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2019.11.08

 俺はベビーカーを卒業するのがとても遅かった。
 小学校に入学してからも家族と出かける際は駄々をこね、両親に大型のベビーカーを押してもらっていた。幸いなことに俺は身長が低く細身だったため、両腕を少し前に折りたたむようにすればどうにか収まることができた。
 同年代の子供たちと比べて華奢ではあったが、成長が遅かったわけではない。歩きはじめたのも言葉を発したのも平均よりずっとはやかったというし、両親が服を着替えさせようとするとその手を乱暴に振り払ったりして、自立心が非常に強かったらしい。
 単なる怠け者だったわけでもない。学年で一番足が速いスポーツマンだったし、勉強にも熱心に取り組み、家の手伝いを積極的におこなう模範的な子供だった。だからこそ、両親も俺のわがままを許してくれていたのだろう。大きな欠点が見当たらない我が息子の申し出をある種の愛らしさとして受け止め、微笑ましく見守ってくれていたに違いない。
 ベビーカーの良いところはたくさんある。大きな点はふたつだ。まずひとつめは、自分は何もせずに街中を移動でき、風景を見ることに集中できる点。そしてふたつめは、「下から目線」であるという点だ。
 ベビーカーに深く沈みこむと、視界の多くは自然と空になる。雲は風の速度に合わせて流れ、太陽は徐々に傾き、輝きの具合を変化させる。
 世間で流布している言葉に「上から目線」というのはあるが、「下から目線」を使用している人は俺以外にいるだろうか。「上から目線」を有する者は傲慢な態度を示すため往々にして他者からの反発心を買う。その一方、「下から目線」はどうだろうか。
 よだれかけを装着し、まだ頭髪も生えそろっていない幼い俺に対し、大人たちは膝を折って目線を合わせ、優しく話しかけてきたという。しかし時が経ち、大人たちの言葉の多くを理解する小学生がベビーカーに乗っているのだと認めた時には、軽蔑の視線とともに攻撃性のようなものを向けてくる場合があった。
 俺は単に「下から目線」で見ているだけなのだが、なぜそんなに気に入らないのか。そういった人々には絶対に心を開かないようにして睨みつけることもあった。「ベビーカー」という名称のせいで彼や彼女らは判断力を失っているのだ。「ベビーカー」は「ベビー」だけの乗り物だと法律で定められているわけではない。

 近年、性を特定するような固有名詞や呼称の多くは排除される傾向にあり、セクシャリティーに関する配慮は日々繊細になっている。そんな世界において「ベビー」とは人間のどの状態をさすのか、そこに差別はないのかと、検証する必要があるだろう。
 セクシャルマイノリティーの人の中には自らの境遇に自覚的であり、世間の理不尽さと戦える人もいるのかもしれないが、「ベビー」の多くは語彙も経験も足らず、権利や尊厳を声高に叫ぶ術を知らないのだ。だからこそ俺は「ベビー」たちのためにも偏見をもった人々を敵視したのだと、三十代半ばになった今は明確に説明できる。
 さすがにもうベビーカーに乗ることはないが、あのころの気持ちは鮮明に思い出せる。俺を奇異な目で見なかったもの、それは人間よりも圧倒的に犬たちだった。
 犬には小型犬、中型犬、大型犬と種類があるが、大人よりもずっと目線が近く、犬たちの態度は平等だと感じた。もちろん全ての犬が俺に対して友好的だったわけではない。俺のことを好きな犬もいれば嫌いな犬もいたと思う。でもそれは単に犬たちの嗜好の問題であって、視野の狭いゆがんだ思考の表れでは決してなかったのだ。

 俺がベビーカーに乗って街にくり出すタイミングで、隣の家で飼われているビーグル犬が散歩に出かけ、道で遭遇する時があった。その犬を連れた牧野という中年の女性は、「うちの犬は散歩が大好きだから毎日連れだしてあげないとストレスでむだ吠えする」と笑った。その犬の気持ちを俺はよく理解できた。雨が一週間ほど続き、ベビーカーに乗って外出できないとひどく機嫌が悪くなったものだ。
 牧野という女性は太っていて動作が鈍かった。ビーグル犬は彼女を引きずるようにして力強く前進した。赤いリードが張りつめて苦しそうにも感じたが、外に出たことの喜びの方がずっと勝っているようで、犬が首元を気にしている素振りはなかった。
 犬はベビーカーに前足をひっかけると、さかんに鼻を鳴らした。俺の匂いを嗅いでいるのだ。とてもうれしかった。この犬は匂いを嗅ぐことによって、俺というこの世にたった一人の存在を把握しようと懸命に努めているのだ。
 俺の匂いは俺だけが放つことのできるまぎれもない個性だ。そのことを犬たちは知っている。「ベビー」と呼ばれなくなった俺が「ベビーカー」に乗っているという些末な事象など、全く注意を払っていないし、気をとられていないのだ。
 ベビーカーに勢いよく飛びこんで来た犬に、匂いを嗅がせた。頭をさげて髪の匂いを教え、頬をなめさせ、腕に抱いた。犬はしっぽを振って暴れた。両親は慌てて犬を引きずり出そうとしたし、牧野という女性も恐縮していたが、俺自身は全く困惑してはいなかった。
 犬にならい、犬の身体に顔を押しつけた。思い切り息を吸う。その犬の匂いは鼻の奥をしびれさせた。犬の個体を識別できるだけの高度な嗅覚を有していないため、単に犬臭いとしか感じなかった。
 牧野という女性は犬をたしなめ、ベビーカーから出した。
「すぐに何でも嗅ぐんだから。みっともない。ごめんね。びっくりしたでしょ?」
 俺はくやしさを噛みしめていた。犬と同じような「下から目線」は獲得できても、互いの匂いを嗅いでそれぞれ認め合うという儀式ができなかったからだ。向こうは俺を嗅いだといえるが、俺は向こうを嗅いだとはいえないのではないか。
 俺はベビーカーを降りた。もう二度とベビーカーには乗らないと決めた。両親は俺が泣き出すのではないかと動揺し、優しい声で慰めた。
 牧野という女性の手からたくみに逃げ出した犬は俺の足にからみつき、鼻を鳴らし続けている。十分匂いを嗅いだはずなのにまだ足りないのだろうか。もっと深く俺のことを理解しようとしてくれているのかもしれない。

 仕事帰りに駅の改札を出ると、ビーグル犬が路地を曲がる後ろ姿が見えた。俺は牧野さんの犬を思い出した。それと同時に、ウェス・アンダーソン監督『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』という映画に登場した犬はたしかビーグル犬だったはずだと連想した。あの映画にはクセのあるキャラクターしかいないが、その中で唯一、犬だけがまともだった気がする。ヒゲをそる男たちの後ろ姿を見守っているシーンがあったはずだ。
 家に着くと妻は臥せっていた。間もなく冬がはじまるこの時期に季節外れの台風が迫っている、そのせいで気圧が激しく乱れているのだと、今朝の彼女はみけんにシワをよせ、こめかみを押さえていた。
 俺は部屋着に着替えたあと、静かに食事を済ませ、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』の予告編をネットで探し出した。その映像の中でビーグル犬が映る時間は少ないが、ヒゲをそる男たちの後ろに確かに存在していた。唯一覚えているシーンだ。その瞬間、俺は自分の過去を疑った。
 俺はこの映画を本当に観たのだろうか。予告編をどこかで観ただけで本編は何も知らないのではないか。
 身体の芯から震えがおきた。俺は本当にスポーツマンであり、模範的な子供だったのだろうか。着古したスウェットのそでに鼻を強く押しつけた。この匂いが一体誰のものなのか、まるで見当がつかなかった。

<第一話・了>

プロフィール
太田靖久おおた・やすひさ

1975年神奈川県生まれ。小説家。2010年「ののの」で第42回新潮新人賞。近作「アフロディーテの足」(『群像』2019年10月号)ほか。著作に電子書籍『サマートリップ 他二編』(集英社)。インディーズ文芸ZINE『ODD ZINE』を青木淳悟氏とともに企画編集。東京・新代田にある兄の雑貨店「PRANK Weird Store 」の一角で「ブックマート川太郎」を展開中。

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プロフィール
金川晋吾かながわ・しんご

1981年京都府生まれ。写真家。2016年青幻舎より『father』刊行。2010年三木淳賞、2018年さがみはら写真新人奨励賞受賞。近年の主な個展に「同じ別の生き物」(2019年、アンスティチュ・フランセ)、「長い間」(2018年、横浜市民ギャラリーあざみ野)。晶文社のウェブマガジン「スクラップブック」にて「写真のあいだ」連載中。http://kanagawashingo.com/

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