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2023.07.04

第8回:プロキシたちのサイファー
──時間差の鏡像、物質的自存性

踊るのは新しい体 / 太田充胤

鏡の中の人形遊び

 複製の儀式に3Dのボディスキャンではなくこのような鏡が使われることは、踊る体にとって少なからぬ意味を持つと思われる。一度でもインカメラを使ったセルフィーを試したことがあればすぐにピンとくるだろう。つまり、現代の鏡を前にして、人は鏡のために踊るようになるのである。

 踊ることは、言ってみれば目をつむったまま絵を描くような営為である。出力された運動の評価は常に他者の視覚に依存するが、踊る者自身はそれを直視できない。運動とその調整のためのフィードバックループは容易には成立しない。それゆえある種のダンサーは、自分の身体を理想的に彫像するために鏡を必要とする。
 他方、言うまでもないことだが、本来ダンサーは鏡のために踊るわけではない。身体内的な経験のために鏡は必要ない。鏡とはむしろ、否応なしに身体外的・視覚的な尺度に踊りの経験をひきずりだす不快なものである。それゆえある種のダンサーは、鏡の前で踊ることを嫌う。舞踏家の田中泯は、若いころにモダンバレエを学んでいた頃を振り返ってこう語っている。「とにかく稽古場の鏡が嫌いだった。向こうで動いている自分に縛られ、支配されていく気がした」。[5]
 鏡とは自らの眼と他者の眼とが重なりあう場所である。踊っている身体を縛りつけるのは、これら二つの眼差しである。恐ろしいことにこの仕様は、現代の鏡においてはるかに露骨になっている。ボディスキャンも含めたアウトカメラが単に他者から向けられる眼差しであるのに対して、インカメラとモニタからなる現代の鏡は自らを眼差すためのものでもあり、そのまま記録用のデバイスでもあり、さらには別のユーザーのための覗き窓でもある。ビデオカメラ、鏡、動画メディア、これら三者が同じ一つのデバイスに統合されて、同じ作法で用いられている。我々はまるで鏡をのぞくようにして他人が踊るのを見る。あるいはビデオカメラのモニタを確認するようにして、どこか遠くの誰かが踊るのを見る。そして、動画コンテンツを消費するようにして自分自身が踊るのを見る。
 TikTokのUIはその典型的な例だろう。TikTokは鏡像とコンテンツとの距離を限りなく縮めることによって、ダンスを完全に身体外的な営為にしてしまった。モニタに映る鏡像の運動を最適化することは、そのまま出力されるコンテンツの最適化と直結する。ユーザーはまさしく鏡を見ながら踊っているときのように、現実の体の動きを絶え間なく調整しながら踊ることを求められる。
 もちろん、身体外部でモノを作りこむような営みは撮影の後も続く。リアルタイムで彫像された体はあとから加工される。ミームの器として、デジタルの着せ替え人形として、着せ替えたり化粧をさせたり、顔を変えたりして遊ぶことができる。かくして現代の鏡は、鏡像のモノとしての性質をあからさまに強調しているように思われる。

 こんなことを考えるにつけ、私はMMDでモデルの体を動かしながらまるで粘土細工のようだと感じたことを思い出す。あるいはまた、金森修が取り上げた人形たちのことを思い出す。人形作家の四谷シモンは、作家は常に「人形を通して人形を作る」のであり「人形を通して何かを表す」のではない、「人形には人形で揺るぎない一つの世界がある」のだと述懐した[6]。そのようにして人形が作家の手を離れ、人間たちの都合とは無関係の存在として自足するさまを、金森は物質的自存性と呼んだ。

 人形は物質的自存性・自律性を持つが、同時にそれほど遠くに離れているわけではなく、すぐ傍らに臨在(近接存在)してくれる。〔…〕ただ、若干異なる意味ながら、その臨在性が減殺される場面がある。それは、物質的自存性が或る方向に強化される中で出てくる要素だ。自存性が強まり独立の風貌を身に纏う地点に至ると、人形はただ物質的量感をもって存在するだけでなく、自ら動き始めるのだ。[7]

 人類は今、鏡の中の人形遊びに興じている。自分の肉体を複製し、彫像するということ。自分の肉体が鏡の中で物質的に自存するということ。自分の肉体を放流するということ。あなたが何をしていても、あなたの体はあなたの代わりに、鏡の国で24時間眠らずに踊りつづける。ただし、それはそのように踊り始めた時点で、もはやあなたのモノではないのである。
 私の理解では、プロキシ的に身体を運用するとはまさしくこういうことである。

 

ダンスは機械の仕事

 もっとも、多くのネットユーザーは自ら人形作家となって新しい体を彫像したいわけではなくて、ただ身代わり人形が欲しいだけなのかもしれない。当然ながら、これらのプロキシ的性質=身体のモノ化の先にあるのは、踊ることそれ自体の外部化だろうと思われる。

 近い将来、TikTokかそれに類したサービスが、あなたの鏡像にモーションデータを流し込んで踊らせる機能を実装するだろう。音楽と同様、人間が踊るための振付もデータベース的に運用するわけだ。もしあなたがまったくのリズム音痴で、上手く踊れないという理由でTikTokへの投稿を敬遠しているのだとしたら、その必要は遠からずなくなる。あなたがすべきことは、全身または上半身の写真、ないし簡単な動画を撮影して、アプリケーションに与えるだけである。
 あなたの鏡像は、あなたにはできないこともやってのける。鏡のフレームが切り取るのは画角だけではない。その体がおかれた外的環境から、その体を制約する内的条件から、つまりはその体を運用するにあたって存在したすべての前提条件から、かたちだけを切り離して提示する。データベースと接続されたあなたの空っぽの体は、どんなモーションデータもエフェクトも受け入れて、もはやあなたとは似ても似つかないものとして──しかし同時にあなたとして──流行りの振付を流暢に踊りはじめるだろう。
 そんなことをしていったいなんの意味があるのかと思われるかもしれないが、少なくとも今日のTikTokユーザーが、流行りの簡単な振付をコピーしてみせるのと同程度には意味がある。今日では、広く普及した振付/データ/ミームを、他ならぬあなたの体が流し込み再生することにこそ価値がある。これとは反対に、あなた自身にとって踊ることの身体内的な経験がどうであるかはさほど重要ではない。なにしろそんなものはネット上では流通しないし、バズりもしないからだ。内的経験が必要とされず、身体外的な表象だけが求められるのだとしたら、そんなものは身体外部で自動化してしまったほうがいい。むしろごく自然で合理的な発想ではないかと思われる。

 この段階までくれば、もはや事態は単なる経済性の話にとどまらない。プロキシが解消するのはシュタイエルのいうような時間的・空間的コストだけではない。プロキシは不在の管理術であるだけではなく、不能の管理術でもある。
 こうした状況はまた、第5回で扱った「ダンサーはロボットで十分」なのか否かという問いの様相を根本から変えてしまう。平田オリザは俳優に演出の忠実な反復再生を要求し、「俳優はロボットでいい」とまで嘯いた。佐々木敦は平田の主張を受けて、厳密な身体制御を要求されるという点ではダンスと平田の系譜にある演劇が類似関係にあることを指摘した。ダンスが厳密な身体制御なのだとしたら、ダンサーは振付を忠実にこなすロボットで構わないことになる。しかしいまや、身体制御と身体運用とはかつてないほど露骨に距離をとっている。踊ることはもはや精緻な身体制御のみではありえず、むしろ身制御作を放棄することが効率的な運用となる。モノ化した肉体は、厳密な管理・操作によってではなく、むしろ管理しないことによって資本のように増幅を続ける。
 しかし皮肉なことに、まさしくそのように踊るとき、人は自らの肉体を人形かロボットのように運用し、期待された通りの身体制御をさせているとも言える。「ダンサーはロボットで十分」か否かはさておき、多くの人にとってダンスはロボットやAIに任せるべき仕事ということになるのかもしれない。
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