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2026.06.18

 

二〇代の頃から三〇代の今日まで、私もひとりの絵描きのはしくれとして、美術界の周縁をうろついてきたが「ずいぶんな大人」の評論家をこの眼で目撃しすぎたせいか、最近ではいわゆる美術評論家が決定する芸術的価値というものを簡単に信用しにくい体質になってしまった。しかしよく絵描きたちがやっているような「ずいぶんな大人」の評論家に対する気くばりでたった一度の人生を浪費する気にはなれない。[1]

宮迫千鶴《海の手紙》1976年

「ときの人の感があった」という時代の手前で足踏みし[2]、「70年代の宮迫千鶴」をたどる連載になりつつある。80年代にもいずれ入っていくと思うので、もうすこしばかりお付き合いいただきたい。

さて、1970年に上京した宮迫は、日雇い労働者が集まる「寄せ場」と呼ばれる地域・山谷[3]に姿を見せている。活動家の中山幸雄(1945–)に会うためであった。画家・批評家の宮迫千鶴と、山谷の解放運動[4]に身を投じていった中山幸雄。一見交わらなさそうなふたりであるが(実際1971年以降は交わらないのだが)、たどっていけば広島時代──60年代後半から付き合いのあったことがわかる。当時、中山にとって宮迫は、画家でも評論家でもなく「詩人」であった(とても良い詩を書いていて、「見ればわかる」ほど才気が迸っていたという)[5]。ふたりは小説や詩の話で意気投合する。高橋和巳(1931–1971)の『悲の器』の感想をぶつけあい、宮迫は中山からポール・ニザンを薦められる。広島時代のふたりに共通していたのは、学生運動への猜疑心であった。バリケードのなかに立て篭れるのは経済的に恵まれた学生だからであって、宮迫や中山のような苦学生は、生活費を稼ぐので手一杯だ。もちろんそれだけが理由では無いだろうが──宮迫にとっては生来の「〈政治主義〉嫌悪、セクト的世界の嫌悪」[6]も強く作用しただろう──、宮迫は当時、友人にデモに誘われた際、「あかんべえ」のポーズをしてその友人を憤慨させたらしい[7]

中山幸雄氏、中山妙子氏へのインタビューを行った広島の「カフェ・テアトロ アビエルト」(2026年6月7日、撮影:筆者)。「死刑囚の絵」展が開催中であった。 インタビューを引き受けてくださった両氏、また仲介してくださった大槻オサム氏、山本功氏に感謝申し上げます。文中では敬称略としました。

高校時代から校則を破って映画館に通っていた宮迫は、県立広島女子大学に入学してからも、もっぱら広島大学の映画研究会のメンバーと交流していた。自主映画を制作したり上映会を開催していたうちのひとりと交際していたようで、大学卒業を機に、宮迫とその恋人はともに上京している。ただし、恋人関係は長くは続かず、東京での生活がはじまってまもなく別々の道を選択したようである。おそらくはその元恋人づたいで南千住の中山の住処を知った宮迫は、以来、南千住と山谷を訪れるようになった。なお、宮迫と中山が広島で交流のあった時期自体はそれほど長くはなく、中山が広島から山谷へと拠点をうつした1968年の時点で、ふたりのやりとりは一度途切れている。したがって1970年、ふたりは2年ぶりに再会を果たしたということになる。

いまでこそ“チューハイ”といえば若いギャルまで飲んでいるものですが、その頃のチューハイといえば、どん底貧乏の労働者のための安酒でした。N〔中山〕さんは山谷の近くに住んでいたので、そのあたりにはチューハイを飲ませる店が沢山あった。私はNさんと一緒にチューハイを飲みながら、Nさんを通して山谷という“異界”の話を聞くのが好きでした。[8]

「異界」と書いてしまえるように、宮迫は山谷のなかに入りこんでいったわけでも、山谷の労働者と直接交流があったわけでもなかった。それは山谷が「男社会」[9]であったことにもよるし、ノンポリたる宮迫自身の「政治的」選択でもあったことだろう。再会からまもない1970年8月、中山は山谷に印刷所「十月工房」を設立する。自前の印刷機は運動において極めて重要な意義をもつが、場所もとるし音もうるさい。警察のガサ入れはもちろん、さまざまなリスクを引き受けた形である。十月工房では数多くのビラが印刷され続けたが、解放運動に関する印刷物に限らず、糊口をしのぐために詩集の印刷も引き受けていた。宮迫もまれに手伝っていたようである。中山いわく、東京に来てからも宮迫は詩人グループと交流があったことだし、自身の詩集を十月工房から出したかったのではないか、ということであった。しかし宮迫の詩集が出版されることはなく、1971年の途中からは十月工房にも姿を見せなくなっていった。以降、両者が再会することは一度もなかった。

(左)宮迫千鶴《制御装置Ⅱ》1976年
(右)宮迫千鶴《制御装置Ⅲ》1976年

宮迫が山谷を離れた理由は誰にもわからない。仕事に忙殺されていたという理由もあるだろうし、十月工房に行くと政治的な立場を表明するように迫られるのが辛かったともこぼしている[10]。ひとつ言えることは、仲良くしていた従兄弟のバイク事故死が1971年の宮迫に決定的な影を落としたということである。

一九七五年、宮迫は“荒れた海辺”を主体とした初めての個展をシミズ画廊で開いたが、翌七六年、今度は一転してロボットの図解図のような「頭」のシリーズを画廊春秋において発表した。この個展の出品作はすべて、彼女の従兄弟の死を契機として描かれたもので、壊れ、錆びつき、廃品となってしまった機械としてのロボットの頭部が意味しているのは、破壊された有機生命体つまり従兄弟の死のシンボライズであり、いってみれば、このシリーズは、従兄弟に捧げられた彼女のレクイエムであったといえる。[11]

宮迫が個展を開くことができたのは上京から5年後のことだったと前回書いたが、従兄弟の死を直接的にとりあげるような作品(制御装置シリーズ)ができるのにも5年の歳月が必要であった。1970年に中山から聞いた山谷の老人の死。1971年の従兄弟の死。1975年の船本洲治[12]の沖縄での死。宮迫はそれらの死を「手渡された」と考えている。そして、「ちょっとやそっとで彼らから手渡されたものを投げ出すわけには」いかないと考えている[13]。集団行動を嫌う宮迫であるが、それでも「私たち」と書くときはあり、そこには手渡された死と、確かにあったはずの生が重ね合わされている──「文章の主語に「私たち」と書く時は、どうやらこの早々と“殺されていった”連中と私が合体した時の「私たち」のような気がします」[14]。重い認識である。宮迫(と伴走者たる谷川)は、その厳しい視座を放棄することなく、しかしそれでいて自分が──他ならぬ宮迫自身が──心地よく生きていける方法を模索していった。

宮迫は戦後社会やフェミニズムの問題など、いろいろと抱えこめば抱えこむほど深刻な暗さが考え方に出てくる。それと同時に、明るい暮らしを作っていこうという志向性もあったんです。それを同時にはできない。ひとつはそれを文章あるいは言葉でもって解決すれば、絵に持ち込まないですむんじゃないかと、それはふたりで話したことがありました。[15]

(左)宮迫千鶴《EXPRESS》1976年
(右)宮迫千鶴《アウト・ドア》1978年

宮迫千鶴《ラムネの歌》1978年

こうして、「制御装置シリーズ」を発表した翌1977年、宮迫は『第三文明』で連載「海辺の画廊」を開始する。かねてから進めていた「進駐軍文化」の研究は「アール・ポップ」へと結実し、宮迫の絵画はさらりとした都市的な装いを帯びていく。さらに同年、宮迫はイタリアへの一人旅を敢行している。谷川によれば、この旅行のなかで宮迫はついに「従兄弟の事故以来とりつかれていた「空しく衰弱していく生」というオブセッションをようやくふり払うことができた」[16]。宮迫本人は、シエナのカンポ広場にたたずみ夜空を見上げた際の経験を「単純な神」と表現している。 このエピソードが収録されているのは初期の主著である『イエロー感覚 不純なもの あるいは都市への欲望』(冬樹社、1980年)であることにも注意されたい。

それは、この空と広場の意味するもの、在ることと無いことすなわち生と死の両義性の感覚をふたつながら横溢させて生きるしかないという単純な神なのだ。[17]

「ふたつながら」とは「どちらも、同時に」ということだ。生きるということのなかに、生と死のどちらもが溢れている。「生きる」というある長さをもった時間のなかでは相反するものが「両立する」という天啓──「単純な神」は、後年、最愛の父を看取るまで重要な指針であり続けた[18]

(左)公益財団法人 放射線影響研究所。前身は原爆傷害調査委員会(Atomic Bomb Casualty Commission、ABCC)である。撮影:筆者。
(右)1950年、比治山へ移転した当時の ABCC[19]。現在もアメリカの資材によって建設された施設が使用されているが、2027年1月に広島大学霞キャンパス内に移転予定である[20]。すぐ近くには広島市現代美術館がある。

「後頭部に爆撃の破片をつめこんだ肉のコブと左の耳の難聴、荒れた精神、金鵄きんし勲章、父が戦争から持ち帰ったのはそれだけのものだった。そして私が生まれた」[21]──英語が話せた宮迫の父は、中国大陸からの復員後、アメリカが主導した原爆調査委員会(ABCC)に勤めていた[22]。ABCCは被爆者の健康状態を「調査」するのだが、「治療」するわけではなかった。あくまでデータをとるのが目的だからである。それゆえに、ABCCや米軍はもちろんのこと、かれらに雇用された日本語話者たちにも厳しい目が向けられた。後年、宮迫はインタビューで次のように答えている。

足立〔倫行〕「そんなに大好きな父上についての本を書く計画は?」
宮迫「難しいでしょうね。父のことを書こうとすると原爆にぶつかる。そして原爆の問題はどうしても政治の問題になってしまいます。父はABCCの仕事について語りませんでしたが、旧日本帝国の兵士なのに、戦後アメリカの手先になったと言われ、被爆者から暴言を浴びたり水をかけられたりしたこともあったようです。」
足立「その娘というのは微妙な立場ですか?」
宮迫「ええ。そういう被爆問題に関わる屈折やさまざまな屈折が、私の人生にいろいろな面で影響を与えてると思いますね。」[23]

(続く)


[1]宮迫千鶴「「無垢」であり続けようとするタフな感受性」」『不惑の星座』リクルート出版、1988年、p. 21
[2]中西豊子『新版 女の本屋の物語』晶文社、2026年、p. 144
[3]正確には、最初の頃は南千住の四畳半の中山のアパートである。1970年8月に「十月工房」が立ち上がるので、以降は十月工房に赴いていたようだ。
[4]山谷の解放運動は、劣悪な労働条件の改善(そのためのヤクザとの抗争)や警察権力による不当逮捕・暴力への抗議、さらには越冬のための炊き出し・医療支援など多岐にわたり、時期によっても内実は変化している。近年、日雇い労働者(ニコヨン)は「派遣(労働者)」あるいは「個人事業主」と言い換えが進んでいる。山谷や釜ヶ崎のような、文字通り身を「寄せ」られる場は相対的に縮小し、ネットカフェの連泊からUber Eatsにいたるまで、社会は「総寄せ場/デジタル寄せ場」化した。現在、抵抗の身の置き所は極めて刈り込まれている。こうした状況下で、「暴動」がたんなる「犯罪」として処理されてしまうなか、船本洲治『[新版]黙って野たれ死ぬな』(船本洲治遺稿集刊行会、共和国、2018年)や中山幸雄『暴動の時代に生きて──山谷 ’68-’86』(月曜社、2024年)が刊行された意味は大きい。少しでも関心のある方は原口剛『叫びの都市──寄せ場、釜ヶ崎、流動的下層労働者』(洛北出版、2016年)や北川眞也 『アンチ・ジオポリティクス──資本と国家に抗う移動の地理学』(青土社、2024年)にあたられたい。
[5]中山幸雄氏・中山妙子氏への筆者のインタビューによる(以下同)。
[6]宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱──「崩壊家庭」の社会学』時事通信社、1986年、p. 97
[7]筆者のインタビューによる。
[8]宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱』p. 100
なお、この時期、幸雄の妻・妙子は子育てに忙しくほとんど宮迫とは話せていないという。妙子は宮迫より一つ上であり、中学から大学にいたるまでの先輩にあたる。学生時代には交流はなかったそうだが、それでも、高校時代の宮迫は、一学年上の妙子たちが知る程度には、学校内で目立っていたとのこと。
[9]筆者のインタビューによる。
[10]「Nさんから山谷の“異界性”について話を聞いていた七〇年安保の年は、私にとって別な意味で苦痛・・な年でした。というのは、Nさんの家に行くと、必ずセクト的政治主義者たちがいて、彼らが私の非政治性をヤリ玉にあげ、なんやかやと思想的批判をしかけてくるのです。」(宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱』pp. 100–101)
[11]谷川晃一「情報時代の形而上学 宮迫千鶴『デイリー・ブルー』」『アール・ポップの時代』皓星社、1979年、p. 168
[12]船本洲治は──満洲を統治するという名前のとおり──1945年に満洲国に生まれ、父が八路軍に処刑(銃殺)されたのち、残された母親や兄姉とともに広島・呉に引き揚げている。
[13]「というか、私は人間の〈歴史〉というものを、そういうふうに考えているのです。見ず知らずのじいさんの悲惨な死、その死がNさんに手渡され、やがて私のところまでやってきた。ということは見ず知らずのじいさんは、Nさんや私のなかで再生しているのです。そういう小さな無名の〈歴史〉こそが、私たちを生かし、私たちをモルモット化から救うのです。」( 宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱』p. 108)
[14]宮迫千鶴・三田格『ダークサイドの憂鬱』p. 55
[15]谷川晃一へのインタビュー(聞き手:土居由美)『陽光礼讃 谷川晃一・宮迫千鶴展』神奈川県立近代美術館編、2016年、p. 105
[16]谷川晃一「情報時代の形而上学 宮迫千鶴『デイリー・ブルー』」『アール・ポップの時代』皓星社、1979年、p. 169
[17]宮迫千鶴「カンポ広場の単純な神──シエナの夜について」『イエロー感覚──不純なもの あるいは都市への欲望』冬樹社、1980年、p. 201
なお、宮迫はカトリック系の学校を卒業しているが、ここでの「神」はキリスト教圏の神とは異なるものと考えられる。
[18]宮迫は父の死を契機にスピリチュアルなものへの志向を一層強めていく。同時に、七歳のときに離婚し宮迫のもとを離れていった実母や、父の再婚相手の義母との確執が宮迫を苦しめ続けていた。
「噛みあわない家族、その原因はもちろん夫婦の不和であるが、そういう家族の暗さは私はもう充分過ぎるほど体験してきた。
私はそういう家族の中に生まれ、しっかりと傷ついた。そして自分の言葉を持つようになってから、その傷を見つめはじめ、傷口に手を差し込んで分析し、赤い血を流しながら「家族という不幸」を叙述し、気がついたら「家族論者」と呼ばれていた。それは自分の不幸や他者の不幸に共感しながら、客観的に問題提起したことではあっても、そしてそれに共感する不幸人が多かったということであっても、とどのつまり陰鬱で暗い作業の連続だった。そして私も、長い歯痛のように「家族という痛み」とりわけ「母という重荷」を背負っていた。」(宮迫千鶴「若い詩人との別れ、家族という痛み」『はるかな碧い海 私のスピリチュアル・ライフ』春秋社、2004年、pp. 252–253)
[19]https://www.rerf.or.jp/uploads/2017/07/rerfhistj.pdf
[20]https://www.city.hiroshima.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/017/426/346005_733891_misc.pdf
[21]宮迫千鶴『もうひとつの生き方』海竜社、1991年、pp. 50–51
[22]宮迫の父に限らず「叔父や叔母たちはみんな、進駐軍の米軍のベースキャンプで働いていたので、食生活のなかにはアメリカの匂いがあった」( 宮迫千鶴『ごはんの風景』筑摩書房、1991年、p. 187)。こうした幼少期の環境も宮迫のアール・ポップ観を基礎づけていると思われる。
[23]「足立倫行 連続対談〈団塊世代の転進と再生〉 第4回」『望星』2007年11月号、p. 83

 


 


『群像』2026年7月号に、著者・長谷川さんとともに「宮迫千鶴研究会(つる研)」をおこなっている北川光恵さんによるテキスト「〈ハイブリッド精神〉をポケットに入れて 宮迫千鶴論」が掲載されています! ぜひ連載とあわせてご一読ください。

長谷川さんがキュレーションする、画家/フィルムメイカー・中井輪さんの個展が京都で開催されます。
中井輪「庶民烈伝」
会期:2026年6月20日(土)–8月9日(日)のうち、土日を中心として不定期開催
時間:12:00-18:00
会場:AIR大原gallery(京都府京都市左京区大原来迎院町218)

〈同時開催〉
「中井輪 Rin Nakai 20 JUN-9 AUG」
会期:2026年6月20日(土)–8月9日(日)
時間:10:00–17:00
定休日:水曜日
会場:半兵衛麸ビル2F ホールKeiryu(京都市東山区問屋町通五条下る上人町433)

詳細はこちらから