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2022.01.19

第2回:「石の求めるところにしたがう」とはどういうことか?
──庭師の行為を触発するもの

庭のかたちが生まれるとき / 山内朋樹

 

ありあわせの素材による即興

 ここで着工前の庭を、大聖院東面中央付近の沓脱石くつぬぎいし──縁側と庭の高低差を割るための石段──から見た様子を確認しておこう。作庭作業中の古川の動きから、この沓脱石付近がこの庭のおもな視覚的足場のひとつとなっていることがわかっているからだ。
 この視覚的足場から眺めると、庭は手前、中央、奥という三層のレイヤーとして見ることができる。手前から順に、庭を通り抜けるための砂利敷区画、丈の短い草や苔が雑然と生えている芝草区画、刈り込まれたサツキや樹木が並ぶ植栽区画が並んでいる。

着工前の大聖院庭園を西側の沓脱石から撮影。三層のレイヤーになっていることがわかる。中央から左手にかけての石は新たに運び入れられたもの。右手には山門が見える

 中央の芝草区画には等間隔に小さな穴が空いていた。もともとアジサイが植えられていたが、作庭工事に入るため、下準備として古川たちが二〇一九年の夏から秋あたりに別の場所に移植した跡だ。
 奥の植栽区画には刈り込まれた大きなサツキが並び、その背後には土塀に沿って背の高いゴシキヤエツバキ、コウヤマキ、ゴヨウマツなどの木々が点々と列植されている。
 土塀の向こう側は小さな谷になって数メートル落ち込み──総門から手水舎に続く参道と谷の細流がある──、ふたたび山となって迫り上がる。この庭の外部の斜面にはモミジの大樹やヤブツバキなどが生い茂り、本堂へ登る長い階段や灯籠などの点景も含めて、庭の四層目のレイヤーをつくりだしている。
 沓脱石から見て右手(南)には大聖院の山門や石畳、その向こうには小さな庵──心休庵──があり、背後に山や大きな桜の木が見える。
 左手(北)を見ると庭の総面積の四分の一ほどを占める植栽区画があり、巨大なタラヨウやモミジを中心として、周囲にアセビ、サツキ、ツツジ、シャラ、オガタマなどが密植されている。こちらの奥にも土塀があり、枝葉の先を見透すことはできないが、向こうには仁王門や総門、麓の集落や平野が広がっているだろう。
この場所に、古川はいったいどんな庭をつくるつもりなのだろうか?

「京都の庭みたいになるやろね。場所が場所やからね。平らで、土塀もあるし」

 「京都の庭」──これは比較的小規模な枯山水に類する庭を想定しているだろう。「平らで、土塀もある」。つまりのびやかな起伏がある庭でも、どこまでも広がっているような庭でもない、平板で局限された庭。
 もちろん用途のはっきりした庭でもない。茶室へと続く露地でも、船遊びをしたり池泉の周囲を回遊する庭でもなく、ただ見られる庭。とりわけ、そこに据えられる無数の石の配置──石組──を見るような庭だ。

 石は詩風館からだけではなく、寺域外からも搬入されている。外部からの石は地元の石材屋、中垣石材によって運び込まれていた。それらの石がどこから来たものか古川にたずねると「このあたりから出た石ですよね、地の石」とのことだ。
 中垣石材の作業員によれば、これらの石は福知山市の天座あまざにある、かつて大江山おおえやま青御影石あおみかげいしの採掘場だった彼らの土場で山になっていたものだという。
 この土場には大ぶりな自然石がいくつかの山に分けて置かれている。古川と住職は事前にこの土場を訪ね、そのうちひと山を譲り受けた。その石がユニック──クレーンつきのトラック──で次々と搬入される。
 石はユニックやトラックがアクセス可能な大聖院庭園の中央から北西部分にかけて、つまりは沓脱石から見てやや左手中央付近に溢れんばかりに運びこまれる。なにもなかった平庭はいつの間にか無数の石がひしめきあう空間に変貌している。『作庭記』の記述も実際にはこのようだったかと思われる状況だ。

石を立てるには、まず大小の石を運びよせて、立てるべき石は頭を上にして、[伏すべき石は表を上にして]庭面にわもにとり並べて、あれこれの石の佳所かしょを見あわせ、必要にしたがってひきよせひきよせ立てるべきである[2]

 とはいえ、これ以上石が散乱すると庭づくりどころではない。

 昼休憩を挟んだ同日午後、翌日に予定されていた石組の開始を繰り上げ、他の作業と並行して石を据える準備がはじまる。
 この午後のあいだに、平石を含めた三つの石のために穴が掘られた。初日には他の石のために穴を掘ることは検討されなかったのだから、これら三つの石がこの庭の骨格として定まったと考えられる。
 庭の構想を告げる最初の一手は、思いのほかあっさりと決まった。敷地中央やや右手前(南西)よりの位置に、庭に運び込まれた石のなかでは最も面積の大きな平らな石が据えられることになる。この石を今後その形態から「平石」と呼ぼう。
 初手の平石の次には最も量感のある角張った石──その量感から「大石」と呼ぶ──のための穴が中央奥やや右よりに、次に丸みを帯びた三手目の石──この石は後に職人の一人が「鯨」と呼んだので「鯨石」と呼びたい──のための穴がやや離れた敷地左奥に掘られた。

この平面図は石組がかなり進んでから描いたもの。実測図と異なりやや歪みがあるが大まかな配置は伝えている。黒塗りになっている箇所はもとからあった既存石組や古川が以前据えたもの。ここでは赤で重ね書きした①平石、②大石、③鯨石に注目

 驚くほど短い時間で配置の決まったこれら三つの石、つまり初手の平石、二手目の大石、三手目の鯨石は、搬入された石のなかで最も大きい部類のものだ。大きな石は必然的に庭の骨格を形成してしまうため、石組ではまず大きな石から据えていくことが多い。しかしその順序は、古川にとっては、たんに「決まっているものから」でしかない。
 次々と決まっていく石の配置がどういう理路にもとづいているのか、見ている者には判然としない。ここにはおそらくなにか筋道がある。しかしそれがまったく見えてこない。
 なぜあれではなくこれが、なぜあの場所ではなくこの場所に決まったのだろう?
 庭に雑然と搬入された石からひとつの石を選び、特定の位置に配置していくその速度は、すでに石組の全体像が定まっていることを予想させる。しかし驚くべきことに、古川はあらかじめ家でスケッチを描いたり、設計図を引いたり、案を練ってから現場に立つわけではないという。

「家では考えられないね。材料見てからだよね。来たものを見て判断してますわ」

 石組みを組むにあたってスケッチを重ね、イメージを明確にしてから現場に立つ者もいると聞く。しかしながら少なくともこの現場では、すべては場所と素材を見あわせた上で、その都度決定される。
 もちろん古川とて、あらかじめ現場は見ている。それゆえ場所についてはしっかりとしたイメージを持つことができるだろう。しかし素材については「来たものを見て」という言葉が示すとおり、ほぼ初見・・・・である!
 石組用の石材の買いつけにおいて、古川は石の形や色や種類にほとんど拘泥こうでいしない。住職の話によれば中垣石材の土場に積まれていたいくつかの石の山を見て、そこからひと山を即決したという。山を崩すことなく決定したのだから、ひとつひとつの石の形は当然わからない。

天座の土場。自然石や板石など、さまざまな種類の石が山になっている

 なんということだろう。設計図も持たず、はじめて目にした石をその場で配置していく古川の庭づくりは、たしかな足場を持たない、ありあわせの素材による即興・・・・・・・・・・・・・なのだ!

 

こはんにしたかひて

 そうは言っても、実のところ、少なくとも施主にはなんらかのイメージが伝わっているのではないか?
 現代的な感覚すればそう疑うとしてもおかしくはない。いや、むしろ、そう考えたくなる。しかし住職の言葉を聞けばその期待も裏切られる。

家内かないがどんな庭になんのか言うて、いや、それは古川さんにしかわからんのちゃうか言うてるんですけど。あの石なんかはどこに行きますの?

 この言葉が意味しているのは、この現場では材料の規格や数量がわからないだけでなく、どんな庭になるかさえほとんど決まっていないということだ。
 だからといって現地でスケッチを重ねるわけでもなく、夜な夜な計画を練り直すわけでもない。つまりはほとんど徒手空拳で現場に立ち、ほとんどはじめて見る素材を、その場で即興的に配置し、組みあわせていく。
 初日の三時休憩──現場では昼十二時に一時間の休憩があるほか、午前十時と午後三時に約三十分の休憩がある──での住職と職人たちのやりとりに古川も加わった会話を引こう。

住職 「お弟子さんがたは古川さんがどんな庭をつくるかわかっとってんですか? なんかえらい怒られたりしてますけど」
職人たち (苦笑いと沈黙)
住職 「いや、なんか設計図とかがあるんやったら違うことやってるって怒られるのもわかりますけどね。そんなんないのに怒られてもなにが違うんかようわからんのと違いますか?」
職人 「いえ、古川さんが怒ってはるのは体の使いかたなんです。庭の姿かたちは最初にあるものではないので。あそこからここまで通路をつけるのはわかりますけど、それも材料との関係で決まってくるので」
住職 「そしたらあれですか、こうやって石見ながら決めていかれるんですか?」

 この庭がどんな庭になるのか、それは施主である住職だけでなく、ともに働く職人たちでさえほとんどわかっていない!
 住職が驚きを隠せないように、古川は庭のありようを「石を見ながら決めてい」く。これはパースや3DCADが浸透し、完成予想図や模型によって未来を物体化しなければ契約が成立しない現在の商品取引的性格とは決定的に異なっている。
 しかし、では、古川はいったいなにを根拠に石を据えているというのか?
 続く会話を聞こう。

古川 「平安時代の難しい本には「こはんにしたかひて・・・・・・・・・」って書いてあるんですわ。それは石が「求めるところにしたがう」ということで──」
住職 「それがわからんのですわ」

 「平安時代の難しい本」──古川がこのとき引いたのは『作庭記』の有名な「立石口伝」の一節である。
 古川が「求めるところ」と言い換えた「こはん」は、解釈が分かれ論争を巻き起こしたことがある。最初期に「ごばん」と翻刻されて「碁盤」説が現れたのを皮切りに、その後もいくつかの説が並立したからだ。
 それらのなかで現在もっとも踏襲されているのは、古川が言い換えたように「乞はん」と当てて石の「求めるところ」ととる庭園史家、森蘊の解釈だろう[3]

石を立てるには、まず主石の看所みどころのあるのを一つ立て終わってから、次々の石をその石の求める[ところにしたがって]立てるべきである[4]

 のちに批判もあったように、森のこの解釈にしたがえば、石組の方法論として「石の求めるところにしたがう」という奇妙な事態を受け入れなければならない[5]。実際のところ石がなにかを求めてくることはないのだから、住職の言うとおり石をどこに据えればよいのかは「わからん」ことになるだろう。
 しかし古川とて石の希望を問いたずねるわけではない。具体的にどのような理路にもとづいて石を据えていくのかとたずねたときの古川の言葉は思いのほかドライである。

「まあ、材料にあわせてだよね。「こはんにしたかひて」ってキザな言い方だけど、石がどうやって据えてくれ、こうしてくれって、そこまで言うわけじゃないからね。この石はなにを求めてるんだろうって、そこまで行ったら道楽だよね。そこまで解釈する研究者もいるけど、つくってる人間からすると馬鹿馬鹿しい。それだと一生かかっても庭はできない」

 石は「そこまで言うわけじゃない」。しかし材料にあわせて、石の求めるところにしたがうのだ。
 ここでは研究者と庭師、解釈と行為が対比されている。石がなにを求めているのかを研究者のように解釈する・・・・・・・・・・・のではなく、しかし、石の乞うところにしたがって庭師として行為する・・・・・・・・・
 解釈と対置された庭師の決然たる行為のなかに、「石の求めるところ」などという曖昧な要素は入り込む余地はなさそうに思える。しかしそれでもなお、古川がとっさに「こはんにしたかひて」と述べたように、行為する庭師にも「石の求めるところにしたがう」という感覚が残るのだとすれば、そこには自らの意図だけで行為しているわけではないという直感があるということだ。
 つまり、石は庭師たちの行為を触発するという意味で乞うのでなければならない。石は解釈されるべきものではなく行為をうながすものなのだ。
 古川は設計図も持たず、しかも初見で、即興的に石を組むのだった。しかしその行為は、古川の意図だけで進展するものではなく、石による行為の触発によっても支えられている。
 この行為の触発こそが古川にとっての「こはん」の意味だろう。
 石組の決定プロセスには、それゆえ、庭師の意図だけでなく石も参与している・・・・・・・・と言いたくなる。
 ここからは、実際の石組の生成過程を詳細に追うことにしよう。古川の言葉や職人たちの行為とともに、新たに据えられる石を一手ずつ見ていこう。
 そうすることで、石による行為の触発、つまり「こはんにしたがひて」が、実際の現場でどのように作用しているのかに迫りたい。古川の言葉を裏切り、研究者のように。しかし庭師の行為を観察することで。

 

※写真はすべて著者による撮影


[1]引用中の丸括弧内は筆者による補足とする。

[2]「石をたてんには先大小石をはこひよせて立へき石をはかしらをかみにしふすへき石をはおもてをうへにして庭のおもにとりならへてかれこれかかとをみあわせみあわせえうしにしたかひてひきよせひきよせたつへき也」(森蘊『「作庭記」の世界──平安朝の庭園美』日本放送出版協会、一九八六年、六八頁)。「伏すべき石は表を上にして」は欠落していたものを補った。「庭面」は庭の表面。「佳所」は優れているところ。

[3]「従来こはんは碁盤であろうと解釈し、従つて平安時代庭園の石組に幾何学的配石法がある事を指摘した人があるけれども、本巻を具さに読了するとき、その一節に「その石の乞にしたかひてたつるなり」の如き用語があり、こはんは乞はん、つまりその石の要求あるいは必要度に応じて次の石をたてるといふ意味を示しものと解するのが正しい」(森蘊『平安時代庭園の研究』桑名文星堂、一九四五年)。もちろん異論として上原敬二が支持した「小半」説等もあるのだが(上原編『解説 山水並に野形図・作庭記』加島書店、一九七四年、四九頁)、森の解釈は田村剛やその田村を支持する斎藤勝雄、より近年のものでは飛田範夫や前述の荻原義雄の著作でもおおむね踏襲されている(田村『作庭記』相模書房、一九六四年、二四六頁;斎藤『図解作庭記』技報堂、一九六六年、一頁;飛田『「作庭記」からみた造園』鹿島出版会、一九八五年、一六二頁;萩原『日本庭園学の源流『作庭記』における日本語研究――影印対照翻刻・現代語訳・語の注解』、勉誠出版、二〇一一年、六九頁)。ともあれここでは、古川は――実は師弟関係でもある森の解釈を踏襲して――「石が求めるところにしたがう」と解釈していることに注意したい。

[4]「石をたてんにはまつおも石のかとあるをひとつ立おゝせて、次々のいしをはその石のこは(ん)にしたかひて立へき也」(森、前掲書、六八頁)。本書の現代語訳では、おそらくは読者の解釈を助けるために「その石の求める気持ちにしたがって」と口語訳されているが、「気持ち」とまで解釈するのは行き過ぎだと思われる。ここでは[ ]内のように、前註で引いた森自身の解釈やそれを踏襲した古川の言葉にしたがい「その石の求めるところにしたがって」としておきたい。近年の研究でも「求めているのにしたがって」(萩原、同前)とある。また本書の書き起こしでは「こはむ」と書かれているが、これも前註の森自身の翻刻や、他の諸研究を参照し「こはん」とした。

[5]上原は森の解釈を「擬人化」として批判している(上原、同前)。

(第2回・了)

この連載は月1回更新でお届けします。
次回2022年2月21日(月)掲載

 

<お知らせ>2023.6.20
本連載の書籍化が決定しました!
つきましては、連載3回目以降の公開を停止させていただきます。

大幅加筆・改稿を施し、鋭意作業中です。書籍版でまたお目にかかりましょう!

庭のかたちが生まれるとき 庭園の詩学と庭師の知恵

山内朋樹=著

2023年08月26日

四六判・並製|384頁|本体:2,600円+税|ISBN 978-4-8459-2300-7