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2026.09.03

第27回 フーガの技法——清原惟『A Window of Memories』

映画月報 デクパージュとモンタージュの行方 / 須藤健太郎

映画批評家・須藤健太郎さんによる月一回の映画時評(毎月初頭に更新)。映画という媒体の特性であるとされながら、ときに他の芸術との交点にもなってきた「編集」の問題に着目し、その現在地を探ります。キーワードになるのは、デクパージュ(切り分けること)とモンタージュ(組み立てること)の2つです。
今回は、清原惟監督『A Window of Memories』。清原監督作品におけるタイトルに選ばれた語彙の単数・複数の相補的な関係は、いかなる選択によってなされ得たものなのか。『わたしたちの家』、『すべての夜を思いだす』といった過去作での試みを掘り起こし、最新作においてその先で成し遂げられたことを探ります。

「A Window of Memories」……。なぜタイトルが英語なのだろう。外国語が使われているのですぐには意味を結ばず、どこか捉えどころのない印象を抱く。なぜ英語にする必要があったのか。映画を見る前にそんなことを考え、見た後にもまた考えた。
 意味を把握しようと「記憶の窓」と日本語に訳してみて、こう訳してしまっては抜け落ちるものがあるとふと気づく。日本語だと単数と複数を基本的に区別しないが、この点を曖昧にするとタイトルの用をなさなくなるということなのだ。窓が単数であり、記憶が複数であること、それをはっきりと示す必要があった。監督が母方の祖母と父方の祖母の二人に半生を聞くことから出発するこの作品において、まず問題となるのは一つの記憶ではなく、二つの記憶である。そして、映画が進むうち、この二つの記憶が呼応しながら他にもいくつもの記憶を喚起し、無数の記憶が互いに反響し合っていく。
 窓が単数なのは、こうした複数の記憶が一つの窓を形成するという意味かもしれないし、もしくは一つの窓の向こうに複数の記憶が見えることの謂いかもしれない。一つの窓とは一つのスクリーンを思わせ、つまりは一つの作品——あるいは「一つのバガテル」——のことであり、要は映画の別名である。思い返せば、『わたしたちの家』(2017)にせよ、『すべての夜を思いだす』(2022)にせよ、清原惟はいつも単数と複数を組み合わせるという似たような趣向で題名をつけていた。さらに興味深いのは、このたびの新作が『A Window of Memories』のかわりに『わたしたちの家』とか『すべての夜を思いだす』と名付けられていてもなんら違和感がないこと。いずれもそれぞれの作品の要点を抽出しながら、映画そのものを再定義する言葉が選ばれているからだ。

©Yui Kiyohara

 複数のものが合わさって一つになる。一つのものの中に複数のものが同居している。初長篇『わたしたちの家』ではモンタージュを通して、長篇二作目『すべての夜を思いだす』ではデクパージュを通して、清原惟は自らのフィルモグラフィを貫くこうした問題意識に取り組んでいた。
『わたしたちの家』では、一つの古民家を舞台に、時空の異なる二つの物語が並行して語られ、しだいに交錯しはじめる。父親が失踪し、母親と二人で新居に暮らすことになった少女セリの話と、記憶を失ったところ、偶然声を掛けてくれた透子の家で世話になるサナの話。はじめこそ、どちらかが現在でどちらかが過去か未来というような、同じ空間の別の時間が扱われているかと思われるのだが、見ていくうちに二つの物語はどうやら同じ時間軸に属してはいないことがわかってくる。
 並行世界やマルチバースに準ずる設定をとる『わたしたちの家』は、二つの世界を一つの同じ家で展開させるにあたり、並行モンタージュを頼りとしている。並行モンタージュとは、従来、同じ時間に別の空間で展開しているアクションを交互に示すことで、その同時性を現出させる技法である。清原惟は空間と時間の関係を逆転させるという並行モンタージュの応用を駆使し、同じ空間に別の時間——しかも別の時間軸に属する別の時間——で展開するアクションに関係をもたらす。
『すべての夜を思いだす』には、前作『わたしたちの家』のようなSFを思わせる非現実的な設定は見られない。舞台は現在の多摩ニュータウン。朝から夜までの一日の時間。同じ空間と同じ時間の中で、境遇や世代の異なる3人の人物の一日が辿られる。失業し、昔の友人を訪ねる知珠、団地内を巡るガス検針員の早苗、1年前に親しい友人を亡くした大学生の夏。しかし、作中でふと並行世界の可能性が言及されるように——猫を飼うことのできなかった早苗の子供時代の話を聞きながら、その猫を飼った早苗さんの世界もあるのではないかと男はいう——、複数の時空の交わりはここにも健在である。引っ越し先の住所に友人はいない。空き家のガスメーターが回っている。写真屋に預けておいた写真はとっくに保管期限が切れている。大学には行かずに公園でひとりダンスに興じる。時空は一定しているはずがところどころに穴が穿たれ、物も人もみながどこかで迷子になっている。
『すべての夜を思いだす』を見ていて特徴的なのはカットの割り方(デクパージュ)である。アクションつなぎにせよ、同軸つなぎにせよ、いずれも本来は空間と時間の連続性を仮構するための技法である。だが、清原惟は多くの場合カメラ・アングルの変更に場面転換の機能を担わせることで、デクパージュの役割を一つの場面の構成にではなく、いわば別の時空の導入に当ててみせた。
 たとえば序盤で、子供が木に引っかけたボールを取ろうと知珠が頑張る場面。彼女が木に登ろうとするタイミングでカメラが別アングルに切り替えられ、子供たちが立ち去ると今度は同軸で引きのショットへとさらに切り替えられる。ショットが変わるたびにちょっとしたずれがあり、あたかも別の時空に移行したかのような印象がもたらされる。実際、最後のロングショットには早苗がフレームインし、ここから早苗のエピソードが始められる。あるいは中盤で、知珠が道に迷い、前方に現れた滝口悠生に尋ねる場面。道を教えてもらった彼女が歩き出し、滝口もまた彼女を後ろにして歩を進めると、カメラが逆側に切り返されて振り向く滝口を捉えたショットが挿入される。ショット間にはっきりとした断層を走らせたうえで、友人宅への到着という次のシークエンスが始められている。

©Yui Kiyohara

©Yui Kiyohara

 無数の記憶を反響させる『A Window of Memories』は、こうした前作までの試みがあって初めて可能になったものだろう。なにしろ、異なる場所と異なる日の断片を繋ぎ合わせて朝が始まり日が暮れるまでの一日を仮構しながら、二項間を行き来する並行モンタージュが多重化させられているのだから。母方と父方、祖母と孫、著者と朗読者、住宅とスタジオ、動画と静止画、文字と声、過去と現在、光と影、歩行と電車……。ここに出てくるものはかならず何かと対をなすのだが、対をなして一組のまとまりが形成されると、今度はそのまとまりと別のまとまりとが呼応しはじめる。そして、それぞれの要素がしだいに影響し合いながらも独立した存在感を示していく。はじめは単独で映されていた二人の朗読者が次には一つのフレームに収まり、かと思うと、最後はそれぞれ移動して別々の空間へと別れていくように。
 読まれる原稿は、幼少時代、戦中のこと、結婚話と順を追って進んでいき——朗読者が手にする紙片にはたしか番号が振ってあったはずだ——、土地柄こそ違えど同じ時代を生きた二人の人生はおおむね時系列に沿って語られる。はじめは恐る恐る原稿を読んでいたように見える二人の朗読者の声は徐々に厚みを増し、しまいには目が紙片から離れ、自立した言葉が口にされる。
 時空のねじれが大胆に導入されるのは、最初と最後に登場する黄色いワンピースのエピソードを通してだ。浜松に住む母方の祖母の話。子供の頃、初めておさがりではなく、自分のために作られた服を着た時の喜び。母親が頼んで近所の人に作ってもらったらしい。それを着て田んぼのあぜ道を歩いていると、こちらの方を遠くからずっと見ている人がいる。たぶん自分の作った洋服が着られているのを嬉しく見ていたのだろう。最後に朗読者の声を通して語られるこの話はまさに映画の冒頭で言及されていた。「この最後んとこ、上手くできてるじゃん」。だが、祖母はこの逸話に言及するや、洋服を作るのが好きだった自分のことを語り始めていた。
 掛川と菊川の間あたりの茶農家に生まれ、高校時代に洋裁に関心を持ち専門学校に通うが、見合いで浜松の町工場に文字通り嫁いだ。結婚後は夫と舅姑の世話を任されるばかりか、頼りない夫の町工場を切り盛りし、家事に仕事に明け暮れた。そんな忙しい日々の中でも洋服作りはずっと好きだった。幼少時の記憶はそうしたその後の人生と重ね合わされる。黄色いワンピースを着た自分を優しく見つめていたあの人は、あたかも未来からやって来た自分だったのだ。

©Yui Kiyohara

『A Window of Memories』
2023年|日本
監督:清原惟|編集:清原惟

企画:愛知芸術文化センター
製作:愛知県美術館
配給・宣伝:amieee

https://awindowofmemories.com/

©Yui Kiyohara

バナーイラスト:大本有希子