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2023.07.04

第8回:プロキシたちのサイファー
──時間差の鏡像、物質的自存性

踊るのは新しい体 / 太田充胤

力としての振付

 以上二通りの未来を見比べてみるにつけ、我々は再びこのシンプルな問いまで戻らざるを得ない。いったい、ダンスとはなんだろうか? 人はなぜ踊るのだろうか?

 素直に考えれば、およそ全ての無目的な身体運用は、みな等しくダンスと呼ばれる権利を持っているようにも思われる。そもそも人形たちが踊っているのか否かを価値判断する権利が人間の側にあるのかどうか、よくわからない。
 しかしながら確かなことは、我々人間にとって、あるいは特定の集団にとって、身体運用のなかにはダンスと認められるものとそうではないものとがあるということであり、時にその境界線を時間経過によって超えるものがあるということである。言いかえれば「踊る/踊らない」という価値判断には、身体内的な水準とは別に、その運用がなんらかの身体外的な規範に則っているか否かという評価項目がある。
 オルタの例を見れば明らかだが、AIの情報生成による身体運用が必ずしも踊っているとみなされないのは、この規範に則っていないからである。とはいえ人間のダンサーにとっては、規範の通りに踊ることが常に正解なのではない。むしろ我々が驚くような前衛表現は、つねにこの身体外的規範を裏切って登場する。我々はいまやほとんど動かないコンテンポラリーダンサーさえ踊っているとみなすことができるのだから、動き続けるオルタを踊っているとみなすことには何の問題もないような気もする。実際にはそうなっていないのは、単に種差別──つまり、ロボットに人間と同等の権利を認めたくないという差別意識──によるものかもしれないし、あるいはダンサー自身がダンスだと主張しているからダンスなのだというトートロジーによるものかもしれないが、しかし、もう少し別の理由もあるような気がする。

 私にとって、初めて見たオルタは踊っているように見えたが、森山とのデュオではとても踊っているようには見えなかった。オルタは森山との対比によって、踊っていないことをつまびらかにされた。どうしてだろう? オルタの身体運用が人間の規範に従っていないことは、ソロの時点で明らかだった。問題はそこではない。オルタの魂が失われたのは、その運動が森山のダンスに及ぼす影響がほとんどないらしいことを私が理解したときだった。
 こと身体外的な水準において、ダンスには規範順守的な性質と、規範拡張的な性質とがありうるように思われる。多くの場合これら二つの性質は重なり合っているが、規範から大きく逸脱したものをダンスと主張するためには、それ自体が新たな規範を構築しないといけない。しかしながらオルタは、人間の規範に則っていないだけではなく、人間のための規範を拡張したり脱構築したりすることもなかったわけだ。おそらく自動生成のダンスは、そう簡単には身体外的な規範に影響しないのだ……少なくとも一人では。森山がオルタの身体運用のなかに一筋の規範を見出し、それを模倣したり増幅したりするようななにかがあればよかったのだが、そうはならなかった。

 したがって、ダンスにおいて情報生成型のAIが力を持つとしたら、ひとつにはそれが人間の規範をうまく理解し利用できたときだろう。たとえばバレエやロックダンスのように、それが使用する一連のボキャブラリーがダンスであるという共通認識のもとにある場合、ボキャブラリーの選択の連続によって、あなたのプロキシが永遠に即興を踊りつづける……という表象が十分に可能かもしれない。あるいはまた、AIが人間のための振付師になるという段階がある。AIが作った振付を、そうとは知らずに無数の人間/人形がコピーするさまは比較的容易に想像できる。
 そのもう少し先に、人間のために新たな規範/ジャンルを創造するという段階がある。この段階に至るまでにはいくつかの大きなハードルがあるだろうが、まず初めに、多くの人間がダンスであるとは認めていなかった運動を、奇矯にもダンスであると認識した誰かが模倣する。当然ながら、それは人間にも物理的に模倣可能な運動でなくてはならない。こうして模倣されたものが撮影され、さらに複数の人間に複製される。複製がうまく連鎖するように、はじめはキャッチーな楽曲を選んだほうがいいだろう。人間のために平面の動画を流布するだけではなく、あわせてCGモデルのためのモーションデータも配布したほうがいい。いや、よく考えてみれば最初の一人さえ人間である必要はなくて、まず大量の人形にモーションデータを流し込むことから始めたほうが早いかもしれない。
 ともあれ、かくしてひとたび人間のあいだで流通してさえしまえば、それがどのような運動であったとしても、確かにダンスであったのだということが事後的に既成事実化する。こうして「ダンス化」した運動が十分に蓄積されれば、それらの重なり合う部分のなかから一揃いのボキャブラリーが析出し、一つの体系を成すこともあるかもしれない。
 「ダンスとはなんだろうか?」という問いに対する最も皮肉めいた答えは、おそらくこういうことになろう。

 もうひとつの問い、「人はなぜ踊るのだろうか?」に対しては様々な答えがあるだろうが、ある種のダンサーの目的が身体運用をめぐる規範を拡張/脱構築することにあるのとは対照的に、人形やTikTokerが規範に則ることで何らかの目的を達しているのはもはや明らかだと思われる。
 生産された振付と、それを利用する人間/人形とは常に共犯関係にあり、一つの力のネットワークをなしている。「ダンスにおいて情報生成型のAIが力を持つとしたら」と書いたが、言うまでもなくこのときAIに力を与えるのは人間だ。なにしろ媒体として自ら進んで踊るのだから。振付は大量に複製され、流通し、反復され、その過程を通じてそれ自体がミクロな規範として確立する。おそらくこれはAIがらみの話に限ったことではなくて、その気になれば文明と舞踊の起源まで遡ることができるだろう。
 他方、個々の人間/人形にとって、振付とは最も明示的で、最も則ることがたやすい規範のパッケージでもある。いうなれば、それはドレスコードのようなものかもしれない。それはしばしば持たざる者にさえ力を与える。画面のなかに存在する手段や理由を別段持たない者が、そこに「居ること」を可能にする。まるでシンデレラのドレスのように、人々は振付を身にまとい、テンポラリーな魂を手に入れる。
 すなわち、ダンスとはある種の力であり、振付とはその現れなのである。ひとつには、モノ(人間の肉体やその鏡像を含む)に魂を与え自存せしめるという作用において。またもうひとつには、まさしくその作用を通じて伝染し、自らを増幅し拡大するという様態において。いまや画面の中で誰も彼もが踊っているのは、おそらくそういうことなのだ。

 

[1]ジャン・ボードリヤール『シミュラークルとシミュレーション』竹原あき子訳、法政大学出版局、1984年、124頁
[2]ヒト・シュタイエル『デューティーフリーアート:課されるものなき芸術──星を覆う内戦時代のアート』大森俊克訳、フィルムアート社、2021年、49–50頁
[3]同書、50頁
[4]同書、80頁
[5]犬童一心監督『名付けようのない踊り』2021年
[6]金森修『人形論』平凡社、2018年、72頁
[7]同書、79頁

(第8回・了)

 

次回2023年8月4日(金)掲載