• Twitter
  • Facebook
2018.07.05

ホーキング博士の埋葬式に行ってきました

レポート / 清水玲奈

「車いすの天才科学者」として知られ、2018年の3月に76歳で死去した英科学者スティーブン・ホーキング博士の埋葬式が15日、ロンドンのウェストミンスター寺院で行われました。この埋葬式には親族や関係者のほかに公募で一般客1,000名が招待されました。ロンドン在住の執筆家・翻訳家で、『世界で最も美しい書店』『世界の美しい本屋さん』などの著書をもつ清水玲奈さんがホーキング博士の埋葬式の様子をレポートしてくれました。

 

タイム・トラベラーへの招待状

今年3月14日に亡くなった理論物理学者スティーブン・ホーキング博士の埋葬式が、6月15日金曜日、ロンドンのウエストミンスター寺院で行われました。
ウエストミンスター寺院は、10世紀に建立されたイギリス国教の教会で、隣の「ビッグベン」を擁する国会議事堂とともに世界遺産に指定され、年間200万人が訪れるロンドンの観光名所です。現在のエリザベス女王に至るまでのイギリスの王や女王たちの戴冠式や王族たちの結婚式が行われてきたほか、イギリスの歴史に残る王族や作家、詩人、そして科学者など、およそ300人が眠っています。ここで、ホーキング博士はイギリスを代表する偉人として歴史に名を刻むことになりました。

特別礼拝として行われた式典には遺族が決めた参列者が招かれ、博士と生前交流のあった研究者や各界の著名人、チャリティー関係者らおよそ1,000人のほか、100人ほどの中高生たちが出席し、さらに一般人1,000人も招かれました。一般枠についてはインターネットの特別サイトで5月半ばに公募が行われ、イギリス国内を中心とする新聞やテレビのニュースに取り上げられたこともあって、〆切の5月15日までに世界中から2万7千人を超える応募があったそうです。
応募のための公式サイトでは個人情報として生年月日を入力する必要があり、そのプルダウンメニューの中に、未来の日付が2038年まで含まれていました。「未来からのタイム・トラベラーも招待しているらしい」とのうわさが巻き起こると、スティーブン・ホーキング財団の代表はBBCに対して「私たちの立場では、タイム・トラベルの可能性を除外することはできません。いまだにまだ否定する証拠が示されていませんから」と答え、さらに「でも(〆切前日の)現時点でまだ一人も応募がありません」と明かしたそうです。

ホーキング博士は2009年、未来からのタイム・トラベラーを招待するパーティーを主催したことがあります。博士は「もしもタイム・トラベルが可能なら、自分のような著名人の招待には必ず未来からゲストが殺到するはずだ」と主張しており、パーティーは、タイムマシンは科学的に不可能という持論を検証するための実験でした。最高級のシャンパン、クリュッグがフルートグラスに注がれて並んだケンブリッジ大学のパーティー室で、「ようこそ、タイム・トラベラー」という垂れ幕の下で博士が一人ぼっちでゲストを待つ様子は、今もユーチューブで見られます。


話の種にと、私も応募してみました。〆切から1週間ほど経った5月23日、「当選者の確認」という標題でメールが送られてきました。差出人名はただ「埋葬」。「おめでとうございます!」という書き出しから、一瞬スパムメールかと思いました。出席確認の返信を出すと、今度はホーキング財団から、当日の詳細やドレスコードを告げるメールが来ました。

くじ運が悪い私が当選したことに何かの運命を感じるなどと言ったら、博士には笑われそうです。博士の誕生日である1942年1月8日はガリレオの没後ちょうど300年でしたが、その偶然について、博士自身は自伝『My Brief History』(『私の小史』、邦訳は『ホーキング、自らを語る』として出版)の中でクールに語っています。「その日に生まれた赤ちゃんは私の他に20万人くらいいたと推定される。その後、宇宙に興味を持った人がいたのかどうかは分からない」。子どもの頃「アインシュタイン」というあだ名で呼ばれていた博士が亡くなった3月14日は、アインシュタインの誕生日でしたが、これについても博士なら同様の意見を述べたはずです。

博士の伝記映画『博士と彼女のセオリー』(2014年)で主演した俳優エディ・レッドメインは、クランクイン前に博士と会って「私も博士と同じやぎ座です」と言ったところ、「私は天文学者(アストロノマー)で、占星術師(アストロロジャー)ではない」と返されたとか。というわけで、私もやぎ座なのですが、その件にも触れない方がよさそうです。

世界一のベストセラー作家

ホーキング博士は、オックスフォード大学の学部生時代は学業に興味が持てず、1日に1時間しか勉強しなかったそうです。21歳で筋萎縮性側索硬化症(ALS)に診断され、余命数年と言われてから研究に尽力するようになりました。病気で身体が不自由になり、やがて声を失っても、研究と人生を全うしました。テレビにも多数出演し、世界中に招かれて講演を行い、名声を謳歌しました。私生活でも2度の結婚を経験し、30年間連れ添った最初の奥様とは3人のお子さんに恵まれています。

そして博士は、出版業界の歴史に残る世界的なベストセラー作家でもあります。科学者としてはすでに60年代から画期的な理論を発表して成功していましたが、ロックスター並みの名声を誇るようになったのは著書『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで(1988年、日本語版は早川書房より刊行)がきっかけでした。

『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』の原書『A Brief History of Time: From the Big Bang to Black Holes』のペーパーバック版(左)と豪華版(右)

博士が「空港の本屋さんで売られるような本にしたい」との思いで構想から数年をかけて書き上げたこの本は、40か国語に翻訳され、1,000万部あまりが売れました(そのうち110万部は日本語版)。博士自身は、世界人口で割ると750人あたり1冊が売れたと計算し、聖書にも匹敵すると語っています。
この本の裏話は自伝で詳しく披露されていて、本にかかわる人にとっては必読です。1982年の構想から2年をかけて初稿を書き上げた博士は、知り合いのつてで紹介されたブックエージェントを通して、複数の出版社を見つけ、その中から大衆向けの一般書籍で知られるバンタム社を選びました。原題は『時間の小史(Brief History of Time)―ビッグバンからブラックホールまで』。博士が最初につけた題は『ビッグバンからブラックホールまで―時間の小史(Short History of Time)』でしたが、編集者が「Short」(「短い」)を「Brief」(「短時間の」というニュアンスが強い)に変え、さらにメインのタイトルと副題を入れ替えました。内容的にも、科学の素養のない編集者とのやり取りを繰り返した結果、徹底的な書き直しが行われました。
そして、「車いすの天才科学者」というイメージが宣伝に役立ったことを、博士自身が認めています。出版社の独断によりアメリカ版で表紙にあしらわれたのは、ご本人によれば「みじめで時代がかった」ポートレートでした。しかし、遠慮のないマーケティング戦略も功を奏したのか、本が1988年のエイプリルフールに発売されると、イギリスの「タイムズ」紙で237週を記録するなど、記録的な期間にわたりベストセラーリストに入りました。博士と長年連れ添った最初の奥様であるジェーン・ホーキングさんによれば、52週目に入ったある日、バンタム社から自宅にお祝いのシャンパンがケースで届いたそうです。
その後30年間にわたり、英語版だけでも、図版入りの豪華版などさまざまな表紙と版型で繰り返し重版・増刷されています。皮肉屋のイギリス人からは「実際に読む人は少数で、ほとんどの人はリビングの本棚やコーヒーテーブルに飾るだけ」との声も聞かれますが、それでも、難解な宇宙理論を説いた本に「かっこいい」というイメージを与え、これだけ多くの人に売ることができる科学者は、ホーキング博士をおいてほかにいません。その後も一般向けの本を書き続け、優れたサイエンス・ライターとしての才能を発揮しました。

「売れる本」を博士が書いた動機は「一般人も、科学やテクノロジーの進展が著しい時代に情報に基づく判断ができるように、科学に関する基本的な知識を持つ必要がある」という信念でした。そして、直接的なねらいは当時ティーンエイジャーだった長女のルーシーさんの学費を出すためでもありました。
父親がベストセラー作家としての名声を得る過程を目の当たりにしながら育ったルーシーさんは作家になりました。2007年以降、博士はルーシーさんとの共著で子ども向けのフィクション『ホーキング博士のスペース・アドベンチャー(原題は『ジョージの宇宙の秘密の鍵 George’s Secret Key to the Universe』)シリーズを出しています。そして、この本も、40か国余りで翻訳されて出版されています。

ウエストミンスター寺院の礼拝に一般のファンを招くことを決めたのも、ルーシーさんら遺族でした。ルーシーさんは「私たちの父の数多くのファンのみなさんに、礼拝に参列するチャンスを得られるよう、チケットを提供できることを大変うれしく思っています」という談話を発表しました。

ホーキング博士の埋葬式 13か条

埋葬式への正式な招待状は、ホーキング博士の記念切手が貼られた封筒で、6月1日にロンドンのわが家に届きました。当日のスケジュールやドレスコード(「ダークな色を着る必要はない」と書かれていました)、博士の写真入りでホーキング財団の紹介が書かれたリーフレット、財団への寄付金を入れるための小袋、通し番号入りの黄色いチケットが同封されています。

そして、セレモニーの前日、また財団からメールが届きました。「スティーブン・ホーキング埋葬式に関する指示」という標題で、「親愛なる友、レイナ・シミズへ」と始まっています。
「明日、お会いできるのを楽しみにしています。下記の重要事項を必ずお読みください」として、下記の13か条が書かれていました。

1.朝食をたっぷりとるように!
2.荷物の置き場所はありません。ハンドバッグのみ持ち込み可。
3.寺院の開場は10:30です(交通の遅れには注意してください!)
4.入場券、写真入り身分証明書、寄付金の袋をお持ちください。
5.招待リストに名前がない方は入場できません。
6.ドアは11:30に閉まります。遅刻しないでください。
7.礼拝は12:00に始まります。だいたい1:30に終わります。
8.礼拝の前と最中は、写真、ビデオ、ソーシャルメディアは禁止です。
9.トイレは限られています。
10.礼拝の後、ウエストミンスター寺院は閉鎖され、墓碑が設置されます。
11.寺院は午後3:30に再び開き、設置された墓碑が見られます。
12.寺院は午後5:00まで無料で開放されます。
13.黒服は着ないように! 生を祝福する式典です。スーツかドレス、それに希望する方は帽子もどうぞ。中高生は学校代表として制服を着るように。

 

埋葬式の当日は快晴で、さわやかな初夏の陽気でした。私は「第1条」に従って朝ごはんをしっかり食べて、「第13か条」に従ってドレスは紺色を選びました。国家級の式典ですから、ファッションはすべてイギリスのブランドでまとめました。キャサリン妃御用達のジェーン・パッカムの紺色のドレスに、イギリスで活躍する帽子デザイナー、ミサハラダさんにお借りしたベール付きの帽子、そして英国ファッションの女王ヴィヴィアン・ウエストウッドのハンドバックを合わせます。娘は私を真似て「ほーきんぐはかせのせれもにーにいくから、おかあちゃんはおしゃれしたの」と繰り返します。特別に家まで迎えに来てくれた幼稚園の先生にお願いして、自宅前で母娘の記念撮影をしてから、ウエストミンスター寺院に向かいました。

明るい青空を背景にそびえる荘厳な石造りの寺院の前に到着すると、先生に引率された制服姿の中高生たち数人のグループや、スーツ姿の男性、それにおしゃれな帽子とドレス姿の女性が次々と集まっていました。10時半に門が開き、赤いマントの案内係にエスコートされながら、車いすの人たちからまず入場が始まりました。

私は11時頃、おしゃれをした他の一般参列者たちとともに敷地内に入りました。列では「ニューヨークから飛行機に乗ってきた」「家族みんなで応募したけど自分だけ当たった」などと、見知らぬどうし、うきうきした気分を抑えてちょっと遠慮がちにおしゃべりをし、中庭でお互いに写真を撮り合います。
寺院建物の入り口に立ち並ぶイギリスのメディアのカメラの前を通って建物の中に入ると、「黄色のチケットの人はこちらへどうぞ」と案内されます。一般参列者の席は、赤いけしの花に彩られた「無名兵士の墓碑」の近く、通路の両脇に並べられていました。

青いチケットを持って奥の席に向かう招待客は、博士と交流のあった科学者やチャリティー関係者、遺族や友人に加え、博士の活動の幅広さをほうふつとさせるスターたちです。コメディアンのデヴィッド・ウォリアムスは、チャリティー企画のコメディー・スケッチで博士と共演しました。テレビ出演で人気のブライアン・コックス博士は、モンティ・パイソンのライブで流されたビデオクリップにゲスト出演した際、「銀河系の歌」を合成音声で歌う車いすのホーキング博士に引き倒されるという役どころでした。かつてホーキング博士がアルバムに2度ゲスト参加したピンクフロイドからは、デヴィッド・ギルモアとニック・メイスンが出席しました。ケンブリッジ大学卒のファッションモデル、リリー・コールや、博士が長年支持していた労働党の現在の党首、ジェレミー・コービンの姿もありました。

ほとんどの人の着席が済んだ11時すぎ、パイプオルガンの演奏が始まりました。ルーシーさんやジェーンさん、お孫さんら遺族といった主賓たちが、自分たちの席の前に設けられた通路を通って、奥の席へと入場していきます。最後の方に、2004年のBBCドラマでホーキング博士の役を演じた俳優のベネディクト・カンバーバッチが、明るい青のスーツを着て、同系色の水玉模様のドレスを着た奥様と腕を組んで速足で歩いて行きました。ウエストミンスター寺院専属の少年聖歌隊が入場したのち、開始2分前、赤い法衣を着た司祭たちが最後に祭壇へと進みます。

12時きっかりに、少年聖歌隊が歌う讃美歌とともに、埋葬式が始まりました。式はそれから1時間あまりの間、式次第に従って流れるように進行しました。生前のホーキング博士を知る科学者や遺族が祭壇に上り、故人の功績をたたえるスピーチを述べたほか、聖書の一節や詩を朗読しました。合い間には、参列者も時折全員起立し、式次第を読みながら、五線譜と歌詞を手掛かりに賛美歌を歌い、お祈りの言葉と「アーメン」を口にします。
私の席からは、祭壇の様子は会場のあちこちに設置されたモニターとスピーカーを通してしか見えませんでしたが、音響は完璧で、スピーカーを通してのスピーチの声もよく聞こえました。石造りの大聖堂に響き渡るパイプオルガンの音色や讃美歌、そしてステンドグラスから差し込む夏至も間近い日の正午の太陽の光は明るく、圧倒的な美しさです。「第13条」にあった通り、これはお葬式ではなくお祝いの儀式なのだと実感しました。式次第に印刷された写真の中で、「アインシュタイン」とあだ名された頃のスティーブン・ホーキング少年が微笑んでいました。

「科学者は売春婦と同じ」

式の前半では「ホーキング博士への賛辞」と題して2人のスピーチが行われました。まず登壇して博士の功績をニュートンになぞらえたのは、アメリカ人物理学者キップ・ソーン博士(1940年生まれ)です。重力波の研究により2017年ノーベル賞を受賞したソーン博士は「ホーキングは、ブラックホールと宇宙の法則という偉大な発見の数々により、ニュートンと同じように、科学の進歩を導きました」と語りました。「40年あまりにわたり、私たち物理学者は博士の投げかけた問いに頭を悩ませ続けています」とし、「ニュートンは答えをもたらしたことで記憶され、ホーキングは問いをもたらしたことで記憶されるでしょう」と称えました。
さらに53年間におよぶホーキング博士との親交を振り返ります。「他の友人の誰とも比べ物にならないくらいの頑固者でした」と述べて静まり返っていた聴衆から笑い声を引き出し、「偉大な科学研究や人生の楽しみを、病気によって奪われることは、断固として拒否しました」と続けました。
ホーキング博士とソーン博士は本当に仲良しだったようで、かつてブラックホールをめぐって賭けをした逸話があります。ホーキング博士は自分の主張する説が反証された場合に慰めとするため、いつも信じている方とは反対の方に賭ける習慣でした。結局ホーキング博士は負けて、「はくちょう座X-1にブラックホールが存在する」方に掛けていたソーン博士に成人向け雑誌「ペントハウス」の1年分の購読権をプレゼントし、ソーン博士の奥様のひんしゅくを買ったとのことです。
続いて、スノーボードの事故で11年前に首から下が動かせなくなったトム・ナバロさんが、車いすで登場します。ホーキング博士との交流で人生を救われたというナバロさんも、博士の人間性を語るにあたって、まずユーモアのセンスをほめたたえました。
博士は自伝で「科学者は売春婦と同じで、楽しいことをしてお金をもらうと、かつて誰かが言った」と書いています。博士の原動力は、人生を楽しむ気概であり、困難に直面した時こそ発揮されるイギリス的ユーモアであったのかもしれません。
スピーチに続いて、カンバーバッチが聖書の「知恵の書」の一節を朗読しました。感情を込めないまっすぐな読み方で、美しいブリティッシュ・イングリッシュが歯切れよく響きました。

続いて壇上に上がったマーティン・リース卿(英国王室天文官、元ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮長)は、「スティーブンは、自分の科学研究を神の心を知る試みだと述べましたが、それはメタファーでした。ダーウィンと同じく不可知論者でしたが、ホーキング博士も同様にイギリスの殿堂に埋葬されるのはふさわしいことです」と威厳を持って述べました。「アインシュタイン以来、宇宙、時間、重力に関する理解をこれほど深めた人物はいない」と称え、「40年後の今もなお、歴史上のどの論文よりも大きな影響力を持ち、無数の眠れない夜を引き起こしています」と微笑みました。また、「何百万人もの人たちが、彼の書いた本によって地平を開かれ、それをはるかに超える人たちが、困難を乗り越えた生き方にインスピレーションを得ました」と賛辞を惜しみませんでした。
ホーキング博士と同じ1942年生まれのリース卿は、近年までホーキング博士と関係が深く、地球外生命体探査プロジェクトで協力し、また『ホーキング博士のスペース・アドベンチャー』にもコラムを寄稿していました。ホーキング博士と同様、一般向けのメディアへの出演も進んで行っていて、私は約10年前、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ学寮に当時の学寮長だったリース卿を訪ねてインタビューしたことがあります。庭の「ニュートンのリンゴの木」から採れたというリンゴのジュースを頂いたこと、そしてさらっと上品な甘さも鮮やかに思い出されます。リース卿は、当時に比べてさらにお背中が曲がったものの、ノーブルなお顔立ちと眼光の鋭さ、そして思慮深く選んで語る言葉の重さは健在でした。ニュートンから現代の科学者まで、知の最高峰であるケンブリッジに受け継がれる系譜を思わずにはいられませんでした。

その後、少年聖歌隊が「すばる座やオリオン座を造り、死の影を朝に変える主を求めよ」と歌う中、いずれもブルーのドレスを身につけた元奥様のジェーンさんや、娘のルーシーさんと息子のティムさん、そしてお孫さんら遺族の手で、博士の遺灰が床下に納められ、花束が捧げられました。お孫さんで『ホーキング博士のスペース・アドベンチャー』の主人公と同じ名前のジョージ君は、ダークスーツとネクタイ姿で、ちょっと感極まった表情に見えました。
博士の人生について、ジェーンさんら数人が感謝の祈りを捧げた後、ティム・ピーク宇宙飛行士が、ロマン派詩人パーシー・シェリーの詩「女王マッブ」から「永遠の自然の法則」を称える一節を読み上げました。
そして、博士が愛したワーグナー・オペラから「ワルキューレの騎行」がパイプオルガンで演奏され、それまでの教会音楽とは異色の印象的なメロディーが寺院に響きます。
式の終わりを告げる鐘が鳴り始めました。参列者は席を立って、出口に立つ司祭たちと握手をし、かごに寄付金の小袋を入れ、おみやげのCDの入った封筒を受け取り、退場します。
大きく鳴り続ける鐘の音に包まれながら外に出ると、そこにあったのはいつものロンドンの雑踏と交通渋滞でした。

門の前には、カンバーバッチやピンクフロイドのファンらしき人垣に加えて、イギリス内外の観光客も集まっています。「今日の一般公開はない」と告げられた上に華やかな服装の参列者たちが次々と出てくるのを見て、「誰か有名な人の結婚式があったの」と聞いてきたスペイン人の若者の集団もいました。
さて、おみやげのCDに入っていたのは、ギリシャの作曲家ヴァンゲリスが博士の追悼のために作った曲に、博士が合成音声で語る平和と希望のメッセージを載せたもので、床下に納められた遺灰の上に墓碑を設置する作業の間も、寺院の中に流されていたそうです。また、現在知られている中で最も地球に近いブラックホールに向けて、欧州宇宙機関(ESA)からもこの録音が発信されました。「スタートレック」のファンで、ヴァージン・ギャラクティック社による宇宙旅行を予約していた博士にふさわしい演出だったかもしれません。

神の心と、ホーキング博士の数式

礼拝の後、VIPの招待客たちは寺院の庭でのパーティーに招かれたようですが、一般人の私は外でランチを済ませ、13か条のうちの「第11か条」に従い、お墓参りをするために午後3時半に入り口に戻りました。すると、赤いマントの係員は「今日の一般公開はありません」と言います。「ホーキング博士の墓碑が見られると知らされていたのですが」と聞いてみると、それが参列者のみが知る合言葉だったらしく、「ではあちらの裏口からそっと入って、墓碑のそばをそっと通って、そっと出てきてください」と小声で言われました。

寺院の中に入ると、先ほどの礼拝のときとは、様子がすっかり変わっていました。びっしりと並んでいた椅子は消えていて、静寂の中を、三々五々参列者たちが歩いて行き、そこかしこで警備員たちが厳重に見守っています。
ホーキング博士のお墓は「科学者のコーナー」と呼ばれる一角にあり、ニュートン(1643年―1727年)とダーウィン(1809年― 1882年)の間という特等席です。なお、ニュートンは、自身の導いた万有引力などの法則は神の創造した宇宙の秩序を形成しているという立場でしたが、ダーウィンは進化論を説いてキリスト教の聖職者から批判された人物です。
ホーキング博士は無神論者でした。1974年、ローマ教皇から「ピウス11世メダル」が授与されるという知らせを受けたのは、テレビの歴史ドラマでガリレオが地動説を唱えたために終身刑を言い渡されるシーンを見ていた時だったとか。とっさにメダルを断ろうと思ったものの、その後ガリレオは免罪されたのだからと思い直したとも語っています。
『ホーキング、宇宙を語る』では、「宇宙を創造する前、神はいったい何をしていたのだろう」との疑問も投げかけました。リース卿も式辞で触れていたように、同書の有名な結末は、「(私たちと宇宙がなぜ存在しているのかという質問に対する)答えが見つかれば、人間の理性の究極の勝利を意味する。なぜならそのとき私たちは神の心を知るだろう」というものです。ちなみに博士は校正段階でこの最後の一文を削ろうと思ったこともあったそうで、「もしも実際にそうしていれば本の売れ行きは半減しただろう」と述べています。
ホーキング博士をキリスト教会であるウエストミンスター寺院に埋葬することには、疑問を投げかける声もありました。礼拝の間、寺院の前で「神を信じていなかった男のために教会の鐘を鳴らすべきではない」と繰り返し叫ぶ人がいたと、「タイムズ」紙は伝えました。また埋葬式の後も、生前の博士を知る参列者が笑いながら「博士は教会に埋葬されることは望まず、今頃は床下でもがいているのではないか」と言うのを耳にしました。
ホーキング博士の墓碑は、博士の祖先の出身地であるスコットランド産の石版に、ブラックホールのエントロピーを表す博士の数式を刻んだものです。博士は2002年、「このシンプルな数式を私の墓石に刻んでほしい」と言ったそうです。博士は「脳の機能が停止した人間は壊れたコンピュータと同じで、死後の世界は存在しない」とも語りましたが、この墓碑に、生前の博士がもたらした科学の進展は人類の遺産として生き続けるという事実が象徴されています。これからは世界中からウエストミンスター寺院を訪れる人たちが、ニュートンやダーウィンに並ぶ偉大なイギリス人科学者としてのホーキング博士の名と、博士の数式を目にすることになります。

そして、世界中の大人や子どもが、たとえロンドンに行くことはなくても、いつでも博士の本を開けば、その宇宙論とカリスマ的な魅力に触れることができます。ホーキング博士、ありがとう。