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2024.03.05

第1回 良さについて

アノーイング・クリエーション / 細金卓矢

はじめに

映像制作業はとにかく持ち物が多い職業です。もちろんラップトップのみで全てを完結することは可能ではあるものの、巨大なセットとクレーンを使って作ることも、野菜とピンセットを使って作ることも同様に出来てしまう。出力物に対しての制作手段が無数にあるという映像の特性が、我々の仕事部屋を常に狭くします。それゆえに持ち物が少ない仕事のスタイルには常に憧れがあります。今回珍しく文章を書くことを仕事として依頼されたのでこれは身軽に仕事をする絶好の機会と思い引き受けました。

この連載の目的

この連載の大きな目的のうちのひとつは、制作というプロセスに過度な神秘を見出すことを止めることです。作る道具の進歩や作り方の情報共有の広がりによって、作ることへの障壁は日に日に低くなっています。これによって制作側の人口が増え、制作者の希少性は日々逓減します。一方で、制作プロセスに触れることによって初めて理解できる他のクリエイターへの理解や尊敬が、かつてない広がりを見せているのもご承知の通りです。
ここには二つの欲望があります。参入障壁が下がって自分も領域にエントリーしたいという欲望と、エントリーした領域の価値は逓減せず、可能ならば上昇すらしてほしいという欲望です。後者の欲望は、しばしば意図的に参入障壁を高くすることで価値を保とうとする力になりますが、前者の欲望と衝突することがあります。そのため、プレイヤーを減らして価値を維持するよりも、むしろ増やしてピラミッド構造を強化するほうが前者の欲望と衝突しないために支持されがちです。

こうした力学が働くため、制作者が他の制作者へ幻想を抱かせている場面は何度も見てきましたし、私自身もその幻想の恩恵に預かっていることは疑いようもありません。その恩恵に預かっている我々が意識的に、あるいは無自覚に幻想の強化を行ってしまっているのも事実です。それが他者に求められた結果だとしても不健康な共犯関係と言わざるを得ません。 もちろん、その共犯関係こそがエンターテインメントだという観点もあります。しかし、それを免罪符に開き直ってしまう誘惑はとても強力なので、いくつかの角度からの制作に対する健康的な幻滅を目指したいと考えています。

良さについて

かつて「良さがある」という言い回しをしていたことがあります。2010年前後にネットスラングとして一部で使われており、自分もそのうちの一人として使っていました。ややニュアンスが異なりますが、「エモい」なども漠然としたポジティブな表現という意味では近いかもしれません。使わなくなってからしばらく経ち、なぜ使っていたのかを冷静に振り返ることが出来るようになってきたと感じています。そこで、このスラングの反省文を初回のテーマとすることにしました。
まず、このスラングの前提を確認しましょう。
「良さ」とは、過剰にプレーン且つポジティブな表現を使うことによって、当然そんなシンプルな言葉では言い表せないハイコンテクストな良さが背後にあるということを際立たせる強調表現である。
「野暮」とは、説明することができる良さと説明することができない良さの中間領域の中で、後者寄りの領域の説明を試みて失敗することである。
上記を踏まえて「良さがある」とは一体どういったものであったのかについて説明を試みたいと思います。

作業仮説としての「良さ」

普遍的な「良い」という価値判断について考えようとすると、どうしても美学の領域に足を踏み入れることになります。しかし、私を含めた多くの制作者は美学について詳しいわけではありません。制作者は学術的な合意に基づいた基準ではなく各々の独自の仮説に基づいて制作しているというのが実情です。もっと言えば、受容者がどのように制作物を分類、解釈するかについても分かっていない状態で、それでも一定の理解はされるだろうという大雑把な期待に基づいて制作しています。
美学自体も途上のもので、そこに確たる結論は出ていないのですから、美学に精通していない我々の制作プロセスはなおのこと仮説然としてきます。普通は、土台となる仮説を失うとその上に構築したものは崩れてしまいますが 、その土台が盤石になることを待っていては何も作ることはできません。何かを制作するには何らかの足場を使って目的地まで登らなければなりませんが、その足場が仮のもので後に崩れ去ったとしても、本来足を掛けるべきだった足場を使って辿り着く場所に行ってさえしまえば、事後的に本来のあるべき足場を通ったかもしれないものとして検証されることがあります。

 

十分な伝達と感じの悪さ

そもそも、表現物が他者への伝達を目的に含むとは限らないという指摘があるでしょう。それは正しい指摘です。しかし、ほとんどの表現者は程度の差こそあれど「分からなさ」も含めて何かが伝達されることを期待しています。
残念ながら、十全な伝達というのは制作者の期待に反して不可能でしょう。理由は様々ですが、個人的な経験から言わせてもらえれば、受容者の十全な前提知識や十全な理解力などを問題視する以前に、十全な制作などというものができた試しがないからです。実際のところ、両者が十全であることはありえないですし、それゆえ十全な伝達は期待するべきではないのです。
それでもなお、十分な伝達は可能かもしれないと我々制作者は期待してしまいます。鑑賞者もまた十分な伝達は成功するかもしれないと期待します。少なくとも私個人は、めったに達成されないと知りながらも受容者にそう願っていてほしいと期待することがありますし、そうした態度こそが礼儀とでも言わんばかりに期待するそぶりをすることもあります。
期待した伝達の度合いと現実の伝達成功の度合いの間に大きな差が生まれると、感じが悪い、あるいは下品な表現として受容されることがあります。たとえば、理解するために多くの前提知識(プロトコル)を必要とする制作物があったとしましょう。そのプロトコルの要求を知覚した時、プロトコルを共有しない謙虚な受容者は自身の無知を恥じるかもしれません。一方で、謙虚ではない受容者は期待はずれの受容者として扱われたと不満に思うかもしれません。期待する前提知識の不一致はどちらのパターンにも不幸があるのです。制作者が期待するプロトコルが少ないか、あるいは少なく済むように丁寧に処理されていることを知覚した時も、受容者にとってその配慮が過大であれば、期待のできない存在として扱われたことを不満に思うことがあるでしょう。
個人的には感じの悪い制作物を好ましく思っていたいという欲望を持っています。なぜなら、それらを好ましく思っている限り、あたかも自分が謙虚な存在であるかのように錯覚できるからです。

🍩

良さがある、の話に戻しましょう。このスラングは説明が簡単にはできない良さが背後にあることを示唆するためにあえてプレーンな表現を採用していると述べました。説明が難しいということは、単純にプロトコルを多数共有していないと理解が難しいというものもあれば、説明をしようとすると野暮になる領域を含んでいる場合があります。今回主に取り扱いたいのは後者です。
「良さ:🍩」は、ドーナツとその穴に似ています。🍩は価値判断出来る任意の対象で、単体の作品でもよいし、作品群でも価値判断が可能な対象であればどんなスケールでも構いません。説明することができる良さは🍩の実体部分、小麦粉で出来た部分で、穴の部分が説明することができない良さを指します。穴は見ることも触ることも出来ませんが、穴の周辺の形によって規定できるし、認識することができます。実際には言語が不完全であること、個人の能力の不足など様々な理由によってこの🍩が完成されることはありません。しかしながら、ぼろぼろとした🍩の欠片をナプキンの上に並べれば、🍩の直径や、穴の内径はおおまかに知覚することはできるでしょう。そして、あまりにも穴の輪郭を攻めた説明を試みるとそれはしばしば野暮な行いとなるはずです。
ところで、🍩の比喩はいくつか誤解を生む可能性があります。まず第一に、興味深い🍩は歪で大きいということです。仮に🍩が幾何学的で作図しやすい形であったらどうでしょう。僅かな断片で直径と内径が求まるはずです。この🍩は演繹に必要な欠片の体積と🍩全体の体積の比率が高いことで、素晴らしい演繹を成し遂げたという達成感や、ノイズが少なく、クリーンでスマートな印象を鑑賞者に与えます。こうした達成感はこうした小さな達成感などを与えることを目的に持った特定の領域で良い効果を生む可能性がありますが、この🍩はあくまで一口サイズなのです。この🍩の穴が小さいのは言うまでもありません。

一方で、興味深い🍩は欠片をいくつか集めても直径や内径は確定しません。1mはないでしょうが、15cmなのか40cmなのか判然としないし、瓢箪型かもしれない。そんな🍩の欠片を手にした時、人は🍩の全貌を知るためにさらなる欠片を求めるようになります。これが一般的に言う「魅力」だと考えています。また、どんなに欠片を集めても発散して手がかりが掴めない🍩の欠片であれば、それは鑑賞者に受容する能力が不足しているか、あるいは巨大な🍩に見せかけるために複数の🍩の欠片を出鱈目に集めているかもしれません。一口サイズで形が整った🍩がスマートな印象を与えるとすれば、発散する🍩は神秘的な幻を与えます。特に後者は制作者がしばしば戦略的に行うことがあるので、謙虚になりながらも注意する必要があります。
そして、この喩えの問題点のもうひとつは、複数の🍩が重なっていたり、欠片を共有、即ち穴が複数あるような状態も許容されるということです。一見先述の発散する🍩と同様に見えるかもしれませんが、慎重にコントロールされた欠片群であれば発散することなく重ね合わせの🍩として成立します。
こうした様々な🍩が存在する中で、良さがあるというスラングは「歪で大きな🍩が見えますね」という意味で運用されます。

良さがあるという言い回しについて

良さそのものについて説明を試みましたが、良さ「がある」という言い回しについても触れておきます。なぜ、Aは良いではなくAに良さがあるという不自然な日本語の用法なのでしょうか。これは二つの欲望によって説明することができます。
ひとつは、自分が価値判断をしたという事実から目を背けたいという欲求です。価値判断であれば、ほかの価値判断と比較することができ、その判断が優れているのかどうか精査されることになります。その危うい立場を取りたくないがために価値判断をしたという事実を隠蔽しようという試みとしての言い回しです。
もうひとつは一般性があるかのように見せかけたい欲求です。あるものを発見したり知覚できたりする者とできない者がいる場合、その割合が少なければ少ないほど前者は後者に対して階層の上位にいることになり、権威を獲得します。そうした場面においてこの言葉の使用者は、本来なら自分が行う価値判断が優れているかどうかの問題である事柄を、発見や知覚する能力があるかどうかの問題にすり替えます。その上で発見・知覚できるということから発生する権威を利用して自身の価値判断を正当なもの、優れたものとして認めさせようとします。発見・知覚能力の問題にすり替えられた場合、良さがないという主張をすることはリスクをともなうでしょう。そこにある良さをあなたは知覚できないだけだ、と言われた時に階層を転落する可能性があるからです。そして、そのリスクを皆が回避するために反駁が抑制されがちということも、この言葉の使用者が獲得する権威を強固なものにしているのではないかと考えています。そうした様々なずるい効果があることを無意識に理解し、利用していたというのが実態なのではないかと思います。

知ったかぶりを許容すること

良さがあるという言い回しを二つのやましい欲求とネガティブな効果で説明しましたが、これは正確には「がある」の説明です。「良さがある」という言い回しにはポジティブな効果もあります。それは知ったかぶりを緩やかに許容する効果です。この「良さがある」という大雑把な言い回しで具体的な説明をあえて留保しているという体裁を保っている限り、話者が実際に🍩の周縁を説明可能である必要はありません。もちろん、近い価値観を共有するコミュニティ内で、良さがないとされているものを「ある」と言ってしまえば知ったかぶりであることが露呈していくはずなのですが、前述の通りこの言い回しは権威を帯びる効果もあるのでその手形が不渡になることはまれでしょう。
話を進める前に、原則として知ったかぶりは悪だということを断っておく必要があります。見栄のために知っているものに同調するまでならまだしも、不正確な情報を知っているという態度で流布することがまかり通ってしまえば、コミュニティとしては極めて信用のおけないものになるからです。ただし、これは正確な情報をやりとりするコミュニティにおいてのマナーです。私は当初、これはクリエイティブ・コミュニティにおいても同様なのではないかと考えていましたが、こちらのコミュニティの中での表現の変化や影響を観察していくうちに、必ずしもその理解は当てはまらないのではないか、と考えるようになりました。

知ったかぶり、という行為に関してこう指摘する人もいるでしょう。我々がきちんと知っていることなどはたしてあるだろうか、全員知ったかぶりをして生きているのである、と。それはある側面で正しいですが、こうした態度のみでは語れない領域は存在します。
コミュニティ内での表現が先鋭化したり拡張したりして豊かになっていく現象は、分かっているという自認を持つもののみによってもたらされるとは限りません。共有されている価値観が自身に浸透していない事を自認しながらも知っているかのように振る舞い、そしてその事が今にも露呈するのではないかと危惧し目が泳いでいる者、自認がないためにむしろ胸を張っているものたちによってもたらされることがあります。なぜなら、そうした空手形を切る行為はあるはずもないところに作業仮説としての足場を作り出し、本人だけでなく間に受けたコミュニティの住人ですらそれを利用してコミュニティ全体を別の場所へ移動させることがあるからです。別の場所に着いた頃には使用した足場はとっくに崩れているのですが、「本来通るべきだったであろう足場」を探すアブダクションの起点となり得ます。こうした一連の営みは🍩の穴を明らかにするというよりは、🍩そのものをぐにゃりと歪める効果があり、エキサイティングです。
知ったかぶりを積極的にするべきだ、という結論にするつもりはないのですが、知ったかぶりを緩やかに許容する空間にすることは、ことクリエイティブと言われるジャンルにおいて重要な役割を果たしていると感じます。そして「良さがある」には知ったかぶり許容空間を適度に作り出す効果 と、選民意識がもたらす排他性の両側面があったと感じています。