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2026.10.29

第7回 倫理の問いは「間柄」にあるのか──和辻哲郎と関係的な倫理

関係するAI──まだ見ぬ他者をまなざす倫理学 / 清水颯

 AI倫理を研究する清水颯さんが「関係論」を軸にAIをめぐる問いを探究する連載。第7回では、AIやロボットとの関わりを新たな角度から考えるために、和辻哲郎の倫理学における「間柄」の思想に注目します。
 人間を「人の間」と捉えた和辻の思想は、人間以外との関係をめぐる議論になにをもたらすのでしょうか。関係的な倫理との接点をたどりながら掘り下げます。

 

 前回は、関係的な倫理を、私たちの倫理的な経験を記述し、その意味を解釈し、倫理を考える枠組みそのものを問い直す試みとして捉えました。そこで最後に取り上げたのが、和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」という構想です。

 しかし、人間が関係のなかで生きていることを理解することが、なぜ倫理学になるのでしょうか。この疑問を、今回は和辻の「間柄」という考え方を手がかりに考えてみたいと思います。私たちが生きている間柄には、他者への信頼や、「こう応じてほしい」「これはしてはいけない」といった期待や要求が含まれています。そのなかで私たちは、相手から何かを求められ、それにどう応えるかを問われています。

 こうした人間のあり方を理解することは、倫理に何をもたらすのでしょうか。そして、その視点から、AIやロボットとの関わりには何が見えてくるのでしょうか。今回はその議論の前提として和辻の思想を紹介しながら、関係的な倫理の共通項を探ります。

 

和辻が問う「人間の学」としての倫理


 和辻哲郎(1889〜1960年)は、『人間の学としての倫理学』や『風土』『倫理学』などで知られる哲学者です。彼は仏教思想や日本の文化を研究するとともに、ニーチェ、カント、ハイデガーなどの西洋哲学、とりわけドイツ語圏の哲学を受容しつつ、独自の思想を展開しました。人間を「間柄」から考える倫理学も、こうした複数の思想との対話のなかで形づくられています。

 しばしば、日本の思想は関係性や共同性を重視しているとして注目されることがあります。しかし、そこから「西洋は個人を重視し、日本は関係を重視する」と整理してしまうと、あまりに単純化していますし、日本を固定的な文化のイメージで捉えるオリエンタリズムにも陥りかねません。実際のところ、日本が関係重視で西洋が個人重視という文化観の実証的な妥当性については、別途検討が必要ですが、ここでは立ち入りません[1]。少なくとも、和辻の倫理学は、まさに仏教や儒教、日本文化への考察と、ドイツ哲学を中心とする西洋哲学との対話のなかで編まれたものだと言えるでしょう。

 私が和辻から受け取りたいのは、「人間をどのように捉えれば、私たちが生きている倫理を理解できるのか」、という哲学的な問いです。和辻が示すのは、人間を、他者との関わりを生きる「間柄的存在」として捉え、その間柄をどう生きるかという問題として倫理を考える視点です。私はこの視点を手がかりに、私たちと他者との「あいだ」にどのような意味が生まれ、そのなかで倫理がどのように成り立っているのかを考えたいと思います。今回は、この問いを念頭に置きながら、和辻の『人間の学としての倫理学』および『倫理学』を中心に、人間を関係的存在として理解することと倫理の探究がどのようにつながっているのかを見ていきましょう。そして、その視点がAIと人間の関係をめぐる倫理的な問題に何を教えてくれるのかを考えていきます。

 

個人であることと、間柄を生きること


和辻が問い直したのは、まず独立した個人が存在し、その個人が後から他者との関係に入る、という人間の捉え方です。こうした人間理解から出発する倫理は、個人が自分の内面で善悪を判断し、それに従って行動するものと考えられます。近代西洋の倫理学に見られるこのような考え方を、和辻は、個人主義的な人間理解に根ざした「誤解」として批判しました[2]。倫理学は、本質的に関係的な存在である人間についての学でなければならない。和辻にとって、倫理的な問題の所在は、「人と人との間柄」にあるのです[3]。

 間柄とは、人と人との「あいだ」に成り立つ、私たちがともに生きる関係のあり方です。私たちは、何らかの役割や立場をもって他者と関わっています。その「あいだ」では、言葉や振る舞いが、互いの立場や関わりの状況に応じた意味をもち、相手への期待や信頼も生まれます。そうした「あいだ」は、私たちが生きる文化や習慣、社会の仕組み、暮らしを取り巻く環境によっても形づくられています。間柄は、こうしたさまざまな意味を帯びた「あいだ」であり、私たちがともに生きる場でもあるのです。倫理の問いは、その「あいだ」を私たちがどう生きるかに関わっています。

 和辻は、「人間」という言葉に、個々の人であることと、人々のあいだで生きることの両方を読み取ります。私たちは、それぞれ自分として考え、行為する個人であると同時に、他者との関わりを通じて生きる社会的な存在でもあります。関係のなかで生きることによって、私の行為や存在は意味をもちます。そして、一人ひとりが行為することによって、社会的な関係もまた成り立っています。個人であることと、他者とともに生きることは、互いを切り離して理解できないのです[4]。

 和辻は、この二重構造を動的なものとして捉え、それを「二重否定」と呼びます。二重否定と聞いても、すぐにはイメージしにくいかもしれませんが、内容はわりとシンプルです。私たちは、一方で、個人として他者や社会に吸収されることなく、独立した存在として生きています。これは、共同体との一体性を否定し、そこから距離を取ることです。しかし他方で、私たちは社会のなかでしか生きられません。社会ではつねに一定の役割や立場をもち、他者と相互にやりとりしています。したがって、社会から切り離された孤立した自己のあり方も、さらに否定されなければなりません。個人と社会的な全体は、それぞれが独立した存在として先にあるのではなく、互いを否定する動きのなかで成り立っています。

 ここから、倫理は、具体的な関係のなかで自分と他者のあり方を問い続ける営みとして考えることができます。他者からの期待や要求にどう応え、ときにはそれをどう問い返し、その間柄をどうつくり直していくのか。抽象的な原理に従うかどうかにとどまらず、私たちが生きている「あいだ」そのものが、倫理の問いの場として見えてくるのです。

 

あいだをつなぐ倫理


ここからは、人と人との「あいだ」で、互いの行為を方向づけている道理や秩序に目を向けてみましょう。人々は互いに何を求め、どのように応え合うことで共同生活を成り立たせているのでしょうか。和辻の倫理学は、こうした行為のつながりと、そこで何が求められるのかを明らかにしようとします。

 ここで和辻は、「倫理」という言葉の意味にも立ち返ります。「倫」は人々の仲間やつながりを表し、「理」はそのつながりを成り立たせる道理や秩序を示します。和辻が捉えようとするのは、人々の行為が互いに結びつき、共同の生活を成り立たせる秩序です。彼は倫理を、「人間を人間たらしめる行為的連関の仕方」と述べています[5]。

 たとえば和辻は、父子、君臣、夫婦、長幼、朋友という「五倫」を取り上げます。これらは、人々の共同生活の形を表すと同時に、それぞれの共同生活を成り立たせる秩序も表しています。朋友には信義、父子には親愛というように、それぞれの間柄には、そこを生きる人々の行為を方向づける道理が含まれています。こうした秩序は、出来上がった関係に後から付け加えられる規則ではなく、その関係を関係として成り立たせるものです。人間の間柄を理解することは、このような行為の秩序を明らかにすることでもあります。だからこそ、和辻にとって、人間についての学が倫理学となるのです。

 そこで求められることは、関係によって異なります。たとえば、学業に行き詰まっている学生を支える場面を考えてみましょう。親であれば、食事や休息の様子を気にかけ、学業に取り組めるよう生活面で支えるかもしれません。教員であれば、どこで理解につまずいているのかを確かめ、教え方を工夫するでしょう。友人であれば、話を聞いたり、気晴らしに付き合ったりすることで、配慮を示すでしょう。

 もちろん、それぞれの間柄にもさまざまなあり方があり、実際に求められる配慮は、これまでの関わりや互いの状況によっても異なります。同じ相手への配慮でも、何をすることが配慮になるのかは、それぞれの間柄で引き受けている責任や、相手から寄せられる期待や信頼に即して具体化されます。そして、そうした行為を通じて、親子や教員と学生、友人同士としての関係それ自体も成り立っています。

 この意味で、行為の倫理的な意味は、個人がある道徳原則を選び、それを行為に当てはめることで初めて理解されるものではありません。和辻は、信頼に応えることを善とし、それを裏切ることを悪と捉えます[6]。具体的に何が信頼への応答になるのかは、その間柄に即して理解されなければなりません。人々の行為がどのように結びつき、共同の生を実現し、あるいは損なうのかを明らかにすることが、倫理の探究になるのです。

 しかし、共同の営みを支えているからといって、その期待や要求がそのまま正当になるわけではありません。ここで私が和辻から受け継ぎたいのは、そうした秩序を批判する私たち自身も、間柄のなかで生きているという視点です。人々の行為を方向づける道理や秩序を、その間柄に即して読み解くこと。そして、それが共同生活をどのように支え、あるいは損なっているのかを問うこと。関係を理解することと、そのあり方を倫理的に問うことは、このようにつながっています。人間の学としての倫理学は、私たちが生きる間柄を、そのなかで何が求められるのかという問いとともに理解しようとするのです。

 

倫理の問いと解釈の方法──西洋哲学との対話


ここまでは、間柄を成り立たせている道理や秩序を読み解くことが、倫理の探究になると述べました。ここでは、西洋哲学との対話を手がかりに、和辻がこうした倫理の捉え方と、その探究の方法をどのように形づくったのかを見ていきます。

 例えば、西洋近代哲学を代表する哲学者の一人であるカントは、道徳の根拠を、理性に基づく普遍的な法則に求めました。カントは人間を理性的な主体として考え、誰にでも当てはまる法則を自分の理性によって立て、自らもそれに従うことを「自律」と捉えました。こうした自律を軸に、人がどのような原理に基づいて判断し、行為するべきかという問いを、倫理学の中心に置きました。

 ヘーゲルは、このカント的な道徳の意義を認めながら、抽象的で普遍的な原理だけで、何をするべきかという具体的な内容を十分に示せるのかと批判しました。そこで重要になるのが、「道徳性(Moralität)」と「人倫(Sittlichkeit)」の区別です。道徳性では、人間の意図や良心、善についての判断が問題になります。人倫では、その主体の自由が、家族、市民社会、国家などの制度と、そこでの行為を通じて具体的に実現されるあり方が問われます。倫理を理解するには、個人の意志とともに、人々が共同生活のなかで自由を実現していくあり方を捉える必要があるのです[7]。

 和辻は、倫理を個人の道徳意識の分析にとどめず、人々の共同生活のなかで具体的に実現されるものとして捉えるヘーゲルの人倫論を、重要な手がかりとして受け止めました[8]。ここで注目したいのは、カントやヘーゲルの哲学の構想ではありません。倫理を考えるうえで、抽象的な原理とともに、人々がともに生きる社会や関係性や、そこでの行為を通じて倫理がどのように実現されるのかに目を向ける視点です。

 和辻の倫理学形成にとって、もう一つ重要だったのが、ハイデガーとの対話です。ハイデガーは『存在と時間』で、私たちがすでに世界のなかで活動し、物や他者と関わりながら生きていることを、「世界内存在」として捉えました。また、私たちは、自分の存在について何らかの理解をもちながら生きています。私たちが生きているあり方に立ち返り、そこにすでに含まれている理解を手がかりに、存在の仕方を解き明かす。こうした探究の方法は、「解釈学的現象学」と呼ばれます。この方法は、人間存在を問う和辻の倫理学に大きな示唆を与えました。

 ただし、和辻は、ハイデガーの存在理解をそのまま受け入れたわけではありません。ハイデガーも他者との共同存在を論じていましたが、和辻の眼から見れば、その分析はなお個人の存在と時間性に重心を置くものでした。『風土』の序言では、時間性に比べて空間性が十分に捉えられていないことを批判しています。和辻の考えでは、人間存在を理解するには、時間性と空間性を結びつけ、個人であるとともに他者との「あいだ」を生きる、その具体的なあり方を捉える必要がありました。

 こうした人間存在を理解するために、和辻自身が倫理学の方法として論じたのが、ディルタイやハイデガーの思想を踏まえた「解釈学的方法」です。私たちの生き方は、言葉や習慣、制度、日々の行為などに表れています。そうした表現を手がかりに、人々の行為がどのような意味をもち、互いにどう結びついているかを読み解く。和辻は、そのようにして、人間の関係的な存在の在り方と、そこに働く倫理を理解しようとしたのです。

 ここに、前回(第6回)で述べた、倫理的な経験を記述し(現象学的)、その意味を解釈し(解釈学的)、倫理を考える枠組みを問い直す(メタ倫理学的)という関係的な倫理の方法との接点を見いだすことができます。倫理を問う私たち自身は、どのような関係を生き、そのなかで相手や自分をどう理解しているのか。そう問い返すこともまた、倫理の探究なのです。

 

重要な留保──関係の理解と規範の正当化


とはいえ、和辻の倫理学には、個人と共同体の双方を重視しながら、共同体や国家の側に重心を置きすぎるのではないかという批判があります。全体性の実現を重視することが、個人を既存の共同体に従わせ、その不当な要求への抵抗を難しくするのではないか。こうした全体主義的な含意への懸念は、和辻の倫理学を受け継ぐうえで見過ごせません。一方で、和辻の思想のうちに個人の自律や抵抗の契機を読み取る解釈もあり、この点には様々な議論があります。

 私たち自身の探究にとっても、関係のなかにある期待や要求を明らかにすることと、それらを正当なものとして認めることは、区別する必要があります。ある社会的関係に見られる規範がその共同生活のなかで成り立っているという事実だけでは、従うべき理由にはなりません。こうした期待や要求を、どのような根拠から評価するのかは、さらに問われなければなりません。これは、これまで見てきた、関係的な倫理と規範の正当化をめぐる問題にもつながります。

 和辻自身の倫理学から私がここで受け継ぎたいのは、倫理を探究する出発点と方法です。私たちが社会的な文脈のなかで関わり、応答し、行為する、その生のあり方に倫理の問いを位置づけること。間柄にある規範の意味を理解し、それが私たちの行為をどう方向づけているのかを明らかにすることです。その理解を手がかりに、規範の正当性や、それを評価する私たち自身の枠組みを問い直していく。こうした方法上の視点を、関係的な倫理の探究に引き継ぎたいと考えています。

 

和辻の視点を、AIとの関係へ──次回に向けて


和辻から受け取ったのは、人々の共同生活を成り立たせる行為のつながりに目を向け、そこから倫理を考える視点です。この視点は、AIやロボットとの関係を倫理の問題として捉える手がかりにもなります。

 ただし、和辻が実際に論じたのは、人間同士の間柄です。その議論から、AIが間柄を生きる主体であることや、権利をもつことが、そのまま導かれるわけではありません。ここで考えたいのは、和辻の視点を手がかりに、人間以外との関わりへと問いを広げる可能性です。

 実際に、人々はAIに、単なる手段としての役割を超えて、応答する他者のような立場を期待することがあります。今後、私たちがAIやAIを搭載したロボットに何かを期待し、その応答に私たちも応えるような関わり方が、社会的に定着していくことも考えられます。

 そうした関わりのなかに、倫理的な意味をもつ「あいだ」が生まれ、AIやロボットといった人工物が、人間社会のなかで新たな位置づけを得ることもあるかもしれません。その可能性に目を向けることで、私たち自身の倫理的な生き方が、他者との「あいだ」でどのように成り立っているのかも、改めて見えてくるのではないでしょうか。

 次回は、この問いをさらに掘り下げます。関係の成り立ちから倫理を探究する視点を手がかりに、AIとの「あいだ」にありうる倫理の可能性と限界を考えていきたいと思います。

 

註

[1] たとえば次の文献など。呉羽真「日本人とロボット――テクノアニミズム論への批判」Contemporary and Applied Philosophy、13号、62-82頁。ただし、同論文は「個人重視/関係重視」という文化観を直接検討したものではなく、日本人のロボット受容を日本固有の文化的特性から説明する議論を批判的に検討したものです。

[2] 近代西洋の倫理学をすべて徹底した個人主義としてのみ理解できるかどうかは、別途検討が必要ですが、ここでは和辻の理解のためあえて単純化しています。

[3] 和辻哲郎『倫理学』、『和辻哲郎全集』第10巻、岩波書店、1962年、11-12頁。以下、『倫理学』の参照頁は同巻による。

[4] 『倫理学』、17-18頁。

[5] 『倫理学』、25頁。

[6] 『倫理学』、302頁。

[7] 日本語で「人倫」と訳されるSitttlichkeitは、興味深いことに、英語ではしばしば「ethical life」つまり「倫理的生活」と訳されることがあります。

[8] もちろん、ヘーゲルの人倫論が関係論であるというわけではありません。ここでは、倫理を個人の道徳意識に限定しないという点を和辻が受け止め、批判を交えながら自身の倫理学の構想につなげたことに注目しています。