ」

濱口竜介:僕は最初にベルリン国際映画祭の超でっかいスクリーンで、三宅映画史上最大画圧で『ケイコ 目を澄ませて』を見たんですが、三宅唱フィルモグラフィを名実ともに更新する傑作だと思いました。それは何よりこの映画の中心にある岸井ゆきのさんの姿が、ものすごくぶっといひとつの力の流れを体現していたからです。現代の日本の劇映画で、俳優自身が自分がそこにいる理由を意識ではなく身体のレベルで理解していると感じることってすごく少ない。それが起きていることに単純に驚きました。
 俳優が身体で理解してさえいれば、演出家の思惑を遥かに超えて、観客により多くを、より正確に、力強く伝えてくれます。たとえば終盤、仙道敦子さんの日記の朗読の後に柔軟をしている岸井さんが映し出されるんだけど、その表情に驚きました。すごく強烈なものというわけではない。だけど、とてもカジュアルに彼女は自分の内的な状態と対話をしている、その様がそのままケイコがそこにいる、と観客に説明無用に了解させてしまう。それがどれだけ驚くべきことか、ということはどれだけ強調しても足らない。だって岸井ゆきのは基本的にはケイコじゃないんだから。そういう印象から、この場面はきっと、役者と役柄が編み合わされていった最終日近くに撮影されたものだと思ったら、実際の撮影は2日目だったとベルリンで聞いて、また何重にも驚きました。ただ、この2日目って、ただの2日目じゃないわけですよね。どういう準備を岸井さんとしたか聞いてもいいでしょうか?

三宅唱:撮影に入る3ヵ月前から、岸井さんと一緒に僕もジムでボクシングを習い始めました。多いときで週5、少なくても週2ぐらいでしょうか。僕はボクシングのことをぜんぜん知らなかったので、その魅力を自分の体でも味わいたいというのが第一の理由。それから、撮影現場を想像すると、めちゃくちゃしんどそうだな、と思ったんですね。噂で、ボクシング映画の撮影で誰それが倒れたとかまるで武勇伝のように語られるエピソードを色々と耳にしていたんですが、それって金と時間がないだけの話だし、正直そんな面倒くさいことはやりたくないなあと。となると、体力の限界、つまり俳優に対する撮影の止めどきを事前に知っておくのが自分の仕事には必要不可欠になる。キツそうに見えてももうちょっと先に行かないと駄目なのか、本当に限界なのかどうかっていうライン。自分の場合は、自分がビビってしまって何かいいところの手前でキャメラを止めてしまいそうで、それも恐ろしいしね。
 松浦慎一郎さん[編注|トレーナー松本役、本作のボクシング指導も担う]に1時間の練習メニューを組んでもらっていたんですが、岸井さんが体力ありすぎることが途中でわかりまして、1時間じゃぜんぜん汗かかないから、毎回2時間やるようになった。それでやっと汗が吹き出るくらい。

濱口:汗が吹き出るまでやるってことが必要だった?

三宅:1時間練習をあっさり終えていた頃は、なかなか集中できていないようには見えていましたね。岸井さん自身も別のインタビューで話していたけれど、最初の頃は探り探りだったと。おっかなびっくりだと、たぶん汗もかきづらい。それは僕も同様で、やっぱり怖かった。ボクシングの練習をするようになって最初の驚きは、殴られることよりも殴るほうが怖いという発見でした。腕が届く距離って、通常の会話をする距離よりも近く、恋人以外は入らないような近さに入るので、最初はやっぱり身が固まりますよね。満員電車ってこの意味で暴力的なんだなとか、ファイター同士には実は特別な信頼関係があるのかもねだとか、そういうことを岸井さんと練習後に話していて、それがそのまま脚本に反映される訳ではないけれど、改稿を進めるヒントのようなものを一緒に発見することができた気がします。

三浦哲哉:打たれるだけじゃなく自分も打つことで、相手との距離に慣れていく必要があるんですね。しかし、二人してそこから始めるってほんとすごい。

三宅:練習を一緒にやらずに現場いくって選択肢はちょっと考えられなかったですね。僕も岸井さんも性格的に慎重なタイプというか、少なくとも自分は心を開くまで時間がかかりがちなので、本音で喋れるようになるまでの時間を持てたのはラッキーでした。岸井さんと練習が終わったあとに、少しずつ、練習の振り返りとか、映画のことをちょっとずつ話していって。ボクシング素人という点でまったく並列にいる者同士として、それぞれが自分の身体で感じたものを言葉に置き換えて、結果的にお互いを知っていくという時間を撮影前に持てたのは大きい。いや、言葉そのものというよりも、言葉にあえてしないような大切なことを言外に互いに知るというも大きかったかな。以前の映画ならプロデューサーの松井(宏)さんと、まあ友人同士として何かを見たり聴いたりして「あれってこうだよね」と雑談してきたのが積み重なっていたわけですが、今思うと、そんな感じに近いところもあったかなと。

濱口:監督対俳優という関係ではなく、いわば共同クリエイターってことですね。

三宅:そうですね。彼女がどう思っていたかはわからないけれど。それから、最初に濱口さんが言及してくれた、終盤の柔軟体操をしている場面。あの場所のロケハンの時には、うまくタイミングがあったこともあって岸井さんもメインスタッフと一緒に参加してくれて。10kmくらい荒川沿いをみんなで歩いて、そんなに風景は変わらない中でなんとか拠り所を探って、よしここにしようと決めた瞬間には岸井さんもいたような記憶があります。

濱口:当初の構想からオープニングの場面を変更されたと聞いたんですが、もともとはどう始める予定だったんですか?

三宅:ジムの外からですね。照明がチカチカして雪が見えたり見えなかったりするというショットから始めて、男、男、男みたいなジムの中にケイコが入ってくる、そんな脚本だったんですが、それよりも「さあ、ケイコとこれから過ごしますよ」っていうことを、もっと早々に示そうとして今の形になりました。

濱口:なるほど、空間があってそこにケイコが来るんじゃなくて、まずケイコがいて空間がやってくるみたいなイメージに変えたと。

三宅:そうです。脚本通りにつなぐと引っかかるところがあって、それで別のオープニングを色々と試したんですけどね。カフェでの友人たちとの語らいから始めたり、会長夫婦が橋を渡る実景的なロングショットから始めるのも試してみたり。最終的には、編集の大川景子さんの提案というか確信だったと思うけれど、別シーン用に撮っていた鏡に映ったケイコの顔とあの部屋のショットから始めることにしました。ここから始めようと。

三浦:ケイコはちょっと顔に怪我していますよね。どうして怪我をしたのかとか、彼女を取り巻く状況はわからないんだけれど、「彼女はなんか悩んでるらしいぞ」っていうことが最初の場面からはっきり伝わって、記憶されます。

三宅:もうすでに彼女は傷ついてるんだっていうのが一発でわかるのはいいなあと思いましたね。「よし、これだ」と。そして部屋で一人、何かを書いてる人がいる、手紙なのか日記なのかはわからない、でも主人公の像はこれだよねってことがはっきり見えた。

三浦:終盤の仙道敦子さんに代読される日記の朗読の場面に至るまで、観客はケイコが何を考えてるかがわからない。そこが素晴らしいところだと思うんです。どうして悩んでいるのかという部分は、物語の中でほとんど言葉では説明されない。だから僕らは気になる。演じる岸井さんから、「ここでケイコは何考えてるんですか?」みたいに尋ねられることはありました?

三宅:撮影の前半、自宅場面のたしか初日に、ケイコは自分の弟に対してどこまで正直に自分の考えを伝えてるのか、ちょっとカッコつけて話してるのかどうか、そのあたりを一度段取り前に確認しあうことはありました。言い換えると、ケイコの発する言葉に、ある種の「お芝居」というかポーズの側面があるのか、それともまったくの本心なのか、と。僕らの結論としては、その場その場でケイコは本当のことを言っていることにしましょう、ということになりました。実は『きみの鳥はうたえる』(2018)でも柄本佑とまったく同じ話をして、同じような結論になりまして、たぶん僕のホン(脚本)のキャラクターって、ちょっと嘘つきっぽくも読めるというか、本心が別のところにあるようにも思えるような、前後の整合性を考えると矛盾を含むような受け答えをすることが多いのかもな、とその後振り返ってもみたんですが。でも演じるときには、セリフがそのまま、その場での本心だと考えるようにする。そうすると、その人物が社会とか周囲とただズレているだけの人物として立ち上がって、そういう人に僕はなぜか愛嬌を感じます。

濱口:この映画では誰かが誰かを裏切ったり、嫉妬したりって全然しない。それなのに映画が100分もつ、ということが自分にとってはまた衝撃で(笑)。岸井さんだけではなく、この映画のあらゆる会話にきわめて正直なものを感じるんですが、その正直さが全体を貫いている。そういうものだけでできている映画って全然見ない。ケイコに至っては正直が過ぎるというか、ボードに文字で書いたときにも「もうちょっと何か言ってくれる?」みたいな感じじゃないですか。

三宅:いいでしょ(笑)。

濱口:新しいジムへの移籍を断る理由に「家から遠いです」とか、いや、もうちょっと何かあるでしょうと、トレーナーたちの気持ちに同調してしまう(笑)。

三宅:あれ最高ですよね、大好き。

三浦:「痛いの嫌いです」っていうセリフもありましたね。その瞬間の感情がすべてストレートに出てくる。弟とのやり取りも、ケイコの感情があの強い目と一緒になってダンと動作みたいに出てくる。三浦誠己さんが「お前正直やなあ」って呆れて笑っちゃうところがありますが、ケイコの発言を聞くと、自分たちがいかにまわりくどく考えていたか一瞬反省しちゃうような。

 

■手話と音、そして空間

濱口:この映画では、やっぱり手話にも長い準備が必要だったんじゃないでしょうか、俳優さんも不安を感じたところだと思うんです。

三宅:手話はボクシングより少し遅く始まってます。身体作りにかかる時間を考えてボクシングが先行したのと、脚本を手話に翻訳してもらう過程があるので。ただ、そもそも手話を使うシーンって実はそんなに多く書いていないのですが。

濱口:ああ、そうか。そもそも劇中で使える人が少ないもんね。

三宅:そうなんです。手話の準備はもちろんのこと、聞こえないことについて、何をやればいいのか、何をやってはいけないのかというあたりの準備が重要だったように思います。手話をする部分を型として覚えればオッケーという訳では当然なくて。今回の映画では、東京都聴覚障害者連盟の越智大輔さんと堀康子さんという方と、聴者として長く手話指導などに関わってこられた手話あいらんどの南瑠霞さんという方、性別と年齢と聞こえ方が異なる3人に監修や指導をしていただいたんですが、脚本にセリフがない場面でも、例えば一人ぽっちの場面でも、常にケイコの周囲には音が鳴っている状況な訳で、それに反応しない身体というのはどういうことなのか、そのあたりを東聴連のお二人にお会いするたびに質問したり、観察させてもらったり、カフェ場面に出演している山口由紀さんと長井恵里さんらと練習したり、という時間がありました。カフェの場面はケイコは手話はしないけれど、一緒にいる時間を事前に作れてよかったなと思いますね。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

濱口:音に気づかないことも含めて、やっぱり『ケイコ』は音の映画であるわけですよね。最初のジムの音は本当に『THE COCKPIT』(2014)っぽい、ヒップホップのトラックを一つずつ重ねていくような感じがある。まず縄跳びの音があって、足の音があって、マットをバンバン叩く音があって、そうして一個一個のトラックが重なっていって、ボクシングジムというある種の音楽的な場を構成しているというか。

三浦:ドキュメンタリーでボクシングジムをただ記録すると、そういう音はぜんぶ同時に漫然と鳴っている状態になるわけでしょう。それが一個ずつ、カットごとに順番に鳴って、重なっていく。これから始まるのが、映像とサウンドトラックを組み合わせて作るフィクションだっていう宣言のような場面ですよね。

三宅:たとえば、ドラムがダンダンダンダンって入って、途中からベースが鳴ります、ギターが入ります、ピアノが入ります、ボーカルが入ります、はい曲ができあがります、みたいな話を美打ち(美術打ち合わせ)の時に共有していました。他のシーンも、おそらく画面の中心にいるであろうケイコたちの練習からはこういう音が鳴るから、画面奥もしくは画面外ではこういう音の練習がほしい、こういう音の練習だとうるさい、というあたりをある程度事前にプランを立てていました。具体的にというより、方針だけど。

濱口:でもそれって普通に後でサウンドミックスするよりもむしろずっと高度なことをしているんじゃないですか?

三宅:この題材じゃなかったらそこまで考える必要なかったと思うんです。でもこの映画では、そういういろんな音を鳴らすジム生の人たちが常に稼働し続けている状況があって、彼らにも体力の限界があるから、事前に決めておかないと現場が疲弊してしまうんじゃないかと考えたんです。たぶん現場で音のことを同時に考えようとすると、労働量としてえげつなくなってしまうし、自分の能力的にも無理。となると、事前に考えるしかない。でも今回の映画では、事前に狙いさえ決めておけば、たとえば僕がケイコを演出しているときに、ボクシング経験者でもある三浦誠己さんがジム生たちに対して、演出部のように振舞ってくれることで現場が動いた。そこで連携を取りさえすれば現場の音空間が出来上がる。三浦誠己さんは特に毎シーンごとにいろんな提案をしてくれて、それは時にフレーム外だったりしても絶対に手を抜かず、ジムはこういう場所だというリアリティを担ってくれました。『きみの鳥はうたえる』の時に、クラブシーンを演出したのはOMSBとHi’Specだって答えてたんだけど、『ケイコ』のジムの雰囲気を演出したのは三浦誠己さんですね。さらに言えばケイコ以外のジム生として、ボクシング経験のある宮田佳典くんと石橋侑大くん、僕が最も信頼している一人である柴田貴哉くん、あえてボクサーらしさのない方の役として佇まいが好きな橋野純平さん、当時高校生だった安光隆太郎くんがいるんですが、彼ら全員、これまで1回以上一緒に仕事をしている。彼らがいたからこそケイコが、というか僕自身が安心して撮影に臨めた。まあつまり僕は彼らに甘えちゃってる訳ですが、5人は緊張感を切らさずにジムの厚みのようなものを体現してくれたと思います。金髪ボクサーの石橋くんなんて、彼とリングで一緒に練習したとき、開始10秒で彼が僕の顔正面にパンチを打ってきて、まともに食らって。いまだにそれが悔しいんだけど、そういう遠慮のなさは最高だし、おかげでケイコを想像するのにも活きたりして。
 会長がジムの閉鎖の話をする場面ではロケ地になったジムに所属する方たちも出てくれたし、試合場面では相手セコンドとして本物の方とともに、これまた1回以上仕事をしたことがある木村知貴さんとカトウシンスケさんの出演が叶って。僕の仕事は、そのあたりのバランスというか配役希望をプロデューサーの城内さんと時間をかけて考えたくらいで、全員最初の希望通りで受けてくれたのは、本当に幸運でした。
 いろんなボクシング映画見ていて、ジムの中がガヤガヤ鳴っているのって単純にうるさいし眠くなるし、なんの練習しているのかもわかんない。ヒントになったのは(フレデリック・)ワイズマンの『ボクシング・ジム』(2010)。冒頭の誰もいないジムの実景が重なるところにちょっとずつ音が増えていくっていうようなオープニングですから、やりたいこともうやられてるなあと思いつつ、スタッフとも一緒にみてもらいました。それから『キッズ・リターン』(北野武監督、1996)の音。ターンターンタタターン、はいもう一回、ターンターンタタターンみたいなのが最高で。それで、松浦さんに、これより面白い練習ないですかねって相談して、するとフロイド・メイウェザーの練習を教えてくれて、いやいやまさかメイウェザーかと思いながらも練習で試してみたら、岸井さんの身体性と見事にハマったという。

 

■街の中で「流れる時間」

三浦:河川敷をケイコが走ってるときに、縦構図の画面の奥のほうから、自転車で二人乗りしている少年が来る箇所がありますよね。北野武監督のボクシング映画の名作『キッズ・リターン』を彷彿とさせられたんだけど、あれって仕込みですか?

三宅:事前に手配したエキストラさんだったか現場でたまたまいた方に声をかけてもらったのだったかは忘れたけど、「よーい、はい」の合図で動いていますね。

三浦:この映画はそういうふうに画面を横切るふつうの人々の動きが本当に魅力的ですよね。街ゆく人たちにもさりげない振り付けがなされていて、街の群舞という感じもします。それもあって、下町の風景がものすごく魅力的に映っている。北野映画以外で、こんなに魅力的な下町を見たことはここ数十年でほとんどないというぐらい、街の風情がいい。そういえば、ケイコが浅草の駅前を歩くときに人とぶつかりそうになったりするけどもあれも仕込み?

三宅:あれは偶然なんですよね。俳優のことを考えると、本当は全部仕込みでやるべきだと思うんですが、商店街とか広いところではナリで、演出をしたエキストラさんが何名か混じっているという感じです。渡辺真起子さんのジムを出たあとの汐留の路上は、芝居内容的にナリでやるのはリスキーなので、全部仕込みにさせてもらいました。
 今回、プレロケハンを何度もしたんですよ。ロケハンというか散歩ですけど、ローラー作戦的に、デートとかも兼ねたりしながら。最初に地図で、荒川と隅田川に挟まれる形で北千住の北東あたりの大きな中州のようになってるところをエリアに決めて、歩き倒して、橋と川と道路が交差してるところとか車の走れない路地とか階段とか、「無言日記」をいろんなところで撮りながら、街を捉えるためのヒントというか、あの街を構成している要素のようなものをピックアップしていった。階段って実はあのあたりではレアだったんです。

ロケハンの様子。三宅監督提供

濱口:ジムに通じる階段のロケーションが非常によいですよね。車道と路地をつなぐ場所であり、都市と下町をつないでる場所でもあるんだけど、あれってやっぱり実際のジムとつながった場所なんですか?

三宅:まったく別。ジムだけ豊島区です。

濱口:すごい。完全に騙された。

三浦:でもあそこを曲がるとジムがあるように見える。

三宅:ありそうでしょう? よかった(笑)。

濱口:これは本当に歩きロケハンの成果ですよね。風情としてめちゃめちゃ納得感がある。ああ、こうやって路地に降りていくとボクシングジムがあるんだなって。

三宅:階段は、ジムの徒歩圏内でも探したんです。豊島区で撮ったあと車で移動して階段で撮るってなったら、ちょっとカロリーが高い。豊島区は階段は多かったんですが、荒川付近にはどうしても見えないので、諦めましたね。場所が離れる以上、順撮りも諦めることになり、撮影初日に階段場面を全部まとめて撮ることにもなった訳ですが、それでもあの階段がよかった。初日という特殊な状況も想像しつつ、この階段さえあれば全部基本的には一発でいけるはずだと決めて準備しました。

濱口:もうセッティングはそれだけで済むから、移動はあったとしても現場への負担は最小限に抑えられる、と。

三宅:ナイターの照明だとか動線のことだとか、美術部、撮影部、演出部、照明部全員でわりと早い段階から一緒に検討しました。

階段からのジム。三宅監督提供

濱口:僕はこの映画についてのコメントで「流れる時間を柔らかにフィルムへと定着させた傑作」と書いたんですが、でも、じゃあどうやってそういう時間って映画に定着するんだ? という問題がある。そのときにやっぱり重要なものってやはりキャスティング、つまりは人の持っている時間を持ち寄ること。それから物の配置を通じて、物の時間まで合流させていくことなんだと思う。岸井さんの演じるケイコは素晴らしいけれど、彼女だけではやっぱりそういう「時間」にまで作品が到達するということはない。この総合的な「時間」を作り上げて、フィルムに収めたことも本当にすごいことだと思っています。スタッフワークの力だな、と。そういう人と物の準備がこの映画はちょっと想像を絶するレベルだと感じました。この準備の技術を、三宅くんを始めこの映画に関わった人はそのままより大きな現場にこれから持っていくこともできるんだろうな、とも思える。

三宅:美術の井上心平さんとは『きみの鳥はうたえる』(2018)で、装飾の渡辺大智さんとは『密使と番人』(2017)で一緒に仕事をしていたので、事前に何をどう話しあえばいいのかをお互いにわかっていたのは大きかった気がしますね。お二人とも、かなり大きい映画から小さいものまで経験値めちゃ高いし。例えばあの階段道は、実際はもう少し綺麗で整った場所でして、色々と装飾が入っていて、大智さんチームのいい仕事だなあと思っています。ロケハンのタイミングで、ここにチャリ2台、三輪車も欲しい、ここに洗濯物干し竿、ここは白壁だけどできれば茶色のもので隠したいよね、みたいなことをアイデア出しあって作った場面です。

濱口:それも事前にポジションを決めて、フレームが限定されているからできることで、街にピンポイントで汚しをかけていくみたいなやり方ですね。

三宅:ええ。あとは電灯も仕込みでしたね。あの階段道には街灯がなかったので、じゃあイブニングの照明はどうするか、街灯を用意するかどうかなど、事前に照明部と美術装飾部、制作部も一緒に話を詰めていきました。

三浦:河川敷の場面で、走行する電車の光がババババッと明滅して見えるところありますよね。あそこ、実景の電車をそのまま撮ったんじゃなくてわざわざそういうふうに発光させる装置を作ったと聞きました。

三宅:はい。照明の藤井さんのアイデアで、準備してくれました。ケイコはあの明滅する光によって電車の通過を認識するんだなってロケハン中に気づいたのですが、本物の電車の光はそんなにクリアには映らない、だから装置を考えようということになりました。

濱口:これはロケハン時に、実際に現地で電車が通り過ぎたときにあの光があるってことを発見したからこそ撮れるショットだと思うんだけど、それをもう一回スタッフワークで、フィクションとして再構築してるってのは思い及ばなかった。「いいものを見つけて、使ってるな」ぐらいにしか。でも、フィルムだということはそこまで考える必要が出てくるわけですね。実のところ、そう思ったのはやはり日本映画の常として予算的な限界の中で撮っているので、なにか構築するにはコストがかかるから「あるものを使う」という発想がベースになっているからなんですけど、聞いていて本当に事前の見極めと準備、どこにリソースを当てるかという判断が素晴らしいと思いました。

©2022映画「ケイコ 目を澄ませて」製作委員会/COMME DES CINÉMAS

三浦:ボクシングジムの美術はどうだったんでしょうか。ロープの赤と青と白のもそうですが、色彩が整理されていてすっきりしている。でも、しっとりと年輪を重ねてきた質感があって。どんな狙いを共有して作ったんですか?

三宅:あのジムは、「古いけれど清潔感のあるジムにしたい」っていうリクエストをして、元々の配置も生かしつつ、色々と作り替えています。更衣室らしい更衣室が存在しないジムだったんで、作っていますね。それから会長の席、あれは実際とはもう全然違って、手前に見える柵というか欄干みたいなものを美術の井上さんのアイデアで作ってくれました。

三浦:独特だったよね、銭湯の番頭みたいな。

三宅:ちょっと牢屋みたいでもありますよね。会長の視力を、美術の心平さんが柵で表現してくれたんだと受け止めています。柵越しの会長を捉えるショットとか、柵越しの見た目ショットのようなものを撮るか撮らないかさんざん迷って、結局そうは撮らなかったものの、活きたと思いますね。

濱口:ケイコの住むマンションでも気になった小道具があって、弟役の佐藤緋美さんと岸井さんが会話しているところ、佐藤さんの後ろにほんのちょっとだけ掃除機が映っているところがあるんです。画面を整えたいと思うタイプの監督だったら、どかしたいと思ったり、逆にもっと入れ込んだとしてもても不思議ではないぐらいの、中途半端な入りだと思ったんですが、この映り方が本当に絶妙だった。わざわざ置いたという感触もなく、ドキュメンタリーを撮ってたらたまたま映っちゃったみたいな感じ。何か意図があったんですか?

三宅:画をみながら何か物をずらしたりどかしたりっていうことは僕はやってない気がしますね。装飾部もしくは撮影月永さんの仕事だと思います。そもそもあの部屋の美術って少し特殊で。というのは、もっと壁を埋めたがる場合もあると思うんです。でも僕は事前に、何もない壁があっていい、という話をしていました。

三浦:普通はそこで説明的な装飾をしたがるかもしれないよね。人となりが伝わる小道具を置くとか、住んでいる街の雰囲気との統一感を出したりとか。

三宅:ええ。でも、いや、壁でいける、何も置いてくれるなと。それについて最初は美術装飾部戸惑っていたかもしれないけど、どうだったかなあ。

濱口:こういう日本のマンションの、つまらない壁で大丈夫なんですかと。

三宅:そうそう。でも、壁に当たる光が変われば印象も変わるし、影が出ることもあるだろうし、それこそさっきの掃除機みたいなものが映るだけで十分ではないかと。あとはやっぱり登場人物の設定ですよね。決して裕福ではない、どちらかというと質素な生活をしている二人だから物は少なくていいんだと。他の映画で、「貧乏」の表現を見ると物をごちゃごちゃさせる方向に行くのが多い印象があって、それもリアリティだと思うのだけど、ボクサーって身を綺麗にしている人たちで、自分の好きなものを一個一個丁寧に使っている人たちなんだと。だからケイコの部屋にあまり無駄なものはない、ボクサーの研ぎ澄まされている精神性のようなものが部屋の使い方にもきっと出てくるだろう。ただ、弟の部屋の周りだけごちゃごちゃしていたい、と。ケイコがちょっとモヤモヤってしてるときはそういう物がリビングにも広がって雑然とした感じを狙えそうだとか、そうじゃないときはスッキリとしてそう。そんな話をしました。

三浦:このマンションはベランダとか、外のつながりもいいですよね。何階になるんだろう。

三宅:部屋の外は5階で、中は3階だったかな。

三浦:後半のケイコの日記が朗読されるところでも踊り場みたいなのがちらっと映るよね。あれも5階?

三宅:ええ、5階でした。隣の団地が奥に見える外廊下が5階だけだったんですよね。部屋の中を3階にしたのは、フロアによって間取りが違ったってこともあるんですが、窓の外にバンテージがぶら下がって風に揺れている実景ショット、あれが撮りたくて。洗濯物団地、高層ビル、高速道路、手前に瓦屋根の赤と青の住宅といろんなものが同時に見えて、「あ、これ撮りたい」って。

三浦:マンションの場面は、外から聞こえるサウンドスケープが本当に見事で、サイレンが「ウワーン」って鳴っていたりしますよね。それが空全体に響き渡って、あの街がそれに包まれてる感じがして。濱口さんが時間の流れについて言及されましたけれど、冬から春に向かう時期に午後の光を受けてマンションの一室で過ごす、ぽっかり空いた時間の雰囲気が、音のすごく具体的な広がりによってくっきり絶妙に捉えられていて。

三宅:そこはたしか同録(同時録音)で、偶然だったと思いますね。まあ、後で消せるけれど、これいいねって消さなかった訳ですが。この映画をどう始めるかについて考えていたときに、三浦さんが濱口さんの『ハッピーアワー』(2015)について、序盤で映画の見方みたいなものを教えてくれるということを書かれていたと思うんですけど(三浦哲哉『『ハッピーアワー』論』羽鳥書店、2018)、それをこの映画の場合は聴き方に置き換えて、聴者の観客の耳を開いていくチューニングみたいなことをしたかった。最初に黒画面があって、そこに音先行で何かを書いているような音が入る、遅れて画面がフェードインすると、ペンそのものはフレーム外であるけれど音源の正体がわかる。次のショットで画面が広がると、またフレーム外にある窓から外の音がふうっと漂う。そのあたり、音源がフレーム内にあるか外にあるかに気を配りながら、ショット連鎖を検討していました。環境音のボリュームを大小にいじるみたいなことではなくて。大きくすりゃいいってわけじゃない。音の位置や種類やタイミングを整えることで、聞こえることや聞こえないことへの意識みたいなものを生もうといろいろ試行錯誤するのは楽しかったですね。録音の川井さんのチームとは『Playback』以降、特に『密使と番人』ですこし似た音の狙いでやってもいたので、話は早かったです。
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