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2026.06.29

第4回 AIと人格論の解体──それは人か、モノか、ロボットか

関係するAI──まだ見ぬ他者をまなざす倫理学 / 清水颯

 AI倫理を研究する清水颯さんが「関係論」を軸にAIをめぐる問いを探究する連載。第4回では、第3回に続いて、デイヴィッド・ガンケルの関係的な倫理を取り上げます。
 人とはなにか。その問いは、AIが生まれるはるか以前から思考されてきました。ガンケルは古代ローマ以来の社会と思想の流れを問い直し、倫理とは「人かモノか」に先んじて存在するものだと示します。非西洋圏の哲学や言葉も手がかりにしながら、私たちが内面化してきた固定観念を解体し、AI以後の議論の扉を開きます。

 

「AIは人格か、モノか」という問いの限界

 私たちは、何かに配慮するべきかどうかを考えるとき、しばしば「それは人なのか、それとも人ではないのか」という区別を自然に受け入れています。人であれば尊重するべき存在であり、人ではない単なるモノであれば、それ自体に配慮する必要はない、と。

 しかし、「人である」とは何を意味するのでしょうか。急におかしなことを言い出したように聞こえるかもしれません。人とは人間のことであり、生物学的に言えばホモ・サピエンスのことだ、と答えたくなるでしょう。けれども、哲学や倫理学で問題になるのは、単に生物として人間であるかどうかだけではありません。そこでは、「人(person/パーソン)」という言葉が、尊重や配慮の対象となる存在、すなわち社会的・道徳的・法的な関係の中で一定の仕方で扱われる存在を指すために用いられることがあります。以下では、この意味でのパーソンを、哲学的な文脈が伝わりやすいように「人格」と呼ぶことにします。

 「人格」と言うと、その人の性格や人柄を思い浮かべるかもしれません。しかし、ここでいう人格は、「人格がよい」「人格者である」といった気質の評価ではなく、何が尊重され、配慮されるべき存在として扱われるのか、という問いと結びつくものです。

 「それは人なのか?」という問いは、多くの場合、「人格」と「モノ」という二つのカテゴリーを前提しています。モノは所有され、使用され、場合によっては廃棄されます。モノに対して乱暴にふるまうことが問題になるとしても、それは多くの場合、そのモノ自体への不正というより、所有者や周囲の人間に関わる問題として理解されます。私たちの社会は、この区別によって、誰に、あるいは何に、どのような配慮を向けるべきかを整理してきたように見えます。

 では、AIやロボットはどちらなのでしょうか。それらは人格なのでしょうか。それとも、単なるモノなのでしょうか。AIはどう見ても人間ではありません。ロボットも人工的に作られた機械です。したがって、「そんなものは人格ではなく、ただのモノに決まっている」と言いたくなるかもしれません。

 しかし、話はそれほど簡単ではありません。なぜなら、私たちが「人格」と呼んできたものは、実は思ったほど堅固で明確な概念ではないからです。人格とは何か。人間であることと人格であることは同じなのか。人格ではないものは、本当にすべて単なるモノなのか。こう問い直していくと、「AIは人格か、モノか」という問いそのものが、すでに限界を抱えた枠組みに依拠していることが見えてきます。

 ガンケルの『人格、モノ、ロボット』(Person, Thing, Robot, 2023)が問い直すのは、まさにこの前提です。問題は、AIやロボットを人格の側に入れるべきか、モノの側に留めるべきかではありません。むしろ問題は、私たちが世界を「人格」と「モノ」に分けるこの分類体系そのものが、どのように作られてきたのかです。

デイヴィッド・ガンケル『人格、モノ、ロボット──21世紀以降の道徳的・法的存在論』
Cover image of David J. Gunkel, Person, Thing, Robot: A Moral and Legal Ontology for the 21st Century and Beyond, The MIT Press (2023).

 今回は、AIやロボットの社会的・道徳的位置づけを、人格かモノかという二分法から考えるのではなく、その二分法自体を問い直すガンケルの挑戦を見ながら、配慮の対象を関係的に考える倫理を深めていきます。ガンケルの一貫した試みは、AIやロボットが何であるかを分類してから配慮の有無を決める倫理ではなく、私たちがそれらとの関係の中でどのような応答や配慮を生じさせているのかを問う倫理へと視点を移すことにあります。今回はその試みを、人格/モノという分類そのものの脱構築という角度から考えていきます。

 

人格/モノの二分法は自然なものではない

 まず確認すべきなのは、「人格」と「モノ」という区別が、世界に自然に存在する、客観的な基準ではないという点です。ある意味では、これは作られた区別なのです。人間は生まれたときから必ず人格であり、人間以外の自然物や人工物はすべてモノである、という素朴な考え方は、実は事実を正確に反映しているわけではありません。

 ガンケルは、この二分法の歴史的背景として、ローマ法学者ガイウスの分類を取り上げます(p. 23)。ガイウス以来、法は「人」と「物」を区別し、権利や義務の主体となるものと、所有や使用の対象となるものを整理してきました。そしてこの区分は、その後も西洋の倫理や法の基本的な枠組みとして受け継がれていきます。ここで重要なのは、「人格」と「モノ」が世界に自然に存在する区別ではなく、法的・社会的秩序を成り立たせるための制度的カテゴリーだったということです。

 つまり、人格とは単に「人間であること」ではありませんでした[1]。そして、モノとは単に「人間ではないこと」でもありません。人格とモノは、法的・社会的秩序の中で作られ、運用されてきた分類なのです。

 

人格ではない人間、人格でありうる人工物

 ここで、パーソン(person)という言葉の元来の意味を振り返ってみましょう。ガンケルは、person という言葉の元来の意味に注目します(p. 50)。person はラテン語のペルソナ(persona)に由来し、もともとは舞台で演者が身につける仮面を意味していました。この点は、person が人間(human being)と同じではないことを示しています。person は、ある社会的・法的・道徳的な場面で、どのような役割を担い、どのような相手として承認されるのかに関わる言葉です。つまり person とは、最初から生物としての人間の本質を指す言葉ではなく、ある場面で演じられ、承認される役割に関わる言葉だったのです。

 この意味で、人格とは社会的なものです。それは制度的な装置として機能し、ある存在をどのように扱うべきかを方向づける規範になります。重要なのは、その対象が本質的に何であるかだけではありません。その対象が社会の中でどのように位置づけられ、私たちとの関係の中でどのように扱われているのかが、法的・社会的・倫理的実践を形づくってきたのです。

 実際に私たちは、人間を人格として扱わなかったり、反対に、人間ではないものを人格として扱ったりしてきました(第3章、第6章)。

 第一に、奴隷です。奴隷は人間でありながら、歴史的には完全な法的人格を認められず、所有物として扱われました。ただし同時に、契約などに関わる一定の法的能力を担うこともあり、人格とモノのあいだに置かれた両義的な存在でもありました。

 第二に、企業、組織、船のように、人間ではないにもかかわらず法的人格を認められてきた存在です。いわゆる法人です。これらは生物学的な人間ではありませんが、法制度の中では一定の行為主体として扱われます。

 第三に、川などの自然物です。これらも人間ではありませんが、歴史、土地、伝統の中で、単なる資源以上の存在として扱われることがあります[2]

 これらの例が示しているのは、「人間であること」と「人格であること」は一致しないということです。「人格=人間」「人間でないもの=モノ」という区別は、見かけほど安定していません。人格とは、自然にそこにある性質というより、哲学的・法的・社会的な枠組みの中で与えられてきた位置づけでもあるのです。同じことは、モノについても言えます。私たちはしばしば、人格でないものをすべてモノとして扱います。しかし実際には、ある存在が「単なるモノ」として扱われるかどうかは、文化、法、宗教、社会的実践によって大きく異なります。

 

非西洋的な文脈への注目

 このように、人格/モノの区別は、一見すると世界をわかりやすく整理してくれる便利な枠組みです。しかしガンケルは、それを普遍的で中立的な分類とは見なしません。むしろ、それは西洋の哲学、ローマ法、キリスト教的伝統の中で形成されてきた、特定の歴史をもつものだと考えます。

 この点でガンケルは、西洋近代的な分類だけでなく、それとは異なる世界理解にも目を向けます。たとえば、アフリカ哲学の文脈でしばしば参照されるウブントゥ(Ubuntu)では、人格は孤立した個体の内的属性ではなく、他者との関係の中で獲得されるものとして理解されます(pp. 168–69)。人格とは、最初から個人の内部に備わっている性質というより、共同体や他者との関係を通じて形づくられるものなのです。

 また、ガンケルが取り上げる論文「機械と親族になる(Making Kin with the Machines)」では、北米先住民クリーの言語の一つである平原クリー語(nēhiyawēwin)における「有生/無生(animate/inanimate)」の区別が紹介されます(p. 168)[3]。ここでいう有生/無生は、西洋的な「生物/非生物」の区別と同じではありません。あるものが有生であるか無生であるかは固定的ではなく、文脈や関わり方によって変わりうるものとして理解されています。たとえば、玩具はふだんは無生であっても、子どもがそれで遊んでいるあいだは有生になる、と説明されます。

 ここで重要なのは、こうした例を「別の文化ではモノも生きていると考えられている」と単純に紹介することではありません。そうではなく、人格/モノ、生物/非生物、自然/人工といった区分そのものが、どこでも同じ仕方で働いているわけではない、という点です。私たちが自明だと思っている分類は、実は特定の歴史的・文化的な文脈の中で作られ、維持されてきたものなのです。

 ガンケルはこの文脈で、日本にも言及します。日本では、人工物や道具に対しても、単なる物体以上の意味を見出す感覚があると言われてきました。人形や道具の供養、ロボットに対する親しみ、あるいは「命(inochi)」という言葉が有機的な生命だけでなく、ものの生気のようなものにも関わりうることは、人格/モノの二分法とは異なる存在理解を考えるための手がかりになります(p. 78)。

 ただし、ここで注意が必要です。これは、「日本人はロボットを生きた存在として受け入れている」といったよくある決めつけではありません。重要なのは、西洋近代的な人格/モノの区別とは異なる仕方で、人工物との関係を理解する語彙や実践が存在するという点です。そして日本の事例も、その一つとして位置づけることができます。この点については、後の回で日本思想やアニミズムを扱う際に、あらためて掘り下げることにします。

 ともかく、ここで確認しておきたいのは、人格/モノという区別が、世界をすっきり分けるための便利な枠組みである一方で、それほど自明でも普遍的でもないということです。ある存在が人格なのか、モノなのか。あるいは、生きているのか、生きていないのか。そうした区別は、自然に決まるだけではありません。法、文化、宗教、言語、社会的実践、そして私たちの関わり方の中で、そのつど形づくられているのです。

 

分類から関係へ──AIやロボットへの配慮をどう考えるか

 ここで、話をAIやロボットに戻しましょう。

 ここまで見てきたのは、人格/モノという区別が、配慮するべき対象をいつでもどこでも正しく分類する枠組みではないということでした。人間であることと人格であることは必ずしも一致しません。人間ではないものが人格として扱われることもあります。自然物や人工物が、単なる資源や道具以上のものとして位置づけられることもあります。

 このことが突きつけているのは、倫理的な配慮を考えるときの、ある発想の限界です。すなわち、まず「それは何であるか」を分類し、その分類に応じて扱い方を決める、という考え方の限界です。AIやロボットは、この限界をはっきりと映し出す存在です。それらは人間ではなく、生きてもおらず、おそらく感情も意識も持たない、人間が設計し利用する人工物です。しかし同時に、社会的な関係の中に入り込んでくる、他者のような存在でもあります。

 この意味で、AIやロボットは「人格か、モノか」という問いに収まりません。ただしそれは必ずしも、新しい第三のカテゴリーが必要だということでもありません。AIやロボットとの関係は、人格かモノかを先に決めてから配慮の有無を判断する、という発想そのものを問い直すのです。配慮とは、分類のあとに機械的に生じるものではありません。

 人格なら尊重する。モノなら使用してよい。どちらでもないなら中間的な地位を与える。こうした考え方は、結局のところ人格/モノという分類を倫理の出発点に据えています。しかし、その分類自体が歴史的・文化的・制度的に形づくられてきたものだとすれば、それはもはや倫理的配慮の決定的な基準とは言えません。

 ガンケルが問うのは、まさにこの「分類が先、配慮が後」という順序が本当に正しいのか、ということです。私たちの倫理的配慮を決めているのは、相手が何であるかという存在ベースの分類ではありません。むしろ私たちは、すでにさまざまな存在と関わり合い、応答し、配慮しています。「人格」や「モノ」といったカテゴリーは、そのあとで、その関係を説明し、正当化し、安定させるために持ち出されるのです。

 ガンケルが人格とモノの分類の脱構築を試みるのは、私たちがこの二分法に固執する限り、AIやロボットに対する配慮の成り立ちを十分に捉えられないからです。AIやロボットは、人格とは言い切れない一方で、単なるモノとも言い切れない仕方で、私たちの応答や期待を引き出します。その倫理的意味を考えるためには、人格かモノかを決めるのではなく、まず私たちの社会や文化の中でそれらがどのような存在として現れ、どのように扱われ、どのような応答を引き出しているのかに目を向けなければなりません。こうして、西洋近代的な人格/モノの二分法を相対化し、配慮を関係の中で捉え直す関係論的転回が要請されることになります。

 この方針はガンケルの思想に一貫して見られます。実際にガンケルは『人格、モノ、ロボット』の中でも、レヴィナス哲学を再び持ち出し、私たちの倫理のリアリティを問い直します。人格/モノの区別は、一度獲得されると、最初からあった定規のように世界を線引きできる基準に見えます。たしかにそれは、制度化のためには便利な分類です。しかし、私たちが生活の中で行う倫理的配慮がどのように生じているのか、その多様性や複雑さ、きれいに普遍的に線引きできない現実を十分に説明してくれるわけではありません。むしろ、配慮の現実は、私たちがAIやロボットとすでに結んでいる関係の中に現れているからです。

 ガンケルの議論が開くのは、AIやロボットを人格として認めるか否かという問いではなく、AIやロボットとの関係を通じて、私たちの倫理そのものを反省する視点なのです。そしてそれによって初めて、AIやロボットという新たな社会的存在との倫理をどう考えていくのか、その柔軟な方向が開かれていきます。

 

関係論的アプローチへの三つの批判

 しかし、このような議論には、根強い批判もあります。

 第一に、相対主義の批判です。もしAIやロボットの位置づけが関係や文化によって変わるのなら、結局、何でもありになってしまうのではないか。道徳的・法的な地位が、そのつどの関係や文脈によって決まるのだとすれば、安定した基準は失われてしまうのではないか、という批判です。

 第二に、遂行的矛盾の批判です。関係性が配慮を決めると言いながら、実際には、関係を結びやすい見た目や動作といった特性に左右されているのではないか。つまり、関係が先にあると言いながら、実際にはAIやロボットの性質や能力に依存しているのではないか、という批判です。

 第三に、過剰拡張の批判です。相手との関わり方によって配慮の必要性が決まるというなら、AIやロボットだけでなく、椅子、石、車、ぬいぐるみまで、あらゆるものが配慮の対象になってしまうのではないか。どの関係が倫理的に重要で、どの関係はそうではないのかを区別できなければ、配慮の範囲は際限なく広がってしまう、という批判です。

 次回は、大きく三つの批判を取り上げながら、関係的な倫理が何を論じようとしているのか、そこにどのような限界があるのか、そしてどのように展開していくべきなのかを考えていきたいと思います。

 

[1] 例えば、人格概念をめぐっては、哲学者たちもさまざまに論じてきました。17世紀イギリスの哲学者ジョン・ロックは、人格を単に生物学的な人間としてではなく、記憶や経験の連続性を通じて、過去の自分と現在の自分を同じ「私」として意識しうる存在として捉えました。カントは、人格を理性的で自律的な存在として位置づけ、尊厳や「目的それ自体」という考え方と結びつけました。現代の生命倫理でも、マイケル・トゥーリー、メアリ・アン・ウォレン、ピーター・シンガーらが、胎児、新生児、重い認知障害のある人、動物などをめぐって、誰がパーソンとみなされるのかを論じてきました。人格を理性、自己意識、自律性などの能力によって定義しようとすると、その能力を十分にもたない人をどう位置づけるのかという難問が生じます。だからこそ、人格は単なる記述的分類ではなく、尊重や配慮の範囲に関わる規範的概念とされてきました。

[2] ガンケルが具体例として取り上げているのは、ニュージーランドのワンガヌイ川です。ワンガヌイ川は2017年に法的人格を認められ、Te Awa Tupuaという法的存在として位置づけられました(p. 68)。

[3] “Making Kin with the Machines”は、Jason Edward Lewis, Noelani Arista, Archer Pechawis, Suzanne Kite による論文で、2018年に MIT Press のオンライン媒体 Journal of Design and Science に掲載されています。ガンケルはこの論文を、先住民的な認識論から人間と機械の関係を考え直すものとして参照しています。