映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は、リチャード・リンクレイター監督による『ヌーヴェルヴァーグ』。ゴダール『勝手にしやがれ』の制作風景を主たる題材としながら、「編集の映画」として大胆に「ヌーヴェルヴァーグ」という運動そのものを見つめる本作。その特異な「時間感覚」は、いかなる方法によって導かれているのでしょうか。
まさしく「編集の映画」である。構成の核をなすのは時間の圧縮だ。その点、リンクレイターのフィルモグラフィでいえば、『エブリバディ・ウォンツ・サム‼ 世界はボクらの手の中に』(2016)がもっとも近い。大学が始まる直前の3日間を描いたものだが、その3日間にその後の4年間の大学生活で経験するはずのことがすべて起きてしまう。そんな信じがたい離れ業を成し遂げた青春映画の傑作に『ヌーヴェルヴァーグ』は連なる。リンクレイターは丹念な調査を重ねて『勝手にしやがれ』(1959)の生成過程を辿りながら、そのごく限られた時間の中にそれ以後に起きた数々の逸話——いわゆる「60年代ゴダール」に関するもの——を盛り込んでいる。そこにすべての可能性があらかじめ内包されていたかのように。
たとえば、わかりやすいのは、その後のゴダール作品への目配せが随所に見られることである。ジーン・セバーグがベルモンドにマディソンダンスを教えるくだりは、『はなればなれに』(1964)の有名な一場面を念頭に置いたもの。ゴダールが『軽蔑』(1963)撮影時にブリジット・バルドーの機嫌を取ろうと逆立ちを披露したのはいまや語り草だが、リンクレイターは『勝手にしやがれ』の現場でゴダールに逆立ちさせる。ベルモンドが撃たれるラストシーンの撮影では、血糊を提案するスタッフに対し、ゴダールは「血はいらない。赤でいい」と鼻であしらう。『勝手にしやがれ』も『ヌーヴェルヴァーグ』もモノクロなのだから、これみよがしの冗談である。彼は『ウイークエンド』(1967)に対する残虐な場面が多いとの批判に「あれは血ではない。赤なのだ」と応じてみせたのだった。「映画には銃と女があれば十分だ」との言い分はすぐさま『映画史』(1988–98)を想起させるが、もとはゴダールが『はなればなれに』の公開時にグリフィスからの引用として発した言葉を踏まえている。なお、劇中でゴダールが披露する「映画とは美しい感情の表現」という定義は、彼が1952年に書いた記事「映画とは何か?」が初出である。
次作『小さな兵隊』(1960)から主演を務めることになるアンナ・カリーナの存在も、リンクレイターは忘れていない。ベルモンドがかつて関係のあったリリアーヌの部屋を早朝に訪ねる場面。ゴダールはリリアーヌに服を着たまま着替えるよう提案し、裸を見せずに想像させた方がより喚起力があっていいのだと宣言するが、この発言はほかならぬアンナ・カリーナに由来する。ゴダールがカリーナと初めて会ったのはこの女性役をめぐるオーディションをしたときのこと。ヌードになる必要があると伝えると、彼女は怒って事務所を後にした。「でも、あなたは石鹸のCMでは裸でバスタブに入っていたではないか」とゴダールが言葉を継ぐと、カリーナは「私は泡の中で服を着ていました。あなたがそれを裸だと想像しただけです」と返したという。リンクレイターはオーディションの場面を撮るかわりに、その時の発言のみを取り上げて作中に組み込むのだが、アンナ・カリーナの存在がゴダールに着想を与えていくその後の展開までをもこの一つの発言を通して示唆してみせる。ほとんど曲芸のような、なんとも粋なはからいである。
他にもこんなかたちで時間を先取った引用がある。撮影前夜、トリュフォーが不安がるゴダールに向けて送る激励の言葉。これはトリュフォーが『彼女について私が知っている二、三の事柄』(1966)の製作に加わった際に、その理由を述べた次のような賛辞を踏まえたものだ——「ジャン゠リュック・ゴダールは呼吸するように映画を撮る唯一の人物ではないが、いちばんうまく呼吸するのが彼なのである。彼はロッセリーニのように速く、サッシャ・ギトリのように茶目っ気があり、オーソン・ウェルズのように音楽的で、パニョルのように単純で、ニコラス・レイのように傷つき、ヒッチコックのように効率的で、イングマール・ベルイマンのように深く、深く、深く、そして誰よりも大胆不敵である」(『ラヴァン゠セーヌ・シネマ』70号、1967年5月)[1]。

©JeanLouisFernandez
リンクレイターは『勝手にしやがれ』一作のみを取り上げながら、自作を大胆にも『ヌーヴェルヴァーグ』と名付けた。つまり、ゴダールという映画作家とその長篇第一作の誕生にかぎらず、「ヌーヴェル・ヴァーグ」という集団による運動を主題にしたということだ。
実際、この映画を特徴付けるのは、登場人物が現れるたびに毎回丁寧に紹介されること。顔を正面から捉え——みなカメラ目線である——、字幕で名前が示される。それも、たとえばトリュフォーやシャブロルといった、『勝手にしやがれ』の実現に大きな役割を果たした人物ばかりではなく、総勢50名ほどの周辺にいた者たちにまで視線が注がれている。よほどのシネフィルでないかぎり、全員の名前に通じていることはないはずだ。
『ヌーヴェルヴァーグ』は集団を描くという点でも『エブリバディ・ウォンツ・サム‼』に通じているが、この10年でリンクレイターにも大きな変化があったようだ。ヌーヴェル・ヴァーグは「男性単数形の映画」(ジュヌヴィエーヴ・セリエ)と批判されて久しい。撮りようによっては、「おっぱ〜い!」の大合唱から始まる『エブリバディ・ウォンツ・サム‼』のように、女子のナンパに明け暮れる男子の映画になっていてもおかしくはなかった。しかし、リンクレイターは1950年代末に映画を革新した運動をいま振り返るにあたり、女性たちの存在がいかに重要だったかに力点を置いた。それは冒頭から顕著である。ゴダール、トリュフォー、シャブロルに並んで、シュザンヌ・シフマンの姿が前面に押し出されている。のちに『カイエ・デュ・シネマ』で若手急進派をなすことになる面々とシネクラブやシネマテークで知り合って意気投合し、彼らが批評家から監督に転身すると、ある時はスクリプター、ある時は助監督、ある時は脚本家、ある時は共同監督として不可欠の存在となる人物である。

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リンクレイターによって再現された『勝手にしやがれ』の現場を見ていてとりわけ目を引いたのは、メイク係のフオン・メトレだった。ゴダールから同じく邪険に扱われるスクリプターのシュゾン・ファイユと愚痴を言い合いながら、常識破りの撮影に振り回されるジーン・セバーグを支えている。劇中でセバーグ側が連れてきた設定とされているのは、付き添い役としての重要性を引き立たせるためにちがいない。実際は、ゴダールへの不信感からプロデューサーのジョルジュ・ド・ボールガールが用意したスタッフの一人である。ボールガールは前作『悪魔の通り道』(1958)で起用した3人——撮影監督ラウル・クタール、スクリプターのシュゾン・ファイユ、メイク係のフオン・メトレ——を使うことをゴダールに課したのだった。
リンクレイターがメイク係に着目したのは、たぶんレーモン・コシュティエが残した数々のスチール写真がきっかけではないかと思う。『ヌーヴェルヴァーグ』では、有名な写真がいくつも再現されている。そもそも車椅子や荷車を用いて撮影したことが知られているのは現場を記録した写真が残っているからで、コシュティエの仕事が『勝手にしやがれ』の撮影現場を再構成するうえで貴重な資料となったことは想像に難くない。だが、そればかりか、コシュティエは現場の雰囲気そのものを巧みに捉える手腕に長けた写真家だった。撮影の合間に実に楽しそうに笑うベルモンドとセバーグの表情など、映画本篇を見ているだけでは想像すらできないものだ。そして、いま『勝手にしやがれ』のスチール写真をまとめて見直してみると、メイク係を務めるこのヴェトナム系の女性は時にゴダールの隣に居座り、重要なスタッフの一人という印象を受ける。私は『ヌーヴェルヴァーグ』を見ることで、これまで何度も写真を通して『勝手にしやがれ』の撮影風景を目にしてきたはずなのに、自分が彼女の存在をまったく見過ごしてきたことに気付かされた。コシュティエは『勝手にしやがれ』を皮切りに、フランソワ・トリュフォー(『ピアニストを撃て』『突然炎のごとく』から『夜霧の恋人たち』まで)、ジャック・ロジエ(『アデュー・フィリピーヌ』)、ジャック・ドゥミ(『ローラ』『天使の入江』)、アニエス・ヴァルダ(『5時から7時までのクレオ』)、クロード・シャブロル(『青髯』)らの現場でシャッターを切り、まさにヌーヴェル・ヴァーグを象徴するスチールカメラマンとなった。

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仲間たちに焦点を当てた『ヌーヴェルヴァーグ』には、そんな作品の方針をよく表す場面が用意されている。ロベルト・ロッセリーニが『カイエ・デュ・シネマ』の事務所に立ち寄り、全員集合といった具合に関係者が勢揃いする場面である。もちろん、史実の再現ではなく、リンクレイターの創作によるものだ。
監督はこの場面の撮影中に思わず涙したという——「その時、私は気付いたんです。もう誰一人ここにはいない。でも、みんながこの日に戻ってきてくれた。あたかも亡霊が部屋の中を徘徊しているかのようでした」(『カイエ・デュ・シネマ』824号、2025年10月)。『ヌーヴェルヴァーグ』がモノクロなのは、『勝手にしやがれ』の質感を模したからではなかった。これは死者たちに向けた追悼の映画であり、そのためには喪の色が必要だった。名前入りで正面から映される一人一人のポートレイトは、それこそ遺影を思わせる。死者たちの世界ではもちろん時間感覚がこの世とは異なる。亡き者たちが起こすのは、死してなお新しい波である。
註
[1] なお、『勝手にしやがれ』の制作過程においても時間は圧縮されている。1956年にトリュフォーがリシュリュー゠ドゥルオ駅で『勝手にしやがれ』の原案を思いついたという逸話は、劇中では撮影を見据えたゴダールとトリュフォーがメトロのホームでシナリオの相談をするくだりへと変換させられている。また、ベルモンドとセバーグのどちらを撮るかをコイントスで決めるくだりや、トリュフォーがラストの「脊柱を狙え」という台詞に難色を示すくだりなど、実際には編集時のエピソードとして知られるものが撮影中の出来事として移植させられている。
付記
『勝手にしやがれ』の制作背景については主に以下の文献を参考にした。
– Michel Marie, Comprendre Godard, Armand Colin, 2006.
– Alain Bergala, Godard au travail. Les années 60, Cahiers du cinéma, 2006.[邦訳=アラン・ベルガラ『六〇年代ゴダール——神話と現場』奥村昭夫訳、筑摩書房、2012年]
– Raymond Cauchetier, La Nouvelle Vague, Hugo Image, 2022.
– Antoine de Baecque, Godard. Biographie définitive, Grasset, 2023.
– Jean-Luc Godard, Introduction à une véritable histoire du cinéma, édition établie sous la direction de Nicole Brenez, Les Éditions de l’œil, 2025.[旧版邦訳=ジャン゠リュック・ゴダール『ゴダール 映画史(全)』奥村昭夫訳、ちくま学芸文庫、2012年]
『ヌーヴェルヴァーグ』については、資料提供などで協力した『カイエ・デュ・シネマ』が撮影中と公開時の二度にわたって大きく取り上げている(Cahiers du cinéma, nº 809, mai 2024 ; Cahiers du cinéma, nº 824, octobre 2025)。809号には、監督インタヴューに加え、撮影現場に取材したヤル・サダットのルポルタージュや製作サイドから助言を依頼されたアントワーヌ・ド・ベックの記事が載っており有益である。
『ヌーヴェルヴァーグ』
2025年|フランス
監督:リチャード・リンクレイター|編集:カトリーヌ・シュワルツ
配給:AMGエンタテインメント
全国ロードショー中
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バナーイラスト:大本有希子
