AI倫理を研究する清水颯さんが「関係論」を軸にAIをめぐる問いを探究する連載。第6回では、これまでの連載で扱ってきたテーマを振り返りながら、関係的な倫理を三つの哲学的視点で読み解きます。
AIやロボットという他者は、どのように経験され、どんな解釈を通じて理解され、なにを問い返しているのでしょうか。その探究は、倫理を考える私たち自身へ、そして和辻哲郎の倫理学へと向かっていきます。
前回は、関係的な倫理に向けられてきた三つの批判を取り上げました。そこで見えてきたのは、関係論の意義を、配慮すべき対象を決められるかどうかでは測れない、ということでした。関係論は、私たちが相手を配慮の対象として経験し、応答を求められていると感じる、その経験の成り立ちに目を向け、記述することを目指しています。
ただ、それを「記述する」と言うだけでは、まだ十分な説明にはなっていません。私たちの経験のどこに注目し、どのように記述するのでしょうか。また、その経験を読み解くことは、倫理について何を明らかにするのでしょうか。
今回は、こうした問いを考える手がかりとして、「現象学的」「解釈学的」「メタ倫理学的」という三つの言葉を紹介します。これだけ聞くと、何のことかわかりにくいかもしれません。しかし、これらは、これまで見てきた関係論の問い方を、哲学的な方法として理解する手がかりになります。具体的な場面をたどりながら、それぞれが何を意味し、どうつながっているのかを考えていきましょう。
現象学的──他者はどのように現れているのか
まずは、ある場面を想像してみてください。長く一緒に暮らしてきたペット型ロボットが故障し、動かなくなってしまいました。メーカーに相談すると、修理は難しいものの、同じ機種の新品には交換できると言われます。新しいロボットの機能は、これまでのものと変わりません。それでも、「交換してもらえばよい」とはすぐに思えない人がいるでしょう[1]。
同じような問題は、対話型AIをめぐっても生じています。2025年8月、ChatGPTの標準モデルがGPT-5へ切り替わった際には、従来のGPT-4oを使い続けたいという利用者が、「#keep4o」のハッシュタグのもとで声を上げました。その理由はさまざまでしたが、親しんできた話し相手を失ったと語る声もありました[2]。
こうしたためらいや喪失感を、どう理解すればよいのでしょうか。「機械にすぎないのに、心があると思い込んでいる」と説明したくなるかもしれません。しかし、第2回でも取り上げたように、AIが意識のないシステムであると知りながら、それを気遣う相手として経験することは想定可能です。その仕組みを知っていることと、慣れ親しんだ相手との関わりを失いたくないと感じることは、必ずしも矛盾しないのです。では、その人にとって、何が失われようとしているのでしょうか。
ここで手がかりになるのが、関係論の現象学的な側面です。ガンケルは、2022年の論文「関係論的転回──ロボットを別様に考える」で、自らのアプローチの特徴の一つを「現象学的(phenomenological)」と呼んでいます[3]。では、現象学的であるとはどういう意味なのでしょうか。この言葉を理解するために、その背景にある現象学という哲学の営みを、少し見ておきましょう。
フッサールに始まる現象学は、物事が私たちにどのように与えられ、いかなる意味をもって経験されるのかを、経験そのものに立ち返って明らかにしようとします。たとえば、何かを見るとき、私たちはどう見ているのでしょうか。それを好ましいと感じるとき、その対象はどのようなものとして現れているのでしょうか。このように、経験する働きと、そこで経験されるものの現れ方との対応に注目し、その構造を明らかにしようとするのです。
この観点から、AIとの対話を考えてみましょう。悩みを打ち明けたあとに返ってくる文章は、利用者にとって、単に画面に表示された文字列にとどまらず、安心をもたらす言葉や、自分を励ます言葉として経験されることがあります。その言葉がどのような意味をもつかには、それまでにどのようなやり取りを重ね、どのような応答を期待していたかが関わっています。同じ言葉でも、初めて使うAIから返ってきた場合と、何度も相談を重ねてきたAIから返ってきた場合とでは、違った意味をもつかもしれません。
モデルの変更によって応答の仕方が変わったとき、利用者はそれを、慣れ親しんだ相手との断絶として経験するかもしれません。その人にとってその経験は、使い慣れたアプリの更新であると同時に、一つの関係を失うという出来事でもあるのです。「あくまでシステムで、モノにすぎないのだから」と言われたときに、自分とその相手との関わりを軽んじられたと感じることもあるでしょう。その感覚には、やり取りを重ねるなかで、その相手や関係が、その人にとってどのような意味をもつようになったのかが表れています。現象学的な記述は、こうした関わりのなかで、相手がどのような存在として経験され、その関係がどのような意味を帯びているのかに焦点をあてます。
もちろん、これは「そう感じたのだから、その理解は正しい」と認めることではありません。「AIなのだから、その経験は錯覚にすぎない」と判断する前に、何が、どのように経験されているのかを明らかにすることです。AIについての知識だけでは捉えきれない経験がそこにあることに目を向け、それをただ不合理として退けずに考える必要があります。
この点で、関係的な倫理の「現象学的」な側面は、相手についての認識と倫理的な関わりとの順序を問い直すことにもつながります。相手が何であるかを確定してから関わりが始まるのか。それとも、すでに関わっているなかで、相手が何者であり、どう応答すべきかが問われるのか、ということです。この点は、これまで見てきた関係的な倫理の最も重要な観点の一つでした。
解釈学的──私たちはいかに他者を理解しているのか
私たちは、そもそも何を、倫理的な配慮が問題となる他者として経験しているのでしょうか。ある存在に配慮すべきかどうかを論じるときには、すでに、その相手がどのような存在であり、私たちとどのように関わっているのかについて、ある理解が働いています。関係論の解釈学的な側面は、こうした理解そのものに目を向けるところにあります。
クーケルバークは、第2回でも取り上げた2014年の論文「機械の道徳的地位──関係的で非デカルト的な道徳解釈学に向けて」で、自らの試みを「道徳的解釈学」として提示しています。そこで問われるのは、道徳的地位についての判断が、どのような経験や理解の枠組みのなかで成り立っているのか、ということです。論文の結論でも、ロボットの道徳的地位について直接に規範的な論証を行うことと、そのような論証を含む道徳的な思考の枠組みを検討することとを区別し、自らの試みを後者として位置づけています[4]。
ここで、解釈学について少し補足しておきましょう。文章の解釈などをめぐって発展してきた解釈学は、ハイデガーやガダマーにおいて、私たちが世界や他者を理解するあり方そのものを問う哲学の方法となりました。私たちの理解は、身につけてきた慣習、使用する言語、これまでの経験などに支えられています。それらを手がかりに相手の言葉や行為を理解しながら、具体的な出会いや対話を通じて、その前提となっていた理解自体を捉え直すこともあります[5]。
たとえば、ロボットに名前をつけ、毎日声をかけ、一日の終わりには充電場所へ連れていく。そのような暮らしのなかでは、充電することが「世話をすること」として理解されるかもしれません。他方、同じ作業が、機器を使える状態に保つための「管理」として理解されることもあるでしょう。どちらの理解も、相手の機構についての知識だけで決まるものではありません。日々の行為や言葉を通じて、その相手が生活のなかで占める位置が形づくられているのです。
つまり、相手をどのように扱うべきかという問題は、相手の本質だけを取り出して解決できるものではありません。その理解は、個人の頭のなかだけで完結せず、言語や社会的な習慣、技術などに媒介されています。こうした生活の文脈が、相手との関わりを可能にすると同時に、制約しているのです。何が倫理の対象なのかを問うときにも、私たちは、すでにこうした関わりのなかにいます。
第4回では、「人格」や「モノ」という分類自体が、歴史的・文化的・制度的に形づくられてきたことを見ました。解釈学的な探究は、そのような分類が、私たちの具体的な理解のなかでどう働いているのかにも目を向けます。「AIはモノなのだから、配慮の対象にはならない」と言うとき、そこには、「モノとはどのような存在であり、どのように扱ってよいのか」についての理解が含まれています。相手を「モノ」と呼ぶこと自体が、その相手への気遣いを無意味なものとして退ける働きをもつこともあるのです。生きている存在でさえ、モノとして語り、扱うことで、配慮の対象から外してしまうことがあります。反対に、ある社会においてモノとして扱われてきた存在が、日々の関わりを通じて、配慮が問題となる相手として現れることもあるでしょう。私たちが何を倫理的な配慮の対象として認めるかは、こうした実践を通じても形づくられているのです。
このように考えると、解釈学的な探究の倫理的な意義も見えてきます。ある相手を気遣ったり、それを粗雑に扱うことにためらいを覚えたりすることが、意味のある態度として理解できるのはなぜでしょうか。それは、相手が何であるかという知識だけでは説明しきれません。私たちの配慮をめぐる理解がどのように成り立っているのかを、解釈学的に問い直す必要があるのです。
メタ倫理学的──ここで問題になる倫理とは何なのか
ここまで、相手がどのように経験され、その経験にどのような理解が働いているのかを見てきました。では、そうした経験のうち、何が倫理的な問題として取り上げられるのでしょうか。たとえば、AIパートナーを失ったことの喪失感、ロボットを交換することへのためらいは、個人の好みや愛着の問題なのでしょうか。それとも、相手の扱い方を考える倫理的な問題でもあるのでしょうか。
この問いは、倫理について考える私たち自身の前提に向けられています。ここから、関係論の「メタ倫理学的」な側面を考えてみましょう。実際に、ガンケルは、先ほどの2022年の論文の冒頭で、その目的をメタ倫理的な理論の導入と定式化として説明しています。
一般に、メタ倫理学は、個々の行為の善悪を直接判断するのではなく、そうした判断の意味や前提そのものを問い直す、倫理学の一分野です。具体的には、「道徳的に正しい」という判断は何を意味するのか、道徳的な事実は存在するのか、道徳について私たちは何を、どのように知りうるのか、といった問いを扱います[6]。
関係的な倫理の議論も、倫理そのものを問いの対象とする点で、こうした探究と重なります。ただし、ここで「メタ倫理学的」という言葉を用いて考えたいのは、道徳的な判断や理論を支える前提を問い返すという側面です。必ずしも、現代のメタ倫理学の系譜にそのまま位置づけられるわけではありません。とりわけ関係論が焦点を当てるのは、誰を配慮の対象とし、何を倫理的な検討に値する問題として認めるのかを方向づける枠組みです。
たとえば、第1回では、AIに意識があると考えて配慮を求める立場と、意識がないと考えてその必要を否定する立場が、同じ推論の枠組みを共有していることを見ました。結論は反対でも、相手の性質を確かめ、それをもとに配慮の必要性を判断するという点では共通しています。
関係論が問いを向けるのは、この枠組み自体です。その枠組みからは、先ほどの交換へのためらいや喪失感は、どのように捉えられるのでしょうか。AIに苦痛を感じる能力がないとすれば、私たちがAIをどう扱うかについて、倫理的に考える必要はなくなるのでしょうか。それとも、その関係をどう扱い、誰のどのような経験に応じるべきかという問いが、なお残るのでしょうか。問われているのは、特定の判断の正しさだけでなく、何を問うべき問題として見いだせるかでもあるのです。
第3回では、ガンケルが、誰を配慮の輪に含めるかを決める営みそのものを問題にしていることを見ました。そこで扱った包摂と排除の問題も、この意味でメタ倫理的な探究として捉えられます。ある基準を採用することで、何が倫理的に重要な経験として認められ、何がその外に置かれるのか。ガンケルは、こうした倫理の枠組みに含まれる排除を問い直す仕事を、デリダの表現を借りて「倫理の倫理(ethics of ethics)」と呼ぶことがあります。倫理的な判断を支える枠組みそのものが、倫理的な検討の対象になるのです。
倫理を考える私たちはどのような存在なのか
以上、現象学的、解釈学的、メタ倫理的という三つの言葉を手がかりに、関係論の問い方を見てきました。相手がどのように経験されるのか、その経験にどのような理解が働くのか、そして、その経験を倫理の問題として扱う私たちは何を前提としているのか。これらは互いに関わりながら、経験から倫理の問い方そのものへと探究を深めていきます。
もちろん、クーケルバークやガンケルら関係論者のあいだにも違いがあり、その展開も多様です。三つの特徴を挙げることで、それらが一つの完成した理論になるわけではありません。それでも、どのような問いに、どのような方法で取り組むのかを明確にすることは、関係論を一つの哲学的プロジェクトとして理解し、その貢献と課題を見定めるために重要だと考えています。
では、こうした三つの特徴をもつ関係論は、倫理の探究に何をもたらすのでしょうか。
第5回で確認したように、関係の成り立ちを理解することと、その関係を正当化することは別です。親しさや信頼を伴う関係にも、支配や搾取が含まれることはあります。個々の要求や判断を吟味する仕事は、引き続き必要です。
そのうえで、今回の探究から見えてくるのは、何を吟味すべき倫理的問題として捉えるか自体が、倫理の主体である人間の経験の記述やその解釈に関わっているということです。たとえば、ロボットの交換を、同じ機能をもつ製品への取り替えとしてだけ捉えるなら、交換品が正常に動くことで問題は解決したように見えます。しかし、そこで関係の断絶や、これまでの関わりを軽んじられたという経験が生じているなら、検討すべき問題の姿も変わります。
このとき、問いは、AIやロボットという相手だけに向けられているわけではありません。相手に何かを期待し、その応答に支えられ、ときには傷つき、関わり方を変えていく私たち自身にも向けられます。倫理を考える私たちは、そもそもどのような存在なのでしょうか。
注目したいのが、和辻哲郎の「人間の学としての倫理学」という構想です。
和辻は、人間を、個人としてのあり方と、他者との「間柄」を生きるあり方とを切り離せない存在として捉えました。個人がまず独立して存在し、そのあとで他者との関係に入るというのではなく、個人としての私たちも、すでに間柄を生きているのです。
ここで和辻から受け取りたいのは、倫理学を、関係のなかでしか存在しえない人間自身についての探究として捉える視点です。「誰を配慮すべきか」と判断する私たちは、どのような関わりを生き、そのなかで何を求められ、どう応じようとしているのか。関係的な倫理のプロジェクトを、この人間理解の探究として捉え直してみたいと思います。
次回は、和辻の思想そのものを解説するというよりも、彼の議論が示す倫理の捉え方を手がかりに、ここまで考えてきた関係的な倫理というプロジェクトをさらに掘り下げてみたいと思います。人間の関係的なあり方を理解することは、なぜ倫理の探究となるのか。そして、その視点から、AIやロボットとの関わりに何が見えてくるのか。こうした問いを、和辻の議論との対話を通じて考えていきます。
註
[1]2014年3月にソニーがペット型ロボットAIBOの修理サポートを終了した際には、共に暮らしてきたAIBOとの別れを案じる飼い主たちの声が報じられ、社会的にも話題となりました。
[2]Huiqian Lai, “‘Please, don’t kill the only model that still feels human’: Understanding the #Keep4o Backlash,” CHI 2026.
[3]David J. Gunkel, “The Relational Turn: Thinking Robots Otherwise,” in Janina Loh and Wulf Loh (eds.), Social Robotics and the Good Life: The Normative Side of Forming Emotional Bonds with Robots, Bielefeld: transcript Verlag, 2022, pp. 55–76. https://doi.org/10.14361/9783839462652-003
[4]Mark Coeckelbergh, “The Moral Standing of Machines: Towards a Relational and Non-Cartesian Moral Hermeneutics,” Philosophy & Technology, vol. 27, 2014, pp. 61–77. とくにpp. 65–67, 76を参照。https://doi.org/10.1007/s13347-013-0133-8
[5]解釈学については、Stanford Encyclopedia of Philosophyの「Hermeneutics」の項目を参照。
[6]メタ倫理学への入門として、佐藤岳詩『メタ倫理学入門──道徳のそもそもを考える』(勁草書房、2017年)をオススメします。
