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『シネマの大義 廣瀬純映画論集』発売記念対談
廣瀬純×菊地成孔
『君の名は。』と『シン・ゴジラ』は
『うんこ漢字ドリル』と同時代の作品である(前編)

イベントレポート / 廣瀬純, 菊地成孔

「シネマの大義の下で撮られたフィルムだけが、全人類に関わる」——現代日本における最も先鋭的かつ実践的な映画批評のひとり、廣瀬純さんによる初の映画論集『シネマの大義 廣瀬純映画論集』。本書の刊行に際し、音楽家・批評家の菊地成孔さんとのトークショーが2017年8月10日に青山ブックセンター本店にて行われました。
偶然にも菊地成孔さんの二冊目の映画評論集『菊地成孔の欧米休憩タイム』(blueprint)の発売日と同日に行われた本イベントでは、互いの著書における「大義」の在処、そして現代世界における「大義」の意義をめぐり、二時間を越える白熱した論議が交わされました。いささかのお時間を頂戴しましたが、「かみのたね」では本トークイベントを採録・編集・加筆した特別記事を、これより前・後編の2回に分けて掲載いたします。

とき・場所:2017年8月10日 青山ブックセンター本店
編集・構成:フィルムアート社


シネマの大義 廣瀬純映画論集

 

◇幸福な観客の時代に逆らって

廣瀬:『菊地成孔の欧米休憩タイム』(blueprint)のゲラを読ませていただいて、菊地さんの今回の本もまた「大義」の書だと知りました。冒頭で菊地さんは、佐々木敦さん主宰の「ゲンロン批評再生塾」に招かれて、受講生たちの提出した文章を高橋源一郎さんと一緒に審査された経験を振り返られ、『シン・ゴジラ』(2016)と『君の名は。』(2016)と東日本大震災の3つを関係付けて論じるものばかりを大量に読ませられたと憤慨されている。その上で敢えて、「その三者をテーマにするならせめてこれくらいのことは書けよ」と、いわば「お手本」を自ら示してみせることで菊地さんは今回の本を始められている。


菊地成孔の欧米休憩タイム

時代の提供する大ネタを時代が望むような仕方で素直に論じてしまう人々のことを、菊地さんは「幸福な観客」と呼び、今日の日本に「幸福な観客の時代」の到来を観取されている。その上で、しかし、ご自身については「私は幸福な観客ではない」と宣言されている。2010年に最初の映画批評集『ユングのサウンドトラック――菊地成孔の映画と映画音楽の本』(河出書房新社)を刊行された時点では、菊地さんは、そのようなことを述べる必要を感じていなかったはずです。しかし今は違う。「幸福な観客の時代」が到来してしまった。しかし自分は「幸福な観客ではない」のだと、いわば反時代的な態度を表明されている。幸福な観客ではないままにとどまるということが「大義」として掲げられているわけです。

人は反時代的になるとき、大義の下に身をおくことになる。拙著『シネマの大義』でも同じです。シネマ(映画)は、社会にいかなる影響も残さぬまま、今日、死に絶えようとしている。一方で、たくさんのフィルム(作品)が今もなお撮られているが、それらのフィルムの大半はシネマとも、その歴史的蓄積とも、もはやほとんど関係がない。他方で、シネマのフィルムもこれまでにたくさん撮られたが、シネマはおのれの時代をついぞ迎えることなく、消滅しつつある(社会がゴダール化することはなかった)。それでもなお今日、シネマの時代の到来、世界のシネマ化を展望してシネマを論じるとは、シネマをひとつの大義として語ること、シネマを大義に掲げることにほかなりません。ぼくもまた、菊地さんとは少し別の意味で「幸福な観客」ではないのです。

菊地:廣瀬さんの映画批評が依拠しているのはマルクスやドゥルーズといった経済学や哲学だと思うのですが、ではぼくは何に依っているのかと言えば、フロイト主義、つまり精神分析です。映画というものには何かしらの抑圧があってそれが症状化している、ぼくはそれを言葉で治療するかのごとく映画批評を書いている。それは20世紀的、正確には19世紀的な反時代的なやり方だと指摘されることもありますが、それでもやっぱり僕にとってフロイトを用いることには大義がある。そうした意味でも、確かに廣瀬さんの『シネマの大義』と『欧米休憩タイム』には共通する態度があるのかもしれません。

『シン・ゴジラ』と『君の名は。』を一緒に見ると、これだけで現代の日本人の平均的に暮らしている人々のフェティッシュを、ほぼ完璧に網羅しているように思うんです。たとえばかつてであれば怪獣の出てくる特撮映画は男の子のためのもの、恋愛アニメ映画は女の子のためのものという区分がありましたが、しかしこの2作の大ヒットはそうした区分を完全に液状化してしまった。言ってみればこの2作は享楽へのダイレクトアクセスを可能にする大伽藍としてまずはあるわけですね。

そしてこの2本が震災についての映画であることは見れば誰だってわかるわけで、『シン・ゴジラ』と新海誠と震災を「シン・シン・シン」の三大話として結び付けようとする論文なんて、ひどいことを言えば、パンとパンの間にパンが具として入ったパンドイッチのようなものです。そもそも三大話というのは、本来は全然関係のない3つの話を結び付ける必要があるわけですから。しかし、東浩紀さんと佐々木敦さんのもとで批評を再生しようとするほどの志の高い方たちが、私はともかく高橋源一郎さんのような立派な文学者に、数万字に及ぶパンドイッチのような論文を大量に喰わせる(読ませる)ような愚をなぜ犯したのか。それはやはり彼らが「幸福な観客」だからでしょう。

廣瀬:シネマテーク・フランセーズの館長などを歴任され、ぼく自身もたいへん仲良くさせていただいているドミニク・パイーニさんという方が、かつて、 “Programmer, c’est penser.”(上映プログラムを組むことは思考することである)ということをおっしゃった。これは、批評を書く際も同じでしょう。どの作品のどの箇所を取り上げるのか、そして、それらをどのような順番で並べるのかということにすでに思考が宿る。今日の日本の映画批評家で、これを最も過激に実践しているのが、「爆音師」としても知られる樋口泰人さんだと思います。佐々木さんたちのもとで学ばれている方々は、ひょっとすると、樋口さんの文章などに触れる機会があまりないのかもしれませんね。

映画批評家の菊地成孔と音楽家の菊地成孔とは、やはり、同一の人物です。菊池さんの映画批評において最も重要な語は「見立て」です。菊地さんの批評には「ワタシの見立てでは……」という表現が頻出する。映画批評家・菊地成孔とは、「見立て」を映画批評の方法に高めた人物のことです。方法としての「見立て」は、今お話にあった菊地さんのフロイト主義に直接由来しています。フロイトにおいては、まず何らかの対象の抑圧があり、次いで抑圧された対象の「症状」としての回帰があるとされる。「症状」は、この意味で、抑圧されたもののメタファーですが、菊地さんの謂う「見立て」とは、そのメタファーを読み解くことで、抑圧されたものについてのフィクションを創造するというオペレイションのことです。

フロイトが個々の主体のうちに抑圧されたものとして見出していたのは性欲動ですが、菊地さんが個々の作品、個々の映画監督のうちに抑圧されたものとして見出すのは「音楽」あるいは「聴覚」です(フロイトにおいても、ひょっとすると、性欲動はすでに音楽だったのかもしれません)。菊地さんにおいて、映画批評家としての仕事と音楽家としての仕事とが一致するのは、まさにこの点でのことです。映画批評家・菊地成孔は、意識としての視覚のうちに症状として立ち現れる映像を読解することで、無意識としての聴覚についてのフィクションを創造する。菊地さんにおいて映画批評は、この意味で、まさに作曲、演奏としてあるわけです。菊地さんは、たとえば、ゴダールに見られる症状としての「レコードの使用」に、抑圧されたものとしての「生の音楽」を読み取られ、それを「作曲」されています。

最初の映画批評集が「サウンドトラック」と題されていたのは、したがって、たんにその著者が音楽家だったからではない。そうではなく、同書においては映画批評それ自体が音楽だからです。しかし、ここで疑問がひとつ生じます。なぜ「ユングの」なのか。なぜ、無意識に個々の主体の特異性の在処を見出すフロイトではなく、すべての主体を同一の集合的無意識の下に十把一絡げに把握しようとするユングなのか。菊地さんご自身の仕事に照らしてみても、「フロイトのサウンドトラック」とするべきだったようにぼくには思われるのですが……。

菊地:実は『ユング〜』はもともと「フロイトOST(オリジナル・サウンド・トラック)」というタイトルだったんです。サスペンス映画みたいなタイトルなのでやめたという理由もあるのですが、もうひとつは関東人でありながら関西のお笑いが好きというような感覚で、フロイディアンとしてユングを認めざるを得ない所があるからです。映画というのはたくさんの人が同時に見るものですから、集合的無意識が生まれる場所だと考えることもできますよね。ひとつの温泉に浸かって同じ音楽を聴いているような、そんなイメージを映画に持っていた。映画には意識としての映像と音声があり、それに対する無意識として映画音楽がある。そうしたものを見立てるために、ぼくの映画批評は作曲と同じ行為としてあるという指摘は正しいと思います。

廣瀬:『欧米休憩タイム』の冒頭では、しかし、「見立て」としての映画批評、作曲としての映画批評のもはや通用しないような作品がスクリーン上において支配的になる時代の到来を、菊地さんは告げられている。『君の名は。』と『シン・ゴジラ』とについて菊地さんは、そこにいかなる抑圧も無意識ももはや認められない、したがって、いかなる症状、メタファーももはや認められない、反対に、すべてが享楽のその直接的な対象、フェティッシュになっていると指摘されています。菊池さんはこの2作の観客を「萌え狂った幸福な観客」と呼ぶ。「萌え狂った幸福な観客」とは、享楽への直接的なアクセスを得た観客、フェティシズムを生きる倒錯的な観客のことでしょう。その上で、菊地さんは、ご自身についてはそのような「幸福な観客ではない」とおっしゃっているわけです。自分は、抑圧を知り、無意識をもち、抑圧されたもののメタファー的回帰としての症状を生きる神経症的な観客、20世紀の観客であり続けると。世間ではよく「菊地成孔はフェティシストだ」と言われていますが、これは端的に言って誤解です。菊地さんは、フェティシズムの時代に逆らう反時代的な神経症主義者なのです。

抑圧の衰退、無意識の不在が、精神分析家、とりわけラカン派分析家たちのあいだで語られ始めたのは、1980年代初頭からのことですが、これは、ソニーのウォークマンに代表されるヘッドフォン・ステレオが登場する時代です。ヘッドフォン・ステレオの出現によって、人々は、音楽との無媒介的な関係、享楽対象としての音楽への直接的アクセスを獲得した。ヘッドフォンを耳孔に挿入し、たえず音楽に直接的に晒され続ける者に、幻想や夢想の時間はもはや訪れない。症状の時間はもはや訪れない。ヘッドフォン・ステレオは、人々を抑圧から解放するガジェット、人々に抑圧や無意識のことを忘れさせる補綴的ガジェットなのです。ぼくが子供の頃に見たウォークマンのテレビCMでは「世界が映画に見えてくる」というようなことが言われていましたが、ヘッドフォン・ステレオは、まさに、世界に「サウンドトラック」を付す装置、世界を音楽で隅々まで満たす装置であり、精神分析家たちによれば、そうした装置が登場してきた時期から、抑圧が、無意識が、幻想が、メタファーが、神経症が急速に失われていった。「ふつうの神経症」の時代が終わり、「ふつうの倒錯」の時代が始まる。

実は、ぼくの『シネマの大義』においても、フロイトの時代の以上のような終焉が、その着想源のひとつとなっています。ラカンは1970年代半ばから、抑圧/症状というフロイト図式(神経症図式)の失効を問題にし始め、「症状」(symptôme)ではなく「サントーム」(sinthome)なるものを語るようになる(フランス語で「ギリシャのi」と呼ばれるyをたんなるiに替えた後者は、「症状」からのその歴史性の脱落を含意しているようにも思えます)。1980年、癌が発見されおのれの死期の近いことを知ったラカンは、1964年から続いた彼の学派「パリ・フロイト派」を解散して、後継者たちに向けて新学派設立を提案し、その名称を「フロイトの大義」とする(ラカンは翌81年に逝去、彼の学派は分裂し、娘婿のジャック=アラン・ミレールが「フロイトの大義」派の創設を担うことになる)。要するに、ラカンもまた、フロイトの時代の終焉に居合わせるなかで、その「フロイト」を「大義」として掲げることになるわけです。ぼくの映画批評の手法は、ロングショットやクロースアップ、切り返しといった撮影や編集の技法を倫理や政治の観点から論じるというもので、アンドレ・バザンや批評家としてのジャック・リヴェットの仕事を受け継がんとするものであり、ラカンやフロイトに依拠したものではありませんが、しかしなお、シネマを大義として語るという態度は、シネマとフロイトとが同時代的なもの、共に20世紀的なものであることを意識しつつ、最晩年のラカンのこの振舞いを模倣したものです。

映画批評家としての菊地成孔ではなく、音楽家としての菊地成孔に訊いてみたいことがひとつあります。抑圧されたものとしての音楽を「見立て」によって読み取り、無意識をめぐるフィクションとして曲を書いたり、インプロヴィゼイションをしたりするというたかちでの音楽行為は、世界が音楽に覆い尽くされることによって、今日ではほとんど不可能になってしまったのではないでしょうか。

菊地:質問の答えになっているかどうかわかりませんが、やはりぼくは音楽をフィクションとして、つまり無意識として見立てて作ることはもはや不可能だと考えています。技法に還元される話なのでロマンティックじゃないんですが、音楽家という仕事はほんとにタイムマシーンにでも乗ってやっているような感じがあるんですね。たとえば自分の作品をつくるとき、特に音盤をつくるときには、コンピューター・テクノロジーはガンガン使っていますし、あるいは作品を売るときにも近年はデジタル化の恩恵で「○○人にダウンロードされました」という情報が瞬時に入ってくるし、あるいは違法アップロードされてしまって誰もお金を払ってくれないといったことだってある。そんな21世紀的な状況が一方にありつつ、ひとたびステージに立つと今度はまるで16世紀と同じように目の前にお客さんがいて、演奏が終わると静かな拍手が流れてきたり「ブラボー!」と言われたりするわけです。今日の音楽家というのは、本当に16世紀と21世紀を行ったり来たりするような仕事なんですよ。

廣瀬:ぼくの友人で哲学者のペーター・サンディが、演奏家の身体と楽器との関係を論じた著作で、セロニアス・モンクの右手と左手とのあいだには50年の隔たりがあると書いていましたが、今日の音楽家は、その10倍にも及ぶ時間的隔たりを別のかたちで生きてもいるわけですね。

80年代初頭に起きた変化の話に、もう一度、戻らせて下さい。ウォークマンの出現は、ジャズ史においては、マルサリス兄弟、とりわけウィントン・マルサリスの台頭と重なり、ウォークマンはほとんどウィントン・マルサリスを聴くために開発されたと言っても過言ではないわけですが、ウィントン・マルサリスの時代のジャズは、まさに、抑圧や無意識など最初からなかったかのような幸福感、何はともあれメタファーや症状とだけは無縁だといった開き直りに満ちているようにぼくには思えるのですが、菊地さんはどう考えていらっしゃいますか。

菊地:全くその通りですね。ブランフォードは会ったこともあるし、友達とまでは言わないですけど、非常に優れたサックス奏者です。ただ、彼らが幸福であることは間違いないですよね。しかしこのご指摘以上にぼくはウォークマンとウィントン・マルサリスを結びつけた有識者が目の前に現れたことに驚いてます。だいたいウォークマンっていうのはYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)と結び付けられたりするわけで。ウォークマンの初動機の発売年がウィントンのデビュー期と重なっているという指摘は、アクロバティックというかアヴァンギャルドですね。

 

◇まずクソから始めよ

菊地:名だたる偉大な批評家であっても、映画批評において映画音楽は最初から埒外に置かれている、往々にして作品に香りや色どりを加えるトッピングや包装紙のように扱われているように僕には見えてしまっていたんですね。以前、蓮實重彦先生に「なぜ音楽のことを書かないんですか?」ってお尋ねしたら「私は音楽のことはまったくわからない、ザ・ビートルズからダメなんです」とはっきりおっしゃっていました。しかし、このことは単純に映画批評家が音楽を軽視しているということではなくて、映画音楽を映画批評の埒内に入れてしまうと、たんに大変なことになってしまうからだと思うんです。だからこそぼくはあえて映画における音楽、また映画監督に対する音楽家の存在にフォーカスした2冊の本を出しました。

輝かしい映画批評の名著たちと同様に、廣瀬さんの『シネマの大義』でも音楽にはほとんど触れられていないと思うのですが、しかしギリギリかすめている文章がありまして、そのひとつが「クエンティン・タランティーノ Shoot This Piece of Shit」という文章なんですね。この批評を少し朗読してみたいと思います。

 現代の映画監督たちが総じて問う共通の問題があるとすれば、それはクソ(あるいは“クソ的なもの”)をめぐる問題だろう。ここでいう現代とは、とりあえず、ゴダール以降、あるいはアルトマン以降といった意味だが、クソをめぐる問いそれ自体が映画の現代を規定していると逆に捉えるならば、そこにはゴダール/アルトマンよりも早い時期から映画を撮り始めた者も当然含まれることになる。たとえば増村保造がその典型だ。
 クソを問う現代監督は、そのやり方によって二つの人種に大別される。第一の人種は、クソ的なものが出現する瞬間を作品の向かうべき終着点に位置づける作家たちから構成される。彼らにとってクソの出現は、ほとんど恩恵のそれとでも見なすべき特権的な瞬間であり、スクリーン上でのクソのそうした公現こそが、退屈で凡庸なこの曇った世界のただなかに絶対的な輝き——たとえ一瞬のこととは言え——取り戻させるものとしてある。ある時期からこの人種の頂点に君臨してきたのがデイヴィッド・リンチにほかならない。

 他方、第二の人種において、クソは目指すべき目標、誇らしき戦利品といったものではもはやない。むしろ正反対に、クソはすべての物語の出発点に存在するもの、あるいは逆に言えば、すべての物語はクソから始まらなければならないものだとされる。彼らにとって、世界とは、何よりもまず、隅々までクソに満ちた場として与えられているのであり、クソの横溢としてのこの世界を描き出すことなしには、信じるに足るようないかなる映画作品もあり得ない。この人種を体現する監督として、たとえば侯孝賢。あるいはホン・サンスが挙げられよう。

 クエンティン・タランティーノはどうか。彼もまた、デビュー作『レザボア・ドッグス』(1992)以来、そのすべての作品でクソを問題にし続けてきた。クソ問題を等しく共有する現代監督のただなかにあって、タランティーノが某かの特異な位置を占めているとすれば、それは彼が言わば“混血児”(*書籍では傍点)であるということに由来する。タランティーノは、純血の第一人種でも、純血の第二人種でもなく、これらの二人種の交差する点に身をおいているのだ。そしてまた、おそらくは、新たな作品に取り組むたびにその混血性の度合いを強めてきたのである。

(廣瀬純『シネマの大義 廣瀬純映画論集』、フィルムアート社、193〜194頁)

菊地:これは本当に素晴らしい文章で、ぼくが常日頃から言っていることとも重なりあうのですが、まず、いかに我々が混血性や雑種性といった問題にあまりに不感症であるかということが書かれている。そこで、先ほど控え室で廣瀬さんと「この話に音楽という係数をかけ合わせると、話が何倍にも豊かになりますね」という話をしたんですよ。
音楽にはクソとクソではないものがある。しかし、これは二元論でパッと切って取れるような牧歌的な分類で済む話ではなく、善/悪に偽善/偽悪というものがあるように、クソの音楽にも「クソ音楽」と「偽クソ音楽」がある。つまり、本当はクソでもなんでもないのに「俺なんかクソだしさ」って言いたがっているような音楽が「偽クソ音楽」です。たとえばタランティーノの映画の中で鳴り続けているのはまさにこの「偽クソ音楽」でしょう。タランティーノの映画音楽というのは、基本的にものすごく趣味が良くて、ものすごくエレガントで、ものすごくウェルメイドなんです。しかしタランティーノの映画世界は、廣瀬さんが書かれたように「世界はクソまみれだ、だからクソだらけの世界の中で物語を始めなきゃいけない」という態度に基づくものであって、ゆえにその趣味の良いサウンドトラックは、それ自体がクソでもないのにクソを志向しなければならない。たとえば『キル・ビル』(2003)に流れる梶芽衣子は「偽クソの音楽」の極みでしょうし、『ジャッキー・ブラウン』(1997)でのブラックスプロイテーション的なソウル趣味の選曲もそう。近作だと『ヘイトフル・エイト』(2015)なんて、エンリオ・モリコーネというイタリアの王立音楽学校で学んでおきながら、マカロニ・ウエスタンの爪の黒垢のような音楽を作り続けていた人の手に依るものですからね、まさに「偽クソ音楽」の極みです。

一方で、本物の「クソ音楽」を使うのはデイヴィッド・リンチです。リンチの映画で流れる音って、SEも含めて全部リンチが作っているそうなんですが、あれは真の意味でのクソでしょう。リンチの映画音楽は、あたかもフロイトの言う肛門期のように、肛門括約筋によって大便を切って排泄することで、子供が母親に与えることのできる最初の宝物としての大便のようにある。クソの出現によってこそ世界が輝くんだという見方ですね。「ツイン・ピークス」も、最初のシリーズではアンジェロ・バダラメンティに半分くらい音楽を任せていたのですが、新シリーズはリンチがほぼ全部自分でやってる。リンチが歌ってる曲とか、もうクソ以外の何物でもない。しかも作品中で音楽が止まる瞬間がほぼ存在しない。つねにノイズか50’sポップスかリンチの自作した自分の歌が流れている。タランティーノの映画では、趣味のいいタイミングでジャストに曲が流れる。要するに音楽が入ることによって時間が分節されて、リズムが生まれている。しかしリンチにはそれがなくて、ずっとクソ音楽が垂れ流されているような状況です。それが最後に堆積して、偉大なるクソによって世界が輝くんだっていう構造になってるんです。

廣瀬:蓮實さんについてのお話があったので、クソの話に入る前に、菊地さんと蓮實さんとの関係についてぼくなりに整理しておきます。蓮實さんは、すべてのフィルムはサイレントであって、トーキーは存在しないといったことを主張されていますが、蓮實さんならではのこの極論は、しかし、菊地さんの映画論に直結するものだと思います。菊地さんにとっても、すべての映画作品はサイレントであり、それゆえにこそ、そこで抑圧されている聴覚あるいは音楽を「見立る」必要があるということになる。これに対して、蓮實さんは「見立て」の人ではありませんから、徹底的に視覚にとどまるということになるわけです。菊地さんが映像を音楽のメタファーとするのに対して、蓮實さんは映像にメタファーとしての機能を認めず、その「表層」にとどまるわけです。

さて、クソについてですが、ぼくは、映画に限らずすべての創造行為は「クソから始める」べきだと考えています。ぼくにとってデイヴィッド・リンチは「クソに憧れる」監督のひとりです。加えて、つまらない「なぞなぞ」を出してくる点などについて、ぼくは彼の仕事に基本的に批判的ですが、しかし音楽は確かにクソだと思いますね。ジャ・ジャンクーの音楽をやっている林強(リン・チャン)と同じぐらいクソです。青山真治さんが『サッド ヴァケイション』(2007)の冒頭で、林強の四打ちヒップホップのそのクソぶりを模倣したりもしていました。

初期のタランティーノはクソに憧れる監督でした。そこから徐々に、クソから始める監督へと成長していった。たとえば『レザボア・ドッグス』では登場人物たちが一人ずつ、「ミスター・イエロー」だとか、「ミスター・ピンク」などと名付けられるのですが、タランティーノ自身が演じている登場人物は「ミスター・ブラウン」だとされ、「えー、俺はミスター・ウンコかよ」と不満を装いつつも嬉しそうに言う。タランティーノは自分で自分に「ウンコ」と名付けるわけです。これは端的に言って「ウンコになりたい」ということでしょう。『レザボア・ドッグス』には、エドウォード・バンカーという真のクソおやじもひとり登場するのですが、バンカーはオープニング・タイトルロールが終わると同時に作品から姿を消してしまいます。クソに憧れる人たちだけが作品内に残されるわけです。この時期のタランティーノは「偽クソ」の映画監督でしかなかった。転機は『ジャッキー・ブラウン』です。この作品は、主人公のジャッキー・ブラウンが動く歩道に乗って出てくるシーンで始まります。回転寿司を思わせもするような、何のありがたみもない仕方で、ジャッキー・ブラウンすなわちミス・ウンコが登場するわけです。ここに、クソへの憧れはもはやありません。

クソの問題の重要性を気づかせてくれたのは『風の谷のナウシカ』(1984)です。『ナウシカ』は、「腐海」と呼ばれる巨大な肥溜めを世界の起点に位置付ける作品、まさに、クソから始まる作品です。しかし、ここに問題がひとつあります。宮崎駿は、そのクソさの度合いを、クソではない状態から逆算して設定してしまうのです。『ナウシカ』は、最終的に、いも虫の光り輝く鼻毛の上でちびっ子が踊り狂うというシーンに至ります。クソではないこの状態に1時間半のうちに到達できる範囲に、宮崎は、世界のクソぶりを予め収めてしまうのです。これに対して、たとえば、増村保造の『赤い天使』(1966)はどうでしょう。増村作品は、若尾文子が強姦されるシーンから始まります。強姦が日常であるような場として世界が規定されるわけですが、増村は、その際、そこへと至ることの望まれる美しき状態から、世界のクソさを逆算して設定したりはけっしてしません。世界はとことんクソである、そこからどこまで行けるのかを観察してみよう、という姿勢なのです。これは、宮崎と真逆の発想です。


シネマの大義 廣瀬純映画論集

<後編に続く>