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vol.01:八回目に起き上がるための思想史へ・前篇

日本のプラグマティズム / 荒木優太

(イラスト/カワイハルナ)


組織や肩書きに頼らずしぶとく生き残っていかなくてはいけないけれど、最良の正解の道筋なんてなかなか見えない。そんななかで「試行錯誤」は、われらの最大の武器であるはずなのだ。 にもかかわらず、今の日本には「間違えてもいい主義=可謬主義」が足りないのではないか? ならば今、日本における「プラグマティズム」がどのように受容され、なぜ根付かなかったかを再考してみようじゃないか──。
本連載は、『貧しい出版者』『これからのエリック・ホッファーのために』で、在野で研究することの価値と重要性を鮮やかに照らし出した、気鋭の在野研究者・荒木優太が新たに取り組む、日本のプラグマティズム受容を歴史的にたどり直していく野心的な試みです。市井の民たるわれわれのための、在野の方法論追求の遥かなる道(脱線あり)。

 

 

もう起きたくなーい!

七転び八起き。何度失敗してもめげずに立ち上がるさまを指す慣用句である。
とはいえ、人生とはクソゲー。成功と失敗のゲームバランスが明らかにおかしい設計で組み立てられていることは、二〇年か三〇年くらい生きていれば、いいかげん、みなさんご存知のことだろうと思う。
七回失敗して一回成功するくらいならばまだ運のいい方。大抵、一回の成功を得るには七〇回、いや、七〇〇回転ぶ必要がある。骨折り損のくたびれ儲け。もう骨がブロークンだよ、ボーン・ブレイキングだよ(たぶんこんな英語はないから使わない方がいいよ)。
何度でも転べばいい? が、転ぶことの連続はノーコストではない。確実に転倒者の心身をむしばむ。当り前のことだ。土がつかなれば、そもそも転んだことにならないのだから。そして、人間が二足歩行の体勢であるということは、大地にバイバイする手の自由をもつということなのだから。誰しも土などつきたくない。人間は起き上がり小法師ではないのだ。
たとえば、生存者バイアス男が自分の過去を、ときに自慢げに語るときに出てくる「転んだ」とは、躓いたけどその勢いを利用してバク転しちゃいました、みたいな出来事を指している。そういうのは転ぶとはいわない。転ぶというのは、転んで突っ伏して泥だらけになって笑いものになって自分の惨めさでもう起き上がりたくないとまで思うに至ることだ。奴らの膝に土なんかついてないのさ。
さて、こういうことを予見してしまうと、その瞬間、八回目に起き上がるのが馬鹿らしく思えてくる。実際、統計学的にも――と、よく知りもしない情報を必死でかき集めてガクモン的な体裁で整えて未来の不成功を予言しようとするのも転倒者にありがちなクセである――八回目に立ち上がったとして大方が成功しないに決まっているのだ。
七転八倒。七転の末路はきっと八起きではなく八倒の方に終わるだろう……が、ここが大きな落とし穴。八回目のトライアルがなければ九回目はないし、当然、一〇回目も一〇〇回目もありはしない。一〇〇回目を経ないのだから七〇〇回目もあろうがはずがない……もしかしたら七〇一回目ならば必ず成功するかもしれないのに!
あの八回目で失敗しなかったことが、やがて痛恨の一過になる。少なくともいま現在の自分を反省して過去のある一点をそのように思い描いて後悔し、バタバタとのたうち回る夜があるものだ。

 

試行錯誤のアンチノミー

この転倒可能性の有限性、つまりは転びすぎると起き上がりの動機づけそのものが摩滅してしまうというジレンマは、試行錯誤という一見有意義な方法に大きな矛盾、アンチノミーを形成することになる。
定立命題。試行しなければ成功はない。たとえ誤ってしまったとしても失敗のたびに経験値がたまって、小さな成長や慣れが未来の成功を呼び寄せるからだ。
反定立命題。試行すると成功できない。慣れてないことは誤りやすい。そして失敗すればするほどに試行のためのやる気が削がれ、成功に至る道のりへの不信を呼び寄せるからだ。
どちらも正しい……のに両立しようとすると相克してしまう。これを昔の人は二律背反(アンチノミー)といった。有名なのはカントが取り扱った、人間の自由や神の存在証明とか小難しいことを考えると必然的に出てくるアンチノミーで、彼は、解決できないことを知ることは単に解決できないことよりもよいだろう、という妙案でもって切り抜けた。
さて、我々はこの難問を見事あっぱれに解いて、揺らぎなき自信で八回目に立ち上がることができるのだろうか?

 

過つは人間のサガ

少し見方を変えてみる。
試行錯誤という方法は、哲学史的にいえばアメリカで発展してきたプラグマティズム、とりわけその可謬主義(fallibilism)の考え方と固く結ばれている。
プラグマティズムの始祖にして、可謬主義的哲学の骨格をつくったチャールズ・サンダース・パースは「「過つは人間の性」こそ、われわれがもっとも熟知している真理である」[2001/169]と述べた。
生きてないモノや単純なイキモノは誤りを犯さない。単に外からの力や本能に従って機械的に動くだけだ。インプットとアウトプットが一対一対応している。が、目的意識をもった理性的な人間存在は移り行く時間のなかで、一対一が崩れ、行動のランダム性に晒される。これをやっときゃ必ず成功……という公式がない。アレかな? コレかな? 別の言葉でいえば、迷ったり、悩んだりすることができる。それを肝に免じておくべし、というのが可謬主義の教えだ。

 

アンチ・ドヤ顔

人間、たいてい間違っているのは自分じゃなくて他人の方だと思っている。ある程度は仕方がない。が、自分が常に正しいと思っている連中が超ウザいのはいつの世も同じ。昨日もマウント、今日もマウント、明日もマウント、お前らはマウンティング星から来たマウントマンなのか? しかも、連中はそんなんでいて──可謬主義的にいえば、そんなんだから!──たいていの場合に間違ってすらいる。間違ってドヤ顔している。カンベンして欲しいものだ。バカは許せてもオロカ者につける薬はない。
可謬主義とは、要するにアンチ・ドヤ顔のことである……と、とりあえず要しておく。fallとは元々「落ちる」や「倒れる」という動詞。可謬主義者は、倒れたときの土の味を覚えている。

 

帰納vs仮説形成

パースの可謬主義は、彼が重視していた方法、つまり帰納でもなければ演繹でもない仮説形成(これを彼は後年にabductionと命名した)によく表れている。
inductionでもなくdeductionでもなくabduction。
世の中には色んな真理の導き方(-duction)がある。帰納と演繹の対はよく知られている。様々なデータや事例を集めてきて、それらに共通する規則を見つけるのが帰納のやり方。これとは反対に、《これはさすがに正しいっしょ》という原理原則から出発して具体的な事例に当てはめるのが演繹のやり方。当世風にいえば、帰納はボトムアップの、演繹はトップダウンの真理の見つけ方だ。
タイプ別ドヤ顔診断でいえば、帰納は《オレここ長いからさ、知らないことがあったらなんでもきいてよ》でドヤる、OBパイセンまーた部室来てんのかよタイプで、演繹は⦅そんなこと考えれば誰でも分かるだろ?》でドヤる、ハイハイ知らないことがなくて偉いですね優等生タイプに相当する。
では、仮説形成はどんな顔をしているのか。帰納と比べてみると分かりやすい。パースは英語の本の話を例に出しているのだが、余り馴染みがないので、村上春樹の小説に置き換えて考えてみる(一応断っておくが、これはいま勝手に作ったフィクションで、このような調査を実際にしたことはないし、私は村上春樹の小説を読んだこともない)。

では、まずは帰納。

(大前提)一定の長さの村上本には、「やれやれ」「スパゲッティ」「セックス」を意味する記号が含まれている。村上本をぜんぶ調べてみると「やれやれ」の登場は全体の11%、「スパゲッティ」は10%、「セックス」は9%だった。

(小前提)新作の村上本がここにある。一定の長さがあり、相変わらず「やれやれ」も「スパゲッティ」も「セックス」も出てくる。

(結論)この新村上本において、「やれやれ」は11%、「スパゲッティ」は10%、「セックス」は9%だろう。

さて、つづいて仮説形成。

(大前提)「やれやれ」も「スパゲッティ」も「セックス」も、ちゃんと翻訳できてれば相変わらずの村上春樹感が漂っちゃうのって不思議だよね(春樹チルドレンとかさ)。

(小前提)村上春樹のパロディ本がここにあり、「やれやれ」は「困った門太郎」に、「スパゲッティ」は「冷麺」に、「セックス」は「相撲」に置き換わっている。

(結論)この二次創作、よくできてるなぁ。

……おわかりいただけただろうか?

 

仮説形成は「困った門太郎」から出発できる

たぶん、おわかりいただけてないと思う。私も書いていてよく分からなくなってきた。
大事なことは、帰納は大前提→小前提→結論の順序をきちんと守らなければ途端に失効してしまう導き方であるが(イキナリ小前提から始めたらダメ)、仮説形成は大前提または結論から小前提を導き出す、逆走OKの暴走系真理探究方法であるということだ。
念のため一ノ瀬正樹の挙げているアブダクション例を挙げておく。
「たとえば、向かい側の道を知人が歩いているのを見かけたと想定してみよう。突然知人が腰をかがめて、下をきょろきょろし始めた、とも想定してみよう。何をしているのだろう。さっぱり分からない。しかし、はたと考えが浮かんだ。そうだ、もしかしたら、コンタクトレンズを落としているのではないか! そうした仮説を採用すると、知人の動作すべてが首尾一貫して説明できる。こうした一瞬の洞察、それが「アブダクション」である」[2016/257]
最初からこれ引いとけばよかったんじゃないか、というツッコミは脇においといて、村上春樹に話を戻せば(まだやるのか……)、こういうことになる。
あるパロディ本をパロディ本と知らずに手にしたとき、《あれ、この「困った門太郎」って村上春樹でいうところの「やれやれ」じゃね? そういえば、ほかの言葉の使い方も……パロってんのか?》と思いつく。このとき読者はかなり飛躍をふくんだヒラメキを使って仮説をつくり推論を進めている。飛躍をふくんでいるから間違うこともままある。が、実際に当たっちゃうこともある。
誰しもそんな経験があるはずだ。仮説形成はだから小難しく聞こえるかもしれないけれど、忙しくて断片的な知の世界を生きざるをえない我々が日常のなかでよく使っている思考方法なのだ。

 

なんか似てる

もっと単純に、仮説形成とは《なんか似てる》の力を借りた推論の形式だといってもいい。パース曰く、「ある思考が、別の思考と似ている、あるいは、それを表しているという認識は、無媒介な直接的知覚からは導き出しえないのであって、このような認識は一つの仮説形成といわねばならない」[2014/118]
未知の世界に触れたさい、《コレってアレじゃね?》と思いつくとき、多くの場合、その《アレ》は様々なアレ的ななものから統計的に抽出した与件として立項しているのではなく、もっと具体的で特殊なかつての経験であるところの《アレ》とよく知らない目の前の《コレ》を、《なんか似てる》と細かい手続きなしに一足飛びに結びつけているにすぎない。
勿論、素人臭いといえばそうなのだが、そのビギナーの──より厳密にいえば発想のビギニングの──観点が、その道の専門家には思いも寄らなかった大きな発見や概念の結びつきに結実することだってあるのかもしれない。
可謬主義はこうして、仮説形成といういささか頼りなさげでも我々にとって身近な戦い方でもって失敗のなかを突き進む思考を促しているのだ。プラグマティズムもこの基調を共有している。

[引用]
[2001] パース『連続性の哲学』、伊藤邦武編訳、岩波文庫。
[2014] パース「四つの能力の否定から導かれる諸々の帰結」、『プラグマティズム古典集成──パース、ジェイムズ、デューイ』収、植木豊編訳、作品社。
[2016] 一ノ瀬正樹『英米哲学史講義』、ちくま学芸文庫。


(第1回・了/後篇につづく)


この連載は月2回更新でお届けします。
次回2018年4月19日(木)掲載

 

 


 

貧しい出版者 政治と文学と紙の屑
荒木優太=著
発売日:2017年12月22日
四六版・上製|312 頁|ISBN 978-4-8459-1705-1|本体 2,800円+税

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