映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回取り上げるのは、ヨアキム・トリアー監督最新作『センチメンタル・バリュー』です。監督が着想源として挙げるのは、なんと小津安二郎『晩春』。そんな監督の発言をきっかけに、父と娘の関係から壺(花瓶)、そしてショットの帯びる「センチメンタル・バリュー」まで、連想を広げていきます。
『センチメンタル・バリュー』を撮るにあたってどのような映画を参考にしたのか。インタビューでそう訊かれたヨアキム・トリアーは、つねに多くの映画を見ているので意図的な参照があるわけではないが、一つだけ例を出そうといって、小津安二郎の『晩春』(1949)を挙げている。「『晩春』では登場人物たちが玄関から家に入ってくるのをたびたび目にするが、それがライトモチーフになっている。これは娘を旅立たせる父の物語であり、死を語るものだ。父は自分の時間は限られていると悟るわけだから」[1]。
北欧だというだけでまたぞろベルイマンだのなんだのといわれるのに嫌気がさしたのだろう、またまたご冗談を。と、はじめはそんなふうに思っていたのだが、いったんこの回答を受け入れてみると、意外にこれは本心なのかもしれない。もちろん、家族の話だとはいっても、娘の嫁入りやら家父長制やらが主題になることはない。しかし、ノーラの父親に対する反撥は、その実愛情の裏返しであってもおかしくはない。『晩春』が仄めかしたとされるような、父娘の禁じられたラヴストーリーをどこかで意識したのだ。そういわれれば、なるほどそういうふうに見えなくもないという気がしてくるのである。
それに、『センチメンタル・バリュー』には壺ならぬ花瓶が出てくるではないか。

© 2025 MER FILM / EYE EYE PICTURES / LUMEN / MK PRODUCTIONS / ZENTROPA ENTERTAINMENTS5 APS / ZENTROPA SWEDEN AB / KOMPLIZEN FILM / BRITISH BROADCASTING CORPORATION / ARTE FRANCE CINÉMA / FILM I VÄST / OSLO FILM FUND / MEDIEFONDET ZEFYR / ZDF / ARTE
オスロで俳優として活躍するノーラ(レネーテ・レインスベ)と、夫と息子と暮らす歴史家アグネス(インガ・イブスドッテル・リッレオース)の姉妹。母が亡くなり、二人が生まれ育った実家で追悼式を開いていると、そこに家族を捨てたまま長年音信不通だった父グスタフ(ステラン・ステルスガルド)がやって来る。映画監督の父は、自分の15年ぶりの復帰作の主演に長女ノーラを起用すべく、ひょっこりと現れたのだった。離婚後も名義が変更されず、いまだに自分が所有しているこの家で撮影するつもりだと彼はいう。父をいまも許していないノーラはこの申し出をきっぱりと断る。
グスタフの回顧上映がそんなおりにフランスのドーヴィル映画祭で開かれ、そこに招かれていたハリウッドの人気若手俳優レイチェル・ケンプ(エル・ファニング)が彼の作品に感銘を受ける。グスタフはレイチェルに主演を託し、脚本を英訳して渾身の企画に乗り出すことにする。タイトルは「帰りたい故郷」、主人公は若い母親。結末は、彼女が幼い息子を残して自殺するというものだ。グスタフの母親は、戦中、ナチスの占領下にあったノルウェーでレジスタンス運動に参加し、政治犯として収容所に入れられ拷問を受けた。戦後、自由の身となり、結婚して一子をもうけるも、息子が7歳の時に自ら命を絶った。グスタフは再三にわたり「この主人公のモデルは母ではない」と繰り返すものの、周りからは母の面影を投影しているはずだと思われている。グスタフは彼の祖父が建て、母が生まれて死んだこの家での撮影にこだわっているからだ。実のところ主題はこの家であり、親子代々受け継いできたこの家で、自分の母と自分の娘の人生を——そしておそらくは彼自身の人生をも——重ね合わせることが主眼であることが次第にわかることになる。
花瓶が出てくるのは、グスタフがレイチェルを企画に巻き込むために、自宅を見学させ、ラストシーンの説明をする、その直前でのことである。アグネスが母の遺品を整理して、花瓶をテーブル上に並べている。価値のあるものではないんだけど、やっぱり「愛着のあるもの」だからといった話をアグネスがノーラと交わしていると、そこにレイチェルを連れだって父親が現れる。ノーラは二人の姿を認めると、気に入った花瓶を一つ手にして裏口から足早に逃げ去っていく。
ノルウェー語を解さないため初見時には気付かなかったが、タイトルにある「センチメンタル・バリュー」はこの場面の台詞に由来する。原題の「Affeksjonsverdi」は、「affeksjon」と「verdi」の複合語であり(それぞれ英語の「affection」と「value」に対応する語)、それを英訳した「Sentimental Value」というのは、金銭的な価値には還元できないような「情緒的な価値」を指し、「愛着」や「思い入れ」を意味するという。花瓶はここに一瞬登場するのみで、その後の展開に大きく関わるわけではないのだが、この花瓶に対する形容として発された台詞が、この映画全体を要約する言葉として選ばれている。母の遺品であると同時に、今後は父に奪われてしまうこの家の形見にもなるだろうもの。物質として本来備える以上の「センチメンタル・バリュー」を帯びたオブジェ。

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この花瓶が『晩春』の壺への目配せだということはさすがにないと思うのだけど、愛着や情緒や思い入れといった文脈に依存した価値が付与されることで、花瓶がただの花瓶ではなくなってしまうように、『晩春』の壺もまた単なる壺のままでいることを許されなかったオブジェだった。そんな連想につい誘われてしまう。
『晩春』の壺といえば、『晩春』を実際に見ていない人でも一度はどこかで聞いたことがあるほどだろう。これまで実に多くの解釈を呼び込んできたことで知られる。笠智衆と原節子の父娘が京都旅行のおりに宿屋で布団を並べて床につく、ある晩のこと。横になりながらも目を見開き、父に話しかけ続ける原節子に続いて、床の間の壺が映される。ある者はそこに日本的な「風流」や「もののあわれ」を読み取った。ある者は、いや、「性」のコノテーションを無視することはできないはずだと主張した。ある者は娘の誘惑に応じず寝入ってみせる「父」の姿の化身を見た。ある者は、その逆に、ついに結婚を決意した娘の「子宮」の隠喩なのだと論じた。試しに「晩春 壺」で検索してみるだけでも、いまだに解釈したがる人が跡を絶たないことがよくわかる。
いずれの解釈に寄るにせよ、少なくともこういえるはずだ。映画がショットの連なりである以上、観客は個々のショットに——その連なりに関連させて——何らかの意味を与えずにはいられない。作劇上たいした機能を果たさず、あってもなくてもいいようなものであればあるほど、豊穣な意味の宝庫になる。映像編集をめぐる教訓がここにある。「ただのショット」などもはや存在しない。

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ヨアキム・トリアーは無数の解釈を呼び込んで多義性と戯れるような作家ではない。「壺のショット」に象徴されるような、小津由来の「エンプティ・ショット」を駆使する作家でもない。彼の映画を見ていて小津の影響を感じることはないし、『晩春』の話がほんの冗談にすぎないことはとうから承知である。彼はただ——小津が無人の静物ショットを差し挟んだような要領で?——無言のショットを随所に配し、余情の受け皿を設けてみせる。ある時は一人の人物のクロースアップを、またある時は人物たちの配置がわかる全景ショットを場面尻に置き、ただの情景を映しただけのショットにそこはかとない「センチメンタル・バリュー」を帯びさせるのである。
わかりやすいのは、会話を切り返しでひとしきり撮った後に、最後を場の状況全体を収める引きのショットで締めるといった画面構成の仕方である。例えばグスタフがレイチェルと読み合わせをする場面。ひと通りのやりとりが終わるや、カメラはぽんと屋外に飛び出し、窓越しに室内の様子を捉える。顔を狙ったショットを手持ちで撮ってかすかな揺れを伝えさせていたのは、末尾に置く固定の全景ショットを際立たせるためだろう。かくして窓枠に囲まれた一つのイメージとして情景が定着されるわけだ。
『センチメンタル・バリュー』では、追悼式後の姉妹の会話の場面にせよ、グスタフとプロデューサーの晩酌の場面にせよ、全景を収めるショットがあっても、そこにははなからマスター・ショットの機能が奪われている。それは空間の再構成を保証するためにあるのではなく、純粋に美学的なものとして配されているからだ。
註
[1] Yann Tobin, « J’ai grandi avec une caméra à la main. Entretien avec Joachim Trier », Positif, nº 773-774, juillet-août 2025, p. 96.
『センチメンタル・バリュー』 SENTIMENTAL VALUE
2025年|ノルウェー|カラー|ビスタ|5.1ch|133分|レーティング:G
監督:ヨアキム・トリアー
脚本:ヨアキム・トリアー、エスキル・フォクト
撮影:キャスパー・トゥクセン・アンドレセン
編集:オリビエ・ブッゲ・クエット
出演:レナーテ・レインスヴェ、ステラン・スカルスガルド、
インガ・イブスドッテル・リッレオース、エル・ファニング
字幕翻訳:吉川美奈子
配給:NOROSHI ギャガ
公式サイト gaga.ne.jp/sentvalue_NOROSHI
公式X:@noroshi_gaga
公式instagram:@noroshi_gaga
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2月20日(金)よりTOHOシネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
バナーイラスト:大本有希子
