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2026.07.01

第25回 出来事の上流と下流と——黒沢清『黒牢城』

映画月報 デクパージュとモンタージュの行方 / 須藤健太郎

映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は、黒沢清監督の最新作『黒牢城』。映画において「編集者」という職能がいかに作品に関わるものであるかを再考することを通じて、「城」というひとつの場への籠城をめぐって展開する本作の構造を探ります。

 この連載を続けるなかで何度も浮かんだ問いがある。映画編集者とははたしてどんな存在なのか。
 たとえばヤン・ドゥデは、フランソワ・トリュフォー、モーリス・ピアラ、フィリップ・ガレル、そしてセドリック・カーンまで、フランスの作家映画のいわば王道を手がけてきた編集者だが、これまでの仕事を振り返った書物に『ゼロ番目の観客』というタイトルを付けた[1]。もちろん編集者が脚本段階から参加することはある。ジョシュ・サフディが脚本と編集の両方にロナルド・ブロンスタインの協力を必要とするように、あるいはアリス・ディオップが『サントメール ある被告』(2022)で編集者のアルミタ・ダヴィドを脚本に加えたように、全体の構成や各要素の配置を考える点で、編集と脚本は密接に結びついている。だが、与えられた撮影素材をもとに判断を下して作品を組み立てる作業は、究極的に考えればたしかに観客の地位にもっとも近いといえる。観客のごく手前にいる、まさにゼロ番目の観客。
 ヤン・ドゥデは自分の関わった作品をひとつひとつ回想しながら、編集者という存在の定義をいくつも披露していて、そのつどなるほどと思わせられる。最初のアイデアが自分のものではないからこそ、編集者は冷静に距離をとって作品に接することができると彼はいう(同書、p. 156)。また、編集者はときに監督にとって精神分析医に似た存在になるとも。監督が編集室で腰掛けるのはあたかも分析医の長椅子であり、編集者はそこで監督の無意識を引き出し、考えを纏めさせる対話相手となるからだ(同書、p. 316)。あるいは、「編集者(monteur)」は「嘘つき(menteur)」だという言葉遊びを弄することもある(同書、p. 311)。
『黒牢城』を見て、ふとヤン・ドゥデの本のことを思い出したのは、地下牢に繋がれた黒田官兵衛(菅田将暉)に編集者の面影が重なったからである。官兵衛は外界から閉ざされ、事件のあらましが綴られた調書を読むだけで、その核心を見抜いてみせる。それは脚本を読まず、撮影現場に立ち会わずとも、粗編集された撮影素材だけを頼りに作品の核を摑まえそこに形を与えてみせる、敏腕編集者のようではないか。城主の荒木村重(本木雅弘)が監督だとするなら、官兵衛はその分析医にしてよき相談相手であり、そうかと思えば村重を罠にはめようとする嘘つきでもある。となると、すべての事件を仕組んだ——つまり、すべての筋書きを考えた——千代保(吉高由里子)はさしずめ脚本家ということになるのかもしれない。

『黒牢城』©米澤穂信/KADOKAWA ©2026映画「黒牢城」製作委員会

 1578年、ときは戦乱の世。天下統一を目指す織田信長に反旗を翻し、有岡城に籠城を決めた荒木村重が主人公である。戦支度をした有岡城に、織田方の使者として黒田官兵衛が翻意にやってくる。村重は謀反の意向を曲げず、官兵衛を捕らえ地下牢に幽閉する。そんなおり、なかば密室と化した有岡城で次々に不思議な事件が起こり、村重はそのたびに官兵衛の知惠を借りることになる。
 黒沢清は、黒田官兵衛をアームチェア・ディテクティヴに見立てた米澤穂信の同名小説を原作にしながら、自身の近作『蛇の道』(2024)の状況を反転させた。『蛇の道』が1998年製作の同名映画のセルフリメイクだったことを踏まえると、ある意味『黒牢城』は現在の世界情勢を見据えたうえで『蛇の道』をさらに撮り直したかに映る。自分の敵にあたる人物の両手両足を鎖で繋ぎ、外界とは遮断された場所に監禁する。そこまでは『蛇の道』と同じである。しかし、『黒牢城』が主題に据えるのはもはや「復讐」ではない。焦点が当てられるのはなにより「不戦」を貫こうとする態度であり、繋がれた人物の協力こそがいまやいちばんの頼りである。虐殺者として名高い信長に対し、無益な殺傷を嫌う村重。彼は戦うことをやめ、城に引き籠もる。そして、城内でもっとも奥へと追いやられた官兵衛に最大の力が与えられる。進めば極楽、退けば地獄。誰もが口にするそんな乱世の教えなど、まやかしだとでもいうように。
 官兵衛を囚える地下牢は、驚くほど広大な空間として設計されている。一面が土に覆われ、ところどころが隆起したり、窪んだりしていて、地面の形状自体に特徴がある。美術を担当した原田哲男によれば、この地下牢のデザインは史実からは離れるが、それが成立する現実的な条件を考慮して作られている——「この地下は城を造成するときに砂利や石を積み上げてできたもので、ほじくり返したこともある場所だと。それを地下牢として使うことにしたスペースだというイメージで、地面がでこぼこになっているんです」(劇場用パンフレットより)。面白いことに、地下牢の空間はこのような配慮のもとに作られていながら、別の時代に別の地域で撮られたSF映画の記憶を呼び起こす。そう、アンドレイ・タルコフスキーの『ストーカー』(1979)である。「ゾーン」と呼ばれる立入禁止区域に、これによく似た砂に覆われた空間があった。
 「ゾーンとは何か」という解釈遊びをここで始めるつもりはないので、一点だけ確認しておくと、ゾーンの最奥部には願いが叶うと伝えられる部屋があった。その部屋に入ると、自分が意識していない願望までもが実現してしまうという。要するに、ゾーンを案内するストーカーとは分析医のようなもので、ゾーンに入る人間は最終的に心の奥へとしまい込まれた自分の無意識へと辿り着く。『ストーカー』のゾーンをそうした内的世界の謂いと捉えてみるなら、『黒牢城』の地下牢がゾーンを思わせるのは興味深い符合である。村重(監督)が出来事の真相を探り、助言を求めて官兵衛(編集者)と話し合う場所——つまり、編集室——が、ここでは一種の心的空間とみなされているわけだ。

『黒牢城』©米澤穂信/KADOKAWA ©2026映画「黒牢城」製作委員会

 実際、籠城した有岡城とは一つの巨大な脳である。戦闘を放棄し、内に籠もること。それは「行動」から「思考」への転換であり、村重はかくして城全体を思考の場へと変えてみせる。しかし、それは城主である村重が思考の主となることではない。考えるという行為は、一方では地下牢に繋がれた官兵衛に、他方では妻の千代保に割り振られている。
 事件の謎解きをする官兵衛と事件の張本人である千代保とが対になるように、出来事の下流には地面の下にある地下牢があり、出来事の上流には天へと通じる持仏堂があって、この二つの空間もまた対になっている。村重が千代保を問いつめ、すべての事件のからくりが明らかにされる場面が持仏堂で展開するのはそれゆえである。
 千代保が筋書きを紡ぎ出す場である持仏堂。そこは御仏に通じる場所であると同時に自己と向き合う場所であり、彼女がトラウマに襲われるのはきまってこの空間においてである。千代保は熱心な真宗門徒で、一向一揆の数少ない生き残りだった。伊勢長島で浄土真宗本願寺派の門徒たちが一揆を起こして織田軍に虐殺された、その凄惨な光景がいまも脳裏によみがえっては苦しんでいた。進めば極楽、退けば地獄。門徒たちはそんな文句を合い言葉にして武器も持たずに果敢に戦いを挑み、無残に殺されていった。村重と同じく、千代保もまたこうして世に広まる教えに疑問を抱いたのだった。
 自念が消える矢に射貫かれ、首が凶相に変じ、能登入道が雷に打たれるという3つの不可解な事件はすべて千代保が仕組んだこと。それは「天罰」に見えるような出来事を起こし、御仏の存在があることを民に示すためだったという。だが、その真の目的は「進めば極楽、退けば地獄」の教えが誤りであり、「進まずとも極楽があること」を悟らせるためだったと彼女は続ける。
 千代保の目的は、村重と寸分も違わないものだ。自念の件にせよ、能登入道の件にせよ、あくまで村重の代理として二人に手を掛けたにすぎないといった趣である。持仏堂の場面ははじめは引きで両者を別々に捉え、そこから広大な空間を使って存分に人物を動かしていくが、最終的には村重が千代保に間近から向き合い、二人をともに収めた寄りのショットで終える。千代保はそれまでどの場面でも村重の脇や背後にいわば影のように控えるにすぎなかったが、このとき二人は初めて至近距離で見つめ合う。千代保を見つめ、自分も「すべての死にゆく民」の一人にすぎないことを受け入れる村重は、まるで鏡に向かって自問自答しているかのようだ。

『黒牢城』©米澤穂信/KADOKAWA ©2026映画「黒牢城」製作委員会


[1]   Yann Dedet, Julien Suaudeau, Le Spectateur zéro. Conversation sur le montage, P.O.L., 2020. タイトルに選ばれた「ゼロ番目の観客」という表現は199頁に見られる。

『黒牢城』
2026年|日本
監督・脚本:黒沢清|編集:高橋幸一

配給:松竹
©米澤穂信/KADOKAWA ©2026映画「黒牢城」製作委員会
全国公開中

 

バナーイラスト:大本有希子