第2回 モントリオールの日本庭園 | かみのたね
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2022.12.30

モントリオールに滞在中の建築史研究者・本橋仁さん。モントリオールは60年代から70年代にかけて、万博、オリンピックとビッグイベントを成功させ、いまなお都市の成長は続いている。その影で古い都市は破壊もされてきた。一方で、そうした近代化への抵抗の歴史もある。そうした都市・モントリオールから、景観や住宅事情、あるいは芸術との関わりなどをめぐりレポートしていただきます。第2回目は桜咲くボタニカルガーデンへ。

 

ボタニカル・ガーデンの日本庭園にて録音
場所:45°33’36.5″N 73°33’39.0″W
収録日:2022年6月23日・7月8日

 


ルネ・レヴェスク通に面する公園にある石碑

この小さな石碑を紹介することから始めよう。この石碑は、ラジオ・カナダというマスコミの高層ビルから、ルネ・レヴェスク通りを挟んだ小さな公園にある(45°31’03.2″N 73°33’13.4″W)。この通りは、人通りの多いダウンタウンの道と並行して、街中から外れたところを走るバイパスのようなもので、少々スピードが速い車が通り抜ける。この石碑には、こう書かれている。

サン・アーバン通りとパピヌ通りとに挟まれたルネ・レヴェスク通りに植えられた100本を超える木々は、仏教協会と日本の企業から寄付されたものである


フランス語と英語で書かれた、石碑の由緒

そして石碑には「浄土真宗本願寺派 第二十四代門主 大谷光真 猊下」と刻まれている。実はこの植樹が、モントリオールのボタニカルガーデンにある日本庭園の誕生のきっかけとなったのだ。本号は、ボタニカルガーデンの日本庭園建設の背景と、また日本庭園を設計した造園家、中島健に焦点をあてていこう。


春のボタニカルガーデン

「散る花もまた来む春は見もやせむ やがて別れし人ぞ恋しき」(菅原孝標女)

日本を離れ、モントリオールに来てもなお、新しい生活のスタートに桜を欲してしまうのは、日本人の性というものか。あァ……桜が見たい。そう思ってググってみるといくつかの桜のスポットをモントリオールの中で見つけることができた。そのひとつがボタニカルガーデンであった。日本よりも春の訪れが遅いモントリオールは4月半ばでもまだ肌寒い。でも桜は数日遅れれば、すぐその時期を逃してしまう。SNSでモントリオールの桜の状況を調べてみると、なんとまさに今、桜が咲き始めたというのだ。

「いざ子ども 山べにゆかむ 桜見に 明日ともいはば 散りもこそせめ」(良寛)

ということで、すぐにおにぎりと卵焼きを拵えて、日本庭園へ向かった。ボタニカルガーデンは、モントリオールの市街地から少し北に行った、かつてのオリンピック会場の横にある。2番目の住まいからもわりと近く、バスを乗り継げばすぐの位置にあった。


植物園のエントランスにもなる正面の建物。ここにはオフィスや図書館、アーカイブズなどが入る。
モントリオールの建築家ルシアン・ケローク(Lucien Keroack)により1938年に竣工したアールデコ建築


中国式庭園。設計はLe Weizhongで、1990年から91年にかけて建設された。
柳が美しく、その景色は西湖の風景を思わせた

ボタニカルガーデンの入り口には、色付きの釉薬タイルが貼られた大きな近代建築(ボタニカルガーデン管理棟、ルシアン・ケローク、1938年)があり、その脇から公園に入っていく。公園内にはいくつかのテーマ性を持たせたエリアがある[1]。例えばイングリッシュガーデンや、あるいはカナダの原生林を再現したものなど。なかでも目を引いたのは中国式庭園だった。以前に中国杭州の西湖を訪れたことがあるのだが、そこで見た湖に張り出す東屋の雰囲気がとてもよく出ていた。ちなみに杭州はお茶の名産地。ああ、ここに茶館があればお茶を飲んで一日を過ごしたい……と思わせるほど、そのデザインは本格的だった。そんな中国式庭園を抜けると、いよいよ日本庭園。そして桜が目の前に現れた。時刻はもうお昼。娘も我慢の限界と見えたので、ここで昼食の時間を迎えることにした。


桜並木とまではいかないまでも、ポツンポツンと植えられる桜が美しい


春の日差しの中で、おにぎりを頬張る


モントリオール万博日本館

そこまで巨木の桜という訳ではないけれど、桜の下に座れば、そこは花見席だ。にしても、さっきの中国式庭園といい、そしてこの日本庭園といい、どこかキッチュに陥らない抑制の効いたデザインなのだ。勝手な日本イメージが投影されたようなものでは決してない。そもそも、なぜ日本庭園がここにあるのだろう。
日本庭園が建設されるまでの物語は、1967年のモントリオール万博にまで遡る。モントリオール万博は1970年の大阪万博の一つ前の万博であって、視察のため多くの日本人も訪れるなど注目度は高かった。この万博における日本館は、芦原義信が設計を担当した。日本から持ち込んだプレキャストコンクリートを、井桁に組んだ造形であった。そして、この日本館の中庭として日本庭園が造園された。


モントリオール万博日本館と、その日本庭園
写真提供:芦原義信建築アーカイブ


モントリオール万博(1967) 日本館の立面図
Yoshinobu Ashihara Architects┆Elevations for Japanese Pavilion, Expo 67, Montréal, Québec┆1966┆ARCH284056┆Canadian Centre for Architecture


モントリオール万博(1967)の日本館と日本庭園
Partial view of the Pavilion of Japan, Expo 67, Montréal, Québec┆1967?┆ARCH261610
Canadian Centre for Architecture


プレキャストコンクリートが井桁状に組まれている
View of the Pavilion of Japan, Expo 67, Montréal, Québec┆1967┆ARCH261714
Canadian Centre for Architecture

その頃から、モントリオールに日本庭園を作りたいという声はあったようだ。モントリオールで万博とオリンピックを成功させ、同時に多くの都市改造を行ったジャン・ドラポー(Jean Drapeau)に対しても、当時日本庭園の計画がプレゼンテーションされていたという。しかし、その計画はなかなか進まず、20年近くの歳月が経過していた。そもそも、万博で作られた日本庭園は、実は万博終了後も残っていたらしい。ところが後述するように、手入れされず荒れ果ててしまったその姿をよく思わない声が、日本庭園建設の足枷ともなっていく。
日本庭園が建設されないまま20年近くが経とうとしたころ、このプロジェクトはついに動き出す。ここからの経緯は、ボタニカルガーデンが発行している機関誌に寄せられたピエール・ブルク(Pierre Bourque)[2]の残した記録[3]に詳しい。なお、ピエール・ブルクは、モントリオールの第40代市長を務めた人物だ。彼は、もともとベルギーで園芸を学んだ経緯もあり、1980年からはボタニカルガーデンの刷新に取り組んだ。

 

高畑崇導と100本の植樹

1984年、日本庭園の建設が前進した。そのきっかけが冒頭に紹介した植樹であった。そして、この植樹を取りまとめたのが高畑崇導(たかはたけ たかみち)という一人の日本人僧侶であった。彼は昭和16年に富山県高岡市で生まれる。宗教学を専攻し、モントリオールにあるマギル大学の大学院を卒業、その後もモントリオールで暮らしていた。そうしたある日、彼はボタニカルガーデンとモントリオール市庁を訪れる。というのも、浄土真宗本願寺派第24世門主であった大谷光真門主がカナダに巡教、モントリオールにも来訪するというのだ。
カナダで浄土真宗の開教使が活動を始めたのは1905年。1984年の『本願寺新報』[4]によれば、大谷光真門主によるカナダでの巡教は、その80周年を記念し1984年10月24日から11月13日のおよそ3週間にかけて行われ、カナダの開教区内17仏教会に立ち寄った。バンクーバーから入り、ケローナ、カルガリー、ウィニベック、さらにモントリオール、トロントと西から東に横断をしている。
門主がカナダまで来る。これは海外の教区にしてみれば一大事であったろうし、モントリオールでも何かしなければという信徒の思いは強いものだったろう。これを記念しモントリオールでも何かできないかと市に相談を持ちかけたのだ。そして、高畑が実現したのが、ルネ・レヴェスク通りでの100本の植樹であった。こうして、1984年11月に植樹を記念したセレモニーが執り行われた。冒頭の石碑は、それを記念したものだ。
これを契機に、高畑は日本とモントリオールとの架け橋になるべく熱心に活動する。そして次に取り組んだのが日本庭園の実現であった。彼はボタニカルガーデンに、日本庭園だけでなく、図書室、アートギャラリー、茶室、研究や会議の場を設けたいと考えるようになる。こうして企画は少しずつ動きはじめたが、簡単にことは進まなかった。まず、1967年の万博で作られた庭園が、そのときまで放棄されていたことに対し、モントリオールの日本人たちは、モントリオール市の日本理解に対して懐疑的であった。そのことで現地の協力が得づらくなっていたのだ。
そこで高畑は、さらなる協力者として日本の衆議院議員・片岡清一にアプローチする。片岡は、高畑の出身地である富山県高岡市の旧富山二区選出の議員であった。片岡がモントリオールに日本の代表団として訪れた時、ホテルのロビーでピエールらを交えてこの日本庭園の相談を持ちかける。その時、片岡は部屋までカメラをわざわざ取りに行き、みんなとの集合写真を撮ったという。この行動はピエールを驚かせた。モントリオールにおける、この日本庭園の意義と、前向きに進めることを約束したという片岡なりのジェスチャーだったのだろう。そして、片岡は日本で投資家を見つけ、このプロジェクトを実現させたのだ。1987年ついに、日本庭園竣工のセレモニーが行われた。


夏の日本庭園、池には鯉が泳ぐ


滝の音が、この日本庭園全体に聞こえる


日本庭園の奥には、モントリオールオリンピックの競技場が見える。
中島は、あの塔の上からも指示を出したという


ボタニカルガーデンの日本庭園に設置されたパネル。
片岡清一や中島健など、この日本庭園を実現させた協力者の名前を見つけることができる

 

吉田五十八と中島健

私はおにぎりを頬張りながら、この美しい日本庭園の造園家を知りたいと思った。携帯でググると、すぐに設計者はわかった。中島健。とはいえ、それは私にとって初めて見る名前でもあった。しかし彼の仕事を見てみると、これまで彼の名前を知らなかったことを恥じることとなる。なぜなら、よく知られた近代建築に付随する庭園の設計が、軒並み中島健の若い頃の仕事だったからである。なかでも建築家・吉田五十八の代表作の庭園は中島の手によるものであった[5]。そっか、吉田五十八か。庭園には明るくないが、建築からであれば歴史の扉を叩けそうだ。わたしの興味は造園家・中島健に惹かれていった。


造園家・中島健とモントリオール植物園の日本庭園
Archives de la Ville de Montréal┆VM94-J0663-004

吉田五十八の初期の仕事でよく知られた作品。思えば、たしかにそこには造園家が必要とされるはずだが、そこに思いが至っていなかった自分が悲しい。たとえば、吉田と共にした作品として、ローマ日本文化会館庭園(1962年)[6]、吉田茂邸(1961年竣工、2016年再建)どがある。中島健と吉田五十八との接点は、彼の略歴の中に見つけることができた。
中島健は、1914年東京で生まれる。早稲田大学付属第二早稲田高等学院に入学後、園芸の道を志すようになる。1937年に東京高等造園学校を卒業した彼は、ベルサイユの園芸学校への留学を予定する。そこで、ドイツ留学から帰国していた造園家・岡崎文彬を訪ねに京都大学造園研究室に向かう。その時、たまたま久恒秀治に出会う。この出会いが彼の人生を変える[7]
京都での庭園実測を手伝ってくれないか、と久恒から誘われ京都に滞在する。久恒はこの頃、昭和9年の第一室戸台風での京都の被害を期に、市の嘱託となり、京都の庭の記録に従事していた時期で、久恒は中島を連れて西芳寺の実測を二人で行ったという(後に、久恒は西芳寺の修復工事にも携わっている)。こうした京都での滞在が続くうち、中島は第二次世界大戦での召集令状を受けることとなる。そして終戦。彼は大林組に在籍していた建築家・木村得三郎からの依頼で、ミノル・ヤマサキが設計した神戸アメリカ総領事館(1956年)の庭園設計を命じられるのであった。


神戸アメリカ総領事館(設計:ミノル・ヤマサキ、施工:大林組、1956年

写真提供:株式会社大林組


神戸アメリカ総領事館(設計:ミノル・ヤマサキ、施工:大林組、1956年)
写真提供:株式会社大林組

その後、さらに木村からの依頼で吉田茂自邸の庭園を手がけることとなる。吉田茂自邸は吉田五十八の代表作としても名高いが、吉田五十八が手がけたのは新棟で、応接間[8]は木村によって設計されている。ここで中島と吉田五十八との接点が生まれたようだ。そして中島健は、吉田五十八の設計した日本芸術院会館(1958年)の庭、また玉堂美術館(1961年)、ローマ日本文化会館の庭園とコラボレーションを実現させていった。


吉田茂自邸(設計:吉田五十八、1961年竣工、2016年再建)
撮影:大井隆弘


玉堂美術館設計:吉田五十八、1961年)
撮影:大井隆弘


海外における作庭

ローマ日本文化会館の仕事で、中島は1年近くローマに滞在する。そこで中島は、日本庭園に西洋の花を入れられないかと思うようになったという。しかし、京都で学んだ伝統的な形式による日本庭園には、西洋の花は映えないということにも気付いていく。こうした課題意識が、後の海外での仕事にもつながっていく。ローマでの仕事の後、中島は海外での活動を頻繁に行うようになる。オーストラリア、ニュージランド、ハンガリー、旧ソヴィエト、西ドイツ、チェコと日本庭園を紹介する講演会を行いつつ、海外で実際に日本庭園を手がけていく。こうして彼は海外における日本庭園の設計者として知られる存在となる。彼の代表作は、ヒューストン市のハーマン公園内にある日本庭園、またノルウェー王国大使館の庭園、カウラ市日本庭園などがある。そして、モスクワ日本庭園を手がけたのち、このモントリオールのボタニカルガーデンの日本庭園を手がけた。海外で20箇所以上。彼の手による日本庭園が残された。実は、先に紹介したモントリオール万博の芦原義信による日本館の庭園。これも中島健の仕事であった。


カウラ市日本庭園
写真提供:Cowra Japanese Garden & Cultural Centre


中島健の庭園、その思想

教育活動と造園事務所とで中島健は多くの後進も生んだ。戦前は、荒木芳邦、井上卓之。戦後は、寺田小太郎、旭山動物園を後に生み出した関田次男を教えた[9]。また事務所のスタッフとして野沢清を輩出した。彼は内井昭蔵と世田谷美術館(1986年)や長谷木記念幹(2000年)、香山壽夫と曽我記念館(1991年)、長久手町文化の家(1998年)、池原義郎と酒田市美術館(1997年)、亀岡ガレリア(1998年)の庭園を手がけている。
先行研究[10]によれば、中島健に学んだ造園家は、共通して緻密かつ繊細な設計をする者が多いという。「石のちょっとした転びや立ち上がりを重視し、幹の垂直の線で水平の建築の線を切る際にも、少し斜めにする、斜めをどう組み合わせるかなど、空間構成に対する極めて精緻な美意識を持っている」と指摘されている。


日本庭園、建設中の一枚。コンクリートブロックに、さらにレンガをのせて、
石を立てる向きを細かに調整しているのがわかる。(撮影:N. Rosa、1987年9月25日)
Mise en place des pierres JBM-J-24-165.  25 sept 1987 Photo N. Rosa
Archives – Jardin botanique de Montréal

しかし、日本とは違う施工環境のモントリオールで、果たしてどのように理想とする日本庭園を実現したのだろうか。海外で日本庭園を作るとは?という、本質的な疑問が頭を占めだした。その建設プロセスを知る手がかりがないものか。調べてみると、ボタニカル・ガーデンにはライブラリーがあるらしい。ダメもとで連絡を取ってみるとすぐに返事は来た。図面や写真がありますよ、と。
さっそく向かったライブラリーで待ち受けていたのは、驚くべき写真の数々であった。そんな中で、1枚の写真に目を奪われた。まさに、日本庭園が生まれるその瞬間の姿であった。いまは滝が流れ、鯉が優雅に泳ぐ広い池、それを取り囲む小山。そんな回遊式庭園のすべては、フラットに広がる芝生から生まれたものであったのだ。考えてもみれば、当たり前ではあるのだが、ゼロから生み出されたこの人工的な自然環境の姿に驚かされる。
同時に、この建設には大変な苦労があったこともわかってきた。そう。日本庭園には、それにふさわしい石が必要だ。さぁ、石を探せ!(続)


モントリオール植物園、日本庭園の建設の様子。奥に見えるのは、オリンピックのスタジアムに建つタワー。
平らな芝生の広場を、重機を入れて建設に取り掛かるところだろうか
Archives – Jardin botanique de Montréal


[1]L’Enclume, Recherche documentaire préalable à l’énoncé patrimonial du Jardin botanique de Montréal, 2019. 

[2]ピエール・ブルク(Pierre Bourque)は1942年にモントリオールで生まれた。ベルギーに留学し、園芸を学んだ。その後1965年に、モントリオール万博の緑地開発を担当することになる。1969年からボタニカル・ガーデンに所属。そこで、日本庭園だけでなく、中国庭園やインセクトリウム(昆虫館)、さらには1992年に開館したバイオドームも手がけた。その後に、1994年に市政に進出し、2001年まで市長を務めた。http://www2.ville.montreal.qc.ca/archives/democratie/democratie_fr/expo/maires/bourque/index.shtm

[3]Pierre Bourque, “The Japanese Garden: A Marvellous Adventure,” Quatre-temps, vol.12 no.2, 1988, pp.8–15.

[4]「カナダ開教区ご巡教 ご門主夫妻各地で歓迎」『本願寺新報』No.2165、 1984年。

[5]彼の代表作は、次の二つの資料に詳しい。ボタニカルガーデン所蔵の『中島健作品例』(私家版)。「造園家中島健を偲ぶ」『季刊ランドスケープデザイン』 2001年6月 夏号、 pp.118–129.

[6]「日本文化会館」『建築文化』 1963年7月号、Vol.17 No. 201, pp. 113–116。

[7]中島健「海外リポート 風情ある日本の庭を海外に 造園家の歩いた道」『Bulletin』1998年1月号、Vol. 122、公益社団法人 日本建築家協会、pp. 8–9。

[8]久保庭萌「旧吉田茂邸の再建と公開」『郷土神奈川』2018年3月号、 Vol. 56、神奈川県立図書館、pp. 44–49。

[9]粟野隆、鈴木誠「戦後の造園作家とスクールの形成」『ランドスケープ研究』Vol. 76 No. 2、2012年7月号。

[10]同上


本記事を執筆するにあたり、以下の皆様に大変お世話になりました。ここに御礼を申し上げます(敬称略)。公益社団法人 日本建築家協会(JIA)関東甲信越支部、モントリオール市ボタニカル・ガーデン(Jardin botanique de Montréal)、株式会社大林組、在大阪・神戸米国総領事館、芦原太郎建築事務所、三重大学 大井隆弘氏、京都大学 菊地暁氏、本願寺史料研究所研究員 近藤俊太郎氏、カナダ建築センター(Canadian Centre for Architecture)


*写真については、特記したもの以外はすべて筆者撮影
*次回は1月20日(金)18時に更新予定です