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2020.02.21

2019年はアニメーションにとってどんな年だったか? 

/ 土居伸彰, 藤津亮太

2019年は日本においても海外においても、アニメーションが大きな変動をみせた年でした。現代アニメーションについていま最も信頼のおける語り部である土居伸彰さんと藤津亮太さんのお二人に、2019年のアニメーションを総括していただくとともに、2020年以降の展望について語っていただきました。
(この記事は2019年12月13日に出町座にて開催されたイベント内容を再構成したものです)

土居伸彰(以下、土居):みなさんこんにちは、土居伸彰です。わたしは長らく海外のインディペンデントのアニメーションを紹介するという活動をしてきました。ニューディアーという会社を設立し作品の配給をやったり、新千歳空港国際アニメーション映画祭のフェスティバル・ディレクターをやったりもしています。以前は海外のアニメーションが中心だったのですが、いまは国内外問わずいろいろなアニメーションを紹介しています。

藤津亮太(以下、藤津):藤津亮太です。僕は日本のいわゆる“商業”アニメ、とりわけ映画、テレビ、配信などメジャー流通経路のものを中心に扱う評論やライターをしています。作品論だけではなく、制作スタッフの取材も多くやっています。毎月アニメの時評も書いていて、このたび2012年頃から書いていた時評を集めた『ぼくらがアニメを見る理 2010年代アニメ時評』(フィルムアート社)が刊行されました。できるだけ国内で公開されている作品を追いかけようとは思っているのですが、2019年は注目すべき海外のアニメーションが数多く公開されましたので、それらもチェックしておかなければならない状況でした。そして、日本の作品を追いかけているだけでは、日本の作品が語れない時代が来ているなという想いを年々強くしています。

土居:藤津さんは、以前から海外アニメについても定期的にいろいろと書かれていますよね。

藤津:グっときた作品については書いておきたいなという思いがあるんです。ただ僕の場合、そのアニメの文脈や背景を把握しているわけではないので、作品単体を取り出して、いまの日本の人がどう見たらよいのかというアプローチにならざるを得ないんですけどね。

2019年は、過去にないくらい海外アニメが公開された年になったと思います。土居さんにとってどういう年でしたか。

土居:まずは、こんなにも多くの海外作品が配給されるような時代がくるなんて、という驚きが強かったです。

2010年代というのは、長編アニメーションというフォーマットが劇的に進化した年代として記憶されるのではないかと思っています。例えば世界最大のアニメ映画祭であるアヌシー国際アニメーション映画祭でも、長編作品のコンペは2000年代の場合はノミネート作品が4〜5本しかないこともあった。そのなかで1本面白いのがあればラッキー、という感じだったのですが、2019年には長編部門に新たな枠組み(実験的なアプローチの長編が対象となるコントラシャン部門)もできて、約20本がノミネートされていますし、平均レベルもかなり上がっている。一年で複数の傑作が出てくるのが当たり前になってきている。

日本の観客も、2010年代の前半は、海外のアニメーションに対するある種の偏見というか、普段見慣れたものとは毛色の違うアニメーションに対する警戒感のようなものがあったのではないかと思います。それがいまはなくなったように見えます。多彩な絵柄・テーマの長編アニメーションを観る観客が増えた。その10年間の成果のようなものがあるのかなと思います。『この世界の片隅に』の片渕須直監督など海外のアニメーションをプッシュしてくれる人が登場したことや、SNSの存在も大きいかもしれません。

藤津:2019年は国内の映画(OVAのイベント上映含む)だけでも100本近くのアニメが公開されました。そういう状況に加えて海外作品も出てきたので、本当に観るのが追い付かない年だったなという印象です。

2019年は、『君の名は。』のようなヒット作品をどのようにつくっていくかという群雄割拠の年だったんじゃないかと思っています。そして、それぞれの作品のクオリティは高いけど、お互いにぶつかりあって、なかなか頭一つ抜けた作品が出なかった。あえていうなら新海監督が横綱相撲を取ったという感じでしょうか。作品はいずれも面白いけど、興行的には期待通りにはいかなかったのかなと思います。

これからも『ぼくらの七日間戦争』や『新幹線変形ロボ シンカリオン未来からきた神速のALFA-X』の公開が控えています。『ぼくらの七日間戦争』は、明らかにポスト『君の名は。』としてプロデューサーが発注していると思います。例えば、原作の主人公は小学生ですが、それを高校生にしていますし、季節は夏で、舞台はできれば地方で、とか。

『君の名は。』にひっかかった人が来てくれたら、いわゆる「一般の人」が観るアニメ映画の正体が見えたはずなのに、今年もそこは見えなかった。80年代から日本のアニメ映画が解こうとして解けない「一般の人」が観るアニメ映画、という問題への回答が2019年も得られなかった。作品は豊作だったけど業界をリードするような「次の戦い方」は見えていないという状況ですね。

土居:そんな状況の中、「何が素晴らしかったのか」ということをきちんと言語化して伝えていくということがわれわれの仕事だと思います。そういう意味では、2019年は、未来につながっていく映画がものすごく多い年だったといえると思います。

藤津:埋もれてしまわないように面白かった作品をきちんと伝えていくということ、数字的には厳しかったけど、ここに可能性があるんじゃないの、という話をするのが大事なのかなと思います。

まずはNETFLIXで配信されている『失くした体』をとっかかりにして、土居さんと個別の作品について語っていきたいと思っています。

土居:今年のインディペンデント・シーンの中で圧倒的な話題をさらった作品です。監督のジェレミー・クラパンは短篇で定評のある作家で、2Dと3Dの両方で素晴らしい成果を残してきました。満を持して完成した初の長編『失くした体』は、2019年のカンヌ国際映画祭の国際批評家週間でプレミア上映され、アニメーションとしてはじめてグランプリを受賞しました。翌月のアヌシー国際アニメーション映画祭では長編部門でグランプリと観客賞をダブル受賞してもいます。アニメーション界を席巻したのはもちろん、実写映画の領域でも評価されたというのが注目すべきポイントです。

『失くした体』は、今までのヨーロッパのアニメーションの枠におさまらない、新しい大人向け作品であるといえると思います。レバノン内戦に行ったイスラエル人の若い兵士の物語である『戦場でワルツを』や、イランからフランスへ留学した少女を描いた自伝的な作品『ペルセポリス』のヒットをきっかけに、ヨーロッパでは戦争や社会情勢に翻弄される現実の人間のあり方を描くのにアニメが重宝されてきたのがこれまででしたが、『失くした体』は、テーマとしては極めてヤングアダルト的です。主人公の子供が移民だったり、移民と白人の恋物語という社会的なテーマもあるのですが、それが前面には出ていない。基本的にはティーンエイジャーの成長物語のフィクションが、革新的なアニメーション言語の演出で語られた。こういう作品は、ヨーロッパであろうといままでになかったなという印象です。

藤津:僕は、海外のアニメーション作品にはものすごく社会性がある一方で、日本のアニメーションが得意としてきたヤングアダルト的な心情、つまり10代の若者がもつ、内向きに働く心の力と外に出ていきたいという想いの葛藤を描いた作品が少ないな、という印象を持っていました。でもこの作品は、恋愛感情に近いモヤモヤした感情によって物語が駆動されている。しかも最終的には自己の解放のようなところまでいくので、ある意味『エヴァンゲリオン』っぽいなと。こういう作品が出てくると、「日本のアニメは思春期を描くのが得意」とばかりはいってられないなと思いました。ヤングアダルト的な心情を描いた作品が多いというのは日本のアニメの特徴ではあるんですが、それすらも海外で、しかもエッジ深く切り込んでくる作品が出てきたというのは驚きでした。

2019年は、われわれ日本人がなんとなく思っているアニメというものが問い直された年だったなと思います。豊かだと思っている日本のアニメも世界の中ではワンオブゼムだということですね。その大きな中で日本のアニメのことも考えないといけないフェーズにきたなと思います。

土居:それで言うと中国の『羅小黒戦記』なんて、本当に「ヤバい」としかいいようがない。業界関係者も痛感しているのではないかと思います。

藤津:『羅小黒戦記』のインパクトは完全に“黒船”だと思います。

土居:『失くした体』に関連していうと、CGやデジタルツールをつかった表現がものすごく成熟したなという印象を持ちました。これまでは2Dの中に3Dが入ってくると、なんともいえない違和感があったのですが、いまは3DやCGを駆使することで、2D作品をハイブリッド的によみがえらせる表現が増えてきました。3DCGを使う文法がすごく卓越してきたなと思います。2010年代の世界のアニメーションの状況での大きな変化のひとつです。

藤津:3DCGというと、ピクサーライクなビジュアルを思い浮かべる人も多いと思うんです。つまり、カートゥーンの歴史にのっとったデフォルメされたキャラクターデザインにリアリスティックなレンダリングで質感を与えるというスタイル。僕は、このスタイルは今後無くなりはしないまでも、もう少しローカルな技術になっていくのではないかという予感がしています。むしろ、3Dと2Dをいかに上手く使って、いい画をつくっていくのかというフェーズに入ってきてるのかなと思います。いちばん分かりやすいのが、『スパイダーマン: スパイダーバース』だし、国内だと『プロメア』だと思います。

 

 

手描きでできること、3DCGでできること

藤津:従来の、手書きのアニメーションに3DCGを大量に入れてきた作品だと『海獣の子供』があると思います。雑誌『キネマ旬報』で対談した際には、土居さんは『海獣の子供』がピンとこなかったとおっしゃってましたね。

土居:ここ数年の世界的な大きな流れを考えると異質な作品だったからです。これまでのアニメは、「オーガニックな運動を手描きで見せていくというのがいいでしょ」という価値観があったと思います。「生命の創造」としてのアニメーションです。長年、個人作家やインディペンデント作品は「手描き」「手作り」であることに過度な価値をもたせる傾向にありました。でも、2019年にはっきりとしてきたのは、個人作家による作品であっても、しっかりと動きを作っていく従来型のアニメーション制作が必ずしも重視されなくなったということだと思います。

以前アヌシー映画祭のレポートでも書きましたが、『KIDS』という短篇アニメでは、まずたくさんの手描きの素材をつくるんです。それをゲームエンジンに入れて、プログラムで動かしていくことによって映画をつくっていくという方法をとっています。

また、ラトビアの20代の青年が3年かけて完全に一人でつくった『Away』という3DCG長編アニメーションがあります。アヌシーでは『海獣の子供』をおさえてコントラシャン部門のグランプリを獲得した作品です。この作品では、最初に作品の舞台となる島のモデリングをしてしまって、プログラミングでキャラクターを走らせて、それをカメラで撮影してくという方法で作られました。

一昔前は「アニメートする」ということに作り手・描き手のユニークなリズムが刻まれるのであり、それが重要だとされていたのですが、これらの作品にはまったくそういう価値観はないわけです。デジタルツールや3DCGネイティブの世代の作家が出てくることで、有機的ではない無機質な動きがある種のリアリティをまとうことがある、という時代に入ってきなという感じです。

そういう時代にありながら、「アニメーションの迫力で押し切る」というような、ある意味ではレトロなやり方で作られた『海獣の子供』が出てきたので、そこに戸惑いを感じたところはありました。

藤津:確かに『海獣の子供』はものすごくオールドスクールといえますよね。あの作品では3Dがいかに手書きに近づけるかということを目指しています。

土居:そうです。なので、最初に観たときは完全に時代に逆行しているなと思ったんですよ。

藤津:『海獣の子供』ってオールドスクールなんですけど、そもそも考えられないくらいの手書き力の技術の高さがあって、それによって世界を書き尽くす、CGはそこに貢献する、というスタイルです。逆にいうと手書きの側から考えていった究極の形だと思います。

いま3DCGの話になったので、オマケ的にお話しますと、こちらは映画ではないのですが『キャロル&チューズデイ』という作品は、美術設定が全部、SketchUpを使った3Dでできているんですよ。なので、コンテのときはその美術設定からそのままレイアウトをとっていたんだそうです。総監督の渡辺信一郎さんに聞くと、空間にキャラを配置して動線を決めたあとに「カメラはここから撮影して」というふうにSketchUpで描かれたモデルの角度とレンズを変えてレイアウトを出力する。そこにアニメーターがキャラクターだけ乗せるという感じで、要するに演出家が実写みたいにアングルを決められるんですよね。

これはもともと2004年に『イノセンス』で押井守さんがやりたかったことなんですけど、15年経ってようやくテレビの現場で実現できるようになりました。出てくるアニメは2Dなんですけど、コンテを割る感覚が実写に近くなっているんですよ。これまでのように演出家の頭の中で空間をなんとなく描いていくということではなく、実際に画面上にその角度を確認して、レイアウトを決めていくという。今後このやり方は増えくるのではないかと思います。

土居:『失くした体』のジェレミー・クラパン監督もまさに同じことをいっています。事前に3DCGの空間を作ってしまうことで、実写映画の言語を使えるようになった。そのうえでアニメにしかできないようなプラスアルファを入れていく。これから公開予定の『音楽』(2020年、岩井澤健治監督)が使っているロトスコープもそうなんですが、今後は、実写映画の言語をアニメーションと融合させるという意味でのハイブリッドなアニメーション作品が増えていくのではないかと思います。

 

人間の認知を超える表現

土居:2010年代はCGのシミュレーションの力がすごく卓越した時代で、ピクサーの短編『ひな鳥の冒険』なんかは、劇場で初めて観たとき、子供が観たらこれが本当の自然だと思ってしまうんじゃないかと思ってしまったことを思い出します。

人間が認知できる以上のゴージャスな情報量を与えられるので、人間にとって自然を認識しているのと変わらないんじゃないかなと思ってしまったり。人間の脳が処理できる以上のリアルが提供される時代ですね。

そのことはハリウッドだけに関係する話ではなく、アニメーション全体の状況とも関わってきている。『美術手帖』2020年2月号の「特集アニメーションの創造力」の中で片渕須直監督にインタビューをしています。片渕監督はアニメーションにおける心理学というものをものすごく研究なさっている方で、『この世界の片隅に』でも、どうやったら観客にすずさんや当時の広島の人たちの存在を「本当にいる人」として認知してもらえるかというのをものすごく考えていたという話をされました。

藤津:動き始めと動き終わりの枚数を多くツメて、その間はほどほどの中割枚数にすると、認知として実写っぽくなるのではないかという仮説のもと、片渕監督はあの作品をつくっているんですよね。実際それを徹底してつくられた新作『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』の新作カットはヤバいですよね。

土居:ヤバいですね。あまりに迫真的に存在しすぎて、逆に夢を見ているのかと思ってしまうリアリティなんです。そこで片渕監督がやろうとしたことも、ある意味では、ピクサーがやってしまっているような人間の認知を超えるような表現という点で共通するのかなと思います。

藤津:あれくらいマンガっぽいキャラクターなのに、そこから受ける印象みたいなものが異様に生々しいんですよ。人間の認知を利用した究極の表現だと思います。

土居:インタビューで片渕監督がおっしゃっていたのは、これまで日本のアニメが得意としていたダイナミックな動きというのは、観客にとっては「存在しない動き」として認識されるということ。そうではなく「存在している動き」をやりたかったという話をされていました。何にリアリティを与えるかという方向が違っている。日本のアニメにおける「動き」ということを考える上ではものすごく面白いタイミングかなと思います。

 

中国アニメ『羅小黒戦記』のインパクト

藤津:その流れで、『羅小黒戦記』の話ができればと思います。この作品の第一のインパクトは、まさに日本がこれまでやってきたような歯切れのよいアクションというのを中国のアニメ会社が作ってきたということですよね。さらに驚くのは、アクションだけではなく、キャラクターの見せ方も日本のアニメのセンスとほぼ同じなんです。もしこの作品を覆面試写したら普通に日本のアニメだと思う人はものすごくたくさんいると思います。

日本の深夜アニメの世界で「ギャグ的な表現」を表す記号として、背景を真っ白にするという表現がよくありますが、『羅小黒戦記』でも、それをそのまんまやっている。日本のものをもってきたというよりは、センスが同じということなのかなと思います。

土居:わたしは日々ヨーロッパを中心とした海外のアニメの潮流や状況をリサーチしていますが、近年中国で盛り上がりを見せている新たな商業アニメーションの波はその流れとは完全に独立しているので、興味深い現象として眺めています。アジア全般で、そういう新たな動きが出てきているフェーズではあるのですが。『羅小黒戦記』と同じ会社が配給している『白蛇:縁起』という作品は、ピクサーライクな3DCGアニメで、これもまた面白い。ただ、かなりドメスティックな表現に見えます。それは、中国独自の非常にドメスティックな状況とも関わってくるとも思うのですが。そういう意味では、かつての日本アニメの状況と似ているのかもしれません。

藤津:ここ10年くらいの日本のアニメの大量生産の背景には、北米と中国の配信会社が日本のアニメをたくさん買ってくれていたという事情があります。また20年くらいかけて日本のマンガが世界に浸透していったことで、中国における感性の地ならしができていたんじゃないかと思います。15年くらい前に中国のアニメを取材したときには、教訓モノや昔ばなしを題材にした作品が多いということで、まったく浮上の兆しはありませんでした。

何で中国のアニメが世界的にブレイクしたかというと、配信なんですよね。ネット企業が電子出版からアニメまで一気通貫して自分のグループでやってしまうという状況が生まれた。日本でも70年代に出版社とアニメ会社が手を組んでシナジーを起こすということをやっていましたが、同じ状況が中国で、しかもグループ会社内で起こっています。なので異様に進化のスピードが速い。

土居:中国アニメについてさらに面白いなと思ったことがあって。『かぐや姫の物語』が2010年代の世界のインディペンデント・シーンに与えた影響はかなり大きいんですよ。そもそも高畑監督は、長編アニメの文法を変えようと常に戦ってきた人でしたが、2010年代に世界のアニメーション作家たちが新たな文法で長編アニメーションを作ろうとしたとき、みなほぼ確実に高畑監督作品を参照している。

藤津:宮崎駿監督は自分のスタイルが確立していますもんね。高畑監督の作品には常に実験や冒険がある。

土居:『かぐや姫の物語』のような、余白の多い表現や筆を使った手描くであることが明確にわかるスタイルは、ひとつの「挑戦」として、世界中のインディペンデントな作家たちに多くの共感をもって受け入れられた。でも中国のアニメ関係者とお話しをしたときに「筆の表現とか、そんなの別に珍しいことではない」ということをいわれたんですよね。過去を振り返れば、実際に70年代には上海のスタジオで、水墨画のアニメが作られたりしていた。中国アニメが盛り上がりを迎え、なおかつドメスティックな文脈で発展を遂げたとき、そういった伝統が蘇ってきているとことがある。

『白蛇:縁起』を見ていても3DCGの中に水墨画的な表現がごく当たり前に使われています。中国は美術の歴史がものすごく長い国なので、アニメーションを本格的にやっていくと、そういうリソースがドカンとぶち込まれることになる。結果的に、3DCGではあるものの、中国独自の表現が生まれてくる結果になるわけです。ちなみに、そういった流れ――中国の古典的な美術の手法がアニメーション制作に導入される――は、商業分野だけではなく中国の個人作家の領域でも起こっていることでもあったりするのですが。なので、『羅小黒戦記』が日本のアニメを食い破ったように、3DCGアニメでも中国の新しい食い破りの表現が誕生するかもしれない。

 

3DCGで何ができるか

藤津:2019年に公開された作品の中で、未来につながる作品を挙げるとすれば『HELLO WORLD』と『プロメア』になると思います。『HELLO WORLD』は2Dルックの3DCGをつかったすごく正しい作品で、『プロメア』は2Dと3Dをできるだけ区別しないようにコンセプトアートを最初の段階から決めてしまった作品です。両方ともすごく2019年的だなと思います。

3DCGで商業作品をつくろうとしたときにネックになるのはやはり予算です。特に3DCG要素を構成するキャラクターの数がどれだけいるかというのが予算に直結してきます。なので予算が少ない場合、メインキャラしか作れないという状況になってしまいます。『HELLO WORLD』は冒頭の学校のシーンでクラスメイトがたくさん出てきます。この意図を伊藤(智彦)監督に聞いたら、冒頭のシーンで安い作品だと思われたくなかったので、最初はキャラクターをしっかりと動かしてやろうと思ってやった、とおっしゃってました。そのクラスメイトも実は首から下は同じモデルを流用して顔だけ変えるという工夫をして、予算がなるべくかからないようにしていると聞いています。ハリウッドならともかく日本の映画の場合は多くの予算が確保できないので、その中でいかに勝負するかというのがひとつのポイントになってくると思います。

土居:なので、ナラティブや設定の部分でそこをいかに乗り越えていくということも大事ですよね。

藤津:そうですね。テレビアニメで『宝石の国』という作品がありますが、この作品は設定上「体は全部共通」ということになっていて、プロデューサーがそれを聞いて「よし、これならいける!」と思ったというエピソードがあります。首から上だけ作り替えればいいわけなんで。『シドニアの騎士』も、この世界にはクローンしかいない、という設定で同じモデルを使いまわすことができるという点でうまくいった企画だと思います。

土居:3DCGで何を描くかというテーマ自体も必然的にそちらに引きずられていくことになりますよね。2019年の映画ではないですが、CGでアニメをつくっているヨン・サンホ監督(一般的にはむしろ実写映画の『新感染ファイナル・エクスプレス』の監督として認知されていると思いますが)の作品も、予算がないから動きがすごくカクカクしてしまっているんです。でも、どこまで意識的かわかりませんが、それによって「人間的ではない」キャラクターを多数登場させる。たとえば『ソウル・ステーション/パンデミック』だとゾンビだったり、『われは神なり』であれば新興宗教の「人形」のようにされる人々です。

『宝石の国』における「宝石」や『HELLO WORLD』における「データ」のような、人間に見えるけれども実は非生命、という存在を描くのに3DCG表現というのはとても有効で、その使い方もとても洗練されてきたなという印象です。

藤津:『プロメア』でも、炎は3DCGのポリゴンの最小単位である三角形のビジュアルをあえて残す形でやっていて、でも動きの快楽は手書き的に存在するということを目指している。手書きか3Dかということではなく「これはこういう表現です」というところまで落とし込んでいるところがミソなんです。キャラクターも輪郭線を実線できちんととらないで、グラフィカルに描くということを最初から設定していて、2Dと3Dが混在していても気にならないようになっている。3Dで何ができるかということの限界を見越したうえで、何をやっていくかという、画面の画を設計しているということがポイントだと思います。

土居:2009年の作品ですが、デイヴィッド・オライリーの『Please Say Something』という革命的な短編作品があります。

ポリゴンを前面に押し出して、動きもとてもカクカクしている。でも、ここにリアリティがある。作者のデイヴィッド・オライリーは個人で制作する3DCGの方法論を追求している作家で、本作もいかにリソースを少なくリアリティあるアニメーションを作れるかという問題意識がある。オライリーが言っていたのは、「一貫した法則性をもっていると人はそこに何かのリアルを感じてしまう」ということです。必ずしも「自然主義」的である必要はない。

そういったCGの方法論のその延長にあるのが、例えば『スパイダーマン: スパイダーバース』や『プロメア』なんじゃないかと思います。これらの作品は、パラレルな現実を描いていますよね。オライリーの言うように、パラレルな世界にそれぞれ一貫性があって、それがリアルに感じられるのであれば、複数のスタイルを別々の一貫性に基づいて描くことによってパラレルな世界を描けるということになる。2019年はパラレルなユニバースを描いていく作品も目立ったのですが、3D表現の必然性がテーマにまできっちりと浸透した年といえるかもしれない。

 

アニメーションはドキュメンタリーになりうるか?

土居 もうひとつ、2010年代の特筆すべきものとして、アニメーションが歴史を手触りあるものとして体験させることに長けているということが発見されたという側面があると思います。

藤津:それもパラレルな世界を描くということですよね。

土居:そうですね。過去や歴史との連続性が失われていく状況を背景にしての、パラレルな世界としての過去です。たとえば、『ディリリとパリの時間旅行』という作品があります。

この監督のミッシェル・オスロという人は、高畑勲監督の盟友でもあります。本作でオスロは、舞台となる100年前のパリを描き出すために、パリの街並みに残る100年前からの風景を4年間かけて写真撮影し、それをコラージュして背景を作っている。途方も無い手間をかけつつ過去をいかに身近なものに感じさせるかに挑戦する、ということが、2010年代のアニメのひとつのテーマでもあった。『かぐや姫の物語』の触感的なアニメーションへのこだわりもそうですし、戦前の広島や呉を再現した『この世界の片隅に』もそうですし。ある意味では『この世界の片隅に』のイギリス版といってよい『エセルとアーネスト ふたりの物語』も、20世紀のイギリスを生きた実在の夫婦の人生を描くとき、ロンドンを徹底的にリサーチしている。

アニメーションがいかにドキュメンタリーになりうるか。その探求が2010年代にあったと思います。

『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が興味深かったのは、『この世界の片隅に』がドキュメンタリー的なものだったとすると、今回のバージョンはシミュレーション的なものになっていたということです。先程も話題に出した『Away』は、作品の舞台となる島を最初にモデリングでつくってしまって、そのなかでCGキャラクターを演じさせるという方法論で作られました。さらにいえば、同じ動きのパターンに対して、複数のカメラワークを試していく。それゆえに、運動は同じでありながら、映画としてはバリエーションを何パターンもつくっていける。『HELLO WORLD』における京都が、「アルタラ」と呼ばれるシステムが作り出した過去の京都の再現であることと近い想像力を感じました。ある世界があって、そこでシミュレーション的に様々なキャラクターたちが動き回る。映画はその様子を捉える。キャラクターたちは複数のパターンの担い手となって、副次的なものにすぎなくなる。

藤津:僕がアニメーションドキュメンタリーといわれているものをいくつか見て思ったのは、「これはニュージャーナリズムなんだ」ということですね。つまりアニメーションというフィルターを通して、自分の主観や感覚を描いていく。

でも『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』ではそういうものすらなく、このときここにこういう人がいたらこうなるよね、ということを描く。

土居:わたしは著書『21世紀のアニメーションがわかる本』(フィルムアート社)の中で、「私」の表現が2010年代に消滅し、「私たち」になったという話をしています。そこがまさにニュージャーナリズムとつながる話で、要するに、「私」の時代――アニメーション・ドキュメンタリーの時代――では、主体的にその環境に関わっていくことの記録がアニメーションだった。でも、シミュレーションの時代――「私たち」の時代――には、いまでは完全に俯瞰になっている。中心的な主体というものがない。オープンワールドのゲームの世界では、プレイヤーが何もしなくても、世界は動いていますよね。かつてはプレイヤーが主体的にかかわることで物語は進んでいったわけですが、その中の一部でしかないという状況になっている。そんな想像力がCGアニメーションの進歩に伴って世界のアニメーションに生まれてきた。それは大きな転換かなと思いました。

 

「一般向けアニメ」をめぐる問題

藤津:今年はポスト『君の名は。』の状況で、一般の人向けのアニメをつくるということをみんながやってきたと思うのですが、果たしてそれがきちんと届いたかのという、興行さらにいうと宣伝の問題がありますよね。80年代からアニメはずっとその戦いをやってきていますが、今年もうまくいかなかったなという印象です。

それが不幸にも、いちばんわかりやすいのが『きみと、波にのれたら』ですよね。

湯浅監督という異才の作品です。『夜明け告げるルーのうた』とは違って、本作ではある一定のリアリティの幅の中で作品を描くということをやっていて、跳躍を押さえる形になっている。しかも、声優にGENERATIONS from EXILE TRIBEの片寄涼太を当てたりして、一般受けさせるためのプロデューサー的な仕掛けをいろいろと行っている。片寄さんのお芝居も全然問題ない。でも興行的な数字はそれほど伸びなかった。これは当たり前ですが、声優をやっているからといって片寄涼太のファンがアニメを観に来るということではないわけです。そこが難しいところです。

一般向けアニメというのは常に直前の大ヒット作に翻弄されるんですよ。ジブリがヒットしていた時は、ジブリっぽい作品がつくられ、『君の名は。』がヒットしたので、いまは「青い空」「さわやかな恋愛」のようなものが勝利の方程式なんじゃないのかということで同じようなものがつくられる。作品の中身は全然違うのに、予告編はなぜか『君の名は。』っぽいとか(笑)。そういう作品が何作もある中で、『空の青さを知る人よ』は、ちゃんと独自性のある映画なのに、公開の順番が最後になってしまったので、割を食ってしまった作品なんじゃないかと思います。

プロデューサーが考える「一般とは」という問題がものすごく問われた年だったのではないでしょうか。

土居:新海監督があまりに特異な存在すぎると言えるのかもしれない。どうしたらいいんでしょうね。

藤津:クリエイター至上主義とまでいわないまでも、そんなに一般一般という必要もないんじゃないかと思うんですよね。その人の強みが出る企画をきっちりやりきるほうがいいんじゃないかなと。『プロメア』も最初は、『ヒックとドラゴン』のようなジュブナイルをつくろうとしていたらしいんですが、途中で監督の今石洋之さんが「なんか違う気がする」と。今石さんは、「自分には能力がないので、自分が出せる100%の力を出し切ってようやく人と戦えるんだ」とおっしゃっていて、少し乱暴にまとめてしまうと、一般向けという縛りがある中で、100%の力が出せるのかと自問自答した結果、そうはならないだろうと判断したということでした。

そしてかなりのところまで進んでいた脚本をボツにして、今石洋之・中島かずきコンビが得意としていた形で作品をつくることになったのが『プロメア』で、結果興行的にも大当たりしましたよね。

だから作り手の強みを最大限引き出すというのは大前提なんじゃないかと思います。

土居:売り出し方に迷いがある作品は応援もしてもらえないですよね。せっかく素晴らしい才能が素晴らしい作品を作っているのに、周囲の人間が信頼を寄せきれず、『君の名は。』のフォーマットに乗っかってしまうというのは、歪みを感じてしまいますよね。押井守監督が雑誌の中で「最近は監督の名前で映画を観に行かない」というようなことをおっしゃっていました。でもポテンシャルとして、いい監督というのはすごくたくさんいるので「この監督だから見に行く」という状況を周囲がもっと作り出さないといけないんじゃないでしょうか。先行投資としても有効だと思うのですよね。

藤津:それにその人の能力が100%出ている作品であれば、興行的に苦戦しても、その作品は残っていくはずなんですよ。そのほうが、作品にとっても作り手にとってもよい状況ですよね。『プロメア』のヒットがそのことを証明しているんじゃないかと思います。

土居:新海監督だって、『君の名は。』に至るものすごく長い長い道のりがあるわけですからね。単にポッと出てきたわけではない。育てることが重要なわけです。

最後に『天気の子』の話をしましょうか。

藤津:散々語られつくしている感もありますが、なんだかんだで2019年のど真ん中の作品ではありましたよね。土居さんは『君の名は。』のほうが評価が高いんでしたっけ。

土居:そうですね。『君の名は。』は底抜けに恐ろしい作品だなと思いましたけど、『天気の子』は地に足がついている作品という感じがしました。一方で、新海監督の近作は、いわゆる「一般の人」を引き込むのがすごくうまいなと感じました。2010年代におけるアニメーションの「一般向け」ってこういうことなんだろうなと。誰もが自分を投影できるキャラクターたちを作り出す。『きみと、波にのれたら』の場合は、キャラクターが個人というかその人なんですよね。だから自己投影がしにくい。でもだからこそ、僕はとても評価したいのですが。アニメーションにおいて他者と向き合わせる試みをしている。

『天気の子』が設定としてすごくうまいなと思ったのが、主人公の穂高は田舎から家出してきた少年なのですが、なぜ家出してきたのかは全然わからない。そこらへんはバッサリ切っているわけです。だから観客が勝手に読み込める。その辺のうまさがありますね。抽象度を上げることで複数の視点に耐えうるようにするというのは、アニメーションが21世紀に掘り下げてきた領域ではありますし、それをきちんと商業分野に取り込んでいるのは素晴らしいと思いました。良い作品であるのは間違いないので、ちゃんとヒットしてよかったなと。

藤津:そこは事務所のコミックス・ウェーブ・フィルムが新海監督を信じてきたということが大きいですよね。

『天気の子』のほうが地に足がついている分、新海監督がきちんとお話を完全にコントロールして、しかも今の時代と向き合っている感じがしたので、とても腑に落ちたました。

今生きている人に対するメッセージがよりわかりやすいなとも思いました。絶望したり投げ出すしたりする必要はない、という大人の目線を強く感じました。なので「この次につくるものがどういうものになるのだろう」という「次の一手を早く見たい」という感覚になった作品でした。

土居:『天気の子』はオカルト要素なども超越的な空間も示唆しつつ、最終的にはその巨大なすべてを作品空間のなかに入れ込んでいく。パラレルなようでパラレルではない。かつてのセカイ系の想像力がまだ生きているとも感じます。そういう想像力が浸透しきった世界のなかで、それが親しみやすさにもつながっているのではないか。

あまりにも巨大で複雑すぎる世界の中で、自分の存在をどのように意味づけするのか。アニメーションを通じて世界とつながりあうという方法論も、2010年代には多く見られました。自分と世界をつなぎとめるものとして、抽象性の高いアニメーションが必要とされる。そこに自分自身独自の意味を読み込めるからです。『君の名は。』『天気の子』は、そういった方向性のアニメーションの代表格と言えるでしょうね。

ただ、アニメーションはその次を見据え始めている。わたしが『HELLO WORLD』をよいなと思ったのは、自分と世界・宇宙が直結する場所がありつつも、一方で、そこにはおさまらない場所がある、つまりパラレルな場所があるということを示すものだったからです。『HELLO WORLD』は、有機的な人間だけではなく、データだろうが、フィクションだろうが、死者たちだろうが、すべてに等しく生があることを認める。それらすべての異種の世界たちが平行に走っている感覚があって、そこにすごく感動しました。そのパラレル性をものすごく評価したいですよね。

その観点からすると、『きみと、波にのれたら』がすごいなと思ったのは、物語の終盤に、死者の声が突然巨大に響いてくるところ。ヒロインは全然救われていないし、むしろ死をずっと背負い続けている。

藤津:甦って幽霊のような状態で出てくる、というフェーズがあるんですが、最後の最後に本人が残した声がリアルに響くというところがミソですよね。喪の仕事の仕上げとして。

土居:「私たち」の世界にとってのパラレルな世界としての死をいかに描くか、いかに想像させるかというのは、2019年の大きなテーマだった気がします。『この世界の片隅に』は生の世界を描いていたんだけど、今回の『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』は死にフォーカスが当てられます。そして、「生」の代表格のようなすずが、無数の死者たちを身にまといつつ、死者と共に生きていく、というテーマが明確になっていきます。アニメーションが見えないものの次元を感じさせるようになったのではないかと思います。

『きみと、波にのれたら』の死の世界というのは外から降ってくるものでしかない。『この世界の片隅に』も死の世界は出てくるけど、やっぱり中心となるのはすずたち生者の物語だから、死というものはその世界の向こう側にある見えないものーーぼんやりと感じ取ることしかできないものーーとして描かれることになる。『失くした体』も、過去から解放されて、見えない未来へと跳躍する物語なわけですが、その跳躍する先は主人公にとって見えない場所なわけです。あたかも、パラレルなレイヤーの世界に異次元的な跳躍をするかのようなラストは非常に感動的でした。こんなふうに、画面には見えない部分の何かを感じさせるような表現がたくさんでてきたのがとても良かった。アニメーションとしても、とてもすごく新しいなと思いました。

藤津:余白というか見えない部分ということですね。僕は『空の青さを知る人よ』をユーミンの『卒業写真』みたいな映画だと言ったことがあるんですが、あの歌は高校時代に好きだった人が卒業アルバムの中にいて、今のあの人ではなく、私の心の中にあるあの頃のあなたが、自分に「ちゃんと生きているのか」と問いかけてくるんだということを歌っています。

この作品は現実の世界に13年前という過去から高校生時代の “しんの”がやって来るという内容で、これは死者ともちょっと違うんですよね。過去なんですよね。成長して大人の慎之介というキャラになるんじゃなくて、みんなが思っている青春の純粋性の象徴として“しんの”が存在する。あと『卒業写真』との関連で言うと、お堂の中から出られないという設定というのが、写真ぽいなと思ったし、つくりとして面白いなと思いました。土居さんがおっしゃった死者の話と重ねられるかなと思ったんですが、ちょっと違いますかね。

土居:長井龍雪監督のアニメーションはすごく新しいですよね。『空の青さを知る人よ』って一見、ものすごく普通の「アニメ」をやろうとしている作品に見えるのですが、それにしてはやっていることがものすごく高度過ぎるんじゃないかと思ったりします。時間軸も存在の次元も違うものが当たり前のように共存しているのですよね。描画的なレベルをまったく変えないままに。読み取り方を同じ画面内で複数駆動させないといけない。

藤津:エピソードだけ見ると、ちょっとだけギミックのある青春映画なんですね。作品『さびしんぼう』(1985年、大林宣彦監督)みたいな。あの作品は古い写真の中の若い頃のお母さんが出てきて、主人公と知り合うという話です。『空の青さを知る人よ』では、お姉さんたちの世代の過去が主人公である妹と同じ時間にいる。つまり誰かの過去はわたしの今、みたいになっている。しかもそれが全部終わると、物語が終わった時点から未来のことが写真だけで語られている。つまり未来のことなのに過去のこととして語られているという。時間操作がすごく面白い。

土居:過去と現在と未来が同時に進んでいるような感じですよね。終盤、しんのがあおいを連れて空を飛ぶシーンはすごく唐突すぎるなと思いましたけど。

藤津:飛ぶシーン「いる/いらない」問題は、ありますよね。

土居:ですけど長井監督の作品にみられる、分節化できないモヤモヤしてどうしようもない複雑な感情のようなものの表現なんだなと理解したとすれば、急にぶっ飛ぶこと自体に整合性は感じ取れる。物語ではなく感情を描いていると考えるとすればです。でも、やはり高度。ある意味では早すぎた映画なんじゃないかなと思います。

藤津:でも感情って物語の形じゃないと人と共有できないですよね。だから物語的な段取りというのはどうしても必要になりますよね。

土居:長井監督の新しさは、物語的な部分に加えて、アニメーションがもっている「見えないものを想起させる力」を組み合わせていくところなんじゃないかなと思います。わたしの『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』(フィルムアート社)という本では「原形質性」というフレーズで語っている力なのですが。あるときには楽しい感情、あるときにはつらい感情、寄せては返すというような複雑に絡み合うような感情は、可視化することはできないわけです。感じ取ってもらうしかない。そんな複雑な感情たちがパーンとはじけたのが最後の飛ぶシーンなんじゃないかと理解するとすごく納得がいく。

藤津:あそこで飛ばなかったらどうなっているんだろう。それぞれの心のあり方を主人公がはっきりと知るところであの語りは終わっているので、そこへ思い切っていくためにジャンプしているんですよね。お姉さんはいつも自分のことを思ってくれている、慎之介はお姉さんのことが好きだということで、主人公がフラれてしまうんだということがゴールだとすれば、そこにいくまでの儀式として飛んだんじゃないかと理解することができますよね。あとあそこを画的に強くしないとクライマックス的な高揚が得られないということもあったでしょうし。

土居:『空の青さを知る人よ』『きみと、波にのれたら』が信頼できるなと思うのは、これからも人生は続いていくんだ、ということを強調しているという点ですね。

藤津:描かれていない未来がちゃんとある感じがするということですね。

土居:これからは余白の表現、見えないものをいかに感じ取らせるかということが、アニメーションにとって重要になってくるんじゃないかと思います。

藤津:プロデューサーが企画をどのように考えていくかとという点において2019年は反省材料が多かった年だと思います。自分たちの戦力はどこにあるのか。そして、それを世界の人に届けるにはどうすればよいのか。

『プロメア』をつくったTRIGGERは、アメリカでものすごく人気があるんですよ。TRIGGERというスタジオ自体にものすごくファンが多い。だから、『リトルウィッチアカデミア』のクラウドファンディングも海外からの支援であっという間に達成してしまう。海外のファンのためにつくるわけではないけれど、これを見たら喜んでくれるだろうなという範囲が普通よりちょっと広いんですよね。そういうところも含めて、誰に観てもらうのかというのが問い直されてくるのが、2020年以降の状況だろうと思います。映画は制作に2年以上かかりますから、2022年頃のアニメの状況がどうなっているのか楽しみです。

土居:宮崎駿の新作『君たちはどう生きるか』もそのころではないかといわれていますよね。

藤津:その前に2020年はエヴァンゲリオンがありますからね。どうなるんでしょうね。2019年に撒かれた問いが、今後どのような形で表れてくるのか楽しみにしましょう。

21世紀のアニメーションがわかる本

土居伸彰=著

発売日:2017年09月25日

四六版|232頁|本体:1,800円+税|ISBN 978-4-8459-1644-3


個人的なハーモニー
ノルシュテインと現代アニメーション論

土居伸彰=著

発売日:2016年12月20日

四六判・上製|400頁|本体:2,800円+税|ISBN 978-4-8459-1628-3


ぼくらがアニメを見る理由
2010年代アニメ時評

藤津亮太=著

発売日:2019年08月24日

四六判|404頁|本体 2,400円+税|ISBN 978-4-8459-1836-2