今回は「夏休み編」(?)。全体としては、『聴取──私たちの耳の歴史』(2001年、未邦訳)などで知られるペーター・サンディの最新作『パワーズ・オブ・リーディング──プラトンからオーディオブックまで』(2025年、未邦訳)[1]の書評になっている、はずである。

Peter Szendy, Powers of Reading: From Plato to Audiobooks, trans. Olivia Custer (Zone Books, 2025).
出典:https://www.zonebooks.org/books/193-powers-of-reading-from-plato-to-audiobooks
本を読むのは好きなのだが、オーディオブックにはなかなか手を出せていない。最近出会った人は、運転中にオーディブルで蓮實重彥の『ショットとは何か』を聴いたと言っていて、思わず変な声がでてしまった。オーディブルで蓮實重彦を!?わかるの!?運転しながら!?
自分がなぜオーディオブックに馴染めないかというと、読書のスピードを自分でコントロールできないからだ。一定のリズムで一直線に続くほかないオーディオブックはまどろっこしい。聴きながら、ここはさっと飛ばしてもいい、ここは慎重に──といった判断がこちら側で一切できない。無免許が知ったふうな口をきくが、オートマではなくマニュアル運転。道に応じて微細に切り替えたいのである。
そんな自分とは無関係に、オーディオブック自体はどんどん浸透していっているようだ。Audible(Amazon)一強だった時代から、近年のSpotifyの参入を経て市場はさらに広がりを見せている。視覚障害者にとっても、あるいは家事や制作、運転で手が離せない人にとっても、オーディオブックやAIによる読み上げは重宝する。ラジオやポッドキャストが流行っているのもよくわかるし、「文章を読む」行為において「目」だけが特権的な感覚器官ではないことにも今更ながら気づかされる。
ここまで書いて、オーディオブックに手が出せない理由がもうひとつあったことを思い出す。自分は「字を読む」のが好きなのである。活字中毒という言葉がそのまま比喩ではなく当てはまるくらい、いつまでも活字を追っていたい。チェーンスモークならぬチェーン活字。本を読むのが苦痛な人は多々いると思うのだが、本を読んでいない時間のほうが居心地が悪い。あまり共感されないと思うので、本の紹介へと戻ろう。なんの話だったか、そう、眼前には、見直されつつある「耳」の重要性。私たちはこういうとき、ついつい「目から耳へ」──と簡単にまとめてしまいたくなるのだが、ここは腰を落ち着けて、サウンドスタディーズの大家、ペーター・サンディの「講義」に耳を傾けてみる。
サンディは、オーディオブックの登場によって目から耳への「移行」が起きたなどと考えてはならないと挑発する。読書が「黙読」を前提とするようになって久しいが、それでも、「私が黙読し、自分の内面で囁くとき、私は読書する自分自身に耳を傾けている」。サンディに言わせれば、「私はすでに、私自身にとってのオーディオブックなのである」〔p.15〕。現代は、たんにそれがあからさまになっただけにすぎない。

キューバの葉巻工場で朗読が行われている様子
出典:https://www.telesurtv.net/la-cubania-del-lector-de-tabaqueria/
最近は、洋書とマンガは電子書籍でとほぼ決めている(例外は『HUNTER×HUNTER』で、これだけは紙と電子の両方を揃えている)。Kindleを使えば持ち運びも楽だし、線を引くペンも不要だし、洋書の場合知らない単語があっても検索ができる。なにか面白そうな本はないかなと思ったときはZone Booksをのぞいたりする。思い立ったかのようにウェブサイトへ飛び、面白そうなタイトルを一冊選ぶのである[2]。今回は期待をこめて『パワーズ・オブ・リーディング』を注文。円安も相まってすっかり高くなっている(5,246円)。大事に読みたい。ところでKindleは最近コピペができる回数に極端な制限がかかり、めちゃくちゃ不便になった。仕方なくキャプチャをとってAIに食わせたりしている。線を引く、書き写す、人に貸すのも本のうち。古本に誰かの書き込みがあっても全然構わない。本くらいまともに味わわせてほしい。紙の『HUNTER×HUNTER』は友人に貸したままである。
サンディは、読書が「読者」による単独の行為であるとされ、「読み聞かせる者」の存在が隠蔽されてきたと暴き立てる[3]。黙読でさえ「自分の声を聞いている」のだから、「読者 reader」という主体は、実際のところ「読み聞かせる者 reader」と「聞く者 readee」に分裂している。オーディオブックは「読み聞かせる者」の存在をあらためて浮き彫りにしたにすぎない。オーディオブックを聴きながら洗濯物をたたむことは、その意味で「目新しい」状況ではない。「読み聞かせる者」──かれらは読書の起源からずっといたのである。サンディは歴史のなかで消去されてきた「声」を例示していく(なお、自分はうろうろするのが性に合うので、こういう本は一気に読み通すのではなく、都度、参照元を探しに行ったりしてしまう。脚注を読むのも好きである。デリダは難しくて全然読めないが、脚注に目を光らせる面白さを教えてくれたことについてはずっと感謝している)。
たとえば古代ギリシアにおいて、本を読むという行為は一種の肉体労働であり[4]、「アナグノステス」と呼ばれる朗読奴隷(!)がその役目を担っていた。主人にとって読書とは、もっぱら「聴くこと」であった。この場合、「聞く者 readee」と「読み聞かせる者 reader」の間には主人と奴隷という権力関係が重ねられている[5]。

キューバの葉巻工場で朗読が行われている様子(撮影: Vicente Brito/Escambray, 2018)
出典:https://www.escambray.cu/2018/lectora-de-tabaqueria-un-oficio-patrimonio-cultural-de-la-nacion/
別のケースもある。キューバの葉巻工場には「レクトル・デ・タバケリア」と呼ばれる朗読係が存在するという。かれらの朗読は労働の退屈しのぎであると同時に、労働者が教養を得る手段であり続けてきた。はじめは労働者同士の持ち回りで朗読をしていたが、次第にお金を出し合ってレクトルを雇うかたちになったようである。朗読されるのは新聞や歴史書、大衆文学まで幅広く、読まれた小説の題名がそのまま葉巻の名前にもなった(チェ・ゲバラが愛用したモンテクリストはその好例である)。かれらは「働きながら本が読める」。革命の担い手になることを恐れて朗読に検閲が入った際には、労働者たちは激しく抵抗した。
あるいは、軟禁されて朗読を強いられる男の話も紹介される(イーヴリン・ウォー「ディケンズ好きの男」[6])。男はディケンズの小説を音読するのが趣味だったのだが、一緒に楽しんでくれていると思っていた妻に「拷問」だったと告白される。その後、男は探検隊の一員としてアマゾンで囚われの身となり、ディケンズの小説を大声で音読するよう強制される。好きだった音読という行為を永遠に続けるよう求められるとき、男の心に朗読への恐怖心が芽生えるのである。ホフマンの「砂男」では、登場人物が自分の音読の声を気持ち悪がってしまう瞬間が描かれる。自分は自分の出演している動画を絶対に見返したくないのでこれはよくわかる。
ナターナエルはこれを詩に書いているあいだ、とても落ち着いて冷静だった。1行ごとに推敲し、磨きをかけ、韻律上の約束ごとを忠実に守って、あらゆる音が美しく響きあうようになるまで、休まず手直しをつづけた。だがとうとう完成したとき、その詩を声にだして読んでみた彼は、身の毛もよだつ恐ろしさに叫び声をあげた。
「このぞっとする声はだれの声だ?」[7]
こうして──Kindle Unlimitedに少しの間入会したりもしながら──登場する例に読める限りあたっていく。自分は大学生のころに種村季弘訳で「砂男」を読んでいたはずなのだが、自動人形が出てくること以外、どんな話だったかさえ忘れていた。いちいち全部記憶に残っているはずもない。本には出会うべき「タイミング」というものがあるし、これは持論なのだが、人から薦められた本はなかなかホームランになりづらい。心のどこかで、自分が見つけた本にのめりこみたいと思っているからだろうか(だから以前書いたような、西澤諭志さんづてに『物語・日本人の占領』を読んで感銘を受けた話は相当なレアケースである)。
エウクレイデス「それじゃあ、ついてきたまえ。ぼくたちは休みを取りながら、従者の童に[覚え書きを]読ませることにしよう。〔…〕さあ、童、書物を手に取って読みなさい。」〔強調筆者〕[8]
プラトンの著作である『テアイテトス』のなかで、「アナグノステス(朗読奴隷)」たる童(少年)には名前が与えられておらず「台詞」もない。ほとんど無視されている登場人物である。しかし一方で、少年はしっかりと登場しているとも言える。少年が読み上げている「ソクラテスたちの台詞」自体ははっきりと、かなりの分量で、記されているからである。
このように、サンディの書きぶりは巧みであり──文献が西洋に偏っていることをとやかく言っても仕方ないのだが、読書を複数の声が飛び交う「音声のドラマ phonodrama」〔p.78〕あるいは「サウンドフィルム(フォノセーヌ) phonoscene」〔p.43〕だと捉えていく。いうまでもなく、そこではミクロなせめぎ合いが起きている。「書き手」と「読者」のあいだを「電話交換台や音響エンジニアとして機能する」〔p.58〕アナグノステスが媒介する。しかしサンディはこの「三角関係」で話を終わらせない。さらにもうひとつ、「たんに「読め!」という命令を発する声」〔p.43〕を聴きとるのである。私たちが黙読するとき、脳内には、「登場人物(作者)」と「朗読者」と「監督」の声がいる。自分も含めた声の四角形──読書はにわかに騒がしくなり始める。

《ラ・マルセイエーズ》1911年。一種のミュージックビデオともいえる本作はフォノセーヌ(サウンドフィルム)と呼ばれ、レコード盤に録音された音声と映像を同期させる「クロノフォン」という技術が用いられていた。
出典:https://youtu.be/bukYIXr3Byc?si=HXAjvA-s1ECxWoiZ
先ほど、「電話交換台 telephone switchboard」が比喩として引かれていたが、ポール・ヴァレリーは1915年に電信に関連して次のように書いている(らしい)。
「広告や新聞は電報体〔telegraphese〕や粗雑な印象主義をもたらした。人々は文章を見はするが、もはや読まない〔People look, and no longer read〕」〔p.125〕。
電報体ってどういうのだろうと思いAIに尋ねると「チチキトク スグカエレ」とか「PRESIDENT TO VISIT JAPAN」(大統領訪日予定)といった切り詰められた文章をいうようだ。電報は単語数単位で課金されるし、新聞はそもそも紙面に限りがあるから、このような文体が必要とされたのだろう。ともあれ、100年以上前から「現代人はニュースの見出ししか読まない」的なことが言われていたのである。
そのように言ったそばから唇が寒くなるのは、「〜〜はとっくに昔から言われていたのだ」とドヤ顔で言い放つこと自体が、すっかり「お約束」になってしまっているからだ(冒頭のサンディの挑発を思い出そう)。
あるいは、フランスのテープレコーダーには、「再生」を意味するボタンに「読み上げ lecture」と記されていると知るとき〔p.45〕、英語だと「Play」だし、本当にやばいのは日本語が「再生」を採用していることだと気づく。音声を再び、生むスイッチ──とても面白いのだが、同時に、これも言い尽くされているんだろうなとも思ってしまう。翻訳の差異に目を向けるのもひとつの「型」である。このようにフッと冷めてしまうことはいつだってあるが、しかし、とはいえ、そのうえで、ちゃんと驚く自分がいることを忘れてはいけないと思う。少しの時間が経過すれば、だいたいのことは「そんなすごくもないか…」となりがちである。それでも確かに自分はあのとき好奇心に駆られたし、文字を追う速度が乱れた。こうして本題の隙間を縫うように付箋が貼られ、ページの隅は折られていく。
キリがなくなってきた。サンディは読書に対して生理学の用語を持ち出してくる。収縮期(systolic)と拡張期(diastolic)である〔p.93〕。心臓がギュッと縮んで、全身に血液を送り出すような読書と、心臓が休んでいて全身の血液が流れるままに心臓へと戻っていくような読書がある、というのである。この比喩がどこまでうまくいっているのか今ひとつわからないのだが(少なくともそれらが同じペースで交互に起きるとは到底思えない)、サンディは「収縮期的な読書」としてホッブズの『リヴァイアサン』を連れてくる。そういうとこやぞ、と言いたくなるのだがあと少し付きあわれたい。

アブラハム・ボッス(Abraham Bosse)による『リヴァイアサン』の表紙
出典:Wikimedia Commons
名前だけ知っていてもちゃんと読んだことはない本や法律を、あらためてちゃんと読んでみる、というのはこの連載でも大切な方法論なのだが、たしかにサンディにうながされて『リヴァイアサン』を読むと(もちろん読んだことなどなかった)、読書の比喩で始まっている。
「叡智は、書物ではなく人間を読むことによって獲得される」などという言いぐさが、近ごろはなはだよく聞かれる。図に乗って人々は、自分が人間について読み取ったと考えるものを誇示しようと、えらく積極的になる。ところがその方法というのは、陰で他人を酷評することなのである。なぜそうなるのかと言えば、大半の人々はそうする以外に、自分が賢明であることを立証する術を持たないからである。
その一方で、別の格言もある。ノスケ・テ・イプスム(汝自身を読め)というものである。この格言は近ごろあまり理解を得られていないが、その教えに従って努力するなら、相手のことを正しく読み取る能力を身につけることも可能となろう。〔強調筆者〕[8]
「汝自身を知れ」という有名な格言をわざと「汝自身を読め」に変えているように、ホッブズは意図的に読書のイメージを読者に与えようとしている。『リヴァイアサン』のなかで目指される読書は、契約書や会計報告書の文字や数字をひとつひとつ精緻に読み取っていくような「加算式」で「累積的」な読書である。事実と合意形成の「積み上げ」の果てに、国家(リヴァイアサン)が駆動する、そのようなイメージ。あの有名な「人間」の集合体としての「巨人」の表紙絵は、国家体制の比喩であるのみならず読書体制の比喩にもなっている。
このような「収縮期的な読書」には緊張と集中が求められるのは言うまでもない。事実を追うだけにとどまらず、「次に何がくるはずなのか」や「前後関係に矛盾がないか」までもを予測・確認することが必要になっていくからである。しかし、ホッブズ自身も『リヴァイアサン』のなかで認めているように、人はそのような集中を保持しえない。心臓も縮み続けることはできないし、複数の声をひとつに束ね続けることもできない。逆に「拡張期的な読書」とは、読者がテキストを追い続けられなくなる瞬間、気が逸れる瞬間、揺れと飛躍が起きる瞬間、ほどけてしまった声と声のあいだの距離を感じる瞬間である。もとより、「読書に「適切な速度」というものは存在しない」〔p.93〕[10]。
人はときにテキストを追い越してしまったり、見失ったりしながら、本来の軌道を外れた読書をしてしまうことがある[11]。頭のなかでは、複数の声がこだましている。単一の「読み」も単一の「読者」も次の瞬間には分裂していく。ただ一方的に受けとりすぎているだけかもしれないが、それでも、読むことはやめられない。ごった煮で吹きこぼれる鍋みたいに本を読むのだ。
iPhoneの画面いっぱいに拡大しながら、『HUNTER×HUNTER』を舐めるように読む。読んだあとはさまざまな考察サイトや動画をめぐる。めぐれるだけめぐる。「次に何がくるはずなのか」や「前後関係に矛盾がないか」を予測・確認することがこんなにも楽しい。月に1度、地域の図書館で「読み上げボランティア」をやる人のことを思い出す。本を朗読し、録音したCDが貸出可能になるのである(おもに視覚障害者が利用する)。しばらく会えていないその人は「自分には特技がなにもないのだが、まだ目が見えるし、読んで話すことはできるから」と言っていた。AI読み上げが浸透しても、このようなボランティアがかたちを変えて残っていってほしい。保育園で、『エルマーの冒険』が好きすぎて人前で朗読していたことも思い出す。
今日もまた『HUNTER×HUNTER』を読んでやる気をもらう。いろんな想像で頭の中がいっぱいになるし、照れずに書くが生きていてよかったとさえ思う。何度も読み返したのに急に泣くこともあって自分でも笑ってしまう。オーディオブックにはまだしばらく手を出さない気がするが、サンディの書いたように、すでに頭の中も外も声と脱線だらけである。自分は変な人間なのだろうけれど、他の人もそれなりに混みいっているのだろうと思える。サンディ、何かの間違いで『HUNTER×HUNTER』を読んでくれないものだろうか。
註
[1]Peter Szendy, Powers of Reading: From Plato to Audiobooks, trans. Olivia Custer (Zone Books, 2025). (原著はフランス語で2022年)
なお、日本語で読めるサンディのテキストとしては、フランソワ・J・ボネ『言葉と音──音響の群島』(小嶋恭道訳、人文書院、2026年)の序文や、『いま言葉で息をするために──ウイルス時代の人文知』(西山雄二編著、勁草書房、2021年)所収の「ウイルス時代」(吉松覚訳)、『表象 14』(月曜社、2020年)所収の「ブロブ、あるいは泡」(吉松覚訳)などがある。逆に言えば主要著作は未邦訳のままである。
[2]以下、過去に「面白い!」となったものたち。
Alexander Nagel and Christopher S. Wood, Anachronic Renaissance (2010).
Janina Wellmann, The Form of Becoming: Embryology and the Epistemology of Rhythm, 1760–1830, trans. Kate Sturge (2017).
Paul Preciado, Pornotopia: An Essay on Playboy’s Architecture and Biopolitics (2019).
プレシアードについては以前別の場所で書評を書いたこともある。
「ポルノトピア、プレシアードの20年」(建築討論、2021年) https://t.co/GSIZDDLMwP
[3]読書が、集団的で創造的な営みであることはさまざま論じられてきた。たとえば北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち 近世の観劇と読書』(白水社、2018年)が面白い。
[4]便宜上「本」と書いたが、現在のような書籍ではなく巻物状であることに注意。
[5]以後、「読み聞かせる者」をreaderと書くと混乱を招くので「アナグノステス」で統一する。
[6]『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』(高儀進訳、白水社、2016年)所収
[7]ホフマン『砂男/クレスペル顧問官』大島かおり訳、光文社古典新訳文庫、2014年、p. 34
[8]プラトン『テアイテトス』渡辺邦夫訳、光文社古典新訳文庫、2019年、Kindle Edition
[9]ホッブズ『リヴァイアサン1』角田安正訳、光文社古典新訳文庫、2014年、 p. 12
[10]サンディ自身は「読む」という行為に対して魔術的なものを強く託し、ベンヤミンを引いてくる。
「このように星や内臓や偶然の出来事から何かを読み解くということが、人類の太古の時代にあっては、読むという行為そのものであった。」(ヴァルター・ベンヤミン「類似性の理論」『ベンヤミン・アンソロジー』山口裕之編訳、河出文庫、2011年、p. 179)
「速度」についても、その適切さや安全性においてではなく、むしろ事物の流れに「触れてしまう」速度というものが確かにあり、その瞬間においては読者自身も「危機的=批評的」な凝固のうちにあるのだという立場をサンディとベンヤミンは共有している。なお、山口の訳註によれば「瞬間 augenblicklich」はベンヤミンにとって「(通常流れているような)時間 zeitlich」に対立するような概念でもあるとのこと。
「読んだり書いたりするときの速さは、これらの行為と切り離して考えることはほとんどできないわけだが、このテンポとは、さまざまな類似性が束の間現れ、そしてまた沈んでいきながら、事物の流れのなかから一瞬きらめくあの速度に精神がかかわろうとするときの努力、才能であるといってもよいだろう。このように世俗的な読みの行為はいまでもなお──理解するということをどうしても手放したくないのであれば──あらゆる魔術的な読みの行為と共有するものをもっている。それは、世俗的な読みが、ある必然的なテンポ、というよりもむしろ、ある危機的な瞬間の支配下にあるということだ。読む者は、何も得ることなく終わるのがいやだということであれば、この危機的な瞬間のことを決して忘れてはならない。」(同上、p. 180)
[11]サンディはこれを「接線的 tangential」な読書だと書いている〔p. 107〕。「接線的」はもともと、話題が明後日の方向に逸れていったり、質問に対して的外れな回答をするような人を「思考障害」として病理化する言葉である。
長谷川さんがキュレーションする、画家/フィルムメイカー・中井輪さんの個展は今週末まで。ピョートル・ブヤクさんの個展(ポーランド)は8/30まで開催されています。
中井輪「庶民烈伝」
会期:2026年6月20日(土)–8月9日(日)のうち、土日を中心として不定期開催
時間:12:00-18:00
会場:AIR大原gallery(京都府京都市左京区大原来迎院町218)
〈同時開催〉
「中井輪 Rin Nakai 20 JUN-9 AUG」
会期:2026年6月20日(土)–8月9日(日)
時間:10:00–17:00
定休日:水曜日
会場:半兵衛麸ビル2F ホールKeiryu(京都市東山区問屋町通五条下る上人町433)
詳細はこちらから
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ピョートル・ブヤク「ピッキング」
会期:2026年7月22日(水)–8月30日(日)
時間:10:00–18:00
休館日:月曜日
会場:日本美術技術博物館 マンガ館(ul. M. Konopnickiej 26 30-302 Kraków)
詳細はこちらから
